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Foucault,Michel 1976→1986 『知への意志―性の歴史Ⅰ』

http://www.amazon.co.jp/知への意志―性の歴史Ⅰ

 

第1章 我らヴィクトリア朝の人間

 

第2章 抑圧の仮説

  1 言説の扇動

  2 倒錯の確立

 

第3章 性の科学

 

第4章 性的欲望の装置

  1 目的

  2 方法

  3 領域

  4 時代区分

 

第5章 死に対する権利と性に対する権利

 

 

 

 本書は後期フーコーの主著に数えられる一冊である。前期のフーコーは師であるアリエスにならい、日常生活において存在論的に自明視される概念が、実は社会的な態度や因習によって構成されている事実を「概念史の遡行」によって明らかにする研究スタイルをとっていた。これを歴史の事実関係を単に整理する歴史学と対比し、フーコーが「知の考古学(archeologie)」と呼んでいたのも周知の事実だろう。

 前期フーコーがこのようにどちらかといえば正統な分析的視点から研究をしていたのに対し、後期のフーコーはセクシュアリティに関する政治的提言を志向した主張を行うようになる。本書を含めた一連の著作群(『快楽の活用』と『自己への配慮』)が同様の関心に基づいて書かれていること、何よりフーコー自身がセクシャルマイノリティだったことからも主張の変遷は必然だったといえよう。

 フーコーによれば「言説(discourse)」とは権力を内包しており、我々の生活実践という回路を通して、日常生活に網の目上の権力を張りめぐらせている。従来的に権力はヒエラルキー的構造関係から論じられてきたが、フーコーに従えば、もはやそうしたモデルからは把握することはできない。そうではなく権力とは、日常の自明性の中に潜み知らず知らずのうちに主体を抑圧する圧力として捉えられなければならないというわけだ。後期フーコーにおける基礎概念の敷衍はこのくらいにして、本書の内容を見てみよう。

 

 フーコーによれば17世紀ヴィクトリア朝において、性の扱いは大きく変化したという。17世紀当初、性は「孔雀が羽を広げるような」率直さによって、解放的に捉えられていた。しかし、貴族の凋落と共にブルジョワジーが台頭するようになると、夫婦の営み、すなわち生殖を目的とした性行為以外の性的実践は全て排除の対象となってしまった。さらに18世紀に入って産業革命が起こり本格的な近代化が進行していくにつれ、性は秘匿としてのみならず抑圧の対象としても見なされるようになっていった。そして最終的には今日的な「抑圧の仮説による性の排除」とされる状況にまで至った。つまり権力関係を内包する言説によって、性が抑圧されているというのがフーコーの基本的な時代分析である。さらにフーコーによれば、今日における性に関する言説は以下の3つに類型化できるという。

(1)性についての真理を問うこと(科学)

 

(2)性についてのエコノミーを変更すること(経済)

 

(3)性についての法の支配を転覆させること(法)

 こうした様々な形態をとって日常生活を侵食していくことも、現代的権力の特徴であるといえよう。

 

 しかしフーコーは上述の「抑圧の仮説」には与しない。それどころか得意の系譜学的アプローチによって、その虚構性を看破するとまで1章では宣言している。ポストモダニズムの代表的論者であるドゥルーズは、フーコーを「ニーチェ主義者」と評しているが、確かに両者は権力の恣意性を歴史に注目することによって看破する点において共通しているといえよう。そもそも本書のタイトルがニーチェの『善悪の彼岸』からの引用を元にしていることもよく知られた話である。ともかく本書のフーコーは「抑圧の仮説」なるものが存在することをまず明らかにし、徹底的にそれに反駁を挑んでいくことになる。

 

 例えば続く2章では歴史的に見ると、性に関する言説が抑圧と同時に扇動されていた事実が明かされる。17世紀以降、性の言説は先述の通り科学や法、経済や教育といった諸領域において拡張され続けており、ゆえにその分量も増大している。「扇動されている」という表現は、まさにこの事態を指し示している。しかし性に関する言説の増大に伴い、「倒錯の確立」と呼ばれる状況も同時に進行しており、「正統な性(ヘテロの生殖)/周縁化される性(ホモセクシャル、ペドフィリアなど)」が区別され、後者が徹底的に排除されていったという。さらに問題の根が深いのは、この「抑圧」と「拡張」は表裏一体のコインのようなものであり、循環的構造を有している点である。すなわち、言説によって性が抑圧されると、その抑圧による剰余が快楽を生み出し、結果的に性の言説が拡張されていくことになるのである。現代の科学哲学においてフーコーの正統な後継者と見なされるハッキングは、「ループ効果(roping effect)」という概念を用いて「科学的実践」と「日常的実践」の循環構造を説明したが、ハッキングのいう「科学的実践」をフーコーの「抑圧の仮説」として把握するのであれば、性言説の「倒錯」とはまさにこの「ループ効果」によるものだと見なされるべきだろう。

