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●ウィル・キムリッカ 1995 『多文化時代の市民権―マイノリティの権利と自由主義』

 まず本の紹介に入る前に僕(達)にはすべきことがある。特に早稲田大生の政治哲学専攻者は地に頭を擦り付けながら、カナダの方を向いて謝辞を述べよう。糞にわかの僕を含む多くの政治哲学やっている人(早稲田では絶対にこれ読むって先生が言っていた)は、現代政治哲学の門を叩いたときに、キムリッカ先生の『新版 現代政治理論』を読んだはずだ。目次や引用文献、father readingを抜いても600頁あるというこの大著はしかし、非常に平易な言葉でわかりやすくロールズ以後の政治哲学を整理してくれている。なにより今回の読書マラソンを作るうえでもけっこう参考にさせてもらっている。論者について詳しくまとまっているわけじゃないけど、諸立場が抱える問題や、これまでの論争についての整理が簡潔に整理されているんだ。君が何を思ってここまで読んだのかは知らないけど、政治哲学やりたいんなら、まずは書店に行くか、Amazonを開いてこれと有斐閣アルマの『現代政治理論』(偶然か必然かキムリッカの本と同名なんだ)を買おう。無料であること以外を除けば、向こうの方が少なくとも入門書としては9999倍くらい優れているから。謝辞という謝辞が思い浮かばなかったので宣伝しといた。売り上げに貢献できる可能性があるだけで十分やろ。蛇足ついでに言っておくと、この人は今回とりあげないけどジョナサン・ヴォルフっていう政治哲学者と共にジェラルド・コーエン(コーエン師匠は分析的マルクス主義で紹介するつもり)に師事していた過去がある。だからってどういうわけでもないけど、こういう感じで学問が脈々と受け継がれていくのは傍から見ていても悪い気はしないよね。……本題入ろっか。

 

 さっきまでリベナショ云々って語っていて、ミラーとキムリッカを対置するねらいがあったのだけれども、この本実はリベラル・ナショナリズムが主題かといえば微妙なんよね。いや、キムリッカ自身は確かにリベラリズムの論者だし、リベナショにもカウントされる。だけど、この本で取り上げているのは、現代的な自由主義国家とエスニシティの権利的対立についてなんだよな。だからミラーとの関連でいえば、エスニック集団のうち特にネーションの主張する政治的権利と、リベラルな自由を掲げる国家の権力をどのように調整していくか、ということがこの本では問題となっている。まぁ頑張って最終的には対置できるようまとめていくけどね。

 ミラーのところにも書いたけど、エスニシティを全面に出した政治的主張はかなり危険だ。いわゆる原理主義の一部は民族的アイデンティティに至上の価値を認めているわけだし、そうでなくともミラーが批判するようなヤングやコノリーのような理論家もいた。そういう相手を本書の仮想敵として(おそらく)見定めている点では、むしろキムリッカとミラーは志を同じにしていると言ってもいいかもしれない。

 ただ他方で、国家の成員資格としてのシティズンシップを提供する際、いかなるエスニック集団も、当該国家のアイデンティティにのみ染まっていなければならないというようなリベラリズムのあり方もキムリッカは本書で批判している。そうしたリベラリズムというのは、端的にいえば多文化主義に対応できていないというわけだ。

 つまり極力中立公平な立場から、リベラルな国家と多様なエスニシティの関係を模索していくというのがキムリッカのねらいである。だからリベラリズム批判も本書の射程には含まれているというわけだ。そこがミラーとは一線を画すところかな。あちらは、ナショナリティの擁護がリベラリズムに到達する、という考えだったからね。ともかく、その前準備として、キムリッカはエスニック集団が要求してくるとされる権利を3類型から整理する。それが以下の3つだ。ここはけっこう重要だよ。

①自治権(民族的マイノリティへの権限委譲)

②エスニック文化権(エスニシティや宗教と結びついた文化の制度的保護)

③特別代表権(エスニック集団の代表による国家の政治への参加)

 

 キムリッカはこれらの3つのことを「集団的権利(collective rights)」と呼んだ上で、こうした(従来的には対立してきた)集団的権利と個人的権利が必ずしも衝突を起こさないということを明らかにする。というのも、上記のような集団的権利は対外的防御(文化的保護など)/対内的制約(アーミッシュの16歳からの就業義務など)に区別され、リベラルが個人的権利保護の観点上目の仇にしてきたのは、後者の民族内部での集団的権利のみだったからである。そしてキムリッカはこうした整理の後に、歴史的背景や文化的機能などを豊富な事例から検討していき、リベラリズムの一形態とエスニック集団による前述の集団的権利の両方をうまく折衷しながら同時に擁護していく。リベラリズム的シティズンシップと民族主義的エスニシティの両立、本書のテーマは一貫している。

 ここまで読んで「なるほろ~」って思っているようじゃ、変な壷とか高額で買わされちゃうから注意な。確かに本書の目的ははっきりしているし、豊富な具体的事例から思弁的な議論につなげていく姿勢はストンと頭に落ちてくる。でも、そもそもとしてなぜリベラリズムとエスニック集団の権利が両立されるべきなのか、という問いが出てきていない。もっといえば、エスニック集団の権利の擁護はまだよしとしても、ここでの政治体制がそもそもなぜリベラリズムなのか、という議論が端折られているのが僕は気になったかな。これはミラーの冒頭で述べたことに結局はつながるのだけど、「ナショナリティの擁護→リベラリズムへのコンシークエンス」(ミラー)というのは腑に落ちるが、「リベラリズムの擁護→ナショナリティの利用」(キムリッカ)という図式には違和感を覚える。だってそもそもリベラリズムがなぜ正当なのか明らかになっていないから。でもまぁこれ以上言うとかなり根源的な問題に行き着くことになるので、このへんでやめておこう。

それにある特定の立場の政治的主張を行う際、それを「正当化する段階の理論(規範倫理学的やメタ倫理学的な論拠の提示)」と、それを「実践する段階の理論(現代政治哲学の多くはこっち)」を区別しなきゃいけない。で、リベラリズムとかだと、前者はロールズやドゥウォーキンがやってくれている(原初状態や反照的均衡)わけなので、キムリッカは後者のお仕事に集中しただけと見ることができし、そう考えるのが妥当だろう。実は次の2人もどちらかといえば実践的理論の方の人たちなんだ。換言すると社会福祉がそもそも倫理的になぜ正当化されるのか、という問いを立てたのではなく、「穏当な多元的な事実」を包括することのできる社会的財ひいてはそうした多元的で多様な諸教説がもれなく納得できる社会福祉のあり方を模索したということだよ。

 

 

●アマルティア・セン 1992 『不平等の再検討』

 センはぶっちゃけ名前くらい聞いたことあるでしょ?下手すりゃ高校の現代社会と倫理と政治経済全てに名前出てくるレヴェルで超絶有名人だからね。なんといってもノーベル経済学賞もらっているし。

 そう。彼は政治学者ではなく経済学者なんだ。このあとリバタリアニズムのところにも何人か経済学者は出てくるけど、そんな感じで政治学と経済学(あと法学)は、ドゥウォーキンのところでちらっと書いたように切っても切れない関係で結ばれている。特にリベラリズムやリバタリアニズムみたいに、配分原理や市場原理を理論に含めなければならない立場になるほど、必然的に経済学は絡んでくる。むしろ経済学者が政治哲学の原理を批判したり、擁護したりするのは日常茶飯事。これは分析的マルキシズムなどでも顕著な傾向だ。だから、これは私見ではあるけれども「学際性」みたいなのの重要性を訴え続けているような学者はまず疑ってかかったほうがいい。そいつが御託を抜かさずとも学問はほっておけば、繋がるところで繋がっていく。というより繋がざるをえないし、もっと言えばもとは一つの「哲学」から派生していったものだ。「学際性」アピールというのは、「食育」や「育メン」アピールと同じ。できて当たり前なんだよ、って話。

 はいチラ裏終わり。まぁ俺のチラ裏だからねここ。それを君が頼んでもいないのに読んでいるだけだ。でもそろそろ解説に移ろうかな。

 さっきのキムリッカの節の終わりに書いたようセンの功績は倫理学的なところというよりかは、より実践的な部分でリベラリズムに貢献してくれたところに求められる。それはまさに、ミラーやキムリッカが頭を悩ませていた「穏当な多元的事実」に対する処方箋でもあるともいえるだろう。

 本稿の冒頭にて現代政治理論が志向するのは、より広義での「平等」であると述べた。さらにこれもチラッと出てきた話だけど、センは「自由」や「所得」を全て平等の変数として把握することによって、「政治哲学の諸理論は変数Xの「平等」を目指している」という風に再定式化することに成功したとも書いたはずだ。まさにこの話が本書の冒頭で出てくる。

 例えば変数Aと変数Bの平等な配分を目指す政治的主張があるとしよう。このとき変数Aが変数Bに優先される必要があることを示すためには、AがBよりもより包括的な変数であることが証明されなければならないことになる。これはこうとしか解説しようがないので、自分の頭で考えてくれ。まぁよりカヴァーしている範囲の広い社会的財の配分が優先されるってことだ。

 ただこうした比較は本当に意味があるのだろうか?もっと言えばそもそも平等の変数は無数にあり、平等という言葉それ自体が中身のないものなのではないだろうか?そんな疑問が頭をよぎってしまうよね。これに対してセンはちゃんと解答を用意してくれている。関係ないけどセンのこういう丁寧な記述は本当に好きだし、ありがたいよな。まず変数の比較に関しては、後に見ていくよう暫定的には少なくとも可能である。そして議論をちょっと先取りすると、より包括的な変数Xとして登場するのがケイパビリティだ。よって平等という概念も空虚なものではないということになる。少なくとも平等概念が使われているコンテクストを固定してしまえば、定義は一定するはずである。これは逆を返すと、平等は文脈依存的な性質を持っているとも言える。ここの指摘はけっこう興味深いものだろう。

