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Nussbaum,Martha 2005 『女性と人間開発―潜在能力アプローチ』

『女性と人間開発―潜在能力アプローチ』 2000→2005 マーサ・C・ヌスバウム

 

序章 フェミニズムと国際開発 p.1~39

1,開発と男女の平等

・女性は往々にして目的としての顧慮がなされず、手段として扱われてきた。

・インドのように憲法上は民主主義を謳う国家であっても、女性の平等な顧慮はが実現されていないのが現状である。

 

 

2,ケイパビリティアプローチの概観

・本書はこうした女性が抱える問題を、特に発展途上国におけるそれに注目し、センによって提唱されたケイパビリティアプローチによる方策を考察する。

・またケイパビリティアプローチはロールズの政治的リベラリズムの文脈に位置づけられ、本書の中で「重なり合う合意(overlapping consensus)」によって選択されうることが示される。

→従来的にケイパビリティアプローチは「生活の質(quality of life)の比較検討に用いられてもきたが、この点において本書はそれ以上に普遍的正義原理の確立を志向している。

→・またフェミニズムはロールズによる普遍的正義原理に対して、文化多元主義的論拠からしばしば懐疑的な態度を示してきた。しかし、統一的な正義の構想が文化の多元性と両立可能であることも後に示される。

 

・センによるケイパビリティアプローチの差異として、本書では「ケイパビリティの閾値(threshold level)」という概念が用いられるということがある。これは「このレベル以下では人間の最低限の水準の生活すら達成できない境界線」を意味している。

 

[第1章] ケイパビリティアプローチが文化多元主義と両立可能であることが示される。このことはロールズの政治的リベラリズムを擁護するということを意味している。

[第2章]ケイパビリティアプローチと厚生経済学の対比によって、前者が単に主観主義(個人的な選好の充足)以上の福祉をもたらすことが示される

[第3章]女性の生活において特に重要な領域である宗教についてケイパビリティアプローチの観点から考察される

[第4章]女性の生活において特に重要な領域である家庭についてケイパビリティアプローチの観点から考察される

→本書全体を通してインドの事例が中心に考察されることになるが、インドにおける女性の問題はインド特有のものではなく、先進諸国におけるそれと相似形の問題であり、一般化がある程度まで可能である。

 

3,ケイパビリティアプローチ―センとヌスバウム

・ケイパビリティアプローチはセンによって提唱されたものであり、以下ではセンとヌスバウムのケイパビリティアプローチにおける合意点/相違点をそれぞれ整理しておく。

 

[合意点]

①ケイパビリティの部分的分配

・センがケイパビリティという概念を用いるとき、QOLの比較検討が目的化されている場合が多い。先述の通り、本書ではケイパビリティの概念によって単にQOLの比較ではなく、普遍的正義の構想が本書では志向される点においてセンとは異なっている。

→しかし、センもヌスバウムもケイパビリティが完全に分配可能な財ではなく、部分的に達成されるものであると考える点で共通している。

 

②自由の優先

・センはロールズを援用しつつ、ケイパビリティの内部に辞書的優先性を設けようとする。他方でヌスバウムはケイパビリティ全てが重要な財であり、序列付けは不可能であると考える点でセンとは異なっている。

→しかし、経済的ニーズの充足によっていかなる自由も侵害されてはならないという点で共通している。

 

③ケイパビリティの個人性

・センもヌスバウムもケイパビリティが個々人によって異なっており、政府はこれの分配に際して個々人それぞれを顧慮する必要があると考える点で共通している。

 

 

[相違点]

①ケイパビリティの普遍主義化

・センもヌスバウムも文化相対主義の主張が貧弱であると考える点で共通している。

→しかし、センがケイパビリティアプローチを積極的に普遍化しようと努めようとしなかったのに対し、ヌスバウムはアリストテレスやマルクスによる古典的人間論の文脈に位置づけようと試みる点で異なっている。

→この差異は特にセンが行わなかった「ケイパビリティのリスト化」という作業をヌスバウムが試みていることによって顕在化する。

 

②ケイパビリティの区別

・センはケイパビリティに関連する区別として「達成された成果」/「達成するための自由」、「自由の手段」/「自由の程度」、「福祉の自由」/「エージェンシー」の3つをよく用いる。このうち前2つにヌスバウムは賛同するが、3つめの区別に対しては不当とまではいわないにしても、妥当性は認めていない。

→他方でヌスバウムに特有のケイパビリティの区別として、「基礎的/内的/結合的」というものがある。これは「政治的リベラリズムの擁護-正義の構想における文化相対主義の論駁」を行う際に重要な区別となる。

 

③物語風の記述

・ヌスバウムはセンが行うことなかった物語風の記述を行う。これは次節で具体的に示される。

 

 

4,羽ばたこうとする2人の女性

※本節ではインドに暮らすパシャンディとジャヤンマという2人の女性の生について記述されるが、その詳細は割愛する。

・2人とも憲法という形式上は男性と同等の権利を有しているとされつつも、実際は夫の暴力に苦しめられ、また社会的な自己実現も性別によって制約されている点で共通している。

→ここで重要になってくるのは、従来的な西洋のフェミニストの多くが、こうした途上国における女性の生活・文化形態に関心を払ってこなかった事実であり、一般的な理念からパシャンディとジャヤンマの特殊的事例について解説を試みようとしても、おそらくうまくいかない。

 

 

5,インド―現実ではなく理論上の男女の平等

・こうした生活形態や文化形態に目を向けるためには、まず当該国家の情勢についての適切な理解が不可欠であり、ゆえにここではインドの政治的-社会的情勢を簡潔に整理する。

 

①概観

・古来より保たれているカースト制度による階級的多元性、また広大な領土に伴う宗教的多元性、言語的多元性など様々な多元性を内包した国家であり、こうした国家は国際的に見ても稀有である。

 

②法

[憲法]先進国家(特にアメリカ)に倣った憲法であり、性別やカーストによる一切の不平等を認めていない。

[刑法]イギリス占領化時代の名残を残したものであり、性暴力に対する罰則強化は達成された一方、「女性の過去の性的経験の加味」といった旧態依然とした特徴を有している。

[民法]統一的民法は存在せず、ヒンドゥー教やイスラーム教、キリスト教などによって適用される法が異なる。

 

③男女の格差

[教育]地域差があるが、インド全体における男女の識字率は、男性が64%/女性が39%だった(1991年当時)。

[労働]児童労働がインド全土で広く観察され、早いと5~6歳から子どもは働き始める。→しかし、基本的にどこの家庭でも男児の教育機会が優先されるため、必然的に女児の方が労働に従事する比率が高くなる。

[暴力]DVやレイプといった暴力の実際の件数は不明瞭だが、かなりの数起こっていると予想され、また公権力の介入もいまだ不十分である。

 

 

