top of page

Butler,Judith 1990→1999 『ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱』

 

 バトラーはレズビアン・フェミニストの代表的論者の1人であると同時に、方法論的にはフーコーやデリダに関心を寄せるアメリカ圏におけるポストモダン・フェミニストでもある。したがって本書は難解なポストモダニズム特有のジャーゴンと理論が用いられ、読解に非常に骨が折れることで知られるが、第2派フェミニズム黎明期――すなわちラディカル・フェミニズムが提起したジェンダー二元論を超克するプロジェクトを明確に展開しており、LGBTないしはセクシャルマイノリティに対する関心が高まる昨今において、必読の一冊であるといえよう。本稿ではまず従来的なラディカル・フェミニズムの抱える主要な問題点について検討し、それに対比するかたちで本書の学術的意義について解説しようと思う。


 

 第1派フェミニズムがフランス革命といった近代の平等権・民主化運動に端を発するのに対し、第2波フェミニズムであるラディカル・フェミニズムは一般に70年代の新左翼運動のうねりの中に生まれたとされる。周知のとおりケイト・ミレットによる『性の政治学』(1970)がその火付け役として知られ、以降これまで自明視されてきた家父長制の暴露や、男性中心主義の批判、近代二元論(公/私)の撤廃、ポルノグラフィティやミソジニーとの対峙といった具合に学術・社会運動の双方において様々な活動が展開されていくことになる。しかしながらフェミニズムの活動が多様化し、様々な下位領域に枝分かれしていく中で、徐々にラディカル・フェミニズムに内在する問題点が明らかになっていくことになる。そのうち看過できないものとして、

 ①ジェンダー二元論の支持

 ②セクシャルマイノリティへの無配慮/ヘテロセクシャルの前提化

 

 が挙げられ、後に解説する通りバトラーもこの2点に対して強く関心を寄せている。順に見ていこう。

 

 まず①だが、確かにラディカル・フェミニストたちの主張によって、生物学的性(セックス)/社会的性(ジェンダー)の境界付けがなされ、後者が社会的に構成された表象に過ぎないことが明らかになった。これは性差が自然に由来するものではなく、あくまで慣習・因習に由来するものであると位置づけることによって、その虚構性を指摘する脱自然化戦略を可能にした、画期的な主張であったと回顧することができるだろう。だが、男/女という二元論自体は否定しておらず、極論をいえばセックスからジェンダーに土俵を移したに過ぎないとも振り返ることができる。したがってラディカル・フェミニズムの時点では性差の本質的な撤廃までは至らなかったのが実情である。

 次に②。これは80年代あたりから徐々に関心が集まり、90年代のクィア(理論)の登場によって決定的になった論点である。ラディカル・フェミニズムは前述のとおりジェンダーにおける性差を社会的構成物として槍玉にあげ、その解体を訴えてきたが、家「父」長制といった言葉からも端的に窺えるよう、そこで俎上に載せられていたのは異性愛者だけだった。これによってレズビアンやゲイのように明確に父/母という役割分業が規定できないカップルは当然議論からこぼれ落ちることになる。「1つの生物学的身体に宿るのは2つの性のどちらかである」という暗黙裡の前提は、先のジェンダー論によって所与と見なされることによって生じた、フェミニズムの悪しき伝統であるといっても過言ではない。


 ではバトラーはこうしたラディカル・フェミニズムの内包する難問に対し、どのような思想的プロジェクトを展開したのだろうか。端的にいえば、本書の表題にあるようにジェンダーにトラブルを戦略的に生じさせ、アイデンティティを撹乱することによって、セックス/ジェンダーという二項対立を脱構築してしまった、と整理することができるだろう。

 「セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーだとすれば、ジェンダーをセックスの文化的解釈と定義することは無意味となるだろう。ジェンダーは、生得のセックス(法的概念)に文化が意味を書きこんだものだと考えるべきではない。ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。そうなると、セックスが自然に対応するように、ジェンダーが文化に対応するということにはならない。ジェンダーは、言説/文化の手段でもあり、その手段をつうじて、「性別化された自然」や「自然なセックス」が、文化のまえに存在する「前-言説的なもの」――つまり、文化がそのうえで作動する政治的に中立な表面――として生産され、確立されていくのである。」p.29
 

 こうした指摘に垣間見られるように、バトラーはセックス/ジェンダーの対応関係を真っ向から否定する。伝統的に生物学的性とされてきたセックスも実はジェンダーと同じ社会的構成物に過ぎず、言説/文化の手段としての「ジェンダー」という回路を通して拡散され、また再生産されることになるのである。なおここでの言説とはバトラーが多くを負っている後期ミシェル・フーコーのいうディスクールとしての言説と同義であり、網の目状のネットワークを形成する<権力>の回路としての機能を果たしているといえよう。政治的権力を孕んだセックスは、ディスクールとしての「ジェンダー」によって自明で所与のものとして広く共有されうるのだ。またフーコーもバトラーも共に同性愛者だった事実は、両者の思想的共通点を考察するうえで重要な示唆を与えてくれるはずである。

