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Luhman,Niklas 1981→2007 『福祉国家における政治理論』

Ⅰ 福祉国家の目標と現実p.1-6

○現代の社会福祉における限界点

一方で社会科学的な運命論を認めつつ(個人の選好や行為は環境に規定されうる)

/他方で「扶助から自助へ」といったよう補償と介入の道徳的根拠が拡大されている

→あらゆる人が社会保障の対象になりえる

○また以下の3点も加味される必要がある

(ⅰ)環境変化の問題

(ⅱ)福祉国家の費用の問題

(ⅲ)諸個人の特性の多様化による、特定の人間像の予期の困難性

 

○上述の状況に陥ると政治目標が短期化される(短期化によって複雑性を縮減する?)

政治的メンタリティのレヴェル――得票数やマスコミ反響の獲得など

政治理論のレヴェル――時間地平の拡大、自己言及性(政治内部における政治の産出)を抽象的に取り込むこと

→本書は政治理論のレヴェルが一貫して考察される

 

 

 

Ⅱ 時代遅れの理論 p.7-14

○諸政治理論(啓蒙主義、功利主義、社会契約など)は現状分析にとどまらず、具体的な政治的決定の水準でも参照されてきた。

○近代初期に問題になったのは国家中心の恣意性(自律性)だった。

→憲法と権力分立を論拠としこれらは反駁された

 

○19-20世紀において現代の福祉国家論の雛形が形成され、理論の趨勢も確認できるようになった。恣意性は諸個人の「生活の質」を掛金にして議論された。

→ここで「福祉国家の承認」と「補償されるべき対象・問題」が再帰的関係を結ぶことになる(自己言及性?)

○ゆえに従来的な階級支配を批判する理論(ここではマルクス主義に言及)は通用せず、そのような左派理論は前提を単純化しすぎている点において、理論的ラディカルさが無い。

 

 

 

Ⅲ 社会理論上の基礎 p.15-22

○マルクスが下部構造-上部構造を区分したため、現在の社会理論にも国家(政治)/社会を対立項として捉える傾向が見られる。

→しかし政治も下部構造としての経済も機能分化した社会システムの一つに過ぎない

→アリストテレスからアーレントに至るまで、政治に全体社会の中心的役割を担わせてきた。しかしそうした伝統的ヒエラルキーはもはや想定できない。

 

○本書の考察は、国家の中心的機能としての政治の復権ではなく(ルーマン的にはそれはできない)/機能分化した政治システムにおいて民主的で高性能の政治をいかに行うか、ということにある。

 

 

 

Ⅳ 福祉国家:政治的包摂 p.23-31

○一般的に指摘される福祉国家の問題点は「多様な社会階層に対する扶助や補償という目標に対し、その財源確保の困難さ」である。

→しかしこれは問題の深層を捉えられていないため、ここではマーシャル(新古典派の人の方)にならい「包摂」概念を用いて福祉国家の輪郭を素描する。

 

○包摂という原理は全ての社会の成員を何らかの機能システムに参与することを促し、完全にシステム外部での暮らしを選択しない限り、誰もが程度の差はあってもシステムに与している状況が想定される。

→旧来的には特定の社会的身分のみが包摂の対象だったが、民主主義の達成によって全ての人が顧慮されることになり、ゆえに多様な変数(教育機会、信仰の自由、所得など)が加味されなければならなくなった。

→もはや国民は「甘受」するのではなく「要求」する。

 

○17世紀において政治に導入された「利害」の概念は、こうした多様で多元的な要求が競合しうることを前提としている。

→全ての人の要求-利害を調整できないのは問題であるが、そもそも包摂は福祉国家における補償の範疇を超えており、政治システムはより限定的機能しか持ち得ない。

 

 

 

Ⅴ 自己言及システムとしての政治 p.33-41

○政治システムもまた自己言及的に作動する(本章では自己言及システムについて解説されるが、いつもの話なので割愛)。

 

○政治を自己言及システムとして把握することによって、福祉国家の指向もまたゼマンティクに決定付けられた、政治システムの作動であると考えることができる。

→つまりその指向性はシステム内部の変容に依存している。

 

