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7 フェミニズム

 そろそろ今回の読書マラソンにも終わりが見えてきたね。体系だった立場として紹介するのはこのフェミニズムがラストだ(8章の「その他」は他の章からあぶれた寄せ集めです)。今日の日本においてフェミニズムっていうとなんとなくだけど、否定的な表象化をされている印象を受ける。少なくともかつて僕(※ちゃんと勉強していない)はそう感じていたし、周りの同世代の人たち(※ちゃんと勉強していない)も同じようなことを言っていた。少し前の世代のフェミニストが感情的に騒ぎ立てている印象を周りに植えつけちゃったのかな、とも思ってしまうけどまぁ詳しい理由はどうでもいいや(誰かがフェミニストの表象分析みたいな学術書を書いてくれるなら速攻で買う)。肝心なのはフェミニズムを一枚岩と考えるなんて言語両断ってことだよ。

まず一口にフェミニズムと言ってもそれがマルフェミなのか、リヴなのか、それともクィアなのかも明らかじゃないし、これら同じ立場であっても主張が展開された国や、また社会運動なのか学術運動なのかによっても、ほぼ同音異義語レヴェルで色が変わってしまう。女性の問題に関心が向き始めたのがここ数十年のことなので、リベラリズムやリバタリアニズム、コミュニタリアニズムみたいにフェミニズムは歴史がめちゃくちゃ長いわけではないが、横への広がりが今みたいな感じで半端なく広いので、十把一絡げに否定してしまうのは知性が不調である証拠にしか見えないわけだ。だから君はそんなことしないでね。

では本題の現代規範理論的文脈におけるフェミニズムはということだけど、端的にいえば「正義」の理論に見られるようなある種のマチズモを拒否し、女性性に準拠した原理を考える立場と整理できるだろうか。ここまで完全に自明視してきたけど、本稿で今のところ取り扱った19人のうちヌスバウム以外の論者はもれなく男性だった。西洋世界が男性優位な構造を築いてきたとはいえ、そうした日常的知識を(是非は置いて)自明視しないはずの社会科学者ですらこんな有様なのはジェンダーをめぐる問題がいかに根深いか物語っているし、直観的に考えてみると彼らの主張から女性視点が抜け落ちるのは当然といえば当然である。

また政治哲学における構造的男性優位についての議論の延長線上に位置づけられる重要なポイントとして、男女の「徳性(virtue)」の違いを挙げることができる。an-anみたいな低俗クソ雑誌や、twitterで出回っているようなRT乞食クソ画像とかによく「男性は○○的/女性は○○的」みたいな区別が書いてある。多くは血液型診断のようにバーナム効果の「あるあるネタ」ではあるけど、他方で産業革命以来男性は仕事や政治といった公的領域で、女性は家庭といった私的領域でそれぞれ活動する状況が固定化されていたことによって生まれた「男女の違い」が学術的次元においても語られることはある。この固定化された構造は現代でやっと崩れつつはあるけれど、いかんせん男性も女性もそれぞれの領域で過ごした時間は長く、その間に別の徳性が両者に求められ、また獲得されたのではないか、というのがこの話の肝だ。ここのところは今回のフェミニズムを検討するにあたってかなり大切なポイントなので要チェックやで。

 などなどと整理しておいてアレだけど、面倒くさいことに一枚岩ではないフェミニズムの下位集合である規範理論的フェミニストもやっぱり一枚岩ではなく、ヌスバウムのようにロールズ的正義を肯定した上で、そのアプローチの射程を女性にまで広げる(だから彼女はリベラリズムに入っている)人もいれば、ギリガン(を援用していったエヴァ・キティとか)のように正義の対概念である「ケアの倫理」を提示してまでカウンターの立場を貫徹する人だっている。だから彼女たちの共通点として挙げられるのは、さっき書いた通り統一的な「正義」に対して懐疑的である(ゆえに本稿ではヌスバウムはリベラリズムにカウント)ということ、そしてそれをマルチカルチュアリズムとは異なり性差の観点から論駁することの2つくらいしかないんだな。まぁ家族的類似性(覚えてた?)を念頭に入れて著作を見ていこうか。

 

 

●アイリス・マリオン・ヤング 1990 『正義への責任』

 たぶん見る人が見ればこの章でヤングの『正義への責任』が出てくるのは「ちょいちょいちょーい」ってなると思う。何を隠そう本書はフェミニズム的関心というよりかは、マルチカルチュアリズム的な論点を中心にして書かれているからである。マルチカルチュアリズムの紹介で、あえて「差異のシティズンシップ」というヤングによって提起された概念を用いたのは、彼女が両方の立場を越境した学者であることを強調する意図もあったのだな。人数比的にもヤングを前章にぶち込んで、本章でマッキノンっていう法学者の著作を取り上げても良かったのだけど、マッキノンの著作は入手できず、ヤングの著作もゲットできたのはこれだけだった。じゃあ買えよって言われるかもだけど、僕こんなオナニー企画のためだけに数千円出すのはケチっちゃう男なんでサーセンw

 とはいえそこまで無理やりねじ込んでいるわけでもない。ヤングが本書で検討している多文化の変数には女性やセクシュアリティも当然ながら含まれているからだ。事実、また”Justice and Difference Politics”って別の本の後書きには自身が政治的情熱を獲得するきっかけにフェミニズムがあったこと、そして本書で展開された差異の政治の省察が女性運動への参画から着想を得たことが告白されている。つまり他のエスニシティや障害者、宗教的マイノリティといった多様な社会的集団の変数に着目しつつも、ヤングの問題意識はやはりフェミニズム的な基盤に立脚しているということだ。というわけで僕は今回ヤングをこの章に加えることにしましたよ。まぁ本当はもっとクソみたいな大人の都合があるのだけど、それは内緒だ。

 本書のタイトルには「正義」とあり、読むとヤングの主張の核に関わってくる概念として登場してくるのがわかる。しかしながら、多くのフェミニストがロールズ的正義に懐疑的であり、ヤングもご多分に漏れず「正義」に異なる定義を与えている。ヤングによる批判の要点は多岐に渡るものではあるけれども、やはり中心にある問題意識はロールズらがリベラルな平等主義における諸個人を恣意的に想定しており、結果的にアイデンティティの差異や文化的背景を無視どころか排除しているところに向けられている。こないだ社会心理学者のジョナサン・ハイトって人の本を読んでいたのだけど、そこで「WERID文化」って独特な言い回しが使われていた。つまりハイトは”White, Educated, Industrialized, Rich and Democratic(白人で、教化されていて、工業化していて、中産階級で、民主主義的)”の頭文字をアナグラムして伝統的なアングロサクソン白人の文化を皮肉っているんだな。そしてここにManの“M”を加えたら、ヤングが批判しているロールズ的リベラリズムの不当な前提とまさに一致する。社会経済的な不平等を解消するといっているわりに、西洋的白人男性中心主義が垣間見えるなんて全く「不気味な(WERID)」話だろう?(ここで山田君が座布団を持ってくる)。

 そんなわけでヤングは「正義」概念を再構成しなければならないと考える。ヤングの見解に従えば、そもそも正義やそれが適用されるべき社会は所与とされてはならず、また想定される人格が平準化されている際には先のように不当な前提が含まれてしまう。ではロールズ的な思考実験やそこから導出される普遍的理論が用いられてはならないとした今、何を手がかりに正義概念を構築していけばよいのだろうか。ヤングはこの問いに応えるために、まず「罪(guilt)」と「責任(responsibility)」の概念的差異を明らかにする作業から取り掛かる。前者の「罪」とはある行為の帰結をその行為者のみに帰属することを意味しており、これはいわゆる「自己責任」といった単語で端的に表現される。「自己責任ガー」みたいな言説は90年代くらいから日本でもよく観察されるようになってきたが、ヤング的にいえばそれは罪の追求に他ならない。またヤングはこうした社会を理念系化したとき、「帰責モデル(liability model)」と名付けられるとしている。一方で後者の「責任」とは個人の環境にも目を向ける点で「罪」とは一線を画している。曰く、諸個人やその行為とは所得や資質、教育などといった様々な環境的要因によって決定付けられており、行為の帰結を特定個人にのみに帰属させることは不可能であるという直観に基づいた考え方だ。昔、アーレントが大好きな(ゆえに僕は彼のこと苦手だったが)政治哲学の教授が「対事不対人」という中国の古い諺を教えてくれたことがあった。つまり、何かの責任を追及するとき、その個人にするのではなく、彼・彼女が抱えている背景的事情にも目を向けなさいといった意味らしい。ヤングによる「責任」の概念とはまさにこの「対事不対人」に他ならないといえるだろう。ちなみにこの本ではアーレントの話が後々出てくるけど、その点でもこの教授(すでに退官した)とヤングの関心は近いといえるのではないかな。まぁそもそも社会科学徒の多くは一般的に責任をこのように捉えているような気がするけど。少なくとも社会学の人とかからすると全く新しい話ではないね。

 そんでこうした「責任」概念よって明らかになるのは諸個人の都合が社会構造という集合表象を形成し、ある特定の個人の行為(を環境的要因として)を規定してしまっているということだろう。先の「対事不対人」の「事」とはここでは社会構造に相応する。個人に責任を帰属することはできないが、少なくとも自分の行為が個人を超越した社会なるものを構成していて、その結果として脆弱な誰かの選択可能性をさらに脆弱なものにしているのは間違いない。例えばいま君が履いている靴下。こんなん読むくらいに暇な君はどうせ安物を履いているだろうけど、それが仮に中国の工場で作られたとしよう。君にとって「靴下を買うという行為」はそれ以上のものではないかもしれない、しかし社会構造に目を向けたとき、その靴下を低賃金かつ過酷な労働環境で大量生産させられている中国の誰かがいるかもしれないという事実に気付くはずだ。君が靴下を買うことによって、ある誰かの行為が規定されているのである。

 そしてヤングにとっての正義とは上述のような「構造的不正義」に加担していることを各人が自覚し、それを容認しない姿勢であると定義できる。別に安物の靴下を買うなと言っているわけではない。しかし少なくともその行為が回りにまわって誰かの不幸を生産しているかもしれないという事実に目を向けろよって話である。超有名な社会心理学者のコールバーグって人(確かエリクソンの弟子だったはず)が、子どもの倫理的成長を描き出すために「ハインツのジレンマ」ってこれまた有名な思考実験を作った。これはギリガンの節でも触れる話なのであまり深くはやらないけど、要するに「ハインツっておっさんが死ぬ間際の妻を助けるためにクソ高い薬を盗むのは倫理的に正当化できるか/否か」って話だ。ハインツが薬を盗めば妻は助かる。一方、当たり前だが窃盗は犯罪だ。そしてコールバーグによればこの倫理的ジレンマへの回答によって児童の発達段階がチェックできるという。しかしヤング的に考えればそんなことはどうでもよく、そもそも「ハインツが盗みを働くか悩む社会」それ自体が既に構造的不正義であることになる。そこでは所得配分が、ヘルスケアの不十分さが、薬の値段が、ハインツを苦しめているのであり、少なくとも「罪」を彼に帰属することはできないのである。現実でも、例えば所得格差の大きい地域では児童虐待が、児童虐待の多い地域では犯罪件数がそれぞれ比例して増加している統計上のデータもあり、非自発的選択による「罪」に自己責任を求めるのはやはり論理的に考えておかしい気もする。所詮「環境に甘えるな」というのは恵まれた家庭に生まれた、強者の理屈でしかないのだ。

 こうした構造的不正義の問題は文字通り構造的な社会の欠陥であるため、なかなか解決策を見出すのは容易ではない。そこでヤングはアーレントに依拠しつつ「社会的つながりのモデル(social connection of society)」を処方箋として提案する。この理念系には先の「帰責モデル」と対をなすもので、社会的不正義への責任を諸個人が分有している以上、誰かにそれを帰するのではなくて社会全体で共有していきましょうね、ってな感じの指針が含意されている。またヤングは「社会的つながりのモデル」を、先の中国労働者の例が暗に示しているようグローバル・ジャスティスの次元にまで最終的には拡張可能であるとしている。この辺は次章のトップバッターであるトマス・ポッゲの発想と近いかもしれない。

 ヤングの本書での主張はかなりすばらしいものだと思う(小並感)。「責任」概念の再構成は自己責任言説が蔓延する我らがクソジャパンに対して強力なカウンターになりえるだろうし、実効性は留保するにしても「つながりのモデル」は、具体的な方策を考える上での理念としては十分に機能するはずだろう。しかしながら、彼女の構想にもやはり納得できない部分がある。この世の常として倫理的に正しいことが、論理的に正しいとは限らない。特に学徒とは真理を犠牲にした倫理に価値を認めない生き物なのである(至言)。少なくとも僕は認めませんよ。こんなの。

 ヤングが「罪」概念を不当とする際に提示した論拠は、社会構造による諸個人の規定という伝統的な社会学的発想に基づくものだった。ヤングはこのとき社会構造による不正義の構成にのみ着目しつつ論を展開していたが、逆に正義もまた構造によって規定されているのはないか、というのが僕の批判だ。つまり、ある人が殺人を犯したとき、犯行が社会的環境によって規定されているものである以上は構造的不正義だと言えるだろう。しかし、例えば別のある人が何らかのワクチンを開発し、数百万人の命を救ったとき、その人が開発に至るまでに通過したプロセス(家庭環境、研究費用など)は社会構造に間違いなく規定されているだろう点において、いわば「構造的正義」と呼べるものではないだろうか。そしてヤングの主張はこの構造的正義の場合においても、個人に帰することは認められないという論理的帰結をもたらす(なぜ不正義には寛容なのに、正義には不寛容なのか問題)。

 さらに議論の幅を広げるとヤングの主張からは「ある人が評価に値する」ことがすっぽり抜け落ちているように僕には思われたよ。政治哲学ではこれを「真価(deserts)」の問題なんて風に言ったりもするね。「真価が帰される」ということは、ヤングが強調するように必ずしも悪い側面だけではない。確かにこれを排することによって自己責任論は全て消えうせるのだが、同時に良い評価もこの世から消えてしまうだろう。

