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再生産 1970→1991 Pierre Bourdieu & Jean-Claude Passron

 

第Ⅰ部 象徴的暴力の理論の基礎 p.15-97

本書で用いられる略符号 p.15

AP 教育的働きかけ action pédagogique

AuP 教育的権威 autorite pédagogique

TP 教育的労働 travail pédagogique

AuS 学校的権威 autorité scolaire

SE 教育システム sutéme d’enseignement

TS 学校的労働 travail scolaire

 

※この部は0~4の大命題と、それらに付随する下位命題を、注解という形式で解説する内容となっている(『論理哲学論考』に近いスタイル)。ここでは端折りつつ大命題とそれに直接的に関連する下位命題のみを整理する。

 

0 およそ象徴的暴力を行使する力、すなわちさまざまな意味を押し付け、しかも自らの力の根底にある力関係を覆い隠すことで、それらの意味を正統であるとして押し付けにいたる力は、そうした力関係のうえに、それ固有の力、すなわち固有に象徴的な力を付け加える。 P.16

 

1 教育的働きかけの二重の恣意

1 およそ教育的働きかけ(AP)は、恣意的な力による文化的恣意の押しつけとして、客観的には、ひとつの象徴的暴力をなすものである。 p.16

〇APは支配的階級/被支配的階級の文化的再生産を指向する。

 

1-1 教育的働きかけ(AP)は、一社会組織を構成する諸集団または諸階級間の力関係が恣意的権力の基礎をなしている以上、客観的には第一の意味で象徴的暴力をなしている。この恣意的権力は、教育的コミュニケーションの関係、すなわち押しつけと教えこみのある恣意的様式(教育)にしたがう文化的恣意の押しつけと教えこみの関係をつくりあげる条件である。 p.17

 

1-2 APが、第二の意味で、客観的に一つの象徴的暴力をなすのは、ある一定の意味を課し、教えこむことの中に客観的に含意されている[意味の]範囲画定によってである。これらの意味は、選択とそれに関係した排除によって、APによる再生産をふさわしいものとして扱うわけであるが、こうした[意味]範囲画定は、一集団または一階級が客観的にそれ自体の文化的恣意のなかで、またそれを通して行っている恣意的選択を(ことばの二重の意味で)再—生産している。 P.22

 

2 教育的権威

2 教育的働きかけ(AP)は、コミュニケーション関係の中で行われている象徴的暴力であり、このコミュニケーションが固有の効果、すなわち象徴的な効果を生じるのは、押しつけを可能にする恣意的な力がまったく事実として決して露わにならないかぎりにおいてである(命題1-1)。また、APは、教えこみのコミュニケーションのなかで達成される文化的恣意の教えこみであり、このコミュニケーションがそれ固有の効果、すなわち固有に教育的な効果を生じるのは、教えられるものの内容の恣意性が全く事実として決して露わにならないかぎりにおいてである(命題1-2の意味で)。このようなものとしてのAPは、必然的に、教育的権威(AuP)と、その行使の任を託された期間の相対的自律性を、行使のための社会的条件としている。 pp.46-47

 

2-3 APを行使しているすべての機関(行為者または制度)は、もっぱら集団または階級の委任者という資格でAuPを有しており、集団や階級の文化的恣意の押しつけは、当の恣意によって規定された押しつけの様式にしたがってなされている。すなわち、委任による象徴的暴力の権利の保有者という資格においてなされるのである。 p.43

 

2-3-1 一教育機関が、教えこむ文化的恣意を正統化する力を自らに与えるAuPをもつのは、次の場合に限られる、この文化的恣意によって画される限界内、すなわち、その押しつけの様式(正統な押しつけの様式)の内ばかりか、それが押し付けるものの限界内で、これを当然に押しつけることができる者(正統な教育者)と、それを押しつけられる者(正統な名宛て人)について、この機関が、一集団または一階級が再生産されるにふさわしいとして生み出す文化的恣意の基本原理を、再—生産するかぎりにおいてである。すなわち、この教育機関の存在そのものによって、および、この再生産にとって不可欠である権威を一機関に委任することによって、再生産する限りにおいてである。 pp.45-46

 

3 教育的労働について

3 APが、AuP、つまり権威の委任を前提とする文化的恣意の押しつけであって、(1と2により)、この権威の委任が、当の教育機関がその文化的恣意の諸原理を再生産することを要求し、この恣意については一つの集団または階級がこれを再生産されるにふさわしいものとして押しつけるとき、そしてその際、その存在自体およびその再生産にどうしても必要な権威を一機関に委任するという事実が押しつけの根拠をなすとき、その限りで(命題2-3,2-3-1により)APは教育的労働(TP)を意味するということになる。教育的労働とは、持続的な組織、すなわちハビトゥスを産出するようじゅうぶん持続して行われるべき教えこみの労働のことであり、ハビトゥスは、APが作用しなくなっても存続できる、それゆえ慣習行動において内面化された恣意の諸原理を存続させることのできる、文化的恣意の諸原理の内面化の所産である p.52