○自己言及的であるという表現によって、従来的な政治理論が問題視してきた政治における権力一極化等が解消されたとしているわけではない

→むしろ自己言及性に着目すると以下の問題が2つ強調される

(ⅰ)自己言及による政治的問題の「短絡化」

○野党/与党という二値の区別に準拠したコミュニケーションを産出するだけで、政治が行われていることになる(与党の「無能さ」を批判しておけばそれだけで野党が意義のあることをしていると見なされる など)

○保守的/革新的という特殊コードに準拠したコミュニケーションを産出し、性急に政治的決定が行われる

 

(ⅱ)複雑性が高過ぎるがゆえの「消極的選択」

○相応の準備がなされ、相応に接続できるという予期が可能な状態にならなければ行為することはできない

→システム内部の要素を消極的に利用してしまうことになる

→これら自己言及性に伴う2つの問題は

(a)システム内部における歴史の指示(「歴史化」)による

(b)システム外部の環境の指示(「外部化」)による

相互依存性の遮断(何と何の相互?)に基づくものであると定式化できる。

→特に成熟した近代国家においては外部化の方が主要な戦略となりやすく、本書でもこちらに着目して福祉国家への批判を加えていくことにする。

 

○そのために政治システムの部分的分出過程をまず検討する。

 

 

 

Ⅵ ヒエラルキーと循環 p.43-50

○伝統的政治体制はアリストテレスの頃から権力の優/劣から構成されるヒエラルキー・モデルとして解されてきた

→優劣、上下といった二項図式的モデルが有用なのは近代以前まで/政治システムの機能分化によって現在では以下の三項のモデルが適切である(階層分化から機能分化へ)

(ⅰ)公衆システム……政治システムの民主化過程において分出したシステム。政治的決定権を有する。

(ⅱ)政治システム……国家と上述の公衆を媒介するシステム。もはや権力関係などからは把握しきれない挙動を見せる。

(ⅲ)行政システム……立法府や政府からなり、現行の政策決定などが実効力されるシステム。特別に命令や権力の権限を有する。

→このうち本論考が注目する「政治システム」の内部システムは行政である

 

○3つはそれぞれ高度に相互依存的であり、教育や経済などといった他のシステムよりも互いの作動を規定しあっている(依存的である)

→「(より包括的意味での)政治システム」の内部システムは原則的に、

公衆システム―<選挙>→政治システム

政治システム―<政治的境界と優先順位付け>→行政システム

行政システム―<政策施行>→公衆システム 

といった循環構造を見せる。また、

行政システム―<提案>→政治システム

政治システム―<世論誘導>→公衆システム

公衆システム―<泣き落とし等の影響>→行政システム

といった逆循環も現行の「政治システム」においては観察される。

→逆循環が起こるのは、主に「政治システム」全体の複雑性が高まった際のインフォーマルな手段として

○つまり階層や序列ではなく、自己言及的な円環的(逆)循環が「政治システム」の構造的特徴となった

→ゆえに問題は権力の濫用等には無く、むしろシステム内部におけるコミュニケーション開放の可能性と再生産にある。

 

 

 

Ⅶ 自己観察 p.51-58

※機能分化に伴う自己観察の考察については政治システムに限定するのではなくて、一般的見解としてここでは述べられている。

○部分システムは機能分化した結果、他の諸システム間に直接的関わりを有してはいない

→部分システムにとって、そのさらに下位のシステム(政治システムにとっての、政治・公衆・行政システム)は「ブラックボックス」としてシステムに内部に立ち現れる

 

○政治・公衆・行政システムはそれぞれ互いに互いを不透明な対象(すなわちブラックボックス)として把握しているが、その不透明性によって下位システム間の予期が可能となる。

[Ex]政治システムにおける「官僚制」というタームは、公衆システムにおける政治システムの扱いを予期したものである

 

○さらに「我々」の科学システムは、政治システムがいかなる他者評価(の予期)に基づき作動しているかを明らかにする。この水準に至って初めて「(政治システムによる)観察の(科学システムの)観察」が達成される。