 さて議論の前準備は整った。現代政治諸理論は「平等」を志向していて、それぞれがそれぞれに多様な変数を基盤において主張を展開している。このまさに「穏当で多元的事実」ともいえる状況をセンがどのように乗り越えるか。それは意外にもロールズの主張に近い解決方法だった(なんか戦隊もののOPみたいになったね)。

 先述のように、配分する社会的財がより包括的なものであればあるほど、「平等」をめぐる対立は起きにくくなるというのがセンの見立てだった。理由もすでに見たよう、社会的財の内容がより広範囲の人をカヴァーすればするほど、その財の配分を望む人が増加するため、配分原理がより妥当なものであるとなるためである。ロールズはおそらくこのことに気付いていた。だからこそ所得などではなく、万人が望むであろう「基本善(primal goods)」を変数とした理論を展開していたのだろう。しかし、センは基本善ではまだまだ包括の度合いが低いと批判する。そこで登場するのがケイパビリティなのだ。ケイパビリティがなにかということは他の財と比較していくとわかりやすいので、ここでは実際にこれまでに登場した功利主義、ロールズ的リベラリズム、そしてセン的リベラリズムの3つにおける変数としての社会的財を比べてみようか。

 センによると、諸個人の行為はまず「成果」とそれを達成するために不可欠な「自由」の2つに区分することができる。これはそんな難しいことではない。例えば君が「スタバ行きたいな~」って思ったとき、まずは身体や時間、金銭の「自由」が必要だ、そしてそれを用いることによって「スタバでフラペチーノを飲む」という「成果」が得られることになる。簡単だろ? そしてさらに「自由」は「手段」/「程度」の2つ分けることができる。「自由の手段」というのは、「成果」を実現するために不可欠な資源のことで、対する「自由の程度」っていうのは自由の度合い、つまり自由それ自体のことだ。

 図示するとこんな感じ

「自由(「手段」/「程度」)」―<これの活用>→「成果」

 ここからが肝心なのだけれども、

①功利主義における変数「効用」は「成果」、

②ロールズ的リベラリズムにおける変数「基本善」は「自由の手段」、

③そしてセン的リベラリズムにおける変数「ケイパビリティ」は「自由の程度」

にそれぞれ対応している。読んでいて途中で気付いた人がいたらマジでセンスあるよ。順に解説していこうか。

①功利主義における変数の「効用」は、功利主義が「帰結主義的(帰結主義というのはリバタリアンのところで詳しく解説する予定)」と表現されていることからも明らかなように行為の帰結、センの言葉で言えば「結果」を意味している。そしてベンサムが快楽を、ミルやシジウィクが幸福を、ブラントやヘアが選好をそれぞれ効用としていたのはすでに見てきたとおりだ。これらは確かに行為に先立って得られるものではなく、帰結によってもたらされるものであるのは間違いないだろう。だって「スタバでフラペチーノを飲む」前に幸福なり快楽なりを感じている奴はいないだろうからね。キモいわ。センは平等の変数として「結果」は不適切であると主張する。各人の快楽なり幸福なり選好なりはその答えの幅が広すぎて、包括性が著しく欠如しているからだ。

②のロールズ的リベラリズムにおける「基本善」は、センによれば「自由」のうち「手段」を構成しているという。ロールズは何度も見ているように「基本善」のアイディアによって、第二原理のうち「格差原理」が保障すべき社会的財に多様性を持たせることに成功した。今からみれば当たり前のことを言っているように見えたりもするけど、メタ倫理学と功利主義が一大パラダイムを形成していた当時の政治哲学において、これは画期的な発見だった。具体的にいえば「自由や機会、所得や富、自尊心の基盤」(Rawls 1971:303)などがこれに含まれるとロールズは主張しており、行為の帰結である「効用」とは一線を画しているのがわかるだろう。しかし、センは「基本善」は「手段」つまり「成果」を得るための「資源」であるとし、その包括性がいま一歩足りないとしている。いったいどこに不服があるのだろうか。

 「手段」や「資源」というものは活用することによって初めて価値が生まれる。「無用の長物」や「宝の持ち腐れ」みたいな言葉にもそれは表れているだろう。例えば、君はライターも火を起こす能力も持たないのに無人島に漂着し、石油のプールを発見しても全く嬉しくないと思う。つまり、「手段」や「資源」を活用する能力は諸個人によって異なるため、「基本善」としてそれを保障するロールズの構想は不十分である、というのがセンによる批判の肝ということだ。お金の使い方がわからない人に所得や富を配分したところで、能力的な問題がその保障を無効化してしまうだろう。この例は馬鹿げているように感じるけど、たまにニュースでやっているような「母子2人の餓死」みたいな話はこの好例であるように僕には思える。彼女たちは生活保護受給の仕方がわからなかった、つまりそもそも「配分されるための能力」が欠如していたわけだからね。

 では肝心の③「自由の程度」としての「ケイパビリティ」とは何かを見ていこう。センの批判の要点は、より包括的な社会的財として提示された「基本善」も結局のところ諸個人の能力に依存してしまっている点において、平等原理の実現には不十分であるということだった。

対するケイパビリティは「自由の程度」つまり「自由」そのものを意味している。換言すれば、そうした「手段」や「資源」を利用する能力そのものであるともいえるだろう。だから本によってはケイパビリティの訳語に「潜在能力」を当てているものもけっこうあったりする(まぁ僕はあまり好かないけど)。さっきの例で考えるならば、「生活保護を受給する権利がある」という知識がケイパビリティってことになるかな。

ともかく、こんな感じでセンは平等の変数としてのケイパビリティの概念を提示することによって、より多様な要求に応答できると考えた。包括性の観点から見ると「ケイパビリティ>基本善>効用」と図式化することもできる。またさっきの「生活保護に関する知識」の例だけでなく、エスニックマイノリティや宗教的マイノリティ、セクシャルマイノリティがいるという「穏当な多元性の事実」に対しても、ケイパビリティの配分を望まない社会集団はいないだろうと考えられる点において有効だろうと推察される。どんな民族でもどんな宗教でもケイパビリティをきっと求めるだろうといえるわけだ。この辺は次回のヌスバウムのところでよく見ていくことになると思う。

 この後センは様々な具体的な変数(所得、ジェンダー、階級など)とケイパビリティの比較検討を行っていくのだけど、まぁそこは興味があるなら自分で読んでくれ。こちらとしては最後に2点ほど疑問を出しときたい。

 まず1点目は、ロールズは基本善に「自由」を含めていたはずでは?ということ。確かに彼のいう基本善というやつはごちゃごちゃしていて非常にわかりにくい概念だ。しかし、先のところでわざわざ原文ママでぶち抜いたよう、基本善のリストには「自由」が含まれていた。これはどう見るべきだろうか。やはり意味の異なる「自由」ということだろうか。実はこの疑問についてはロールズがしっかり答えてくれている。しかも都合のよいことに今回とりあげる『公正としての正義 再説』でだ。なのでここは本章ラストの『公正としての正義 再説』のところで立ち返って確認してみよう。ちゃんと覚えていてね。

2点目、これはセンに対するオーソドックスな批判なのだが、具体的にケイパビリティって何を指すのか?という問題。センはケイパビリティを「自由の程度」であると定義していた。「自由の程度」というのは「自由」そのもののことなのだけど、そもそも「自由」そのものとは何かという問いはかなり意味論的なレヴェルが高く、哲学的な問題でもある。文脈に則して見れば「いろいろなことをできる潜在能力」という回答もあり得るだろうが、じゃあその「いろいろなこと」ってなんだ。どこからどこまで保障するつもりなのか。またそれは百歩譲って認めるにしても先天的に重度の知的障害などはどうやって保障するのか。問題は山積みだ。

 この辺に対する考察はセンよりもむしろ次のヌスバウムが徹底している。特に彼女はケイパビリティをリストアップし、その輪郭をかなり明瞭なものにしてくれた。先の「穏当な多元的な事実」の問題と共に、次回はここらを中心に見ていこう。

 

 

●マーサ・ヌスバウム 2000 『女性と人間開発―潜在能力アプローチ』

 そろそろリベラリズムの章も終わりが見えてきた。このヌスバウムともう一つロールズの『再説』を見たら終わりだ。しかし、実はヌスバウムをリベラリズムに含めようかどうか、デス読書マラソンのコース設定の段階ではけっこう頭を悩ませていたんだ。というのは7章のフェミニズムにもヌスバウムを含めることができるからだ。彼女は本書で女性というテーマを軸に社会福祉に関する主張を展開していき、実際にインドにいたという2人の女性の話もちょくちょくはさんでくる。その点においてフェミニズム的であるといえるし、本人もこれを否定していない。しかし、ロールズの『正義論』を始発に設定したとき、規範理論におけるフェミニズムとは「男性的な正義概念そのものにカウンターの立場を明確に打ち出している人たち」とした方が都合がよいんだな。これは読む人が読んだら叩かれる見解かもしれない。しかし、現代政治哲学の系譜は、正義論ないしロールズ的リベラリズムに対して、リバタリアンやコミュニタリアン、分析的マルクス主義といった諸立場からのカウンターによって形成されている。逆を返すと、「どういう立場からカウンターしているか」という点に固有性を見出したほうが全体像がはっきりするということだ。そしてヌスバウムはむしろ正義に対してカウンターの立場をとる「フェミニズム」には批判的な立場を貫いている(だからこそケイパビリティアプローチを選択したとも書いてあるし)。そんなこんなで、彼女はここでの文脈における「フェミニズム」には含めないで、こちらのリベラリズムに入れることにしたいと思います。異議は認める。