 

4 教育システムについて

4 いっさいの制度化された教育システム(SE)は、その構造と機能の固有の特徴を次のことに負っている。制度化された教育システムにおいては、一定の制度的諸条件が存在し存続すること(制度の自己再生産)が、自らの教えこみの機能の行使にとっても、文化的恣意の再生産(文化的再生産)の機能の達成にとっても必要であるが、そうした制度的諸条件を、同システムは、制度に固有の手段を用いて生産および再生産しなければならない。なお、そこでの文化的恣意は、教育システムの産物ではないが、この恣意の再生産は、集団間または階級間の諸関係の再生産(社会的再生産)に寄与する。 p.82

 

※話をいったん整理しよう。この部は『ディスタンクシオン』がレオレオニの絵本に思えるほど難解すぎる。懇切丁寧な解説がついている分、似たスタイルで書かれたウィトゲンシュタインの方がまだ読みやすい。

大命題で取り上げられているのは、

・AP=教育的働きかけ(1~)

・AuP=教育的権威(2~)

・TP=教育的労働(3~)

・SE=教育システム(4~) の4つ。これら個別の内容と、これら間の関連性を読み解くことが第Ⅰ部での課題。順を追ってみてみよう。

 

1 教育的働きかけ(AP)

〇ブルデューによれば教育的働きかけ(AP)とは、[p]恣意的権力による[q]文化的恣意の押しつけであり、その点において客観的に見るとそれは[r]象徴的暴力をなしている。

[p]恣意的権力……APの遂行機序。APは純然たる暴力ではないが、学習者の自由意志に基づくものでもない=APは少なからず権力関係/強制力を伴い遂行される。そしてその権力は恣意的である。

 

[q]文化的恣意……APによって伝えられる内容。その範囲画定は「普遍的、物理的、生物的または精神的な原理」(p.22)に基づかない他方で、完全に気ままで勝手というわけでもない。ある程度の社会的根拠に基づいて意識的ないしは無意識的に範囲を画定している。

 

[r]象徴的暴力……APメカニズムの外観。APは文化的恣意を押しつけ、そのことで文化的恣意を再生産する(=文化的再生産)。さらに文化的再生産により、「その恣意的押しつけの力を基礎づけている力関係(※権力や階級)を再生産するのに寄与している」(p.25)=社会的再生産を達成する。物理的暴力ではないが、物理的暴力と同等の機能を有していることからこのメカニズムをブルデューは象徴的暴力と見なす。

 

2 教育的権威(AuP)

〇APは恣意的である他方で押しつけの力を確固たるものとしている。つまり恣意的でありながらも必然的である。しかし客観的事実としては完全に露わになっていない。ということはその客観的事実は何らかのかたちで隠蔽されているということ。その隠蔽がなされるときに、教え手に備わるのが教育的権威(AuP)である。

→つまり教え手の正統性は、教わり手によって(見かけ上は)所与のものとして承認されている。教わり手はなぜその権威が正統なものであるかということに疑念を抱くことはなく、「APは、ある貨幣が通用するといった意味で「通用する」のであり、もっと一般的にいえば、象徴体系、言語、芸術の様式、さらに服飾モードまでが通用するように「通用する」」(p.29)

 

3 教育的労働(TP)

〇教え手は承認されたAuPによって持続的かつ安定してAPを遂行することができる。これは例えば新興宗教の教祖のように、その場その場で自身に付与する類の不安定・非連続的な正統性とは対極に位置する正統性である。この長期的な人々への働きかけのことをブルデューは教育的労働(TP)と呼んだ。

〇TPによる持続的な働きかけによって人々はハビトゥスを形成する。そして「ハビトゥスは、APが作用しなくなっても存続できる、それゆえ慣習行動において内面化された恣意の諸原理を存続させることのできる、文化的恣意の諸原理の内面化の所産である。」p.52

→TPはハビトゥスを介してAPプロセスの固定化をする。

 

4 教育システム(SE)

〇TPには二つの極がある。

[a]他の社会的行為(労働)に溶け込むような形で、すでに教育を受けたほぼ全員によってなされるような在り方

→これはイヴァン・イリイチ的な「脱学校の社会」観に近いかも/あるいは生涯教育的な意味?