また真価は近代社会において不可欠な合理的システムだと思うな。これを完全に取っ払ってしまったら人を殺しても究極的には罰に「値しない」と判断されるのだから無罪放免になってしまうし、逆にワクチンを開発しても称えるには「値しない」と判断されてしまう。いわば行為の外的な動機付け(犯罪の抑制も含む)の観点からも真価を抹消することはできない。それがいかに虚構だったとしても、だ。

 とまぁそんな感じでヤングは終わろうかな。ほとんどフェミニズム関係なかったけど、図書館に本書しか入れなかった人(たち)の行為が、集合表象としての社会構造を経由して、間接的に僕の執筆という行為を規定しているので僕に「罪」は帰属できないのだよ。

 

 

●キャロル・ギリガン 1986 『もうひとつの声―男女の道徳観の違いと女性のアイデンティティ』

 ギリガンは社会心理学界でおそらく最も有名な学者エリック・エリクソンの弟子で、また前節で登場した「ハインツのジレンマ」(ギリガンの応答は後で詳しく解説する)の考案者であるローレンス・コールバーグの元で指導を受けていた時期もある。さらに旦那さんもクソ有名なフェミ系の心理学者だ。こういう学史上のつながりって意外にみんな目を向けないけどけっこう重要で、少なくともギリガンにとって社会心理学を専攻していた経験はと本書の内容は不可分であるはず。というか彼女は社会心理学寄りの人で、本書が経験的研究を軸として書かれていることからも、思弁的な政治哲学や法哲学の世界とは少し距離を置いているような気もしないでもない(もしくはそもそもあまり意識してない)。

 しかしギリガンが意図したのかどうかは留保しておくとして、本書で提起された「ケアの倫理」の概念は社会心理学に留まらず、法学や社会学といった主要な社会科学の学問に多大な影響を与え続けている。未だに論争を起こすからね。そして他ならぬロールズ的正義論への強烈なアンチテーゼともなりえるから、今回の読書マラソンでも取り上げているのですよ。

 本章の冒頭で解説したけど、俗流の性差論みたいなのは昔からある。それを心理学&倫理学的領域で大マジに展開したのがギリガンの「ケアの倫理」の議論だ。従来的に学術的に解釈されてきた倫理なるものは、普遍性や一般性を志向する傾向にあった。ヒュームの啓蒙主義も、カント的な義務論も、ベンサムやミルの功利主義も、ロールズ的平等主義も、ノージックの権原理論も、コーエンによる分析的マルクス主義も全部例外なくそうだ。コミュニタリアンは共同体ごとに特殊な「善」を認めている点で、普遍主義に該当しない気もする。しかし、そうした共通善に各人が従うことに「普遍的な」価値を認めている点でやはり他の立場と同様であるといえよう。また、こうした規範原理を提唱してきた人たちは軒並み男だったこと(少なくとも上に挙げたのは全員男性だね)を考えると、こうした倫理的志向性を「男性的」であると形容することもできるだろう。

しかし、そもそもとして倫理を一般化・普遍化可能なもの想定してよいのだろうか。つまりコンテクストに依存した特殊な倫理の形態だって考えられるのではないだろうか。このような疑問のもと、ギリガンが本書で提唱した女性的な徳性こそが、すでに何度も出ている「ケアの倫理(care)」に他ならない。まさに男性的倫理観の「正義」に対置される、「もう一つの声」というわけだね。ちなみに”care”を無理やり翻訳するなら「思いやり」とか「気遣い」とかってなるけど、この表現は誤解を生むので本稿では「ケア」で一貫しようと思っていますよ。

今でこそケアの倫理が政治哲学における(男性的な)義務論や帰結主義に対するアンチテーゼとして用いられるのはよく見る光景となったが、その発端である本書において最初に提起された地点はギリガンによるコールバーグへの批判だった。むしろ多様な領域に応用していったのは後の学者なので、まずはそもそものギリガンの批判と考察から追っていこうか。

 前節の通りコールバーグは「ハインツのジレンマ」によって、児童における倫理的徳性の発達段階を観察した。ヤングの節ではメインに絡んでくる話ではなかったのでクソ適当に概略をまとめたけど、ここではもうちょっと詳細を見てみよう。

[ハインツのジレンマ]

あるところにハインツという男がいました。

彼には奥さんがいますが、難病を患っています。

奥さんを助けるためには自分の資力では手が届かない薬を入手する必要があります。

ハインツは何とか知人にお金を無心して半分の額までは出せるようになりましたが、薬剤師は断固として値引き交渉を受け付けないので結局購入できませんでした。

さてハインツは薬を盗むべきでしょうか、それとも盗まないべきでしょうか?その理由と共に回答しなさい。

 

そしてコールバーグは質問に対する回答によって3水準×各2の合計6からなる倫理的発達段階のうちいずれかに、回答者の子どもを振り分け可能だと主張する。それぞれの段階には「慣習以前の段階」みたいに名前がついているのだけど、それは本題じゃないから割愛するね。そもそもこういう面接実験みたいなものはピアジェとかもやっていて発達心理学では全然珍しいものではない。問題はギリガンがこの実験を不当としているところにある。

本書の2章で「ハインツのジレンマ」に関する実際のやりとりが紹介されている。ジェイク(1歳)という男の子は「金よりも人の命の方が重い」(カイジに出てくる利根川の逆だね)として、ハインツの窃盗を正当化した。ただジェイクは法律を軽視しているわけではなく、あくまで「事の重要度を序列付けていた結果、破られるのも致し方ない」という演繹的な判断に基づいている。他方、エイミー(1歳)という女の子はハインツのダブスタ状況に当惑してしまう。ただエイミーをここで迷わせているものは、単に「窃盗が法を破るから」といった形式的理由ではなくて、窃盗の結果ハインツがムショ送りにされたら、奥さんの病気がますます悪化するのではないかという懸念である。なんと優しい子なのだろう!というのは置いといて、エイミーが対人関係やハインツの置かれた状況といったコンテクストに注目しているのがここでの重要なポイントである。コールバーグの見解では、論理的思考をしているジェイクのほうが「発達している」ことになるが、両者の着眼点の差異はそもそも発達段階という単線的な議論ではなく、むしろ男女間の異なる徳性に基づいているというのがギリガンの主張であり批判である。つまりジェイク/エイミーに正義/ケアの違いを見たというわけだ。さらにギリガンはケアの倫理が本当に実在するのか精査するため、「妊娠中絶の是非」を問う新たな面接実験を慣行する。ここで間違っても自己所有権を論拠にして中絶を推奨するロスバードみたいなことは言ってはいけない。絶対に喧嘩になるぞ。

面接対象となったのは15~33歳の異なる人種・社会階層からなる女性たちで、中絶のジレンマに対する彼女たちの言葉からケアの倫理に関連しそうなものを拾い、吟味していくのがギリガンの目的だ。そしてその結果、どうやらケアの倫理が3つの発達段階に区分できそうなことが判明する。ちなみに面接に「妊娠中絶の是非」というテーマが選ばれたのは、女性に固有の経験であるからに他ならない。だからこそケアの倫理が顕著に現れるだろうというわけだ。

まず発達の第一段階は「自己保存欲求」に基づくもので、さっき名前だけ出したコールバーグの「慣習以前の段階」とだいたい同じだ。つまりここでは自分の身体や生活が危機にさらされているため、とにかく自分を最優先すべきと考える(つまりロスバードが女性ならこの段階に区分されていた可能性がある…?)。そしてこうした保身第一の姿勢を利己的であると考え始めることで、次の段階への移行期が訪れるという。

第二段階は「善さ」に焦点が当てられる。「善さ」とは即ち他者への思いやりであり、前段階における自己への思いやりとは対になっている。しかし極端に「善さ」を強調するのは単に自己犠牲に過ぎず、またその混同が犠牲となる当人にコンフリクトが生じさせてしまうことになる。この葛藤を認識することで、さらに最後の段階への移行期がやってくる。

第三段階はだいぶ複雑性が高まり、人間関係における力学に目が向いているとされる。ここでは第一段階における「自己保存」と、第二段階における「他者への思いやり」のバランスがうまくとれるようになっているとも換言できるだろう。つまり一方の極には利己的な思いがあり、もう一方の極には過剰な自己犠牲があって、その両者と内面的な折り合いが付けられるようになった結果、自己も他者も「思いやり」、すなわちケアの倫理を以って顧慮することができるようになったわけだ。

本書は確かにギリガンのフェミニズム的関心を垣間見ることができるとはいえ、軸となっているのは何度も書いているように社会心理学の理論に他ならないし、ゆえに本書でロールズらの正義論は仮想敵として想定されていない。むしろ後続の研究者によってケアの倫理が政治哲学に援用されるようになったと理解しておくのが適切だろう。そうしたところも踏まえつつ、いつもどおり最後に僕からいくつか批判や論点を挙げて終わろうと思う。

 ギリガンやその後続の研究者によってケアの倫理が強調された当時、女性を中心として構成される伝統的フェミニストから批判が殺到したらしい。日本だと上野千鶴子とかも乗っかったと聞くよ。で彼女らによればケアの倫理は女性の徳を本質主義的に規定してしまっており、これを認めてしまったらジェンダー論の後退を黙認してしまうことにもつながりかねないという。他方で、これはフェミニストによるものではないのだけど、ギリガンの行った面接がたかだか数十人単位のものであり、有意なデータではないと批判する人たちもいたらしい。彼ら・彼女らは調査手法が不完全である以上、ケアの倫理がそもそも導出されないと考えるわけだ。

しかし僕から言わせれば上述のようにケアの倫理を認めつつ批判する人も、根本から否定している人もギリガンの主張をしっかり理解していない。というのも両者の見解は異なるようでいて、倫理の本質化・普遍化の是非を問いたいという欲望を共有しており、こうした欲望こそがギリガンが「男性的」とした倫理観に他ならないためである。つまり批判対象の理論にすでに飲み込まれちゃっているわけだ。そもそもギリガンはケアの倫理を普遍化しようと考えているわけでも、それが女性の本質であるとも主張しているわけない。それゆえにケアを全称命題だとする批判も、逆にそうでないとする批判も空転している。というかそんなこと言う人は最初からこんな本書かないだろ常識的に考えて。だから僕が思う問題はむしろケアの倫理が内包するパターナリズムの危険性にある。

ギリガンは先のようにケアの倫理は3つの発達段階をたどると考えた。しかし、このことは逆を返すと発達が満足になされない場合、ケアの倫理の萌芽はいずれかの段階で止まってしまうことになる。特に2段階目における過剰な自己犠牲で停止すると共依存的な意味でけっこう危ないし、その点で最近何かと話題のDV問題へのスキーマとしても有用だろうね。いずれにせよ未発達の人からすれば、ケアが不足していることは認識できず、ゆえに当人には不足の明示化が確実にできないことになってしまう。「私ケアが未発達なんすよーwww」みたいな言明はまず出てこないはずだ。自分を過剰に保護すること、あるいは相手に過剰に尽くしてしまうこと、そんな脆弱なバランスの上にケアは成り立っていることをここでは思い出さねばならない。

そして明示化ができないということは、外部が(半ば勝手に)不足分を判定しなければ、その保障は不可能であるということを同時に意味する。しかし他方で、当人が苦しみを感じることがあっても、主観的には他者との間に不幸がないと思っているのであれば、外的な倫理から保障をしていくというのはパターナリズムに他ならない。勝手に不幸人に仕立て上げられ、ケアの倫理だの聞き覚えもない能力が未発達との烙印を押され、何かよく分からないがなんらかの保障を整えてくれるなんてたまったものじゃないだろう。フェミニズムに限らず社会保障の制度設計はこうしたパターナリズムの問題とも向き合っていかないといけないし、だからこそ基本善やケイパビリティといった誰にとっても不可欠な社会経済財で補っていこうとする主張も出てくるのだったね。まぁこの辺の議論は既に本書におけるギリガンの関心の範疇をとっくのとうに超えている。本書は確か20近い国で翻訳されていて、発行部数も相当だったはず。こうした情報からも判断んできるよう、性差による倫理観の違いに多くの人の目を向けさせただけで十分な功績だからいいじゃない。

 

 

●スーザン・モラー・オーキン 1989 『正義・ジェンダー・家族』

 フェミニズム最後の著作はオーキンによるものだ。彼女はいわゆるリベラル・フェミニズムの論者にカウントされ、規範理論におけるリベフェミはヌスバウムのようにロールズ的リベラリズムを擁護しつつ、フェミニズムとの両立可能性を模索していくスタイルとされている。ただヌスバウムよりもオーキンはロールズに迎合的ではない理論を構築しており、今回はフェミニズムのコースにぶち込んだ。まぁ本当の事情を白状すると、本書の内容が「フェミニズムから見た諸政治哲学上の立場の検討」というまさに網羅的なものなので、この章の最後にちょうど良いかなと温存しておいたんだ。ちなみにちょうど本章までのところで紹介したコミュニタリアニズム、マルチカルチュアリズム、リバタリアニズム、そしてリベラリズムのお馴染みの面々がこの本では検討されますよ。これらを順に見ていく前に、オーキンが1-2章で述べている問題の所在の方を先に確認しておこう。

 オーキンによれば、正義論は従来的に女性が関与していた領域である家庭の問題を無視してきた。また正義をめぐる諸立場の中には、私的領域で培われる徳は普遍的・一般的な倫理の理論である正義論にはふさわしくなく、ゆえに排除もやむを得ないとする主張もあるとしている。こうしたオーキンの出発点は他のフェミニズム系規範論者との共通項であり、別段特筆すべきこともない。注視すべきはその先の論の展開だろう。

