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Pierre Bourdieu 1979→1990 『ディスタンクシオンⅠ』

 

用語解説

・卓越化 distinction ……他者から自己を区別し際立たせること。階級分化と既成階級維持の原理。本書のタイトル。

・文化資本 capital culturel ……広い意味での文化に関わる有形・無形の所有物の総体。

→①身体化された文化資本……家庭や学校を通して諸個人の内面に蓄積された知識、教養、技能、趣味、感性など

 ②客体化された文化資本……書物、絵画、道具、機械のように物質として所有可能な文化的財など

 ③制度化された文化資本……学校制度や様々な試験によって付与された学歴、資格など

・学歴資本 capital scolaire ……学校制度によって与えられたいわゆる学歴、それに付随する個人的能力や社会的価値の総体。③制度化された―にほぼ重なるが、①身体化された―にも関わる。学校を通して獲得された文化資本の特殊系式。

・社会関係資本 capital social ……さまざまな集団に所属することによって得られる人間関係の総体。特にそのつながりによって何らかの利益が得られる場合に用いられる概念で、いわゆる「人脈」に近い。

・慣習行動 pratique ……人が日常生活のあらゆる領域において普段おこなっている様々な行動。政治活動から食事、趣味、スポーツ、会話、ちょっとした立ち振る舞いまで含む広汎な概念。

・行為者 agent ……慣習行動の主体として社会的にとらえられた個人。

・性向 disposition ……各行為者の行動や知覚を規定する潜在的方向付け。個人の生得的気質に帰せられるものではなく、多くの場合社会的に培われ獲得された傾向を指す。

・ハビトゥス habitus ……もろもろの性向の体系として、ある階級・集団に特有の行動、知覚様式を生産する規範システム。各行為者の慣習行動は否応なくハビトゥスによって方向付けられ、生産されていく。

・場 champ ……ある共通項をもった行為者の集合、およびそれに付随する諸要素(組織、価値体系、規則など)によって構成される社会的圏域。常に一定の成員から構成される固定的領域ではなく、むしろ上部構造における階級闘争が展開されるにあたり、各分野で成立するダイナミックな「土俵」であり「戦場」。

・社会界 monde social ……社会的存在としての人間によって構成される世界。自然界に対置される概念。

 

 

 

 

序文 p.3-13

「科学的観察は文化的欲求がじつは教育の産物であることを示している。アンケート調査を見ると、あらゆる文化的慣習行動(美術館を訪れること、コンサートに通うこと、展覧会を見に行くこと、読書をすること、等々)および文学・絵画・音楽などの選好はまず教育水準(学歴資格あるいは通学年数によって測定される)に、そして二次的には出身階層に、密接に結び付いていることがわかる。」p.4

→もろもろの趣味(goût/taste)は「階級」を示す特権的指標として機能する。

 獲得様式、幼いうちに獲得したか>大きくなってから獲得したか

      過程で獲得したか>学校で獲得したか もヒエラルキー化されている。

「[…]それらが特徴づける個人の集合(たとえば「学者タイプ」と「社交家タイプ」が識別されるのは、慣習行動(pratique)のこうした不確定要素、つまり振舞い方によってなのだというとことである」p.4

「文化作品の正統的所有化様式についての支配者側による定義は、学校で教えられている学科とは別に、教養ある家庭で非常に早い時期から正統的文化に触れる機会をもらえた人々を、学校という土俵においてまで、有利な立場に置くのだ。」p.5

 

「芸術を愛することの喜びである感情的融合、感情移入という行為も、じつはひとつの認知行為、解明・解読作業を前提としており、そこには遺産として受け継いだ認識法や文化的能力の活用が含まれているということになる。」p.6

→芸術への眼差しも文化資本として相続されたものであるが、獲得行為それ自体は忘れられるため、文化の所有化手段も知られぬままである。「「眼」とは歴史の産物であり、それは教育によって再生産される」pp.6-7

 

〇大衆趣味……虚構や表象に投入するまじめさ(=素朴さ)そのものに、自身の生活状況におけるエートスの図式を適用する。

〇純粋趣味……大衆趣味とは逆に「素朴な」参入を宙づりにし、遊技的な関係の一側面として鑑賞する。「純粋美学は、自然界・社会界の必要性に対して選択的距離をとろうとする倫理に、あるいは適切にいえばエートスに、根を下ろしているのだ。」p.10

→両者の間には、事物に対する「必要性に対する距離の違い」がある

「つまらない対象、あるいは「下品」であるような対象を美的に構成できる能力ほど、またたとえば料理や衣服や室内装飾のような日常生活の最も日常的な選択を行うにあたっても、美学を倫理に付随させる大衆的性向を完全に転倒させて「純粋」美学の原則を持ち込むことのできる資質ほど、分類=階級化作用の強い、弁別的な、卓越的なものはない。」p.11

「じっさい、現実や虚構と関係をもつ多様な方式、そしてそれらが模している虚構や現実を信じる多様な方式、それらは前提となる経済的社会的条件を介して、社会的空間内におけるもろもろの可能な位置に密接に結びついており、またそれゆえにさまざまな階級および階級内集団に特徴的な諸性向の体系(ハビトゥス)のなかに、密接に組み込まれている。趣味は分類し、分類するものを分類する。社会的主体は美しいものとの醜いもの、上品なものと下品なもののあいだで彼らが行う区別だて(distinction)の操作によって自らを卓越化するのであり、そこで客観的分類=等級づけの中に彼らが占めている位置が表現され現れてくるのである。」p.11

 

「趣味と文化消費の学は、まったく美的なところのない一つの侵犯から始まる。つまり音楽や料理、絵画やスポーツ、文学や髪形などに関する好みのように、一見共通の尺度では測れないように思われるさまざまな「選択」を結びつける理解可能な関係を発見する単には、実際この学は正統的文化を他から切り離された世界にしている聖なる境界を廃絶しなければならないのだ。こうした美的消費を通常の消費の世界に強引に置き戻してやれば、カント以来の学問的美学の根本にあるあの対立、すなわち「感官の美学」と「反省の趣味」、感覚の快楽までに還元された感知しうる快楽である「安易な」快楽と、精神的優秀性の象徴となり、また本当に人間らしい人間を定義する昇華能力の尺度となる傾向を持った「純粋な」快楽との対立は、破棄されることとになる。」p.12

→カント『判断力批判』前半部「美的判断力の批判」における高級趣味=反省の趣味=「純粋な」快楽/低級趣味=感官の美学=「安易な」快楽の二分法。ここでは低次の趣味と高次の趣味という美学的な二分法が、それらの共通項を文化資本から暴くことによってもはや不当であるということが述べられている(?)

 

 

第Ⅰ部 趣味判断の社会的批判

1 文化貴族の肩書と血統 p.18-151

「趣味———それは支配階級という場(champ)、および文化生産の場を舞台としてくりひろげられる闘争において、最も重要な争点をなすもののひとつである[…]」p.18

「社会学にとってはさらに、見かけ上自明のように思われるに過ぎないこの関連性そのものを、問いに付すことが必要となってくる、そして趣味の形成と学歴資本との関連性が、学校では教わることのない諸分野においても全く同じくらい強固であるという逆説がどうして成り立つのか、その理由を探ってみる必要がある。[…]だから問われなければならないのは、問いかけそのものなのだ。つまり[趣味の形成に関わるいくつもの要素のうち]なぜ文化=教養との関連が暗黙のうちに優先されて問われることになるのか、そのこと自体を問わなければならない。」p.19

 

「文化の様々なゲームは、そこに巻き込まれた人々が互いに相手を客観化しようとして行うあらゆる部分的な客観化行為のおかげで、かえってそれら自体は客観化されることを免れる仕組みになっている。だから学者たちは、自分自身の真実をつかむことを諦めるのでないかぎり社交家たちの真実をつかむことができないのだし、逆もまたしかりなのである。」p.20

→文化ゲームにおいて人々は他者を趣味の違いから客観化しようと努める。しかしことのき、文化のゲームそれ自体は客観化されることを免れることになる。「文化の生産行為および生産者を扱う社会学がこうした対立的イメージの戯れをこれまで逃れたためしがなかったのは、客観的にものごとを明白化する作業が、その出発点となる視点の把握をちゃんと行わないかぎり、したがってゲームを全体として構成する作業を行わないかぎり、部分的、それゆえ誤ったものに留まってしまう運命にあるからである。」p.20

 

〇性向や文化的能力が、行為者のカテゴリーがことなるとどのように違ってくるのか/それらの性向や能力が適用される領域(絵画や音楽など正統的領域から衣服や料理といった日常的領域)によって/「学校内」および「学校外」の市場において提供されるのかによって、どのような違い・変化を見せるのかを観察するため、2つの基本的事実を確認する。

①文化的慣習行動が第一に学歴資本、二次的には出身階層に極めて密接な関係で結び付いている

②学歴資本が同等である場合には、正統的分野から遠ざかるほど、出身階層の占める比重が増してくる

「[…]それ(文化資本)がどの程度適切な標識としてこれを保証しうるかという度合いは、文化資本が家族から相続されたものであるか学校で獲得されたものであるかによって異なってくるので、けっきょく学歴資格はこの文化資本の指標として、その妥当性がまちまちであるということになる。」p.22

 

「消費者の選択にゆだねられたあらゆるものの中で、正統的な芸術作品ほど分類=等級づけ作用の強いものはない。それらは全体として他から区別される一方で、ジャンル別、時代別、手法別、作者別などの区分・下位区分をおこなうことにより、その内部でも無限に細かい区別を生み出してゆくことを可能にするのだ。こうして連続的に分割をかさねてゆくことによって次々と作り出せるいくつもの独自の趣味の世界の中では、大まかな対立関係にだけ限って言うなら、三つの趣味世界を区別することができる。」p.26

①正統的趣味……正統的作品への嗜好。学歴水準が高くなるほど増大。

[ex.]バッハ、ブリューゲル、ゴヤ、ジャズ、映画などの途上の正統文化において審美家たちが正統なものとして上の系列に加えてよしとする作品群

 

②「中間的」趣味……メジャー芸術のマイナー作品とマイナー芸術のメジャー作品。中間階級において一層高い頻度で観察される趣味。

[ex.]ラプソディー・イン・ブルー、ハンガリー狂詩曲、ユトリロ、ルノワール

 

③「大衆的」趣味……通俗化によって評価の落ちてしまった音楽。芸術的野心や欲望を完全になくしてしまったシャンソン歌手など。学歴資本とは反比例の関係にある。

[ex.]軽音楽、美しきドナウなど

 

 

文化貴族の肩書

「学歴資本と、音楽や絵画のように学校教育とは縁の薄い分野——ジャズや映画はもちろんのこと——での知識や慣習行動のあいだには、このような密接な関係が成立するのであるが、これほど密接な関係がみられるときには、たとえば美術館を訪れる頻度と学歴資格との相関性のように、この関係自体にいったいどのような意味がるのかという問題が、きわめて尖鋭なかたちで突き付けられることとなる。」p.29

→「職業や年齢、性別などの要素と、『平均律クラヴィーア曲集』や『左手のための協奏曲』への嗜好とを関連付けてみせる表の中にしるされているものを正しく解釈するためには、ただやみくもに指標を用いることは避け、また同時にある特殊な経験の一般化に過ぎないような本質分析とも手を切り、これらの作品がある時点において社会的行為者の全体にとってもっている意味、また特に、これらの作品によって種々に区別されたり、これらの作品をめぐって意見が対立したりするような、いろいろなカテゴリーの個人(特殊ケースではこれらの作品の後継者たちや遅れて出てきた人々など)にとってもっている、たがいに矛盾する多様な意味を、完全に明らかにしなければならないだろう。」pp.31-32

