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「ポスト若者論考」(全文)

◆はじめに

 古代文明の遺跡から発掘された碑文に「最近の若者は」といったお決まりの文句が書かれていたという逸話は有名であるが、古来より「若者」は社会的な関心を集めてきた。

 我が国でもとりわけ敗戦以降、数多の「若者語り」が生産され、今日でも書店には若者について言及した書籍が並べられており、またニュースを見ればいささかセンセーショナルとも思える少年事件の報道が日夜されている。時にこうした「若者語り」と併せて「若者の動向は時代を反映する」といった旨のことがいわれているが、しかし本当にそれは妥当な認識なのだろうか。さらにいえば、そもそもとして「若者」とは一体誰のことなのだろうか。

 本稿ではまず「若者」の定義から疑った。というのも、「若者」という概念を構築するのが常に大人文化による眼差しであり、「若者」とされる人々の存在は決して自明視されるものではないはずだからだ。私自身、世間的にはいわゆる「若者」であるはずだが、その「若者」としての自己同一性はいつでも「語り」によって規定された「若者の特殊性」を参照しており、こうしたことからも、「若者」は「語り」によって構築されていると思えてならない。

とするのであれば、「若者の動向」が時代を映す鏡なのではなく、むしろ「若者語り」という大人文化の営みを知ることこそが時代性を分析するための大きな手掛かりとなるのではないのだろうか。「歌は世につれ、世は歌につれ」とは古くからよくいわれたもので、「若者語り」の時代的な傾向を探ることによって、逆説的に社会の構造を捉えることが本稿の目的としてある。

 

 

 序文の終わりにかえて、本稿の構成を簡単に記しておこう。

 まず第一章では問題の所在を明らかにした上で、先行研究に該当する著作と分析枠組みを紹介する。本稿で用いる分析枠組みはM.フーコーによる系譜学―言説分析であり、これによって日常生活の中で自明視される概念の構築過程を浮き彫りにすることが可能になる。本稿の中核をなす第二章では、実際に「若者語り」の系譜を遡行し、そのデータを提示する。ここでは随所で著者の解釈を加えるが、本格的な分析は続く第三章で行う。三章ではまず先の系譜学―言説分析のアプローチによって戦後の「若者語り」で共有された若者の表象を明らかにし、その上で社会学的な観点からこれを再検討する。最後の第4章ではこれらの分析結果から得られた知見から、ささやかな提言を行おうと考えている。

 

 

 

◆目次◆

 

はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

 

目次・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2

 

 

1章:問題の所存・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4

1節:対象設定

2節:先行研究のレビュー

1項:「モラトリアム・若者・社会―エリクソンと青年論・若者論」 1993 小谷敏

  2項: 『「若者」とは誰か?―アイデンティティの30年』 2013 浅野智彦

3項: 『おまえが若者を語るな!』 2009 後藤和智

3節:分析枠組み

 

 

2章:「若者語り」の系譜・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9

1節:70年代前半編

1項:「カウンター」としての若者文化

2項:「シラケ」の季節

2節:70年代後半編

1項:土手で殴り合わない若者像

2項:「アパシー」と「モラトリアム」

  3項:消費文化と関係性論的「若者語り」

3節:80年代編その①

  1項:なんとなく、新人類な若者たち

  2項:「差異化」の論理と「多元的自己」言説

4節:80年代編その②

  1項:「情報新人類論」

  2項:新人類世代の影―「おたく論」

  3項:否定的若者像のおこり

5節:90年代前半編

  1項:団塊ジュニアの登場

  2項:コミュニケーションの希薄化言説

  3項:コミュニケーションの高度化言説

6節:90年代後半編

  1項:「キレる」酒鬼薔薇聖斗

2項:「現実と虚構」の狭間で

3項:「終わりなき日常」vsオウム的終末観

4項:「若者語り」第二の転換

7節:00年代前半編

1項:コミュニケーションの形式化言説

2項:メディアとの一人遊びと内向化

 3項:おたくの代替としてのニート・ひきこもり

4項:「キレる17歳」たち

8節:00年代後半編

1項:雇用をめぐる「若者叩きvs若者擁護」

2項:若者による若者論

3項秋葉原大量殺害事件

 

 

3章:系譜の分析・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61

  1節:系譜の整理

  2節:「若者語り」変容の要因

  3節:「若者そのもの」と「若者なるもの」

 

 

4章:結論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・70

  1節:「観察」と「提言」

  2節:「若者語り」のこれから

 

 

参考文献リスト・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73

 

おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・76

 

 

1章 問題の所在

 はじめに書いたとおり、本稿の目的は「若者」の特性を捉えることではなく、その「語り」の特性を素描することにある。しかしこれは当然のことだが、現代という一時代の「若者語り」について考察する断続的な視座では、時代的な特殊性を明らかにすることはできない。「語り」の文脈性を把握し、過去との比較検討によって初めて今を知ることができるということだ。よって当面のところではわが国の「若者語り」の系譜に注目しなければならず、本章ではその前準備として、本稿と近い関心を持って書かれた先行研究と、系譜を追うための分析枠組みについて紹介する。

 

1節 対象設定

 本稿における「若者語り」とは、その時代の若者の特性や性格に関する言説やそれを反映した世論を指し、その範囲はマスメディアによる報道や、社会学や心理学といった学術理論を用いた分析、さらに「若者」を主役とするフィクション作品やファッション雑誌などにも及び、系譜の整理にさしあたって領域横断的な眼差しが要求されると予想される。

 このように広範囲にわたる「若者語り」であるため、本稿でもどの程度カバーできるかは心もとないのではあるが、特に注目したいのはそうした膨大な量の「若者語り」における時代的な傾向性である。それぞれ別領域で生産される「若者語り」ではあるが、各年代の傾向としては何らかの前提を共有していると考えられ、その傾向を探ることが本稿における当面の目的となるだろう。

 具体的に本稿で取り上げることになるのは、

・新聞やテレビなどのマスメディアの報道

・流行をとり挙げたファッション誌

・若者について言及した著作および研究(いわゆる若者論)

・若者が主役として登場する文芸作品およびテレビドラマ

・上記を反映していると考えられる世論調査

である。

 

 

2節 先行研究

 ここ10年から20年くらいの間で、主に社会学、社会理論の領域では既存の「若者語り」の統合的な解釈を試みる「メタ若者論」といった趣旨の研究がなされており、先に述べたとおり本論もこれらの研究と同様に「若者語り」の一つである若者論の系譜を追う点では「メタ若者論」的な側面を有しているといえるだろう。ここでは「メタ若者論」を意図して書かれた、もしくはそうした内容が見られる著作3作を先行研究としてピックアップする。

 

 

1項「モラトリアム・若者・社会―エリクソンと青年論・若者論」 1993 小谷敏

 本論文は小谷敏編著『若者論を読む』の中に掲載された論文であり、本書の冒頭で小谷が序にかえて自負するよう「若者論の対象とされてきた世代の手になる、「若者論」論」という切り口を意識した内容となっている。

小谷はエリクソンのモラトリアム概念が日本でどのように受容されたかということを以下のように記述した上で、モラトリアムという分析枠組みが70年代から80年代の以降に伴い、その論理的強度を失効した原因について考える。

 

 エリクソンの青年論への貢献は、青年現象を分析する用具を提供したという以上に、その概念の多義性によって論者たちをインスパイアーし、様々な議論を喚起した点にあるのではないか。だとすればエリクソンの諸概念は、70年代青年論にとって、もっとも貴重な「感受概念」(H・ブルーマー)――分析用具であるよりは、研究者に問題の所在を告げ、研究者の想像力を活性化する力をもつ概念――であったということができよう。青年論者たちの想像力を喚起したエリクソンの概念といえば、まずアイデンティティであり、そしてモラトリアムであった(小谷 [1993:55])

 

 小谷の解釈によると、70年代前半に見られる若者論における諸概念(「やさしさ志向」栗原 [1979]、「遊戯性」井上[1973]など)の下層基盤には、エリクソンのモラトリアム論があると捉えることができる。しかし、70年代終盤においては小此木啓吾が『モラトリアム人間の時代』(小此木 [1978])で指摘したように、かつて「自己同一性の確立のための時期」として機能していたモラトリアムが、産業社会の階梯に組み込まれ「週刊少年ジャンプを持ったサラリーマン」といった「大人になれない子ども」に象徴されるように、本来的な機能を喪失してしまう。その結果として70年代的若者論において所与のものとしてあった「モラトリアム論」は機能不全に陥り、若者論が80年代では「「もの」や情報を消費する若い人たちの具体的行動を論じる」論理構成へ変容していくとした。

 小谷の指摘を構造化してみると、前半で70年代の若者論の分析を行う「メタ若者論」的な立場を取りつつ、後半ではその構造変容の要因を既存の若者論の解釈から導きだしている。

 実際に「若者語り」の系譜をおってみると小谷がいうように70年代の若者論(エリクソン準拠)から80年代の若者論の移行段階で、その言説の下部構造、つまり分析枠組みにある種の「断絶」を確かに確認することができる。他方で小谷は若者論の分析枠組みの変化を当時の若者論による研究に基づいて考察しており、その点で本論は「メタ若者論」と若者論の立場を行き来した考察だといえる。つまり、小谷は若者論の視座が変化した要因を過去の若者論で描かれた若者像を手がかりに導き出している、ということである。

 小谷の主張は何ら矛盾を抱えているものではないのだが、序章で述べたように本稿における「若者」とは「若者語り」によって構築されているものであり、「若者語り」の変容をその対象である「若者」の変容を手がかりにして明らかにすることはできない。

よって本稿は小谷の議論の内容知的な部分を参照しつつも、その分析方法については肯定できない立場をとる。

 

 