 前節のケアの倫理の概念が(主にギリガンの追従者によって)男性的な倫理観である正義にカウンターとして機能していたのはすでに見たとおりだ。しかしオーキンの場合、正義による私的領域の無視という前提は共有しつつも、対抗理論としてのケアの倫理を掲げるのではなくて、むしろその正義を女性や家庭にまで拡張すべきであると主張している点で一線を画している。つまり現行の正義のあり方は不服だが、代替する概念までは必要としていないのだ。まさに本節の冒頭で書いたようなリベフェミの典型だね。だから最初にネタバレしちゃうと、本書も諸立場を順に批判するのではあるが、最終的にはロールズ的リベラリズムを部分的にではあるが支持し、家族を顧慮する正義のあり方を模索して結ぶ構成をとっている。まぁその辺は後でまとめていくよ。

このようにオーキンが家庭を強調する(本書のタイトルにも入っているからね)論拠は大きく分けて、政治哲学の伝統に基づくものと、子どもの徳によるものの2つから構成される。1つめは先述の正義の排他的性格への論駁だ。ここで注目されるのは、ロールズから遡って100年前くらいにはすでに、ルソーやヒュームといった古典に位置づけられる政治哲学者が家庭から正義を排していたという事実である。しかも何がまずいって彼らは自然性や必然性といった極めて本質主義的な根拠から、こうした主張を行っていたことだろう。近代初頭とはいえジェンダーバイアスに基づく見解であり、こうした伝統に依拠して展開された後世の政治哲学から家庭の話がこぼれ落ちるのは半ば必然である。オーキンの指摘に異論を挟む余地はないね。

2つめも伝統的に政治哲学内部では自明視されてきたことだ。正義は公的領域に適用されるべき徳であり、ゆえに家庭における女性が排されるというのがオーキンないしは規範理論におけるフェミニズムの前提だった。しかし忘れてならないのはこの時、女性と共に子どももまた排されているという事実である。公的領域は一般的に成熟した者のみがコミットされると想定されており、ゆえに未成熟な子どもは私的領域に配置されることになる。しかしながらよくよく考えてみると、将来的に徳としての正義を獲得するはず子どもが、未成熟・未発達段階では完全に理論から捨象されているというのは何とも奇妙な話ではないだろうか。むしろどの段階で彼らは正義というものを知ることになるのだろうか。ここに家庭にも正義が適用されるべきとするオーキンの主張における2つめの論拠がある。ともかくこれら2つを軸にして、諸理論を検討していきますよってことだね。

さて本書で最初に登場する政治哲学上の立場はコミュニタリアニズムだ。本稿では前々章に登場したね。コミュニタリアンに対するオーキンの批判はすごくシンプルでわかりやすい。例えばマッキンタイアは本稿でも懐古厨とdisったよう、アリストテレス的「共通善」の政治を提唱していた。彼は失われた前近代的共同体の復古によってこれを実現できると主張していたが、直観的に考えて前近代的共同体の「善」はえてして家父長的性格が強いのではないだろうか。ゆえにマッキンタイアの主張を手放しで肯定してしまうと、前近代社会が孕んでいた男尊女卑的態度まで復活させてしまうことになり、結果的には差別を黙認することにまでつながる。

同じ章で本稿ではマルチカルチュアリズムの章で取り上げたマイケル・ウォルツァーの名前も出てくる。コミュニタリアンとマルチカルチュアリズムの章でそれぞれ口を酸っぱくして強調したよう、二つの立場は厳密に峻別できるものではない。だから本書のようなコンテクストでウォルツァーが登場するのも不思議ではない。前章で僕は今回いろいろ取り上げた著作の中では、ウォルツァーの「正義の領分」が最も真理性の契機に開かれている(と思われる)としていた。現にオーキンも「マッキンタイアよりはマシ」といった評価を下している。というのはウォルツァーが、美徳おじさんみたく旧態依然の体制(共同体)を礼賛するのではなく、社会経済的財の配分について異議申し立てを視野に入れた理論を構築しているためである。しかしこれでもオーキンにとっては完全に首肯できるものでもないらしく、曰くウォルツァーの理論に基づいて領分を区分したところで、ヒエラルキーの下位に位置する領分が声を上げにくいといった構造的問題を抱えていることは看過できないとしている。まぁ僕的にはこうしたオーキンによる理解は明らかに的を外している。脱線上等で指摘するのであれば、ウォルツァーが政治権力すらも配分する財に含め、その「優越」を解消しようと試みているため、オーキンが想定するような領分間のヒエラルキーは存在しない(むしろその解消を目指す理論だ)し、全体社会レヴェルで見ても政治が強い権力を握ることもない。はい論破 ^^

コミュニタリアンへの批判がだいたいこんな感だとすると、次に出てくるのはおそらく衝突不可避だろうと目されるリバタリアニズムである。そのうち本書で取り上げられるのは特に自然権論的ミナキスト、ロバート・ノージックだ。オーキンは彼の理論における自己所有権概念及び権限理論にまず着目する。本稿3章で見たよう、権原理論には「資質によって産出された外的資産」に対する所有権も含まれていた。これを女性の出産に当てはめてみると、「子どもを生める」という資質によって、文字通り産出された外的資産としての「子ども」に対し、母親は所有権を持っていることになってしまう。その赤ちゃんもいずれは成長し、自己所有権を有するようになるはずであるが、先に見たよう彼・彼女の所有権は母親に帰されるものであり、その母親もそのまた母親に、そのまた母親も……といった無限後退が生じる。ゆえにノージックの理論は不当であるとオーキンは結論付けている。……のだけど、こちらのノージック理解にも少し問題がある。ノージックも実はこの子どもの自己所有権の問題に『アナーキー・国家・ユートピア』で触れていて、そこではさらに昔の自然権論者であるロックの『統治二元論』が引かれていた。ロックによれば、幼少期や児童期における合理的判断能力が獲得される前の子どもは自身の所有権を一時的に両親に委譲するという。一見すると子どもの自然権が否定されているようにも思えるが、そうではなくこの移譲はむしろ子どもの将来的自由のために不可欠な干渉であり、逆説的にではあるが許容されるべきだとロックは主張している。そしてノージックもロックの見解に依拠しつつ、子どもの自己所有権は成熟した段階で子ども自身に帰せられると結論付けている。ゆえに少なくとも無限後退に陥るというオーキンの批判は不当であることになる。まぁ他にも「母親が自分の身体に寄生している胎児堕ろして何が悪いの?」とか大マジで言っちゃうマッドな自然権論的アナキャピのリバタリアンも紹介した気がするが、ややこしくなるのでここでは置いておこう。

そしてコミュニタリアン(&マルチカルチュアリスト)、リバタリアンと来て最後にオーキンが到着するのがリベラルである。先述の通りオーキン的には現行のロールズ的正義概念は納得のいかないものではあるが、それを完全に否定するのではなくて、むしろ私的領域にも対応できるようチューンアップしようという意図が彼女にはある。そしてそのために持ってくるのがまさかの原初状態の議論だ。なかなか予想外の動きである。

2章のロールズの節で述べたよう、原初状態では諸個人に「無知のヴェール」がかかっているため、自身の抱える身体的・文化的特性の相対的位置が見えなくなってしまうのだった。そしてこのとき「自身の性別についての知識も各人にとって未判明の事柄として扱う」という条項を「無知のヴェール」に加えてみると、原初状態におけるジェンダーバイアスは一切取り払われ、さらに各人はマキシミン・ルールからリスクを避けようとするため、家庭領域も公的領域同様、平等に顧慮すべきと考えるはず、といった論理的帰結が導出されるのである。すなわち目論見通りに正義が家庭に適用されたというわけだ。原初状態の議論自体に問題があるのはすでに見た通りだけど、それを差し置くとオーキンの手際はなかなか見事で、たった一つの条件を加えることによって、正義原理に欠如していた私的領域に対する顧慮を達成してしまうのはエレガントな理論展開といえるだろう。ちょっとの調節で全体を変貌させちゃうのってすごく魅力的だよね。

 こうして見返すとオーキンの関心は公私二元論が長らく隠蔽し続けてきた事実の暴露にあるようにも思えてくる。特に西洋世界は従来的にプライバシーといった独自的な概念に象徴されるよう、私的領域は秘匿とされ、また第三者によるそこへの介入は忌避すべきものとして扱われてきた。しかしこうした背景事情が、昨今話題になっているようなDVや虐待の問題、ひいては家庭内分業によって子どもが獲得するジェンダーバイアスなどの温床かつ隠れ蓑として機能してきたのもまず間違いない。ゆえに私的領域が非介入を正当化できるのは、こうした家庭内での不当な扱いの一切が解決された時、すなわち正義が適用された時以外にはありえないのである。まぁオーキンはその上でプライバシーを保護していこうやとしているけどな。

この後、オーキンは正義概念を応用しつつ婚約に関する問題や、ジェンダーに基づく男女間の非対称性についても言及していく。かなり示唆に富んでいるのだけど、疲れたので終わるわ。彼女の見解はけっこう鋭くて、現実のジェンダーをめぐる問題にもすぐさま援用できるレヴェルでアクチュアルだ。惜しむらくは、さっき見たように論駁相手の著作の読みが浅かったということ、そして何より彼女はジェンダーバイアス云々繰り返すくせに本書の中でヘテロ恋愛しかほとんど想定していないことだろう。セクシャリティの問題は男女間にあらず、人と人との間にあるのだ(至言)。

 

 8 その他の政治理論

 いよいよ最後の章である「その他の政治理論」にまでたどりついた。そしてこの章は謝罪から始めよう。「その他」で括って本当に申し訳ありませんでした。

ここで紹介する人たちは決して現代規範理論におけるマージナルな人たちなどではなくて、むしろ全員が主要人物クラスだし、後続の研究者にも恵まれているため規模から見ても他の諸立場と比較して遜色ない。だからそれぞれ別個に章を設けるべきだったとは思う。しかし言い訳させてもらうと、そんなことをしていたら本当にきりがないのである。「ゼノンのパラドックス」って君は知ってる?あれと同じでそもそも読書コースの境界線引きがかなり恣意的である以上、Aの立場もBの立場もCの立場も……っていつまでたっても範囲を限定できなくなってしまう。アキレスが亀に追いつけないのは嫌だからね。それゆえに(特に詳しくない立場を中心に)適当に切らしてもらったんだよ。はい言い訳終わり。

そんな経緯があるので、この章の人たちの主張は統一性がない。エトセトラだからね。だから著作の解説に入る前に、まずその立場の主張と今回選出した代表一人を簡単に紹介しておこう。

 

○グローバル・ジャスティス/トマス・ボッゲ

 古くはコスモポリタニズムなんて思想に顕著だった立場で、そちらの名称は「世界市民主義」なんて翻訳されたりもする。まぁその名の通り国家や民族を超越した世界国家実現の構想を練る感じの政治哲学かな(まるで悪の組織みたいだ)。はるか昔にはストア派やキニク派がこうした構想を掲げていた(だから国家に相当する語に「ポリス」が当てられている)のだが、まぁいろいろあって忘れられた。しかし、まさかの二次大戦後に復活。ストア派の昔とは違い、現代の世界情勢はかなり複雑になってしまっており、世界市民への統一といったラディカルな主張よりかは、国家間の友好関係や互恵について考察する穏当な立場が主流となりつつある。そのあたりの事情を反映して、本稿ではコスモポリタニズムではなくてグローバル・ジャスティスってゆるい表現を使うことにするね。今回のポッゲという人もまさにそんなスタンスの人だし。

 これはすごく重要な話なのだけど、国際政治における規範理論という視点は確実にロールズらの議論からはすっぽり抜け落ちている。というか「すっぽ抜けています」って『再説』とかだと冒頭の方でロールズ自身が認めている。というのはロールズらのリベラルな平等原理は特定の国家(基本構造)に適用されるべき規範であり、その範疇を超えたグローバル・ジャスティスの問題は「諸国民の法」として考察対象の外に置かれ続けていたからである。そこでポッゲのような人たちがグローバル・ジャスティスの問題を規範理論の文脈に位置づけることになったというわけだね。

 

○シティズンシップ理論/ロバート・パットナム

 シティズンシップ理論はめちゃくちゃ有名だよね。最盛期よりかは少し下火になった感はあるけども、まだまだ分析の余地はあるだろうし、キムリッカも『現代政治理論』で1章分割いていたよ。

 もともとシティズンシップの概念を現代的文脈で提唱したのは政治学者ではなく、社会学者のT・H・マーシャルって人だった。マーシャルのシティズンシップ概念はとても控えめな内容で、一言でいえば「諸権利を持つための権利」のこと。ここでの権利はいわゆる一般的な語法での権利と思っていただいて差し支えない。しかしながら、今日的な文脈でシティズンシップと言った際、マーシャルの見解にある受動的権利としてのシティズンシップだけではなく、むしろ市民の自発的社会参画などといった能動的側面が強調される傾向にある。例えばシティズンシップ教育とかって少し前に流行っていたけど、そこでは単に権利教育が行われているのではなく、市民参加を自発的に行うための徳性を育むことを意図した内容だった。そもそもマーシャルとか古典過ぎて系譜研究でもない限りはまず参照されることない。

 そこで今回の選出者はパットナムという現代シティズンシップ理論の大御所にした。彼といえば「社会関係資本(Social capital)」の概念の精緻化及びその経験的研究によって一躍有名人になったけど、この場合での社会関係資本の議論は「市民の自発的協働」を基盤として成立しており、まさにシティズンシップの能動的側面を垣間見ることができるだろう。

 

○ポストモダン論/リチャード・ローティ

 ポストモダンというのは文字通り「近代の後」を意味していて、つまり近代が終焉してしまった後の哲学がポストモダン論ないしはポストモダニズムである。代表的な論者としてはジャック・デリダやジル・ドゥルーズ、アレクサンドル・コジェーブなどのフランス系の人たちが挙げられる。日本だと少し前の世代なら浅田彰や東浩紀が有名で、最近の子が読んでいるのは千葉雅也とかになるのかな。ちなみにマルチカルチュアリズムの章に登場していたウィリアム・コノリーもポモ政治哲学を標榜しているよ。