〇作品、作曲者、楽器のイメージ/粗階級との関係/それをどのように受容するのかという相関関係 これらの関係性の中で、作品がまとう分布上の諸特性を明らかにする必要がある。

 

「一定と見なされた変数とさまざまな慣習行動との関係の代わりに、こうした一連の効果を持ってくること、すなわちひとつの同じ指標といくつもの異なる慣習行動との間の統計的関係のなかに現れると同時に隠れてもいるような、社会学的に理解可能な一定の諸関係を持ってくることができるとすれば、それはただ関係それ自体を対象として取り上げ、しかもそれが統計学的に意味しうることを問うのではなく、その社会学的な意味をこそ問いかける、そうした作業によってのみである。」p.36

 

肩書の効果

「家庭からの相続文化資本と学歴資本との間に成立する関係が分かっていれば、音楽や絵画の分野での能力(そしてその能力から予想されまた可能となる慣習行動)と学歴資本との間に強い相関関係が見られるとしても、それをただ学校教育制度のさようのせいにするわけにはいかないだろう。」p.37

→学歴資本は家庭による文化伝達と学校による文化伝達の双方にまたがって構成されるため。

「だからこそまず第一に、学校教育機関の及ぼす効果の中でもおそらくは最もうまく隠蔽されているもの、すなわち肩書の付与によって生み出される効果に、注意を止めなければならないのだ。」p.38

→ポジティブな肩書は貴族化/ネガティブな場合は烙印付け。

 

〇(学歴資本による肩書の付与が伴わない)独学者は本性上の差異によって区別される。

[ex.]料理法や植物栽培法、職人的技術など

→肩書の付与が伴う場合——学校教育制度の目的と手段の中に盛り込まれる企図に基づく独学は、「正統的独学」として対置される。

「だからある特殊な能力を形式上保証するような学歴資格(上級技術者の資格のような)のうちには、それが権威ある肩書であればあるほど、その持ち主がそれだけ幅広く広汎な「一般教養」の保証者であることを実質上保証するということが暗黙の裡に含まれているのである。」p.40

→象徴的強制効果=ある学歴資格の持ち主に、それにふさわしい教養を身につけるよう強いてくるような効果は、文化ブルジョワジーたるための資格免状について最も強く作用する。

→日記をつける、厚化粧をする、劇場やダンスホールに通うといった実践も、教育機関の内部で当人に割り当てられた位置づけの中に、暗黙の要求として含まれていることがありうる。

「この種の能力はだいたいにおいて、それと気づかぬうちに習得されてゆくものであり、それは家庭や学校で正統的教養を身につけてゆく中で獲得される一定の性向によって、可能になるものである。つまりこの性向は、一般に応用できる一連の知覚・評価図式をもっているので、他の分野にも転移することが可能であり、したがって他の様々な文化経験へと向かい、それらをこれまでとは別の仕方で知覚し、分類し、記憶することを可能にしてくれるわけだ。」p.45

〇上述のことから、学校教育機関では教わらない文化的慣習行動が、やはり学歴資本と密接に結び付いている理由がわかる(それらは象徴的強制効果によって、身分相応の教養や振舞いとして獲得されることを強制される)。

→特にこれは美的性向において最も厳しく要求される

「学歴が美的性向を見につけて行く能力の保証としてあらわれてくるのは、それがあるといはブルジョワ階級の血統に、あるときは長時間学校に通うことで得られる準ブルジョワ的な存在様式に、あるいは最も多いケースとしてはこれら二つの特徴が組み合わさったものに結びついているからなのである。」p.46

 

美的性向

「正統的作品はすべて、それ自身を知覚するための規範を押し付けようとする傾向を実際に持っており、ある特定の性向や特定の能力を活用する知覚様式を、暗黙の裡に唯一の正統的様式として規定するものであるが、このことを認識することは[…]あらゆる行為者がそう望むと望まざるとにかかわらず、またそれに適応するすべをもつともたざるとにかかわらず、否応なくこれらの規範に照らして客観的に判定されてしまうのだということを、確認することなのである。」p.46

→文化作品の受容がある階級では豊かで、ある階級では貧しいという条件を明るみに出すことができる。

 

〇美的性向の本質(主義的)分析は、教育機関の必要性を根拠づけている歴史的過程を無視するため成功することはない。「すなわち芸術作品をまさしく芸術作品として捉える「純粋」知覚という理想は、相対的に自立性をもった芸術領域を構成するにあたって必要とされる、いわゆる芸術としての正統性を支える諸原則の明白化および体系化の産物なのだということである。」p.48

→美術館とはこの要請の客体化したもの=制度という形で構成された美的性向

 

純粋趣味と「野蛮趣味」

「そしてこれからは鑑賞者の側も、芸術家が(知識人の場全体と協働しつつ)作品を生産するさいにおこなった操作を再—生産する(反復する)ことを要請されることになる。」p.50

「オルテガは言う、「このことは、ある人たちが別の人たちにはもつことのできない理解期間を所有しているということであり、彼らが人間でも全く異なる別の人種であることを意味している」。」p.50

「ストラヴィンスキーの音楽やピランデルロの劇は、庶民に自分があるがままの姿を、すなわち<ただの庶民>、社会構造の数ある構成要素の一つ、歴史過程における無力な材料、精神的世界の二次的な要因でしかないような自分の姿を、否応なく目に入れさせるという社会学的な力をもっている。」p.51

→(※カントがいう)純粋な視線とは卓越化によって規定されるものであり、素朴な視線(=野蛮趣味?)との位相のなかで定位される。

 

大衆「美学」

〇先述の通り純粋な視線は素朴な視線との位相の中に成立する。「「大衆美学」が、芸術と生活との連続性を肯定すること——それは当然、機能に対して形式を従属させることを意味する——の上に、あるいはこう言ってよければ、普通の性向といわゆる美的性向との明確な断絶を旨とする学問的美学のまさしく根本にある(人間的なものへの)拒絶を拒絶することの上に、成り立っているようである。」p.53

「[大衆趣味の]ゲーム(演戯)のなかに入り込みたいという欲求は、自己投入の一形式、すなわち感激しやすい観客の「素朴さ」、純粋さ、信じやすさといった一種の態度決定(「楽しむために劇場にいるのじゃないか」)の上に成り立つものであるが、こうした態度決定は形式上の探求やいわゆる芸術的効果を、それらの存在が忘れられて作品の実体そのものを妨げないかぎりにおいて受け容れない傾向があるのだ。」p.54

「形式上の探求というのは、文学においても縁覚においても難解さに行きつくのであって、大衆の目にはそれが、素人を近づけまいとする意図、あるいはテレビのいくつかの教養番組についてのアンケートが示しているように、「大衆より上にいる」他の玄人たちに語り掛けようとする意図を示す指標の一つに見えるのである。」p.55

→大衆的見世物は「その場を共有している」という集団的参加による感情を喚起し、ストレートな満足を提供する/文化レベルが高い趣味においては形式上の探求を必要とし、これが大衆の参入を妨げようとする意図を示す指標となる。

 

美的差異化効果

〇こうした大衆に対置されるのは唯美主義者である。「唯美主義者は、ウェスタンとか漫画といった大衆趣味の対象を何か一つ自分のものにするときは必ずそうするのだが、登場人物や波乱に富んだ筋などの「内容」にたいする興味を形式のほうへ、つまりいわゆる芸術的効果[…]のほうへずらすことにより、「第一段階」の知覚に対してひとつの距離、ひとつの隔たり、すなわち他人から距離を置こうとするおのれの卓越化の尺度をもちこもうとする。」p.57

「したがって以下のものほど、さまざまな階級を厳密に区別するものはない。すなわちまずは正統的な作品を正統的に消費するために客観的に要求される傾向であり、次いですでに美的に構成された——したがって驚嘆すべきもののしるしを見分けるすべを身につけた人々の驚嘆の的になるような——対象に対して文字通りに美的な観点をとる適正。そしてさらにまれではあるが、つまらない対象、あるいは(びてきなしかたであるにせよないにせよ、「一般対象」がそれらを所有化しているがゆえに)「下品」であえあるような対象を美的に構成したり、料理や衣服や室内装飾のような日常的な最も日常的な選択にまで、「純粋」美学の原則をもちこんだりする能力、といったものである。」p.61

 

反カント的「美学」

「大衆「美学」が、その論理を再構築しようと試みるときにカント美学の否定的な裏返しとして現れ、また大衆のエートスが暗黙の裡に、カントによる美の分析法の各命題にそれを否認するようなテーゼを対置するのは、決して偶然ではない。」p.64

→庶民階級=大衆美学は、あらゆるイメージが機能として役割を果たすことを期待しており、道徳や楽しみといった規範への参照をしばしはっきり表明する。

 

〇大衆美学において、イメージは鑑賞者によって各々の可能な用途を区別することになる(=自分に合った機能を探る)ため、必然的に多元的なものとなる/普遍性を排したものとなる。

[ex.]妊婦を題材にした作品に対して「私はよいが、他の人は駄目だろうね」

→「趣味は、魅力や感動といった要素を満足度に交じり合わせるとき、そしてさらにはそれを自らの与える同意の尺度にするとき、つねに野蛮なものとなる」(カント)

 

〇逆に前衛演劇や抽象画など、機能に落とし込むのが困難な作品に対して庶民は当惑する傾向がある。「前衛演劇や非具象絵画の形式上の探求、あるいは単にクラシック音楽などが人を面食らわせるのは、ひとつにはそれらが記号としてなにを意味しているはずであるのか理解することができないような気がするからである。」p.67

 

美学、倫理学、唯美主義

「正統的芸術作品に対したとき、その分野の能力の最も貧しい人々は、それらの作品にエートスの図式を採用する[…]彼らは芸術上のものをシステマティックに実生活上のものへと「還元」し、「人間的」な内容のために形式を括弧に入れてしまうことになるのだが、これこそまさに純粋美学の見地からすれば野蛮性に他ならない。」p.68

[ex.]老婆の手の写真(p.69)を見せた際、もっと貧しい階層の人々は自分の体験と作品を結び付けて解釈する。

 

〇野蛮趣味に対置されるのは唯美主義。「芸術的意図を生き方の原則とする唯美主義は、一種の道徳的不可知論を含んでいるが、これは芸術を生き方の上での諸価値に従属させようとする倫理的性向の、完全なアンチテーゼである。芸術的意図は、エートスや倫理学の諸規範のさまざまな性向、すなわち表現されうるものの世界からある種の現実やそれらを表現するいくつかの方法を排除することで、正統的な対象と表現様式をそのたびごとに、さまざまの異なる社会階級について規定するもろもろの性向に、どうしても対立するものなのだ。」p.73

 

「プチブル美学というのは、芸術を生き方の基本的諸価値に従属させるものであり、芸術家的生き方のシニカルな退廃の中に、形式に絶対的優位性を与える考え方を見るものである。」p.75

 

中性化と可能性の世界

「芸術作品のいわゆる美的な知覚の仕方(その達成度はもちろんさまざまであろうが)は、特定の性格を持たない知覚の仕方とは異なって、社会的に形成され獲得されたひとつの関与性の原理をそなえている、この選択原理によって美的な知覚は、視線に提示されたさまざまな要素(たとえば「これはポプラの木だ」とか「嵐になりそうだ」といった具合に、外示機能を与えられた指標ないしは記号としてのみ与えられた木の葉や雲)などのなかから、数々の様式的可能性の世界に置き戻した場合に、木の葉であれ雲であれ、そこでとりあげられた諸要素の特殊な扱い方を他から区別するようなあらゆる様式的諸特徴、つまりある時代・ある階級または階級内集団・ある芸術家グループや個々の芸術家などに固有の知覚や思考様態がそこに現れてくるような、表現様態としての様式を他から区別する諸特徴だけを、拾い上げるわけである。」pp.77-78