 

[b]特定の場所・時間において、特殊な自律的行為として、AuPを付与された特定の人物によって専門的になされる在り方

→TPが[b]の極によると、それ独自の制度が編成されることになり、この制度こそが、教育システム(SE)に他ならない。すなわちSEとは学校教育制度のことであり、その際、自律的領域において特殊化されたものとしてTPは実践されることになる(学校における教員によるTPの専有)。

〇SEは「絶えず最小のコストで、大量に、最大多数の正統的受信者(制度の再生産者もふくめて)のなかにできるだけ均質的で持続的な一つのハビトゥスを生産」(p.84)しようとする。

→TPのこうした特殊形態のことをブルデューは学校的労働(TS)と呼んでいる。またTSはTS自身を再生産するようにルーティン化され、世代を超えて実践される。

 

 

第Ⅱ部 秩序の維持 p.103-243

1 文化資本と教育的コミュニケーション p.103-133

「以下の研究は、教育的関係を単なるコミュニケーション関係として扱い、その生産性を測ろうという意図から生まれた。すなわち、もっと正確に言うと、コミュニケーションの生産性の大小を、受信者の社会的・学歴的な諸特性との関連で分析し、教育的コミュニケーションの効果達成の社会的・学歴的要因を決定しようということである。」p.103

→教育的コミュニケーションの達成と達成される教えこみは出身階級において不均等である=生産性の度合いは、学校における教育的労働によって形成されるハビトゥスと/それ以前(=家庭)での教育的労働によって形成されるハビトゥスとの間の距離によって規定される。

[ex.]文学部における言語資本

 

選別に先立つ不平等と選別の不平等

「共時的関係における社会的出自・性別のような諸要因の、交錯してさえいる影響を直接的に、それだけ独立に把握できると考えるのは、全体の代わりを部分をもってするpars pro totoといった態の誤謬推理におちいることになる。」p.104

→社会的出自・性別・就学経歴から学生人口を分類して得られるカテゴリーが、それ以前に選別されているという事実は、個人の経歴の中の選別の度合いから測定される必要がある。

「言語資本capital lingistiqueと選別の度合いdegre de sēlēctionという二つの概念に包摂されるもろもろの関係のシステムを関連付けることのできる理論モデルだけが、諸事実のシステムを明らかにできるからであり、そうしたモデルが、事実間の体系的な関係をうちたて、そのシステムを構成するからである。」pp.104-105

「言語とは、単なるコミュニケーションの一手段ではなく、豊かな、あるいは貧しい語彙を提供するものであり、さらにそれ以上に、複雑な、またはそうではない範疇の体系を与えてくれるものである。したがって、論理的であれ審美的であれ、複雑な構造を解読し操る能力は、ある程度まで、家族から伝達される言語の複雑性にかかっている。」p.105

※選別の度合いと言語資本の関係は、選別の度合いをふるいとすれば、言語資本はその網目(実際にふるいにかける装置)といった感じ

 

〇以上のことから次のことがいえる。

①離学率は、学校言語から隔てられている階級に向かうほど上がる

②選別の結果生き残った集団において、選別の不平等は漸次縮小されていき、選別を前にして不平等の効果が消去される

→②について、選別の度合いが高い状態の生き残りにおいて、上流階級とミドルクラスの上の方では、後者の方が学校文化に対して高い親和性を示すこともある=文化資本の所有/成績の良し悪しの逆転が起こる

 

〇このことから次のようにいえる

「大学に進学する民衆階級出身の学生の割合はめざましく上昇したとしても、これらの学生の相対的な選別の度合いは小さくなるのだから、社会階級間での言語資本および文化資本の配分の不平等とむすびついた就学上の不利は、次第にそれによっては相殺されなくなる。」p.108

〇同様に「ひじょうに多様な形式の言語の操作を測定しようとするテストでは、きまって男子の女子にたいする優位が示されるものだが、このことを理解するのに、女子学生のおかれている地位が男子学生のそれと一貫して異なっていることを見逃してはならない。」p.108

→「女子学生は男子学生ほど理念語を操作する能力(これが要求される度合いは種々の学問分野に応じてひじょうにちがう)を示さないが、それはまずなによりも、女子を好んで文学部に向かうようにさせ、同学部内ではさらにある種の専攻(現代語、美術史、または文学のような)へとおもむかせる客観的メカニズムがあって、これがその効力を一部分、「女らしい」特性についての社会的規定に負っていて、かつ。そのメカニズムもこの特性をつくりあげるのに一役買っているためである。」p.110

「上流階級の男子学生は、言語資本および大学進学のさいの選別の度合いでは、おなじ社会的出自の女子とまったく区別されるとこはないが、こと文学部の中では、女子はこの学部へ追放されているため、その彼女たちよりも選別を受けており、最高度の成績に達していてしかるべきである。」p.112

※ブルデューのジェンダー観は、確かジュディス・バトラーから批判されていたはず

 

〇同様の理論モデルから、高等教育に最も恒常的に見られる関係は、言語能力の程度を過去の就学歴の諸特徴にむすびつけている関係である。まとめると、

①選別に生き残る人口の構成は、選別を支配する基準との関連で絶えず変化し、しだいに出自と言語能力の直接的関係は弱まる。

②当の制度の中に生き残ったある社会階級出身の個人は、よりきびしい選別に服する階級に属していると、教育過程のより進んだレベルで、同じ層の別の諸個人がそれによってふるわれてしまったような経歴特性を示すことが少なくなる。