 さっき女性を主軸にしてヌスバウムの議論は展開されると書いた。確かに女性の話はいっぱい出てくるし、問題関心の一つはそこにあるのだけど、ヌスバウムはこうしたセクシュアリティの問題に対して、ケイパビリティ概念を精緻化することによって挑んでいくスタイルをとっている。というわけで肝心なのは、主張の基盤を構成しているのがケイパビリティ概念であるため、本書の主張は宗教的教説やエスニック集団に対しても応用が可能であるというところにある(実際にこれらの話も盛り込まれている)。なので、とりあえずセンのいうケイパビリティとヌスバウムのケイパビリティの共通点と相違点を確認する作業から見ていったほうがよいだろう。ああ言い忘れていたけど、2人は共同研究とかもやっていて顔見知り以上の関係にあるよ。

 まずセンとの合意点としてヌスバウムがあげるのは「ケイパビリティが部分的に配分される財」であるということ、「基本的自由が最優先される」ということ、そして「諸個人によって求めるケイパビリティが異なる」ということの3点を挙げる。一つ目はセンが認めているよう完全なケイパビリティの配分は不可能であり、むしろ暫定的であるということを含意している。二つ目の合意点は、センはロールズがちょうど第一原理と第二原理の間に優先性を設けたように、ケイパビリティの内部にも同様のプライオリティが存在すると主張していることに由来している。ヌスバウムは原則的に諸ケイパビリティ間の優先順位は認めてないものの、経済的なニーズによって自由が損なわれてはいけないと考える点でセンひいてはロールズと共通していると認めている。三つ目は……説明いらないでしょ。

 ここからが重要だ。この相違点の方はセンとの間に決定的な区別を設ける。これは同時にヌスバウムがリベラリズムにカウントされる理由、そして彼女の主張のコアをなしている部分でもある。センとの違い、それはヌスバウムがケイパビリティをロールズの正義の構想同様に普遍化可能な指標であると捉えているということである。これは以下の論拠から裏づけされており、また「ケイパビリティのリスト化」というヌスバウム独自の主張を導く。ここはかなり大事なところなので丁寧にみていこう。

 まずヌスバウムがそもそもなぜケイパビリティを普遍化可能と考えたと言うところなのだけど、彼女によればある人の機能がどのレヴェル発揮されているか、ということに注目すれればこれを測定することが可能となるらしい。例えば、「読み書き」という機能が損なわれている人がいるのであれば、その人にとって該当するケイパビリティが不足しているということがわかるというわけだ。そしてさらに、不平等というのはこれら測定可能なケイパビリティが個々人間でどの程度達成されているかの差と定義できると主張している。正誤は置いとくとして、かなりシステマティックな考えだといえるだろう。

 そして、諸個人のケイパビリティの過不足は以下のリストの中で基本的に網羅されているという。ただし、先述のセンとの合意点で確認したように、ケイパビリティは完全な正義を遂行するわけではなく、あくまで部分的正義を目指すため、リストにないものもあるかもしれず、またリストのケイパビリティが不要な場合も考えられることは留意しておきたい。まぁこの言明はぶっちゃけ逃げ道の用意だね。さて実際にそのリストを見てみよう。

【人間の中心的な機能を示すケイパビリティのリスト】

 

①生命 ②身体的健康 ③身体的保全 ④感覚・想像力・思考 ⑤感情 ⑥実践理性 

⑦連帯 ⑧自然との共生 ⑨遊び ⑩政治的/物質的な環境のコントロール

この10個がそうらしい。ヌスバウムはここで弁解というかそれぞれを説明しているけど、全部確認していくのは正直めんどうなのでわかりにくいのだけ説明しておこうかな。まず「⑥実践理性」だよね。これはある人が「善き生活や人生の目的を当人が自由に構想する能力」を意味していて、ロールズも「道徳的能力」として解説している。サンデルなんかは「自己目的修正能力」と呼んでいたかな(批判的な文脈でだけど)。これはおそらく「歪められた選好」の問題を解決するために、リストに加えられた項目だと思われる。一般に性的虐待を受けた児童は将来的に性的な依存度が高くなるといわれている。このとき、児童は「性的欲求の解消」な選好を持っていることになるのだけど、それは幼いときの経験によって「歪められている」というわけだ。狐が手の届かないところにあるブトウを「すっぱいことにして」諦める「酸っぱいぶどうの木」の寓話は有名だよね。こういう「歪められた選好」とはこういう「適応型選好」の一形態であるともいえる。しかし「自分の人生の目的を自分で修正できる」という条件を設けておくことによって、こうした非自発的に形成された選好を退けることができるはずだろう。僕にはこの項目⑥にその意図が垣間見えるけどなぁ。

あと「⑦連帯」というのもわかりにくい。これは「A他の人々との協働と特別な関係の維持」と「B連帯することによっていかなる不都合も被らないこと」の2点を含意していると説明されている。どんな人や団体と関係を築いてよいし、それによって差別されてはならないということだね。

最後に「⑩政治的/物質的環境のコントロール」とあるが、これは言い換えると「政治的自己決定権(政治的環境への)」と「外的資産に対する権限(物質的環境への)」という2つの権利を意味している。政治的自己決定権に関しては、ロールズの第一原理で保障されるべき「基本的自由」がこれを含んでいた。先述のように、ヌスバウムは「自由」の大切さを認めつつも、センやロールズと違って配分される財に序列付けを行わない。ゆえに政治的決定権と(一見他より重要度が低そうな)「⑧自然との共生」は等価ということになる。対する「外的資産に対する権限」というのはリベラリズムというより、むしろリバタリアニズムが主張するような自己所有権の一部であると言える。自己所有権についてはロスバードやノージックの著作を紹介していく過程で詳しく見るけど、簡単にいえば「自分で自分の資質とそれによって産出された財を所有する権利」のことだ。ヌスバウムもこれがドゥウォーキンのいうような「所与運」によって獲得される財で自然的資産であるとは認めてはいて、他のケイパビリティよりも制御が困難だろうと推察している。さっき書いたとおり、ヌスバウムに従えば、このリストを用いてある人と別の人の不平等を測定することが可能になる。つまりケイパビリティは測定可能な閾値となったわけだ。

ここでヌスバウムによるケイパビリティの再定式化の説明は終わってもいいのだけど、もう一つ重要な論点があるのでそれを確認しておきたい。上述のリスト化とは別に、ヌスバウムはケイパビリティを3つの類型に分けている。

【ヌスバウム;ケイパビリティの類型化】

 

(ⅰ)基礎的ケイパビリティ……他のケイパビリティを達成するために不可欠なより根源的なケイパビリティ。「①生命」や「②身体的健康」、「③身体的保全」さらに「⑥実践理性」などもこれに含まれる。簡単にいえば「子どもの段階ですでに行使できるケイパビリティ」となる。

 

(ⅱ)内的ケイパビリティ……より成熟したケイパビリティ。愛情や性的関係、特定の思想や宗教といった教説へのコミットメントがこれにあたる。さきのリストでは「⑦連帯」の一部がこれに該当している。「基礎的ケイパビリティ」と対になっており、こちらは「成熟した人が行使できるケイパビリティ」と説明できる。

 

(ⅲ)結合的ケイパビリティ……内的ケイパビリティが機能として発揮されるために不可欠な外的条件を指す。ちょっとわかりにくいので例を出すと、宗教に価値を認める能力(内的ケイパビリティ)を持っていても、信仰の自由(結合的ケイパビリティ)が認められていないのであれば機能として発揮されることはできない。だから必然的に「⑦連帯」はこちらにも含まれることになる。でもこれが保証されているのであれば、内的ケイパビリティは保障は多くの場合保障されているよね。

 

 もう疲れたわ。ここまでがいわばヌスバウムのケイパビリティ論の基礎編。このへんで地ならししてから、本書では応用編であるセクシャリティやエスニシティ、宗教の問題に切り込んでいく。終わりたい。でもセンの節でここも解説するって言ったしなぁ。宗教と女性の問題だけでも見ておこうか。

 「穏当な多元的事実」を構成する包括的教説の一つ、それが宗教である。えてして特定の伝統的宗教を信仰している共同体では家父長制的な傾向が強くなったり、女性差別が平然とまかり通っていたりする。これがリベラリズムを含む自由主義にとって本当に悩みの種になっているんだよ。ヌスバウムも「ガンジーの自伝を読んでいて、歴史に名を残す人徳者が平然と男尊女子を容認する記述をしていて驚いた」みたいなことを本書のどこかに書いていたはず。しかしガンジーの記述に如実なよう、ラディカルで伝統的な宗教的共同体の内部では、男性からしても女性からしてもこうした男女間の扱いの差異は自明のものであって、いわば「日常」を構成している風景にすぎない。だからこそ厄介で、リベラリズムはそれを是認することもできない他方、自分たちの外的な倫理から矯正しに入ってパターナリズムに陥っているのも避けたい。いわゆるダブスタというやつがここに生じてしまっているわけだ。

 これに対してヌスバウム的ケイパビリティを差し手として用いても、さっき書いたようにケイパビリティ間の序列がないとしているため、ここでは「女性のケイパビリティ」と「信仰のケイパビリティ」が真っ向からぶつかる結果に至ってしまうことになる。実際、ヌスバウム本人も困難な問題であるということは認めている。

