top of page

Hacking,Ian 1983→2015 『表現と介入』

イアン・ハッキング 1983→2015 『表現と介入』

 

序論 『合理性』 p.24-55

「長い間哲学者たちは科学のミイラを作っていた。とうとう死体から蔽いをはがすことになり、そこに生成と発見の歴史的プロセスの残滓を見出すと、合理性の危機を自分で作り出した。1960年頃のことである。」 p.24

→懐疑論者たちによって「科学的真理」から絶対性が剥奪されることになると、以下の2つの問いが共有されることになる。

①論理学・認識論的……「合理的思考」に関する問題であり、何が根拠足りえるのか、何が証拠になるのか、といったことがここでは問われる。

 

②形而上学的……「実在」に関する問題であり、真理とは何か、理論が扱う対象は存在するのか、単に観念的な構成物に過ぎないのか、といったことが問われる。

→両者共に重要な問題であるが、本書は科学哲学入門として、後者の実在に対する考察を展開することにする。よって序論のところで本書では中心的に扱うことができなかった、もう一方の合理性についての議論を簡単に整理しておく。

 

○科学を合理的思考の産物であると見なす考え方は、カルナップとポパーを指導的立場として展開された。彼らは物理学を特に合理性の塊であると考え、以下の2つの相違点を持ちながらも、出来の悪い思弁との差異を模索した。

【カルナップ】

○言語の観点から差異を模索。科学的な議論は有意味であるが、形而上学的なおしゃべりとは一線を画す。

→実際に観察を行い、一般性に勝る検証を生み出すか探る帰納法的分析。

 

【ポパー】

○意味の研究は科学の理解にかかわりをもたないとして差異を模索。有意味な命題は原則的に検証可能である。

→理論上の推測を形作り、実際に科学知識がその形に適合するかテストする演繹的分析。

○しかしポパーとカルナップは上述の相違点を有しているのにもかかわらず、

「[…]自然科学は合理的思考の最良の実例である、と決めてかかっている。ここにさらに幾つかの共有されている信念を書き加えておこう。彼らがこれらの信念を以って行うことは互いに異なっている。肝心なのはそれらの信念が共有されているということである。」 p.32

→こうした合理性が科学に内在するという信念に対して、「結果的に」一石を投じることになったのは、他でもないトマス・クーンである。

 

○クーンによれば通常科学の理論は基本的に有用でありながら、それが構築されるたびに微量の誤謬――反駁の契機すなわち「変則性」を蓄積していく。多くの場合、研究者はこの変則性を無視してしまうが、それがゆえにますます理論の欠陥は覆われる。

→しかしあるとき溜まった変則性に皆が目を向け、理論が急激に刷新されるタイミングがやってくる。これが他ならぬ――パラダイムシフトである。

「もっとも重要な事柄は彼が新しい図式を提案する点にある。この図式によれば、パラダイム転換の後、新しい専門母体のメンバーは彼らの先輩たちとは「異なった世界に住む」とされている。」 p.45

→新たな通常科学の理論においては、とって代わられた旧来の理論とは自然言語を異にするため、もはや旧来理論の諸発見を表現すらできないかもしれないということ。

○いずれにせよ、この議論によってクーン自身が科学知識の合理性を真っ向から否定していないのにもかかわれず、科学的合理性は揺るがされることになった。

 

○クーンに対してファイヤーペントは真っ向から合理性に対抗する。アナルコ合理主義を標榜する彼の主張は以下のようなものだ。

「合理性の規範や、正しい根拠という特権階級や、また精神を束縛する特別扱いの科学もしくはパラダイムをなからしめよ。これらの道徳的命令は部分的には人間本性にかんする考え方から湧き出ている。合理主義者たちは体系だったやり方で人間の心に宿る自由な精神を束縛しようと試みる。だが数多くの合理性があり、たくさんの理性の様式があり、また理性と呼ぶに値しないものもそこではさして重要ではない多くの立派な生活の様式がある。」 pp.48-49

 

 

 

第1部 表現すること

第1章 科学的実在論とは何か p.58-78

①「科学的実在論は適切な理論によって記述される対象、状態、家庭は実際に存在しているのだと言う。」 p.58

→まだわれわれの知識が至っていなくとも、いずれ解明されるかもしれない真理の対象は実在しているとも主張される。

 

