2013年度うきうき読書デスマラソン―戦後日本若者論編その2
4:00年代―ゆとり世代
00年代に入ると若者擁護vs若者叩き論争はさらに苛烈化する。西鉄バスジャック(00年)や佐世保同級生女子殺害事件(04年)なんかは本当に少年法を改正させてしまったからね。こんなクソみたいな印象論信じ込んでたの頭がゆとり世代だよね。注目したいのは90年代の時点では「若者のコミュニケーション」が賭け金となっていたのに対し、00年代ではさらに「労働雇用の問題」まで議論が拡大され、主にこの二つの軸を中心に論争が交わされていくことになる。あとまあポモ界隈を中心に「セカイ系ガー」とか言われ始めたのもこの頃からだね。これはコミュニケーション論に位置づけていいか。
●景山任佐 2000 『超のび太症候群』
「あんなこといいな こんなこといいな 不思議なポッケが叶えてくれる」でおなじみの某国民的アニメに登場する「不思議なポッケ」(cv:のぶ代)。それを現実に手にしちゃったのが現代の子どもたちだ、などと意味不明な供述をしている本書。
要するに便利なハイテク機器が若者をのび太みたくダメにしましたよ、ってな話。まず第一にのび太はダメな奴じゃない。ドラえもん全巻読み直して出直して来い。
●東浩紀 2001 『動物化するポストモダン』
さてさてついに時代の寵児、東浩紀先生のご登場だ。いまや汚いおじさんに成り果てたけど、このときのあずまんはキレキッレだった。あずまんの登場を見た浅田彰や宮台真司も「ふふ…時代、か…」みたいなこと言ってたもん。マジで。で、本書もかなり読まれた一冊。2013年現在10版くらいまで刷られてるんじゃなかったか。浅田彰の『構造と力』と並ぶか抜きつつあるね。
東はいわゆる第三世代のオタクを俎上に載せて、その文化消費形態が80年代のとこで出てきた大塚英志の「物語消費」から「データベース消費」に変容していると論じている。「物語消費」が「壮大な物語」としての背景世界の共有によって成立していたのに対し、「データベース消費」では「猫耳」「メイド服」「ツンデレ」といったデータ(確定記述)の組み合わせによって消費が成立してしまう。ゆえに、オタクたちのコミュニケーションも形式的なデータの交換に変容してしまったというのだ。
んで、エヴァがデータベース消費の例として出てくるんだけど、イズミ的にはこれはおかしい。だってエヴァは物語消費だもんどう考えても。確かに「綾波萌え」な人たちはいたさ。でも、それ以上にエヴァは詳細な背景設定から消費されていた。というか背景設定しらないと劇場版とかマジで1ミリも理解できない。だから庵野がボロックソに叩かれてたんだけどそれはまた別のお話。
●香山リカ 2002 『ぷちナショナリズム症候群』
この人もいまだによく出るね。実はぷちナショという言葉も当時かなり流行した。なんといってもネット黎明期のネトウヨ共を語るのに実に有用だったからね。「ぷちナショ乙w」みたいな感じで。
2002年といえば日韓ワールドカップが開催された年で、それこそネトウヨがギャーギャー騒いでいたのだけど、香山が注目したのは「普通に」盛り上がっている若者の方だった。彼らによるフラットでドライな国粋主義は従来的なそれとは明らかに断続的なものであり、香山によればこれは「つながり」のための媒介としての機能を果たしている。共同体から浮遊していないということに常に気を使い、自己との他者との境界線が極めて茫漠としている集団主義の傾向(ちなみにここで鷲田清一の「鏡像的自己」の議論が参照されていたりする。元ネタはフロイトかラカンだけど)はまさにこのぷちナショの上に立脚しているというわけだ。
●正高信男 2003 『ケータイを持ったサル』
こんなアホみたいなタイトルなのにこの本は飛ぶように売れ、教育熱心(笑)な人たちによってPTA推薦図書にまで選定されてしまった。つまるところ、大人世代はとりあえずニューメディアを叩きたいわけだ。今だってSNSが叩かれてるし、一昔前もゲームとテレビが叩かれてたからね。
ただし、サルはねーだろいくらなんでも。正高によればケータイを手にした若者のコミュニケーションというのはサルのそれに酷似しているという。つまり、メアド(もはや死語)の伝達や無意味なやりとりっていうのがサルのコミュニケーションに見られる傾向なんだとさ。俺もここでひらめいたけど、一つのものを目もくれずガンガン叩く所作ってサルにも観察されるのではないかな。
ちなみに以前、浅野智彦先生とお話をしたとき、この正高という人が霊長類学の割と権威だっておっしゃられててイズミは驚きました。
●斉藤環 2003 『若者のすべて―ひきこもり系vs自分探し系』
斉藤環もいまだに元気だね。今は反知性主義とかマイルドヤンキーとかの議論で引っ張りだこだもんね。本書では若者をひきこもり系/自分探し系の二つに類型化する。で、後者が90年代あたりまでの主流で、彼らはちょっと落ち着きがなく、自己像も定まっていない。でもその反面、対面的やりとりに秀でていて、起用にドラマトゥルギーを演じ分けられる。宮台が言ってた援交女子高生とかまさにこのアーキタイプに当てはまるんじゃないかな。で前者は00年代に入ってから登場したタイプの若者。自己像が定まっている代わりに、その内面的世界に魅せられていて、対面的な関わり合いにおいて、自分探し系よりも淡白な反応を示すという。
そういえばだけど、2000年に鬼のようにブームになった池袋ウエストゲートパークってドラマ(妻夫木とか佐藤隆太とか窪塚とかってみんなこれで出始めるようになったからね)があって、それにまさにこのひきこもり系を絵に描いたような若者が登場する。けっこうキーマンなんだけどね。
