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Luhman,Niklas 2002 『社会の教育システム』

http://www.amazon.co.jp/社会の教育システム

 本書はとりわけ日本の教育学界隈に一大パラダイムシフトを引き起こした一冊であり、ルーマンの遺稿のひとつでもある。従来的に当異論や本質主義に陥りやすいとされる教育研究を、ルーマンお得意の冷徹ともいえるシステマティックな記述によって考察していく。フーコーがかつて教育を規律訓練型の権力として批判した際(いわゆる「フーコー・ショック」)、その主張の裏には教育なるものには強固な権力を内在するとする想定があった。しかし、ルーマンは違う。むしろ本書でルーマンが指摘しているのは教育システムの不可能性であり、システムとしてのその限界なのではないだろうか。

 

第1章 人間と社会
 Ⅰ社会理論的前提
 Ⅱ〈人間本位主義的〉教育概念の陥穽
 Ⅲ人間における〈作動の閉鎖性〉と〈構造連結〉
 Ⅳコミュニケーションと〈人格〉 概念
 Ⅴコミュニケーションシステムとしての社会と〈教育〉
 Ⅵ相互行為システムとしての〈授業〉

第2章 社会化と教育
 Ⅰ社会化における〈作動の閉鎖性〉と〈構造連結〉
 Ⅱ〈教育する意図〉による教育の定義
 Ⅲ〈教育する意図〉による伝達行為
 Ⅳ〈実父による教育〉から〈教師による教育〉へ
 Ⅴ教育と〈選別〉
 Ⅵ〈パラドクシカルなコミュニケーション〉
 Ⅶ〈平凡でないマシーン〉の平凡化?
 Ⅷ〈選別されたコンセンサス〉
 

 

 

第1章 人間と社会

Ⅰ社会理論的前提

 本節ではルーマン社会システム理論における基本事項の確認がされており、いわば理論枠組みについての言及である。別の著作でこのことは確認しているため(→Kneer,Georg and Armin Nassehi 1993 『ルーマン―社会システム理論』)、今回の要約では割愛することにする。

 

 

Ⅱ〈人間本位主義的〉教育概念の陥穽

 ルーマンは教育の歴史的変遷を追いつつ、その中で逐一登場する、教育における〈人間本位主義的〉指針を批判する。〈人間本位主義的〉な指針とは主体性などという語に表象される近代的自己に根ざす教育観であり、そこから派生した個人の属性として、合理的な計算能力であったり、文化許容の精神(ガイスト)、アイデンティティを規定する自己決定能力といったものがある。そして、これらの区別(合理的計算能力があるか・文化許容の精神を有している・自己決定能力が獲得されている/否か)のうち肯定的な一方を獲得していくことが「社会によって歓迎される個人」の形成であり、児童にこれらを獲得させることが教育の「意図」であるという。

 しかし、こうした教育的意図はあくまで人間の側から教育システムの機能を読み取ろうとする試みであって、それによって教育システムの社会的機能を考察するための十分な視座が欠如しているとルーマンは批判する。

 

 

Ⅲ人間における〈作動の閉鎖性〉と〈構造連結〉

〈人間本位主義〉の不可能性を、ルーマンは人間システムの複雑性に求める。人間存在をシステム理論的に記述すると、それは複雑性の塊のような存在となるいう。というのもルーマンからすれば、人間とは心的システムや神経システム、意識システムといった様々なシステムの複合物であり、それぞれは〈構造連結〉(構造的カップリング)というかたちで相互に影響をしあっているが、その作動は自己準拠的に、つまり〈閉鎖〉的に行われているからである。システムを駆動させる(システム自身による)観察とは不確実性を元に、不確実に行われるものであり(故にシステムは自己準拠的である)、各々のシステムによる異なる観察を内包する人間とは極めて複雑なものであるため、〈人間本位主義〉的な発想によって定式化するのは不可能に近いというわけだ。

 またここで、ルーマンは伝統的な社会学のパースペクティブである所謂「方法論的個人主義」も批判している。先のように人間を多様なシステム集合として記述した場合、「社会は個人からなる」という命題は、あらゆる社会的な事象を個々人内部の諸システム作動に還元してしまうことになるからである。