→「この学校特性とは、実は、ある特定の社会的地位に当初から与えられていたチャンスを、固有に学校的な論理で再翻訳したものにすぎないことがわかる。」p.112

〇社会学科は、恵まれているがゆえに他の層出身の学生とは選別をかけられていない学生にとっての、避難所の役割を演じる。

 

「一方で、社会階級に応じての差別的な選別の学校的過程(それは、各時点で、生き残った者のさまざまな層への、諸能力の一定の配分をみちびく)は、学校的システムにたいするさまざまな階級の位置を規定する諸要因、すなわち文化資本と階級エートスの継続的な作用だからであり、他方からいうと、これらの要因は、就学経歴の各段階で、もろもろの中継要因の特定の布置連関へと変換され、鋳直され、当の各層(社会階級または性別)について、異なった構造を呈するからである。」p.118

→経歴と選別の度合いの通時的モデルを構成するためには、ある一時点での共時的なモデルから距離を置く必要がある。

 

システムの論理からシステム変容の論理へ

〇通時的モデルから把握することによって「そこに提示された教育的メッセージがどのような差異をもって受け入れられるかを分析すると、受信者聴衆の変化が教育的コミュニケーションにおよぼす効果を説明することができるし、伝統的システムの二つの限界状態に対応する聴衆の社会的特性を類推によって規定することもできる。」p.121

①有機的状態……システムが暗に要求するものに完璧に適合している聴衆がその対象となっているような状態

 

②危機的状態……学校の聴衆の社会的構成の変化にともなって、誤認が許容しがたいまでになっている状態のことで、これは過渡的局面に対応して観察される段階

 

「就学システムと階級関係の構造をむすびつけている関係のシステムの変容、すなわち、たとえば異なった諸階級の就学率の変化の中に表現されるような変容は、受信のレベルと受信者諸層の間の関係のシステムの(それが左右する諸原理自体にかなう)変容を引き起こす。いいかえれば、コミュニケーションのシステムとして捉えられた教育システムの変容ということである。」p.121

→ある所与の層のコミュニケーション受信能力は、[a]この層の言語資本、[b]その層の生き残りの選別の度合いの双方に応じて決まる。

「具体的にいうと、今日、教育システムのおちいっている危機の固有の意味で教育方法的な側面、すなわち、コミュニケーションのシステムとしての教育システムを襲っている無規制と不調和を理解するには、一方で、さまざまな層の学生の能力または態度をかれらの社会的な特性、および就学上の特性へ結び付けている諸関係のシステム(※言語資本?)を考慮に入れることが必要となる。他方では、大学進学の確率と諸学部へと進む条件的確率によって客観的に把握される、学校と社会階級の関係のシステムの変化(※選別の度合い?)を考慮に入れることが欠かせない。」p.122

→ある社会階層の言語・文化資本(とその変容形態としての学校的資本)を、ある課程のレベルと学課のタイプにおける選別度に関連付けると、学部間、学科間の言語的-文化的誤認の程度とタイプ間の相違に説明を与えられる。

 

〇さらに「発信者-受信者間の言語的一致の度合いにみられる偏差を完全に説明しようとすれば、教育的関係の変化のモデルに。さらに発信者の社会的および学校的特性と関連した発信のレベルの偏差を統合しなければならないだろう。すなわち教員団の急速な拡大と、新rに学や社会学のような(新しい)専攻学科の出現のため、科学的言説の要求と言語活動への伝統的関係を律する規範の示す乖離または無理やりの結合を教育メッセージがひそかに暴露してしまうとき、この教育メッセージのこうむる変化を、同時に結合しなければならないのだ。」p.128

→新興の学科の出現という「学校システムの変革は、このシステム固有の構造と機能をあいかわらず表現するような一つの論理にしたがって行われる。」p.129

※ここでは新興の学部・学科(=社会学や心理学)に伴う、コミュニケーション発信/受信の変容について述べられている。

 

〇教育的メッセージの受信者である学生の社会的および就学上の特性の分析は、次の場合にしか意味をもたない。「すなわちこの分析が、一方の、他にもまして学校文化の押しつけと教えこみの正統の様式を規定する、正統的文化の再生産の制度と考えられる学校と、他方の、教育的コミュニケーションの効率という点からする学校文化への距離の不均等、および学校文化の承認と習得への態度性向の違いとによって特徴づけられる社会諸階級、の双方の間の諸関係システムを構築するのにつながるという場合である。」p.132

 

 

2 教養人的伝統と社会の自己保存 p.136-162

「この追求では、教育的関係が見かけ上きわめて特定されているような目的をまったく欠いているときでも、そこに関与する者たちの幸福なる無意識のなかで教育的関係を持続させる制度的手段と社会的条件は何かを問うことになる。一言でいうなら、形式的に規定されたコミュニケーション関係に対するものとして、教育的コミュニケーションの一関係を社会学的に規定するものを、決定しなければならないということである。」p.137