6,同じということ、違うということ

・こうした途上国における男女平等の達成を促す普遍主義的アプローチは、従来的に「西洋的文化を正当とし、途上国の文化が誤っており矯正されるべきものと考えるもの」と「各人は合理的な判断に基づき、共通の選好を志向すると考えるもの」の2つがあった。

→前者は明らかにエスノセントリズムに陥っているし、後者は功利主義のジレンマに陥っている(合理的経済人という想定は不可能である)。

・そうではなく本書がこれから提示していくように、男女格差を是正するために必要なケイパビリティの充足と、それを道徳的に義務化する統一的な正義原理の構想によってこの問題は考えられなければならない。

 

 

【メモと批判】

・あんまヌスバウムはフェミニズム感ないな。

→ともすれば(統一的な正義の構想=ケイパビリティのリスト化が可能であると想定している点において)センよりもよっぽど「男性的」なのではなかろうか(ギリガンのいうような「ケアの倫理」とは対極の立場)

・また政治的リベラリズムを擁護している点において、コミュニタリアニズムやマルチカルチュアリズムとの衝突も不可避だね。

 

 

第1章 普遍的価値の擁護のために p.41~132

1,文化を超えた規範を求めて

・往々にして国際的フェミニズムは統一的な正義の構想を掲げる規範理論を、国際的文化の多元性を無視したものであるとして批判してきた。

→特に規範理論を構成したのが近代において抑圧を続けてきた国家(アメリカやイギリス)であり、規範理論が適用される国家が被抑圧国家(インドなど)であった場合、このことは深刻な問題になりえる。

・しかし、例えばインドに対する規範理論の適用が西洋的価値の押し付けであるとして批判されるのは的を外している。

→少なくともインドは近代以前から権利や機会の平等の重要性を認めていた国家であり、規範理論は西洋的価値として受容されないため。

・むしろ問題化されるべきは、規範理論の枠組みが諸国家の文化的伝統と相容れるか否かということであり、この挑戦については次節で詳細に検討する。

 

 

2,三つの議論―文化、多様性、パターナリズム

・規範理論の枠組みと文化的伝統の差異についての問題は以下の3つの議論に収斂することができる。

 

①文化の議論

・例えばイスラーム教やヒンドゥー教、儒教の教えでは、女性は配偶者に尽くし、純潔や従順さが保持されなければならないという規範が強烈に作用している。こうした規範を頭ごなしに「誤っている」として、規範理論を正当化することは出来ないだろう。

→この批判は「当該国家の女性たちの意識」と「文化の流動性」の2点から論駁される。

・少なくともインドでも中国でもこうした規範への迎合を拒否する女性は一定数おり(現にパサンディもジャヤンマも拒否していた)、夫への従属が「インド文化」として一般化することはできない。

・また往々にして途上国の規範は伝統的なものであると見なされがちであるが、そもそもとして文化は流動的なものであり、現にインドでも変化している。

 

・他方で文化相対主義による文化的多元性の擁護は以下の2点から失敗する。

ⅰ)インターネット等の情報メディアの発達により、西洋的とされた規範であっても、すでに途上国の多くに浸透しており、ゆえに規範理論的規範はインド「内部」の規範になっている。

ⅱ)文化相対主義はあらゆる文化を横並びにするが、ローカルで伝統的な文化は往々にして原理主義的であり、これを擁護することは相対主義と矛盾する。

 

②多様性からの議論

・多様性からの議論は「多様性に内在的価値を認める主張」と「普遍的正義をアメリカ的正義と見なし反対する主張」の2つがある。

→後者は普遍的正義の構想それ自体に反対しているわけではないので、取り合う必要があるのは前者である。

・しかし、「女性への不公正な顧慮」を文化的な多様性として許容すべき対象とするのは本末転倒ではないだろうか。

→むしろ女性の社会的実現を促すほうがより高度の多様性を実現しており、けっきょくそのためには普遍的正義が不可欠であることになる。

 

③パターナリズムからの議論

・ある価値を正義として特権化し、義務として扱うのは、各人の善の構想をないがしろにしている点でパターナリズム的であるのではないだろうか。

→この批判は重要であり、2章でより詳細に取り上げられる。

 

・しかし、この議論はロールズのいう「政治的リベラリズム」の立場を擁護することによって克服可能であり、具体的には以下の論拠が挙げられる。

→各人が自由に包括的教説を信仰することそれ自体が普遍的正義の構想によって保障されるべきであるとされ、換言すれば特定の包括的教説が他の教説を信仰する自由を侵害するような事態においてのみ、正義の構想は強制力を発揮する。

→さらにいえば、普遍的正義の構想によって目指されているのは、個人の自由な目的志向の保障に他ならず、ゆえに従来的なフェミニストやコミュニタリアンからの批判は上滑りしていることになる。

 

 

3,標準的経済的アプローチの欠点

・2節での議論を整理すると、

①「文化の議論」は当該国家の被抑圧階層の意識と文化のダイナミズムという論拠よって、

②「多様性の議論」は正義が多様性をむしろ促進するものであるという論拠によって、

③「パターナリズムの議論」は正義が諸個人による善の追及と両立可能であり(政治的リベラリズム)、むしろ個人の自由を擁護するという論拠によって、

それぞれ論駁された。

→むしろこれらの擁護には普遍的正義の構想が不可欠である。

 

・本節では、こうした普遍的正義の構想を達成するための3つの従来的なアプローチを検討し、これらの抱える欠点が示される。

①所得の分配(達成された「成果」によるアプローチ)

・従来的に途上国の不平等は一人あたりのGNPを尺度として測定されてきた。

→しかし、これは経済的資産以外の平等(ジェンダー、宗教、民族、階級など)については無自覚であり、ゆえに不十分である。

 

②効用の最大化(達成された「成果」によるアプローチ)

・功利主義は平等を効用の最大化によって達成しようと試みる。

→しかし、「最大多数の最大幸福」というスローガンに顕著なように、マイノリティの求める社会的財(宗教や民族的諸価値の擁護)の不平等は解消されない。また効用になりえる個々人の選好が正確な情報に準拠しているか否かということを測定する術もない。

 

③基本財(primal goods)の分配(達成するための「自由」の「手段」によるアプローチ)

・ロールズは①所得や②効用の欠点を解消するために、むしろそれらの「成果」を獲得するために不可欠な「自由の手段」の分配に焦点をあて、これを基本善としてリスト化した。

→しかしながら、こうした基本善を運用する能力は個々人によって異なっているため(例えば身体障害を持つ者と健常者では同等の基本善の分配が達成されても平等とはいえない)、基本善の保障だけでは資質における部分での平等は達成されない。

→この3つの従来的なアプローチが抱える欠点を克服するのがケイパビリティアプローチであり、次節で詳細を検討する。

 

 