 上述の二つの批判を踏まえた上で、ルーマンは「人間とは何か」という問に対し、〈魂〉や〈精神〉といった抽象概念を持ち出すのをやめ、「差異を再生産する極度に複雑なシステムである」との解答を導き出した。

 

 

Ⅳコミュニケーションと〈人格〉 概念

 しかし、いくら人間(システム)が複雑なものであるとしても、社会構造の再生産のため、すなわちコミュニケーションの産出のためにはシステムにおいて人間が扱われる必要性がある。そこで、登場するのが〈人格〉(ペルゾーン)である。人格という形式によって本来的には「極度に複雑なシステム」であるはずの人間を定式化してしまうことで、社会システムの再生産に不可欠なコミュニケーションを産出することが可能であるということである。コミュニケーションを継続するためにはあらゆる社会的事象が「なにか」に帰属させらなけらばならないが、その帰属先、宛名が人格ということだ。つまり、失敗も成功も、責任も無知であることも全てが人格に帰属させられることによってコミュニケーションが産出されうるのである。

 人格を上記のような社会的固有値と想定する上で、ルーマンは以下の三つの観点からその詳細を論じている。

 

①二重の不確定性(ダブル・コンティンジェンシー)の媒介機能

 システムを自己準拠的に駆動させるのはコミュニケーションである、というのがルーマン理論の前提となる発想であるが、このコミュニケーションの産出は観察に準拠している。ルーマンがいうところの観察概念とは一般的な意味での観察とは大きく異なり、曰くシステム内部に共有されるコードに基づいてなされる「区別」/「指示」の動作であるという。そしてそうした性格を持つ観察は、ある不確定な事象、つまり二重の不確定性に直面した時に、その不確実な要素から生起するあらゆる可能性(複雑性)を縮減するためになされるという。そしてその二重の不確定性は社会システムの中の二つの人格によって媒介されている。

 

②人格による記憶の想起

 本来的に記憶とは(ルーマンによれば)心的システムによって担われるところである。しかし、心的システムが直に社会システムを駆動している―心的システムをコミュニケーションのレベルに持っていくのは複雑性が極めて高く、困難である。そこで心的システムにおける記憶というものを人格に帰属させることによって複雑性を縮減し、円滑なコミュニケートを実現しているのである。いわば人格とは心的システムの短縮形あるといえよう。

 

③特定の振る舞いの動機付け

 動機は一般的に「行為に先立つもの」とされているがルーマンによればそれは違う。動機とは事後的な行為の説明であって、いわば後付けの理由なのである。このことは動機というものがある行為の根拠や理由を事後的に他者に示す機能を有しているということを意味している。つまり、動機を他者に示すことによってコミュニケートの可能性が生まれるということである。そして動機もまた、記憶と同様に人格に帰属されているのである。

 

 上記の三点を押さえておくことで、コミュニケーション、そして社会システムを個人の精神や心的な要素に還元してしまうことを回避できる。人格の三つの特徴(不確実性の媒介/記憶の帰属/動機によるもの)によって、複雑性が縮減され、人間を社会システムの中において考えることが可能となるのである。

 さて、ここまでを踏まえると、教育の機能は主体の〈人格化〉であるといえる。社会化が偶発的な要素に満ちているのに対し、人格化は意図されたものであり、人格というコミュニケーションの通行証の使用の信用を裏切らないものとする機能がある。

 

 

Ⅴコミュニケーションシステムとしての社会と〈教育〉

 本節でルーマンは再度人間中心主義という本質主義的な視座を批判する。人間の本質を考えることは社会システムの考察にとって有意なことではない。というのも、社会システムは人間を介して成立しているのではなくて、人格を介することによって個人から独立するかたちで成り立っているからに他ならない。よって、通常は社会システムにおいてコミュニケーションは人間的な諸条件を鑑みることなく円滑に接続されることが志向される。

 しかし、すべてのコミュニケートが相手への接続のみを志向しているわけではない。特に教育の場合では、相手、つまり生徒に教師のコミュニケーションが円滑に接続されるだけで、生徒に一切の変化が見られない場合は、教師にとってそれはおそらく不満足な結果となるだろう。つまり、教育システムにおける意図はコミュニケーションが他者に円滑に接続されることのみに留まらず、コミュニケートによって他者を変化させることも含まれるのである。

