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社会学的観察とはどのような実践か―ルーマンによる「観察」概念

 

0:問題の所在 

 社会学の一つなすべきことの一つとして「観察をすること」を挙げることができるだろう。領域横断的な学問とされる社会学において、ほぼ唯一その全体からのコンセンサスが得られるであろう共通項がこの「観察をすること」としても過言ではない。

 しかし、観察という語の含意は非常に多義的であり、またそれがどういった実践を意味するかということも多元的である。例えば観察という単語を広辞苑を引いてみると「物事の真の姿を間違いなく理解しようとよく見る。」と定義されているが、このように辞書的な定義を社会学の観察に適用してしまうと、社会学、引いては社会科学における観察と、日常的な観察との差異が不明瞭になってしまう。社会学の共通項を観察と定めるのであれば、社会学が固有の学問で足り得るために社会学的観察/日常的観察の間に何らかの違いを見出さなければならないはずである(もちろん両者間に差異がないのであれば社会学の固有性は別のところに求められるか、あるいはそもそも固有性などないという結論に至ることも考えられる)。

 本稿では自明視されがちである社会学的観察について、主にN,ルーマンによる「観察」概念に依拠して考察したい。

 

1:パーソンズとシュッツ

 科学/日常という対立軸は社会学の黎明期から今日に至るまで様々な議論が交わされてきた主題の一つである。例えば社会システム論の生みの親であるT,パーソンズは日常的な行為者による主観的な見地に対して、社会学を客観的な立場であるとして位置づけた。

 パーソンズによれば価値システムと社会システムの相互浸透を通し、価値―規範が個々人に内面化されることによって社会秩序は成り立っている(Parsons 1951)。これに従えば、規範は行為者の無意識的な所作に組み込まれており、行為者は自身が内面化した規範を再帰的にでも認識することは不可能であるという論理的な帰結をもたらす。一方でそうした規範の存在やメカニズムを社会学者は特権的に「知っており」、それによって社会学の客観的立場が担保されているというのがパーソンズの発想だった。つまり「神のみぞ知る」ならぬ「社会学者のみぞ知る」規範の存在こそが、社会学を社会学たらしめる条件であるということである。換言すれば、パーソンズによる科学/日常の差異とは前者が行為の意味を観察できるのに対し、後者は行為の意味を観察できないという区別に準拠していることを暗に意味している。

 しかし、こうした社会学の位置づけは明らかに不当だろう。パーソンズからすれば日常的行為者は自身の行為の意味を観察することはできず、盲目的に規範に従うだけの存在として定義されることになるが、現実には社会学者でなくとも「反省」という営みのなかで各人は自身の行為の意味を再帰的にモニタリングしているし、また行為の意味が静的な価値によって規定されているのではなく、行為者自身が行為を試行的に観察していることが現に実験によって示された例もある。例えばエスノメソドロジーの創設者であるH,ガーフィンケルはパーソンズの「一物一価の法則」を「値切りの実験」によって反証し、パーソンズによる日常的行為者を「文化的な判断喪失者」として批判した(Garfinkel 1967)。 

 しかし、パーソンズの科学/日常の区別の批判を通して逆説的に明らかになったこともある。日常的行為者は自身の行為の意味を観察しているということだ。どうやら経験的な事実としても、科学的な事実としても、日常的的行為者による行為は、パーソンズがいうように社会学によって「客観的に」解釈される以前に、当人たちのレリヴァンスによって構成されており、観察されているらしい。ここではじめて本稿の冒頭で述べた、観察の科学性/日常性の差異が問題になってくる。観察が日常的行為者によっても実践されるのであれば―観察を社会(科)学の専売特許にできないのであれば、両者の相違点は何によって保証されるのだろうか。

 パーソンズの科学観を批判した現象学的社会学のA,シュッツは、科学/日常の区別を一次的/二次的という線引きによって考えた。シュッツによれば、社会学の課題はすでに日常的な行為者によって解釈―観察された出来事を再帰的に解釈―観察することであり、前者が「最初の」観察である点において「一次的構成物」であるのに対し、後者はそれを再度観察している点において「二次的構成物」であると定義している。

「[…]したがって社会学者が使用する構成概念は、いわば二次的な構成概念である。すなわちそれは、社会的な場面にいる行為者によって構成された構成概念についての構成概念なのである[…]」(Schutz 1971:6)。