2項『「若者」とは誰か?―アイデンティティの30年』 2013 浅野智彦

 本書は書籍として発売された若者論の中では最新とされるものであり、こちらは自己論の理論的枠組みを用いて若者の30年史を論じている。このように紹介すると若者論的だと感じられるかもしれないが、浅野は本書の冒頭で

 

……アイデンティティの語りが、それ自体、アイデンティティを構成する素材になるということだ。例えばニート(NEET)という語り方が流行すれば、ニートと呼ばれる当の若者たちも自分たちをニートとして認識するようになるし、引きこもりについての語りが厚く積み上げられれば、引きこもりと呼ばれる当の若者たちも自分たちをそれに拠って了解するようになる(浅野 [2013:13])。

 

 と記述しており、本稿の「「若者語り」による「若者」の構築」といった視座と近い捉え方をしているといえる。浅野は先の小谷が指摘した若者論における言説下部構造の変化を、若者の対抗的なアイデンティティ形成(70年代)から、身近な他者との差異化によるアイデンティティ形成(80年代~)への移行によるものと分析しており、それに伴って若者の(既存文化に対する)対抗性に着目する若者論から、若者のコミュニケーションに焦点をあてる若者論へ変容していったと解釈している(浅野 [2009-2013])。多くの文献を引き合いに出した説得力のある主張である一方で、やはり浅野も先の小谷と同様に「若者語り」の変化を「若者」そのものの変化から考えているため、本稿ではこれに倣うことはできない。

 また本書の6章以降、浅野は「若者語り」の分析ではなく、若者そのものについての考察を行うため、最終的には「メタ若者論」的な視座から、従来的な若者論の立場へ回帰していったとしてよいだろう。冒頭で述べた通り、本稿での目的は若者の研究ではなく、「若者語り」の研究であるため、その点でも浅野の著作とは一線を画している。

 

 

3項『おまえが若者を語るな!』 2009 後藤和智

 本書は小谷のように既存の「若者語り」を先行研究として前提とすることもなく、浅野のように最終的に若者論の視座に回帰することもなく、徹底して「メタ若者論」の立場を貫徹したある意味で稀有な著作といえるだろう。

後藤は主に90年代から00年代の若者論(「ぷちナショナリズム」[香山 2002]、「動物化」東 [2001]など)を参照し、それら言説の「実証性の不在」を指摘する。例えば90年代に団塊ジュニアとされる世代の「脱社会化」を指摘した宮台真司(1997)に対して「裏付ける証拠を提示していない」とした上で、さらに「「ブルセラ論争」から現在に至るまでの言説は、結局自分を売り出す方便だったのではないか」と辛辣な批難を投げかけている。いささか感情的ともいえる後藤ではあるが、若者論が常に上世代によって生産されていることからも、当為論的な意図や主観性に基づく恣意性やアドホックさが無自覚的に生じてしまうということは原理的に不可避だろう。

 しかし、ここで注目したいのは後藤による「真/偽」の判断基準だ。本書では「統計等のデータを参照しない若者論=偽」として解釈され、後藤の批判対象となっているが、「実証的な手続きを踏んでいない」ということが、ある言説の「偽」とであるとされる証左には決してならない。というのも、人の所作や社会の原理を明らかにしようと努める人文科学の領域においては、大前提として「絶対的真理」の決定不可能性が共有されており、代わりになんらかの分析の成果は「確率的真理」という形式で提示される。具体的にいえば印象論だからそれが現象をミスリードしていることにはならないし、逆に実証的なデータに準拠しているから現象を正確に捉えられていることにはならない。強いて「真理性」について問うのであれば「実証的な手続きを踏んでいる若者論」の方が「確率的に」正しいとはいえるのかもしれない。

 とはいえ、「若者語り」の恣意性を看破する点で後藤の問題関心自体は本稿と極めて近しいものであるようにも考えられる。先述の通り本稿執筆の理由のひとつは「若者語り」に潜んだ恣意性への疑いであるし、また「若者語り」がその時々の時代性や社会的状況から全く影響を受けていないとしてしまうのも無理があり、「若者語り」にもなんらかの共同主観的なバイアスが確実に作用していると見るのが妥当であろう。後藤のように「真/偽」という断定的な物言いをすることはできないが、そうした眼差し自体は本稿でも共有したい。

 

 

3節 分析枠組み

 本稿で方法論として用いたいのは系譜学的な考察であり、中でもM.フーコーによる言説分析を中心に参照したい。

フーコーがいう系譜学とは主にF.ニーチェの思想的研究を指すとされており、ニーチェの思想からさまざまな示唆を得ることができるが、その目的の一つとして挙げられるのは「日常生活の中で自明のものとされる諸概念の構築された過程を遡行し、その自明性の虚構を看破する」ということである。

そして、ニーチェに影響を受けたフーコーはその代表著作『狂気の歴史』の中で、日常生活の中で自然視される「狂人」という概念を語るディスクール――「権力」関係を内在した「言説」――の系譜を遡行し、「狂人」という概念が社会関係性の中で構築されたものであることを明らかにした(Foucault [1961])。

 

 ……14世紀前半のニュルンベルグでは、62人の狂人の存在が記録されており、そのうち31人が町の外へと追い払われた。そして続く50年間に、さらに21名の旅立ちが施行された。これは、市当局によって捉えられた狂人に関してのみの記録である。またしばしば、狂人たちは河の船員の世話に委ねられていた。1399年フランクフルトで、裸で歩きまわる狂人たちを町から取り除く任務が、船員たちに与えられている。続く15世紀最初の数年間に、同じやり方で、犯罪を行った狂人がマインツから追放されているのだ。

 

 フーコーによれば「狂人」の扱いは17世紀フランスの中で劇的に変化している。もともと健常者と変わらない日常を送っていたとされる「狂人」はあるとき「阿呆船(Narrenschiff)」に乗せられ町から追放された後、留置所に監禁されることになり、さらにその後、パリ一般施療院の創設を受け「狂気」は概念化されることになる。フーコーはこうした一連の「狂気」の扱い―排外、監禁、治療―の系譜を追うことで、ふだん自明のものとして自然視されていた概念が社会的経験や態度によって構築されていることを解明した。フーコーふうに言えば「若者語り」とは(それが理論的であれ印象論的であれ)社会集団の中から「若者」を概念化し、分節するディスクールであるといえるだろう。

また系譜学や言説分析に近接するアプローチとして、マートンらの知識社会学やハッキングの概念分析などを挙げることができるが、その中で本稿があえてフーコーを分析枠組みとして採用した理由は、その「ゆるさ」にある。フーコーによるテキストは確かに難解であり、思想的な示唆を多く含んでいるが、少なくとも『狂気の歴史』の仕事としては比較的先に挙げたものより単純であり、私見ではあるが方法論としてもそれらと比べると明確に体系化されているとはいいがたい。それは同時に実証的な研究になり得るかという問題も孕むことになるのではあるが、本稿で用いたいのはフーコーの思想的な枠組みというより、その社会構築主義的な「視座」であり、全面的に参照するというよりは、背景理論としての活用であると解釈して頂きたい。あえていうまでもないかも知れないが、これはフーコーの抽象的なテキストの「曲解」が許されるということを意味するのではないし、本稿でのフーコーの理解はあくまで正統とされるフーコーの解釈に基づく。またその「ゆるさ」を補完するためにデータの分析編(3章)では解釈枠組みとして、他の社会学的な知見を援用することになるが、その詳細は該当箇所で解説する。

 なお、フーコーの歴史的解釈には明らかに事実関係上の誤認があるとされ、後の研究者によって批判されていくことになるのだが、先に述べた通り本稿ではあくまでその「眼差し」にのみ注目するため、こうした批判についてはあえて言及しないで留めておく。

 

 

 

2章 「若者語り」の系譜

 

 本章では「若者語り」の系譜を、70年代前半を始発として追い、それらを「70年代前半」「70年代後半」「80年代その①」「80年代その②」「90年代前半」「90年代後半」「00年代前半」「00年代後半」の8つに区分した。しかし、言説の変化は急激におこるものではなく、実際は緩いグラデーションを描いている。そのため上記の年代区分もあくまで便宜上設けたものであることを留意して頂きたい。

 

 分析に先んじて、系譜上の始発点として70年代前半を設定した理由を述べておかなければならないだろう。

今日における若者文化という語には(自明のことに思えるだろうが)「大人文化ではない」という含意がある。これは大人文化とは異なる秩序性や社会性が若者文化には内在していることを意味している。

宮台真司はこうした「あたりまえ」が前提化した背景を1950年代に大人文化という大文字の<秩序>から分化した(あるいはそれに対抗した)若者文化の台頭に見ており、「理由なき反抗」のジェームズ・ディーンや、エルビス・プレスリー、我が国では石原慎太郎の『太陽の季節』で描かれた若者がそれを象徴していると分析している(宮台 [1993])。

 ここまでで何度か確認している通り、本論は若者論の立場を経由できないため、宮台の指摘に全面的には追従することはないが、「(大人文化に)対抗的な若者(文化)」像が、社会的なコンセンサスを得たのもおそらくこの時期としてもよいだろう。

 しかし、50年代における「対抗的な若者文化」という社会の共通見解は決して学術理論のフィルターを通過したものではなく、あくまで社会通念でしかなかった。1節1項で確認するように、学術的な文脈でこうした「対抗的な若者文化」が青年問題として主題化するのは70年代前半においてのことであり、そこから今日にまで続く若者の専門的な研究が行われることになる[1]。

 次章で詳しく解説することになるが、本稿ではこうした体系的な若者論の形式をとる若者論を「若者語り」における重要なファクターとして位置づけることになるため、単に社会通念としての「若者語り」が共有された50年代ではなく、若者が研究対象としても盛んに議論がされるようになった70年代をその系譜の始発点として設定した。

 

 

1節70年代前半編

 

1項 「カウンター」としての若者文化

 70年代前半は「対抗的若者」に関した議論が盛んだった時代であり、特に60年代の安保闘争に代表される若者の「異議申し立て」は社会にそうした印象を与えるのに十分な機能を果たしていた。