 

 

Ⅵ相互行為システムとしての〈授業〉

 一般に教育者の知識と能力は「伝達」に則して記述される。しかし、このことは教師の持つ情報が生徒に本当に伝わっているか否かという問を留保することになる。ルーマンはコミュニケーションを「情報」「伝達」「理解」の三段階を経て達成されると想定するが、この場合では二段階めの「伝達」のみに焦点が当てられており、その結果である生徒たちの「理解」は問題にされていないからである。特に学校の場合では教室という外界から遮断された空間のせいで、授業における「情報」と「理解」についての指摘を行うことができる者の関与が不可能となっており、結果として教師は正確な「理解」の有無を差し置いて「伝達」のための技術をただ精緻化していくことに専念してしまうことになる。よって教師の生徒に対するコミュニケートは限りなくコンサマトリーな様相を呈し、スキーマや認知地図、脚本(スクリプト)などといった教育図式を用いることに充足することになる。

 

 

第2章 社会化と教育

Ⅰ社会化における〈作動の閉鎖性〉と〈構造連結〉

 本章では一般に同一視とまではいかなくとも、混同されがちな社会化/教育に対する(ルーマンお得意の)差異理論的アプローチが展開される。さしあたって、社会化なる営みをシステム理論の中に位置づける必要があるため、本章最初の節ではシステム理論的な社会化の定式化が行なわれる。 

 従来的に、社会化は〈伝承〉の営みとして語られてきた。確かに、世代を超えた社会化の営みによって当該社会における文化的価値を継承していくという視点には頷けるものがある。が、しかし、ルーマンによれば、一方で近代社会における文化範型では「この私」の固有性の確立や、「かけがえのなさ」なるものに高い価値が置かれているという。よって、ここで一つのダブルスタンダードが生まれてしまう。社会化を〈伝承〉のモデルで考えた場合、それは社会的個人の画一化を容認することになる他方で、その中では個人の固有性の確立=「画一的ではない」ということが同時に求められることにもなるのである。今や〈伝承〉という概念は自己否定を内包しているのだ。

 そこで、ルーマンは〈伝承〉の枠組みを捨てて、システム理論的な枠組みを参照することにする。従来的なシステム理論において社会化とは、パーソンズがいうようにタブララサな主体が価値規範を内面化していく過程として考えられていた(→Parsons,Talcott 1951 『社会体系論』)。文化システムと社会システムの相互浸透を通してなされる価値の内面化というプロセスは、しかし、社会システムの中に主体を想定しないルーマンからすれば妥当であるとはいえない。1章で書かれていたように主体―人間とは「極度に複雑なシステムである」ため、規範や価値なるものをその中に還元することはできないのである。

 そこでルーマンは再度人格概念を導入し、それぞれ閉鎖的なシステム(社会システム、人格システム、心的システム)による〈構造連結〉という枠組みから考察する。曰く、それぞれはパーソンズのいうような相互浸透、つまりインプット/アウトプットを行うものではなく、閉じているシステムを作動させるために他のシステムと〈連結〉をし、駆動のために互いが互いを要素として用いているという。社会システムの駆動ために人格システムが〈連結〉するのは既に見たとおりだが、その人格システムは心的システムとも〈連結〉しており、いわば社会システムの(人格システムを介した)心的システムにおける内部射影像が〈社会化の成果〉であるという結論を導き出している。よって、社会化とは(心的システムによって)あらゆる社会的振る舞いを促したり制限したりするプロセスであるということになる。

 

 

Ⅱ〈教育する意図〉による教育の定義

 社会化をこのように定義すると、教育との差異はどこに求められることになるだろうか。ルーマンによれば、社会化が子どもによる他者の行為の模倣によって成り立つのに対し、教育は誰か(教師の)意図に基づいてなされるため、必然的に生徒と教師のやりとりが不可欠になるという。つまり、社会化がそれ自体で完結しているのに対し、教育はコミュニケーションに依存するため社会システムを形成するのである。「教育する意図」の有無が両者の差異を生み出すというわけだ(むしろ「教育する意図」によるコミュニケーション以外によって教育を定義することは不可能であるともルーマンはいう)。