 「近代の終わりはどこか/ポストモダンとはいかなる時代か」みたいな話は論者によって諸説あるのだけど、とりあえずはフランソワ・リオタールがいうような「大きな物語」が凋落した時代のことって思ってもらえたらいいかな。「大きな物語」というのは中世ならキリスト教、近代ならば資本主義や社会主義といった経済原理や、自然科学、イデオロギーなどが例として挙げられ、いわば当該社会の全員が何らかの形で関与している(そして多くの人は信仰している)「物語」を意味している。確かに西洋世界の前期近代以前を見てみるとこうした「大きな物語」っぽいものが存在している。しかし、リオタールによれば社会の成員すべてが共有している物語はすでに今日にはなく、ゆえに近代が終焉しているといえるのであるという。

 まぁ詳しいことはあとで解説するとして、その「大きな物語」がなくなった時代の哲学がポストモダン、そんでポストモダンの思想がポストモダン論。さらにデューイとかのアメリカ的プラグマティズムとポストモダン論を結合させたのがこのリチャード・ローティだってことを知っておいてもらえればよい。ローティもその筋ではかなり有名なポストモダニストで、規範理論の文脈でもしっかり持論を展開している。今回の読書マラソンのこれまでには見ないタイプの人なので、その意味でも面白いかなと。ちなみに僕はポストモダン論のこと反吐が出るほど嫌いだけど。その理由も後で語ろうか。

 

○討議倫理学/ユルゲン・ハーバマス

 ハーバマスの名前くらいは聞いたことあるよね。「ハーバーマス」とも表記されていることもある。本稿でも時折出てきたはず。でも社会科学にわかの人からすれば「何学者かわからない学者ランキング」の栄えある1位に輝くかもしれない。哲学者なのは間違いないのだろうけど、その他の肩書きが社会学者なのか、政治学者なのか、倫理学者なのか、言語学者なのか全然見えてこないみたいな話はよく耳にする。それもそのはずで彼の主張はこれらすべての領域を横断していて、さらに猛烈な批判厨でもある。さっきポモで筆頭に挙げたジャック・デリダ、スーパー社会学者のニクラス・ルーマン、そして我らがジョン・ロールズといった各分野の頂点の一人として差し支えない連中に彼は真正面から喧嘩を売っている。まぁ討議やコミュニケーション理性なるものを重視するハーバマスの思想が顕れているのだろう(棒)。

 そんで討議倫理学というのが今回取り上げるロールズ批判の文脈では大切になってくる概念だ。これはリベラリズムやリバタリアニズムなどのような政治学上の立場というより、むしろ彼の中心的課題だった「公共性の転換論」や「コミュニケーション的行為論」に関わってくる話なのでハーバマスの節で詳しく解説しますお。あとまぁ余力あればフランクフルト学派の紹介もしたいな。

 

以上が他の章に回収しきることができなかった人たちだ。あぶれたわけだね。ただまぁ本人たちに直接の関わりがなく(面識くらいはあるかも)とも、理論というのは基本的に地続きのものだ。それが単一の学術領域ならなおさらね。だから同じ論文で比較検討されることもあるし、論の補強に引かれることもある。いたずらに分断して考えず、繋げられそうなところがあるなら積極的に吟味していくことが大切だろう。

 そんじゃ最後の章を始めようか。

 

 

●トマス・ボッゲ 2008 『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか―世界的貧困と人権』

 先日、世界人口のたった約100,000,000分の1である上位63人の所得の合計と、世界人口の約半分である下位36億人の所得の合計がほぼ同じというネットのニュースを見た。この試算がマジならかなりすご(くやば)い話だ。グローバル化が叫ばれている昨今、ここまで貧富の差が拡大しているなんてね。日本も決してこの問題は無関係ではなく、もはや明日はわが身といわれる立場にまで来ているのではないだろうか。2015年現在、日本のGDPはアメリカの4分の1、中国の約半分の値にまで落ち込んでいる。現政権は古き良き日本の「ものづくり」でこれを打開しようとしているらしいが、ポストフォーディズムが全面化した後期近代において、そんなものもはやノスタルジックな幻想でしかない。「三丁目の夕陽」でも見とけばいいのさ。そもそも日本の約9倍近い人口がいるインド人の平均年齢は25歳で、生産年齢期どストライク。月100万人単位で労働者人口が現在進行中で増加しているような国に「ものづくり(笑)」で太刀打ちしようなんて笑止千万でござろう。話が逸れたね。今回のテーマは日本の国際経済事情ではなくて、国際的正義の問題。つまりグローバル・ジャスティスの著作を紹介する。ちょっと講談社新書っぽい本書のタイトルも本題をそのまんま表現しているね。

著者であるポッゲはもともとドイツで社会学をやっていたのだけど、博士課程の段階で渡米。その時の指導教官が他でもないジョン・ロールズだった。だから彼はいわばロールズ的リベラリズムの正統な継承者であり、まだまだ今後も活躍していくだろうと目される気鋭の研究者とされている。しかし、ポッゲはある意味でロールズとは真っ向から対立している部分がある。それは本章の冒頭で書いたよう、「公正としての正義」の適用範囲をめぐる問題におけるものだ。

ロールズはすでに何度も繰り返しているように自身の正義原理が適用される範囲を特定の政治的共同体、すなわち国家であると定義している。また彼に従えば、国家より下位の共同体になると包括的教説としての「善」が、逆にそれより大きな国際秩序の問題になると「万民の法」が、それぞれ規範としてふさわしいことになる。しかしながら、ロールズの原初状態においては「無知のヴェール」なる概念装置が用いられていたことを思い出してみると、そもそも国籍やエスニシティ、思想信条といった諸個人の特性は全て「覆われて」しまうため、ロールズの見解とは裏腹に彼の正義論が国際正義の問題へ応用されうる可能性が見えてくる。そしてこれこそポッゲが本書を執筆する前の段階で抱いた倫理的直観に他ならない。つまり彼は正統な後継者のくせに「ロールズの考察を真摯に受けとめるならばロールズの見解が間違っていることになるという論理的帰結に至る」と言っているのである。ポッゲとやら、なかなかかぶき者ではないか。ちなみに生前のロールズはポッゲのコスモポリタン的発想を批判していたよ。

 ただ無論ポッゲは正義の原理を国際政治の原理としてそのまま援用可能だとは微塵も考えていない。むしろ自身の掲げるグローバル・ジャスティスは、ロールズが主張する正義よりもはるかに穏当で消極的なものだという前提に立っている。例えば、序文にあるよう彼が解消しようと努めているのは、少なくとも第一義的には国家や民族間にある不平等ではなく、単に貧困である。もう言い飽きた話ではあるけどロールズは前者の解消に努めたのは知っているよね。一方のポッゲは相対評価ではなく絶対評価である貧困に先進諸国がとりあえず目を向けるだけで、様々な副次的問題が解決されることになるため、十分だとしているのだ。加えて、後で見ていくように「積極的義務」/「消極的義務」の対立軸が本書では登場するが、後者が選択されることからもポッゲの主張がかなり弱いもの(論理的にではなく)であることを推察できるだろう。

 ところで君はジョン・レノンの”Happy Christmas (War is Over)”って歌のPVを見たことあるかい?もはやクリスマスソングにおけるマスターピースになってしまったこの歌だけど、新しい方のPVは20-21世紀における戦争映像で、戦火に苦しむ子どもたちがひたすら映し出されるという胸焼け必至の内容になっている。というか初見ではまず泣く。しかしこの涙が嘘じゃなくとも、明日から世界平和のために動き出そうって人はまずいないだろう。いやそんな立派な人もいるかもしれないけど、まぁ大勢ではないのは確かだ。だって所詮、君が見ているのはyoutubeの動画に過ぎないし、そもそも国際秩序の悪化は自分たちには関係ないと思っているからね。このことを否定する君だって「国家として戦争責任ガー」というのはまだ理解できても、少なくとも個人単位には責任はないと考えているはずだ。もしかしたら一晩寝たらジョンの歌を聞きながらこのPVを見て泣いたことを忘れてしまっているかもしれない。人間とはそんなものだ。

 しかしポッゲに言わせれば、こうした直接の関与を示さない傍観者的態度もまた「遠くの人」の苦しみを間接的に肯定していることになるという。というか彼からすれば広範囲にありながら回避可能かつ予見可能でもある「人権の欠損(Human rights deficit)」に対して一切のアクションを起こさない以上、すべからく不正義であることになる。もちろん、明日から何か世界平和や南北問題解消のために動き出せっていう話ではない。ただ、そうした問題に道徳的な関心を抱かず、黙認を続けるようならばそれはやはり不正義なのだという。こうしたポッゲの主張は一見するとラディカルなものにも思えるが、よくよく吟味すると序文に書いているよう穏当であることに変わりないことがわかる。そのことを少し考えてみよう。ポイントは上に書いた「回避可能性」と「予見可能性」かな。

ポッゲによれば豊かな国に住む我々が、グローバル規模の「人権の欠損」に対して黙認やそれにともなう暗黙裡の肯定をしてしまうのは、以下の2つの偏見に根ざした問題である。

①遠い国でおこる貧困は道徳的関心も喚起しない

②世界の貧困に対し、我々の行為、グローバルな規模での制度的実践が問題を与えているわけではない

そしてポッゲは①のような「遠い国の人がどうなろうが知ったことではない」的態度は許容できないが、②のより弱い偏見については意外にも完全に否定はしていない。というのは第一に積極的に誰かに被害を与えることは悪であり防がれるべきだが、積極的に誰かに利益を与えることは必ずしも望まれるわけではないという一般的な倫理的直観、及び第二に海外の貧困に対して我々が直截的要因とはなっておらず、その防止に失敗しているだけであるという事実。これら2点を論拠に②の偏見は部分的にではあるが擁護されるのである。

そしてここでの偏見の検討において登場するのが、先の「消極的義務(negative duty)」/「積極的義務(positive duty)」の区別である。「遠くの貧しい人」を助けようという意思は、従来的に寄付や募金といった財の提供を主な手段としてきた。しかしポッゲはあくまで「回避可能かつ予見可能」ならば避けるべきと言っているのであって、先の論拠から積極的に社会経済的財を配分することなんて望んではいない。つまり「遠くの貧しい人」に不利益を与えてはならないという消極的義務を果たさなければ不正義であるが、利益を与えるという積極的義務までは求めていない、というのがポッゲの主張の要点である。

 ここまでで確認したのはあくまでポッゲの当為論であって、その論拠ではない。そのため、次に何故「遠くの貧しい人」に対する(消極的)の義務の発生とそれが顧慮されるべき論拠についての考察を確認してみよう。ちなみにロールズの原初状態や反照的均衡、政治的リベラリズムなどの構想は積極的義務を退けた時点ですでに論拠になりえない。ポッゲはむしろ、ロールズのような規範倫理学的な正当化プロセスによってではなく、義務概念を徹底的に分析することでグローバル・ジャスティスの正当性を導出する。彼はロールズを支持している(指導教官だしね)が、ここにおいても一線を画しているのだよ。

ところでポッゲによれば一般的に義務の序列は以下のように付けることが可能である。

[若い数・アルファベットほど義務としての序列が上位とする]

(1)他者を不当に扱わない消極的義務

(2a)不当な扱いから近親者を守る積極的義務

 

…(2n)  ―― から自分の同胞を守る積極的義務

 

…(2z)  ――  から知らない外国人を守る積極的義務

 ぱっと見ややこしいけど、すごく単純な話だ。まず「人に悪いことをしてはいけないよ」という消極的義務が最も序列が上で、次に「誰かを助けましょう」という積極的義務が来ることになるのだけど、後者は身近な人から順に序列がつけられることになる。「見ず知らずの人」と「自分の親友」が困っているのを見かけたとき、まぁ直観的に後者を助けるよね、ってな話だ。また上記の序列によれば、国外に対する募金や慈善事業よりも、国内に対するそれらの方が正義に適っていることにもなる。とにかく身近な人から助けていくのが人間で、これは私たちの直観的な義務の感覚とも大きくは外れないだろう。

だが先進国に住む私たちが現行のグローバルな秩序を支持し続ける限り、ポッゲ的には間接的ながらも「遠くの貧しい人」の貧困に加担していることになる。つまり「他者を不当に扱わない」という最優先されるべき消極的義務が果たされていないのである。これは上述の序列付けにおいて、近親者や同胞に対する積極的義務より優先されるべき話なので、我々に「遠くの貧しい人」に対する義務が発生し、ゆえにポッゲの主張は倫理的に正当化されるという論理的帰結に至る。

おわかりかな?つまりは現状承認しているだけで消極的義務が先進国の成員には発生するわけだ。「グローバル秩序を肯定=遠い国での貧困の黙認=消極的義務の発生」というポッゲの定式には少し納得いかないかもだけど、このこともしっかり本書で説明されていて、「(主に貧しい)国家内での支配」と「国際資源の所有権」の2点からポッゲは論じている。あまり詳しくはめんどくさいけど、ざっくりと見ていこう。

①本来誰のものでもないはずの国際資源を裕福な国はどんどん占有していくと、当然ながら諸国家間における財の配分が不均等になる(ここがポッゲによれば現行のグローバルな秩序にあたる)。

②裕福な国は財を多く有しているため、貧しい国に対して配分する財の多寡をコントロールできることになる。

③このとき貧しい国では貧しいが故に、配分された財を用いて国家内の生産力増加や貧困の解消といった建設的な先行投資を行わ(え)ず、政治権力の強化といった不当な目的に財を用いる傾向がある(いわゆる負のスパイラル)。

④「不当な目的」に用いられる財を先進国が本来的に正当に所有しているならばまだしも、そもそも誰のものでもない国際資源から引っ張ってきている以上、貧しい国への配分は財の不当な移転である。

⑤ゆえに現行のグローバル秩序の承認が、「遠くの貧しい人」を産出しており、さらにその解消の消極的義務が生じる。

 だいたいこんな流れ。リバタリアンがいうような自己所有権の国家版をここでは退けているイメージだな。このノリじゃあ絶対に「ロック的但し書き」とか「共有地の悲劇」とか認めそうにないわ。そもそもノージックの権限理論において「正当な所有」とされる財であっても、もともとは不当な財の移転から始まっている(ゆえに矯正原理に引っかかる)わけだしだいたいそんな感じだよ。たぶん。