4,人間の中心的ケイパビリティ

・ロールズの基本善が「成果」を達成するための「自由」の「手段」であったのに対し(「パサンティはどれほど資源を自由に使えるか」)/ケイパビリティは「自由」の「程度」つまり自由それ自体を意味する(「パサンディは実際に何をすることができ、どのような状態になれるか」)。

 

・ケイパビリティは具体的に以下の2つの政治的要件となりえる。

①不平等は個々人のケイパビリティを尺度とする

②政府が保証すべきはケイパビリティの基本的水準である

→さらにこれは以下の2つの直観的な論拠に依拠する。

ⅰ)特定の機能が達成されているか否かということによって、個々人のケイパビリティを測定することが可能である。

ⅱ)アリストテレス-マルクスが擁護した「人間の尊厳」を保持するために、ケイパビリティの保障は不可欠である

→この2点を論拠として「ケイパビリティのリスト」と「ケイパビリティの閾値測定」の必要性が生じる。以下ではケイパビリティのリストが提示されるが、これは完全な正義を達成するものではなく、あくまで部分的正義の実現を目指すものである(リスト以外のケイパビリティに価値が認められるかもしれないし、あるいはリストにあるケイパビリティが拒絶されるかもしれないがそれも正当である)。

 

[人間の中心的な機能的ケイパビリティ]

①生命

②身体的健康

③身体的保全―自由に移動でき、またいかなる不当な身体的拘束、暴力が拒否できること。

④感覚・想像力・思考―これらの能力を使うことができ、また芸術や政治といった人間的営為に想像力を働かせることができること。

⑤感情―愛情や怒りを正しく表出できること。

⑥実践理性―善き生活や人生の目的を自由に構想できること。

⑦連帯―A他の人々との協働が可能であり、かつ特別な関係性も保持できるということ/Bこうした包括的教説の追及によっていかなる差別も被らないこと。

⑧自然との共生

⑨遊び

⑩環境のコントロール―A政治的 政治的自己決定権が保証されること/B物質的 外的資産に対する権限を平等に保障されること。

→以下でいくつかこのリストの留意点を整理する。

・まずリスト化されたケイパビリティはそれぞれ独立した個々の要素であり、そのいずれかが蔑ろにされても「ケイパビリティの閾値」以下に引き下げられたことになる。他方で、これらはそれぞれ関連しあっており、このこともいずれのケイパビリティも蔑ろにされてはならない論拠の一つである。

→例えば「⑥実践理性」と「⑦連帯」は他のケイパビリティを保障するために重要な要素である。しかし、このことは「実践理性」と「連帯」が他のケイパビリティに対して優位にあるということを意味しない。

・リストの中にはロールズが「運によってその獲得が左右される財」―「自然的財」も含まれている。例えば「⑤感情」などは、個々人の埋め込まれた環境に極めて依存的だろう。自然的財としてのケイパビリティは単純な制御が困難かもしれない。

・ケイパビリティの保障は純粋な道徳的義務であり、ゆえに「残虐性の自由」といった倫理的直観に反するものはリストに含まれない。

 

 

 

・次にケイパビリティをその特性によって3つに区分する。

ⅰ)基礎的ケイパビリティ

・他のケイパビリティを達成するために不可欠なより根源的ケイパビリティ。例えば身体の自由や生命の保障、また実践理性もこれに含まれる。

→子ども段階で行使することができるケイパビリティであると理解すればよい

 

ⅱ)内的ケイパビリティ

・より成熟したケイパビリティ。他者に愛情を抱いたり、性的快楽を享受したり、特定の思想や宗教といった包括的教説に価値を認めたりといったケイパビリティがこれに含まれる。

→成熟した人が行使できるケイパビリティのこと

 

ⅲ)結合的ケイパビリティ

・内的ケイパビリティが機能として顕在化するための外的な条件のこと。例えば、ある人が宗教を信仰する能力を持っていたとしても(内的ケイパビリティ)/信仰の自由が認められていなければ機能として達成されたことにはならない(結合的ケイパビリティ)

→ただし両者の境界線は茫漠としており、多くの場合では結合的ケイパビリティが保障されているのであれば、内的ケイパビリティも保障されていることになる。

 

 

5,機能とケイパビリティ

・機能/ケイパビリティの区別は、ロールズによる「政治的リベラリズム」―「穏当な多元性の事実」の擁護や、多元主義やパターナリズムへ回答をする上で決定的に重要になってくる。

→「政治的リベラリズム」の達成のために原則的に政治的目標はケイパビリティに限定されるべきであり/特定の機能が目標とされると完成主義的な性格を帯びてしまうため。

・しかしいくつかの例外も想定することができる。

①子どもに対する機能

・成熟した人のケイパビリティを保持するためには、子どもの段階で特定の機能が保障されていなければならない。

→子どもの選択を考慮せずに、基礎的機能としての健康や情緒的安定、身体的安全が保障されなければ、将来的にケイパビリティを獲得することはできないだろう(極論、子どもの段階で重篤な病気や障害を負ったら元も子もない)。

 

②大人における基礎的機能

・大人であっても当人の選択如何に関わらずケイパビリティではなくて機能が優先されなければならない場合もある。

→例えば健康や尊厳といった機能が保障されなければ、ケイパビリティの議論そのものが不可能であると考えられる。

 

③ケイパビリティがケイパビリティによって放棄される場合

・ケイパビリティが選択可能性の幅を保障するものである以上、その選択可能性によってケイパビリティの放棄を選択する人が出てくるかもしれない(カルト宗教への傾倒、自発的な奴隷化、自殺)。

→「ケイパビリティの放棄」は、ある程度まで個人の自由として認められるが、その「ある程度」というのは普遍化できるものではなく、それぞれの国家における民主的プロセスに委ねられるべきである。この点において先述の通り、ケイパビリティアプローチは完全な正義原理ではなく、部分的正義原理である。

 

 

6,ケイパビリティと人権

・権利とケイパビリティは非常に近しい概念であり、実際にセンも政治的権利とケイパビリティの類似性を認めている。

→権利は茫漠とした概念であり、厳密な定義が存在しない。ケイパビリティの文脈においては「結合的ケイパビリティ」として理解されるのが適切だろう。また権利の概念は西洋的文脈に位置づけられがちであるため(実際は違うが)、そうではないケイパビリティに注目することは戦略的にも合理的である。

→ただし、公的な議論の場ではケイパビリティよりも権利の方に有意性が認められる以下の4つの場合を想定できる。

①本書のように倫理的な議論を展開せずとも、権利という概念によって直観的に基礎的ケイパビリティの必要性を訴えることができる。

②権利というレトリックにより、国家によって保障されるべき機能のリストの性急性が強調することができる。

③ケイパビリティが個人の選択の自由を強調する概念であるのに対し、権利は個人のより積極的な自律性強調するのに機能的である。

④ケイパビリティや効用や基本財といったいまだにその内容が練り上げられている途上の財に対し、「権利の保障」といえば十分な含意があると受容される。

 