→様式的特徴を捉える能力としての美的性向は、芸術的能力と切り離せない。はっきりとした学習の結果として現れることもあれば、無意識的に作品を何度も鑑賞することでも培われる。

→これによって芸術作品をあらゆる芸術作品から成る全体集合との関係において規定されるひとつの集合の中に定位させることが可能となる。「この教養に裏打ちされた他作品への暗示と、限りなく次々と他の類推へと差し向けていく類推[…]の戯れは、たがいに明応し強め合う様々な疑似体験の、目の詰まった網を作品のまわりに張り巡らせる。そしてこの網が、芸術的観想の魅惑をなすものなのである。」p.82

 

必要性への距離

〇正統的作品が要求するこうした「無償」で「無私」の自己投入の傾向は、学歴資本が大きくなるにつれて高まる。

→この分析には学校教育での道具や、美的性向の参照対象を明らかにするだけでは十分ではない。「こうした関係のなかで実際に現れて来るもの、それは物質的生活条件に対する美的性向の依存性である。この物質的条件は、過去のものであれ現在のものであれ、美的性向の形成条件並びに活動条件であり、と同時にまた、経済的必要性の外側へいわば隠遁するという代償を払わなければ獲得できないような(学校によって認可されている場合もいない場合もある)文化資本の獲得条件でもある。」p.83

「経済的必要性をとりあえず宙吊りにしておくという点で、また差し迫った実際上の必要性にたいして客観的にも主観的にも距離を置いているという点で、特徴づけられる。そしてこの距離は、これらの決定論にしたがう社会集団に対する客観的・主観的距離のもとになるものなのだ。」p.84

「美的性向とは、日常的な差し迫った必要を和らげ、実際的な目的を括弧に入れる全般化した能力であり、実際的な機能をもたない慣習行動へ向かう恒常的な傾向・適性であって、それゆえ差し迫った必要から解放された世界経験の中でしか、そして学校での問題練習とか芸術作品の鑑賞のようにそれ自身のうちに目的をもつ活動の実践においてしか、形成されえないものである。」p.85

「ルールの決まったゲームや練習のための練習をおこなう学校の世界は、少なくともこの点では「ブルジョワ」の世界やそのきわだった希少性をつくりだす「無私」で「無償」の数え切れぬほどの行為から、そう見えるほど隔たってはいない。」p.85

「必要性への客観的な距離が大きくなるにつれて、生活様式はますますウェーバーが「生活の様式化」と呼んでいるもの、すなわちワインなどの製造年代やチーズの選択、田舎の別荘の室内装飾といった、ありとあらゆる慣習行動を方向付け組織だててゆく一貫した方針の産物に、なってゆくのである。」p.87

 

※ここすごく重要なのだが、いかんせんわかりにくいので整理。めちゃくちゃ月並みにまとめてしまえば、「日々の生活に追われていなければ、追われていないだけ高次の文化を楽しむ余裕ができる」みたいな話。

〇前節、前々節で確認したように、

庶民=野蛮趣味……作品を自分の生活に結びつけ、特定の感情が喚起するのを楽しむ=機能として鑑賞する

⇔ブルジョワ=唯美主義……作品を自分の生活から切り離し、作品の置かれている全体集合の位相から解釈する=形式として鑑賞する

〇これらを踏まえ、美的性向とは実生活上の要請すべてを括弧入れして、機能をもたない慣習行動へと向かう傾向・適性と整理できる。

→そして美的性向は学校のようにその内部と外部である程度切り離されている空間=実生活が括弧入れされる空間に見出すこともできる。

〇また日々の必要性への距離がとれればとれるほど、慣習行動を方向付けしてくれる方針の指針となっていく。

 

卓越化の感覚としての美的感覚

「かくして美的性向とは、客観的な安全性と距離とを前提とした、世界や他社に対する距離を置いた安全な関係の一側面である。それは生活条件のある特定の集合に結びついた社会的条件付けが、ある時点において、経済的必要性の束縛にたいして考えうるかぎり最大の自由という逆説的なかたちをとるときに生み出す諸性向の体系のひとつのあらわれなのだ。」pp.87-88

「趣味(すなわち顕在化した選好)とは、避けることのできないひとつの差異の実際上の肯定である。[…]そして趣味goutsとはおそらく、何よりもまず嫌悪なのだ。つまり他の趣味、他人の趣味にたいする、厭わしさや内臓的な耐えがたさの反応(「吐きそうだなど」といった反応)なのである。」p.88

→「趣味goutsについては議論しないもの」という諺が端的にあらわしているように、趣味が自分の本性に根付いていることを人々は知っている。

※ここはとても大切。趣味hobbyが一義的には嫌悪として=「趣味が悪い(bad taste)」といった形で観察される事実を考察したものに『趣味はなぜ社会学の問題となるのか』(岡澤 2017)がある。

 

「美学上の不寛容は、恐るべき暴力性をもっている。異なる生活様式に対する嫌悪感は、おそらく諸階級間をへだてる最も超えにくい障害の一つであろう。階級内婚がそのいい例だ。そして正統的趣味の保持者をもって自認する人々にとって最も耐え難いのは、何よりもその趣味によれば分けなくてはならないいくつかの趣味を冒涜的に結び合わせてしまうような行為である。」pp88-89

→芸術家や唯美主義者のゲームが見かけほど無垢ではないことを意味する。「すなわちある任意の生き方を正統的な生存様式へとしたてあげて、他のあらゆる生き方を恣意的なものとして退けようとするものである。」p.89

 

〇生活様式の趣味(服装や室内装飾など)の卓越化ゲームでは諸社会階級において以下のような態度がとられる。

大ブルジョワ・芸術家(専門家)……生活様式の基本的性向を美学原理に、客観的差異を選択区別に、受動的選択を美学的な態度決定に戦略的に変えることができる

 

プチブル……生活様式における美的指標を他者の判断にゆだね、分類=等級づけを行っていると認識しつつも、そこに不安を抱く

 

庶民……引き立て役として、上記の階級から否定的に参照されるにとどまる

→まず庶民は完全に上位階級の引き立て役に過ぎない。「卓越化の意図はプチブルの唯美主義とともに現れてくるのだが、この唯美主義は[…]庶民階級の「美学」との対比によって定義されるものである。」pp.90-91

「しかし今度はこの「中間的」唯美主義が、次のような人々にとっては引き立て役として役立つことになる。第一に中間階級の新興層の中でも、最も知識の豊かな人々にとってであり、彼らはこうした唯美主義のお気に入りの被写体を拒否する。また第二に中等教育教授層にとってもそうであり、彼らの消費者としての唯美主義(どちらかといえば彼らは写真粗歩他の芸術をあまり自分ではやらない)は、プチブルの「中間芸術」によって構成された被写体を除けばどんな被写体でも美しいものとして構成することができる。」pp.92-93

→明示的な美学的選択は「自分よりも下位の社会集団に対して卓越性を明確に示そうとする意図=上昇志向」が最もはっきりと顕在化する選択によって形成される。

「芸術家はさらに、一つの点で「ブルジョワ」と一致する。つまり「上昇志向」よりは「素朴さ」を好むという点で。「プチブル」の野心をかきたてる芸術への(あるいは権力への)上昇志向を知らないという、本質的な長所をもっている。」p.97

※本書では明言されていないが、上述のことを整理すると、

庶民…引き立て役  芸術家/プチブル……上昇志向よりも素朴さを好む

ということで、差異化のゲームが最も苛烈に行われるのは上昇志向の強いプチブル=中間層の界においてであることがわかる。

 

文化貴族の肩書

「学歴資本が同等の場合には、出身階層の差異(その「効果」はすでに学歴資本の差のうちに表されている)が、さまざまな重要な差異につながっていく。これらの差異は、まず第一に、(自分と他者を比較するにあたって)それ自身厳密でありかつ厳密に検定できる能力に訴えかける度合いが少なく、文化との一種の親しみ深さといったものを引き合いに出すことが多いほど、そして第二に、最も「学校的」で最も「古典的」な世界から遠ざかり、学校という市場においてその価値を受け取りはするものの、学校によって教えられることはないために、数々の機会に極めて高い象徴利潤を生み、大きな卓越化利益をもたらすことができるいわゆる「自由」教養の中でも、より正統性が少なくてより「危険な」分野の方へ踏み込んで行けば行くほど、それだけ大きく明白なものとなる。」p.98

[ex.]学歴資本が同等の場合、提示された音楽作品のうち十二曲以上知っていると答えた者の割合は、庶民階級から支配者階級に移るにつれてはっきりと増加する

[ex2.]出身階層に結びついた差異は、学校活動の目標の中心から遠ざかるにつれて、すなわち文字から絵画やクラシック音楽へ、さらにはジャズや前衛芸術へと移るにしたがって、しだいに大きくなる傾向がある。

 

振舞い方と文化の獲得方式

「文化的(あるいは言語的)能力は、それを教え込む機関として機能すると同時に市場としても機能するようなある一つの場との関係の中で獲得されるものなので、その獲得条件によってどうしても規定されることとなる。」p.101

→教育水準・出身階層の指標を通して把えられるもの=培われたハビトゥスの生活様式でもある。

 

「方式(やりかた、流儀)というものがひとつの象徴的な意思表示であり、その意味や価値がこの方式を生み出すものに依存するのと同じくらいにそれを知覚する側の人々にも依存しているのだということを承知していれば、象徴財、とりわけ卓越化の戦略の道具、プルーストの言葉を借りれば「隔たりを示すための限りなく多様な技法」の道具にもなることを理解できよう。」p.102

→自然な趣味というイデオロギーが、文化的能力とその利用法の二様式を通して対立させるもの——二つの文化獲得様式

→①幼少期から過程で行われる体験的習得=学校における学習に引き継がれ完成する/②遅くから始まり、系統的で加速された習得形式からはっきりと区別される=言語や文化に対する関係の在り方において区別される

 

「学校制度は趣味の実践的原理にたいする象徴支配(その適合性は場合により異なるが)を可能にするのだが、それは文法が行っているのとまったく同様の操作によってなのだ。つまり「美的感覚」をすでにそなえている者の内部でその感覚を理論化し、思いがけぬ即興にまかせるのではなくて、いろいろな規則(たとえばハーモニーやレトリックの規則など)、規律、処理法などを参照する手立てをこの感覚に与え、趣味の実践的原理によって生み出される美学それ自体の客観的体系性のかわりに、学問的美学の意図的な準体系性をもってくる、そういったしかたによってである。」p.104

→趣味を自発性ではなく、理論・理屈によって教化しようとする試みであり、唯美主義者はこうした教育学的態度に対して道義的嫌悪を抱く。「つまり「学校的」で「書物的」なところがいっさいなく、容易かつ自然に、本当の文化とは自然であり処女懐胎の新たな秘儀であるということを示すような関係、そういった関係だけを唯一正統的なものとして認めることによって、現実の差異を自然化するのである。」p.105

 

「学者」と「社交家」

「文化の獲得様式における差異、すなわち支配階級に到達した時期の古さの差異がその中に現れている振舞い方における差異は、だいたいにおいて所有資本の構造上の差異に結びついており、ちょうど文化資本の差異が階級相互間の差異を示すのと同じように、支配階級それ自体の内部における差異をしるしづける傾向がある。」p.106

→獲得様式が支配階級を二つの立場へと分断する(※ここでは支配階級/中間階級/庶民階級という階級間差異ではなく、支配階級内部での差異について論じている)

①「学校的」(「衒学的」)=学者……「文学作品の概念に対して彼ら(バルザックやアリストテレス、ファレetc)が与えようとしている諸規則を求め、それらを理性のうちに基礎づけようと努める。」p.107

 