→科学システムはもとより観察の観察を指向するが/政治システムにおいては他システムによる評価の予期(ブラックボックスとしての自システムの反省)が契機となる

→政治システムは科学システム的態度を模倣するのではなく(というか模倣は不可能)、本書の冒頭に書かれた政治理論(自己観察のこと?)に依拠する必要がある

 

 

 

Ⅷ 環境との関係 p.59-70

○一般に社会システムは

(ⅰ)他の社会システム的環境(教育、法、経済、科学、芸術など)

(ⅱ)社会外部の環境(自然など)

という2つの環境と接触している。

→従来的にシステム/環境は「一対一関係」だったのだが、全体社会の複雑性の増大に伴い「高度な相互依存関係」に変容した。

→先述の通り、システムは閉塞しているため直接的な関係性を環境との間に築けない/システム内部における自己言及性に注目する必要がある

○このことは複雑性の増大した近代社会において、諸システムが参照可能な外部基準はもはや存在せず、全てのシステムは自己準拠してコミュニケーションを産出しているという帰結をもたらす(知ってた)

 

○ではいかにして「政治システム内部の自己言及性」と「政治システムの全体社会に対する実効性」は両立しうるのか(あるいはしないのか)。

→政治システムは自己言及(Ⅶの循環性)の過程を通して、問題を外部化(Ⅴ章)する(本当は政治システムに内在するのに、あたかも外部から与えられた根拠があるかのように問題を扱う)

[政治-公衆]世論による外部化……マスメディアによって政治家と公衆の両者に所与の情報としての世論が(外部からもたらされたもののように)提供される

 

[政治-行政]人物による外部化……ウェーバーのいう「カリスマ的支配」のこと。

 

[公衆-行政]法による外部化……包摂や市民の要求によって複雑性が高まった福祉国家においては、逆循環が観察され、公衆の側から行政に法的圧力をかけることもある。

○政治システムの環境に対する処理能力を、これら外部化の3要件だけで事足りると考えることはできない。

→これらは処理のための基本形であって、Ⅶ章の自己観察と調和することで初めてより完成度の高いものとなる

→問題の外部化に自己観察(システム/環境間の差異のシステム内部記述)をうまく導入し、適合させるのが政治理論の役割である(Ⅰ章)。

 

 

 

Ⅸ 不安定性と変動 p.71-76

○進歩的/保守的といった区別は(あるいはそれに準拠した与党/野党という区別)は、政治システムにおける基本戦略である外部化より複雑性が高いとはいえ、それでもまだ単純である。

○しかしダイナミックな社会像を前提とすると、あらゆるシステムにおける図式化は変革に関することになり、問題はシステムの変革による当該システムの不安定化にある(自己言及的に不安定性を創出?)。

[ex]政治システムにおける官僚制の敵対視が―福祉国家的補償の契機となる(政治システムが変革を目指すことで、政治システムが不安定化する)

→システム内部の単純な二項図式(進歩的/保守的、与党/野党)ではなくて、システムが行う不安定性の予期に注目すべき

 

○もはや従来的なヒエラルキーの創出によっては、この不安定性は克服できない。

 

 

 

Ⅹ 経済、教育、科学からの三つの事例 p.77-83

○機能分化と自己言及化によって、他の社会システムにおいても、全体社会システムとしての環境の処理に関する問題が生じる。

[経済システム]財の希少性の問題……貨幣メディアに準拠したコミュニケーションが財の希少性に応答してくれるか否か、またその際の政治システムの介入可能性も問題となる。

 

[教育システム]教育・社会的選別の問題……もはや単一の学級カリキュラムによっては人生を方向付けられない。政治システムによる選別の強化やイデオロギー的な過剰要求がこれに応じられるのか。

 

[科学システム]「知ある無知」の問題……科学技術の発展によって人知を超え、抑制できない「知」がますます産出されている(原発や生態学的均衡など)。政治システムによって、科学システムの進歩をコントロールすべきだろうか。

○これらは政治システムのコミュニケーションに取り入れられるべきであろうか(政治の問題として扱うべきだろうか)。

→これらの問題は諸システムの機能分化-自己言及化の帰結であり、政治システムで扱うことは「ありそうもない」が「ありえない」わけではない。

 

 