 

7,正当化と履行―民主政治

・ケイパビリティアプローチが政治的目標として正当化されうるためには、ちょうどロールズの「公正としての正義」がそうであるように、他の包括的教説との十分な比較検討がなされなければならない。

→これはまさにロールズのいうところの「反省的均衡(refractive equilibrium)」の第一段階であるといえる。1章ではケイパビリティアプローチと競合する諸分配規則(所得、効用、基本財)や文化相対主義や多元性、パターナリズムからの批判などとの比較検討が行われた。続く2章では、さらに一歩進め主観的厚生主義との比較がなされる。

・本章の目的は普遍的正義としてのケイパビリティを正当化することにあり、それへの批判の回答は以下の5点から成っていた整理することができる。

①多元的な実現性―ケイパビリティは個人の自由を矯正するものではなく、むしろ保障するものである

②目標としてのケイパビリティ―政治的目標は機能ではなくケイパビリティに注目することで完成主義的な性格を回避できる。

③自由と実践理性―ケイパビリティのリストにある実践理性の項目によって、人々は政治的自由が保障されることが含意される

④政治的リベラリズム―このアプローチは諸包括的教説における反省的均衡の過程を通して、「重なり合うコンセンサス(overlapping consensus)」に到達する。

⑤履行の制約―ケイパビリティアプローチの履行については当該国家によって任される部分が多く、この点で部分的正義の原理ではあるが、これがあまりに無視される場合は、他国や国際機関によって説得、場合によっては経済的制裁が加えられる。

 

 

8,女性の生におけるケイパビリティ―公共活動における役割

・パサンディとジャヤンマにおける例は両者それぞれ異なりつつも、少なくとも先のケイパビリティのリストが保障されることによって、いくぶんか生活がましになるのは間違いないだろう。

→彼女らは間違いなく社会的不平等に直面していると感じており、ゆえに伝統的な家父長制に対して不満を持っていたと見なすことができる。

 

 

【メモと批判】

・ヌスバウムは(センもだけど)正義の構想としてのケイパビリティアプローチの正当化を「反省的均衡」の段階から行っている。

→ドゥウォーキンによれば、ロールズの「公正としての正義」は①原初状態②契約論③反省的均衡の3つのステップから正当化されなければならない。

→というわけでヌスバウムは①原初状態と②契約論の段階における論拠を提示しなければならない(ちなみにドゥウォーキンは①原初状態の時点で、ロールズと同様「自由で平等な人格」というトートロジカルな想定をしており、正当化に失敗していた。)

 

第2章 適応的な選好と女性に対する選択肢 p.134~202

1,選好と生活のよさ――不満足なふたつの極端な立場

・1章で提示されたケイパビリティのリストは世界中の多くの女性に保障されていないものである一方、そもそも彼女たちの選好にはないもの(例えば実践理性など)も含まれており、その点である意味パターナリズム的な性格を有しているという批判は間逃れない。

→しかし、マルクスやカント、ミル、ロールズといったリベラルが指摘してきたように選好は簡単にその埋め込まれた状況によって歪められるものであり、そのためこれを政治的目標にするのは問題がある。

→例えばインドのアンドラプデシュ州の女性たちは政府による自己発見プログラムが導入されるまで、自身の不当な扱いに対して異議申し立てをするどころか、そもそも怒りの感情すら持っていなかった。これは「矮小化された選好」の好例である。

 

・選好に対する極端な立場としては以下の2つを挙げることができる。

①主観厚生主義

・あらゆる選好は全て等価であり、社会的目標はこれらの集計によって規定されなければならない。

②プラトン主義

・人の選好は全て誤っており、それらを超越した客観的価値尺度が設けられる必要性があるとする。

→前者は「誤った選好」もすべて効用計算に算入するため「矮小化された選好」を退けることができない/後者はジャヤンマやパサンディといった女性たちの自発的な意思を無視することになる ゆえに両者とも不当である。

・しかし、前者の主観厚生主義は未だに支持者がおり、ゆえに本章では

①まず功利主義による主観構成主義の論駁とその刷新が示され、

②次に功利主義が「歪められた選好」に注目で着ないという論拠から功利主義の反証が行われ、

③最後にこれらの諸問題に対して中心的ケイパビリティの概念による回答が提示される。

→③では選好に対して願望という概念が提示され、「主観的善」としての願望と「公正としての正義」としての規範の両者と収斂することが示される。

 

 

2,選好概念に関する問題点

・選好という概念は論者によってまちまちであり、以下では2つ取り上げて確認する。

①ポール・サミュエルソンの選好

・選好は行為によって初めて顕在化するものであり、ゆえに行為と選好はほぼ同義である。

→これは潜在的な選好を完全に無視しており、またその選択が準拠していた行為の外部にある価値にも注目されなければならない。

②センとベッカーによる選好

・選好とは実際の選択の背後にあるものであり、心理的実体を有する。また願望とは選好の部分集合である。

→①サミュエルソンによる定義よりも妥当であるが、「選択を規定する選好以外の心理的営み」である意図、信念、知覚、本能、感情、傾向といった伝統的な概念が無視されることになる。

→主観構成主義の明らかな欠点はこうした複雑な心理的事象としての選好を捉えることができないということである。特に先述のような「歪められた選好」といった社会的条件からの影響に全く無自覚なのである。

 

 

3,厚生主義―内的批判

・主観厚生主義は経済学が規範的問題を考察するときにしばしば採用される立場であるが、先述のように選好的アプローチをとるためいくつかの根源的問題を抱えている。本節では厚生主義内部における選好的アプローチへの批判と、それを回避するために提示された方策について検討する。

・フリードマンやボークといった厚生主義者が認めているように、経済学の理論は立脚するべき規範的判断を設定せぬまま分配についての議論を進めており、それによって選好の問題が生じている。

→特に先述のように「歪められた選好」や「矮小化された選好」を考察するときにこうした問題が表面化する。

 

・ハーサニーはこうした「歪められた選好」を回避する手立てとして、正確な情報に基づいた合理的選好―「真の選好」と、そうではない非合理的選好を区別し、最大化されるべき効用は前者に求められると主張した。

→しかし、例えばパサンディやジャヤンマといった合理的選択を行う心的状態が保障されていない人々を想像するのは容易である。また、選好が社会的に構成される以上、どの選好が本当に「真の」ものであるかは規定できない。

 

・プラントは認知心理療法によってこうした「歪められた選好」は当事者によって認識され克服できると主張する。

→しかし、プラントが「失恋による自殺は不合理である」といった言明をするとき、それは少なくとも規範的な判断を行っており、ゆえに規範や価値を退けて、選好を測定する客観的水準を打ち立てるという企ては失敗している。