②「社交的」=社交家……「規律にわずらわされることを拒否して自らの快楽を審判者とし、「曰く言い難いもの」や礼儀作法の繊細な完璧さをつくりだす無数のこまごましたニュアンスに固執する。」p.107

「そしてこれらの方式=振舞い方は「それ自体がまた一種の美徳であり」、それらを通して、支配階級内の各集団がどのような順番で、またどのような仕方でこの階級に到達したのかということが明らかになり、あるいはふと露呈するのである。」p.107

 

経験と学識

「イデオロギーとは、利害関係に染まってはいるが、それなりに正当な根拠を持った幻想である。学識に対して経験を担ぎ出す人は、文化の過程における習得と学校における習得との対立という事実を、次節の根拠としてもっている。」pp.118-119

[ex.] 『左手のための協奏曲』や『子供の魔法』などの作品の選択は文化資本より出身階層に密接に結び付いている/『平均律クラヴィーア曲集』や『フーガの技法』などの作品の場合には、出身階層よりも文化資本に結びついて選択される。

→ここに文化資本の獲得様式——家庭と学校両方において行われるか、それとも完全に学校だけでなされるか——のうちにその原理を見出すことができる。

→一方はレコード愛好家のための音楽/他方は意味するよりも感じられるものの方を好む

「前者はコード(この語のあらゆる意味において)や規則、すなわち学校や批評と結びついており、また後者は自然や自然なものの側にあって、ただ感じること、あるいは今日好んでよく言われるように、楽しむことで満足し、知性主義、教訓主義、衒学主義などのあらゆる痕跡を芸術的経験から排除するのである。」p.120

 

生まれた世界

「厳密にいえば、物質的遺産のうち同時に文化的遺産でないようなものは存在しない。そして家族財産は単に家計の古さや連続性を物質的に証しだて、それによって時間における永続性という断ち切りがたい社会的自己同一性を神聖化するだけではなく、家系を精神的に再生産すること、すなわち、ブルジョワ家系への正当な所属を根拠づける価値や美徳・能力などを後代に伝えていくことに、実際的に寄与するという機能もまた果たしている。」p.121

「要するにそれは、口に出して表明された意見よりもむしろ強く、ある階級の統一性を無意識のうちに基盤づけている好みや嫌悪、共感や反感、幻想や恐怖症などへの直接的な参入、ハビトゥスの最も深いところに刻み込まれている直截的な参入なのである。」p.121

→客体化された文化資本が、支配階級の世代間の繋がりにおいて、精神的な紐帯を形成しているという話。

[ex.]絨毯や床の感触、香水の匂いなど身体的経験もここに含まれる。「インテリアや所有する家具の出どころを形容するために選ばれる形容詞が(写真についての判断や作曲家についての知識のケースとは反対に)、学歴資格よりも、むしろ出身家庭の社会的地位に密接に関係しているのは、たぶん衣服や家具や料理に、あるいはもっと正確にいえば衣類や家具や食物の買い方のうちに投入される性向や知識ほど、年少児の体験的習得、とりわけあらゆる明白な教育活動の外で達成される習得に、直接依存しているものはほかにないからだ。」p.123

→特に味覚=食物の好みこそ最も強烈で最も不変のしるしが見いだされる。

 

相続資本と獲得資本

「このように。学歴資本との関係では説明つかず、主として出身階層との関係において現れてくるさまざまな差異は、現に所有されている文化資本の獲得様式における差異から出てくるものであると言える。しかしこれらの差異はまた、この資本がどの程度学歴資格によって承認され保証されているかという、程度の差異からもやはり生じうるものである。」p.126

→実際に所有されている資本が家族から直接相続されたもの、あるいは学校教育において獲得された場合においてでも、その資本の一部は学校制度による承認を受けていないことがありえる。

「保証された文化資本としての学歴資本の量が同じであっても、それが社会の中でその人に利益をもたらす文化資本としては量がまちまちでありうるのは、なによりもまず学校教育機関が、証明書の発行を独占することによって、相続文化資本を学歴資本へと転換する操作をその手に握っているのにもかかわらず、文化資本の生産そのものを独占してはいないからである。」p.126

 

「学歴資本と、実際に所有されている文化資本とのギャップは、同等の学歴資本の持ち主たちの間で差異を生み出すもととなっているのであるが、このギャップはまた、同じ学歴資格でも、それがどのくらい期間学校で学んだ結果得られたものであるかということについては非常にまちまちでありうるという事実から生じるものである(学校教育で獲得された文化資本の不均等な転換効果)。」pp.128-129

→これらの多様な世代様態には、学校教育機関によって保証されていないような文化投資=独学の多様な戦略の中に現れてくる。

旧式の独学者……文化=教養に対して、正統的学校教育から排除されたために、誤った方向の熱烈な敬意を抱いている。これは正統的文化の保持者には滑稽な賞賛として目に映る。

 

新式の独学者……正統的文化に対して「解放された」と同時にさめた関係、親密であると同時に幻滅した関係を維持している。

→学校教育において軽蔑されている漫画やジャズ、心理学や生態学に熱心な自己投入を行う傾向が強い。カウンター・カルチャー系の雑誌の読者。

 

二つの市場

「家庭と学校はたがいに切り離せないかたちで、その時代のある時点で必要と判断された能力がまさにその能力を使用していく中で形成されてくる場所として、またこれらの能力の価格が形成されてくる場所として、機能する。」p.133

→各人の成果を検定する市場として機能する。許容できるものには力を与え、そうでないものからは勢いを奪う。「言い換えれば文化的能力の獲得は、文化的自己投入の投資感覚がそれと気づかないうちに獲得される過程と切り離すことができでない。」pp.133-134

 

〇ここでは便宜上、経済学用語から拝借された表現が用いられているが、(経済学が想定するホモ・エコノミクスのように)利潤を最大化する合理的行動に基づいていることを意味しない。「例えば「アンヴェスティスマン」investissement(=investment)という言葉が二重の意味で理解されなければならないということを意味する。つまり経済的投資という意味[…]と精神分析がこの期に与えたカセクシスという意味、あるいはもっと適切にいえば、思い入れ、信じ込み、まきこみ、ゲームの産物であると同時にそれを生み出しもするゲームへの参入といった意味との二つである。」p.134

→文化的能力の獲得がシニカルで打算的な自己投入への投資感覚ではなく、心からの熱狂や自分の誠実な喜びに従っているということ。

 

「ある分野の正統性の度合いが高ければ高いほど、能力はそれだけ強く要求され、それだけ「割のあう」ものとなり、いっぽう無能性の方はそれだけ厳しく裁かれ、それだけ「割のあわぬ」ものとなる。しかしこのことだけでは、以下のことを説明するのに十分ではない。つまり、正統性の高い分野になればなるほど、学歴資本に関係した統計上の数値の差が大きくなるのはなぜなのか、そして一方、逆に正統性の低い分野になればなるほど、すなわち料理やインテリア、友人や家具の選択などように、考えの浅い人々が趣味や傾向として片づけてしまっている分野になればなるほど、社会的軌道(および資本の構造)に関係した統計上の数値の差が大きくなるのはなぜなのか。」p.136

→自由投資への傾向とその投資が向けられる土俵は平均利潤率(=ある教養Aが別の教養Bよりも学校などの市場において高い平均利潤を与える割合)ではなく、個別的利潤率(=個々の行為者との関係の中でしか決定されない利潤)によって決定される。

[ex.]庶民階級・中間階級出身小学校教員や教授のようにその主要な文化資本を学校に多く負っている人は、さまざまな分野に対して学校が承認している価値に自分の投資を寄せる。

※ここすごく難解。

・正統性の高い分野への投資(自己投入)……学歴資本に比例して数値が高くなる

 

↑<中間>シャンソン、写真、ジャズ=正統化の途中にある分野への投資↓

 

・正統性の低い分野への投資……社会的軌道に比例して数値が高くなる

→場の特性/個人の特性の関係の中で投資が決まる=平均利潤ではなく個別利潤で自己投入される

〇だから正統性文化への投資は学校内部での市場価値に寄せて行われる傾向がある。

〇(シャンソン、写真、ジャズなどの)「中間芸術」への投資は、「学歴資本によって決まるというよりはむしろ、学校で身につける教養および学校そのものに対する全体的な関係のとりかたによって決まるのであり、この関係のとりかたはそれ自体、所有文化資本がどの程度まで学校で獲得され学校によって公認されている資本に帰着するかということに、左右されるのである。」p.137

 

〇以上までが投資についての議論、以下からは価格(投資の価値づけ)についての議論

「それぞれの社会空間、たとえば家庭や学校などが、能力が生産される場所の一つとして機能すると同時に、その能力が価格を受け取る場所の一つとしても機能するのであってみれば、各々の場は、その中で生み出される産物に対して最高価格を与えるであろうと予想できよう。」p.138

→学校市場は学校制度によって承認された文化的能力や生活様態に大きな価値を与える/学校外の価値に支配される場所では家庭がもたらしたものに最高価格を与える

 

「ブルジョワ(特に下降ブルジョワ)が「学校的なもの」に対して嫌悪感を示す根拠の一つは、たぶん文化への親しみから得たおおざっぱな知識とか漠然たる直観などについて、その長所は認めながらも、やはり学校市場がそれらの価値を低いものとして決めつけるところにあるだろう。」p.141

〇先述の通りある投資(自己投入)が価値をもつか、あるいは価値をもたないのか、ということはそれが表出する場champにおいて決定される。

→礼儀正しさや物腰、発音などの立ち振る舞いが評価される(学校的)市場では、哲学思想の混同といった無知ぶりには価値がないことになる/礼儀正しさ、物腰がしっかりしていれば評価される。

 

諸要因と力

「結局のところ、分析の困難さは次のような事情からくるものであったということが今や明らかである。すなわち芸術及び芸術作品に対する関係という分析対象が現実そのものの中で争点となっている闘争においては、教育水準とか出身階層とか言った分析手段それ自体の意味するものをどのように表象化するということが、まさに争点として賭けられているのだということである。」p.145

→こうした闘争は以下の二種類の人々を対置させる。

①文化の学校的な定義と学校的な獲得様式とに強く結びついた人々

 

②もっと自由な文化および文化に対する関係の擁護者たらんとする人々

 

「文化的能力というのは社会的な場において獲得されるものであり、その場はまた同時にこれらの能力が価格を付けられる市場でもあるので、これらの能力はこうした市場と連合関係にあるし、また文化を巡るあらゆる闘争がめざしているのは、振舞い方という形のうちに文化獲得条件のある特定の集合の標識を、つまりある特定の市場の標識をつけることになる生産物にとって、最も好都合な市場をつくりだすことなのである。だから今日、「カウンター・カルチャー」と呼ばれるものは、新式の独学者たちが学校市場とは別の市場をつくりだすことによって、学校市場の規律(旧式の独学者たちは新式の独学者たちほど自信がないので、これらの規律があらかじめ彼らの生産物に対して価値を認めないと宣告しているのにもかかわらず、いまだにこれに従い続けている)自らを解き放そうとして行っている努力の産物であると言えるだろう。」pp.150-151

※『ハマータウンの野郎ども』に通じる話

 

第Ⅱ部 慣習行動のエコノミー

2社会空間とその変貌 p.156-258

「ところですでに美的性向を生み出す社会的条件についての分析が示したように、正統的文化のさまざまな財のあいだでどれを選択するかを方向付ける性向を完全に理解しようと思えば、それらを諸性向の体系の統一性のなかにもう一度置きなおし、ふつう用いられる狭い規範的意味での「教養」を民俗学でいう広い意味での「文化」の中に組み入れてやり、最も洗練された対象について形成されていく趣味(gout)を食物の味にかかわる基本的味覚(gout)に結びつけ直してやるしかない。」p.156