 具体的な「異議申し立て」として、先の安保闘争や最盛期には全国168校の大学で組織されたという全学共闘会議が挙げられ、また「あさま山荘事件」(72年)、「よど号ハイジャック事件」(73年)などに代表される過激なニューレフト運動が見られたのもこの頃だった。

 特に「あさま山荘事件」の報道(72年)がお茶の間に与えた影響は大きかった。「過激派」対「機動隊」の戦いが大団円を迎える2月28日には、当時の在京各局の全てが午前中から逮捕に至る18時までの現場の模様(ほとんど大きな動きがなかったのにも関わらず)をリアルタイムで中継しており、その間の他の報道は一切されていない。社会学者の中野収はこの報道を回顧しつつ、80年代以降のメディア論の文脈で使われる、「劇場犯罪」「劇場社会」「メディアとしてのテレビ」といったキーワードが初めて現実味をもった事件だったと述べている(中野[1990])。

実際2月28日18時26分には民放とNHK併せて総世帯視聴率は89,7%を記録し[2]、視聴率調査開始以来の最高値を記録しており、また言語学者の稲垣吉彦によると、事件以降連合赤軍が多用した「軍規」に反する者への「私的制裁」―「総括」という語が日常風景の中で使用されたり、72年暮れの週刊誌の回顧もの企画記事での見出しに使われたりといった現象も見られている[3]。

 そうした対抗的・暴力的な若者像は当時流行した「学園青春もの」ドラマの中にも端的に窺うことができる。代表作として『おれは男だ!』(71年)や『飛び出せ!青春』(72年)、『われら青春!』(74年)などあり、特に65年からはじまる日本テレビ系列の『青春とはなんだ』シリーズでは、「熱血体育会系教師」が「有り余るエネルギーを逸脱行為に向ける若者」との格闘を通して理解を深め、更生の方向に促し、そして最後は夕陽に向かって走りだす、といった物語の構造が半ばテンプレート化している。現在ではもはやパロディの対象にしかなりえないようなベタなストーリーの構成であるが、「有り余るエネルギーを逸脱行為に向ける若者」の描かれ方には暴力的で対抗的な若者像を前提としていたと考えることができるだろう。

 先述の通り学術的な文脈でも「異議申し立て」する若者を捉えようとする試みが盛んになされ、例えば69年には同時期のアメリカで「異議申し立て」をした若者を心理学的に分析した『アイデンティティ―青年と危機』が我が国に輸入され、70年に開催された第43回社会学会大会においては政治的な文脈と関連付けた「青年問題」が主題として取り上げられている。このような事実からも研究の領域においても対抗的な若者文化という前提が共有されて始めていたことが窺えるだろう。

 社会学者の岩佐淳一は1章で参照した『若者論を読む』のなかで、同じく社会学者である塩原勉が71年に発表した論文「青年問題への視角」において当時の若者論における基本的なパースペクティブを見ることができると指摘している(岩佐 [1993])。ここでもそれを参照してみよう。

・労働の問題としての青年論、または階級論的な青年論

・文化の問題としての青年論、または世代論的な青年論

・政治の問題としての青年論、または時代の問題としての青年論(塩原 [1971:3])

 

 この中でとりわけ当時の研究において特徴的だったものは「労働の問題/階級論」「政治の問題/時代の問題」の二つ枠組みから若者を捉えようと試みている点だ。「労働の問題/階級論」という言葉だけを聞くと今日の若者論で語られる「世代間格差」や「ワーキングプア」等の議論を想起するが、70年代当時「労働」といった場合、それはマルキシズムと強く関連付けられており、岩佐も指摘するよう労働という現実問題を分析するためのフレームワークというよりかは、階級(闘争)的な側面を分析するためのフレームワークだったと解釈できるだろう。また三つ目の「政治の問題/時代の問題」という捉え方も同様で、既存の社会に対し、共産主義的な政治思想を通して「異議申し立て」をした若者像を前提としている点で、イデオロギー色の強い理論的枠組みだった。

 このように70年代前半期における若者は、政治や国家といった体制との相関性で語られており、60年代から続く学園紛争からの一連の流れにおいて、青年の意識を捉えようとする試みが当時の若者論におけるメインストリームだったのである。

若者論の記念碑的著作とされる井上俊の『死にがいの喪失』でも、若者を政治や体制と関連付けて分析している。井上は若者文化を「若者世代に特有の行動様式や価値観のパターン」と規定した上で、エリクソンのアイデンティティ論やカイヨワの「遊び」の議論を下敷きにしつつ、学園紛争(ここでは主に全共闘を指す)にコミットする若者に共通するメンタリティを「まじめ志向」―「聖」への「離脱」と分析している。つまり、当時の若者たちは大人文化―既存文化―体制に対して、高尚な目的(共産主義国家の樹立)―「聖」を志向することで相対的な距離関係を設けようとしているということである(井上 [1973])。

 さらに、井上は若者の「未決」意識に関しても本書で触れている。井上は大学生の留年率の増加傾向や、「職業ばなれ」の現象を指摘した上で、そこに内在する若者たちの深層心理を「大人になることをできるだけ先に延ばそうとする傾向」―「既決」になることを避ける「未決」意識に見ており、特に大学生活を通じて「聖」方向への「離脱」―学園紛争を目にした若者は、実際にそれにコミットすることはなくとも、「反体制思想」に少なからず感化され、結果として「未決」という煮え切らない選択肢を取ると分析している。

 この井上の指摘は、ほぼ完全に次の70年代後半期における「モラトリアム論」と同様のもので「モラトリアム」という語こそ使用してはいないが、先駆け的な論述であったのは確かである。

 塩原=井上に代表されるように、当時の若者研究は体制との相関性から若者を捉えるのが主流だった。その上でそれらの多くは「体制からの距離の置き方の形式」、井上の言葉を引用するならば「離脱の形式」について論じている。

 こうした「離脱する若者像」のは、60年代後半のアメリカで後の若者論に一大パラダイムを形成したエリクソンのライフサイクル論と極めて強い親和性を見て取ることができ、事実、先の井上もこの理論に準拠した分析を試みている。

 エリクソンはフロイト以降の精神分析理論を下敷きにし、人の生涯を幼年期から老人期に至るまでの8つの発達期間によって区分するライフサイクルとして捉えた上で、そのそれぞれの期間には発達のための課題があると考える。例えば<乳児期>における発達課題とは、自己のコミュニケーションが極力円滑に他者に接続されることで得られる<基本的信頼感>の獲得であると定義している(Erikson [1968])。

また<乳児期>に続く<幼児前期>以降からは発達課題を解決していくプロセスを通して、「自我のさまざまな総合方法に与えられた自己の同一と連続性が存在する事実とこれらの総合方法が同時に他者に対して自己が持つ意味の同一と連続性を保障している事実の自覚」が自己内部で達成されていく。

 こうした<同一化>の過程において、1つの転換期となるのが<青年期>である。<青年期>においては幼児期以来<同一化>を通して獲得してきた様々な「自己の同一と連続性」(自分が存在する意味)を、能動的に選択し統合的な自己像を形成―アイデンティティ(<同一性>)を確立することが課題となっている。つまり<青年期>においては、今まで半ば他者準拠的に達成されてきた<同一化>による情報を、自己内部で再編成し、自己固有の実存的意味を見出さなければならないということだ。<同一化>から<同一性>への過渡期が<青年期>であり、エリクソンによれば「アイデンティティ形成は、<同一化>の有効性が終わるところからはじまる」。

 またここが肝心なのだが、エリクソンの理論が注目されたのは発達段階をそれ単独のプロセスではなく、その時々の社会構造との相互関係によって捉えようとした点においてである。エリクソンは<青年期>の発達と社会を関連付ける要因を「イデオロギー」(ここでは政治観念といった意味ではなく、あらゆる思想・思考に内在する「無意識的傾向」を指す)であるとしており、「イデオロギー」が「アイデンティティの感覚を支えるにたる説得的な世界観」を<青年期>の若者に提示してくれるという。

 つまり既存文化からの「離脱」の意識は、エリクソン的に解釈するとアイデンティティの形成のための条件である「イデオロギー」を指すことになる。

こうした若者の既存の文化から「離脱」する営みを分析するための枠組みは、後の80年代あたりまで若者研究の中で共有されることになる。

2項 「シラケ」の季節

 70年代前半の若者が必ずしも対抗的なものだけだったといえば、そうではない。「シラケ」という語の流行から見られるように、無気力な若者像も時代の象徴として共有されていた。例えば若者のメンタリティを表現した「三無主義」(=「無気力・無関心・無責任」)あるいは「四無主義」(=先の「三無」に「無感動」を追加したもの)といった言葉の流行にはそうしたパースペクティブを端的に窺うことができるだろう。

 特にヒッピーやフーテンと呼称される若者たちや、「脱サラブーム」に乗った若者たちが「シラケ」の象徴として語られることが多く、前者はもともとベトナム戦争への徴兵を拒否したアメリカの若者たちを中心に形成されていった文化とされ、「自然回帰」をスローガンに、後期のビートルズに触発されマリファナやコカインを服用するといった退廃的な性質を強く帯びた「シラケ」「無気力」傾向であった。

対して後者の「脱サラブーム」は71年から73年ごろにかけて、新入社員が大企業に背を向けた現象を指しており。内定を蹴った若者たちはその後「自分探し」の旅に出たり、起業したりしたとされ、多くの「脱サラ」ハウ・トゥ―本が出版された。