 個人的にはポッゲの本書における提言は、ロールズをも上回る論理的強度を持っていると思う。ちょっと論理学っぽい話ではあるけど、一般に言明「Aをするべきだ」よりも、言明「Bをすべきではない」の方が倫理的に強力になると考えられる。というのは前者の当為論においてはより高次の倫理的要求がなされるため、正当化をする際の論拠も高次のものが求められることになってしまうから。それこそ原初状態みたいに珍妙な概念装置とかね。しかし、後者の言明は、より低次の要求に過ぎないため、最小限の正当化で済ませることができる(はず)。ゆえに消極的言明の方が倫理的には「強い」。これこそまさに消極的義務が積極的義務より簡易に正当化できる所以でもある。まぁこの話はあんまり僕の専門じゃないし、もうすでに誰かこれに近い見解を出しているかもしれない(そしてそれがすでに潰されているかもしれない)のであんまり真に受けないよう。ふっと思いついただけさ。

 またポッゲによるグローバル規模の貧困に対する責任の共有という構想は、前章で取り上げたヤングの「社会的つながり」の議論とも親和性が強いように思える(実際ヤングも「つながり」は最終的にはグローバル規模まで拡張可能としていた)。そんな感じで素晴らしい理論ではあるけれども、突っ込みどころがある以上突っ込んでおかなきゃね(暗黒微笑)。

  僕がおかしいな、と感じたのは「義務の序列付け」のところ。ポッゲの提示した順序は確かに僕の直観とも整合性がとれているのではあるけど、多くの人は消極的義務においても身近な人を優先するとも思った。ポッゲの見解に従うならば、「親友に対して自分が与えた不利益」と「見ず知らずの人に対して自分が与えた不利益」はこのとき等価であり、どちらも上位下位に位置づけることはできなくなってしまう。だけどどっちが不正義かといわれたら、まぁ前者の方なんじゃないかなと思うし、この意見はけっこう賛同が得られるだろう。例えば、「知らない外国人」を見殺しにすれば「親友」が助かるorその逆だったら親友が助かる方を誰だって選ぶでしょ。ゆえに消極的義務もさらに序列付けが可能だよって話。

 さらにここから現実問題に演繹してみると、「自国にとっての不利益を差し置いてまで他国に与える不利益を顧慮する必要はない」という帰結に至る。でもここまで来るとどうなの?って思うじゃん。そもそも「自国の(不)利益」と「他国の(不)利益」を数値化して比較できるわけでもないし、何をもって「回避可能」と定義付けるのかもポッゲの考察からは見えてこない。そんな感じでまだまだ改善の余地が有ると思いますお(何様)。

 

 

●ロバート・パットナム 1993 『哲学する民主主義』

 今回の読書マラソンでピックアップした人の多くは基本的に思弁的な語りを得意としてきた。なんと言っても政治「哲学」だからね。インド訪問の話を軸にして論理を展開させた点ではヌスバウムが、制度設計上の試算をしていた点ではローマーやパリースのアナマル勢がそれぞれ経験的な研究をしているといえるかもけど、がっつり経験的調査からデータを取っていたのは前章に登場したギリガンくらいしかいないだろう(そして彼女は政治哲学者ではなく社会心理学者だ)。

 その点パットナムは明らかに他と一線を画している。量的・質的の両方をかなりの年月(なんと四半世紀!)に渡って敢行しており、彼の技量は現在の社会科学全体を見渡しても比類する者がいないレヴェルの達人クラスにまで高められているといえよう。冗談抜きで。しかもこうした経験的研究に留まらず、歴史研究と理論構築までできるという四刀流の使い手でもある。このそれぞれが相補的に機能しているため、本書での議論が(物理的にも)厚みのある完成度となるのはもはや自明のことだろう。

ところで梶原一騎原作の超絶有名漫画、タイガーマスクには「ミラクルスリー」という3ラウンド制の試合で、1マッチごとに戦闘スタイル(怪力・技量・ヒール)を変えてくる最強の覆面レスラーが出てくる。タイガーマスクも一度は完敗を喫するのだけど、それもそのはず実はこのミラクルスリー、その名の通り異なるスタイルを得意とする3人のレスラーから構成される「1人の」覆面レスラーだったのである。さすが汚い。「虎の穴」やることが汚い。しかし同じ要領でパットナムも、理論構築・質的調査・量的調査・歴史研究をそれぞれ別個に担当している4人がいるんだと思う。本当にそうだとしたら、いよいよ政治哲学版「虎の穴」の実在も疑われることになるだろう。……前置き長いわりにあまり面白い話ではなかったね(タイガーマスクはいつ読んでも面白いぞ)。本題に入ろう。

 先述の通り、本書で用いられる方法論は多岐に渡る。簡潔に構造化すると、

まず歴史研究を中心軸とし、

→その周り(特に近代以降)を量的・質的研究で補強して固める

→そしてこれらの経験的な研究から得られた知見をもとに理論構築をする

という流れだ。見ての通り最終的には理論構築に全ての議論が収斂していくため、誰とは言わんがテイラーやマッキンタイアの著作と比べると(厚さの割には)はるかに読みやすいし、とっ散らかっている印象も受けない(むしろ2人がおかしい)。しかしながら歴史研究を中心に据えたがゆえの決定的な問題点が本書には生まれている。この話はけっこう重要な批判につながるため、本節最後で立ち戻って詳細を検討しよう。

 さてパットナムが本書のテーマを「民主主義の理想形態及びその実現のための制度的実践」とした上で注目するのは、1970年代のイタリア各州における、民主政治の制度的パフォーマンスの差異についてである。この制度的パフォーマンスは3章で論じられているよう、包括性や信頼性などの軸に準拠して評価され、続く4章ではこれが市民度の高さによる社会的協働によって差異が出ているらしいことが考察される。具体的にいえば、市民度の良好さに比例して市民の社会的協働が達成され、また州の指導者も権威より民主主義を重視するようになるため、結果として制度的パフォーマンスも上昇するということだ。この辺いっぱい統計調査とか出てくるのだけど、その詳細を解説したところで面白くないので割愛しやすね^^ ちなみにパットナムの評価に従えば、1970年代イタリアにおいて制度的パフォーマンスが比較的高いのが北部諸州、低いのが南部諸州ということになる。ではなぜそもそも南北でこのような差異が生まれてしまったのだろうか。この疑問に答えてくれるのが、本書の中心を通っている歴史研究に他ならない。

 パットナムは南北諸州の差異の起源を、なんと11世紀~12世紀の頃のイタリアにまで遡って考察できると主張する。その間なんと8世紀である。まぁマジかよって思うよね。当時のイタリアは南北に封建都市/自治都市と分かれていて、この違いが異なる市民性を育んだらしい。すなわち当時の北部都市による自治権の獲得によって、市民の自発的参画を促すシステムを形成することが後々可能になったというわけだ。本当に(真実ならば)驚くべき話である。そしてこの市民の自発的参加を促すシステムこそが、本章冒頭で解説し、パットナムという学者の最も有名な概念である「社会関係資本(social capital)」に他ならない。

 パットナムの説明に従えば、社会関係資本とは「信頼・規範・社会的ネットワークといった社会組織の協調をより良くするもの」を意味しており、これの度合いによって集団選択の問題(いわゆる「囚人のジレンマ」ってやつな)がある程度解消されてくるらしい。例えば本書の後に書かれた『孤独なボウリング』っていう彼の著作では、現代アメリカにおけるつながりの弱体化、すなわち社会関係資本の凋落が問題視されている。

しかし、社会関係資本はなにもパットナムの専売特許ってわけじゃない。というか概念的にガバガバなのでいろんな論者がこれを唱えていて、僕が知る限りでもジェームス・コールマン、ピエール・ブルデュー、ナン・リンといった有名どころが着目している。この辺いつも混同されているっていうか、特に区分を設けず一義的に社会関係資本の概念を援用する人多いのでマジ注意。まぁ本節は(パットナムの構成がうまいこともあって)そんなに長くならなそうだし、ここでそれぞれの違いを解説しておこうかね。

 

(ⅰ)ジェームス・コールマン

 コールマンおそらく世界で始めて社会関係資本という概念を用いた学者で、自身は合理的選択理論を主な専攻としていた。あとたぶんシカゴ学派だった気もするけど、これは自信ないからググれ。合理的選択理論とは現行の経済学の基礎の基礎の基礎となった想定で、経済学徒がおそらく1年次前期に習うだろう「純粋経済人(homo economics)」や先に登場した「囚人のジレンマ」といった思考実験が有名かな。本稿ではロールズの節で取り上げた「マキシミン・ルール」も、本来は合理的選択理論で用いられていたものだ。

簡潔に全体を説明すれば、ミクロなレヴェルで各人が自身の効用を最大化する選択(つまり合理的選択)をすると仮定したとき、マクロなレヴェル(経済や政治)はどのような動態をとりうるかを考える学問といえるかな。ぶっちゃけ僕はクソ嫌いだし、穴だらけだって思っているけどまたそれは別のお話だ。パーソンズが経済学やめて社会学に移ったのに激しく同情しているとだけ書いておこう。

そんで先述のようにパットナムが社会的協働における合理性に着目していることからわかるよう、2人の社会関係資本概念の間にはそんなに相違点はない。まぁ本当はパットナムがここから引いているだけなのだけどね。そんなこんなで、この2人ならば「まだ」混同しても許されるだろうし、一番有名な社会関係資本に関する見解はコールマン-パットナム的なものだ。

 

(ⅱ)ピエール・ブルデュー

 ブルデューさんはフランスの社会学者。こっちも社会学徒がだいたい1年次に習うだろう「ハビトゥス」や「文化資本」とかって概念を提唱した人で、名前だけでなく主張の表面くらいまでなら社会学やっている人は誰でも知っているはず。つまりクソ有名ってことだ(またもや僕は嫌いですがね)。彼も実はパットナムより先に社会関係資本に注目していたのだけど、あくまで3つの並置される概念として登場させてくるので、まずは別の2つを見よう。

①経済資本……いわずと知れた所得のこと。他2つの資本を規定する。

②文化資本……ブルデューの研究全体におけるコア概念。身体化(基本形)・客体化・制度化の3つの形態からなり、経済資本に比例して文化資本の水準も高まる。また身体化された文化資本は「ハビトゥス」(立ち振る舞いや慣習)として顕在化し、これが文化資本の高い人/低い人の間にディスタンクシオン(差異)を生み出すという。

……みたいな感じですわ。

ではこの2つに対して社会関係資本がどのような立ち位置なのかというと、簡潔にいえば「諸階級間で共有される関係性としての集合財」をとる。ブルデューの理論はおフランスの伝統を脈々と受け継いでいるので、良くも悪くも階級社会が常に理論の前景として存在している。ハビトゥスとして獲得された文化資本の差異によって階級が(再)生産され、そこで結ばれる独自の関係性こそがブルデューの場合の社会関係資本というわけだ。ちなみにかつて彼の『ディスタンクシオンⅠ・Ⅱ』を嗚咽しながら読破した経験があるので、この辺の話は完全に頭に入っているよ。

 

 

(ⅲ)ナン・リン

 悔しいがここで文献を参照してしまった。「もしや全部頭の中の知識だけで説明つくんじゃ…」と淡い期待を抱いたけど、そもそも社会関係資本とか専門じゃねーからな僕は。リンによればパットナムが社会関係資本の定義に加えているような信頼や規範といったものは集合財であって、関係財ではないという。集合財というのは「成員みんながアクセスできる財」のことであり、対する関係財、すなわち社会関係資本というのは「社会的ネットワークを通じてアクセスできる財」を意味していて、つまりリンが言いたいのは集合財/社会関係資本/社会的ネットワークを区別しろし、ということに他ならない。

 特に社会関係資本/社会的ネットワークの同一視は日本の研究の文脈だとよく見かける話だが、リン的には社会的ネットワークに諸個人がコミットメントすることで獲得されるのが関係財としての社会関係資本であるため、両者はいわば「過程」と「目的」として区別されることになる。

リンの主張に全面的に同意するかどうかは置いとくとしても(そもそも名前くらいしか知らないし)、パットナムの定義にある信頼・規範・社会的ネットワークは明らかに並置できる概念ではないし、これらを混同することによって社会関係資本の所在自体を不明瞭にしてしまうことは十分に考えうるだろう。

 

……どういう経緯でこの話になったんだっけ?ああ、概念としての社会関係資本は論者によって全く別物だから混同するなよという注意喚起だった。たぶん最近の研究者になると上述のものとはまた異なる定義を用いているだろうし、その辺は興味あるなら自分で調べておくれ。少なくとも上3人に相違点があることは門外漢の僕でも知っているよってお話でした。

 だいぶ構成まずった感あるけど、ともかくパットナムは数百年の時を超える社会関係資本によってイタリアの北部と南部の制度的サービスの差異を説明したのである。そんで何故これが今回の読書デスマラソンで登場したのかということなのだけど、主たる理由としてはロールズが提起した正義の構想が実現された社会の概念、すなわち「公正な協働システムとしての社会」との親和性の強さが挙げられる(実際よく援用される)。

 ロールズはもうはるか昔の2章で見たように、正義感覚の内面化や公知性の充足などによって達成される市民による自主的な社会参加を重視していた。これによって正義の二原理を実現している「協働システムとしての社会」を再生産していくわけだ。一方のパットナムは社会関係資本の水準の高低によって、市民の自発的協調の度合いが規定されていると論じていた。パットナムの場合、ロールズのように最終的な着地点を正義にしてはいないが、各人の社会参画に重きを置いた理論である点で、やはり二人の関心は地続きといえるだろう。あとやっぱりロールズの理論はかなり思弁的で、原初状態とか反照的均衡とかって言われても一般の人はまずピンと来ない。だけどそこにパットナムをぶっこむことで、制度的実践や効率性の側面から自発的参画のメリットを説くことができるようになる。月並みな言い方ではあるけども、ロールズの理論を補強するための経験的な実践を、パットナムの研究の中に見出す利点はやはり大きいだろう。とはいえパットナムの主張も完全に万能なものではなく、冒頭で予告しておいた歴史研究を取り入れたことによる欠陥について最後に言及しておきたい。