 

・センやアローが定式化しているように、規範的判断を退ける厚生主義によっては選好の問題を回避することができず、ゆえに公共政策の基盤としての厚生主義は不十分である。

 

 

4,適応的選好と厚生主義の拒否

・次に選好的アプローチ-厚生主義に対するいくつかの批判を整理する。

 

①適切な手続きからの議論

・ハーバーマス(討議倫理)やロールズ(反省的均衡)などがその筆頭として挙げられる、特定の選好が社会的規範として選択されうるプロセスを手続き的に記述するスタイルでも、特定の義務論に倫理的価値を認めている。このことは客観的水準から公共政策を正当化する厚生主義とは相容れない。

 

②適応からの議論

・エルスターは選好を「適応型選好」/「自律型選好」の2つに区別した。前者が「酸っぱい葡萄」の逸話に象徴されるような、「実現不可能な目的に対する妥協としての選好」であると定義されるのに対し、後者は努力と憧れによって達成される選好である。

→この定義は明らかに限定的であり、「実現不可能かもしれない夢を抱く」といった自由は無視されてしまう。

・センも同様に「適応型選好」という概念を提示しているが、この定義は抑圧によって「歪められた選好」や「矮小化された選好」なども含んでいる。これはジャヤンマやパサンディといった女性たちの選好を考える上でも有用である。

・ミルはさらに、男性が女性に対して抑圧を行うとき、単に君主が奴隷に服従を誓わせる以上のこと、つまり「自発的な服従」を望んでいると指摘している。

→いずれにせよ、厚生主義における選好のアプローチからは、こうした適応型の選好の問題は回避できないのである。

 

③制度からの議論

・選好を自明のものとし、それに対する構成主義的眼差しが欠如した選好アプローチは制度による適応型選好の構成に対して無自覚である。

・選好が社会的に構成されるという事実は、国家が特定の制度を決定することによって各人の選好が規定されうるということを意味する。つまりハーサニーやプラントの厚生主義的アプローチそのものが選好を決定してしまうのである。

 

④固有の価値からの議論

・あるケイパビリティが実際に望まれているかいないかということももちろん問題化されるべきではあるが、それ以上にケイパビリティが欠如していることそれ自体が問題なのであり、厚生主義が仮に特定の規範を支持したとしても、選好を中心にアプローチをかける以上この問題は無視されることになる(望む/望まないは問題化できない)。

→つまり「特定の規範を支持すること」と「特定の願望(選好的アプローチと区別するため願望とする)に注目すること」は別個の問題系であり、ゆえに両立可能なのである。

→先述の通り、次節では正義原理(ヌスバウムにとってはケイパビリティの分配的正義)と主観的善としての願望が収斂することが示される。

 

 

5,願望と正当化

・1章で示されたように、ケイパビリティアプローチは文化多元主義による批判を退けるどころか、むしろ特定の正義原理の擁護によってこそ穏当な多元性の事実を許容することが可能になるのであった。

→本章ではさらに、重なり合う合意へ歩を進め、選好アプローチによっては規範理論を適切な形で練り上げられないこと、他方で選好の一部を構成する願望はケイパビリティ的正義を正当化する上で重要な役割を果たしていると主張された。

 

・願望は反省的均衡のプロセス、つまり正義の正当化のプロセスにおいて以下の2つの役割を果たす。

①認識に関する役割

・ある願望が正確な情報に基づく、つまり正確な認識であるのであれば、それはおそらく特定の正義構想を志向し、そのとき志向される原理こそがケイパビリティアプローチであるはずである。

 

②補助的役割

・ケイパビリティのリストは不当な扱いを受ける女性たちによって望まれているものであり、彼女たちに一度これらのケイパビリティが保障されれば、彼女たちは元の生活に戻りたいとは言わないであろう。つまり、願望によってケイパビリティの安定性が正当化される。

→ただし、ケイパビリティアプローチは部分的正義原理であるため、彼女たちがケイパビリティを放棄したいと望むのであれば、それも許容されなければならず、むしろこうした選択の幅を残すことこそがケイパビリティの本懐である。

 

・また1章で述べられたよう、政治的目標は機能の充足ではなく/ケイパビリティの充足に向けられなければならなかった。

→これが「実際の選択/潜在的な願望」を区別する最大の理由である(機能が選択に対応し、ケイパビリティは先述の通り願望に対応する)。

・また願望は選好の一部分である以上「歪められ」たり、「矮小化され」たりする可能性を孕んでいる。

→しかし、人の選好-願望はどこまでも適応的ではない。例えば、飢えや身体的自由、安全に対する願望は人が生物である以上、文化的な圧力によって鈍らせることはできても、完全に除外することはできないはずである。そして、ケイパビリティのリストはこうした文化的に鈍らせることができない本質的願望に準拠したケイパビリティによって構成されている。

 

・以下ではさらにケイパビリティのリストに対する主要な批判に回答する。

 

①外的資産に対する自己所有権(「⑩環境コントロール」のB)

・これを擁護することはリバタリアン的立場に回帰するわけではない。仮に女性が外的資産を正当に所有できない場合には、パタン付き配分が公共政策として施行されるかもしれない。

 

②自然との共生

・自然と共生することは、他のケイパビリティの項目と比べると文化的な影響をより受けやすい。例えば何らかの宗教的理由から、動物を嫌悪するといった選好が個々人に形成されるかもしれない。しかし、何度も述べられているよう、ケイパビリティアプローチは完全な道徳原理ではなく、この項目は動物愛護といった義務を決定付けるものではない。

 

③願望とケイパビリティ

・1章で述べられたよう、政治目標として設定されるべきは機能ではなく、そのために必要な自由の程度であるケイパビリティだった。他方で、本章では情報に基づいて適切に構成された願望のみが、正義の構想における反省的均衡のプロセスで尊重されるべきであるとした。このことはパターナリズムへの逆行を意味するのだろうか。

→願望が仮に歪められたり、矮小化されたりしていたとしても、ケイパビリティはその選択の幅を保障するものであって、選択そのものを保障するものではない。ゆえに、仮にある人が宗教の選択権を望まなくとも、ケイパビリティアプローチから見ればそれもまた自由であり、パターナリズムは回避されている。

 

 

6,政治的安定性と習慣の深さ

・何度も確認されたように、適応的選好はケイパビリティのリストを脅かすようなことはない。

→「十分な情報に基づく願望」は確実に正義の構想と最終的には収斂する(「重なり合うコンセンサス」に到達する)のであり、政治的安定性も適応的選好によって危機に瀕することはない。しかし伝統的な習慣によって形成された選好は、短期的に見ればケイパビリティを支持しない場合もあるかもしれない。

 

 