しかし、ここでまず確認しなければならないのは、ケイパビリティが集団や共同体ではなく個人を対象としている点にある。これはセンもおそらく同意するところで、第一義的には個人間の不平等を測定する変数、そして保障する社会的財としてケイパビリティは定義される必要がある。ゆえに、集団(ラディカルな伝統的宗教)/個人(それに属する女性や子ども)を対置したとき、優先されるのは後者である。

また往々にして伝統的宗教を擁護する立場も差別の解消を訴える立場も忘れがちなのが、「主要な宗教の多くは倫理的教説であり、その教えは絶えず変動している」という点である。ゆえに、そこから例えば家父長制度を抜き取っても、当該の宗教が消滅するようなことはまず想定できないし、倫理的教説である以上それを受け入れる可能性すらあるとヌスバウムは指摘する。

さらに、ケイパビリティの保護が国家によって担われているのに対して、宗教的教説を担うのは法典である。すなわち両者の法体系は別個であり、宗教に対して国家は寛容である必要があるが、それは「ケイパビリティの保護」という重大な関心ごとが損なわれない場合においてである。つまり宗教的共同体によるその侵害は、干渉される場合もありうるということだ。 

 これが主な結論&論拠かな。つまり最悪の場合干渉するよってことだな。はっきりいって僕は全くヌスバウムのこの説明には納得できなかった。特に「宗教が倫理的教説である―」のくだりとかは噴飯もので、あまりに楽観的過ぎて思わず苦笑いだよ。それに「集団よりも個人が優先される」というのは結局ヌスバウムやリベラルの都合だし、特定の宗教共同体なりエスニック集団がこれに従う義理も義務も微塵もない。ケイパビリティアプローチの包括性については(少なくとも効用や基本善よりも)認めるし、そこに可能性が幾分かあるというのも首肯できる話だ。だけど、ヌスバウムのように普遍的な基準として設定できるとかいわれると一気にうさんくさくなってしまうし、自分で自分の首を絞めることにもつながる。だから、センみたいにゆるく暫定的な可能性として提示するのに留めておくべきだと思うな、おじさん。

 

 

●ジョン・ロールズ 2001 『公正としての正義 再説』

 いよいよリベラリズムも最後の文献になったね。これはロールズが『正義論』を出版してからちょうど30年後に出した本で、その30年間になされた様々な議論、特にコミュニタリアニズムとマルチカルチュアリズムによる批判に対する応答として書かれているよう自分は思う。ちなみに厚さは『正義論』の1/3くらい。しかもはるかに読みやすい。ありがたいことやで。  

だがしかし、ぶっちゃけここでのロールズの主張よりも、キムリッカとミラーによる多文化対ナショナリティの議論や、センとヌスバウムによるケイパビリティの議論の方が数段上をいっているように感じてしまうんだよね。本書には包括的リベラリズム/政治的リベラリズムっていう区別が出てくるのだけど、ロールズは後者が「穏当な多元的事実」に即しているんですよ~の一点張りでその論拠がいまいち納得できないというか。まぁ本書の出版した翌年にロールズは亡くなっているので、あまり執筆している余裕がなかったのかもしれない。知らないけどね。

本書の重要な主題というか『正義論』の頃にはなかった新しいテーマは、ずばり「穏当な多元性の事実」と「政治的リベラリズム」そして「重なり合う合意」の3つの概念によって説明できる。『正義論』のところでロールズの基礎的な構想は確認したつもりなので、今回はこの3点を中心に紹介していこうと思う……とその前にすることがあったのだけど君は覚えているかい?僕は覚えていたよ。そう、これらの3つの話とは別にロールズはセンからの批判にも本書で応答していたのだった(覚えてないニワトリさんはセンのところに戻って確認してみよう^ν^)。だからそっちの話から始めようかな。

 ロールズの解答はずばり「基本善の構想にはケイパビリティも含まれており、捨象などしていない」というものだ。事実、基本善のリストには「自由」が含まれていた。これが「自由(の程度)」としてのケイパビリティとの間に概念的なズレがあるかどうかは、まだまだにわかの僕が説明しないほうがいいだろう。「ここでの概念は何を指示しているのか」みたいなテーマで論争できるのは、テクストをかなり緻密に分析読解していくスタイルの人だけだからね。ただ僕はロールズの主張の側に分があるように思える。

 というのは、そもそも基本善が問題になってくるのは第二原理のうち格差原理による配分がトピックになっているときであり、ロールズの「正義の二原理」では基本的自由を保障している条項の第一原理の方が、配分や機会に関する第二原理よりも優先されるという辞書的優先性のルールがあったからだ。これらを全て踏まえると、限定的な範囲を意味している「基本的自由」(第一原理)とは「別に」格差原理の中で配分されるべき「自由」(第二原理)が存在しているということになる。このとき格差原理に出てくる一方をより包括的な「自由」の集合Pとして、第一原理に登場するもう一方をより限定的な「自由」の集合aとするのが自然だろう(P⊂a)。そして辞書的優先性のルールというのは、換言すれば「いっぱいある自由Pのうちでも特に基本的自由aが重要ですよ」と強調している但し書きだとも解釈することができるだろう。このように基本善の構想には包括的自由が含まれており、ゆえに基本善の構想はケイパビリティを捨象していない。……とまぁここではロールズの肩を持ってみたよ。

 しかし、このあとロールズは「基本善の指数を作成することによってそれに柔軟性を持たせることができる」と続ける。もうお気づきだね。これはセンではなくヌスバウムがすでにケイパビリティを使ってやった仕事だ。基本善やケイパビリティのリスト化や軽量可能な数値化が本当にできるか否か、という問題はとりあえず置いとくとして、基本善とケイパビリティの包括性が本質的に等価ならば、ぶっちゃけどっちを使ってもいいんじゃないかな(センはそもそもより包括的な社会財が必要だとしてケイパビリティ概念を提示していた)。そしてすでにヌスバウムによって指標化されリストも考えられているのであれば、ケイパビリティ使えばいいんじゃね?ちょっとプラグマティックすぎる気もするけどええやろ。

 この辺でロールズのセンに対する応答は確認するのを終わろう。さっき書いたとおり、問題がすでに概念的用法によるものになっている以上、下手に踏み込まない方がいいからだ。しかも、本書の重要なテーマはここではなくて、「穏当な多元性の事実」に対する「政治的リベラリズム」と「重なり合う合意」の3つにあった。

 「穏当な多元性の事実」という言葉はすでにキムリッカやミラー、センやヌスバウムの節でなんとなくニュアンス仄めかしてきたし、そんなに複雑な概念でもない。要約すると「現代社会はマジで嫌になるくらい多様な立場や教説が存在していますよ」ってな感じだ。これもさっきの人たちの節で取り上げた話だけど、セクシャリティやエスニシシティ、宗教やイデオロギー、果ては性的嗜好やサブカルチャーなどというのは、それぞれ強度に差はあれども包括的教説を構築してしまう。包括的教説というのはあまり耳にしない言葉ではあるけども、広い意味での「教義」というふうに考えてくれたら理解しやすいかな。エスニック集団にも、宗教的マイノリティにも、サブカル童貞クソ野郎どもにも独自の「教義」は存在している。そんな教説がいろんなところにいろんなかたちで溢れている状態、それこそがまさに「穏当な多元性の事実」とロールズが名づけた状態のことだ。ポストモダン論は嫌いだけど、フランソワ・リオタールの指摘したような「大きな物語」の凋落と「小さな物語」の氾濫というのもまさにこういう事態を意味しているのだろう。

 いろんな主義主張が猥雑に溢れかえった「穏当な多元性の事実」の中で、当然ロールズに対しても例外なくこの批判は向けられることになる。つまり「お前(ロールズ)の言い分も結局のところ包括的教説の一つなんじゃない?」というものだ。実際、もっともすぎて、逆に可愛げがない批判だと思う。これはまた愚痴になっちゃうのだけど、リベラル系の思想をかじった頭の悪い学生は「多様性ガー多様性ガー」とかふたこと目には口にするくせに、「多様性を許容すべき」という規範を絶対視していて、あまりにも素朴にこれを他者に強要してくる。一方で諸個人の多様性を重んじるべきと考えつつも、他方では自分の信じている規範を特権的に扱っているというわけだ。「多様性を許容すべき」という規範を誰かに強要した時点で「多様性を許容しない」という多様性を許容していないからね。無論、ロールズと彼ら彼女らとは月と鼈以上の差があるのだけど、問題としては相似形であるとしてもよいだろう。ではロールズは何を論拠にして、自身のリベラリズムを特権化していくのだろうか。

 そこで次に出てくるのが「包括的リベラリズム」/「政治的リベラリズム」という区別だ。こちらもそんなに難しいことではない。というよりもこれらの概念は単に立場表明以上の意味はない。前者の「包括的リベラリズム」というのが、さっきの話に登場した包括的教説としてのリベラリズムを意味している。つまり万人が信じているわけでも、支持しているわけでもなく、ゆえに強制が特権化されることもないリベラリズムがこれである。対する「政治的リベラリズム」というのはロールズの別の著作(誰かとっとと翻訳しろよ)の表題にもなっている概念で、「誰もが異なる包括的教説を抱きつつも、それとは両立可能な形で遂行されうる正義の政治的構想」を体現するものがこれである。そして後期ロールズは一貫して「自分は包括的リベラリズムではなくこの立場です」と表明し続けている。という感じでこれは立場の名前なのでそんなに中身のある話じゃない。問題はむしろ、ロールズがいかにして自身を特権的な政治的リベラリズムと位置づけているか、ということにあるだろう(二回目)。