ヒッピー=フーテンや「脱サラ」にコミットした者たちは、一連の左翼系運動に参加した者たちよりもはるかに少なく、これらを時の若者の性格として一般化するのは無理があるともいえるが、一方で72年にNHKが行った「現代青年の意識と行動」調査のデータを見てみると18~22歳の若者たちの39%が自らの世代を「無気力」だと考えており、「意欲的」と回答した17%をはるかに上回っており、同調査で「日常的場面でみちたりた気持を感じることのほうが多い」と回答した者が16%だったのに対して、「むなしい気持を感じることのほうが多い」という回答は36%になっている。また政治意識を問う項目でも支持政党のない人が過半数を占めており、かつてに比べて脱政党化現象が確認されていた。

 難波功士はこうした「シラケ」た若者たちの総称として、世間一般で「ヤング」という言葉が使用されていたことを指摘しており、難波はその証左として、72年10月の『朝日新聞』の「味気ないな「仕事人生なんて」/成長万能主義に背/馬車馬お断り」といった小見出しの下に「ヤング」の「シラケ」ぶりを嘆く「サラリーマン生態学②ヤング」という記事や、同年5月の『サンデー毎日』の中で特集「現代ヤング論」を組み、その中でなされた「ヤング」―「シラケ」批判を挙げている(難波 [2004])。

 またこちらは70年代に始まったことではないのだが、当時は特定の若者集団を指し示する場合に「○○族」という呼称が使用されていた。おそらく特定の社会的性格を有する集団を指した「族」の用法としては1948年に太宰治後期の代表作『斜陽』になぞらえた「斜陽族」が元祖と思われるが、この場合は指示の対象を若者に限定していない。

 系譜を見る限りでは冒頭で少しふれた「太陽族」(56年)頃から若者集団を指す語として使われはじめ、有名なものでは「カミナリ族」(59年)、「みゆき族」(64年)などが挙げられる。そして70年代の「シラケ」た若者像を指し示した「族」としては、「ヒッピー族」―「フーテン族」(67年)、「脱サラ族」(71年)がそれに該当する。こうした「族」の用法を見る限り、70年代では主に従来的な社会規範や秩序から何らかの志向性を持って逸脱する若者を指す場合に使われていたようである。

 先の難波は「族」の言語分析も行っており、それによると若者集団を指す「族」は、やがて「系」という語に変化していくことになるのだが、その指摘はまた後に参照することにしよう。

 では、学術的な文脈では「シラケ」現象はどのように解釈されたのだろうか。72年に心理学者の岸本弘によって書かれた論文『現代青年の思想』では、同年2月のあさま山荘事件を象徴的な契機として、若者たちは学園紛争の挫折感を味わい、現代の学園を包んでいるのは一種の「沈滞ムード」であると述べる。さらにその「沈滞ムード」においては、若者たちは既存文化や体制といったものから60年代的な反体制思想によってではなく、脱体制的な形式で距離をとるとし、例えば岸本は日本リサーチセンターや経済企画庁が行った職業希望調査の解答データにおける若年層の就職観に、反体制思想ならぬ「脱体制思想」の片鱗を見ている(岸本 [1972])。

 岸本が若者の就職観に「脱体制」の意識を感じとったのに対し、社会学者の間場寿一は若者の政治意識の変化に同様の意識傾向を見ている[4]。67年の衆議院総選挙の年齢別投票率のデータにおいて20年代青年の大規模な棄権が確認された。当時この現象を若年層の「保守化」によるものであると解釈するのが一般的な見解だったが、間場はそうではなく若者が政治的領域と距離を置き始める意識、「脱イデオロギー化」に起因するものであると指摘している(間場 [1971])。

 このように「シラケ」のメカニズムを捉える言説は70年代前半時点でいくつか確認することができるが、先にも述べた通りそれが全面的な主題と化すのは70年代後半に入ってからである。

[1]70年以前のところでは1953年に豊沢登、平沢薫によって『青年社会学』なる著作が発表されており、体系的な若者の研究の先駆的な議論だと位置づけられる一方、70年代と比べるとこれが学術領域における全体的な議論に発展することはなかった。

[2]ビデオリサーチ・関東地区調べ

[3]稲垣吉彦 1989 『流行語の昭和史』

[4]間場寿一  1971「青年の問題意識」社会学評論第22巻 第2号初出

2節 70年代後半編

1項 土手で殴り合わない若者像

 70年代後半に入ると、全共闘・新左翼系による諸運動が完全に下火になり、「若者語り」においても「シラケ」・保守化言説が全面化してくる。まずそれら言説の分析に入る前に、当時の若者そのものを対象とした意識調査を参照してみよう。

「青年における支持政党の変化」調査では「支持政党なし」と回答した若者(20~22歳)が72年の51%に対し、76年には全体の64%にまで増加している。また同調査「志望職業」欄では「支持政党なし」と回答した若者のうち「大企業ホワイト(カラー)」を志向する若者が72年54%に比べ、76年は68%と、こちらも10%以上の増加傾向が確認されており、確かに「シラケ」の印象を裏付ける結果が出ている。他にも78年には国家公務員試験の志望者が過去最高の60,948人を記録しており、これを若者の保守化=安定志向と解釈することもできるだろう。また当時の親世代にもこうした安定志向の傾向が見受けられ、75年から始まるいわゆる「乱塾」ブームでは、77年の文科省調査によると全国5万の学習塾に5人に1人の子どもが通っており、都市圏の中学生においては約半数が利用しているとの結果が出ている。

 他方で76年には大卒者の就職率が70.7%と1950年以来最低を記録し、同年の大学進学率も42万1000人と前年を下回る結果が出ている、また長期留年学生が問題視されるようになったのもこの頃で、このように一見すると先の安定志向とは矛盾しているように思える現象も見られるが、後のところで確認する通り、この傾向は「若者語り」において保守化現象というより「若者の無気力化」として解釈されていたようだ。

 確かに、データ上にも当時の若者たちがその5~10年前の若者と比べるとなんとなく活力を失っていると解釈できる結果が出ている。もちろんこうした若者たちの性質の変化は大人たちも察知していたようで、特に70年代前半期/後半期の学園ドラマで描かれた若者像を比較してみるとなかなか興味深い。

1節で述べたように、70年代前半の学園ドラマに登場する若者たちは、対抗的・暴力的な存在として描かれていた。しかし、70年代後半の「学園ドラマ」に登場する生徒たちは明らかにそれとは一線を画しており、彼らの特徴を「シラケ」とする描写がされている。大ヒットを記録した『青春ド真中!』(78年)に極めて象徴的なシーンがあるので紹介しておこう。

 中村俊介が演じた主人公―“バクダン”こと中原俊介は、産休になった教師の補助として修学院高校に赴任してくる。中原は「スケベだけど熱血漢」な男教師で、ある「期待」をして教室に入っていくも、それは一瞬にして裏切られることになる。新任教師が来た際にされる生徒からの「洗礼」、つまり従来的な「学園もの」ではお決まりのいたずらがまったくなかったのである。それどころか修学院高校にはサッカー部やラグビー部といった体育会系の部活はなく、学校の至る所に規則や校訓が張られた進学校で、生徒は基本的に「まじめ」だけど、どこか「無気力」だ。

以上のような設定は70年代前半期に見られた「学園青春もの」ドラマにおける「お約束」を徹底的に覆し、またその「転換」を半ばセルフパロディとしても提供しており(中原が受けた「すかし」は、同時に視聴者が受けた「すかし」でもあった)、教師―中原が「熱血漢」であるという設定は踏襲されつつも、他方で生徒像の描き方は明らかに従来のものとは異なっている。けっきょくは「無気力」な生徒たちも「熱血教師」の中原によって「夕陽に向かって走り出す」的展開に行きつくのだが、受験勉強に追われ「シラケ」ている高校生像にはかつての対抗的・暴力的な面影はない。そしてこうした「シラケ」た生徒像は、後の『ゆうひが丘の総理大臣』(78年)や『あさひが丘の大統領』(79年)に引き継がれていくことになる。

学園ドラマといえば『3年B組 金八先生』(79年)の放映開始もこの頃からだ。武田鉄矢扮する坂本金八は先の中原とは違い70年代的な「熱血体育会系教師」ではなくて、どちらかと言うと「熱」を備えつつも知性的な人物として描かれている。物語が展開されるところも高校ではなく中学校と舞台設定も従来の「学園青春もの」とは一風変わった学園ドラマだったが、最終回には約39%の高視聴率を記録している。

こちらで描かれる若者は『青春ド真中!』のような受験戦争の波に揉まれた「シラケ」に加え、さらには「内向的」でどことなく病理を抱えている存在だった。優等生の浅井雪乃(杉田かおる)が妊娠したり、またその兄である洋一(田鍋友啓)が大学不合格をきっかけとして自殺したりといった設定にそれを見ることができる。

 また「若者語り」から若干の距離を置くが、「シラケ」という語自体の流行を加速させた出来事として、小松政夫のナンセンスギャグ「シラケ鳥音頭」が挙げられる。コント番組『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』(76-78年)でのコントにおいて、場が白けると小松が「シラケ鳥」のパペットを持って「シラケ鳥音頭」を歌うというただのそれだけなのだが、「シラケ鳥音頭」のレコードは60万枚のセールスを記録している。小松のそれは直接的に「若者を語った」ものではないが、70年代後半を「シラケ」の時代として印象づける大きな機能を果たしていたと考えられる。

2項 「アパシー」と「モラトリアム」

 当時の研究でも若者の「シラケ」を前提とする著作が多く発表されている。『死にがいの喪失』の井上俊が77年の『遊びの社会学』の中で青年問題について言及した際には70年前半期に見られた「まじめ志向」―「聖」方向への「離脱」が今日においては衰退しつつあると分析しており(井上 [1973-1977])、そのことからも全共闘的な若者は青年の俎上から早々と降ろされたことを窺うことができる。また1節1項で参照した塩原論文による「政治の問題としての青年論」「労働の問題としての青年論」という二つの視角は、この時点ですでにその論理的強度を失効しつつあったとも考えられるだろう。