 こうしたシュッツが設けた公準に基づけば、日常的行為者による観察と社会学による観察対象をそれぞれ別個のものとして定義することができ、よって互いに矛盾なく並立することが可能になるだろう。しかし、二次的構成物である社会学が「二次的」であること以外にどのような特徴を備えており、一次的構成物―日常的な行為にどのような関与をしていくかということは未だ不明瞭なままである。シュッツは二次的な構成物の定義そのものを設定してはいるが(whatの問)、一次的構成物を「いかにして」観察すればそれが達成されるかということの考察(howの問)を欠いていると言わざるをえない。

 以下からはシュッツの一次的/二次的という図式を踏まえた上で、社会学的観察について考察していく。

 

 

2:N,ルーマンによる「観察」概念

 パーソンズによるシステム理論を批判的に継承したN,ルーマンも自身の考察の中で「観察」という概念を用いている。ルーマンは社会秩序の成立をパーソンズのように「価値規範の内面化」からではなく、「社会システムによる複雑性の縮減」から考えた。曰く社会は「起こりうるあらゆる可能性」―複雑性に満ちているが、それぞれの社会システムによる意味論的な指向性がそれを一つの可能性として象徴化し、複雑性を縮減している。そして、それぞれの社会システムが有するその意味論的な指向性に準拠し、新たな社会システムの構成要素―コミュニケーションが自己準拠的に再生産されていくことによって、社会システムは環境との境界に差異を生み出し、それぞれ独立したシステムとして自律しているという。つまり社会システムが担う「複雑性の縮減」という機能によって社会秩序は実現されるのである。

 「起こりうるあらゆる可能性」から一つの可能性を選び出すプロセス―複雑性の縮減がルーマン社会ステム理論の根本を成すアイディアだが、「一つの可能性を選び出す」とはそもそもどのような実践なのだろうか。ルーマンはこれを論理学のS,ブラウンにならい区別/指示として説明する。まず単純に考えれば「ある可能性を一つ選び出す」ということは「指示」という言葉に置き換えることができるだろう。しかし、ブラウンによればそのとき同時に「区別」という動作も行われている。例えばAとBという2つの可能性からAが「指示」されるとき、それは同時にBからAが「区別」されているとすることができるはずだ。このように「指示」とは「区別」によって達成され、また「区別」は「指示」によってなされる。両者は表裏一体の関係にあり、どちらかの動作が達成されたとき、必然的に同時にもう一方も達成されているのである。そして、ルーマンによる「観察」とはこの区別/指示に他ならない。ここまでを整理すると「観察」は以下の2点の特徴から記述することができる。

 

①「観察」は自己準拠的である(社会システムにおいて「観察」が新たなコミュニケーションを生産し、コミュニケーションが新たな「観察」の契機を生み出す)

②「観察」の達成には「区別」/「指示」がされなければならない。

 

 

3:パラドックスと脱パラドックス

 ルーマンの「観察」概念を考えるにあたり、決定的に重要なのはパラドックス/脱パラドックスの問題である。ここではまずパラドックスがどのような事態であるかまず定義した上で、次にそれが「観察」にどのように関わってくるかを考えたい。

 パラドックスといえば古来より哲学的な問題として扱われてきた。有名な「嘘つきのパラドックス」を例にとって考えてみよう。哲学者のエピメニデスは「クレタ人は嘘つきである」という言葉を残したとされている。しかし、エピメテウスもまた「クレタ人」であり、そのためここに一つのパラドックスが生まれることになる。「クレタ人」である自分、つまり「嘘つき」が「自分は嘘つきである」と表明したとき、彼が「嘘つき」であるのならば「自分は嘘つきである」という言明は否定されることになるが、「自分は嘘つきである」という言明が否定されるのであれば彼は「嘘つき」ではなくなってしまい、堂々巡りに陥ってしまうことになる。ルーマンはここからパラドックスの特徴を以下の2つ抽出する。

 

①パラドックスは自己準拠的な構造となっている(「嘘つき」による「私は嘘つきである」という発言)

②パラドキシカルな発言の成立には特定の「区別」/「指示」を用いる必要がある(嘘つき/正直者)

 

 上の2点が先の「観察」の特徴と一致しているのはもはや言うまでもないことだろう。では具体的にパラドックスは「観察」のどこに生じているのだろうか。ルーマンによれば「観察」の自己言及性(特徴①)にそれを求めることができるという。例えばある教師が「教師とは生徒に教育をする存在である」と言ったとしよう。このとき彼は「(生徒に)教育をする/否か」という「区別」/「指示」に準拠して「教師/それ以外」を区別していると考えられるが、同時にこの「区別」/「指示」自体が教師である自己によるものであるため、その「区別」/「指示」それ自体を再び「区別」/「指示」しなければならないことになる。以下、「嘘つきのパラドックス」と同様に無限にこの問は後退していく(あるいは円環を形成していく)ことになる。つまり、「観察」は常にパラドックスの可能性に開かれているのである。がしかし、現に「観察」―コミュニケーションは次のコミュニケーションに接続され、社会システムを自律させている。