→美的価値を判断する能力としてのgout/食物に特有の味を弁別する能力としてのgout

→美的性向は、場における諸要素の体系=文化資本と社会的軌道を通してしか観察されない「音楽や料理、スポーツや政治、文学や髪形の好みのような、一見共通の尺度では測れないように思えるいろいろな「選択」のあいだに理解可能な関連性を見て取るためには、じっさい正統的文化を他から切り離された世界にしてしまう魔法の柵を取り払ってやりさえすればよい。」pp.156-157

 

「物というのは人々にさまざまな可能性と不可能性を提供し、人々はこれを社会的用途(技術製品の場合であれば、生産者がそれを作ろうと思いついたときにねらいとしていた、あるいはそのきっかけとなった用途も、その一つに含まれる)の世界においてしか受け取ることができないのであるが、こうした可能性や不可能性の中で定義される一つの物と、ある行為者または行為者集合のもっている性向——つまりこの物の実際的な用途のなかにその客観的な有用性を構成してゆこうとする知覚・評価・行動図式——との関係の中で、物の客観性というものは確立されていくのであり、科学が確証しなければならないのはまさしくこの客観性なのである。」p.158

→経済学がするように物の属性を万人が同じように捉えていると想定するのではなく、人々の有用性との関連から把握されなければならない。

 

階級の存在状態と社会的条件付け

「分析というのは、慣習行動の基本にある一連の効果を順次明らかにすることによってしか慣習行動を説明することができないので、まず第一に、ある行為者または行為者集合に特有の生活様式を見えなくしてしまう。」p.159

→場で達成される慣習行動の多様性、多数性にばかり目がいき、その下にある一貫性を見落としてしまいがちになる。

〇この一貫性を再発見するためには「慣習行動の統一・産出原理へ、すなわち階級の存在状態およびそれが要請する条件付けの身体化された形である階級のハビトゥスへとたち戻らねばならない。」p.160

 

変数と変数体系

「これらの階級=集合(行為者の集合、あるいは結局この点では同じことになるが、もろもろの生活条件の集合)を職業名というかたちで示すことによって明らかになるのは、次のようなことに過ぎない。つまり生産関係における位置づけは、特にその人が将来どんな位置につけるかを想定し、ある特定のハビトゥスの集合を生産したり選択したりするメカニズムを通して、さまざまな慣習行動を支配しているのだということである。」p.160

→職業カテゴリーのようにあらかじめ構築された変数から階級=集合を考察することはよいやり方ではない=付随する二次的特性(男女比、地理的空間など)が隠蔽されてしまう

※ここから以下の数節は、二次的特性のネットワークの具体的な検討=統計的変数を想定することによって生じる隠蔽されるファクターの検討(?)

 

「ある従属変数(たとえば政治上の意見)と、性別、年齢、宗教、さらに教育水準、収入、職業などのいわゆる独立変数との個別的な関係は、こうした個々の相関関係のうちに記されたさまざまな効果が持つ独自な力と形の、真の原理を構成する諸関係の完全な体系を隠蔽してしまう傾向がある。」p.162

「次のようなことが必要となる。すなわち、中心となる変数によって切り取られた集合のなかにさまざまな二次的変数(性別・年齢など)がもちこむ下位区分やヴァリエーションを分析することによって、その集合の実質上の定義には確かに含まれていながら、名目上の定義、つまりその集合を指すのに用いられる名称に集約される定義においては、したがってその集合が組み込まれる諸関係の解釈においてはかならずしも意識的には考慮されていないすべてのもについて、問うてみることが必要となるのだ。」pp.162-163

 

構築された階級

「社会階級というのは、あるひとつの特性[…]によって想定されるものでもなければ、いくつかの特性[…]の総和によって想定されるものでもないし、ましてやこれらの特性を、最も基本的なもの(生産関係内での位置づけ)から出発して原因から結果、条件づけるものから条件づけられるものへという関係によって順に並べたひとつながりの連鎖によってそうていされるものでもない。そうではなくて、これらはすべての関与的特性間の関係の構造によって規定されるものであり、この構造がこれらの特性のそれぞれに、また獲得性が慣習行動に対して及ぼす効果に、その固有の価値を与えるのである。」p.166

→単一の観点からではなく、(分析において半ば無意識的に操作されることになる)二次徳性の網を意識的に考慮に入れなければならない。「直接的決定という単純な次元構造しか知らない線的思考とは縁を切り、各要因のうちに宿っている錯綜した関係の網を再構築することに専念するのでなければ、慣習行動の無限の多様性を統一的であると同時に個別的な仕方で説明することはできない。」p.167

[ex.]性的特性と階級の諸特性→ある階級は男女両性に対して、社会的に構成された両性の性向にたいしてどのような位置と価値を与えるかで、最も本質的なところで定義される。

[ex2.]最下層の位置には外国人と女性の占める割合がかなり高い

[ex3.]配偶者の文化・学歴資本によって規定される女性の衣装の好み(通常、夫の方が支配的になるため、それによって妻の衣服の性向は左右されることになる)

 

社会階級と軌道の集合

「しかしこれですべてというわけではない。一方では、行為者はある時点で彼らが所有している諸特性、そしてその獲得条件がハビトゥスのなかに残存している諸特性(ハビトゥスの履歴現象効果)だけによってはなかなか完全に定義しきれないものであるし、また他方では、最初の資本と到達資本との関係、あるいはこう言ったほうがよければ、社会空間における最初の位置と現在の位置との間の関係は、その密接さの程度に大きなばらつきのある統計学的関係であるからだ。共時的にとりだされた諸特性の獲得条件は、それらがつねにハビトゥスを構成する諸性向の中に定着するものであるにもかかわらず、獲得条件と利用条件が不一致であるようなケースにおいてしか、すなわちハビトゥスの生み出す慣習行動が客観的条件の以前に合わせられているためうまく適応できないものとして現れるときにしか、思い出されることはない。」p.171

※ここ意味わからん。統計的に共時的に取り出された諸特性の獲得条件が、慣習行動と客観的条件がズレてる=社会的軌道のズレがあるときに気づかれるということ(?)

 

「個人というのは社会空間のなかを行き当たりばったりに移動するものではない。なぜならまずひとつには、この空間にその構造を与えているもろもろの力が(たとえば排除と方向付けの客観的メカニズムを通して)彼らの上に否応なく働きかけるからであり、またもうひとつには、こうした場の力にたいして彼らが自分自身の慣性(過去の軌道の残存効果)を、すなわち彼ら自身の特性を対置するからである。」pp.171-172

→ある軌道から別の軌道への移行は集団的事件(戦争など)や個人的事件(交際など)によって起きる偶然として描かれるが、実はその事件が起こるべき人々の位置や性向によって統計的に規定されている。

 

〇ある位置と性向の結びつきは「奇蹟的に思えるほど適合している」p.172

→これには二つの理由がある。

①天職(の概念)……自身の出身階級に適合しているとして、あらかじめ予期して社会的位置を引き受けることができる=前もって方向付けられる

 

②性向と位置の間の弁証法的関係……自分の置かれている状況と願望に折り合いをつける=社会的位置を身分相応のものとして引き受けることができる

 

「最初にある程度の経済・文化資本を所有しているある階級の人々が、一定の蓋然性で一定の位置へとつながる学校的・社会的軌道に向かうべく宿命づけられているということ、それは実際にはこの階級内のある集団が、その階級全体にとって最も多くみられる軌道に対して、それよりも上位のものであれ下位のものであれ、とにかくある別の階級の人々にとって最も蓋然性の高いものであった軌道を借用しながら、外へそれてゆくべく宿命づけられているということである。そしてこの集団は、こうして上向きにせよ下向きにせよ、元の階級から逸脱していくのだ。」pp.173-174

→ある出身階層と慣習行動の相関関係は、①教育の効果②社会的軌道の効果によって生じる結果である。

※めちゃくちゃわかりにくい言い回しだが、最初に所有していた経済・文化資本から想定されるのとは異なる社会的軌道を描く社会集団=先述の慣習行動/客観的条件のズレの話

 

資本と市場

「対象となる領域に応じて効力を持つのは、じつは構築された階級を構成する諸特性の体系の、固有な配置公正なのであり、それは慣習行動のあらゆる分野で作用しているすべての要因、つまりその変化過程(軌道)のなかではっきり限定されてくる資本の量と構造、性別、年齢、既婚未婚の別、住居などの集合としてまったく理論的にされるものである。そして、階級と慣習行動との関係が成立するさいの媒体となる諸特性の論理を決定するのは、その場に特有の論理、すなわちその場で賭けられているものと、その場で賭けをするために必要な資本の種類とに、特有の論理なのだ。」p.176

→階級にむすびついた諸特性の価値と有効性は、その場(champ)に特有の法則によって規定される=諸特性は資本量に関係なく、まずどの程度その場に特定資本を動員できるかどうかによって決まる

 

三次元空間

※三次元空間=「文化資本と経済資本の二次元座標」に時間軸を交差させた三次元座標。ここに諸職業や慣習行動を配置する経験的研究よりの内容。社会界は『差異と欲望』で社会空間と訳されていたもの。

「ハビトゥスの生産条件という観点から、すなわち基本的生活条件とそれが要請する条件づけの点で、最も均質な単位を再構成しようと努めてゆけば、資本量、資本構造、そしてこれらの二つの特性の時間に沿った変化という三つによってその基本的な三次元を規定されるひとつの空間を構築することができる。」p.178

 

「経済資本の配分構造が文化資本の配分構造と逆向きに対称形をなしているということが証明された(p.181-183)ので、ここでこれらの二つのヒエラルキー化原理どうしのヒエラルキーはどうなるかという問題を提示してみることができる。[…]これら二つの支配原理の力関係の状態を示す指標としては、親と子の間で職業層の移動が起こる率をとりあげてみればよかろう。」p.184

→各階層において支配者階級出身者が占める割合、彼らの属する個々の職層出身者の割合は、工業経営から教授に移るにつれ、ともに並行して減少してゆく=経営者層は教育的に再生産してゆく傾向が強い

「文化資本の最も豊かな層は、どちらかといえば子どもの教育や、自分達だけのそなえている希少価値を維持し、増大させるのに適した文化的慣習行動に多くの投資をする傾向があるのに対して、経済資本の豊かな層は、経済的投資の方を優先して文化・教育面での投資は軽んじる傾向がある。」p.185

「さまざまな集団(階層)間での生活様式の相違、なかでも特に文化に関する相違をもっと完全に説明するには、それら集団の、社会的にヒエラルキー化された地理空間における配置を考慮に入れなければなるまい。」p.188

→経済的・文化的な「価値の中心地」=フランスならパリやそのほか主要大都市に対する集団の位置づけで、文化的な慣習行動に差異ができる。

[ex.]農業従事者と正統文化に対する距離は相続文化資本だけでなく、文化的中心地から物理的に遠いことが理由となる

 

「こうして得られる社会界の表象=見取り図は、次の二つのものと縁を切ることを前提としている。」p.189

①「上昇」/「下降」といった日常的な社会的移動にまつわる表象

②さまざまな指標を用いることで得られる抽象的な層(アッパークラス/ミドルクラスなど)の連続体としての社会界=伝統的な社会学の考え方

※社会空間と生活様式空間の相関図についてはp.192-193を参照

 

転換の戦略

※経済資本から文化資本・学歴資本への転換の戦略。新谷書き込みがこの節に多いのは、教育的再生産論に関わる内容だからだと思われる。

「個人や家庭は、無意識的にせよ意識的にせよ、現象的にきわめて異なる多様な慣習行動を通して自分の資産を保持しあるいは増大させ、またそれと連関して、階級の関係構造における自らの位置を維持しあるいは向上させようとするのであるが、再生産の戦略とはこうした慣習行動の総体であって、それらは同一の統一、生成原理の所産であるがゆえにそうしたものとして機能しかつ変容するひとつのシステムをかたちづくっている。」p.199