 

教育的権威と言語活動の権威

「この言語(※大学的特殊語)はその十全な意味作用を、社会空間、儀礼、間のリズムを含んだ教育的コミュニケーションの行われる状況に負っている。要するに、一個の正統的文化を押しつけ、教えこむ行為としての教育的働きかけを構成している可視の、ないし不可視のもろもろの拘束の全システムに負っているのだ。」p.138

→大学的特殊語を用いることで、教育的教えこみをする者を、聖別し、その任が託されたという保証を与え、正統性が付与される。ウェーバー:地位に基づく正統性「制度が行為者にあたえる卓越化のあらゆるテクニックのうちで、この教師風の言語活動はいちばん効果的で、微妙をきわめたものである。」pp.139-140

 

「およそ以上が、究極的には「師」の「無謬性」を保証しているタイプの、教育的労働にもとづく学校制度の論理にほかならない。[…]学生が、「教師のためにつくられた存在」にほかならぬ「あるべき存在」を実現するまでにならないと、たとえ過誤であれ、悪意であれ、つねに非が学生に帰せられるのだ。」p.142

→理解される幻想/理解する幻想。教育的コミュニケーションの成立には(教師と学生の)共謀関係が認められる。「学生と教師は、もっぱら、それが制度に対する義務だという理由で、教育的コミュニケーションのなかに実際に流通している情報の量を過大評価するのを(それぞれに、相互的に)自分たちの義務と考えている。」p.143

 

言語活動と言語活動への貢献

〇これらの教育的言語活動を自由に操ることができるのは、家族集団において親しむことで得られたことばの習得を、学校のおかげで学者的に操ることができる二次的段階の能力に変換ができた者に限られる。

「教育的コミュニケーションの伝達効率はつねに受信者の言語能力(大学言語のコードの完全な巧みな習得の良し悪しで規定される)によって左右されるから、学校的な利益の大きい言語資本の異なる諸社会階級への不平等配分が、社会的出自と学校成績の関係をうちたてるもっとも見えにくい媒介の一つをなすことになる。」p.146

「各個人に与えられている言語資本が学校市場でどれだけ価値をもつかは、学校から要求される象徴的習得と、階級の一次的教育にその個人の負っている言語の実際的習得との間の距離に従って決まるのである。」p.147

 

〇これらの言語活動への関係は、経験的研究の中に見出すのは困難だが、不可能ではない。

[ex.]ある語彙テストの中にわざと導入された「存在しない言葉」に、あえて回答する者の割合は、特権的階級の学生の方が相対的に多い。

→すなわち「言語をあやつることの容易さは、ある特権階級に所属することで得られる自信と結びついてくるとき、くったくのない無遠慮までに行き着くことがありうる。」p.149

〇さらに口頭試問での受験者の立ち振る舞いにも差異が観察される。

「無理につくられた」闊達さ……大学的な言語表現の規範に合わせようと努力する中間階級と民衆階級の学生に観察される

 

「自然の」闊達さ……技巧を隠す技巧、暗示の最高度の様式を示す言葉づかいのくったくのなさ、口調の滑らかさや文体の婉曲における見事に制御された言語の習熟をあらわす

「言語活動へのこの二つのタイプの関係の対立は、言葉の支配を身につける二つの様式へと関係している。一つは、学校言語への「学校的」関係への方向付けられる、もっぱら学校的な習得の様式、もう一つは、それのみが洗練された暗示や了解を可能にする言語と教養の実際的支配をかんぺきにつくりだすことのできる、目に見えない慣れ親しみによる習得の様式である。」p.150

 

会話と自己保存

「フランス的システムはもっぱら、能力の技術的機能よりも、(科学的な、また同じく文学的な)教養の社会的機能につねに優位をみとめる傾向があるため、ことばに大きな位置をあたえながらも、あのようにわずかのことしか伝達しないからである。」p.155

「学校システムは、教師が制度の権威を自分自身の人格のために利用するという権利と権力を認めることで、職務保持者を通じて、あらゆる資源と人間の熱意を、制度に、したがってまた制度の社会的機能に役立つようにする手段をこの上なく確実につかんでいる。教師は、望もうと望むまいと、知ろうと知るまいと、その伝統形態においてはなにか劇的な行為なしにはうまくいかないような慣習行動の社会的規定とかかわらせて、自分を規定しなければならない。」p.156

→外科医やピエロの身振りのように、遂行者と遂行の独特の性質を象徴的に顕現させるように一つの職務のもろもろの側面を際立たせることによってこれを行う。

 

「異なった諸階級の言語活動の習得の様式と並んで、階級間の言語的差異の聖別およびそれによるこの差異の永続化の学校的メカニズムについての知識も前提とされるということである。」p.158

「要するに、もうひとつの外的諸機能のシステムに奉仕し、それと関連して、階級間の力関係のもう一つの状態に奉仕するような学校システムがあれば、それのみがこうした教育的働きかけを可能にしてくれるのではないか。」p.159