【メモと批判】

・ヌスバウムはけっきょく功利主義と同様のアポリアに陥っている。

→功利主義でもこの適応的選好の問題を回避するために、(ヌスバウムが「情報に基づいた願望」を最終的には正義の構想と収斂するとしたように)「情報に基づいた選好」を最大化するべき効用として設定する(Kymlikca)。

→しかし、そもそも「正確な情報」の尺度に客観的明証性が与えられるものではなく、ゆえにある選好なり願望が正確か否かという判定はできない。

 

・これに伴って、ケイパビリティアプローチが選択の可能性を保障すると主張できても、それを志向する「正しい」願望があると想定している点において、部分的には完成主義的でありパターナリズム的であると批判できる。

 

 

 

第3章 宗教の役割 p.203~284

1,信仰の自由と男女の平等―ひとつのジレンマ

・現代の民主主義的な政体において、「信仰の自由」と「男女の平等」は共に尊重されるべき重要な権利であるとされる。

→しかし、えてして伝統的な宗教的教説は家父長制に迎合的であり、ここに民主主義はジレンマを抱えることになる(前者の尊重は後者を侵害し、後者の尊重は前者を侵害する)。

・実際、法的事例としても女性の訴えが通ることもあれば、宗教が勝利することもある。

 

 

2,世俗的人道主義と伝統主義者

・こうしたジレンマに対して、双極に位置する二つの立場が存在する。

①世俗的人道主義的フェミニスト

・宗教を家父長的な権力と見なし、それよりも女性の社会的実現の方がはるかに重要であると考える。フェミニズム的な教説を宗教的教説より優位に設定している点において、包括的リベラリズムであるといえ、多くの場合マルフェミである。

 

②伝統主義的フェミニズム

・宗教的、伝統的教説こそが諸徳の源泉であり、男女の平等よりも優先されるべきであると考える。この立場はコミュニタリアニズムとマルチカルチュアリズムからなり、前者が共通善としての宗教に価値を認めるのに対し、後者は男女平等を訴える統一的正義の構想に懐疑的である(そして後者は1章で徹底的に批判された)。

→以下では両立場が抱える問題を順に確認していく。

 

①世俗的人道主義

[政治的戦略上の誤り]

・宗教的教説よりもフェミニズム的教説を優位であるとすることによって、宗教的教説に価値を認める人々から確実に反感を買うことになる(穏当な多元性の事実をないがしろにしている)。

→さらに、これによって宗教的なフェミニズム(宗教的倫理によって男女の平等を正当化する立場)との連帯を不可能にしており、これも戦略上、合理的であるといえない。

[より根源的なレベルでの誤り]

ⅰ)宗教的ケイパビリティからの議論

・ケイパビリティのリストにおいて、宗教的ケイパビリティは「③感覚・想像力・思考」に含まれた。これは宗教だけが特権的に人生に意味を与えてくれる教説ではないため、含意という形式でリストに提示されたのではあるが、しかしそれでも宗教は特定の人々の精神生活や知的表現、芸術表現にとって重要なものであり、ゆえに宗教を退けるということは、それらをないがしろにすることに他ならない。

ⅱ)アイデンティティの源泉としての宗教

・「宗教的教説によって人生の意味は規定されない」という世俗的人道主義の主張は、特定の教説よりも自らの教説を特権化する包括的リベラリズムの一形態であり、宗教が一部の人々のアイデンティティの源泉となっている事実を見落としている。

ⅲ)宗教内部の文化的多様性

・1章で述べられたように、ある文化は固定的なものではなく、むしろダイナミックなものである。宗教も同様であり、先述の通り、宗教的なフェミニズムが存在することからも、「宗教は家父長的である」という主張そのものが事実認識として誤っている。

 

②伝統主義的フェミニズム

・興味深いことに、伝統主義の主張は世俗的人道主義と真っ向から対立するものであるのにもかかわらず、世俗的人道主義と同様の過ちを犯している。

→伝統主義は宗教内部の教説を優先して尊重すべき共通善として捉えるが、その教説のダイナミズムや多様性に対しては無頓着である。

・また仮に宗教が内包する家父長的要素を取り除いたとしても、多くの場合で宗教的教説の価値を保護することができるという事実も見落としている。

 

 

3,私たちを導くふたつの原理

・こうしたジレンマと正確に向き合うのであれば、ジレンマをはっきりジレンマとして認識しなければならない(女性の権利/宗教的教説のどちらかを特権的に扱う立場には懐疑的にならざるを得ない)。

→宗教と女性の権利をめぐる問題を考える上で、以下の2つの原理を想定しておくことは有効である。

①ひとりひとりを目的とする原理

・1章で述べられたよう、ケイパビリティは少なくとも第一義的にはグループの利益ではなく、個人の利益として定義されなければならない。

→諸個人のケイパビリティを損なうような宗教的教説(例えば保守的なイスラーム勢力による女性の抑圧など)は許容されてはならない。

 

②道徳的制約の原理

・少なくとも世界の主要な宗教とは(それぞれの教えは異なっていても)倫理的な教説であるということができ、ゆえに反社会的な教説を有する宗教は真の意味で宗教であると見なされない。

→個人の中心的ケイパビリティを侵害するような教えは反倫理的であり、ゆえに宗教であると見なすことはできないことになる。

→また先述の通り、宗教は流動的なものであり、かつて家父長制度に迎合的だった教説が、時代の移ろいと共に変化することはありえるし、またこのことは宗教が個々人の人生で中心的価値を担うという事実を否定するわけでもない(教義が変化しようとも宗教的本質は損なわれない)。

 

 

4,政府の重大な関心事としての中心的ケイパビリティ

・本章のここまでで提示された論点を整理すると、以下の3点に集約できる。

①宗教は「一人ひとりを目的とする原理」を有する必要がある

→宗教的ケイパビリティの許容が個々人のケイパビリティを損なってはならない

②宗教は「道徳的制約の原理」を有する

→宗教的教説は倫理的である必要があり、そうでないものは宗教の名に値しない

③宗教内部の多様性や流動性を見落としてはならない

→極端に共通善としての宗教に肩入れする伝統主義的フェミニズム/極端に女性の権利の必要性を訴える世俗的人道主義的フェミニズムはともにこれに無頓着だった

→ではこれらの3点を全て叶える政治的決定はどのようなものになるだろうか。

 

・93年にRFRAが信仰と政治的決定をめぐる判決において定式化したように、特定の宗教的教説に対して国家の寛容さが発揮されるのは、その教説が「政府の重大な関心ごと」を侵害しない限りである。さらにヌスバウムはこの「政府の重大な関心ごと」を個々人の中心的ケイパビリティの保護と定義する。

→つまり、宗教に対するアプローチとしては以下の2点に整理される。

①国家は宗教に対して、それが「政府の重大な関心ごと」を侵害しない限り、寛容でなければならない。

②「重大な関心ごと」とは個々人の中心的ケイパビリティの保障である。

→この2点は本章で述べられていた2つの原理および、宗教内部の多様性や流動性への注目という3点の全てを実現している。また換言すれば、ある宗教の教義が男女の間に不当なケイパビリティの配分を許容するとき、政府はその宗教を公的に制約してもよい。