→これら戦略は将来に関する性向を媒介とし、

①再生産すべき資本の量と構造=その集団が所有している経済・文化・社会関係資本の現在/潜在量と資産構造における三者の比重によって

 

②再生産手段のシステム(慣習、相続法、労働市場、学校制度など)の状態  

によって規定される。

→再生産手段のシステム/再生産される資本の状態(量と構造)に変化が起これば、それはかならず再生産戦略システムの組み換えを喚起する。

 

「社会空間は二つの軸——総資本量の最大値から最小値へと向かう軸と、支配的な資本の種類から被支配的な資本の種類へと向かう軸——に沿ってヒエラルキー化されているので、二つの移動形式を許容することになる。これらはまったく等価ではないし、その蓋然性もまったく異なっているのにもかかわらず、社会的流動性についての伝統的研究では混同されてきたものだ。」p.200

[a]垂直移動……同一の場(champ)内での上昇/下降

[ex.]小学校教員→大学教員、大経営者→小経営者など

 

[b]横断移動……同じ水平面(=同じ階級)ないし、異なる平面(階級の上昇と下降を伴ういわば斜め移動)間で起こる移動

→垂直移動は資産構造において支配的な資本が変化すれば簡単に起こるのに対し、横断移行はある資本が別の資本に転換されなければ=資産構造の変化が起きなければ生じにくい

※例によってややこしい書き方だが、階級が再生産される際、同じchampでの上昇・下降は資産の量の増減によって簡単に生じる(例えば小学校教員の子弟が資産を増大させ大学教員になる)のに対し/横に移動するためには資産の構造を変化させる必要があるため困難ということ(例えば小学校教員の子弟が商業従事者になるのは想定しにくい)。

 

階級化・階級脱落・再階級化

「さまざまな社会階級と教育制度との関係に近年見られる変化は、学校の急増とそれに関連した教育制度の多様な変化を、そしてさらには、学歴資格と得られる職との関係が変わったことが原因となって生じた社会構造の諸々の変化を引き起こしているけれども、こうした変化は学歴資格をめぐる競争の激化の変化である。そしてこのような競争の激化にはおそらく、支配階級および中間階級の最も経済資本の豊かな層が自分たちの集団の再生産を確実なものにするために、教育制度の利用をこれまでよりもはるかに強化せざるをえなくなったということが、大いに関係しているだろう。」p.203

→学歴資格が市民権を得るにつれ、これまで学校によって再生産が保証された集団は、学歴の総体的希少価値を維持し、そのために教育制度への投資を活発化させる。「(学歴資本の)価値下落に抵抗する手段をもっている人々、特に上流階級の出身であるがゆえに社会関係資本を持っている人々の割合は、学歴のヒエラルキーが上にいけばいくほど増大するからである。」p.205

 

「この変化(学歴の価値下落によるポストの変化)の結果、そのつど学歴保持者の一部が——そしてたぶん最初に、学歴の活用手段を親からほとんど相続していない人々が——価値下落の犠牲者になる、そこでこうした価値下落の危険にさらされた人々は、長期的にもこの価値下落に抗して戦おうとするのだが、そのさい彼らが用いる戦略は、配分される学歴資格の増加をひきおこす要因のひとつとなるのであって、この増加はそれ自体、さらに価値下落を助長してゆくのだ。」p.209

 

転換の戦略と形態的変化

〇新しいタイプの職人・商人層=民芸品の商人、アンティーク商、レコード屋、インテリア商、写真家、デザイナー、前衛的書籍商は趣味の良さを示す文化資本を独特に利用している。「つまり専門的能力よりもむしろ支配階級文化との親しみ深さとか、他人との違いや趣味の良さを示す符牒・標識を使いこなせる能力の方が重要な意味を持つ、そんな文化資本にとって、最大の利益をもたらすための手段を見出しているのだ。これらすべての特徴は、家庭から直接受け継いだ文化的遺産からの収益を得られるような文化投資に力をいれる、あの新しいタイプの職人・商人層という職業カテゴリーが、学校制度から排除された支配階級の子弟にとっての避難所として役立つ状況を準備しているのである。」p.216

 

理解する時間

「学歴資格のインフレ過程と、それにともなう価値下落がもたらすいろいろな効果のうち、最も重要なのは疑いもなく、価値の下落してしまった肩書の持ち主が、自分の相続した位置を維持するため、あるいは肩書とポスト以前の対応関係において自分の肩書が保証していたものの実質的な等価物をその肩書から得るために活用してきた、もろもろの戦略の総体である。」p.217

→基本的に肩書の下落を認めたらないが、認めるにしろ認めないにしろ、客観的メカニズムとの共犯関係には自覚的である必要がある。この客観的メカニズムの最も重要なものは二つある。

①ハビトゥスの履歴現象……客観的な評価機会の以前の状態に対応していた知覚・評価カテゴリーを履歴市場の新しい状態にそのまま適用しようとする。

 

②学歴資格の下落がゆったりとしたペースで進行する、相対的に自立した市場

 

誤用された世代

「希望と機会のギャップ、すなわち教育制度が約束してくれるように思われる、あるいは仮に提供してくれる社会的アイデンティティと、学校を卒業したときに労働市場が実際に供給する社会的アイデンティティとの、構造的ギャップ——そんなギャップから生じる集団的幻滅は、労働に対する興味の喪失を誘発し、青年層の「カウンター・カルチャー」の構成要素であるあらゆる逃避や根絶の根にある、社会の有限性に対する拒否の表明を生み出すもとになっているものなのだ。」p.224

「彼らはあいわば口先だけで彼らを釣った学校制度あるいは社会制度によって、社会的アイデンティティの面でも、また自己イメージにおいても、深い危機におとしいれられてしまったために、これらの決定に対して全否定をつきつけることによってしか、その人間的・社会的前体制を回復することができないのである。」p.224

「これは誤用されてしらけたこの世代が学校制度によって触発され恨み交じりの反抗をあらゆる制度へ拡大するという事態をひきおこす、一種の集団的幻滅の原因となっているものなのだ。この種の反・制度的気質はつまるところ、暗黙の裡に保証されている社会制度の前提の否認へ、すなわち社会秩序が提供する争点やそれが公言している価値などに同意することの事実上の停止へ、そして社会秩序が機能するための条件である投資の拒否へと、行きつくことになる。」pp.224-225

 

学校制度の変化

※教育における「選別」過程の話

「庶民階級・中間階級の大量の子どもたちを排除するということはもはや第六学級進学時にはおこなわれていないが、しかしながら少しずつ目に見えないかたちで、中等教育の最初の何年かを通じてずっと、そんなことはしていないと否認されてはいないながらも、いくつかの排除形式を通してそれはおこなわれている。」p.237

→排除形式は以下の三段階から成る。

①勉強の遅れ/遅らせること

 

②二流ルートへの追放=学歴上の烙印

 

③価値下落してしまった肩書の授与

 

〇現在の排除の過程(新システム)は、公的な資格付与(=受験)による選別が強かった昔(旧システム)ほど明確な境界線引きをしないどころか=投資縮小を助長しないどころか、自分の入り込んだルートを過大評価し、肩書を買いかぶることで=猶予期間にあると見なすことで、彼が自分の肩書、位置をまだ将来的には上昇可能なものと捉えるようにさせる。「こうした猶予期間におかれた人々が、いわゆる生涯教育と密接に結び付いていることは納得がいく。なぜなら生涯教育とは、タイムリミットをしるしづけ、終わってしまったことは終わってしまったことだということを決定的に、しかもできるだけ早い時期に告げるような大競争システムの完全なアンチテーゼであり、開かれた、限度のない未来を提供してくれるものだからである。」p.241

※ここまんま自分のこと書かれていてワロタ。本書には「広告の仕事をしている画家」の例が取り上げられているが、自分も学者(指向する肩書)から新聞記者(現在の肩書)へ投資縮小しつつも、生涯教育というかたちでまさしく今本書を読んでいるのであり、未確定な未来(例えばまだ学者ないしはそれに準じる職に就けるかもしれない)への投資を本職とは別のところで行っている。

 

「旧システムは明確に区切られた社会的アイデンティティをつくりだそうとし、社会的夢想にはほとんど余地を残してくれなかったけれども、そうした社会的アイデンティティをもつために受け入れざるをえなかった断念がどうしても抗いがたいものであったがゆえに、それだけ心地よく安心できるものであった。ところがそれに対して新システムに見られる社会的アイデンティティとそこに当然の権利として含まれているさまざまな希望の表象の構造的不安定性といったものは、なんら個人に帰せられるべきところのない運動によって、行為者たちを社会的棄権と批判の場から個人的な批判と危険の場を送り返そうとするのである。」p.242

 

競争の構造と移動

「「社会変化」の問題を、「革新」や「刷新」にたいして社会空間内のひとつの場所を割り当てることによって解決しようとすることがいかに単純すぎるかは、もはや明らかであろう。」p.242

→相関的な位置のとりかたが決定される闘争の場(champ)、この場を変化させようとする闘争を見えなくしてしまう

 

「あらゆる種類の社会過程の原理になっている階級脱落と再階級化の弁証法的関係は、関係しているすべての集団がみな同じ方向に、同じ目的に向かって、同じ特性をめざして走っているということを前提とし、また要求する。それらの目指す同じ特性というのは、このレースにおいてトップを走っている集団によって示される諸特性であり、その定義からして後続集団には到達できぬものとなる。」pp.252-253

→正統文化は支配者階級によって形成される。これが通俗化すると正統文化ではなくなってしまう=下位集団はゴールが常に自分の手前に移動し続けるレースに参加している。「その数が増加し一般に広まってゆくことによって下位集団にも手の届くものになってしまうやいなや、それらの特性はもはや本来の姿のままではなくなるであろうからだ。」p.253

 

〇したがって価値の転倒を起こすためには、そもそも価値のレースに参加しないことが求められる。「客観的にも主観的にもレースから締め出された被支配者階級は、それまでは暗黙の裡に受け入れてきた支配者たちの目標にたいする同意をそこで断ち切ることになるであろうし、その結果、本当の意味での価値体系の転覆が可能となるであろうと思われる。」p.258

 

3ハビトゥスと生活様式空間 p.260-343

「この社会空間は日常生活の実際の空間に対して、ちょうど幾何学空間が日常体験のホドロジー※的空間に対して持っているのと同様の関係をもっている。つまり社会空間は、実社会における人々の距離関係をそのまま保ちあるいは表示し、実際には無縁であるかもしれない者どうしの社会的隣接関係を示したりもするわけだが、この点が、異なる地点間の空隙や道の不連続性を再現するあの幾何学的空間と同様なのである。」p.260

※ホドロジー(hodology) ……経路とベクトルが心理学的に定義される特殊な位相。ここでの大意としては位相と読み替えても問題なさそう=諸個人の慣習行動によって相対的な位置が決定される空間

「科学がおこなう階級分割は、行為者が生産する分類可能な慣習行動へと、彼らが他人の慣習行動や慣習行動にたいして下す種別的判断とに共通の根へと、つながってゆくのだ。ハビトゥスとはじっさい、客観的に分類可能な慣習行動の生成原理であると同時に、これらの慣習行動の分類システム(分割原理principle division)」でもある。表象化された社会界、すなわち生活様式空間が形成されるのは、このハビトゥスを規定する二つの能力、つまり分類可能な慣習行動や作品を生産する能力と、これらの慣習行動や生産物を差異化=識別し評価する能力(すなわち趣味)という二つの能力のあいだの関係においてなのである。」p.261

〇表象化された社会界=生活様式空間

←形成―ハビトゥス=分類可能な慣習行動・作品生産能力/識別と評価(趣味taste)能力

 