 長くなったがここにきて本書の3つめの重要概念である「重なり合う合意」が満を持して登場する。ここからちょっとだけ難しい話に入るよ。「穏当な多元性の事実」という現状に対し、ロールズがここで正当化する必要があるのは自身の立場であり提言としての性格もある「政治的リベラリズム」。そしてその根拠となってくるのがこの「重なり合う合意」というやつで、三者の関係性を整理すると「現状分析」「論拠」「提言」となっていることがわかる。

 ところで前期のロールズはどのような根拠から「正義の二原理」を正当化していたか覚えているかな。答えは「原初状態」という思考実験と、「反照的均衡」という2つだった。前者はどちらかというと哲学的な水平における論拠で、後者はより現実的な文脈における論拠となっていたのも『正義論』の節で確認したとおりだった。本書でもこの2つは正義の基本観念として登場しており、解説にも数節割かれている。しかしながら、前期のロールズつまり『正義論』の頃と比べてこれらに置かれていた論拠としての重要度は前より圧倒的に低くなっているのも事実である。これは『再説』で書かれている議論ではなくて、1987年に書かれた”The Idea of an Overlapping Consensus”(未翻訳だから俺が英語版読むハメになんだろいい加減にしろ)という別の論文に書かれている話ではあるのだけど、ロールズは原初状態と反照的均衡によって導出される正義の構想が、現実の多元性を無視してしまっていたという事実を明確に認めている。先述の通り「原初状態」と「反照的均衡」は論拠として完全に捨象されてはいないのだけれども、やはりコミュニタリアンや多文化主義者による批判に応答していくうちに、これらだけでは「正義の二原理」ないしは「政治的リベラリズム」の正当化は不可能であるとロールズは結論付けたというわけだ。

 「原初状態」は思考実験であるため(サンデルとかは批判をしているけど)いったん置いておくとしても、「反照的均衡」というのは「誰もが自身が直観的に抱いた正義の構想を反照的に吟味していく能力」が暗黙裡のうちに前提化されているし、何よりそうして吟味された正義の構想が諸個人の間でいかにして収斂していくかについても説明がはっきりなされていなかった。特に後者の論点は「穏当な多元性の事実」とは整合性がとれていないように感じるところではないだろうか。対して新たに加えられた「重なり合う合意」という概念はこうした多元性に一つの展望を提示してくれるものだ。いよいよ解説に入ろうと思う。もったいぶって話してしまうのは、僕の悪い癖(cv.水谷豊)。

ロールズが「穏当な多元性の事実」というとき、そこに想定されているのは「包括的教説」が氾濫している状況だったのは何度も確認している通りである。しかしそのどれかを国家が支持してしまうと他の教説に抑圧が生じてしまうということもここでは併せて確認しておきたい。この事実を本書の中でロールズは「抑圧の可能性」と呼んでいる。他方で、基本善を誰もが必要とし、その希少性を維持するためには社会的協働が不可欠である。

上述の3点(基本善配分のための社会的協働の必要性/穏当な多元性の事実&抑圧の可能性)を「正義の環境」とロールズは呼んでおり、この3つの環境的条件を全て損なわないようなリベラリズム(政治的リベラリズム)を達成するのがまさしく「重なり合う合意」だ。説明をなるだけわかりやすくするために以下箇条書きね。

[仮定ⅰ]包括的教説は現実に存在しており、例えば宗教や民族意識に「善き生」や自身のアイデンティティを見出している人も多くいる以上、「抑圧の可能性」を看過して特定の思想信条を強制することはできない。

[仮定ⅱ]「多くの人が基本善の配分やその希少性の維持を望んでいる」という事実も同時に所与としたとき、基本善の配分や維持を達成するために、公正な社会的協働には誰もが賛同し参画するはずであると推察される。

 

[論証]ⅰとⅱより公正な社会的協働は各人のアイデンティティや「善き生」を損なうものではないため、ロールズ的リベラリズムと包括的教説とはむしろ両立しうる。

 

∴各人は自身の包括的教説を維持したまま、公正な社会的協働にも参画することになるため、「正義の二原理」に最終的な諸個人間のコンセンサスは収斂(「重なり合う合意」の形成)し、同時にロールズ的正義は「包括的リベラリズム」ではなく「政治的リベラリズム」であると位置づけられる[QED]

 ……おわかりいただけただろうか?僕は理屈としてわかるけど、論証に納得が全くいってないって感じかな。いやマジで。それこそミラー&キムリッカ、セン&ヌスバウムあたりで穴を埋めていくでもしない限り空論のように感じてしまう。

とくに気に入らないのは社会的協働のくだりかな。「みんなが基本善を望んでいる」のはよいとして、だからってそのみんなが「公正な社会的協働なるものにコミットしていく」とするのは論理的にかなり飛躍している。僕は僕に基本善が配分されることにはきっと喜ぶだろうが、自分が配分原理に協力するかといわれたら正直したくない。というか世の中の多くの人は楽をしながら自分だけは恵まれていたいって思っているはずだろう。否定すんなよ?君だって胸の奥では「自分だけは……」と思っているはずだ。己の悪と向き合えない人は偽善者だぞ。こうした批判に対して、ロールズは公知性なる概念を提示してくる。簡潔にいえば「みんなで協働することの倫理的・合理的な大切さ」を知っている必要があるという話だ。それは主に教育システムが担う機能とされているというのだけど、お前は学級委員長かって話だよね。ルールを守る大切さや、友達や家族を敬う大切さは嫌というほど教わったけど、ルールを守らない人も家族や友達を敬わない、もっと言えば守れない人も敬えない人もいる。仮に公知性が達成できるということを譲歩して認めたとしても、では具体的にどのような教育でそれが可能なのかと問い詰めたい。

 これは子どもの頃から抱いてきた持論なのだけど、人間一般というものはうまくできていないのだから、「みんながうまくやれば」という前提に立つ方法はすでにその時点で設計ミスを犯している。ロールズの「重なり合う合意」の議論の問題も究極的にはそこにあるはずだろう。

 ついでにここでは8章の「その他」で取り上げる、ユルゲン・ハーバーマスによる批判も見ておこうと思う。先に言っておくけど僕はハーバーマス大嫌いです。第一に批判厨過ぎる。ロールズの他にも、デリダやルーマンといった現代社会科学の巨頭に片っ端から喧嘩を売っている。いや、批判というのは学問を存続させる上で不可欠な契機だ。弁証法的発展みたいなね。でもハーバーマスの批判ってなんとなくズレている感じするんだよな。もう一つ嫌いなところがあるのだけど、これはロールズへの批判とも関わってくるので後で見るよ。

 ハーバーマスによれば「重なり合う合意」というのは結局のところは「偶然の一致」でしかない。これはちょっとわかる話ではあるわな。公知性で方向付けているとはいえ、それこそ星の数ほど包括的教説があって、そのいくつかは軽く殺しあうくらいには対立しているというのに、それと両立するたった一つの正義の構想にはみんな合意するっていうのは直観にあまりに反している。だから、いかに万人が公共善を求めるとはいえ、それを保障する原理を目指して手を取り合いますと、どこかの国が明日からなるのであれば、それは本当に奇跡以外のなんでもないし、残念なことに奇跡は起こらないものなのだ。

 しかし、ハーバーマスが「重なり合う合意」の代用物として提示するのが「討議」なんだ。僕がハーバーマスを嫌いな理由のいま一つはここなんだよ。この主張はハーバマスの著作『他者性の受容』を紹介する8章でまた立ち戻って確認することになるだろうけど、そもそも「討議」って何?まずどうやってそのルールや範囲を決めていくの?それこそ殺し合い始まるんじゃないの?簡潔にまとめると以下のようになる。

「思うに君は人間のコミュニケーション的理性なるものを過度に評価しすぎだと思う。いやその存在自体を真っ向から否定するつもりはないよ。でも君とかアーレントとかが、人間にそうした理性だの「活動」に向かう特性などがあるって言っちゃうのって、端的にいえば卓越主義だよね?アリストテレスの昔ならともかく、20世紀以降にそういうのは本当に傲慢だと思うわ。君らに僕の何がわかるの?あと複数性だとかコミュニケーションだとか人と人の関わり合いに可能性を見出しているのも本当に嫌いだから。コンスタンが指摘しているみたいに、私的領域に篭るのが近代人の自由(トレンド)だからね?そこに喜んでコミットメントできる人はコミュ力高い人たちだけだから。そういう意味で君らの事を総じて僕は「リア充哲学」って呼んでいるんだよ。いつか講談社あたりから新書出すよこのタイトルで。マジでな!」

 アーレントが途中で巻き込まれてるけど、だいたいそんな感じ。まぁハーバマスのところで詳しく見ていこう。

 

とにもかくにも、やっとこさリベラリズムの章が終わった。ここまででA4がすでに39ページ目に入ろうとしている。やる気のない学部生の卒論くらいはすでにあるんじゃないかな。

 僕は実をいうとロールズ的な文脈でのリベラリズムにあまり魅力を感じていない。一時はセンやヌスバウムのケイパビリティに可能性を感じていたこともあったけど、今はそんなかな。

というかこの文章が執筆されている今日(2015年7月中旬)、この国の政治がもはやリベラリズムだのリバタリアニズムだの、正義だの自己所有権だの、そんな高尚な次元で動いていないということは自明である。頭の悪い人たちが頭の悪い理由から現政権を擁護し、これを頭の悪い人たちが頭の悪い理由から叩いている。ジャイアンとのび太が殴り合ったら勝つのは高確率で前者だ。つまり馬鹿の喧嘩は力の強い奴が勝つのが常なのである。