 

 

3 排除と選別 p.163-192

〇本章はフランスの教育システムにおける試験の重要性について。

→分析に際して2つの伝統と決別する必要がある。

①自発的社会学……システムの特性を民俗的伝統の遺産、大学人の保守主義に帰属してしまう

 

②学校システムの階級的中立性・独立性

 

試験――教育システムの構造と歴史のなかで

「試験は、単に、学校的価値や、教育システムの暗黙に選択するもののもっとも明確な表現というだけではない。知の社会的定義とそれを明示する様式を、大学における賞罰(sanction)にふさわしいものとして課す限り、試験は支配的文化とその文化を教え込むという企てにとって、もっとも効果的な手段を提供してくれるものである。正統的文化と文化への正統な関係の習得は、カリキュラムの拘束によるのと同じくらい、またそれ以上に、試験の判例解釈において成り立っている慣習法によって規定される。」p.166

[ex.]フランス式の小論文……そこで要求される書き方は、事実報告、博士論文、文学的エッセイなど様々な正統文化の中に痕跡として認められる。

 

〇デュルケム/ウェーバーの分析

デュルケム……「学校、および独立の、競合的でさえある教師しか存在しなかった古代には知られなかった試験が出現したのは、大学制度、すなわちその存続のために備える組織された職業的教師団が存在するようになるという前提があったからとみた。」p.168

 

ウェーバー……「専門化された職業への接近の道である特定の資格のための徳急化された試験の体系は、近代ヨーロッパではもっぱら、等級づけられ互換性を持った諸個人を所与の部署のヒエラルヒーに対応させようとする官僚制組織の要求の発展とのかかわりで出現した」p.168

→このように、試験を近代社会の一般的傾向の特殊な一顕現と見なしてしまうと、試験が教育システム固有の論理に基づいている事実を見逃してしまう。「学校は、過去からうけつがれてきた文化を保存し、伝達する伝統的機能を託され、かつ自己存続の独特の手段をもっているとき、その特徴である特殊な慣性をもつことになり、このために、体系的な再解釈を、外的な諸要求にしたがわせることができるようになる。」p.169

 

〇近代フランスと古代中国(科挙)の試験システムの同方向性。P.170

→双方とも社会的選別の要求(伝統的官僚制/資本主義経済)を、人間的資質、職業的熟練の社会的価値を極大化しようとする教師特有の性向として表明する

→この人間的資質や職業的熟練は学校システムが統制し、聖別している(=正統的文化と見なしている)

 

〇なぜこうした試験の様式が、フランスにおいて過去から連綿と継承されているのか。

「同システムは今日なお、その教育方法や試験において、教師団の自己存続と自己防衛にきわめて重要な機能を認めているが、これは中世の大学のもろもろの試験が公然と利用していたものである。」p.173

 

試験と試験なき排除

「教育システムには、たとえば経済システムからのきわめて明白な要求にもまして、それ自体の固有の要求と固有のヒエラルヒーを優先させる自由の余地が与えられているが、この自由は、そのシステムがある階級に対して行うひそかな貢献への見返りではないだろうか。そして、この貢献は、技術的選別という見かけの下に社会的選別を覆い隠し、社会的ヒエラルヒーを学校的な序列に変形することで社会的諸ヒエラルヒーの再生産を正統化するかたちで行われるのではないか、と。」p.177

→民衆階級の(進学の失敗の予期に基づく)「あきらめ」は、試験による排除でありながらも、技術的選別(試験の合否)によるものではなく、かつ技術的選別の明示的制裁よりも排除される蓋然性が高い。

 

「階級的出自ごとの社会的上昇の客観的チャンスの構造および、もっと正確に言うと、学校による上昇チャンスの構造は、学校及び学校ごとの上昇にたいする態度的性向を条件づけるが、この態度的性向がまたこんどは、進学、学校の規範への同調、そして学校での成功チャンス、要するに社会的上昇のチャンスを、決定的なかたちで規定するのに力を貸す。」p.180

→つまり自らを排除する主観的期待は、客観的成功チャンス(合格するか否か)に規定される=客観的確率の実現をうながす数々のメカニズムの一端を担う

「教育システムの内部、同システムとの関連においてせよ、そこにはたらく選別過程をあますことなく説明するには、学校法廷の下す明白な判決ばかりではなく、民衆階級のこうむる欠席裁判または執行猶予判決も考慮に入れなければならない。つまり、頭から排除されてしまうか、または、試験で否定的宣告を逃れるチャンスのほとんどないような段階にまで来て、けっきょくそこで排除される運命にある、という具合なのである。」p.181

「学校システムが社会の保守のこの機能を完全に果たすためには、試験が「正念場」であることを真実として示さなければならないことが分かる。同システムが操作し、引き受ける学校的公正の規範に従う、それゆえ形式上は非の打ちどころのない排除は、合格者と不合格者を対照づけることで、受験者と受験者の数からすでに事実として排除されてしまっている者とのすべての関係をぼやかし、学校システムと階級関係の構造のつながりを隠蔽してしまい、そうすることで、学校システムの機能が成就されていることを覆い隠すのである。」p.183