 ルーマンは「観察」が自己内部にパラドックスを抱えているのにも関わらず、次のコミュニケーションに接続されていく理由を、システム内部に脱パラドックス化の可能性が用意されていることに求める。ルーマンによれば、ある「区別」/「指示」を行った際、それ以外の可能性は不可視化される。つまり「区別」/「指示」ことをすることによって必ず盲点が生まれる。そしてこの「区別」/「指示」に付随する(意図せざる)他の可能性の不可視化こそが、脱パラドックス化である。現象学の創設者であるフッサールの言葉を借りれば、脱パラドックス化は「その時点においては」それ以上意味論的に遡及することができない超越論的主観によって成り立っているとすることができるかもしれない。例えば、学問システムにおける二値のコード「真理/否か」はそれ自体が真理か否か問われる可能性に晒されているし、法システムにおける「合法/否か」もそれ自体が合法か否か問われなければならないのである。

 パラドックス/脱パラドックスの議論において留意しておくべきは、そもそも「パラドックス(あるいは脱パラドックス)が生じている」という事態は外部からの「観察」によって「初めて」発見される事態であり、当該する「観察」においてはパラドックスは「区別」/「指示」の盲点となるため、原理的にそれを乗り越えることはできないということだろう。つまり、パラドックス/脱パラドックスとは、ある行為それ自体に帰属できる事態なのではなく、それを外部が「観察」した際に初めて生じる、というのがルーマンの(革新的な)前提である。ただしここで問題となっている「観察」の自己言及性は時間的な概念ではないということも併せて留意されなければならない。ある言明をした際に、それと共時的にパラドックスが生じるのであって、「その時点において」それを自分自身でパラドックスを克服はおろか自覚することさえできない。しかし、そこに時間軸を加え、例えばそのほんの一分後に先の自身による言明を外部として「観察」することは可能である。

 

 

4:第一次的観察と第二次的観察

 さて、ここで1節で提示した一次的/二次的というシュッツの図式に立ち戻ってみたい。シュッツは日常的行為者によって解釈された意味や現実を一次的構成物、それを社会学者が「再」解釈したものを二次的構成物としていた(what)。しかし、これも先に確認した通り、その一次的構成物(日常)に対し、二次的構成物(社会学)が「いかにして」関与していくかということが不明瞭なのが問題となっていた(how)。それをここでは先のルーマンの「観察」概念を導入して考えたい。

 まずなにより肝心なのは、一次的構成物は二次的構成物による観察の「結果」であるということだ。日常的行為者たちによる営為を第二次的観察が「再」解釈することによってそこにはじめて科学/日常という「区別」/「指示」の可能性が生まれるわけであり、これは日常的な行為のレベルにおいてそれはそれ以外の可能性が脱パラドックス化されているため、そもそも現行の行為以外の可能性は不可視なものとなっていることを意味している。つまり、少なくともその時点において当事者は自身の潜在的なパラドックスを「観察」することはできないのである。しかし、二次的構成物は一次的高清物それ自体を「観察」する営みであるため、3節の最後で述べたとおり、ある「観察」の中にある盲点を発見することができるのである。このように考えると、第一次的構成物に内在するパラドックスおよび脱パラドックスを観察することができるのが二次的構成物であると定式化することが可能だろう(howの解答)。ルーマンは直接的にシュッツの議論を踏まえているわけではないが、「第一次的観察」/「第二次的観察」という区別を用いて、これに極めて近しい見解を主張している。

「しかし、第二次的観察者の立場をとれば、第一次的観察者がどのように振る舞い、どのようにして彼のパラドックスを見えないようにし、[…]を同時に観察することができる。そのとき第二次的観察は同じことをし続けるのでは決してない。しかし、彼は少なくともそれが可能なことを見ることができる。そしておそらく、彼は機能主義者のように問題に対する別の機能的に等価な解決を探し出そうとするのである。」(Luhman 1991:128)

 

 つまり一次的構成物―第一次的観察が抱えるアプリオリを自覚的に発見することができるのが、二次的構成物―第二次的観察であるというのだ。しかし、ルーマンは次のようにも述べる。

 

 「第二次的観察者も盲点に拘束されている。そうでなければ彼は観察することができないであろう。」(Rus:f10)

 