「ハビトゥスは構造化する構造、つまり慣習行動および慣習行動の知覚を組織する構造であると同時に、構造化された構造でもある。なぜなら社会界の知覚を組織する論理的集合への分割原理とは、それ自体が社会階級への分割が身体化された結果であるからだ。」p.263

〇ハビトゥス←構造化→慣習行動・生活様式←構造化→社会階級・社会界

 

「趣味というのはある階級が、分類されかつ分類するさまざまな対象物や慣習行動のある特定の集合を(物質的にかつ/または象徴的に)所有化する傾向および能力のことであり、生活様式の根本にある生成方式にほかならない。」p.266

「したがって趣味とは、事物から判明にして弁別的記号への、すなわち連続的分布から非連続的対立関係への転換を操作する、実際上の作用因である。それは物体の物理的秩序のなかにしるされている差異を、意味を持つ様々な象徴的秩序へと接近させる。つまりそれは、客観的に分類された慣習行動——そのなかである存在状態が(趣味を介して)それ自身を意味するような慣習行動——を、分類する慣習行動へ、すなわち階級の位置の象徴的表現へと変容させるのだが、この変容はこれらの慣習行動をその相互関係のなかで、また社会的分類図式との関係において捉えるということによっておこなわれる。」p.267

 

諸空間の相同性

〇ハビトゥスの生成図式は慣習行動の多様な領域へ適用可能。

→例えば消費行動に当てはめてみれば、対立する二つの消費形態(を両極においたスペクトラム)があることがわかる。

経済・文化資本で最も恵まれた階層の消費……希少性そのものによって卓越したものとして示される

[中間部分]自分の抱いている野望/実際に可能なことのギャップにより、常に上昇志向を抱くことになる消費

経済・文化資本で最も恵まれない階層の消費……安易であり月並み、通俗的

「基本的趣味の領域でさえ、やはり量と質、大量の食事と軽い料理、素材と調理法、実質と形式といった基本的対立の構図にしたがって形成されているのである。」p.271

 

形式と実質

「消費行動の領域において、またそれを越えたところでも観察される差異のもとになっている真の要素は、贅沢趣味(または自由趣味)と必要趣味との対立である。前者は必要性への距離の大きさによって決まる物質的生活条件、すなわち資本を所有していることで保証される自由さ、あるいは時に言われるように安楽さによって定義される物質的生活条件から生まれた人々に固有のものである。いっぽう後者の趣味は与えられた生活条件に自らを適合させてゆくものであり、まさにその事実において、自らがいかなる必要性から生まれてきたものであるかを物語っている。」p.272

→「必要性」から遠いほど贅沢=自由趣味/近いほど必要趣味

 

「目の前の現在の得がたい満足(「楽しい時」)をその日その日で求めてゆこうとする快楽主義だけが、いわゆる未来をもたない人々、どちらにしても未来に期待すべきものをほとんどもたない人々にとって思い描くことのできる唯一の哲学なのだ。」p.278

 

三つの卓越化方式

「贅沢趣味と必要趣味との主たる対立は、労働者階級及びその基本的欲求に対して自らの卓越性を明確にする方法がいろいろあるだけ、あるいは結局おなじことになるが、必要性との間に距離を置くことを可能にしてくれる力がいろいろあるだけ、それと同じ数の対立へと個別化してゆく。たとえば支配者階級の内部では、単純化すれば三つの主要な職業別にそれぞれ三つの消費構造、すなわち食費、教養娯楽費、および身体や住居の手入れにかかる費用を区別することができる。」pp.280-281

[ex.]教授……食費を少なく/手入れ費も限られている/教養娯楽費が多い

工業化・大商人……食費が以上に高い/教養的娯楽への支出は少ない

自由業……全体の支出が多い/食費の割合は教授層と同じ/手入れ費が高い

 

「食物に関する趣味は、各階級が身体について、また食物が身体に対して及ぼす効果、すなわち身体の力・健康・美にたいして及ぼす効果について、どんな考えをもっているか、またそれらの効果を評価するにあたって、その階級がどんな分類カテゴリーを用いているかによっても左右される。[…]たとえば庶民階級が、身体の形よりもその(男性的な)の力のほうに関心が強く、安価であると同時に栄養のある食品を求める傾向があるのに対し、自由業の人々はむしろ美味で健康に良く、軽くて太らない食品のほうを好むといった違いが生じるのだ。」pp.286-288

→「したがって身体とは階級の趣味を最も確実に客体化するものであるということになる。」p.288

「単に身体の形態だけに関わる差異は、振舞い方の差異。すなわちそこに社会界への関わりかたの全体が現れてくるような、身体の扱い方、態度のとりかた、行動の仕方などにおける差異によって増幅され、象徴的に強調される。そしてさらにそれにたいして、身体のなかの変更可能な部分に意図的にもたらされたありとあらゆる修正という要素が加わることになる。」p.291

[ex.]意図的な変更……口髭、化粧、服装、香水などなど

 

気取らずに、あるいは遠慮なく?

「以上のことから明らかなように、食物に関する趣味は世界・他者・自分自身の身体などにたいする関係の他の諸側面にたいして、完全に独立したものではありえない。そうした諸側面において、各階級に特有の行動哲学は達成されるからである。このことを納得するには、食物の調理のしかた、供しかた、盛り付けのしかた、勧めかたなどについて、大衆的な方式とブルジョワ的な方式とを体系的に比較してみる必要があるだろう。」p.295

[ex.]大衆/ブルジョワの食事行動の差異

庶民階級・大衆/気取らない食べかた……最も基本的欲求である食物に対して、唯一の自由な逃げ場である家庭生活に対して「これ以上厳しい管理や拘束、制約などに身をゆだねてはいられない」[p.299]という気持ちの表出

 

ブルジョワ/正規の手続き……待つこと、遅れること、こらえることを通して、「本質的に一般人に共通な最も基本的な意味と機能における消費行動を否定する」[p.301]

→実用的物質主義/非実用的形式主義の対立

 

見えるものと見えないもの

「以上のように庶民階級は食物を実質と実体の側に位置づけ、いっぽうブルジョワジーは内と外、自宅向けと他人向け、日常と日常外などの区別を拒んで食物のうちにもすでに形式・外観のカテゴリーを導入しているのだが、しかしながら食物それ自体を今度は服装との関係においてみると、両者の間には内と外、内輪向けと外向け、家庭生活と公的生活、実態と外観といった対立がやはり見られる。」p.306

→庶民階級は衣服を機能主義的に使用=支払った金額以上のもの、長持ちするものを選ぶ

 

〇服装の選好には社会階級間の差異だけでなく、ジェンダー間の差異も観察される

「プチブルの女性たちは、身体的特性から身体についての支配者側の表象にたいして無条件の承認を与えるための資本として機能しうるような市場、それも少なくとも彼女体の目から見ると(そしてたぶん客観的にも)、そこから最大の利益をひきだすのに充分な身体資本を備えていなくても身体的特性がそうしたものとして機能しうる市場においては、かなりの利点をもっているものであるが、彼女たちはここでもまた、大変な緊張の場におかれているのだ。」p.312

「だから自分の容貌を並み以下であると思っているが、あるいは自分が年齢以上に老けて見えると思っている女性の割合は、社会階層の上に行くほどはっきり減少する。」p.312

→中間層(プチブル)の気おくれ、居心地の悪さ、窮屈さ

「社会界のプチブル的経験とは何よりもまず気おくれである。すなわち自分の身体および自分の言葉に対してどこか居心地の悪さを感じ、それらと一体をなすのではなく、自分の言動に気を配り、自分の振舞いをあらため、言葉を訂正したりしながら、いわば外側から他人の目を観察している者、そして疎外された対他存在を回復(再所有化)するために絶望的な試みをおこないながら、その修正の行き過ぎと不器用さによってはかならずも自らを露呈してしまい、まさに他者による自分の身体や言葉の所有化にきっかけを与えてしまうような者、そんな者の抱く困惑である。」pp.314-315

 

様式的可能性の世界

「そこで、文化消費がそのなかで規定されてくるさまざまな生活様式の空間を完全に構築するためには、各階級及び各階級内集団について、つまり資本の各配置構成について、ハビトゥスの生成公式をまず確立しなければならない。[…]そしてそれができたら次に、慣習行動の大まかな分野の各々について、ハビトゥスを構成するさまざまな性向が、各々の場によってさしだされている様式的可能性のうちいずれかを実現することで、どのように特殊化していくのかを明らかにしなければなるまい。」p.317

〇様式的可能性は各々の弁別的特徴を二つの面から性格づけることを可能とする。

①もろもろの可能性の体系との関係……生活空間の弁別的価値が生まれる

 

②特定の生活様式を構成する諸特徴全体との関係……生活空間の社会的意味が定まる

 

「いずれにせよ、諸階級間、および階級内諸集団におけるさまざまなスポーツ実践の分布状況を大まかに理解するためには、以下の事実を認識しておけば充分である。すなわち、スポーツ実践の階級による違いは、それによって得られるとみなされる利益——即座に得られるものであれ、後になって得られるものであれ——の知覚・評価の違いから生じるものであると同時に、経済的・文化的、そしてこう言ってよければ身体的コストの違い(危険が大きいか小さいか、体力の消耗が激しいかそうでもないか、など)から生じるものであるということだ。」p.323

「あたかもどのスポーツをやるかという確率は、経済資本(および文化資本)と自由時間によって限定される範囲内においては、その人がハビトゥスを構成する諸性向に応じて、より正確に言えばその一側面である自分の身体にたいする関係のとりかたに応じて、各々のスポーツ実践の内在的・外在的利益およびコストをどう知覚し評価するかによって決まるようである。」p.323

[ex1.]中間階級の趣味に対する距離感は、先述の通り「気おくれ」「上流階級からの(潜在的)眼差し」に曝されているため、過剰な健康崇拝に至り、厳しいダイエットや節制を行う傾向が強い。

[ex2.]支配者階級のスポーツ趣味は、ゴルフ、テニス、ヨット、乗馬のように、自分の好きな時に/専用の場所で/一人ないし選ばれたパートナーと行われ/かつ消費体力が少なく/習得するための投資すべき時間と労力は大きいものが選ばれる傾向にある。

 

4 場の力学 p.346-396

「以上に見てきた通り、様式的可能性の世界があるのと同じ数だけ、選好の空間が存在する。[…]ところでこうした可能性の世界のうちで、贅沢財(中でも特に、文化的財)の世界ほど社会的差異を表す傾向の強い世界はないように思われるが、それは卓越化の関係がそこに客観的に書き込まれていて、ある消費行動をするたびに、その人が気づこうと気づくまいと。望もうと望むまいと、その消費のためにどうしても必要になる経済的・文化的所有化手段を通して、はっきりと現れてくるからである。」p.346

→普通の語法とは異なる文彩は、それが生産され機能する場を客体的に体現する。これはあくまで弁別的標識に過ぎないが、次のような場合では他の標識がなくなっても存続しうる。「すなわち、過剰なものと見なされた卓越化の意図(これがいわゆる「上昇志向」なるものの定義である)あるいは単に「使い古され」「時代遅れになった」卓越化の意図から、さらに自分を区別しようとする意図をもったために、社会空間のまったく反対の両極を誤って一致させてしまうような多くのあやまちの原因となっているあの二重否定という操作が、どうしても必要となる場合である。」p.147

[ex.]卓越化の意図を孕んだ(否定)仰々しさ、誇張から、さらに卓越化される(二重否定)質素さ、簡素さなど

 