 「無気力」な若者を論じた代表著作とされるのが心理学者笠原嘉の『青年期』である。笠原は70年代の中頃から問題視されるようになった長期留年学生を一つの「病理的」な現象として捉え、当時の留年生たちが従来的な留年生(全共闘期の「拒否」としての留年)とは一線を画しているところに着目した(笠原 [1977])。それによると70年代後半における留年生の意識傾向は「無気力型ノイローゼないしはその近縁者」と解釈でき、彼らを無気力・無為な青年の生活を描いたロシア小説『オブローモフ』になぞらえて「現代のオブローモフたち」と名付けている。

 しかし笠原は「現代のオブローモフたち」がスチューデント・アパシーに陥っており、「無気力」「無感動」な「疎外された学生」「意識減退学生」であると分析する他方で、「荒々しく競争社会を生きることから身を引いた」彼らの中にある種の「やさしさ志向」を見ており、同書の中で「敗北者とレッテルを貼るだけではすませられぬなにものかを感じる」とも述べている。

 この「やさしさ志向」をさらに掘り下げたのが栗原彬である。『やさしさのゆくえ―現在青年論』ではモラトリアム論を援用しつつ、当時の「若者語り」におけるホットワードの一つであった「やさしさ」の分析を行っている(栗原 [1979])。栗原によると、当時の若者たちは激化する受験戦争―競争社会の倫理にさらされて生きてきた世代であり、その中で傷つきやすい繊細なメンタルと共同性重視の姿勢を同時に獲得してきているらしい。この辺は笠原の説と極めて近い見解であろう。

 笠原が学生という限定的な集団に分析の焦点をあてたのに対し、小此木啓吾はより一般的な水準から「シラケ」を捉えよう試みた。中でもその著書『モラトリアム人間の時代』が世間に与えた影響は計り知れないだろう。というのも、今日では日常語と化した「モラトリアム」が広く一般に流布されたのがこの著作の影響であるとしてもほとんど過言ではないからである。

 小此木はエリクソンのライフサイクル論の中で<青年期>におけるモラトリアムに注目する。改めて言うまでもないかもしれないが、エリクソンによると<青年期>において先のアイデンティティを形成するための時期をモラトリアム(猶予期間)として概念化している。小此木の指摘によると、そうした本来的に<青年期>特有の現象であるとされるモラトリアムが、当時の日本社会では、社会秩序の変化に伴って延長され、エリクソンによる定義上の<青年期>を過ぎた人々にもモラトリアムの心理傾向を適用可能であるとしており、こうした引き延ばされた「モラトリアム」の社会的性格を有する人々を「モラトリアム人間」と定義している(小此木 [1978])。また小此木はこうした「モラトリアム人間」の起源を70年代前半期のヒッピー文化やフーテン文化に見ており、併せて社会構造の情報化・消費社会化がそれらを「良きお客様」としたことによって、「モラトリアム人間」の生産を加速させているとも分析している。

 後の若者研究に絶大な影響を与えた両者の主張は大きな相違があるのは確かだが、興味深い共通点としては小此木、笠原共に「シラケ」が社会的な議論において主題化する以前の段階、つまり新左翼運動や学園紛争の時点ですでに「スチューデント・アパシー」「モラトリアム人間」の原モデルが潜在的には若者文化の中に存在していたと捉えているところだろう。彼らの見立てによれば、「シラケ」のメンタリティが体制や既存文化といったものからの「離脱」の形式として大きく顕在化しなかっただけで(あるいはマルキシズム関係の諸運動の方が若者文化として顕著だったが故に)、その原型となるものはすでにあったということになる。

 「シラケ」ないしは「無気力」言説は一見すると「対抗的な若者像」とは真逆の見解を示しているように感じられるが、その「語り」における前提条件は同様のものであったと思われる。というのも、若者たちが「何に対してシラケているとされたのか」ということを考えてみると、上記の言説を見るに「政治や体制」もしくはそこに「異議申し立てをした若者」であるといえ、「対抗的」とされた性質とは確かに真逆の見解であるが、少なくともその言説空間において前提とされた表象は、依然「大人文化から「離脱」する若者」であったということである。このことから70年代前半と後半における「若者語り」の意味内容は大きく変化している一方、それら言説で共有された若者の表象―「「離脱」する若者像」においては変化していないとできるだろう。

3項 消費文化と関係性論的「若者語り」

 学生運動が下火に、そして「シラケ」ているとされる若者が大量に見られるようになる一方で、70年代の後半は多様なポップカルチャーが至る所で萌芽していた時代でもあった。例えば70年代前半の南沙織デビュー始発とするアイドルブームでは、76年のピンクレディーの登場によって一気に加速し、77年には「普通の女の子に戻りたい」という突然の解散表明を行ったキャンディーズが世間の注目を集めている。

音楽の領域ではロックブームが到来し、邦楽ではロック御三家ことChar・世良公則&ツイスト・原田真二、洋楽ではKISSやクイーン、ベイシティローラーズが若者の熱狂的な人気を集め、ポップスでもサザンオールスターズがデビューし、大きな活躍を見せている。

70年代前半期の漫画ブームとはまた趣を異とする、後の「おたく文化」(当時はマニアと言われていた)とされる文化も70年代後半から台頭し始めてくる。その代表作として『宇宙戦艦ヤマト』(74年)、『銀河鉄道999』(77年)、『機動戦士ガンダム』(79年)などが挙げられ、大塚英志によると特に『ヤマト』『ガンダム』は「その作品が帰属する世界(歴史)が存在する可能性を受け手に示唆した」ことが共通項としてあり、これが二次創作的な意欲をかき立てたらしい[1]。事実、75年から始まる黎明期のコミックマーケットでもこれら作品のパロディ同人誌が数多く制作されており、現在の「おたく文化」の素地が形成されつつあったようである。今日のコミケのコンテンツの一つであるコスプレイヤーが誕生するのもこの頃だが、第一号はコミケではなく「第17回 SF大会」において手塚治虫による「海のトリトン」のコスチュームを着てきた文芸批評家の小谷真理とされている[2]。

 先の小此木は「モラトリアム人間」たちがこうした消費社会に「よきお客様」として迎え入れられることによって、「大人になれない」呪縛に囚われているとの見解を示していたが、これも先に見てきたように小此木の分析はあくまで70年代前半期から続く「「離脱」する若者」を前提としていた。

このように若者を「シラケ」の心理的傾向から捉える言説が圧倒的マジョリティだった中で、社会学者の中野収は小此木と同様に、ウォークマンやマンガ/アニメの流行といった文化消費の観点から若者を俎上に乗せつつ、その「離脱」の形式にではなく、コミュニケーションの様式について言及している(中野 [1975])。

 中野は同じく社会学者の平野秀秋との共著『コピー体験の分化』の中で「カプセル人間論」なるものを展開している。中野=平野によれば、当時の若者たちは外界/自己内部を遮断してしまう「カプセル」の中に籠もっているという。喫茶店で黙々とマンガを耽読する若者たちや、ウォークマンで音楽を聴きながら街中を闊歩する若者たちはその典型例で、外界にいつつも外部情報を一部的に遮断し、自己の内部世界―「カプセル」の中に閉じこもっているということである。一方で中野=平野は「カプセル人間」たちが独特の連帯形式を持っているとの指摘もしている。従来的な連帯が、能動的に特定の文化ないしは共同体にアクセスすることを条件に達成されるものであったのに対し、「カプセル人間」たちはテレビやラジオといった諸メディアを媒介にして受動的な「連帯」を形成している。当事者たちには連帯への意識がなくとも、「カプセル」を構成するメディアは限定的であるため、個室にいる一方で、他者と共通のメディアへのコミットメントが可能になるということである。

 こうした中野=平野の見解は、80年代末の若者論において主流となる関係性論的なパースペクティブであり、70年代の「若者語り」における「対抗的な若者」像を前提としない点でそれらとは一線を画している。しかし、75年当時では中野=平野が大きく注目されることはなかった。

 

[1]大塚英志 2001 『定本 物語消費論』

[2]ちなみに本人はバローズのSF小説『火星の秘密兵器』の表紙の人物を模したらしいが、確かにトリトンと誤解されても仕方ない意匠である。

 

 

 

3節 80年代編その①

 

1項 なんとなく、新人類な若者たち

 80年代の若者を語る上で避けられないのはなんといっても新人類世代であろう。今でこそ死語となりつつある「新人類」という語であるが、当時の「若者語り」では盛んに用いられている。特に81年に文芸賞を受賞し、芥川賞候補にもなった田中康夫の『なんとなく、クリスタル』はそんな80年代新人類カルチャーの幕開けを象徴する小説だ。

 本文わずか142ページなのにも関わらず、有名ブティック、レストラン、ミュージシャン、一流ブランド商品がふんだんに散りばめられ、それらの解説のために442もの注釈が設けられた特異な作風が話題を呼んだ。一部では「カタログ小説」と揶揄する声も聞こえたが、いずれにせよ『なんクリ』ブームは80年代の消費文化に火をつけ、若者たちの高級化と一流ブランド志向の欲望をかき立てたのは確かであると考えられ、そうした若者たちを指す「クリスタル族」が流行語になっていることからもその影響力は絶大だったといえるだろう。

また新人類文化といって欠かせないのが、84年から朝日ジャーナル内に連載された筑紫哲也によるコーナー「若者たちの神々」だ。新人類という語の生みの親とされる筑紫は本企画で80年代ユースカルチャーを牽引する著名人にインタビューを試みているが、ここで登場するゲストの面々には新人類文化のエッセンスが凝縮されている。以下で代表的な人物を列挙してみよう。