 「800年前から―」のくだり見て「は?」ってならなかった? 僕はなったよ。だって800年だもん。この歳月はだいたいスターウォーズに出てくるヨーダ3人分くらいの一生と同じだぞ。想像できるか? 確かに中世のイタリアが北部と南部で封建都市と自治都市に分かれたかもしれないし、それが当時の人たちの社会的慣習を異なるものにしたというのはまだわかる。でもその時の慣習が800年も維持され続けているというのは素直に首肯できる話ではないだろう。間に近現代を挟んでいるのだし。これはいわば日本でいうなら「昔の京都は都だったので京都人はお高くとまっている」レヴェルの「県民あるある」くらいの話にしか聞こえないよ。

 さらに仮にこのパットナムの見解を譲歩して認めたとすると、社会関係資本の議論があまりに宿命論的過ぎることになってしまう。自分たちの市民度が大昔から規定されているなんて抗いようがない事実だからね。逆に数百年後の人たちに自分たちの今の暮らしが影響を与えると言われたところで全く想像力が働かないよね。だから少なくともそのスパンで「公正な協働システムとしての社会」を維持しようとも思えない。こんな感じで歴史みたいなマクロな話をしだすと、社会関係資本の良いところが損なわれてしまうので、あくまでミクロな地域共同体の制度的実践について、みたいな研究(まぁクソみたいにありがちだけど)に援用していくのが吉と思われるよ。

 

 

●リチャード・ローティ 1989 『偶然性・アイロニー・連帯』

 すでに何度か書いていると思うけど、僕はポストモダニズムの潮流がマジで嫌いだ。公共性の哲学や実存主義と並ぶ、オレ的三大嫌い哲学に含めても良いだろう。なぜか。まず言い方がクソみたいに回りくどい。フランスのお洒落感がシャネルのパヒュームの香りと共に漂ってくる気すらしてくる。だってエクリチュールはパロールと異なり、<参種>(セクシーなメタファーだね)するから、『手紙が届かない』―<デッド・レター>になるんだよ?意味分かる? ちなみにこれはデリダのラカン批判での言い回し(うろ覚え)なのだけど、本当に日本語でおkって感じだよね。まぁフランス人だけど。

 しかもこんな面倒なレトリックを使うくせに、たいした内容がないときも多々ある。上のデリダの例ならば「テクストはhere-nowな発話とは異なり、多様な解釈可能性に開かれているため、書き手の意図とは異なるように伝達されうるよ」というだけの話だ。クソみてえにつまんねぇだろ。つーか最初から素直にそう言いやがれって思うじゃん。

 そんで肝心のローティはフランス人ではなくアメリカ人なのだけど、ポストモダニストのご多分に漏れず文学的レトリックを本書で多用している。というかモノホンの文学者である『ロリータ』のナボコフや、『失われた時を求めて』のプルーストとかの名前も本書には出てくる。2人とも超有名だけど、なぜここで持ってきたかという意図については僕の頭では理解できんかったよマジ。……ってな感じで愚痴っても仕方ないし、何より最後から2人目なのでモチベーション高めて解説していこうか。まぁ読みにくいのだけど。

 ローティによれば伝統的西洋哲学、とりわけカント-ヘーゲル的なドイツ観念論は「世界の想像」と「真理の想像」の両者を同一視していたという。ここでいわれる「世界」とは現象それ自体のことであり、これを特定の語彙によって切り抜くことが「真理」の発見であると定式化できる。しかしながら、ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」という概念を用いて述べたよう、言語は状況志向的であり、文脈依存的であり、ゆえに「偶発的(contingency)である。このことは「世界」はいかなる語彙によっても切り抜くことができ、そのため「世界」とは別に「真理」の創造が可能であるという論理的帰結をもたらす。またこれらの事実を踏まえると、ドイツ観念論の見解は「世界の想像」と「真理の想像」を混同していると結論付けられる。

 まぁ抽象度の高い話だけど、そんなに難しいことではない。ドイツ観念論(伝統)/分析哲学(現代)を対立させたとき、前者が主張するような「真理=世界の一部」といった必然的結びつきなどはなく、むしろ後者が述べているように「真理」は状況志向的な言語ゲームの中でいかようにも偶発的に創造されうる、ってな話だ。だから最初からそうい(ry

 ちなみにローティはデカルト、カント、ヘーゲルのような伝統的哲学者よりも、クーンやウィトゲンシュタインみたいな現代の科学哲学・分析哲学を好んでいる、というかよく対立項に持ってきて後者の優位性を主張する。本書のこの部分もまさにそんな印象を受けるね。

 さて「真理」が偶発的な構成物に過ぎないとしたとき、その変遷はすなわち「真理を構成するメタファーの変遷」として捕捉可能であることになる。そしてこのメタファーを産出させるのが「詩人」といわれる人々である。「詩人」はいつの時代も新たなメタファーを生み出してきており、例えば定言命法で知られるカント、「善悪の彼岸」に辿りついたニーチェ、カント-ニーチェ的な主体の一貫性が虚構であると看破したフロイトなどがその筆頭として挙げられる人々であるという。

 この辺は議論のレイヤーが入り組んでいてややこしいのでいったん整理しておこう。言語の偶発性(絶対的「真理」などない)を指摘したのはウィトゲンシュタインらの分析哲学者であった。次に「詩人」に関する考察が出てきて、主体の分散性を見破った「詩人」がフロイトであるとの見解が示された。本書の構成からは読み取りにくいけど、前者の偶発性は後者の「詩人」の話に、後者の「詩人」は前者の偶発性の話にそれぞれ相互的に及んでいて、このことを踏まえると以下のような関係性が見えてくる。

 

「真理」の偶発性を―新たなメタファーで表した「詩人」が―ウィトゲンシュタイン

「自己」の偶発性を―新たなメタファーで表した「詩人」が―フロイト

 

 ローティ的解釈の妥当性はとりあえず置いておくとして、ここまでの議論は「偶発性―メタファーの産出者としての「詩人」―具体的な論者」といった構造になっている。そして本書が(僕はポストモダン論嫌いなのにも関わらず)今回の読書マラソンのコースに加えられた理由が、これらの次に紹介される「政治」の偶発性及びその「詩人」に関するローティの考察にある。

 「政治」の領分における偶発性を規定することは、ともすると相対主義的な眼差しに陥っているようにも思える(相対主義はコノリーの節で徹底的に叩いたね)。例えば、『自由論』で有名なアイザイア・バーリンによれば、政治における偶発性を積極的に承認し、その自由が重視されるべきであるという。しかし、サンデルはバーリンのこうした主張が「過度な相対主義に陥る危険性」を孕んだものとして批判し、そもそも「自由」の特権化に対しても疑念を抱く。ここでのサンデルによる批判が端的に示しているよう、やはり「政治」における偶発性を訴えることは、相対主義への後退を暗に示してしまうのである。

 しかしながらローティはバーリンの肩をもち、「政治」は必ず何らかのメタファーを必要としていると主張する。例えばサンデルならば「共通善」がそうだろうし、自然権論的リバタリアンならば「自己所有権」がこれに該当するだろう。そしてバーリンの場合は単に「自由」がメタファーに選ばれただけであるというのである。納得できるような、できないような微妙な擁護だね。ポモの人は洒落乙なレトリックで問題の所在を包み隠してしまっている感じがするのも嫌いな理由の一つだよ。

 ではリベラリズムにおけるメタファーを「詩化」してくれる「詩人」は一体誰なのだろうか。残念ながら本書においてこの回答は提示されていない。しかし、あれだけ嫌いって言っている僕も一昔はポモ思想をどっぷりやっていた時期がありまして(赤裸々)、その時読んでいたローティ関連の読書メモを見返したら、「政治」の「詩人」は誰かという問いから続く議論が展開されていたので、少しレギュレーション違反な気もするがそちらも紹介してみようと思う。というわけで以下の議論は渡辺幹雄っていう政治哲学者の『リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師』(魔術師と来たか…)という本に沿っている。

 渡辺によればこのときリベラルにおけるメタファーの産出者となるのは、他でもないジョン・ロールズであるという。これはかなり意外な主張で、というのもロールズの主張は従来的に相対化を志向するどころか、普遍的原理な導出に向かうものとされてきたからである。つまり一見すると、ロールズはローティの「政治」の偶発性に対して批判的な姿勢をとっているというわけだ。もちろんこれは本稿で見たロールズの姿とも一致している。しかし、渡辺がロールズのテクストを緻密に読解していくと、とりわけ後期ロールズにおいては「政治的リベラリズム」の議論に顕著であるよう、彼は「政治」の偶発性を積極的に承認していることが判明するというのだ。

 ここはもうすでに本稿で終わった話なのだけど、前期ロールズは「正は善に優先される」という有名な命題に象徴されるよう、正義をあらゆる包括的教説より優位で特権的な原理であると位置づけていた。しかしコミュニタリアンやマルチカルチュアリズムがこれを批判しまくり、『再説』時点では既に善のモードと正のモードを各人が両立可能であるという見解に改められていたのだった。そして「優劣」から「両立」への移行が、偶発性承認の契機になっているというというのが渡辺の解釈である。

 確かにロールズの主張がより相対化の方向に向かっていることは見てとれる。かといって僕にはロールズがリベラリズムのメタファーを産出しているようには到底思えないし、正と善は両立可能としつつも彼は正に特権的地位を与えている点では変化していないことを加味すると、いささか穿った読みであるようにも感じた。まぁローティはローティでロールズの主張に偶発性を確認しているため、少なくともローティの読解として見たときに渡辺の主張は間違っていないのかもしれない。

 ところでポストモダニストとはこんな感じで特権的な物語、つまりリオタールの「大きな物語」の存在を徹底的に解体し、相対主義的な傾向が物言いをする。だからローティがいうような「真理」、「自己」、そして「政治」において偶発性を見出し、そのディスクールをメタファーの変遷として把握してしまう人々は立派なポストモダニストであるだろう。そしてこのポストモダニストの定義は、ローティによる本書のもう一つのテーマ「アイロニスト」像にぴったり重なるものである。

 「アイロニスト」は先述のようにそれぞれの領域における偶発性を看破し、真理の到達といった観点からではなく、単にメタファーの移ろいとして観察しているスタンスの人を意味している。フーコーの三大師匠が一人カンギレムって歴史学者は「真理とは一番新しい間違いである」っていう有名な言葉を残しているけど、まさにそんな感じ。ジョジョならば「終わりがないのが終わり」(5部)がぴったりここでのイメージに合うね。すなわち、ディスクールが絶対に「終焉の語彙(last vocabulary)」に至らないことを知っていて、自身の語彙の限界もアイロニストは認識している。

 とはいえアイロニストにとってヘーゲル的な弁証法的発展が全くの虚構化といえばそうでもなく、確かに「正しい」方に向かっているとはいえない点で「発展」とはいえないが、従来のメタファーと新しいメタファーの間に弁証法的関係は認めることができ、ゆえに新しい語彙への移行も弁証法によって達成されると結論付けられる。またこのように語彙の変化を伴う弁証法は今日「文芸批評」と呼ばれていて、冒頭で登場したナボコフやプルーストが「批評家」の筆頭に挙げることができるという。

 とまぁローティによる本書での主張の要点を掻い摘むとだいたいこんな感じだ。本当は「連帯」の部もあるけど、疲れたから自分で読んでくれ。でもここまで別にたいしたこと言っていないでしょ?「終焉の語彙」とか仰々しい言葉を使うからさも意味ありげに見えてくるけど、相対主義ではないかという批判をメタファーや偶発性といった概念を用いてうまいこと回避し、ポストモダニズムを政治哲学の文脈から正当化しているだけだ。オサレな語句に知的好奇心がくすぐられるのであればポモはおすすめだけど、それ以外の人は必要最低限の議論だけ押さえとけばいいと思うな。

 

 

●ユルゲン・ハーバマス 1992 『事実性と妥当性―法と民主的法治国家における討議理論にかんする研究』

 いよいよ最後の1人ハーバマスにまで到着した。そして本書、まさにラスボス級の大著である。久々に上・下巻ある学術書読んだよ。分量に相応して論点もいっぱいあって、もちろんロールズの正義概念の検討も本書におけるメインの課題となっているわけではないんだな(叩き台?的な)。

 ハーバーマスといえば本書の冒頭でも書いたように、現代社会理論界の大物に片っ端から喧嘩を売っていることで有名だ。だから政治哲学の入門書にも、社会学の入門書にも、ポモの入門書にもほぼ必ず彼は登場する。だから僕が社会学をやり始めた頃、ハーバーマスをウェーバーやデュルケムのようにすでに死んだ古の巨頭だと勘違いしていた。彼はまだまだ健在である。というか一昨年あたりに退官された教授が「奴と一緒にアメリカのビーチでビキニ姿のチャンねー眺めていたなぁ(遠い目)」とかマジで言っていて、いろんな意味で比較的身近な人だなぁと思ったよ。まぁチャンねーの話は脇にどけておこう。ここでは導入としてハーバーマスが各所で論争を巻き起こしつつも、少なくともデリダ、ルーマン、そしてロールズらとは議論の前提を共有していた事実を確認しておきたい。

 デリダはポストモダニズムの代表的論者の一人で、本稿とのかかわりで言えば前のローティやマルチカルチュアリズムの章に登場したコノリーが近隣の研究者として挙げられる。そして本章の最初で確認したように、ポストモダンを「大きな物語」が凋落した時代であると特徴付けているのが彼らの共通認識である。まぁ一概にはいえないけど、頂点無き時代をどちらかといえば悲観的に捉える傾向にあるかな。あとお洒落クソ哲学。