 ではトートロジックであるにも関わらず「教育する意図」によって教育を定義することで何が見えてくるのだろうか。ルーマンによればそれは以下の3点が主たるものであるという。

 

①関係の〈非対称性〉

 「教育する意図」があるという想定はそれが「誰に帰属されるか」という問を必然的に生じさせる。そしてこのことは、教育システムにおける教師(「教育する意図」を持つ者)/生徒(「意図」を持たない者)という非対称的な図式の発生に論理的に帰結する。さらに、非対称な図式は「生徒が教師に教育を行う」というダブルコンティンジェンシーの克服としても機能する。関係性をあらかじめ固定化することによって複雑性が縮減されるのである。

 

②「教育する意図」=「良き意図」

 このことは「教育する意図」が敵愾心や攻撃性を孕んでいてはならないということだけではなく、具体的に「良き意図」の指針(目標が善き目標として、プログラムが善きプログラムとして)が提示されなければならないということも含意している。そしてそれらの指針と照らし合わせた上で生徒が善いか/否かということを確かめなければならない。

 

③コミュニケーション創発の場

 ルーマンによれば教室内における相互行為システムでのコミュニケーションに限って教育とみなされると考える。教育が相互行為システムでのコミュニケーションということは必然的に相互の知覚可能性の存在を意味する。教師の振る舞いは生徒に知覚されるし、生徒の振る舞いも教師によって知覚されるということである。しかし、そこで知覚されたものをコミュニケーションに乗せるには情報量が多すぎて、システム内の複雑性が増大してしまう。しかし、「互い知覚されている」ということの知覚によって、これは回避され、授業というコミュニケーションは円滑に交わされる―つまり教育システムが駆動する。

 

 

Ⅲ〈教育する意図〉による伝達行為

〈教育する意図〉の意図はとりわけ知識の「まだない」者に対する伝達行為の中に見つけることができる。教師の有する情報が十分に伝達できているか、ということがここでは問われているのである。しかし、実際にある情報が伝達がうまくいくか/否かという確実な予期を設けることは原理的に不可能である。伝達されなければならないのに伝達できるか/否かという不確実性を抱えている、ということは教育にシステムおける二値のコード「伝達可能/伝達不能」によって脱パラドックス化される。肯定的側面がシステムの作動の成功を意味し、否定的側面が失敗を表象する。先に書いたように、このことはあらゆる予見に立脚することは不可能であるため、よく知られたとおり、テストや入試などいった形式で事後的に確認されることになる。

 

 

Ⅳ〈実父による教育〉から〈教師による教育〉へ

 社会化と教育は小集団によって教えられるものであり、元来、そこでは両者区別されることはないという。がしかし、社会化だけでは不十分であるということが徐々に明らかになってくると、ますます「教育する意図」が重視されるようになっていく。ルーマンは系譜と照らし合わせつつ、〈実父による教育〉が〈教師による教育〉に変遷を遂げた―社会化/教育が機能文化したと指摘している。

 ただ、留意しておくべきは「教育する意図」は一見すると心理的な表現ではあるが、それは教育と社会化が機能文化するためのシンボルとして役に立ったということであろう。「教育する意図」は個人の意志や精神に還元されるものではない。

 

 

Ⅴ教育と〈選別〉

 そして「善き意図」はまったく異なる二つの子どもを産んだ。教育/選別である。従来的に教育論は教育を肯定的に、選別を否定的に扱った。曰く、選別は国家からの押しつけであって、教育システムにおいて真に望まれるものではないと。特に公正をうたう「善き意図」において、成果によって差異が生じてしまう選別は好まれなかったのである。

 ルーマンはこうした選別が形成したネットワークを以下の6点から特徴づけた。

 

①社会階層との切り離し

 選別により、出自などから個人の実力が切り離される。しかし、ブルデューの指摘したように完全には出自の無力かは達成されない。

 

②システムの記憶形成

 選別において何が良いことか/悪いことかということの記憶。ルーマンによれば記憶の形成において重要なのは「他のことを忘却させること」で、成績が良いこと以外(その過程や心理的状況)を忘れ去ることがシステムの複雑性を縮減する。この記憶に準拠して、生徒の人格に「出来の悪い子」などといったラベリングがされる。

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