 まず先の『なんクリ』の田中康夫、同じく小説家で『限りなく透明に近いブルー』で注目のデビューを果たした村上龍、「おいしい生活」(西武百貨店)「君にクラクラ」(カネボウ)といった名コピーの生みの親である糸井重里、『構造と力』でニューアカブームに火をつけた浅田彰、70年代から続くニューミュージックブームの第一人者松任谷由美、お笑いコンビ“ツービート”で一世を風靡したビートたけし、ライトノベルの草分け的存在の新井素子、テクノポップというジャンルを確立したYMOの坂本龍一、ファッションデザイナーの三宅一生

といった具合にそうそうたる面子が揃っており、上記を見ればわかるようゲストの専門領域が多岐にわたっていることからも当時の若者文化の多様性を推して知ることができる。   

 また85年に博報堂が首都圏30キロ圏内の若者(18~23歳)を対象として行った「消費態度調査」でも、「感性世代」といわれる新人類世代たちの性格を裏付ける結果が出ており、例えば「値段が高くても気に入れば買う」「好きなものには、うんちくを傾ける」と回答した若者は、全体がそれぞれ71%と56%だったのに対し、78%、62%と高い割合を示している。また「多くの人が同じものを持つと興味をなくす」「買ったものでも、すぐに飽きてしまう」と回答した者も、若者の方が多い傾向が見られる。

本節で見ていくように当時の「若者語り」もこうした特性をもつ新人類たちを積極的に捉えようと試みていく。しかし、ここで留意しておくべきは、これら文化の発信地はあくまで都市―東京だったことだ。地方在住の若者たちがどこまでこうした「新しい文化」に関心があったかということに関しては一考の余地があり、「センスエリート」で「オシャレ」な新人類文化の土壌が都市を前提としている以上、少なくとも文化形成の段階では東京一局集中だったことは確かである。

2項 「差異化」の論理と「多元的自己」言説

 広辞苑によると新人類とは「従来なかった新しい感性や価値観を持つ若い世代」のことらしい。しかしこの定義では前節と前々節でみてきた「全共闘世代」や「シラケ世代」、「モラトリアム世代」に関しても当てはまる。というのも、「○○世代」といった語の含意として常に「従来なかった新しい感性や価値観を持つ若い世代」があるからだ。

 認知科学者の吉成真由美は新人類を「全共闘世代」、「モラトリアム世代」と対比して、こう述べている[1]。

 全共闘世代のごとく、完全な対立図式を持ちだし、イデオロギー云々と声高に叫ぶわけでもなければ、次のモラトリアム世代のように完全にしらけきってお客様になるのでもない。軽くコミットして楽しみ、周囲が騒ぐことにはまた次のところへポーンとジャンプしているわけである(吉成 [1985:23p])。

 これは吉成による見解ではあるが、少なくとも「若者語り」の領域で、新人類世代といった場合にはこのような前世代との相対的な特殊性が了解としてあった。

 そうした新人類たちの特殊性を浮き彫りにしたのは『構造と力』で鮮烈なデビューを飾った「天才少年」浅田彰の『逃走論―スキゾ・キッズの冒険』だ。

浅田は本書の中で「パラノ(偏執)型」/「スキゾ(分裂)型」という二類型を設けて現代人のメンタリティの分析を行っている(浅田[1984])。

浅田のいう現代思想的な観点からすると、近代資本主義社会の一つの特徴として家族・学校・社会といった回路を通して、主体を単一の価値体系に固定していくことが挙げられる。これが本書における「パラノ人間」の生成過程だ。一方で「大きな物語」が凋落したポストモダンにおいては、一つの価値尺度しか持ちえない「パラノ人間」の「蓄積に次ぐ蓄積」に大きな弊害が生じてくるため、多様な価値体系に共時的にアクセスしていく「スキゾ人間」が台頭してくる。浅田の論には新人類という語こそ登場しないものの、先の吉成の分析にあった「次のところへポーンとジャンプしていく」精神性と「スキゾ人間」の特徴はほぼ完全に合致しているといえるだろう。

 また浅田は「スキゾ・カルチャー」の典型例として、西武PARCO/『ビックリハウス』的なもの―都市を記号化する「広告」の論理を挙げており、浅田の論を要約すると「広告」は「差異」を再生産し続ける運動性―「スキゾ」的な運動性を持っているということだ。新人類論はかなりの割合で、都市の「広告」文化を「差異」の象徴として捉えている。その点で浅田も「パラノ」/「スキゾ」という独自の概念を用いつつ、一方で新人類論の基本的なフォーマットには則っていると言えるだろう。

 さらに何より浅田の議論が従来的な「若者語り」になかった点と言えば、「浅田自身が新人類世代だった」というある種の入れ子構造になっていたことだ。デビュー作『構造と力』でニューアカブーム、つまり新人類カルチャーを牽引する他方、同世代論を展開した点において、浅田は当事者としての若者でありつつも、当時の「若者語り」を構成した稀有な人物だった。

 浅田は「差異」という語を多用するが、これは浅田に限った話ではなく、というのも当時の若者論においては、新人類たちの文化消費の形態を「差異化」の欲望のあらわれとして捉える言説が主流だった。ここでの「差異化」というのは、全共闘時代の若者論で盛んに唱えられた「離脱」の形式(「我々」/「既存文化」の差異化)ではなく、より身近な他者に対する「差異化」(「わたし」/「あなた」の差異化)を意味する。こうした言説に大きな影響を与えていたと思われるのが、当時流行したポストモダン論、とりわけフランスの思想家ジャン・ボードリヤールによる「消費社会論」だ。以下のところで簡単にその理論枠組みを紹介しよう。

 ボードリヤールによると発展途上の産業社会においては、モノの価値がその「機能」によって決定されていた。例えば「容量の大きいカバン」と「容量の小さいカバン」では―その「持ち易さ」が同じ場合であれば―前者の場合が相対的に「価値がある」ということになる。しかし、高度な発展を遂げ円熟化した産業社会において、大量生産されたモノが氾濫してくるようになると、その価値は「機能」ではなく「記号」性に依存するようになる。先の例で言えば「容量が大きいカバン」が「持ち易さ」まで兼ね備えていたとしても、多くの人が「持ちにくく」「容量も小さい」が「ブランド商品」であるカバンに価値を見出すということだ。すなわち後期産業社会では、モノを持つことそれ自体に意味が付加される=記号的価値が消費されるようになるのである(Baudrillard [1968])。

 ボードリヤールはこうした記号的消費がされる社会を消費社会と定義しているが、この消費社会のロジックは、新人類たちの文化を記号化された価値体系による「差異化」の所作として捉えるために極めて機能的だった。

例えば経済学者の星野克美は『消費の記号論』の中で、先のボードリヤールを引用しつつ機能的消費=“ケ”・日常的消費/記号的消費=“ハレ”・祝祭的消費という対置をした上で、当時の日本社会の状況は後者の消費形態が強くなっていると分析している(星野 [1985])。星野は時代の消費社会化によって記号化がモノのブランドネームやデザインや広告だけではなく、性能と機能にまで逆説的に作用していると論じているが、その議論が特徴的だったのは記号化―祝祭化が物的消費の領域に止まらず、より広範囲の文化にまで影響を与えていると分析しているところだろう。その一例として記号的消費が人間欲望にまで与える影響についての論述では、記号的消費によって秩序や規範からの逸脱現象―すなわち無礼講的な意味での「祝祭」が日常化してしまうと指摘している。具体例としては80年代に最盛期を迎えたとされる「タケノコ族」や、同じく原宿ホコ天に集まる若者たちが該当する。さらに星野は「祝祭」現象を「おもしろ文化」と定義した上で、お笑いブームや、コピーブームの牽引者(前者はタモリやビートたけし、後者は糸井重里や川崎徹)を「おもしろ文化」のリーダーとして挙げている。

 他に若者文化における「記号」や「差異化」に注目した代表的な論者として中野收がいる。中野といえば70年代後半の時点で若者を関係性論的に分析した「カプセル人間論」があるが、80年代に入ってから『新人類語』(1986)、『会社に異星人がやって来た―新人類現象を読む』(1987)、『若者文化述語集』(1987)といった具合に立て続けに新人類論を発表しており、それらの著作で「ブランド志向」「女子大生ブーム」「パロディ」「広告」といった当時の若者文化を領域横断的に分析しつつ、その底流にある新人類世代の特性を捉えようと試みている。そうした「新人類もの」の一つである『まるで異星人―現代若者考』において、中野は現代若者の特殊性を60年代の学生運動期を始発とする連続性の中で分析している(中野[1985])。中野によると学生運動における「連帯」とは、思想や理想のためのインストゥメンタルなものではなく、個々人の倫理意識や美意識といったコンサマトリー的なものへの固執の「結果」であり、70年代前半期に見られたこうした自意識のかたちが、80年代においては消費社会やマスメディアと強く結託してユースカルチャーの中に顕在化している。中野はこうした自意識への固執をナルシスと呼称した上で、その対概念として浅田の「スキゾ」を援用している。また、中野による新人類論が他のものと異なる点は、新人類(本書では「異星人」)の多くに先のナルシスと「スキゾ」の両側面を内在していると分析した上で、ナルシスと「スキゾ」の両性質を「かつてあったあらゆる社会・文化的な人間類型とも異なる若者たちのたたずまい」―「カプセル人間」的としたところだ。

2節で紹介した通り「カプセル人間」は、内的世界/外的社会を遮断するカプセルに籠る一方で、コンテンツ的な意味での同質のカプセル(先の例では深夜ラジオを挙げた)に籠ることで「結果的」に「連帯」がなされる特性を持っていた。先にも述べたように、60年代の学生運動に垣間見られるコンサマトリーな意識及びそれに基づく「連帯」は、80年代におけるサブカルチャーとの共犯関係の中で多くのカプセルを量産した。

しかし、中野に言わせれば単一の価値尺度による単一のカプセルへの固執(「パラノ」)も、多様なカプセルを縦横断していく「スキゾ」的メンタルも、カプセルにアクセスしている点では同様に「カプセル人間」なのだ。