 次にルーマンはウォルツァーのところでちょっとだけ紹介したように、前回の読書デスマラソンでよく参照されている。ので、過去の僕に説明は丸投げ。彼は近代以降、全体社会の複雑性が増大した結果、各社会システムはそれぞれ独自のコードに準拠した「観察(指示/区別)」を行い、このオートポイエーティックな作動によって自己/環境の間に差異を産出している―「複雑性の縮減」をしていると考えた。この一連の流れを機能分化なんて呼んでいる。ちなみにふざけているのではなくて、実際のルーマンの著作もこんな感じのルーマン語で埋め尽くされている。しかも『社会システム理論』なんてロールズの『正義論』×2の分量あるから泣けるぜ。

 そしてご存知ロールズだ。もうくどくど解説はしないけど、初期の彼は統一的正義の実現可能性を、ある意味で楽観的に捉えていた。だって各人が正義についての構想を十二分に吟味していけば、「正義の二原理」にたどりつくと考えていたわけだからね(「反照的均衡」)。概念装置である「原初状態」も言わずもがなだ。しかし、コミュニタリアンやマルチカルチュアリストが徹底的にこの辺をつめた結果、後期ロールズは新たに「重なり合うコンセンサス」という正当化の過程を提示するようになっていた。もうこれも細かく説明しないけど、この時点での彼は社会に氾濫する「包括的教説」やそれに準拠して構成される共同体の存在、すなわち「穏当な多元性の事実」を意識するようになっていたのは間違いないだろう。

 ここまで見たデリダとルーマン、ロールズはそれぞれ別の畑の人で、関心はおろか出身国すら異なるのだけど、「社会に統一性がなくなってるんじゃね?」と考えている点では共通している。クソ粗雑な繋げ方をすると、先の話のうちデリダは(リオタールによる)「大きな物語の凋落」が、ルーマンは「機能分化」が、そしてロールズは「穏当な多様性の事実」が、それぞれ統一的社会像の解体を指した概念となっている。ただし、それぞれのインプリケーションは当然のことながら異なっているのは留意しておきたい。こうした前提に立った上で、デリダはさらなる解体すなわち脱構築を志向していくわけだし、ルーマンは機能分化したゲゼルシャフトレヴェルにある諸システムを「(二次的に)観察」、ロールズならば「多元性の事実」を認めた上で、それでも公正としての正義が特権化される原理であると主張するのだから、各人の展開したプロジェクトは全く一致しない。むしろ安易なアクロバティック接続はそれぞれの筋の人が本当に嫌がるし、容赦なくボコボコにされるので気をつけよう。あくまで「社会の統一像が描けない」、ただその一点において3人が近しい見解を見せているってだけの話だ。なおここで少し不自然にロールズやルーマンの主張を(再)確認しておいたのは、後に見るハーバマスの主張に大きく関わっているからでもある。いわば複線だね。僕は松本零士みたく投げたりはしない。

 さて前置きが長くなった。本題のハーバマスもこうした現代社会理論における最低限のコンセンサスを前提化し、「ポスト慣習的」って表現でその状況を端的に表現している。「大きな物語」だの「穏当な多元性の事実」だのに比べると、少し字面がダサいようにも感じるけど、これは直にハーバマスの主張内容に関わってくる要件を含意しているため仕方ない(まぁ単に翻訳の問題もあるけど)。

 ハーバマスによれば、統一的社会が解体された/多元的な現代において、前近代的な社会的因習はもはや失効してしまっている。ここはリオタールによる「大きな物語の凋落」の現状診断とほぼ同じだ。カッコいい言い回しを使えば「ポスト形而上学的」とも表現できるだろう。ともかくこうした事実を踏まえると、宗教やイデオロギーといった伝統評価によっては規範が正当化することができないという論理的帰結に至る。換言すれば規範の「内容」は慣習が失墜している以上、旧来のように普遍的なものとして捉えられないのである。そこで彼が目を向けるのが規範の「形式」の方だ。確かに前述の理由から規範の「内容」に普遍性を与えることはもはやできないが、規範を導出するための「形式」―すなわち「手続き」の方法論は未だ普遍化可能であるはずだと。そしてこの「手続き」こそが、今回のメインテーマ「討議理論(Discourse Theory)」に他ならない。よくハーバマスの理論が(否定的な意味も含めて)「手続き的」「形式的」と表現されるのはここに所以しているんだね。

 討議理論はそんなに複雑な話ではない。というか発想としてはむしろ単純だ。簡潔にいえば、各人の「コミュニケーション的理性」に基づき実践的討議を行い、そこで当事者みんなが妥当であると承認できる規範を導き出しましょうね、って感じかな。まさしく学級会的ノリ。ちなみに本章の冒頭で彼自身を「討議倫理学」という立場に位置づけたけど、これはつまり「倫理の正当(統)化に討議を用いるタイプの倫理学」を意味している。情緒や直観、言語使用に依拠するのはメタ倫理学、ロールズやカントみたく普遍的原理に依拠するのは規範倫理学、それの討議版と考えてもらえればオッケーだ。考案者は無論ハーバマス本人(とアーペル)だよ。

 今見たように発想は単純だけど、一方で討議理論にはいくつか基本的な条項があって、これが遵守されていない限り討議やそれによって導出された規範は妥当なものであるとは見なされない。以下で簡単に見てみよう。

 

○討議原則[D]/討議倫理学原則(Discourse Ethics Principle)……討議の当事者全員によって合意された規範のみを妥当とする

 

○討議原則[U]/普遍化原則(Universally Principle)……可決された規範は、その一般的遵守によって、全ての個人の利益の充足に関して予想される結果や副次的影響が、あらゆる当事者に強制なく受容される

 

この2つだ。[D]はよいとしても[U]は記述がぐちゃぐちゃしていて少し分かりにくい(この本はぐちゃぐちゃした表現ばかり出てくるので本当にイラつく)。でも[U]の方もそんな難しい原則ではなくて、要するに規範が誰かに不利益を与えるものではなく、ゆえに当事者誰しもが許容できる内容になっていないといけないよ、ってことだね。例えば権力の強い人に有利な規範が、往年のジャイアニズムによって弱い人にも強制された際、討議や規範それ自体は妥当性を持ち得ないことになる。

とりあえず討議理論や討議倫理学の概観はだいたいこんな感じ。ちなみにここまでの話は本書の前に上梓された論文「討議倫理学への注解」にすでに登場しているらしく、つまるところまだ『事実性と妥当性』の内容には足を踏み入れられてはいない(白目)。やっとラスボス討伐の準備が終わったところだ。

本題である『事実性と妥当性』は鈍器みたいな厚さの上下巻から構成されていて、先述の通り論点は多岐に渡る。というかどう見ても論点過多です本当にありがとうございます。しかしながら大部分の章は最終的に「討議理論ってすごいでしょ」という方向に収斂していく内容でもあるので、討議理論や討議倫理学に関する論文集として読むのが良いかな(各章が断続しているわけではないよ)。そんなわけで全部取り上げるのは普通に死ねるので、ここでは本書におけるルーマン批判、ドゥウォーキン批判、そしてロールズ批判の3つに絞って紹介したい(ここで複線回収)。ちなみにこの順序は本書の章立てには基づいておらず、完全に僕の説明の都合で組み替えたものなので悪しからず。

ところで本稿はマジでいまさらだけど、政治哲学の領分の著作を中心軸にして紹介してきた。他方で『事実性と妥当性』の主題は法と権利の問題である。いやドゥウォーキンの節とかでも書いているように法と政治は不可分だし、実際に本書でも法をめぐる議論から民主主義の議論にまで拡張されるのだけど、とりあえずはうだうだ法の話が続く。じゃあなんでハーバマスが法や権利にこだわりを見せているのかというお話になるわけだけど、その理由はルーマン批判に端的に顕れている(ので最初に解説しますよ)。

本稿にも何度か登場しているルーマンは前述の通り、近代以降の社会において全体社会は機能分化したサブシステムとしての部分社会の集合として描くことができ、その部分社会はそれぞれ固有の「象徴的に一般化されたメディア」と二値コードを有しており、およびそれに準拠してオートポイエーティックに産出されるコミュニケーションによって環境との間に差異を生み出し、ゆえに他のシステムとは接触しないかたちで独自の領分を有している―すなわちシステム内部での作動として「複雑性を縮減」していると考えた。息がつまりそうなくらい早口で解説するとこんな感じだ。本当は「観察」概念と「指示/区別」の話や「嘘つきのパラドックス」のことも紹介したけどハーバマスの議論の核とは関係ないので留保します。まぁ何度も言っててくどいけどルーマンの詳しい説明は前年度の僕に投げるので、そちらを参照しておくれ。ここで特筆しておくべきは、ルーマンの理論において想定されている社会システムが、「閉じた」作動によって駆動していることだろう。

ルーマンはもともとパーソンズ(この人もハーバマスと論争してた)の社会システム理論にならい、システムをサイバネティクスモデルとして把握していた。サイバネティクスモデルにおいては、システムの構成要素が外部/内部を往来し、いわば環境とシステムはインプット/アウトプットの関係性にある。ちなみにサイバネティクスモデルは最初にウィナーって人が提唱したのだけど、そこの話もまぁ割愛(さらに次出るオートポイエーシス概念が生物学者のヴァレラとマトゥラーナによって提唱されたのも飛ばすよ)。しかしルーマンは自身の考察を深化させていく過程において、社会システムを自己の構成要素を自己に準拠して構成していく「閉じたシステム」として捉えるようになる。いわゆる「オートポイエーシス(自己言及的システム)」ってやつだね。ここで理論が大胆に変容を遂げるのだけど、去年の読書デスマラソン見ろ。そしてこのオートポイエーティック・ターンを経て、彼は自分のシステム理論をスキームとして(ゲゼルシャフトレヴェルの)諸社会システム分析を展開していく。後期の著作に位置づけられる『社会の~(as a Social System)』シリーズはまさにここで書いている諸システムの考察本だ。具体的には『社会の政治』『社会の法』『社会の経済』『社会の芸術』などが有名かな。これらは全て本が鈍器みたいになっていて(中には上下巻からなるものも)、しかも中身はさっきから書いているようなルーマン語ばかり。もはや「さすがルーマン!俺たちにできないことを平然とやってのけるッ!」「そこにシビレるゥ!憧れるゥッ!」という感想しかない。さてマジでクソみたいに長くなったけどハーバマスの話に戻ろう。ルーマンの法システムに関する個別的考察についても、このサイトのどっかに読書メモが残っているはずだからそれを見てくれ。本当に疲れた。

システムが閉じている、という想定によってもたらされる副次的問題として、システム間における相互的な干渉が全て否定されるという理論上の帰結を挙げることができる。つまりサイバネティクスモデルとは異なり、オートポイエーシスモデルでは自己準拠的に要素が産出されているため、外部との関わりは「システムの駆動」という観点からすれば必要ない(むしろ複雑性を縮減するために拒絶されうるはずだ)ということだ。しかしこのとき、サブシステムの一つに数えられる法システムもまた例外なく環境への干渉が不可能になってしまうことになる。そして外部としての全体社会への働きかけができないということは、法に妥当性が与えられず、ゆえに機能不全になってしまうのではないか、とハーバマスは考えた。

ハーバマスによればオートポイエーティック・ターン後のルーマンは、「閉じたシステム」という想定によって、個々の生活世界を機能分化の名の下に分断してしまった。その結果もたらされるのが、客観化による主観哲学の捨象であり、また法の全体社会に対する統合力の失効―妥当性の喪失であるという(このハーバマスによる見解はルーマニ屋さんから見れば文句あると思うけど、まぁ余力があればあとで解説するよ)。つまるところ、ある意味でニヒルともとれるルーマンの思考が、法の領域から規範的妥当性を地平の彼方へすっ飛ばしてしまったことを彼は問題にしているわけだ。

そうではなくハーバマスにとって法とは、各人の間主観的なコミュニケーションによって成り立つ生活世界(本当は現象学開祖のフッサールによる概念だけど以下略)と、機能システムとしての経済・政治を越境し、橋渡ししてくれる「蝶番」のような役割を果たしてくれる。換言すれば、ハーバマスにとっての法とは、本来それ単独では互換性がない生活世界における日常言語としてのコミュニケーション、そして機能システムにおける特殊コードとしての貨幣・行政権力の変換と往来を可能にする「変圧器(Transformer)」と表現することもできるだろう。生活世界とシステムの均衡関係は、後に見るハーバマス的法概念における規範的妥当性と事実的妥当性の区別にも対応しているのでようチェックやで。

ここの議論がなんでこんなに入り組んでいて解説が困難になっているかって、ルーマン/ハーバマスが前提を「共有していそうで」していないことに起因していると僕は思うな。この「共有していそうで」が本当に重要なポイントで、2人の理論における中心的概念が社会システム理論の開祖(少なくともこの名称を始めて使った)であるタルコット・パーソンズ、そして現象学の開祖であるフッサール(ないしはその後のシュッツとか)から継承されている点で「共有していそう」に見える。でも本当はルーマンもハーバマスも引き継いだ概念をガシガシ自分流に改造してしまっていて、「字面は同じだがインプリケーションが全く異なる」というスーパークソ&クソややこしい事態に陥っているんだよ。例えばフッサールとハーバマスとルーマンの「生活世界」概念は全く違うし、パーソンズとルーマン、ハーバマスの「社会システム」概念もかすりもしない。そんな感じだから合意点が見かけ上にしかないまま議論が進むから、東京ラヴストーリーどころの騒ぎじゃないすれ違いが起きているんだよ。やかましいわ。

ややこしくなる上に規範理論全く関係ないからもういっそこのルーマンに対する批判の話はガッツリ削ろうかと思ったけど、原則消さない主義なので残しておこう。ちなみにここまで2人の議論については頭の中にある知識だけで書いているんだよ。すごいでしょ。ともかく強調しておきたいのは、ハーバマスが法に関心を示しているのは、それが機能システムと生活世界(両者の違いについては『コミュニケーション的行為の構造』ってググれ!)の「変圧器」として機能してくれていることに由来しているってことな。

 

さてハーバマスの関心が法にあるのはわかったが、では彼はそもそも法をどのように記述するのだろうか。ここが次のドゥウォーキン批判とロールズ批判に関係してくる重要な点だ。ハーバマスによれば法、厳密に言えば法的妥当性とは以下の2つの側面から定義できるという。