②「反実在論はその逆のことを言う。いわく、電子などというものは存在しない。」 p.58

「反実在論者の一部は、理論は世界のあり方の文字通りの言明としては理解できない知的な道具であると信じているために自制する。」 p.59

→両者とも理論によって扱われる対象を世界に存在する事物として扱わない。また理論が現在の理論である必然性はないとする意見もある。

[ex.]滑車の速度の計算式は、経済学における投資x、乗数k、雇用Nでも説明できる。

 

「ところでわれわれはニオブの球体上の電荷をどのようにして変化させるのだろう。「そう、その段階で電荷を増やすために陽電子をそれに吹きかけるか、また電荷を減らすために電子を吹きかけるのです」と私の友人は言った。その日からである。私は科学的実在論者となったのである。私にかんする限り、吹きかけることができれば、それは実在する。」 p.62

→ニオブの球体の電荷を変化させるため(結果)には、陽電子/電子を吹きかける必要がある(原因)ことの関係性を把握しており、これを他の何か(この場合はクオークの捜索)を見出すために用いている。

 

○実在論-反実在論は、以下のような主張が混在しながら論争を続けている。

①実務家・実験主義……実在論は伝統的に唯物論と不可分であり、この種の立場は原子に対しては実在論的だが/非唯物的対象には非実在論的姿勢を見せるかもしれない。

 

②反因果論……理論的対象の持つ因果性を疑問視し、理論的対象それ自体も拒否する。

 

③知識に対する懐疑……感覚的経験の対象のみを実在と認める論者は、直接的な経験ができない理論の真理値に対しても疑いを抱いている。

 

④特殊科学に対する懐疑……理論的対象の扱われ方を疑う姿勢。粒子は不可知であるのに、一定の位置と運動量を確かに持っているといえるのだろうか。

 

⑤人間科学への懐疑……フロイトのエディプス理論や、デュルケムによる「モノ」としての社会などは、実際上の存在をともなっているのか疑う立場。

 

「私は「理論的対象」という述語を理論によって要請されてはいるが、観察することのできないものを詰め込むがらくた袋のすべてに対して用いることにする。それはなかんずく、粒子、場、過程、構造、状態などのようなものを意味する。二種類の科学的実在論があり、一つは理論に関わり、一つは対象に関わる。」 pp.68-69

→「理論」に関するものは、その真理値や真理の候補としてふさわしいかを疑い、「対象」に関するものは、その存在に疑念を投げかける。

[ex.1] ラッセルは観察可能なすべてを論理式に書き起こすことができると考えた(論理主義)が、その対象自体は単なる論理的構成物に過ぎないと主張した。→「理論に対する実在論者∧対象に対する非実在論者」

[ex.2] 教会の神父は神の存在を信じているが、神に関する体系的な理論の構築は不可能であると考える。→「理論に対する非実在論者∧対象に対する実在論者」

 

○上記のことから、

対象に関する実在論……理論的対象の実在を主張

     非実在論……理論的対象が単なる論理的構成物に過ぎない、あるいはそう仮定

する必然性はないと主張

 

理論に関する実在論……理論はわれわれの知識に関わらず真/偽いずれかの真理値をとる

         非実在論……真理とはせいぜい正当化されたり、うまく働いてくれたりするものに過ぎないと主張

 

○本書の全体的な傾向としては、理論にかんする実在(表現)を離れて、対象にかんする実在(介入)に向かっていくことになる。

「科学は二つの目的――すなわち、理論と実験――をもつと言われる。理論は世界がどのようなものであるかを言おうと試みる。実験とその後に従うテクノロジーは世界を変える。われわれは表現し、かつ介入する。介入するために表現し、表現をかんがみて介入する。」 p.77

 

 

第2章 基礎単位となることと原因となること p.79-95

「「実在的(本物)」という言葉は自然科学の中で何らかの用法を持っているのだろうか。無論もっている。実験に関する談話にはこの言葉で満たされているものがある。」 p.79

 

「この言葉にかんするもっとも優れた簡潔な考察はJ・L・オースティンによるものである。[…]彼は「実在的(本物)」という言葉にかんして四つの主な観察を述べている。そのうちの二つはいくらかふざけた様子で表現されているものであるが、重要なものであるよう私には思える。二つの正しい意見というのは、「実在的(本物)」という言葉は名詞欲求型、すなわち名詞を欲している、ということである。またその言葉はオースティンが陽気な性差別者といった様子で、否定主導語(trouser-word)と呼ぶものである。」 p.80