 こうした80年代の消費社会化現象と若者の相関性―消費と「差異化」―を振り返って、後に浅野智彦は以下のようにまとめている[2]。

 自分を選ぶという営みが消費という形式をとることによって誰にでもできるようになる。これが80年代におこったことである。あるいはこういってもよい。消費とこのような形で結びつくことではじめて自分らしさは多くの人々によって追及されるべきものと昇格したのである、と。[浅野智彦『「若者」とは誰か? アイデンティティの30年』2013:60]

 つまり、70年代前半期において既存文化への「離脱」によって可能とされていたアイデンティティの確立が、80年代に入り消費(社会)を触媒として実現されるようになった結果、自己のイメージが「自然で所与のもの」から「選択可能で自分で作り出すもの」に変容したということである。先の浅田の語を借りれば、確固たる自己―「パラノ」から、アタッチメント式の自己―「スキゾ」的変容とも言えるのかもしれない。

浅野の指摘は実際のユースカルチャーの変化を見るにリアリティがあるものではあるが、これもまた若者論という観察点を経由しているため、本論では全面的には肯定できない。またしかし、ここで肝心なのは若者のアイデンティティが実際に「選択可能で自分で作り出すもの」に変化したか否かの真理性は決定できないが、少なくとも80年代以降の「若者語り」における捉え方がその種のものに変化したのは確かである、ということだ。

次節以降で詳しく確認していくことになるだろうが、例えば東浩紀の「データベース化」(東 [2001])や土井隆義の「外キャラ/内キャラ」(土井 [2009])、宇野常寛による「断片型キャラクター的実存」(宇野 [2010])といった諸概念に端的に窺えるよう、いずれも時の若者から「多元的自己(アイデンティティ)」の性質を読み取っている。

 1章で述べた通り「離脱」の形式に注目する若者論のパースペクティブは「若者」自体の変化か、「若者語り」における受容の方法が変わったのか、あるいはそれらの複合的要因によってか、80年代でほぼ完全に瓦解する。

そして次なる「若者語り」の視座として登場するのが、若者のコミュニケーションに着目する言説である。新人類世代に関する「若者語り」は「若者」を既存文化から「離脱」する存在として捉えていない点で、70年代の「若者語り」とは一線を画すものであった。しかし、その着目点は「若者」の(多元的な)アイデンティティについてであり、今日的な「若者語り」における関係性論的な視座が全面的だったとはいえない。「若者語り」が関係性論的な論調に移行するのは次節で見ていく「おたく論」からであり、ここが「若者語り」における一つのエポックとなっている。

[1]吉成真由美 1975 『新人類の誕生―「トランスポゾン世代」は何を考えているか』

[2]浅野智彦 2013 『「若者」とは誰か?―アイデンティティの30年』

 

 

4節 80年代編その②

1項 「情報新人類論」

 前節では80年代のユースカルチャーを牽引した新人類世代についての言説を紹介してきた。よくいわれるよう新人類世代にはここまで見てきたものとはまた異なる性質をもっているとされる世代が含まれている。後に第二次おたく世代と呼称されることになる彼らがそれである。がしかし、本節で見ていくように「88年まで」は新人類/おたくの差異は―「ネアカ」/「ネクラ」といった人格型の対比がされつつも―明確に顕在化してはいなかった。そのため、まずここでは同じ年代に登場したはずの両者の概念が分化していくプロセスの考察を行いたい。

 新人類のスキゾチックな文化消費形態―アイデンティティの多元性についての分析は先に紹介したが、こうした視角と並行して、新人類の親メディア性に注目した「情報新人類論」が展開されている。80年代期にはテクノロジーの進化に伴い、ウォークマン、コンピューター、家庭用ゲーム機などといった(ここでは広義の)ニューメディアが日常風景の中に見られるようになった。こうした諸メディアと若者を関連付けた言説が「情報新人類論」だ[1]。

例えば、前節で参照した中野収は新人類の消費文化を分析した他方、ニューメディア的なツールを利用する若者についても同様に「カプセル人間論」の枠組みの中で言及している(中野[1975-1989])。「カプセル人間」については再三になるのでここでは解説を省くが、中野が例に挙げるような「ウォークマンともに街を歩く若者」―「カプセル人間」はまさしく情報化社会を「若者語り」の文脈から分析した「情報新人類論」の好例と言えるだろう。ここまでで確認してきたように、中野はこうした視座を遅くとも75年時点で展開していた点で、関係性論の先駆的な存在だったのと同時に、「情報新人類論」においても先見の明があったといえるだろう。

 稲増龍夫は当時の若者が高度なメディアリテラシーを獲得していることを分析している。稲増によると当時の若者は従来とは異なる形式のテレビ視聴をしており、これまでの視聴形態が「送り手(テレビ)のメッセージを受け手(視聴者)が誤解や齟齬なく理解する」ものだったのに対し、80年代の若者は「送り手のメッセージを、受け手はより積極的にその情報を活用することを志向し、結果的に送り手の予期しないメッセージを読み取ってしまう」(稲増 [1985])。さらにこうした新しい記号解読の在り方を①「おもしろがり」―一見「つまらない」ものでも、その中に(送り手の意図とは別の)「おもしろさ」を探す②「受け手による送り手の意図の分析」―メッセージの意味内容ではなく、その送り手の意図を読み取ろうとするメタな視線③「送り手の意図を超えた解釈コードの創造」―送り手の隠された意図すら超えて、自らが楽しむためのコードを創造してしまうのだという。

 稲増が従来型メディアへの対応形式の変化を分析したのに対し、野田正彰は『コンピューター新人類の研究』の中でコンピューターや家庭用ゲーム機といったニューメディアの流行という切り口から新人類論を展開した([野田 1985])。

野田はコンピューターにある種マニア的に没頭する若者達の共通項として、乳児期から幼児期にかけて「身体を動かすことの喜び」「ほてった皮膚が外界と呼吸し合うことの喜び」「身体を動かすことによって親や友達と感情を交換する喜び」といった肉体的・感情的な幸福感を享受してこなかったということを挙げており、またそうした背景からコンピューター新人類たちが社会的想像力を欠き、思考との世界に「マニア的に埋没」することで、思春期や青年期といったエリクソン的な意味での社会化の発達課題を失っていると分析している。その結果としてコンピューター新人類たちの社会は一人ひとりが明るく見えるようでも、上から俯瞰すると「ムラムラ(斑々)」「ブツブツ(粒々)」といった連帯なき社会性を構成している。

 ここまででいくつかの代表的な「情報新人類論」を紹介した。新人類世代を対象とした「若者語り」の視角は、前節で見てきた消費社会を前提とした言説と、本節で紹介した情報化社会を前提とした言説の二つに分けることが可能だと言える。しかし、留意しておきたいのが先にも述べたように、中野が両者を同じく「カプセル人間」としたことからも、当時の若者論者たちは必ずしもその差異に自覚的だったわけではなく、「消費新人類」と「情報新人類」の差異はあくまで事後的に確認されたものであるということだ。

2項 新人類世代の影―「おたく論」

 守弘仁志によると、上記のような「情報新人類論」は比較的肯定的な文脈で語られていたが、89年の東京埼玉連続幼女殺人事件(別名M事件)を契機に否定的評価が全面化するという[2]。

 このような「情報新人類論」の肯定的評価と否定的評価を決定的に逆転させたのはなんといっても1989年の「連続幼女殺害事件」のM被告であろう。[中略] 特に、すき間もないほどにビデオとコミックが山積したM被告の個室の写真は社会に対して強い“刷り込み”を行ってしまった。当時のジャーナリズムの論調は、「ビデオやコミックなどのメディアに日々接していたこと」が対人関係の希薄化である「友達づきあいがあまりないこと」、さらに「メディアのなかの空想の世界と生身の人間の存在する現実の社会との混乱」を生み、その結果「虚構のホラー映画と同じように現実の人間を殺害した」という単純な解釈にほぼ終始した(守弘 [1993:16])。

 1989年7月23日、青年Mは児童に対するわいせつ事件を起こしているところを被害者の父親に取り押さえられ、そのまま現行犯逮捕となった。取り調べの中でMが過去に児童を誘拐し、殺害していたことが徐々に明るみになっていき、8月10日に供述通りの場所から被害者遺体が発見されたのを皮切りに、その日の夕方から実名報道がされるようになっていく。

 各紙を参照してみると、「孤独に潜む異常さ」「友はアニメ、ビデオ」「付き合い避け無口」(89年8月11日朝日新聞朝刊)、「少ない友人、暗く不気味な印象」(同日読売新聞朝刊)、「孤独の果て」「めだたず友人もなし」(8月12日読売新聞朝刊)、「1人の世界、ゆがむ空想」「友はビデオ4500本」(8月14日朝日新聞朝刊)といった具合に、Mの人格や人間関係について言及したものが目立つ。

そして当時のマスメディア最大の罪過は、Mの異常性・特殊性を当時の若者の社会的性格として本質化してしまったことだろう。先の守弘が指摘しているように、Mの部屋にあった山積したビデオや漫画をカメラで写し、Mをあたかもおたくの代表であるかのような印象を世間に流布してしまった。翌年のコミックマーケットの報道で「ここに10万人の○×(Mの実名)がいます」とコメントした逸話も有名である[3]。そうした言説の中で「現実と虚構の区別がつかない青少年」像が形成されていき、この捉え方は以後続いていく。本事件を受けて90年秋に和歌山県田辺市の主婦が性描写を含む青年向けコミックを持ちこんだことに端を発するポルノコミック追放運動はまたたく間に全国に広がり、「有害図書狩り」なるものは教育系の「良識」ある人々を中心として今日に至るまで繰り返されていることからもこの事実を端的に確認できるだろう。

 では、そもそもおたく言われる人種はどのような特徴を持っていたのだろうか。ここでは最初に「おたく」という概念を用いたとされる中森明夫による『漫画ブリッコ』での記述を以下で参照する。