 

※この節は例によってややこしいがとても重要。

〇一見すると試験は「合/否」のバイナリしかない=技術的選別という見かけ

しかしながら、試験が行われる以前の段階で、客観的チャンスに左右される主観的期待(合格「しないだろう」)によって、社会的選別がなされている=「試験なき選別」。

→これらの学校システムの選別機能、社会階級の再生産機能は試験によるものでありながらも、その事実は覆い隠されている。

 

技術的選別と社会的選別

「教育システムは、労働市場の切りつめ不可能な需要を無視できなければ、それだけ、もろもろの階級差の正統化の社会的機能を、熟練をうみだすというその技術的機能の背後に覆い隠すことになるだろう。」p.189

「要するに、学校はもろもろの能力の産出と証明の技術的機能と、権力と特権の保持、聖別の社会的機能を同時に手中にしている。」p.191

 

 

4 独立による従属 p.193-229

「メッセージの伝達の効果についての練習または評価と賞罰の組織化、すなわち、学校システムの固有の機能を実現する教えこみの延長された作用であるこうした教育的労働を分析するとしよう。」p.195

→一つのシステムの二重の真実①社会の機能の内的論理(もろもろの能力の産出と証明の技術的機能?)を②社会の維持という外的機能(権力と特権の保持、聖別化?)のために用いる。

〇以下ではハビトゥスを産出する固有の機能を、システム構造と関連付けながら考察することで、歴史的特定化を行う。

「教育システムのさまざまなタイプ、いいかえると、教育システム全体に帰せられる持続的で移調可能な性向(ハビトゥス)をうみだす固有の機能の、さまざまな歴史的特定化がおよそ意味をもつのは、それらを諸機能のシステム構造のさまざまなタイプと関連付ける場合にかぎられる。」p.197

 

「一般利益」の特殊的機能

〇テクノラート的=経済的成長言説による教育システムの内包

「教育の「目的」の問題が今日ほど全面的に、国民的経済成長への大学の寄与についての問いかけと同一視されたことは、かつてなかった。「学校と文化への接近を民主化しよう」と公言される関心でさえ、しだいに経済的合理性の言葉を借りるようになり、たとえば才能の「浪費」の糾弾といった形式をとっている。」p.197

→しかし「教育システムの「合理性」の指標は、比較による解釈を行うのだと言っても、それが学校の制度と慣行の歴史的・社会的特殊性をより全面的に表現する限り、解釈は容易でなくなり、そのため、この方法では、比較される諸要素から、関係のシステムへの帰属に基づいているものが排除され、比較の対象それ自体が破壊されてしまう。」p.198

「もっと根本的にいうと、以上すべての指標は、学校システムの「生産性」についてのある暗黙裡の定義に基づいている。その定義は、形式的・外的合理性にのみ言及し、学校システムの諸機能のシステムを、それ自身が還元的抽象に付されている、それらの機能のうちの一つに還元している。」pp.198-199

→学校の生産性についてのテクノラート的言説は、経済的合目的性にのみ学校の機能を還元してしまい、経済システム以外の目的を見落とすことになる。

 

「教育システムの教育的合理性と経済システム発展の度合いのあいだに大きく見て対応があることを証明するのにいちばん普通にあげられる統計的関係も、これを学校システムと階級関係の構造のあいだの関係のシステムのなかに置かないかぎり、それ固有の意味をもたない。」p.199

[ex.]ある所与の免状の経済的・社会的生産性は、経済的・象徴的市場における希少性において解される必要がある。

[ex2.]一人の女性の保有している免状の社会的生産性は、一つの職業の価値が女性化するにつれて凋落するという事実なしには計測できない

 

〇これらを踏まえ「テクノラート・イデオロギーは、今日学生の一部を「不生産的」な勉学へ経歴へと向かわせるもろもろの「動機」や「抱負」を非合理的ときめつけ、これらの志向が学校および、それ自体客観的には学校の影響によって方向付けられている階級の価値との結合した作用の所産であることを見落とし、自らの知っている「合理的」な目的が、ある型の経済の構造のなかに客観的に描きこまれている目的以外のものではないことを、端なくも露呈している。」p.203

 

機能の未分化と相違への無関心

「特殊的な関係の全体化という要請が、全体は全体の中に存するという全体性の哲学に還元されてしまうと、それはまちがいなくテクノラート・イデオロギーに行き着く、すなわち、教育システムの相対的な特有性や自律性ともども、システムの効果を無視するイデオロギーにである。」p.205