 第二次的観察もまた「観察」であることには変わりなく、そもそも盲点を設けなければ「区別」/「指示」を行えないという原理に基づいて第二次的観察にも脱パラドックスが作用している。つまり、第二次的観察は第一次的観察に対していかなる優位性も保証されておらず(つまり第一次的観察が「正しい」とか「間違っている」とかといった判断をすることはできない)、ただ単に、第一次的観察において「見えていないところがある」ということ(パラドックス/脱パラドックス)それ自体を見ることができるだけである。また、第二次的観察をさらに「観察」することも可能である。ただ、その際は「第三次的観察」なるものが出てくるのではなく、もとの第二次的観察が第一次的観察になり、その際になされた「観察」が第二次的観察となる。よって第二次的観察も常にさらなる「観察」の可能性にされされているといえ、この点においても第二次的観察がいかなる優位な立場にもないということが含意されている。

 

 

5:エスノメソドロジー

 二次的構成物、すなわち社会学における「観察」とはルーマンのいう第二次的観察であることがここまでで明らかになったことだった。これを「社会学的観察とはなにか」を目的とした本稿の結論としてしまってよいように思える。しかし、実はまだ問題は解決されてはいない。確かに社会学―二次的構成物―第二次的観察は、日常―一次的構成物―第一次的観察の盲点を明らかにするが、ルーマンは第二次的観察が「誰に」よってなされるか、ということについては言及していない(whoの問)。3-4節で確認したとおり、第二次的観察とは第一次的観察を「外部」から「観察」したものであり、「外部」であること以外の必要条件はない。例えばある話者Aがなんらかの発言をした際、その発言が内包するパラドックスを発見するのは社会学者である必要性も必然性もない(3節で論じたように「事後的な」A本人による「観察」でもそれは達成される)。つまり、「社会学―二次的構成物の必要条件は第二次的観察である」とできでも、その逆(「第二次的観察の必要条件は社会学―二次的構成物によってなされることである」)は可ではないのである。第二次的観察が社会学の専売特許ではない―第二次的観察が日常的な行為の中でも実践されている、とするのであれば社会学/日常の差異は再び別のところに求められなければならないはずである。つまり、本稿において社会学的観察の条件は明らかにされたが、一方で社会学的観察の独自性は未だ解明されていない。それを考えるにあたり、次にエスノメソドロジーのパースペクティブから補助線を引いてみたいと思う。

 エスノメソドロジーとはパーソンズに師事したH,ガーフィンケルによって創設された社会学の潮流であり、新興の研究手法でありながらも、H,サックスやM,リンチといった優秀な同輩・後続研究者に恵まれ、短期間で独自的な領域を築き上げた。エスノメソドロジーの大きな特徴として、従来的な社会学的思考を転換させたということが挙げられる。曰くこれまでの社会学者は、日常的行為者によって「すでに」解決済みの問題についてあれこれ議論をしてきた。しかし、それはガーフィンケルに言わせれば「何が屋根を支えているか見るために、壁を全部取り除く」が如く行為に等しい(Garfinkel 1975)。屋根を支えているのは「壁」に他ならないのにも関わらず、それを自身の考察のために蔑ろにしてきた、というわけだ。具体例から考えてみよう。シカゴ学派のH,ベッカーは「逸脱」は所与の価値規範によって規定されるのではなく、「逸脱」のレイべリングがなされたとき、はじめて「逸脱」となると主張した(Becker 1963)。だが、おそらく日常的に逸脱をそのように捉える者はごくわずかだろうし、社会学者も一度日常生活に戻ればそのような「逸脱」観は意識していないとも考えられる。つまりこの場合、「レイベリング理論」を打ち立てることによって、日常的行為者が普段どのように逸脱を考えているか、ということを見失ってしまっているのである。こうした問題を克服するために、エスノメソドロジーは社会学的な論理を考察対象となっている現象に持ち込まず、かわりに、社会の成員たち(エスノ)がいかなる方法(メソドロジー)を用いてその現象を解決、受容、構築しているかを観察していく。
 日常的行為者が(社会学者に観察されるまでもなく)自身の行為の意味を観察しており、それを緻密に追っていくエスノメソドロジーの姿勢と、シュッツによる公準との距離はわずかである。事実、ガーフィンケルはエスノメソドロジーを創始するのにあたり、シュッツによる現象学的社会学の視点を参考にしていることからもこの解釈は妥当であるともいえる。

 このようにエスノメソドロジーは確かに従来的な社会学的思考を解体したが、しかし、エスノメソドロジーは社会学である。「観察」が社会学の特権ではないとしつつも、エスノメソドロジーはあくまで自身を社会学の一領域であると主張する。一見するとこれは矛盾しているようではあるが、そうではない。①エスノメソドロジーはルーマンのいうところの二次的観察「のみ」を志向し、②また自身の営みが二次的観察であるということを「知っている」が故に社会学足り得るのである。

