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Teubner,Gunther 2008→2014 『自己破壊的正義——法の偶発性定式あるいは超越形式』

グンター・トイプナー 2008→2014 自己破壊的正義——法の偶発性定式あるいは超越形式

 

正義なき法と社会

「法社会学は経験的にはいかなる正義も知ることはない。それにもかかわらず、多くの経験的研究によって、人々がさまざまなコンフリクト状況の中で正しいとか公平だと考える局所的正義を知ることはできる。実際、法規範や制裁、法曹や裁判に関する社会学理論はたくさんある。だが、法社会学的な正義の理論は存在していない。[…]正義の規範性が問題になるのは法的プロジェクトではなく、政治体プロジェクトだからだ。」p.2

→政治学における規範理論や法哲学、倫理学的問いに対して、法社会学がどのように寄与できるか明らかにすることが本論の課題。この応答をルーマンとデリダのパースペクティブから試みる。

「手短なテーゼで言えば、法の構造と決定との間にある懸隔が法のパラドクスを生み出すとともに、より深い正義理解をもたらしてくれる。すなわち、正義とは、支配的な法理論と法解釈学ではほとんど顧みられることのない法の自己超越という破壊的実践だということである。」p.3

 

 

互酬性に代わる法的正義の非対称性

 ロールズやハーバマスがカント的正義概念を再定式化し、新しいヴァージョンを提示したことはよく知られている。しかし後述の理由から「こうした正義のアスペクトは、非対称性、環境への定位、非合理的な正義の他者といったデリダやルーマンの新しい用語によって置き換えられる必要がある。」p.4

→2人の「個々の互酬性を道徳哲学の水準で普遍化する」というカント的企図は、機能分化(ルーマン)、新しい多神教(ウェーバー)、有機的連帯(デュルケム)、言語ゲーム(ウィトゲンシュタイン)、正義の領分(ウォルツァー)といった具合に枚挙に暇がない、近代の多分脈性の議論から反駁されうる。

 「ここで取り上げた諸理論は、さまざまな点で大きな違いがあるにしても、ある一点で共通している。それは、今日のそれぞれに特異な意味世界の間の衝突は、共通の合理性によって和解することができず、まして全体社会を覆うような正義によって調停することが不可能だという点である。」p.6

〇したがって法が特権的な正義の立場にあるといった考え方は根本的に覆される。

「法社会学も正義概念を展開しなければならないが、それは法に固有の合理性と規範性、すなわち法的正義でなければならない。これは、法が正義を独占するという意味ではない。むしろ、社会的文脈によって異なる正義概念が併存するのであって、それらは統一的な原理に従うものではない。」p.9

〇法システムは具体個別な紛争解決の役割を負う一方、法的紛争を構成する社会構造の影響を間接的に外的刺激として受容する。「こうした外的刺激はそれ固有の運動を引き起こし、それがまた個々の紛争と法との間に不可避的な不一致を引き起こす。それを解決するために法的基準や正義の原理を作り出すことになる。」p.10

「法的正義の諸原理は、個々の紛争の判定と社会規範の受容という二つの運動の間に恒常的に生じる再帰的対決関係の中で発展してくる。そのため法的正義のゼマンティクは、それぞれ特異な普遍化作業から生まれる政治的正義、道徳的正義、経済的正義とは別の局面におかれる。」p.10

※ここの箇所は、ルーマンによる法のコードが①「合法か/違法か—個別紛争の解決」②「正義か/否か—法システムの統一性」の2つあるという主張に合致するね。

 

 

合意理論に代わるエコロジカルな正義

「こうした複数コンテクストという条件の下で、ルーマンは「正義とは法システムの偶発性定式である」という社会学的な構想を提案している。[…]このテーゼが意味しているのは、正義をテーマ化することが法システム内のいたるところで刺激的な社会運動を引き起こし、その運動が法の偶発性、つまり正しい法は別様でもありうるし、あるに違いないということをドラスティックに示すということである。」p.11

→個々の紛争ではなくて、法それ自体が正しいか否か(別様の可能性の示唆)という破壊的な問いが偶発性定式によって引き起こされる。これは法に内在する問いというよりかは、むしろ法を超えたメタ地点での問いに他ならない。

「正義とは、法的閉鎖性を自己超越することである。それが不可避でありながら不可能でもあるとすれば、正義は対立するものの法的な一致(coincintia oppsitorum)としてのみ志向可能であるように思われる。」p.14

 

〇そして正義が法を「超える」ということは、法の第二の閉鎖性、法的な自己観察のレベルではじめて達成される。

※これはいわゆる「観察の観察」もしくは「二次的観察」というやつ。

「正義は法における想像空間内部でしか作用しないのだが、その空間は全体社会、人間、自然といった法の外からなされる要求を法内部で再構成すること、エコロジーが法のなかに再参入することで生まれるものなのである。」p.16

→法システムはあくまで「閉じたシステム」だが、法外の環境を再参入(「内部的な外部化」)することで、外部との差異をシステム内部で経験し、正義がエコロジカルな妥当性について判断可能となる。