「ある者は、教育システムの相対的に自律的な歴史を、形態学的成長の段階や形式的・外的合理化過程の段階しかしらないような単一・単線・普遍的な進化という抽象的なシェーマに還元する。かと思うと、他の者は、その相対的自律性に基づく教育システムの特徴を、「民族文化」の「独自性」といったものに還元してしまう。」p.205

→前者がテクノラート・イデオロギー(=進化主義的経済主義)/後者は文化主義的相対主義。両者は互いに極をなす。

 

教育システムのイデオロギー的機能

「進化主義的経済主義と文化主義的相対主義、これほど外見上対照的な社会哲学にもとづく教育システムの分析のうちに見られる欠陥が、すべて同じ原理に関係づけられている。」

→教育システムの①相対的自律性と②階級関係構造への従属性という2面性を完全に看過してしまっている。かといって、この両者を同時に把握するのが困難であるというのも事実であり、それは以下の理由による。

「理論の伝統では、教育システムの階級的機能の理解は、学校と支配的階級の関係についての道具主義的な表象とむすびつけられているが、それにひきかえ、教育システムが固有の機能に基づいて持っている機能の構造の特徴についての分析は、ほとんどつねに、代償として、学校と社会階級の関係に対し盲目となっている。」p.213

 

「デュルケムは、教育システムの相対的自律性を、外的諸要求を再解釈して自らの内的論理を実現するために歴史的機会を利用する力と理解した。それによって、少なくとも制度特有の要求あるいは職業的教師団特有の傾性とむすびついた。学校制度と慣習行動の歴史的反復の特徴である再生産への傾向を理解する手段を、手に入れていた。」p.214

「教育システムの相対的自律性とその歴史を、その固有の機能の達成の社会的諸条件と関連付けなければ、システムの相対的自律性をその歴史の相対的自律性によって、あるいはその逆にと、循環的に説明せざるを得なくなる。」p.215

「所与のある程度の、ある型への自律性には、すなわちそれ自身の機能と外的機能の対応性のある特定の形式には、つねに特定のある型とある程度の、その他のシステムに対する従属が対応している。すなわち、けっきょくは、階級関係構造への従属性が対応しているということである。」p.216

→相対的自律性は(覆い隠された)階級関係構造への従属性によって規定されている。したがって教育システムが自らの相対的自律性を達成するとき(=自らの再生産以外の要請のいっさいを無視するとき)、逆説的に社会秩序の再生産(=階級関係構造への従属)にこの上なく寄与することができる。

 

「教育システムがその固有の機能に基づいてもっている相対的自律性は限界をもっているが、この限界を規定している歴史的・社会的条件は、同時に、その固有の機能の外的諸機能をも規定するから、およそ教育システムは機能的二重性によって特徴づけられる。」p.217

→①文化資本の相続的伝達を確保することで階級再生産する機能/②自らの相対的自律性を権威づけることでこの機能を覆い隠すイデオロギー的機能

 

「一教育システムの固有の機能、およびその固有の機能の外的機能がこのシステムの構造と機能の仕方にもとづいているとき、この構造と機能の仕方のもろもろの特徴は、行為者(発信者または受信者)がかれらの出身および所属階級に、さらに制度内にかれらが占める位置に負っている社会的に条件づけられた態度性向に関係づけられる必要がある。」p.221

 

「「教育システムと階級関係構造の間の諸関係のシステム」のような抽象的表現の妥当性の限界(すなわち、それらの限界内での妥当性)をはっきりさせるには、ある部分的関係については、ハビトゥスを媒介させることで、構造と慣習行動を結び付けている循環的な諸関係のシステムを把握しさせすればよい。ここでのハビトゥスとは、構造の所産であり、慣習行動の生産者であり、構造の再生産者である。とすれば、ここで一挙に、機械的な汎構造主義か、創造的主体や歴史的行為者の侵すべからず権利の主張か、という通俗的なみせかけの二者択一から逃れられる経験的作業の原則が示されてくる。」p.222

※いったん整理。ここでブルデューが行っているのは、

[a] テクノラート・イデオロギー(進化主義的経済主義)が行うような=経済的合目的性から見なされる「教育システムの階級関係構造への従属性」か/[b] 文化主義的相対主義が行うような=「民族文化」の「独自性」から見なされる「教育システムの相対的自律性」かという両極にある視座の調和と両立と脱構築

→ハビトゥス概念を導入することで、教育システムの相対的自律性(構造化する構造)を捉えつつも、それが階級関係構造への従属(構造化される構造)していることも視野に入れることができる。

 

「学校と社会階級の間の諸関係の特定のケースにおいては、完璧な調和があるようにみえるが、これは、客観的構造が階級のハビトゥスを、とりわけ、これらの構造にかなった慣習行動を生み出し、構造の機能化と存続を可能にするもろもろの態度性向、先有性向をつくりだすからである。たとえば、学校を活用するという性向、学校で好成績をあげるという先有性向は、すでにみたように、さまざまな異なる社会階級に付与された学校の活用とそこでの成功の客観的チャンスにかかっている。」p.223

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