 ここまで何度も確認したようにシュッツは社会(科)学を二次的構成物であるとした。これは①の条件を含意している。しかし、一方で②の条件までは言及してはいない。エスノメソドロジーおよびルーマンの理論は自身が二次的観察であるということに自覚的である。つまり、自身の営為が日常的営為―第一次観察―一次的構成物「のみ」を対象としつつ、それもまたあらゆる「観察」の可能性に開かれている―脱パラドックス化を行っているということを知っているのである。

 

6:結論 

 ここまでを整理すると、社会学的観察は以下の二点から特徴づけられることになる。

①(ある観察に対する)二次的観察「のみ」を行う

②その観察がさらなる観察の契機に晒されているということに自覚的である。

 

 最後に、この2点から社会学的観察には何ができるのか/何ができないのかということを考えたい。

 社会学的観察は①の性質上、必然的に何か別のシステム(あるいは②の特徴から学システムの下位システムである社会学システム、すなわち自己)に依存的である。ある区別がなされた際に生じる「不可視化された可能性」を観察するのが二次的観察である以上、これは避けることができない。逆を返すと、当為論を述べたり、提言したりすることは社会学システムの目的「ではない」(それは一次観察になってしまう)。

 併せてここでは他システムに対する当為論の不可能性についても考察しておこう。ルーマンの観点からすれば当為論はそれがなされるシステムの内部においてしか機能しない。というのも、各システムが「象徴的に一般化されたメディア」に準拠してコミュニケーションを再生産していくからに他ならない。象徴的に一般化されたメディアとは元来、パーソンズによって提示された概念であるが、ルーマンはこれをシステムを駆動させるための二値的なコードとして再定義した。例えば、法システムにおけるメディアは「合法/違法」という二値コードに準拠しているし、権力システムでは「望ましい反応/望ましくない反応」、恋愛システムにおいては「親密か/親密でないか」というコードがメディアとして機能している。そしてコードの肯定的値に準拠した観察を行うことによってシステムが駆動し、否定的な値は脱パラドックス化(不可視化)されることになる。先に確認したとおり、観察は自己言及的になされるため、例えば恋愛システムにおける「親密か/親密でないか」というコードに基づく観察をさらに「親密か/親密でないか」というコードによって観察することができ、この自己言及的性質によってシステムは「回り」続けることが可能となる。ある観察が常にさらなる観察の契機に晒されているということは、逆を返せばいかなる観察も絶対性が保証されていないということを意味している。絶対的でないが故に、(理論上無限に)問うことができ、その問の解答にあたる観察もさらなる観察が可能というわけである。このことを踏まえるとシステム内部における当為論、すなわち最後の観察に対する新たな観察はシステムを駆動させる機能を有しているといえるだろう(がしかし、その当為もまた後に観察されることになるはずである)。

 では、あるシステムの観察に対する、別のシステムからの観察はどうだろか。これはほとんどその効力は不確実であると考えられる。例えば先の恋愛システムにおける「親密か/親密でないか」という区別を、学問システムの「真理/非真理」というコードに準拠して観察した場合、「それは第二次的観察である」ということ以外の帰結をなにももたらさない。学システムによる第二次的観察が恋愛システムにとっていかに寄与するかということは不確実であり、誰もその機能を意図することもできない。これはある種のニヒリズムのように捉えられるかもしれない。しかしながら、学システム/恋愛システムに限らず、コミュニケーションの産出はこうした「二重の不確実性(double contingency)」を契機としており、こちらもまたシステムの自己言及性と同じく社会システムが社会システムとして駆動する必要条件なのである。

かつて社会学の父祖とされるマックス・ウェーバーはトルストイの言葉を借りてこう述べている「学問は[…]われわれがなにをすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごともこたえてくれない」(Waber 1919:42-43)。ルーマンの「観察」概念に依拠して明らかになったのは、社会学的観察が(少なくとも当為論的に)社会に寄与することは不確実であるということ―つまり役に立つか立たないかは決定できないということだった。空虚主義ともとれるこの論理的帰結(ルーマンの理論はえてして空虚な帰結に至る)はしかし、ウェーバーの学問観とも奇しくも合致している。つまり、学問は学問のためにあり、その自律性以外の外的な価値を求めることはできない(Waber 1819)。この主張は過度に実学性を希求する現代社会において未だ有効であるよう思える。ルーマンの理論もまた然りである。

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