○「名詞欲求型」という呼称は文字通り「実在的」「本物の」といった表現が、名詞と必ずセットで用いられることに由来する。

○「否定主導語」は「実在的」「本物の」という表現が用いられるとき、「実在的ではないS」「本物じゃないS」が暗に指示されていることに基づく。

[ex.1] 「本物の皮」という表現は、「合成樹皮ではない」を含意

[ex.2] 「本物の牛乳」という表現は、「低脂肪乳ではない」を含意        など

→否定主導語は対照関係を明らかにする。前章の通り理論的対象の実在性が疑われるとき、どのような対照が暗に想定されているのだろうか。

→唯物論者であるスマートは、物的存在を伴う理論的対象(原子)と/物的存在を伴わない理論的対象(力線)を比較し、前者を「実在の」/後者を否定語として用いる。

 

○唯物論者に並んで、ヒューム来の伝統をもつ因果主義(causism)者も、理論に関する実在よりも、対象に関する実在に関心を払う。

→しかし因果主義は理論的対象が物的な性質を伴っている必要がないため、ユングの集団的無意識だったり、デュルケムの集合表象だったりを実在するか否か、因果論的に問うことはできるだろう。

 

○唯物論者にしても因果主義者にしても、オースティンがいうような文法的なやりかたで実在するもの/対照にあるものを区別する。

「それは名詞を欲している否定主導語である。それは対照を成す。なんと対照を成すかは、それが修飾する、もしくは修飾するためにそれが選ばれている名詞もしくは名詞句Nに依存する。さらにそれはNであることに対するさまざまな候補がどんな具合にNになり損ねているかにも依存する。」 p.95

 

 

第3章 実証主義 p.96-126

「長い間、反実在論の一つの伝統が生きつづけてきた。一見したところそれは「実在的」という言葉が意味することに頭を悩ましているようには見えない。それはたんに次のように言っているだけである――電子は存在しないし、他の理論的対象も存在しない。」 p.96

→実際に経験・観察可能な対象以外は、実在的はないとする主張。またしてもヒュームの経験論に起源を持つとされるこの立場を、本書では「実証主義」と呼ぶ。

 

○実証主義は以下の5つの特徴を有している。

①検証・反証の強調……有意味な名名代はなんらかのやりかたで定められる命題である。

 

②観察志向……五感を以って接することのできるものは、最良の内容を提供してくれる。

 

③原因への反対……自然の中には恒常性があるだけで、因果性はない。

 

④説明の軽視……説明はせいぜい現象の組織化の助けになるだけである。

 

⑤理論的対象への反対……彼らの実在を観察されるものに限定する姿勢に加えて、因果関係への疑念、説明の軽視が理論的対象に食ってかかる理由となる。

→これに加えて実証主義者は①~⑤の特徴を反形而上学的とし、自らの立場を総括する。

 

○「実証主義」という用語は、1830年頃にオーギュス・コントが使い始めたとしてよく知られている。

○さらにコントから100年後、分析哲学の潮流の中からラインバッハやカルナップを筆頭にした論理実証主義(ウィーン学団)が台頭してくる。

→彼らは先の特徴に加えて、「⑥言語実践や論理・意味を強調する」という特徴を備えているが、彼ら一派も英米圏の哲学者の例に漏れず、実証主義者と呼ばれることを嫌う。

「論理実証主義者たちは理論的対象を、程度の相違はあれ信用していなかった。一般的戦略は論理学と言語を用いることであった。彼らはバートランド・ラッセルを見習った。ラッセルは可能であればいつでも、推論された対象を論理的構成で置き換えるべきである、と考えた。すなわち、その実在性がデータからたんに推論されるに過ぎない対象に触れている言明は、データにかんする論理的に同値な言明で置き換えられるべきである。」 pp.111-112

→前章で書いたようにラッセルの流れを汲む論理実証主義は「理論に対する反実在論者」である。

 