〇したがって法的正義からすれば、法実証主義と自然法論はどちらも正しく、また間違ってもいることになる。

→自然や神といった法外部から正義構想が構成されているとする点で自然法論と共通しており、また法内部における紛争解決にのみ専念する点で法実証主義的でもある。

 

 

合理性に代わるもの—法の自己超越における非合理なもの

〇上記のことを踏まえると、法的正義とは前社会的で包括的な正義原理を希求する営みというよりかは、むしろ以下のように内部で行われる独特なプロセスであるといえよう。

「法的作動の定型化した反復を中断させ、妨害し、阻止し、破壊する。そうすることによってあらゆる意味を超えた自己超越を法に強制するが、ただちに再び自らをさらなる法的作動を生み出し続ける圧力の下に置き、まさにそれによって新しい不正義を生み出すことを自ら阻止する。」p.20

「積極的な法的決定と正義による反抗という2つの立場をともにふたたび破壊するために、この2つの立場を繰り返し新しく作り出すのである。この実践は、法内在から法超越へ、そしてまた内在へ戻るという永続的な変容において、正義を実現しつつ不可能にする。」pp.20-21

※1中期ルーマンの表現を借用すると「嘘つきのパラドックス」の決定不可能性/反復の永続性と同様のプロセスを、正義の実現/解体に求めることができる。

※2またデリダ流にいえば法的正義の決定不可能性は「法延(justiciance)」(差延の法版)となる。エクリチュールとして絶えずテクストの意味を変容させ、けっして完結させない。

→より良い法を志向する正義への「漠然とした衝動」には還元されない。

 

 

初期条件

 ルーマンによれば、あるシステムの作動が自己言及的に反復されるためには、作動によってパラドックスが産出される必要がある。すなわち「構造が作動に転換される個々の事例における自己再生産の連鎖は必然的に一つの破れを示すということである。諸々の作動の積み重ねから構造が形成されるが、その構造は次の作動を生み出すのではなく、新しい作動が「起こる」可能性の濃い空間を作り出すことができるだけである。」p.22

→したがって「法的反省を高めることによって法の進行のアポリアを法の自己超越にまでもたらそうとする試みは、法内部で正義への訴えが起こるための必然的初期条件である。」p.44

 

 

自己超越

〇先述の通り、ルーマンは法が外部を内部化した際、自己の別様ありかたを問う(法か/否か)という、エコロジカルな正義の構想を掲げていた。

→こうした分析的視座をさらに深化させたデリダには以下の3点の思想的進展がある。

①パラドックスに対する新たな扱い

→ルーマンが法のパラドックス化には驚愕と麻痺だけがあるとしたのに対し、デリダは偶発性定式以上のもの——「深淵、混乱、矛盾の体験、カオス」を認めている。

 

②自己超越の意味の徹底化

→ルーマンの議論は法が自己超越した攪乱の後の結果にしか捕捉することができない。他方でデリダはそうした攪乱に目を向け、「荒野を通ること」を経験するような正義の議論を要求する。

 

③宗教的超越と特殊法的超越の関係性の変化

→「超越」を宗教に限定せず、法を含む他のシステムにも認めた。「正義とは宗教的な超越とは異なる一つの超越の経験だと理解することができる。」p.27

→しかしながら「あらゆる意味を超えて法を乗り越え、法に特殊な超越の経験をし、その痕跡の下でふたたび永遠の相の下にある法を語るために法の内部に回帰しなければならない」p.28

 

 

持続強制

 「特殊な法的正義と正義に対する「漠然とした衝動」との違いが明らかになるのは、近代法システムがそれに固有の偶発性定式をその自己超越の後に押し付けてくるドラスティックな制約を考えるときである。」p.30

→無限の正義に対する制約として、以下の3つ接続強制がある。

①決定の強制……正義固有の考慮と矛盾したとしても、合法/違法というコードの枠組みの中でしか決定を下すことができないという制約。法の外部における決定はありえない。

 

②基礎づけの制約……正義の探求が包括性を諦め、法内部で行われたのちに、合理的な根拠と法技術的な議論を提示することで、法ドグマティークを構成する必要があるという制約。

 

③標準化の制約……高度な法的正義の探求を、最終的には法的紛争として適切な要求の規範の定式に「複雑性を縮減」する必要があるという制約。

 

 

逆効果

 「注目すべきことに、正義の探求のもとで法を拒否する者は最終的に正しいのである。彼らは、正義のために、正義をめぐる議論の三重の制約を犠牲にする用意はない。というのも、正義の経験は無限なものであるが、それを二項的にコード化された決定と、責任をもってまた一貫してそれを基礎づけ、ある条件下でそれを標準化することに還元するために払われる犠牲は高くつくし、それはまた新たな不正でもあるからである。」p.24

→しかしながら法的正義には社会全体に自らを適用したいという欲望もある。

「法的正義は「急性の正義病」の下で、法的正義を手段として正しい社会を実現しようとする。それによれば、世界の諸問題を法/不法という二項コードにしたがって決定することが正しいのである。」p.25

→こうした性向は他の社会システム(政治、経済、科学、道徳など)にもうかがうことができるものである。

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