 

ⅩⅠ 機能と作用 p.85-92

○何度も述べられたとおり近代において全体社会は個々のサブシステムに分化しており、それらは互いに互いの環境として関係しあっている。

[機能]……サブシステムと全体社会システムの関係

 

[作用]……サブシステム間の関係

→この区別はいくら強調してもし過ぎることがない

○さらに政治システムにおいては、

[政治的機能]……拘束的決定の貫徹能力の提供

→政治が内包する潜在的な物理的暴力の可能性

 

[政治的作用]……作用は当該社会によって様々な形態をとりうるが、福祉国家においてはより包摂的なものに拡張される傾向がある

→経済システムや教育システムといった他のサブシステムをどの程度まで包摂しうるかは、政治的機能を省みながら吟味される必要がある

→政治的作用が他システムの包摂を志向し、その包摂が機能である「拘束的決定力の提供」に回収されない決定が生じてしまった際、「官僚制」が生み出される。

 

○つまり福祉国家における包摂としての政治的作用は、エスニシティやセクシャリティ、宗教的マイノリティ、失業者や障害者といった特定の社会集団に関係する。

→人への関係付けによって、システムが内包する問題性を隠蔽し、その分析を省略することができる(人に注目することで政治システムの所在をわからなくする?)

 

 

 

ⅩⅡ 政治理論の政治概念についての中間考察 p.93-98

○政治的コミュニケーションを機能と作用に区別したが、これは手放しで首肯できる区別だろうか。

○例えば地方自治における郵政やインフラ整備などは、拘束を伴う決定(機能)には還元されない政治的営為ではないだろうか。

→これらが政治の重要な一部であることに疑念を挟む余地が無いが、これらを無批判に政治的営為と見なすと、国家としての組織内部あらわれる営みがすべからく政治化してしまう(特定の機能を同定する必要がある)。

 

○政治理論において、このように機能と作用を区別し、機能を拘束的決定力の提供と見定めることは、福祉国家への批判に与することになる

→包摂としての政治的作用が機能的に見て(つまり拘束的決定力を提供しているか)、妥当か否かを判断するから。

→換言すれば政治的作用は政治的機能の特殊系であり、作用の妥当性は機能の観点から判断される/倫理や効率性などの価値判断を含まない点でニュートラルである

 

 

 

ⅩⅢ 法と貨幣:福祉国家の作用手段 p.99-107

○あるシステムが自己言及的に産出した環境との境界線は、客観的な尺度によって定義されるわけではない。

→政治システムにおける「国家」という線引きも恣意的なものである

 

○ゆえに政治システムの境界を標準化するような分析ではなく、むしろ政治システムがどのように全体社会と諸サブシステムに対する影響(機能と作用)を与えているかを観察すべきである。

→政治システムにおける「象徴的に一般化されたコミュニケーションメディア」は権力だが、技術的浸透は貨幣と法によって担われる。

→たとえば予期される事態に対する法整備や予算の承認など(貨幣と法を用いた決定内容に関しては不確実である)

 

○このように貨幣と法は政治システムの作用に一般的効力を持たせるが、福祉国家においては包摂の名の下、あらゆる補償が政治的コミュニケーションに還元され、貨幣と法の内在的限界にぶつかることになる。

→人そのものの変革は、法と貨幣の因果論的性格によっては規定できない

 

 

 

ⅩⅣ 官僚制 p.109-117

○前章で解説されたよう、法と貨幣は政治システムに留まらず、全体社会システムに浸透した稀有なメディアである。その機能としては、

(ⅰ)伝統的、地縁的、道徳的、家族的といった「私的交際」の拡張

(ⅱ)大規模な組織システム=「官僚制」形成の達成(ここでの組織システムとはルーマンのシステム3類型の1つ?)