○論理実証主義に対してファン・フラーセンは、理論は文字通り理解されるべきであると主張する他方、実在論者にも反対し、その理論が真である必要はないとも主張する。

『科学は経験的に十全な理論を与えることを目的とし、また理論の受容はそれが経験的に十全であるということだけを信念として伴う。』

『良い理論が真であると必要はないし、またこのことから理論が仮定する対象が実在的であると信じる必要もないことになる。』

→フラーセンの後者の主張は、「またこのことから」という接続によって、理論に対する実在/対象に対する実在を混同しているといえる。

「人はある対象が実在的であるということを、なんらかの理論が信じている「という事実のおかげで」ではなく、他の理由から信じることができる、というのが私の主張である。」 p.115

 

 

第4章 プラグマティズム p.127-138

○プラグマティズムは、チャールズ・サンダース・パースによって創始され、その後ウィリアム・ジェイムズによって広く知られるようになった。

→パースの主張は以下の論文に端的に顕れている。

『[…]したがって、実在という概念の起源そのものが、この概念は本質的に共同体の観念を包み込んでいることを示している――明確な境界はもってはいないが、知識をたしかに増やしていくことができる共同体の観念を。』 J・バックラー編 『パースの哲学』 p.247

→パースは真理を事実との対応物として考えず、むしろ真理とは途絶える事のない研究者コミュニティ(共同体)が到達する安定した結論であると把握している。最近では、ヒラリー・パトナムがこうしたパースの考えを踏襲している。

 

 

○パースから枝分かれしたジェイムズは「真理とはわれわれの現在の必要、あるいは少なくともわれわれの手元にある必要に応えるもののすべてである」とした。

○対してデューイは「真理を保証された受容可能性、言語をわれわれの目的にかなうよう経験をかたどる道具である(道具主義)」と主張している。

→こうした差異がありながらも、パース、ジェイズム、デューイに共通している点は「すべての信念を知識のプロセスに位置づける」というヘーゲル主義的発想であり、前章で見た通り実証主義者は因果性と説明を疑ってかかるが、プラグマティスとはそれが「有用」である以上は喜んで受け入れるだろう。

 

 

第5章 共訳不可能性 p.139-156

○「共訳不可能性(incommensurable)」という言葉の新しい用法は、60年頃に行われたクーンとファイヤーペントの対談の中での産物である。それ以前のところでは、古代ギリシア数学において、「共通の尺度がない」という厳密な意味で用いられていた。

「20年にわたる白熱した論争を経てみると、「共訳不可能性」という他ならぬこの言葉は三つの区別できる事柄を指し示しているように見える。私はそれらを、主題の共訳不可能性、乖離、意味の共訳不可能性と呼ぶことにしよう。」 p.143

→本章ではこれらを順に解説していく。前2つは簡明なものだが、意味の共訳不可能性はそうはいかない。

 

【主題共訳不可能性】

「後続理論は異なった問題に挑戦したり、新しい概念を用いたり、古い理論とは異なった適用の仕方をもっていたりするかもしれない。以前になされた多くの成功を単純に忘れてしまうこともあるかもしれない。」 p.145

→伝統的にはネーゲルによる前Theory1と後続のTheory2が扱う主題は同一のものでなければならず、共訳が不可能であってはならないという考え方が主流だった。しかしクーンやファイヤーペントがTheory1とTheory2間の主題の急激な変化を訴え、衝撃をもって受容された。

○しかし現在においてはネーゲル的な主題共訳可能性も、クーン-ファイヤーペント的共訳不可能性もどちらもありえると考えられている。

 

【乖離】

「十分に長い時間が経過すれば、また理論の変化が十分に徹底的なものであれば、昔の著作は構成の科学文献の読者には理解できないものになるかもしれない。それゆえある区別を設けることが重要である。ある古い理論は忘れられるかもしれないが、それを時間をかけて再学習する気がある現代の読者にはまだ理解できるかもしれない。一方にはあまりに徹底的な変化を示しているためたんに理論を学習する以上に困難な何かが要求されるような理論もある。」 p.147

→この後者の場合が「乖離」に相当する。

○例えば中世ヨーロッパの錬金術師パラケルススは、現代のわれわれとは全く異なる推論から世界を把握している(金属としての水銀は水星の象徴であり、当の水星は市場の象徴であるため、市場でかかる梅毒は水銀で治療できる など)。

 