 

 

5,非宗教、国境樹立禁止条項、バランス

・「政府の重大な関心ごと―中心的ケイパビリティの保護を侵害しない限り、宗教的自由は認められる」ということであったが、この寛容さはすぐに3つの問題に突き当たる。

①非宗教に対する寛容の問題

・宗教以外の教説(個人的探求や芸術活動)であっても、人生に意味は与えることができ、宗教と同程度の機能を果たすかもしれない。このとき、非宗教にはどの程度の政治的寛容が認められなければならないだろうか。この問いは、以下の2つから構成される。

ⅰ)理論的道徳的問題

・政治的リベラリズムは、特定の包括的教説を特権的に扱ってはならず、むしろ全ての善の構想を平等に顧慮しなければならない(その上で政治的道徳としての正義が「合意」される)。ゆえに、非宗教にも宗教と同じ程度の寛容さが認められなければならない。

ⅱ)実践的問題

・宗教は体系だった教説を持っており、個々人の人生に意味を与えることが最初から意図されている。他方で、非宗教は往々にしてこうした包括的な意味内容を持たず、個々人の判断に委ねられる場合が多い。

・また例えばX氏の人生において本当に「マーラーを聴きながら、大麻を吸うこと」が意味のある行為であったとしても、それを他人の中心的ケイパビリティを侵害しないからとして認めたら、法は間違いなく形骸化する。

 

②国境樹立禁止の問題

・アメリカの場合、国境樹立を禁止することによって、宗教的ケイパビリティを保障していた。しかし、インドの場合はヒンドゥー教を国教として定めており、ゆえに宗教的ケイパビリティが保障されていないように思える。

→しかし、特定の宗教を国教とした体制であっても、他の宗教に同程度の権限ないしは、差別的でない独自の法体系を適用することによって、(実際にインドがそうであるよう)宗教的多元性を保持することは可能である。

 

③ケイパビリティ間のバランスの問題

・1章で確認されたよう、ケイパビリティのリストの間はこれ以上序列付けすることができないものではあるが、特定のケイパビリティを保障することによって、他のケイパビリティが侵害されるという場合も想定することができる。

→例えば、よく引き合いに出されるアーミッシュの事例では、教育のケイパビリティを保障することがアーミッシュの教説と相容れず、ゆえに宗教のケイパビリティを侵害することになってしまった。

・しかし、次節で述べられるよう、教育のケイパビリティを保障したことが、宗教のケイパビリティを閾値以下まで下げることにはつながらない。

 

 

6,応用―三つのケース

・これらの3つの問題を考察するに当たり、まずは宗教によって異なる独自の個別法体系があるという問題から考える必要がある。

→1章で述べられたよう、インドでは各宗教に個別の法体系が認められており、このことは統一的民法よりも個々の宗教的伝統に対して寛大さが認められていることの証左となりえる。他方で、以下のような問題点も挙げられる。

ⅰ)法典が多数あることが個別法体系を混沌とさせる

ⅱ)宗教間でケイパビリティの顧慮が不平等なものになるかもしれない(例えばイスラームよりもヒンドゥーの財産法が有利であるかもしれない)。

ⅲ)個別法に対して不満があったとしても、改宗することも、無神教者になることもできない。

ⅳ)個別であるがゆえに、一度にすべての法体系を変更させることはできない。しかし、あるひとつの宗教における法体系が先に何らかのケイパビリティを保障したのであれば、その宗教にだけ特権を認めていることになり、当該宗教以外からの異議申し立ては不可避である(そしてこの問題は実際にインドでヒンドゥー教の法体系の変更によって起こった)。

→とりわけこの問題の中で最も重要なのはⅳ番目の問題である。

・先述の通り、個別的法体系は入り組んでおり、その改正は必然的に特定の宗教が先立って行われることになるため、ある宗教が特権的に扱われることになる。

→しかし、そもそも中心的ケイパビリティが保護されていないという問題は、個別的法体系から考えるものではなく、統一民法によって解決されなければならない。ゆえに、宗教的多元性は個別的法体系の保持によって許容しつつも、「国家の重要な関心ごと」すなわち中心的ケイパビリティの保障は統一法によって扱われる必要がある。

 

 

7,子どもと親

・しばしば子どもと家庭、そして宗教の3つが国家において解決が困難な問題をもたらすことがある。以下では3つの具体的事例を検討する。

①子どもを公立学校に通わせる義務

・オレゴン州は子どもを宗教学校ではなく、公立学校に通わせるように親たちに義務づけた。しかし、アメリカ最高裁はこれを不当であるとした。

→ロールズがいうように、学校機関は子どもに「公正な協働システムとしての社会」への参画を促す公知性の機能を果たさなければならない。しかし、それは宗教学校でも実現できるものであり、これは宗教的教説と公正としての正義が両立して教示可能であるということを意味する。

 

②宗教的教説が学校制度を否定する場合

・アーミッシュの人々には「16歳まで義務教育を受けなければならない」というウィスコンシン州の規則が宗教的理由から免除された。

→これは2節で提起された「③ケイパビリティ間のバランス」に深く関わってくる困難な問題である。アーミッシュの宗教的ケイパビリティを最大限に擁護することによって、(高等教育を受けることができなくなったことで)子どもの社会的実現のケイパビリティが剥奪されたと見なすことができるからである。しかし、このときアーミッシュでの宗教的従事によって大工や農耕といった社会的スキルが獲得されているという事実も見逃すことができない。

 

③児童労働の問題

・エホバの証人では、街頭でのパンフレット配布に子どもを従事させる。しかし、合衆国はこれを児童労働にあたるとして許可しなかった。

→これは明らかに宗教的ケイパビリティを認めていない例である。度を過ぎた児童労働は看過することはできないが、パンフレットの配布程度は労働にあたらず、事実、カトリック教会でも子どもがバザーに協力するといった例は見られる。この判決はエホバが評判のよくない新興宗教であることに起因するものであると考えられる。

 

 

【メモと批判】

・主要な宗教の全てが倫理的教説であるとするのはちょっと楽観的過ぎるやろ。

→仮に原理主義者が元の教えに反するような行動をとっていたとしても、彼らにとってそれが深遠な信仰に基づくものであるのであれば、それを正義に反するとしてしまうのはパターナリスティックなのではないか。

 

 

第4章 愛・ケア・尊厳 p.285~353

1,愛と暴力の場としての家庭

・従来的に家庭は愛やケアの倫理の場であり、ゆえにフェミニストたちはリベラリズムにおける正義のアプローチは男性的とし、これを見落としていると批判してきた。

→他方で、家庭は配偶者による暴力や性的虐待といった様々な暴力を内包している場でもあり、また文化的再生産の場としても機能するため、こうした愛や暴力は次世代に継承される。