〇客体化された文化資本(例えば小説)は個人を超越した固有の法則を自律的にもっており、身体化された文化資本には還元されない部分があるのは確かである。しかし、「客体化された文化資本は、以下のような闘争のなかで、またそうした闘争によってのみ、はじめて物質的・象徴的に活動する文化資本として存在し存続するのだということである。その闘争とは、文化生産の場(芸術の場、科学の場など)、さらには社会階級という場においておこなわれる闘争であり、その中で行為者たちが自分の力を投入し、この客体化された文化資本を彼rがどの程度自由にできるかに応じて、すなわち彼らの身体化された文化資本の量に応じて、これに比例した利益を獲得するような、そういった闘争である。」p.349

→小説、芸術作品などは場における闘争の中に定位されることで初めて客体化された文化資本となる。

 

〇芸術作品は二つの利益を保証する。

①卓越化利益……芸術作品の入手難易度があがればあがるほど上昇する

 

②正統性の利益……所有している自分が正統文化の中にあり、「正当」化されていると感じることの利益

〇これらを踏まえると次のことがわかる。

「ある財または慣習行動の分布構造の単なる平行移動(つまり、この財の保持者の割合が各階級においてほとんど同じくらい増加すること)によって、その財や慣習行動の希少価値や弁別的価値は減少し、旧来の保持者の卓越性は脅かされるということである。」p.351

「知識人や芸術家たちが、文化を普及させようとする気持ち、すなわち自分をさらけだして大衆化の方向に向かうことによって市場の征服をはかろうとする気持ちと、自分たちの希少価値を支える唯一の客観的基盤である文化的卓越性が失われてしまうのではないかという不安、この二つの感情の間で引き裂かれながら、「文化の大衆化」にまつわるあらゆることがらにたいしてきわめてアンヴィバレントな関係を保っているのも、うなずけよう。」p.351

 

財生産と趣味の照応関係

「文化的財に関しては——そしておそらくは他の分野に関して——需要と供給の調整は生産が消費に対して及ぼす押し付けの単なる効果でもなければ、消費者の欲求を先取りすべく生産者側が意図的に行う研究の成果でもなく、生産の場の論理と消費の場の論理という、たがいに独立した二つの論理の客観的な協合の結果である。」p.352

→趣味を巡る競争の中で、消費の場は形成され需要ができあがる=多様な趣味は生産の場が提供する可能性の世界に居場所をみつける/生産の場は多様な趣味のうちに構成され

機能する条件を見出す

「したがって、生産の場によって提供される生産物と社会的に生産された趣味の場のあいだにそのつど成立するほとんど奇蹟的ともいえる照応関係を説明するのに、生産を人々の欲求に無理やり適合させようとする至高の趣味という仮説をもちだす必要もないし、また趣味そのものを生産行為の所産とする逆の仮説をもちだす必要もない。生産者たちは他の生産者たちとの競争の論理によって、また生産の場における自らの位置に結びついた個別的な利害=関心によって、消費者たちが自らの存在状態と階級の位置づけに応じて持つところの多様な文化的利害=関心に出会うような生産物、明確に他とは異なる生産物を生産すよう導かれてゆくのであり、こうして消費者たちに、自分を満足させる現実的可能性を提供するのである。」pp.355-356

「生産の場の論理と消費の場の論理が客観的に協和するような状況をつくりだす機能的・構造的相同性の原理は、以下の事実のうちに宿っている。すなわちある特殊化した場は同じ一つの論理、つまり所有されている特殊資本の量によって組織される傾向があること、そして、特定資本の最も豊かな層と貧しい層、支配者と被支配者、現所有者と所有志願者[…]等々のあいだにその都度成り立つ対立関係は、それらのあいだでたがいに相同である。一方、社会的諸階級の場を組織する対立関係または支配階級という場を形成する対立関係とも相同であること。」p.355

※相同……現在の形は異なっているのに、その起源は同じくするという発生学などで使われる用語

※ここの節かなりわかりにくいが、まとめると文化的財の生産(供給)/趣味(需要)は(普通思われているのとは異なり)別個のシステムであり、両者が特定の場で出会うことによって、緊密な照応関係を示すというお話。

 

相同性の効果

〇服装のモードは、文化的財生産/趣味との間にある照応関係の完璧な例。

→モードの絶えざる変化は二つの客観的協和の産物

①生産の場における闘争の論理……新/旧の対立に基づいて組織される

 

②支配階級という場の内部における闘争の論理……現所有者と所有志願者間の対立

[ex.]旧来のブルジョワ層(=現所有者/趣味側)に迎合するデザイナー(旧/生産者側)は地味な服を作るよう務める/ブルジョワジーの中の若者(=所有志願者/趣味側)に対して革新的なデザイナー(新/生産者側)は客観的同士となる

 

「文化的財の生産の場がいかに作用するかという論理と、それらの場の力学を基礎づける卓越化の戦略によって、モードであれ、小説であれ、そうした場の作用から生み出された生産物は、まず第一に諸階級内の諸集団のあいだで、そして次に諸階級のあいだで、卓越化の道具として差異化的に機能する傾向を持つ。」p.358

 

親和力

〇文化財生産/趣味の相同過程において、人ともの、人と人の照応関係も現実化してくる。

「これらの一致の最も極端な形は、共感や友情、あるいは愛情などによって新メンバーを選ぶコオプタシオンという行為によって代表されるものである。[…]見たところ最も直截的であるような「親和力」は、つねに部分的にはさまざまな表現特徴を無意識のうちに解読することの上に成り立っている。」p.371

「趣味とは、たがいによく調和し、適合しているものや人間どうしを組み合わせ、類似させるもののことなのだ。」p.371

※コオプタシオンはcorporationのフランス訳?

 

 「コオプタシオン行為はすべて他者が認知行為の対象である限りにおいて他者を認知する行為であると言える。あるいはもっとくだけた言い方をすれば、あるハビトゥスが他のハビトゥスとの親近性を確認する際の手段となる標定作業であるといってもよい。」pp.373-374

「ハビトゥスによるハビトゥスのこうした標定作業は、社会における人々の出会いを方向付ける直截的な親和力の基本となっているものである。」p.374

「趣味とはすぐれて、運命的な愛のかたちである。ハビトゥスはもろもろの表象や慣習行動を生み出すが、それらは生産母胎になった客観的条件に対し、つねにそう見える以上にピッタリ適合しているものなのだ。」p.375

 

象徴闘争

〇主観主義、客観主義を乗り越える必要。

「社会空間をさまざまな相互作用の絡み合った状況空間、すなわち抽象的な位置状況の断続的な継起へと還元してしまう主観主義的錯覚におちいらないようにするためには、すでに行ってきたように、客観的空間としての社会空間、つまりそれらの相互作用がとりうる形式とそこに巻き込まれた人々がその人々について抱き合う表象とを決定するような、客観的諸関係の構造としての社会空間を構築しなければならないわけだが、今度はさらに、社会的事実をもののように扱うことで記述対象を物象化するこのとりあえず採用した客観主義を乗り越えなければならない。」p.376

→社会的位置はスタティックな構造ではなく、行為者が戦略的を練り、闘争の場において攻略・防御の対象になるといったダイナミズムを孕んでいる。

※細かいが、ここの「モノとしての社会」という言い回しはおそらく明確にデュルケムを意識している。ブルデューの理論が構造 対 行為、客観 対 主観、(方法論的)集団主義 対 個人主義の超克が意図されていることのあらわれ?

 

〇統計的なデータというのはある時点での闘争の総括表——一状態を表すもの。

「その闘争において行為者たちが、闘争の前段階に獲得してきた資本、闘争そのものを支配する権力を含んでいるかもしれない資本、したがって他者によって保持されている資本を支配する権力を含んでいるかもしれない資本を、そのつど武器として、また資金として絶えず投入し続けているのだ。」p.379

→したがって、どの資本があるゲームの一局面において投入されるべきか、といった流動的な判断は、データを静的に捉えると見落とされてしまうことになる。

 

「趣味はこのように、いわば一般化されたエンゲルの法則とでもいったものにしたがっている。つまり分布の各水準において、以前あるいは会の水準を占める人々にとっても希少であり、近づきがたい贅沢さとか常識を超えた着想の面白みとかであるものが、月並みにありふれたものとなり、より希少で弁別的な新しい消費対象の登場によって、ごく当たり前のものの地位にまで追いやられてしまうといったことがおきているのだ。そしてもう一度言っておくが、それは弁別的で卓越化された希少価値のいかなる意図的な追求とも無縁の場所で起きているのである。」p.384

→ここから人は仕事においてもレジャーにおいても、その時点で最も希少価値のある物や場所や慣習行動を志向する=時代遅れになってしまったものから距離を置き、卓越化を目指す。「経済的財あるいは文化的財の所有化をめざす闘争はまたかならず、分類されかつ分類する財や慣習行動というこれらの弁別的記号の所有化を、あるいはこうした弁別的特性の分類原理の保守または転覆を目指す象徴闘争でもある。」p.385

「文化とは、あらゆる社会的闘争目標(賭金)がそうであるように、人がゲーム(賭け)に参加してそのゲームに夢中になることを前提とし、かつそうなるように強いる闘争目標のひとつである。」p.386

→しかしその文化のゲームに参加することは成員たちにとって無自覚化され、闘争でありながらも闘争それ自体を隠蔽する作用を持っている。

 

〇被支配者階級は弁別的特性の所有化を目指す象徴闘争(ゲーム)に介入するが、あくまで引き立て役としての立ち位置しか与えられない。「被支配者階級の人々が、種々の生活様式にその特徴を与える弁別的特性の所有化をめざす象徴闘争、そしてとくに所有化されるに値する特性とは何か、その正統的所有化様式とはいかなるものか、という定義をめぐる当為層に介入してくることがあるとしても、それはあくまで受動的な目印として、引き立て役としてのみである。」p.388

※ここ北田先生[2017]が取り上げている箇所。庶民階級はゲームに参加していることに無自覚でありながら/ルールを知らないのにも関わらず、強制的にプレイヤーになっているというのは、ゲーム概念を拡張しているのではないかという批判。「ルールを知らない」のに強制参加という構造は果たしてゲームといえるのか。例えばウィトゲンシュタインの言語ゲーム概念ならば語法・話法というルールは少なくともプレイヤーに共有されている。

→ハビトゥス概念の無自覚性がこの批判を乗り越えるための鍵。つまりルールの存在に気づいていないが=なにが象徴的に闘争されているのか/どの資本に価値があるのかということに無自覚だが/最低限のルールそれ自体は身体化されている(無自覚であることと、身体化されていることは両立する)。

 

〇プチブルは以前(前章の見えるものと見えないものの節)で見たように、象徴的闘争の場面では「気おくれ」や「上位層の眼差しによる不安」を募る。「プチブルとは、客観的に被支配者側の立場にありながら、意図の上では支配者側の価値に参加しようとするために生じるあらゆる矛盾にさらされ、自分が他人の判断にゆだねる外見に、またその外見について他人が下す判断に、絶えずつきまとわれている者のことである。」p.291

 

〇支配階級がとりわけ象徴闘争の中心的場となる。学者(理性主義)と社交家(快楽主義)の対立など。経済資本、文化資本、社会関係資本、学歴資本、どれが象徴的に有効なのか。

「「生まれながらの卓越性」という(社会学的には根拠のある)幻想は基本的に、支配者が自分の存在そのものによって優秀性の一定義を他の階級の人々に押し付ける力の上に成り立っているのであり、この優秀性とはまさに彼ら支配者自身の存在様式に他ならないから、一方で弁別的な、差異的な、したがって恣意的な、と同時に他方ではまったく必然的な絶対的な、自然なものとして現れてくるのである。」p.395

→正統文化が正統文化足りえるのは、支配階級がそれを所有しているからであり、それがゆえに「生まれながらの卓越性」という幻想が出来上がる。それは幻想という点で恣意的なものに過ぎないが、支配階級の所有という根拠が不可視化されているために、他方で必然的な力が伴っているかのようにも見える。

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