だから「僕は」(強調)この時世に政治哲学なんかを大マジにやってんのがぶっちゃけ空虚で馬鹿げたことだと感じてしまうのだ。どの立場にも全くポリティカルな意味での関心が全くといっていいほど沸かないのである。こういうのは理想主義者の言い方だと学部の頃の恩師(指導教官ではないのだけどね)に怒られたことがあった。馬鹿ばかりの本当にクソみたいな現実と、それでも君たちは付き合っていけと彼は言っていた。自分はスーサイドしたくせに。でも太宰も『竹青』でそんなことを書いていた気がする。「やたら衒学になるのではなく、もっと俗世間の愛憎にまみれて生きてみなさい。神はそういう人間の姿が一番好きです。」みたいな感じ(僕は太宰全作品読んでいてこんな感じで名台詞は不正確だけど暗誦もできる)。この作品は竹田青嗣の通名の元ネタになるくらいなのだからやはり学者心に響くものがあるのだろう。…………ごめん太宰も自殺してた。

話がそれまくったね。まあ現実の政治がクソって話だ。しかし、否だからこそ、僕は今回紹介している著作に対して、本当に純粋でピュアピュアな学術的好奇心はそそられている。天才としか形容できない人が頭を超ひねらして作ったエレガントな論理を、他の天才がさらにエレガントな論理でそれを壊していくのを見るとマジで興奮する。

そんで最初のリベラリズムの話に戻るわけだけど、経験則として彼ら・彼女らの本は小真面目かつ小奇麗にまとまっていて、読み物としての魅力に欠ける。論理的正当性とはちょっと関係ないのだけど、やはり論理構成を意図的に面白く組み立てている人はリベラリズムに少ない気がしてしまうんだよね。

 しかし、次の章で登場するリバタリアンは本当に面白い人が多い。っていうか友達にするなら自分は断然リバタリアンだな。「いいんちょ」タイプの多い政治哲学のリベラリズムに対して、リバタリアンは「悪ガキ」タイプという印象を受ける。というかマジでロスバードに関しては本当に頭壊れていると思う。一周回って交遊は謹んでご遠慮したいレベル。そんな感じで解説が楽しくなってくるのは次章のリバタリアン以降だと思います。ごめんロールズ。

 

 

 

3 リバタリアニズム

 んんー鬼門ktkrですぞ。何が鬼門って、リバタリアニズムというのは経済学ガチガチなのね。センのところでも書いたように、今回リバタリアンで取り上げた論者もうち2人は経済学者なんだよ。経済学と極めて親和性が強いというのは、リバタリアンというのは市場原理に価値を認める立場であるため、必然的にそうなっちまうことに起因している。しかもさっきのセンみたいに門外漢にもわかりやすい記述を心がけてくれると有難いのだけど、リバタリアンはいろんな意味でぶっとんだ人が多い(偏見)のでそういうわけにもいかない。

 まぁ愚痴っても仕方ないので概要をまとめていくか。リバタリアニズムという立場は、自由至上主義なんて翻訳される。語弊はあるけど、まぁまぁ言い得ているんじゃないかな。ただリベラリズムを自由主義と訳したりする場合もあるので、基本的に表記の上ではややこしいから横文字をそのまま使った方がいい。とにかくある特定の「自由」の平等を最優先する理論体系であるというのは間違いない。

 しかし自由を他の物事より優先した論者は実はすでにリベラリズムのところに登場している。そうロールズの第一原理は自由原理と呼ばれていて、第二原理よりも優先されるのだった。しかし、ロールズの紹介で(これを見越して)強調しといたように、あそこで優先される「自由」は基本的自由としての含意があった(忘れてんならとっと戻って参照しろよダボが)ので、ここでの「自由」とはまた意味が異なる。リバタリアンがいう「自由」とは、主に自分の資質とそれによって産出される資産への権限、そしてこれらに伴う経済活動の「自由」のことだ。つまりロールズが唱えるような社会的財の配分はリバタリアンにとって個人資産への介入以外の何ものでもないので、むしろ忌避されるべき対象となるわけだ。同じ「自由」という語を使っているのに、真逆の見解っていうのは単純に興味深いよね。そんなリバタリアンをさらに区分すると4象限図式で描かれるような2つの軸が出てくる。

第一の軸は「アナーキスト/ミナーキスト」という区別によるものだ。ところでアナーキストって聞いて誰思い浮かべる?僕はシド・ヴィシャスやジョン・ライドン、つまりセックス・ピストルズのメンバーが真っ先に想起される。なんといってもAnarchy in the UK だからね。しかし、ピストルズのアナーキーというのは、どちらかといえば左派的あるいは単に反権威的な意味合いが強い。対してリバタリアニズムにおけるアナーキーというのは「政府による一切の市場介入を拒否した結果、無政府主義になっちゃいました(笑)」という理由によるものなので、実はかなり違う。後者は市場原理、つまるところ資本主義に基づく無政府主義なので、アナルコ・キャピタリズムというぎりぎりのネーミングで呼ばれたりもしているよ。一方のミナキズムという言葉は普段あまりお目にかからないかな。つづりは ”Minarchism(Minimal + -ism)” で、日本語では最小国家主義なんて訳されるね。もちろん一元的にはいえないけど「市場原理に介入されたくはないが、(不当な財産移転を保護するためにも)アナキャピは現実的ではない」みたいなノリの人がこの立場をとることが多い。このアナーキズムとミナキズムの対立軸がまずリバタリアンを区別する一本目の軸だ。

 第二の区別は「帰結主義(consequentialism)的/自然権(rights)的」という軸に依る。順に見ていこう。帰結主義という言葉はリバタリアンに限らず、政治哲学一般、特に1で見た功利主義の文脈で頻繁に使われるのだけど、ここでの帰結主義とはちょっとニュアンスが異なるので、それは留意しておきたい。一般的な意味での帰結主義というのは、ある特定の行為を道徳的に是か非か判断する際、その行為の帰結に注目することで答えを出す立場のことだ。例えば、功利主義ではすでに見たように、効用を最大多数の「快楽」や「幸福」、「選好」といった行為の帰結に設定することによって、倫理的な正当化を行っていた(ヘアとかはカント持ち出しているから微妙に違うけどね)。他方で、リバタリアニズムにおける帰結主義というのは、倫理的な問題と言うよりも、効率的な問題を指している。換言すると、効率的な帰結がもたらされるからこそ自由交換を正当であるとする立場だ。だから功利主義の帰結主義とは異なるわけだ。

このようにリバタリアン的帰結主義が効率性に着目するのに対し、自然権論者は文字通り権利の観点から自由交換を擁護する。そしてこの立場を最初に打ち出したのは他でもないジョン・ロックだ。ロックによれば、自由というのは万人が享受することのできる不可侵の自然的権利だ。人のそれを損なわない限り、何人にも制限されることはない。まぁこの話はノージックのところで詳しくみることになるはず。ともかく、効率ではなくて権利の観点が自然権論的リバタリアンの場合問題になる。

リバタリアニズムの著作を読むときに、これら区分を頭に入れておくとかなり全体像がつかみやすくなるはずだ。とはいえ、割り切れない場合や他の立場も存在するので過信は禁物だけどね。あと、リバタリアン的にはこの区別よりもさらに「オーストリア学派/シカゴ学派」ということの方が重要らしい。でも学派云々は正直僕を含めてにわかには関係のない話だ。最後にこれから紹介する論者が上記のどの立場なのかをはっきりさせておこう。注意してほしいのは、これら論者の立場はあくまで僕による整理なので、当人はおろかその擁護者がどういう見解かということは無視されているということ。ただまぁ読んだらふつう判断できるはずなんだがね。

○マレー・ロスバード……アナーキズム/自然権論的

○ロバート・ノージック……ミナキズム/自然権論的

○デヴィッド・フリードマン……アナーキズム/帰結主義的    こんな感じですお。

 

 

●マレー・ロスバード 1982 『自由の倫理学―リバタリアニズムの理論体系』

 ハンター×ハンターって漫画読んだことある?ご存知の通り遅筆で有名なんだけど、話はすごく面白い。そんでその漫画には「念能力」っていうのが出てきて、登場人物は6つに区別されるこの能力を使って戦闘を繰り広げる。この「念」はそれ以外にも、使い手の性格を反映しているという設定があって、例えば力技で押すタイプの「強化系」の使い手には「単純一途で熱血漢」という性格が多いことになる。

 そんな感じで政治哲学における「念」をリベラリズムやコミュニタリアニズムといった主張の立場と考えると、まさにハンター×ハンターよろしく論者の性格が反映されているように感じてすごく面白い(経験的事実に過ぎないけどね)。例えば、リベラリズムを専攻している教授や友人、果てはロールズらを含む学者は前章の終わりに書いたよう「堅実で真面目」という印象を強く僕は受けた。頭はいいけど、気の利いたギャグとか苦手そう。一方で、今回紹介するリバタリアニズムはこれも先述の通り「破天荒でお茶目」って感じの人がマジで多い。本当に根拠もクソもない、血液型診断以下の偏見なんだけど、なぜか自分が出会った人は皆そうだった。むしろなんで。

 ……こういうチラ裏から紹介に入るのはデス読書マラソンの慣例なんだ。堅苦しい話ばっかだと疲れんじゃん。そんで結局のとこ何が言いたかったのかというと、このロスバードというおじさんもリバタリアンの例に漏れず、著作を読んだだけでその知的破天荒な感じが伝わってくるということを紹介しときたかったんだ。だって「脅迫はNGだけど、ゆすりは交渉の一部だよね(笑)」とか大マジに言い出すんだよ?頭がいかれ(ry