・本章では、まず多くのフェミニストの批判とは裏腹に、正義に依拠したケイパビリティアプローチが愛やケアの倫理と両立可能であるということが示され、むしろ標準的リベラルのそれよりもよい分析枠組みであると主張される。

・次にケイパビリティアプローチを採用することによって(ロールズとは異なり)私的な場への介入の禁止というリベラリズムの問題を回避することが示される。

 

 

2,ケイパビリティ―家族ひとりひとりを目的として

・何度も述べられているよう、ケイパビリティアプローチは「ひとりひとりを目的とする原理」の上に立脚している。

→このことは伝統的に手段として女性が扱われてきた家族という制度の枠組みの中で、非常に重要な意味を持つ。

・先述のように、フェミニズムは標準的リベラルのアプローチが愛やケアをないがしろにしていると批判してきた。しかし、ケイパビリティアプローチでは、そのリストに「④想像力・感性・思考」や「⑤感情」が含まれていることからも、正義とケアや愛が両立可能であるどころか、前者の促進によって後者が保障されることにつながると理解される。

・さらに「ひとりひとりを目的にする原理」は家族という結社が、政治において特権的に顧慮されるものではないという論理的帰結をもたらす。

→公的な政策によって顧慮されるのは諸個人であり、家族ではない。

 

 

3,家族―「自然なもの」ではなく

・ガンジーのような偉大な道徳者であっても家族制度における手段としての女性を自明のものとして扱っており(『自伝』)、リベラル/非リベラルも往々にしてこの自明性を疑わない傾向にある。

→すなわち、

①家族は「自然に」存在していると考え、慣習や社会的規範の果たす機能に無自覚である。

②家族を私的領域として定義し、法や制度の果たす機能に無自覚である。

③愛やケアを女性の「本性」として扱い、それが社会的に構成されることに無自覚である。

→しかし、こうした「本性」や「自然」といった概念それ自体が多義的であり、少なくとも以下の4つの記述が想定できる。

ⅰ)生物学―関係Rは生来の資質や傾向に基づいている

ⅱ)伝統―関係Rは私たちが知っている唯一の方法であり、伝統的にずっとこの関係でやってきた

ⅲ)必然―関係Rは唯一の可能な方法であり、他のいかなる関係もありえない。

ⅳ)規範―関係Rは正しく適切であり、あるべき姿である。

→家庭制度を理解するうえで、明らかにⅰとⅲ、ⅳは誤謬を孕んでおり、正当性がない。

・さらにⅱのような慣習的性質も家庭は有していない。

→例えばインドにおける家庭を眺めただけでもパサンディとジャヤンマの家庭はそれぞれ異なっていたし、ゆえに家族を単一の形態からなるとして定義することはできない。

 

・また近代西洋的家族制度は、「異性愛者によるロマンティックラブから成立し、自分たちの家を持ち、二世帯ないしは核家族であり、母は家庭を、父は労働をする」といった慣習が極めて強い支配力を有している。

→しかしながら、実際のところは階層や人種、所得の差異によって家族の形態は様々である。

→さらにネグレクトやドメスティックバイオレンスが見られる家族においては、インドにおけるSEWAのような外部の支援団体が家族制度の重要な源泉になっているため、これらを看過することもできない。

 

 

4,国家によって創られた家族

・家族は国家から独立している制度でありながらも、法律や政策によって家族の定義が行われるため、その境界は国家によって設定されていることになる(異性愛者による家族、親等の関係など)。

→またヒンドゥー教の民法が女性に財産配分を認めないときも、家族は国家によって形作られているといえる。

 

・「国家から独立している」∧「法律などの制度によって規定される」という家族の特性は、宗教などの自発的結社と同様のものであるといえる。

→ただし、宗教は既存のものであり、ゆえに外部から制約を受けているのに対し/婚約はそのつど行われ、そのため家族は成立当初から(定義という形式で)制約を受けている点において、より強い国家による規定が働いていると考えられる。

 

 

5,ケアするものとしての女性―「著しく人工的なもの」

・3節で明らかにされたよう、ケアや愛にまつわる能力はこれまで女性の「本性」と考えられており、家族内部において女性がそうした機能を果たすのは「自然」であるとされてきた。

→確かに女性がこうした機能を果たしてきたことは生物学的起源があるのかもしれないが、それはちょうど「アグレッションの強い男性が犯罪をするべきだ」といった主張が偽であるのと同様に、必然性を伴うものではない。

→むしろミルがいうよう、女性とケアや愛の間にある関連性が社会的に構成された因習であることが以下の3点から考察される必要がある。

①概念的な議論

・愛やケアは常に「その対象」がないと成立しないものであり、この対象設定は文化や規範によって強く規定されている。例えば、何らかの宗教的理由から「子どもに愛情を注ぐべきではない」といった規範が浸透した社会などを想定できるだろう。

 

②文化的影響の強さ

・乳児は実質的な性差がないが、その行為は性別によって異なるものとして受容される(女児の泣き声は空腹によるもの/男児の泣き声は怒りによるもの)。これに伴う扱いの変化が児童の情緒的発達を分岐させると考えられる(女児はケアや愛を獲得していく)。

 

③文化的多様性からの議論

・3節での家族に対する本質主義への反証と同様、女性のケアや愛に対してもこの議論は該当する。すなわち、同一の国家内部においても女性がケアや愛の能力を有しているか否か(有しているのならばその程度)は単一的に規定することができず、またその多様性は文化に根ざしたものであると考えられる。

 

 

6,政治的リベラリズムと家族―ロールズのジレンマ

・家族は一方では個々人の選択を従属させてしまう特権的な結社となりえ/もう一方では家族は基本構造であり、かつ正義の二原理が最も直接的に適用される領域であると考えられる。

→このジレンマを克服するために、ロールズは家族を宗教や大学といったその他の自発的結社と同じであるとした上で、皆一律に秩序だった社会としての基本構造を有するものであると結論づけている(家族は外部から規制できる)。

 

・宗教の場合と同じように、ケイパビリティアプローチが立脚するのは「ひとりひとりを目的とする原理」と「道徳的制約の原理」である。ゆえに、家族においても国家の介入が許されるのはその成員の中心的ケイパビリティが侵害された場合のみである。

→しかし、前節で述べられたように、国家による家族に対する制約はそれが成立した時点から生じており、この点において(ロールズの主張とは異なり)宗教等の自発的結社と混同することはできない。

→またロールズには家族形態を典型的な核家族にのみ限定して想定しているような記述が散見される。だが、SEWAのように家族と同等の機能を果たしている組織などを含めた、多様な家族形態が基本構造と見なされなければならない。

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