 しかしなぜこうした異性愛という神話が広く受容されているのだろうか。バトラーによれば人は「セックス(生物学的性)―ジェンダー(社会的性)
―セクシャリティ(性的欲望)」の三者の間に首尾一貫性を見出した時に初めてジェンダー・アイデンティティを見出すように強制されているという。こうした強制的異性愛を構築する文化的な環境のことを、本書では「異性愛のマトリクス」と呼んでおり、その代表的な例として近親姦に対して禁忌の説明を与える構造主義と精神分析が挙げられている。したがって次にバトラーが矛先を向けるのはレヴィ・ストロースやジャック・ラカンといった構造主義者ないしは精神分析家である。

 「レヴィ=ストロースは、息子と母のあいだの異性愛を禁じる近親婚タブーは、近親姦の幻想と同様に、文化の普遍的な真理だとみなしている。ではいかにして異性愛の近親姦が、人為のまえに存在する自然な欲望のマトリクスと見えるものになるのか。いかにして欲望は、異性愛の男の特権となるのか。性の行為体(エイジェンシー)が男であることや異性愛を自然なものとみなす考え方は、言説によって構築されたものにすぎず、それを基盤にする構造主義の枠組みではどこもきちんと説明されていないのに、どこでもかならず前提とされている事柄なのである。」p.89

 「語気強くラカンは、男が女の意味を意味づける、あるいは女が男の意味を意味づけるという考え方に反駁する。《ファルス》で「ある」ことと、《ファルス》を「もつ」ことの区別と両者の交換は、《象徴界》すなわち父の法によって確定されるものである。もちろんこの不均衡な互恵モデルの喜劇的側面は、男性的な位置と女性的な位置の双方がともに意味づけられているものにすぎないということ、そしてそれを意味づけているシニフィアンが、この二つの位置によって表徴形態として表されているだけの《象徴界》に属しているということである。」p. 94
 
 「ルービンは精神分析――とくにラカンの精神分析――は、親族関係に関するレヴィ=ストロースの記述を補完したものだと理解している。とくに彼女が理解を示すのは、「セックス/ジェンダーの制度」――生物学的なオスとメスを、明確に区分され階層化されたジェンダーに変容させる規制的な文化のメカニズム――は文化の制度(家族、「女の交換」の残余形態、義務的異性愛)からお墨付きを得ているが、それと同時に、個人の精神発達を構造化し推進する法をつうじて繰り返し教えこまれる、ということである。したがってエディプス・コンプレックスとは、近親姦に対する文化タブーを傍証するもの、そのタブーを執行するものであり、その結果、男と女に明確に区分されたジェンダーへの同一化と、その帰結としての異性愛気質を作りだす。」p. 139

 愛着理論の提唱者として知られる臨床心理学者、ジョン・ボウルビィが皮肉交じりにいうようにフェミニズムと臨床心理ないしは精神医学は「腐れ縁」の関係にある。リュース・イリガライやジュリア・クリステヴァといったポストモダン・フェミニストの多くが、理論的な反駁を試みていることからもわかるように、とりわけ精神医学はフロイト以来、異性愛を前提化してきたきらいがあるためだ。フロイトが生物学的なペニスの存在によって男女の性差が構築されるとしたのに対し、バトラーが取り上げるラカンは<去勢>の後に象徴的男根としての<ファルス>を獲得することによって象徴的秩序の世界に参入――アルチュセールふうにいえば<大文字の他者>による支配下に置かれることになると考えた。フロイトのエディプス理論を脱自然化し、性差を言語、記号、象徴といった文化的秩序における議論として扱った点において、ラカンの主張は性差を社会的構成物だとするフェミニズムの基本的戦略と合致する。しかしながら冒頭でも述べた通り、それが象徴界における出来事であったとしても男/女という根本的な二元論それ自体は克服されてはいない。ゆえに上述の引用部にあるよう、バトラーは(ラカニアンによるものも含め)精神医学を異性愛を規範的に刷り込む文化的プログラムとして批判しているのである。


 ここまでの議論を通して、フーコーもいうように「真の性愛」なるものが異性愛のマトリクスによって遡及的に構成された幻想にすぎないということが明らかになった。またその起源が心理学的な「核」に還元されてしまっているがゆえに、自明で自然的なものとして受容されているという事実もすでに確認した通りである。こうした現状に対して、バトラーはジェンダー・アイデンティティを撹乱する戦術として「パロディ(模倣)」に可能性を見出す。

「パロディは、オリジナルという概念そのもののパロディなのである。……ジェンダーの同一化についての精神分析が、幻想の幻想によって構築されているように、ジェンダー・パロディが明らかにしているのは、ジェンダーがみずからを形成するときに真似る元のアイデンティティが、起源なき模倣だということである。この永遠の置換は、再意味づけや再文脈化に向かって開かれる流動的なアイデンティティを構築するものである。起源にあるものの意味を結果的にずらしていく模倣として、それらは起源 (オリジナリティ)という神話自体を模倣するのである。」pp.242-243 

 ジェンダーは真実でもなければ偽物でもなく、オリジナルや本質があるわけでもない。したがって、セックス/ジェンダー/セクシャリティの垣根を越えて、それを積極的に模倣していくことはまさしくジェンダーにトラブルを引き起こす契機となりえる。バトラーによればゲイやレズビアンが男役/女役を演じる際に行う異装(ドラッグ)や服装転換(クロス・ドレッシング)は、まさしく「パロディ」の好例であり、異性愛の占有を再分配してくれる実践に他ならない。90年代にはじまる、クィアと呼称されるセクシャルマイノリティに対する関心も、こうしたところに起因するのかもしれない。

bottom of page