 さてロスバードは上述の区分に従うと、アナルコ・キャピタリズムを自然権論的に正当化していく論者だった。つまり自由経済を合理的だとか効率的だとかいう帰結主義的な理由ではなく、諸個人の権利の観点から正当化し、最終的には政府の否定に至る、というのがロスバードの主張というわけだね。特にこの主張のうち特徴的なところは、ロスバードが人権それすなわち財産権として把握している点だろう。

 人権って概念は小学生でも知っているし、多くの人はこれをないがしろにしてはならないという規範も同時に知っている。でも人権とは何かと厳密な定義で説明してよ、と言われるとなかなか答えれないんじゃないかな。ロスバードはそうした人権概念の曖昧さを明瞭に基準化するために「財産権(property rights)」と同一視するところから議論をスタートさせ、さらに人権=財産権は人間に特有であるということ、そして自分が自分を自由に財産として所有するという権利すなわち「自己所有権(self ownership)」が財産権に含まれるということの2点が、人権を定義していく上で重要な論拠になりえるということが主張する。

 じゃあ次にそもそも自己所有権を含む人権-財産権がどのように発生し、どのようにして不可侵の領域を発生させるのか、ということの考察を見ていこう。ロスバードはこれを「ロビンソン・クルーソーの所有権」という、いわゆる思考実験を用いて説明する。余談だけど、リバタリアンの著作が面白い(もちろん良い意味で)理由の一つはこういう独創的な思考実験や概念装置を用いて自身の論を説明していくところにあると思うな。次に紹介するつもりのノージックとかもはや変態的ともいえるからね。

 ロビンソン・クルーソーはまぁ有名な話だから説明を割愛してもいいよね。とにかく独りで無人島に流されるんだよ。で、当然ながら無人島なのでそこには未開拓の処女地が広がっている。それで天性のサバイバーだと判明するクルーソーは、こういう土地を有用な形へと変化させて、無人島生活を謳歌していくわけだ。ここで何が起こっているか、いやまぁ読んだまんまのことが起こっているわけだけど、黒々しく説明するならば「クルーソーは自身の人格と労働を土地に刻むことによって、その土地から産出された果物等を自身の財産に転じさせた」となる。ロスバードはこの過程こそにまさしく人の権利が端的に表現されていると述べている。つまり、「自分自身(の人格や労力)」と「それによって産出される外的資産(処女地の開拓や果物の生産)」の2点の関係から人権-財産は構造的に全て説明がつく、というわけだ。無論ここには財の正当な移転(贈与や交換)も含まれている。 そしてこれらはロスバードにとって絶対不可侵の自然権であり、この侵害は誰であっても許されない。ゆえに政府による財産権への介入は人権の観点から否定されることになり、アナルコ・キャピタリズムこそが理想の経済体制であると結論づけられる。

 まぁ「無茶言ってんじゃねーよおっさんw」と言ってしまいたくなる気持ちはあるが、意外にこの自然権という論拠は強力で、反駁の余地はけっこう少ない。例えどんなに高尚な倫理的理由を背景に持っていても、自分の財産が何らかの形で(再)配分の対象になり、もとよりも財産が減っていたら、まず良い顔をする奴はいないだろうし、人権とまではいかなくとも財産権が侵害されたとは感じるだろう。まぁアナキャピはどうかと思うけどね。政府の機能はなにもパタン付き配分を行うことだけではないし。

 このあとロスバードはここまで導出された権利概念の議論を拡大し、いわば応用編ともいえる内容に入っていく。ウィットに富んでて面白いものもあれば、無茶言うなよって感じなものもある。このうち妊娠中絶をめぐる議論はすごく有名なのでピックアップしてもいいかな。

 結論からいうとロスバードは妊娠中絶に賛成の立場をとる。っていうかむしろ奨励しているレヴェルのことを言い出す。さっき言ったように、各人は各人自身に対する財産権、つまり自己所有権を有している。これは後に見るノージックでも核となる概念なので要チェックなんだけど、これを用いれば妊娠中絶の正当化も可能となるのがロスバードの考えだ。つまり、妊婦は自身の身体を所有しており、妊婦が「子どもが必要ない」と感じた際に胎児は自由を脅かし、「妊婦に寄生する侵略者(マジでこの表現やぞ)」ということになる。ここで妊婦の身体に対する権利/胎児の生きる権利という自己所有権同士がぶつかることになる(ちなみにロスバードはここで「譲歩して胎児を人間と見なそう」って書いている)のだが、このとき「寄生」というかたちで自己所有権を侵害しているのは胎児のほうが先なので、ゆえに中絶は正当化されるのである。

 もうこれマッド(ソーシャル)サイエンティストやん。言い換えると他者の自己所有権ないしは財産権を侵害したら、極論ぶっ●してもいいって書いてんだよ。極論過ぎる。僕も実は倫理や規範や正義というものに懐疑的な立場をとっているのだけれども、これ読んだときはさすがに引くわと思ったな。ってな感じで首肯できない部分もロスバードの主張には多々あるのだけれども、それを含めたぶっ飛んだ感じが好きです。リベラリズム系の固くて真面目ちゃんな論述よりも、少なくとも読み物としてはこういうのの方が面白いよね。もちろん正当性は別にして。

 

 

●ロバート・ノージック 1973 『アナーキー・国家・ユートピア』

 ノージックはさっき出てきたロスバードよりもずっと常識人だ。確かに妙ちくりんな思考実験を多用したり、自己所有権への不当な眼差しの例として挙げるのが「イケメンの俺に対する嫉妬」とかだったりはする。それでも本書で展開されたリバタリアニズムはかなり強固なもので、リベラリズムはおろか他の立場にも半端じゃない影響を今日に至るまで与え続けている。分析的マルキシズムのコーエンなんかは自己所有権を否定するあまり、本書に登場する思考実験の論駁だけで一本の論文を完成させたりするからね。それも後々紹介していくことになるだろうけど。

 ノージックは本章冒頭の区分に則るとミナキズムを自然権的に擁護する立場だった。これはロックを引きつつ、1章でアナーキズムの批判から入ることからも明らかだろう。そうそう本書は3つの章から構成されていて、まず1章ではロスバードの掲げるようなアナルコ・キャピタリズムが現実的ではないこと、2章はゆえに最小国家こそが理想の政体であること、3章はそこから展望されるユートピアの可能性についてまとめられている。特に今回参照するのは2章が主かな。ちなみに僕は翻訳者の嶋津格先生の講義に3回くらいモグったことがあります。

 まずノージックにとってロールズでいうところの「正義の二原理」に相当するのが、以下の3点からなる「権原理論(entitle theory)」という配分原理だ。

【権原原理】 (Nozick 1974:255)

 

①獲得原理……各人がある特定の財を正当に獲得し、所有することを認める

②移転原理……各人がある特定の財を正当に移転することを認める

③矯正原理……各人の占有-移転が不正(暴力や詐欺、恫喝など)によるものである場合、それらは矯正されなければならない

 驚くほどシンプルでしょ。それが正当ならば何かを所有したり移転したりしてよくて、不当な場合は矯正されるっていうだけという単純明快なお話。しかし、これ以外の配分原理はミナキズムにおいて認められないとノージックは断言する。実際、論拠がシンプルなほど強力な主張になることは多い。ちなみに③の存在が最小政府を肯定する論拠にもなっている。公権力が存在しない場合、不正に基づく財の移転があっても矯正できないからね。

 またこの権原原理は自己所有権の話と密接に絡み合っている。自己所有権というのはロスバードのところで述べたよう「自分で自分の資質と、それによって産出される外的資産」を所有する権利のことを意味していた。他方、ロールズ『正義論』の解説の最後に、彼が徹底的に資質の恣意性を正義の構想から排した(だからこそ「結果の平等」を擁護する理論になっていた)と書いたが、その恣意的に獲得される資質すら自己所有権は含んでいることになる。ドゥウォーキンもこうした恣意性を「所与運」として、保障すべき対象に設定しているのだけど、そんな感じでロールズ以後の政治哲学において、この自己所有権をめぐる問いというのは長らく主要な議論の場の一つであり続けていた。さらに言えば、おそらく共訳不可能な問題であるように思える。君は「運も当人の資質として所有すべき/恣意的だから保障すべき」という二択から、一切の理想論や感情論抜きで論理的に正しい方を選択することはできる?問題があまりに根源的過ぎて、「個人の考え方による」以外の正解が僕には見えてこない。本当はラッセルの「嘘つきのパラドックス」やスペンサー・ブラウンの「指し示しの論法」とかを引き合いに出して小難しく不可能性を論じたいところではあるけど、ちょっと脱線しすぎるからやめとこうかな。めんどくさいし。

ごめん話がそれまくったね。とりあえずノージックが次にとりかかるのは、リベラリズムを筆頭とした諸立場が掲げているような配分原理が、全て何らかのパタン付き原理であるとし、ハイエクを引き合いに出しながらそれらがいかに不当であるかということを論じていく作業だ。このパタン付き原理というは文字通り何らかのパタンに準拠した配分原理のことを意味している。例えばすでに見たロールズのものは、基本善と呼ばれる誰しもにとって必要な社会的財を「最も恵まれない人に有利なかたちで」というパタンに基づいて配分していく原理だった。しかし、ミナーキストであるノージックの立場からすると、こうした個人の資産への介入は明らかに最小国家が口を出せる範疇の問題を超えてしまっている。ゆえにこれらの原理を有する国家を「拡張国家」と呼んだ上で、批判を展開していくのである。