 …栄養のゆき届いていないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に食い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでいたりするんだよね。ふだんはクラスの片隅でさあ、目立たなく暗い目をしてて、友達の1人もいない [中略] 考えてみれば、マンガファンとかコミケに限らずいるよね、アニメ映画の公開前日に並んで待つ奴、ブルートレインをご自慢のカメラに収めようと線路で轢き殺されそうになる奴、本棚にビシーッとSFマガジンのバックナンバーと早川銀背のSFシリーズが並んでる奴とか、マイコンショップでたむろっている牛乳ビン底メガネの理系少年、アイドルタレントのサイン会に朝早くから行って場所を確保してる奴、有名進学塾に通って勉強取ったら単にイワシ目になっちゃうオドオドした態度のボク…[「漫画ブリッコ6月号」1983]

 中森は明確におたくを揶揄する意図を持ってこのコラムを連載したため、上記の通りかなりアイロニカルな形容になっているが、「目立たなく暗い目をしてて」「友達の1人もいない」「本棚にビシーッとSFマガジンのバックナンバーと早川銀背のSFシリーズが並んでる」といった記述は、一見すると報道の中のMの特徴と完全に合致する。中森のM事件に対する見解は一旦ここでは留保しておくとして、ともかく、こうした89年に「内向的でメディアと1人遊びをする人種」=「おたく」=「M」といった図式がマスメディアによって世間に共有され、犯罪者予備軍としてのおたく叩きが加速したのは確かだ。

 ジャーナリストの松谷創一郎によると、こうした人格型の前身を80年代前半期ごろから使われる「ネクラ」「ガリ勉」「ハカセ」といった語の中に見ることができるとしており[4]、後に社会学者の宮台真司がおたくの原型を「擬似新人類」「ネクラ的ラガード」にあったとした見解と親和性がある分析を行っている(宮台 [1993])。松谷や宮台の議論を見るに、80年代における新人類文化の台頭に伴って―「新人類」を「光」とするなら―その「影」の部分である「若者なるもの」が形成されていったようである。つまり89年の連続幼女殺人事件が、新人類/おたくを(認識の上で)分化させたエポックメイキングな事件であったということである。

 先におたく論以降で「若者語り」における関係性論的な視座が全面化していくとした。以下のところでその例を見てみよう。

中島梓は『コミュニケーション不全症候群』の中で、現代における典型的な精神の症状―「コミュニケーション不全症候群」を以下のように定義した上で、おたくについて言及している。

1,他人のことが考えられない。つまり想像力の欠如。

2,知り合いになるとそれがまったく変わってしまう。つまり自分の視野に入ってくる人間しか、「人間」として認められない。

3,さまざまな不適応な形があるが、基本的にそれはすべて人間関係に対する適応嘉定ないし適応不能、つまり岸田秀のいうところの対人知覚障碍として発言する。(中島 [1991:28])

 中島によれば、おたく達は互いを「お宅」と呼称することによって、君や僕といった個人的な関係を避け、「コミュニケーション不全症候群」を合理的に選択することによって現代社会の特性に適応している。また中島は「お宅」という語の含意として「自分の家からの呼びかけ」があるとしており、おたくは精神的な意味での「家」―アニメビデオや話題の本が詰まった「紙袋」に「自分」を入れて持ち運び、時には別の「お宅」とそれを相互共有しているとした。つまり中島によるおたくとは「お宅」と呼び合う関係性の中でミニマムな社会を形成し、それによって従来的なムラ型社会から距離を置く「コミュニケーション不全症候群」の時代を象徴する人種なのである。

 奇しくも中島に先だって批評家の大塚英志も「家」という象徴的な表現でおたくのメンタリティを論じていた。大塚は80年代に入って市場に溢れるようになったサブカルチャー・カウンターカルチャーをアジールとしての「家」とした上で、おたく達はそうしたできあいの「家」の一つに、ある意味で「器用にアクセスしてうまくやった」存在として書かれている。大塚の指摘が興味深いのは、おたくにすらなれなかった、つまり「家」にアクセスできなかった若者について言及している点だ(大塚 [1990])。大塚によると90年に千葉県船橋市のデパート屋上から投身自殺をしたカップルや、89年の女子高生コンクリート殺人事件の加害者少年達、そして先のMがそれに該当しており、そして「(「家」にコミットできなかった)彼らが今度は<おたく>にかわる新たな蔑称で呼ばれる日が必ず来るはずである」という予見を立てて文章をとじている。系譜を追っていくと大塚のこの予見が的中することが判明するが、その詳細はここでは控えておくことにしよう[5]。

 他に90年代に若者研究の文脈で「おたく」をピックアップした代表的な論客として、社会学者の宮台真司がいる。特に宮台の代表著作の一つである『サブカルチャー神話解体』は、以降のサブカル批評の土壌を作った記念碑的な著作といえるだろう。

宮台の議論が特徴的だったのは、新人類とおたくが発生する段階においては、その母胎を共通のものとして捉えている点だ(宮台 [1993])。宮台によれば、新人類世代の内部には「真性新人類」と「擬似新人類」がいて、前者が「対人スキル」が優れた「明るい」「センスエリート」だったのに対し、後者は「対人スキル」を欠いた「暗くて」「ダサい」人々だった。結果的に「擬似新人類」たちは、おたく系のメディアが「ついていけない人間」に対する「救済コード」として機能していくことによって、新人類と分化していくことになる。つまり「対人スキル」の優劣によって、新人類(あるいは新人類文化)とおたく(あるいはおたく文化)が形成された、というのが宮台の見立てである。ここで留意しておきたいのが、宮台がおたく達の「対人スキル」の乏しさを指摘する他方で、仲間内でのコミュニケーションはむしろ内密なものだったと論じている点だ。島宇宙内でのおたく達は、先の中島の語を借用すれば「自分の視野に入ってくる」「人間」であり、「救済コード」としてのおたく文化を共有する仲間だった。

 宮台も中島同様、おたくの相互行為を「仲間(「家」)内での(過剰なまでの)親密なコミュニケーション/仲間以外に対する排他的・内向的なコミュニケーション」という二面性から分析していたと解釈できるだろう。

 おたくに言及した彼らの論調を見るに、当時のマスメディアが「おたく叩き」に熱を出したのに対し、一概におたくを否定的な存在としては捉えていないことが共通しており、大塚などは先の中森と共にMを擁護する論陣を張ったことでも有名である。また、この事件以降のところでは「若者語り」の内部で、「若者を叩く」論調と「若者を擁護する」論調の二極化が顕著なものになっていく。

3項 否定的若者像のおこり

 おたくの文脈から離れてみると、80年年代後半あたりから特殊性・異常性を持った青少年犯罪の犯人の人格を若者の周辺の社会性に関連付けて報道する傾向が多く見られるようになっていくようになり、連続幼女殺人事件に先だって起きた前年88年の綾瀬母子殺害事件、89年1月に発覚した女子高生コンクリート詰め殺人事件の報道にこうした傾向を窺うことができる。特にこの両者の場合では「家庭環境の問題」に関連付けた言説が主流で、89年に放映された綾瀬母子殺害事件と女子高生コンクリ殺人事件を扱ったドキュメント番組では、執拗なまでに犯人家庭の近隣住民にインタビューを行っており、当該家庭の「噂」を中心的に探ろうとしていた。

 「家庭環境の問題」に着目したのは先の連続幼女殺人事件も同様で、89年10月号の『現代』の中には、Mの両親仲が険悪であったことを示した上で、「外に対しては、気さくで社交的で如才なさそうな夫と腰の低い一途な妻。家のなかでは、陰悪な夫婦仲。表と裏、内と裏の乖離と分裂が、○×(Mの実名)の身近にはあった。」といった記述を見ることができる。

こうしたマスメディアのあり方は世論にも多大な影響を与えていると考えられ、89年に内閣広報室が行った調査によると、「最近は家庭のしつけや教育する力が低下している」という質問に「全くその通りだと思う」「ある程度そう思う」と回答した者が全体の63.3%となっている。また、「若者語り」の文脈から若干離れるが、この頃から「凶悪犯罪の増加」が世間で問題視されるようになってくる。内閣府が89年に実施した調査では「人殺しなどの凶悪な犯罪は4、5年前に比べて増えていると思うか」という質問に対し、「増えている」と答えた者は「減っている」と答えた0.7%に対して90.8%と圧倒的に多いが、統計データ的に見ればこれは明らかな「誤解」で、89年の時点でも凶悪犯罪(殺人、強盗、強姦、放火)は年々減少傾向にある。

一連の否定的な「若者語り」と本稿で取り上げたM事件をめぐる見解を比較してみると、中野=大塚=宮台の議論では「仲間(「家」)内での(過剰なまでの)親密なコミュニケーション/仲間以外に対する排他的・内向的なコミュニケーション」の二つの側面をおたくの中に見ていたのに対して、マスメディアを中心とした「若者語り」ではM=「おたく」=「他者に対して内向的・排他的」という片側面でしか捉えていないことがわかる。こうした「若者語り」内部での見解の対立は以降のところでさらに顕著なものとなってくるが、それは89年の「おたく叩き」ないしは上記のような少年犯罪の「語り」あたりから始まったものであるといえるだろう。

[1]この「情報論新人類」という語は当時から一般的に使われていたものではなく、ここでの用法は本稿でも参照している守弘の小論に拠る。

[2]守弘仁志 1993 「情報新人類論の考察」小谷敏編著『若者論を読む』掲載

[3]この報道は実際のものではないとする説もあり、当時のニュース番組を探してみても該当する報道はないとの指摘が度々されている。しかし事実か否かに関わらず、こうした逸話が広く共有されたこと自体が肝心なのであり、本稿ではその真偽性については深く掘り下げないでおく。

[4]松谷創一郎 2008 『<オタク問題>の四半世紀』

[5]本章7節参照。

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