 

事実性(経験的妥当性)……法における事実認知的側面。法的安定性の確保のためには不可欠である他方、合法/違法を制度的に判断するのもこちらであるため治安維持の権力も帰される。実定法的とも形容できる。

 

妥当性(規範的妥当性)……法における道徳的側面。制度に明文化されている必要はないが、こちらがなければ法が成員に承認されず、ゆえに法的正統性が確保されない。ロールズならば「正義」がここに相応する。

 

「おや?」と思った君はなかなか洞察力が優れているね。そうこの2つの側面は本書の表題で言及されている『事実性と妥当性』のことだ。ハーバマスによれば事実的側面/規範的側面は相互に緊張関係にあるため、バランスが損なわれてはならないという。そしてこの緊張関係の維持を突き詰めて考えると、両水準における要求が均等に満たすことのできる法理論が求められるという帰結に至る。んで構成をややこしくしないよう先にハーバマスの答えを明かしておくと、ここで求められている法理論こそが彼の討議理論である。先述のように従来的には社会的慣習の上に立脚していた規範的妥当性だったが、慣習が失効してきた今、規範は公正を期すために討議によって制定しなければならないということだった。

(a)ポスト慣習的・ポスト形而上学的世界が想定されるからといって法から規範的妥当性を捨象するわけにもいかず

かといって逆に

(b)特定の誰かが対話を経ずに規範を正当化してしまうのは普遍的規範への望みが絶たれた今の時代に適していない。

こうした法的規範の隘路から抜け出すために規範倫理学が望まれるというわけだな。いま唐突に箇条書きにしたのは、このうち(a)は法実証主義の、(b)はドゥウォーキンとロールズの理論がそれぞれ抱える問題点だからだ(もう面倒だからフォーマットも崩していくよ)。本当は法実証主義と義務論に牙を剥く前のところで、ガタマーの法律的解釈学や、メタな視座から法を把握するリアリズム法学などにもハーバマスは論駁を試みているのだけど、本筋とは関係ないので割愛。ここでは2点にフォーカスを絞って、順に見ていこう。

実は法実証主義ってなんぞやみたいな話はすでに本稿の中に登場している。はるか昔にドゥウォーキンの『権利論』を解説した節で、その本で彼が批判対象にしていた法実証主義についても同時に説明していたはずだ。そうそうハートとか出ていたね。法実証主義はdisった表現をすれば実定法至上主義なので、法の外部を一切拒否する。先のハーバマスの区分に従えば、法実証主義における法概念には事実性しか存在しないということになってしまう。実際にも法実証主義の論者が、法の自律性や完結性を強調するために、法をめぐる紛争(ふつうに行列相談所的案件のことだよ)解決の全権を裁判官に委譲する見解をとることも少なくない。あとこれは正直見解が分かれることなので声高にはいえないけど、さっき出てきたルーマンは法システムをオートポイエーシス(自律的/閉鎖的な自己言及システム)として徹底的なまでに記述するため、ある意味で法実証主義の極右といえるかもしれない。ハーバマスによる批判の要点もルーマンの場合と同様で、法実証主義も規範的妥当性を完全に排してしまっていることが問題になる。法的安定性だけではなく、法的正統性も不可欠でしょうと。ではドゥウォーキンの場合ならばどうだろうか。彼は2章で見たようにハートらの法実証主義を『権利論』で批判していたし、その際には実定法(事実性)/原理(規範的妥当性)の区別も設けていたはずなので、少なくとも法実証主義-ルーマンよりかは確実にハーバマス寄りだといえるだろう。しかしハーバマスはこちらも退ける。といのも今度はドゥウォーキンが規範的妥当性に偏り過ぎているからだ。

ドゥウォーキンは『法の帝国』などの著作において、ハーバマスと同様に法を法的安定性と法的正統性の二つの車輪からなる実践であるとしている。つまり彼の理論において裁判官は、一方で法を個別事例に適用させて紛争を解決し、他方で法の適用がより高次の原理(規範的妥当性)と照らし合わせてみて一貫性を保持できているか恒常的に確認せねばならない。ちなみにこうした「実定法の適用/原理との整合」からなる法の再帰性を訴えるアプローチを構成的解釈なんてふうに呼んだりもする。まぁくどくど説明しているけど、要するに折衷案だ。

じゃあ問題ないじゃんと思ってしまうけど、ハーバマス的には構成的解釈アプローチにおけるドゥウォーキンが、原理―すなわち法の規範的側面を裁判官一人に帰属させている点が問題になる。すでに見たとおりポスト慣習的世界において、特定の規範が誰か一人によって正当化されてはならず、当事者たちによる「手続き」のプロセスとしての討議を経ていなければならない。ドゥウォーキンは確かに惜しいところまでは来ていたが、原理ないしは妥当性を裁判官の「独話(monologue)」に見出してしまった点でほんの一歩及んでいない。絶対的な神も思想的指導者も想定できないポスト慣習的世界において、裁判官も当然絶対ではなく、だからこそハーバマスにとって規範とは、討議すなわち「対話(dialogue)」によって導出されなければならないのだ。

そして肝心のロールズに対する批判を見ていくのだけど、ルーマン-法実証主義批判とドゥウォーキン批判を理解した今、これはそんな難しい話にはなりえない。ロールズは正義というハーバマスがいうところの規範的妥当性を正当化するプロセスにおいて、主に本人が掲げたものとしては、「原初状態」、「反照的均衡」そして「重なり合う合意」の3つを論拠としていたが、このどれもが規範的正当性を導出する論拠として機能していないという。順に解説しよう。

まず「原初状態」における諸個人は討議ではないにしても、自らのリスクを最小限にするためにマキシミン・ルールに則った「手続き」的制度設計をすると想定されていた。ちなみにハーバマスの討議的手続きと対比して、ロールズのものを契約的手続き論なんて呼んだりもする。しかし契約的手続き最大の問題は、それが現実のコンテクストに依拠しておらず、「無知のヴェール」によって仮想領域に留まっていることに他ならない。多くの批判者がここにツッコミを入れていたのはすでに見たとおりだが、ハーバマスもまた同様である。ポスト慣習的世界は決して脳内の出来事ではなくて、我々の現前にあるアノミー的危機なのだ。そしてこのコンテクストに定位させることにより初めて「手続き」として成立するというのがハーバマスの批判だ。

次の「反照的均衡」にはより実効性が認められるため、少なくとも「原初状態」との連続性を留保すれば、ハーバマス的には評価できるもののはずだ。2章で解説したようにロールズによれば反照を繰り返した直観が、最終的に完全なる均衡状態にまで至ったとき、それは社会の成員全てが支持する直観であることになる。そしてその完全な均衡状態にある直観とは正義の二原理に他ならず、ゆえに正当化されうるというのが「反照的均衡」の大まかな流れだった。しかしながら、ハーバマスはそもそも各人の直観の完全な均衡状態が正義の二原理であるとする主張に懐疑的であり、仮にそうであったとしてもふさわしい確認「手続き」である討議を経なければならないとしている。ゆえに反照的均衡でも規範的妥当性を正当化するには不十分だ。

そして最後の「重なり合う合意」だが、ハーバマスからすればこの論拠はけっこう悪手だ。すでに見たように「重なり合う合意」は後期ロールズの主張に登場した新たな論拠で、マルチカルチュアリズムやコミュニタリアニズムからの批判を踏まえているため、「穏当な多元性の事実」が前提としてあった。これは本節冒頭で述べたことだが、統一的な社会像の解体とポスト形而上学的な問いを含意している一点において、ハーバマスの「ポスト慣習的」という表現と、ロールズの「穏当な多元性の事実」という表現は互換性がある。ゆえに一見すると相性が良さそうに見えるが、ロールズここでいう「重なり合う」とは、社会の成員が「手続き」を通して「重なり合い」ではなくて、各人が潜在的に有する包括的教説に基づくアイデンティティのモードと、政治哲学としての正義を達成するアイデンティティのモードが「重なり合い」を意味していた。つまりまたもや討議が抜け落ちているのである。

 

さて本書におけるロールズ批判の要点は概ね以上かな。つまるところ規範的妥当性を導くための論拠が機能していないよってことな。ともかく最初に予定したことは書ききったので締めてもいいけど、おそらく本稿で一番割いたのがハーバマスの節(ラスボス特権だ)なので、ここまでの流れを整理しておこう。

○法は事実性(経験的妥当性・安定性)/妥当性(規範的妥当性・正統性)から構成されている。

○ポスト慣習的世界においては伝統的価値が失効しているため、後者の規範的妥当性の正統性が危機に晒される。

○かといって法から規範を捨象し、事実性にのみ注目するルーマンや法実証主義は退けられなければならない。

○逆にモノローグによって妥当性を正当化するドゥウォーキンの構成的解釈や、「手続き」的ではありながらも様々な欠陥を抱えるロールズのような論立ても不当である。

○両極に陥らず、かつ事実性と妥当性の両立要求に応えるためには、規範をダイアローグによって導出する討議理論が不可欠である。

 

 だいたいこんな感じな。まぁここまで冗長に紹介しといてなんだけど、僕ずっと言っているようにハーバマス嫌いやねん。だからいつも通り最後に批判も書いて終わるわ。ハーバマスらが想定するようなポスト形而上学的世界観に異論はないし、だからこそ特定の誰かがモノローグによって規範を特権化するのも気に食わない。しかしハーバマスもまたモノローグしてね?というのが僕からの批判だ。

 ハーバマスによれば規範の「内容」をカント的義務論のように規定してしまうと、それは「手続き」をないがしろにしたモノローグになるということだった。この点ロールズとハーバマスはしっかり回避していて、代わりに討議や契約によって導出するというスタンスをとっていた。しかしだ、そもそもなぜ各人にコミュニケーション理性なるものが内在していて、ゆえに討議をしていこうなんて言えてしまうのだ。ルールの「内容」は確かにモノローグに決定してはいないが、ルールを決めるためのルール、すなわち「形式」としての「討議」はお前さんの勝手な独断によって決めているのではないか。少なくとも僕はいちいち誰かと合意事項ができるまで討議するの面倒で嫌だし、自分に都合がいいルールを人にこっそり強制できるのであれば迷わず強制すると思うよ。こんなマキャベリアンな発想は「このクソ外道がッ!」と貶されても仕方ないとは思うけど、ハーバマスだって自分に都合がいいルール(決定のためのルール)を前提に議論進めてんじゃん?それっぽくいうとロゴス中心主義っていうの?各人の内になんらかの理性を本質主義的に規定するやつ。アレ自体そもそも自体西洋哲学の伝統だからな。残念なことに西洋近代化にずっぷり浸っているとはいえ僕は東洋人だ。そんなもん通用しない。ここに異論があるならばイスラーム原理主義者とアングロサクソンの保守層が討議している姿を想定してみるとよい。誇張や比喩抜きに殺し合いが始まるだろう。

 言葉汚いけどこうした批判は実際の論争上の争点にもよくなるし、僕はハーバマスに分があるとはとても思えない。どうか存命中に回答キボンヌである。あとまぁ討議の実効性(どうやって合意するのか、当事者とは誰か、討議理論すら受け入れられないエスニシティなどの問題を抱えている人はどうするか)の問題もあるけど、気になったら自分で調べておくれ。とにかく僕が触れたいのはさっきの点だけだ。疲れたから早くおわろ。

 

 

9 あとがき

 くぅ~疲れましたw

[…]

 ってなんで俺君が!?

 

往年のホラゲことバイオハザードっぽくResult発表しておくと、最終的な分量がワードA4×161枚。院生(並)が書いた修論くらいの厚さはあるんでね?読んだ本は原典27冊+参考資料8冊の合計35冊。そこそこ読んでいる。一冊のカロリー高いし。

 で本当はこれ2015年が終わるまでには余裕で完成する予定だったのだけど、大学復学してからスカンクの下痢便以下のクソみてぇな奴らと受けるスカンクの(ry みたいな授業で時間とられて、けっきょく2016年の2月最終日(今年はうるう年だけど)にまで延びちゃった。フェミニズムの章でずーっと滞っていたよ。ちなみに書き終えた現在、大学は春休みだけど、新年早々再度休学している俺には関係のない話だ。大学も辞めるけど、これからはクソみたいな学生と授業に煩わされず研究できるので、学問の話に限定すれば退学を冗談抜きで喜んでいる。まさに本末転倒である。まぁでも平日は仕事して、休日は研究者なんていいじゃないですか。

 じゃあ慣例となっている紹介できなかった人(順不同)に謝罪と言い訳をして今年度のうきうき読書デスマラソンの幕を引こうか

 

○ヤン・エルスター……合理的選択理論×アナリティカル・マルキシズムみたいな人。「アナマル言うたらコーエンかエルスターやろ」ってくらい有名だけど、英語圏ばっか見ててごめん忘れてた。

 

○アイザイヤ・バーリン……確実にロールズ以後の政治哲学に影響を与えているけど、直接流れに乗っかった感はなかったから紹介しなかった。

 

○エヴァ・キティ……ギリガンの後続の研究者って言った時だいたいこの人の名前浮かんでいたよ。まぁ同系統を2人もまとめる気力はなかった。

 

○ジョナサン・ウルフ……名前だけは何度も出てきたかな。キムリッカと並ぶコーエンのお弟子さんで気鋭の研究者らしいけど、翻訳されているのがノージック批判&入門の本と、政治哲学一般の入門本だけなので。

 

○フリードリヒ・ハイエク……絶対ハイエクいないと今の規範理論ないけど、ミルトン・フリードマンと同じ理由から取り上げてない。彼らはみな「ロールズ以後」という境界線の向こう側なのだ。

 

 だいたいこのくらいかな?今回は比較的頑張った気がする(前年度クソだった分ね)。次もやる余裕があるかわからないけど、もし可能であれば(マーシャル的な意味で)新古典学派系統の経済学か、社会心理学(特に発達)か、分析哲学か、最近流行りの分析美学あたりを攻めたいね。ああ後サライね。

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