【意味共訳不可能性】

「第三の種類の共訳不可能性は歴史的なものではなく哲学的なものである。それは理論的で観察不可能な対象を表す言葉の意味にかんして問うことから出発する。」 p.152

→理論語は往々にして、そこにあることを示すこと(※『探求』の直示的教示)ができないが、それはいかにして意味を獲得していくのだろうか。

○例えばニュートンによる「質量」と、相対論的力学における「質量」の概念や、コペルニクスの理論における「惑星」と、プトレマイオスの理論における「惑星」は同一の意味を有してはいない。

○シェイピアの検証では、後続理論が立てる問いは、旧来の理論との間に比較を許す程度の同一性を保持しているという。

→概ね同意だが、指示される対象の名辞が意味を獲得していくプロセスを明らかにしない限り、意味の共訳不可能性のより根源的な問題に接近することができない。次章では意味共訳不可能性を、回避できると考えられるパトナムの指示の理論を検討する。

 

 

第6章 指示 p.157-189

○前章で見たとおり「意味共訳不可能性」を克服するのに有用だと思われる理論はパトナムによる指示の理論だった。

→パトナムは以下のように「意味」を3つの成分から構成されると考える。

①統語論的標識……対象を抽象ではなく具象であるとし、可算名詞か質量名詞かといったことを判断する。

[ex.] 「水」も「グリプトドン」も具象だが、前者が質量名詞であるのに対し、後者は可算名詞であり、異なった文法を有している。

 

②意味論的標識……言葉に適用されるカテゴリーの判断。

[ex.] 「水」も「グリプトドン」も「自然種」であり、前者は「液体」、後者は「哺乳類」に属する。

 

③固定観念……最良のものではなく、あるいは実のところ誤っているかもしれないが、対象に適用されるイメージ・要素の集合。

[ex.] 「虎」は大きく、縞模様で、獰猛な肉小生物。

 

④外延……指示対象に含まれる要素の集合。

→③が特に重要で、従来的に説明で用いられてきた固定観念に(専門家の研究などにより)誤りが発見されても、指示対象は変わっていない――指示の要素は固定的でなく、流動的であるという点が含意されている(※恐竜には実は羽毛が生えていたみたいな話はこれの好例)。

 

「パトナムの意味の理論は電子のような成功物語にはうまく使える。が、その周辺に近い部分では不完全である。酸のような二つに分岐する概念に対してはうまくいかない。熱素のような非実在的対象にかんして異なった理論をもっている人々が、たとえば電子のような実在する対象にかんして異なった理論を持っている人々の間でと同様、相互にコミュニケートできるのはどうしてであるかも説明しない。」 p.187

→パトナムは「意味」に固定観念という成分を含めた点で優れているが、まだまだ改良の余地があるのは否めないだろう。

 

 

第七章 内在的実在論 p.190-227

※この章はハッキングもいうようにパトナムの理論の検討であって、科学哲学の検討ではなく、本題から逸れるため割愛します。

 

 

第八章 真理の代用となるもの p.228-259

○ラカトシュはクーンのパラダイムを「群集心理学」の側面から説明できると主張した。

→これは一見すると科学哲学のうち「合理性(1章)」の部分について語っているように見えるが、実は科学哲学における真理の「実在」に側面を当てている主張であり、形而上学的領域での議論である。

「それではラカトシュは何をやっていたのだろう。私の推測するところはこの章の題名が示している。彼は真理の観念の代用となるものを見出したいと思っていた。これはパトナムの次の着想、すなわち真理の対応説は誤っており、真理とはそれを信じることが合理的であるものすべてであるという着想といくらか似ている。」 p.241

→ラカトシュはこうした試みをヘーゲルのように知識が進歩するという前提から行う。

 

○さらにラカトシュは科学の客観性を理解するために以下の2つの「歴史」を設ける。

①外的歴史……科学技術とは直接関係ないが、科学が影響を被るだろうと考えられる社会・経済・政治的要因。

 

②内的歴史……通常科学と密接な関係にある研究者の動機やコミュニケーションのパターン、あるいは学史などが参照される。あくまで一つの科学システムの系譜であって、個人敵領域は除外される。

→後者の歴史で展開される知識の成長は、先述の通り合理性に基づくものであり、それ自体が真理に向かう推進力というよりかは、多くの科学者の合理的判断によって支えられている。

bottom of page