 そしてこうした「倒錯」の構造(ループ効果)は明らかに不自然な循環によって構成されたものであり、それによって生じる「抑圧の仮説」は支持するわけにはいかないとフーコーは結論付ける。

 

 続く3章ではセクシャリティの言説化が顕著に伺える「性の科学」について論じられる。フロイトらの精神分析がそうであるように、「性の科学」とは未分化で茫漠としているセクシャリティを、法や政治といった象徴的秩序へ変換してしまう力である。またこの変換先である法と政治もそれぞれ4・5章の主題となっている。論点が多岐に渡るため全てを網羅するようなことはしないが、後期フーコーにおける主要概念の一つ「生-権力(bio politics)」がここで考察されていることは特筆に価するだろう。

 西洋の歴史において、権力は常に死をコントロールしてきた。例えば中世における死刑制度は、階層的権力が「死」を諸個人に命じていると表現できるだろう。しかし19世紀以降で転換が起こり、権力はむしろ「生」に注目するように変化する。具体的には「身体の規律化」と「人口統制」が制度的実践として発現する。両者は相互補完的な関係にあり、例えば性教育の文脈においては、人工統制の観点から諸個人に身体の規律化(不用意な性交の禁止など)を啓発されるのに対し、倒錯の医学においては身体の規律化を根拠として、人口統制について論じられることになるという。このように現代社会における政治が潜在的には生-権力として機能しているという事実は驚くに値する。そしてフーコーはここでもやはり権力の言説化に対して警笛を鳴らしている。

 

 いささか駆け足になったが本書におけるフーコーの主張の要点は以上の通りだ。最後に批判点を検討して終わろう。すでに見たとおり、フーコーの主張は「抑圧の仮説」が歴史的に見れば恣意的に構成されたものであり、ゆえに「仮説」(とそれに基づく日常的実践)は虚構であると論証している。しかしながら仮にある言説が社会構成物だとわかったところで、それを完全に虚構であるとし、日常世界から退けることは本当に妥当な判断なのだろうか。

言説は観念論的領域に位置づけられるため、その客観実在性を疑うことはできるだろうし、系譜学的に考察すればそれが様々な変遷を遂げていることも明らかにできるだろう。しかしながら、日常的実践者にとって言説とは共同主観的な事物であり、いわば自明である。このように日常的実践者によって信じられている観念を、フーコーがするように「虚構」と断言してしまうのはいささか議論が性急であるように思える。言説とは単に観念であって、それが客観的物象として存在しないとはいえ、全て嘘っぱちであるとは言い切れないということだ。換言すれば「抑圧の仮説」は唯物論的には存在しないが、観念論的には確かに存在する。

先述のハッキングはこうした存在論的レヴェルの混同を避けるため、「対象」と「観念」の区別を設けている。「対象」とは客観的実在性をそれ以上疑いきれない、いわばモノを意味しており「クォーツ」や「物理法則」「マリファナの成分」などがこれに該当する。少し乱暴な解釈ではあるが、自然科学における考察対象と捉えることもできるだろう。他方の「観念」とは「対象」の表象部分であり、成員によって議論が交わされたり、考察・検討されたり、時には疑念の眼差しが向けられたりする、文字通り観念論的な領域である。ハッキングはこの区別に基づいて、社会構成主義は後者の「観念」にのみ限定して、論を展開すべきだと結論付けている。すなわち存在の正当性への問いは不要であり、いかにして「観念」が構成されていくかが議論の鍵である。その点でハッキングは後期フーコーよりも、前期フーコーのアプローチに価値を見出していると考えることができる。事実、『記憶を書きかえる』の冒頭では、自らのアプローチを「知の考古学」に近いものであるとハッキングは主張していた。

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