さらにノージックはリバタリアン的「自由」を尊重した結果、パタン付き原理自体がそもそも成立すらしえない可能性を思考実験によってここでは示唆している。この「ウィルト・チェンバレンの報酬」というのはクソ有名な話なので(さっきコーエンがノージックの思考実験だけで論文一本書いているって言ったのもこれね)、ここで紹介しておこうかな。

 ウィルト・チェンバレンというのは実在したバスケット選手だ。僕はNBAとか全然詳しくないけど、wikipediaを見た限りどうやらけっこうなスター選手だったようだね。とにかくスター選手ということはお客さんがいっぱい来る。この例で登場する社会はとりあえず所得に対して何らかのパタン付き配分原理が採用されているので、チェンバレンを応援しにやって来た客の持っているお金は、あるパタンに基づいて配分されているということになる。このとき、客の所得をD1、チェンバレンが一試合によって得る収入をD2とする。

 先述のように、客の所得D1はパタン付き配分によって構成されたものだった。しかしながら、彼らが正当にD1のうちから入場料の数ドルを払う(移転原理)とき、それは正当にチェンバレンの所得D2に変換され(獲得原理)、この移転には一切の不正がなかったためなにかの介入(矯正原理)があるわけでもない。つまり、どのようなパタン付き原理であっても、チェンバレンが所有しているような資質に対して、現に客がしたように自発的に移転された際、それを「不平等である」と告発するのは明らかに正当性を欠いているって話。ロールズ風にいえばD2は確かにチェンバレンが「恣意的に」獲得した資質によって産出された外的資産だ。しかし一方のD1はパタン付きの配分であると共に「自発的」かつ「正当」に移転されたものなのだ。これによってD1がパタン付き配分原理によるものでも、そうでないものでも関係なくD2が産出されるという帰結をもたらす。

 こういう妙な思考実験を用いるから有名どころのリバタリアンの本は面白いんだよ(たぶん「だから嫌い」っていう人も多くいる)。しかもノージックのこれはロスバードのやつより論理的な強度が圧倒的に高い。ウィルト・チェンバレンの例は明快でエレガントさすら漂うシンプルなものだ。だからこそ固い。もちろんこれでも穴はあって、さっきから言っているコーエンの反駁に分があるとは思うけどね。

 ともかく「チェンバレンの報酬」の話はパタン付き配分とそれを支持する拡張国家に反対する強力な論拠を提供してくれる。この例のあと、ノージックは直接ロールズの『正義論』とりわけさっきからここでも問題になっている「自然的資質に対する恣意的な所有は不当である」という自己所有権に対する見解を緻密に批判していく……のだけど、ここでも例によって妙な批判の仕方を展開していくので非常にまとめるのが面倒なんだよなぁ。一応流れを書いておくと、まずロールズの主張を肯定する[立場A]~[立場D]を順に想定して、AのダメなところをBが、BのダメなところをCが、CのダメなところをDが修正していくの。そして最終的に肯定論としての完成度がA~Cと比較して高くなっているDを抜け道がないように論破することによって、ロールズによる恣意性の否定を批判するという超回りくどいスタイルをとる。それで最終的な結論としては、「各人の保有物を平等にする必要があり、その調整原理が不可欠である」というロールズの主張の前提に根源的な論拠を見出すことができない、それ以上遡行できない、ゆえに不当であるみたいな感じだった。すまんこの辺よくわかんね。ノージックの論じ方に問題あると思うわ。

 しかし、これで終わらないところがノージック。次に否定論者の主張を[立場X]~[立場Z]として整理し、先と同じ要領でこれらを確認していく。本当に厄介おじさんである。こちらは最終的に[立場Z]の段階で「原初状態」が自己所有の恣意性を退けることは認めるものの、そもそもとして原初状態という概念装置そのものが「無知のヴェール」や「二つの道徳的能力」を想定している時点で恣意的なものであり、ゆえにそれを論拠とした配分原理も恣意的であると結論付けている。はっきり言ってこの批判は正しい。いきなりぶっちゃけると概念装置や思考実験を特定の倫理的教説を正当化する際に論拠とすることは論理的にできない。それはノージックがここで主張しているよう、その概念装置なり思考実験なりの設定を論者が考えている時点で多かれ少なかれ論者の当為が恣意的に含まれることになるからである。例えばそれは原初状態における「無知のヴェール」だったり、ロスバードの「無人島にある処女地」だったりする。だから僕はここでのノージックの主張には全面的に賛成する。

 ……おや?っと思った君はちょっと賢いよ。ちょっとね。そうノージックはさっき見たように「チェンバレンの報酬」という思考実験を用いていた。ただノージックの場合では、ロールズやロスバードのように原理を導出するために使ったのではなくて、むしろパタン付き配分原理を否定するのに用いていた点で一線を画している。これをセーフと見るかアウトと見るかは興味深い問いだ。僕の答えを一応書いておくと、セーフであると思う。というのは、そもそも思考実験の孕む恣意性がなぜよくないかということを考えれば明らかになるはずだ。問題は思考実験を恣意的に設定することによって、議論の流れを自分の土俵に方向付けてしまうところにあったはずだろう。つまり恣意的に設定された「無知のヴェール」概念が、「公正としての正義」というロールズの持って行きたい方向に議論を傾けてしまっていることに問題があるというわけ。

 しかし、なにかを批判や否定する際、土俵はすでに設置されている。だってそもそも批判の相手がいないと成立しないからね。すなわちもう条件が設定されているため、持って行きたい方向があっても規定済みの枠組みの中で闘うことがこの場合前提化されているんだな。だからこちらが恣意的に条件を設定する余地はない、ゆえにセーフというのが僕の考えだ。もちろん、批判者側が勝手に設定を組み替えたり、追加したりすることはできるだろう。でもそれは間違いなく相手にばれるだろうし、日常実践的に言えば論点がずれることになるので批判として機能しない。例えば「ビーフカレーは不味い」という命題に対して「シーフードカレーは不味くない」って批判をしている奴がいてもまぁ相手にされないだろう。いわゆるクソリプっていうのがコレだね。少なくともノージックはロールズにクソリプは送っていないので、「ウィルト・チェンバレンの報酬」は正当な思考実験だよって話でした。長々めんご。

 この本は論点が豊富なので、「ロック的但し書き」や「随意的交換の例(合コンの話)」みたいな最低限有名どころは紹介しておきたかったのだけど、紙面の都合や疲労などでこの辺で終わりたいと思います。600頁で厚めではるけど、基本的に翻訳が良いので読みやすいし、何より奇抜な例え話が面白すぎてはまればサクサク読めちゃうはず。おすすめ。

 

 

●デヴィッド・フリードマン 1989 『自由のためのメカニズム―アナルコ・キャピタリズムへの道案内』

 このうきうきデス読書マラソンという企画は、誰に見せることもなく2013年から一人で作っているわけだけど、最初に読みたい著者や本をリストアップして(本当はこのさらに前準備として数冊厚めの解説書を読んで、参考文献リストとにらめっこしている)、読んだら読書メモにまとめ、それが終わったらまた読むという作業を反復していくのが慣例となっている。だから中盤以降に読む予定となっている本は開始時点で全て入手しているわけではなく、「まとめますよ~^^」って序文に書いているのに稀に手に入らない場合が出てくるわけだ。図書館においてないとか、めっちゃ高いとかで。

 今回その運命を辿ったのはこのフリードマンの『自由のためのメカニズム』……いや本当に申し訳ないとは思っている。お値段4,000円で買える。これは大絶賛しといたキムリッカの『現代政治理論』とだいたい同じ価格で、学術書だと平均より少し安いくらい。だが、僕は(ここまでけっこう擁護しておいて)リバタリアニズム、特にアナルコ・キャピタリズムに興味がほとんどない。だって現実的じゃないもん。おまけにこの人は帰結主義ときている。帰結主義の概略は本章の冒頭で解説しといたけど、実は政治哲学で帰結主義はほとんど肯定的に扱われることはない。功利主義が帰結主義であることからも推して知ることができるだろう。配分や経済活動が行われる前に、帰結が予測できるほど人間は単純ではないのである。「何が効率的か」というのは必然的に判明するのが常であって、その不確実性が予測できるのであれば、日本の経済も世界の経済もそもそもこんなことにはなっていない。そういう理由もあって4000円でも買いたくないのである。

 でも、僕はどうしても帰結主義的リバタリアンと自然権論的リバタリアンを対置したかったんだよ。ハイエクとかもこの立場と不可欠だし、なによりここで紹介しようと思っていたデヴィッド・フリードマンの偉大なる父にして、ノーベル経済学賞授与者にして、シカゴ学派の巨頭の一人ミルトン・フリードマンも関わってくる(彼はミナーキストだけど)。かといってフリードマン以外に知っている人もいないし。図書館にあれば迷わず借りるのだけどねー。

 とまぁこういうアクシデントもあるわな。現段階ではこのまま公開する予定ではあるけど何らかの機会に読むことがあればここを更新しておきます。というわけでリバタリアンはロスバードとノージックをまとめて終わりになっちゃったな。父であるミルトン・フリードマンの著作を紹介してもいいのだけど、名著中の名著といわれる『資本主義と自由』は1962年に初版発行で、「ロールズ以後」をまとめている本稿の趣旨から完全に外れてしまうことになる。そもそも父ードマンはハイエクとかとかは関わりあったけど、直接的に規範理論の文脈には関わってこない。経済学者だから当たり前と言えば当たり前だが。というような理由からやめました。

気を取り直して分析的マルキシズムを見ていこう!現段階で分マルとコミュニタリアニズムの計6冊は全て読了しているのでアクシデントはすでに回避している。安心しなよ。

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