→特に福祉国家に関する議論では後者が重要

 

○官僚制は(ウェーバーの主張とは異なり)全体社会に効力を持たない/当該の組織システム内部に留まる

→法と貨幣は環境としての全体社会におけるコミュニケーションメディアだからこそ、組織システムの形成に機能する

 

○組織システム-官僚制の問題点は以下の2つに整理される

(ⅰ)過剰な条件付け……貨幣も法もメディアであるため、二値コードとして機能する(「支払う/支払わない」、「合法か/違法か」)

→この際、どちらを選択するかということの根拠は無限に有りえるため、時に官僚制における選択条件が過剰になってしまう

(ⅱ)貨幣と法の内在的限界……前章の最後にあるよう、貨幣や法によって「人そのものの変革(教育、社会復帰、人格形成など)」を行うことはできない

 

 

 

ⅩⅤ 行政政策の合理化:組織、プログラム、人員 p.119-125

○前章の官僚制の考察によって、ウェーバー的な意味での「官僚制」が完全に退けられるわけではない

○行政業務の合理化については、行政システムに焦点を絞って分析する必要がある(政治システム全体の問題ではない)

 

○行政の合理化は行政内部における決定前提を方向付ける、以下の3類型からなる計画に依拠して達成される。

(ⅰ)組織構造……比較的強固な計画基盤であり、ゆえに高度な合理性が志向されることも少ない

 

(ⅱ)プログラム政策……その都度、重要な問題に依拠して計画されることからもこれが行政における主要な合理化の機能を担っているわけではない

 

(ⅲ)人員政策……行政の主要な合理化。人的能力とタスクの一致を目指す。

 

 

 

ⅩⅥ 政治的オプション p.127-134

○ここまでで提起した論点を整理すると以下の2つになる

(ⅰ)福祉国家においては包摂が志向され、あらゆる営為が政治的コミュニケーションに還元される。しかし、政治システムの機能はあくまで拘束的決定条件の提供にあり、政治的コミュニケーションは機能的に限定されたものである

→一方では開放されており、他方で制限されている

 

(ⅱ)政治システムは部分システムである以上、内部における決定が環境に依存している。ゆえに方向付けの必要性は、当該システムにおける行為の可能性を大きく超える。

→政治的オプション(社会理解&プログラム選択の統一)によって、政治システム内部での方向付けが行われる必要がある。

 

○政治的オプションは以下の2つの機能からなる。

(ⅰ)政治システムの内在的限界の無視……政治もサブシステムの一つに過ぎないので、全体社会に責任を負うことはできない。しかしながら現実とは関わりなく、政治システム内部でそのように方向付ける必要がある。

 

(ⅱ)役割遂行者としての諸個人の参加……諸個人が政治システムに何らかのかたちで参加するように方向付ける。

→アリストテレスは政治参加によって、個人に内在する徳性が育まれると考えた

→アリストテレス的な社会的存在=政治的存在といった想定は、福祉国家における包摂の拡張にも見られる(政治的当事者の諸個人は平等に顧慮されるべきである)

→2つのオプションが両立され、均衡しているかのテストは、法と貨幣が因果的技術として用いられているかを計測することで達成される。

 

○Ⅹ章で見たように、いまや政治システムをめぐる問題は「進歩的/革新的」や「社会主義的/自由主義的」といった単純なものではなく、多様な変数から構成されている。

→多様な変数(財の希少性、教育・社会的機会の平等、知ある無知など)のどれが政治的オプションによって方向付けられるべきか熟慮される必要がある

 

 

 

ⅩⅦ 政治責任と政治理論 p.135-144

○政治責任……ある政治的選択を実際に遂行すること(政治的に-決定/決定しない)

→この選択-決定がシステムを特定の状態に固定する

 

○政治責任は(政治システムから見て)外的な規範や権力などから考察するのではなく、政治システムにおける内省的営為として把握される必要がある。

→その内省とは民主主義によって実現される(政治システムによる)自己観察(環境/システム-差異の観察)に他ならない

 

○政治責任をいかに扱うか、という問題に関して、社会科学は科学システムのコミュニケーションからこれに応答しようとしてきた。

→しかしながら「真理」というコードは政治システムの外部にあり、科学/政治の関係性は看過されてはならないが、理論はあくまで政治システム内部における自己観察を志向する政治理論でなければならない(政治学/政治理論―科学システム/政治システムの差異)

→政治責任は先述のように内省的営為であるため、政治理論が行うのは(科学システムとしての)外的観察ではなく、自己観察である

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