ちなみに表題の「若者のすべて」とはフジファブリックの名曲ではなく……いのっちが出ていたドラマでもなく……"Rocco and His Brothers"っていう大昔の映画の邦題に由来している。むしろこれで若者かどうかわかるっていうね。
●北田暁大 2005 『嗤う日本のナショナリズム』
北田も斎藤や香山同様に若者のコミュニケーションの変容に注目した。だいたい2人と言ってることはほぼ同じなのだけど、ルーマン使ったことでより一般性が増したって感じだろうか。本書で北田はユースカルチャーにおける「反省」の形式を、あさま山荘にまで遡って分析する。そんで80年代の『なんクリ』の時代やナンシー関が活躍した時代を通って、若者のコミュニケーションが意味内容を伝達するコミュニケーションから、「つながり」それ自体を志向するコミュニケーションへ変容したと結論付ける。本書のタイトルになっている自称ナショナリストつまりネトウヨの形式的な国粋主義も、世界をネタ化して、他者とつながるための媒介に過ぎないんだとさ。
本書が執筆された時点で、SNSなんてものはせいぜいmixiがあったかなかったくらいだったのだけど、今日の若者のtwitterとかfacebookとかの利用を見るに、北田の提出した「つながりの社会性」の議論はますますアクチュアルになっているといえるでしょう。
●難波功士 2005 『「族」の系譜学』
おなじみのゴッドファーザーの曲をならしながら町中をバイクで疾走する珍走…じゃなくて暴走族。この言葉ができたのって実は70年代と以外に古い。難波はこのユースカルチャーの中にたびたび用いられる「族」という語の変遷に注目した。特定の社会集団に対して「族」をつける文化のはしりは、太宰の『斜陽』を元ネタにした戦後の没落貴族に対する「斜陽族」だったとされる。でもこの時点ではまだ若者を対象にしてないんよね。おそらく若者文化における最初の「族」は、本稿の冒頭にも登場したけど、石原慎太郎の『太陽の季節』を元ネタにした「太陽族」だっと難波は主張している。でその後、みゆき族だのカミナリ族だの、竹の子族だのいっぱい出てくるのだけど、いつごろからか、「族」という表現は衰退し、「系」という表現が代わりに出てくるようになる。アキバ系とかね。難波によればピチカートとかフリッパーズとかの「渋谷系」がこの元祖らしいのだけど、肝心なのは「族」がより強固な心理的紐帯を有した集団だったのに対し、「系」はゆるふわで、アンダーソンのいうような「想像の共同体」的な特徴があるってことかな。
●鈴木謙介 2005 『カーニヴァル化する社会』
"one night carnival "のカーニヴァルだよ。謝肉祭ーつまり「祭」のこと。でも従来的な意味での祭ではない。鈴木健介によれば、00年代の社会では若者を中心とした、歴史的に無文脈な一過性のある種の馬鹿騒ぎが全面化したという。例えば、日韓ワールドカップであったり、にちゃんを中心にした突発オフだったり。確かに「吉野家コピペ」を元ネタに大盛ネギダク玉を全国のねらーが注文するイベントとか、まさに「謝肉祭」であるといえよう(すっごい迷惑だね)。
で、鈴木はこれを消費社会に全面化した「記号的消費」(ボードリヤール)になぞらえて、「ネタ的消費」と呼んでいる。記号的価値すらない商品を、他者とつながるために消費する。そういう意味では先の北田先生とかの分析にも近いものがあるね。
●三浦展 2005 『仕事をしなければ、自分は見つからない』
三浦…てん?(なぜか変換できない)。この人、90年代とかはどちらかといえば若者擁護派だったのに、00年代に入ると叩く側に回るんよねなぜか。で、内容はおおむねタイトルのまま。特に00年代はニートやフリーターが社会問題化した時代で、三浦に限らずだけど、そうした労働にコミットできない若者は「自分探し」や「やりたいこと探し」をしている人々であると(短絡的に)考えられてきた。
しかし、すぐ後にみる本田由紀&後藤和智の『ニートって言うな!』とか阿部真大『搾取される若者たち―バイク便ライダーは見た』で論じられているよう、ニートやフリーターの若者は働かないという選択を自発的にとっているわけではなく、むしろ「働きたくても働けない」状況にあるのです。安易な一般化はやめれという話ですよ。
●速水敏彦 2006 『他人を見下す若者たち』
だから安易な一般化はや(ry。
俺はこの著者である速水某をはっきり言って見下している。59年も生きて(執筆当時)この程度の内容しか書けないなんてね。でもそれは「若者たち」が「他人」を見下しているのではない。「俺」が「速水」を見下しているのだ。いわゆる排除型社会にありがちな「他者の本質化」(ヤング)というやつだ。
あと全共闘世代とかの方がよっぽど「見下してた」とかって批判もできちゃうね。
●城繁幸 2006 『なぜ若者は3年で辞めるのか』
これビジネス新書なんだけど飛ぶように売れたね。『なぜ竿竹屋は~』並みにには売れたと思う。城は一般に「忍耐不足」だとか「わがまま」とか言われてた、就職後すぐに辞めちゃう若者(統計上3年目で辞める人が一番多い)を、若者の問題ではなく、むしろ企業の受け入れ姿勢に問題があるのではないかとして、分析の視点を移す。
そんで簡潔に要点をまとめると、企業の要求するする能力の水準が90年代を転機としてはるかに高度化してしまっており、それに伴い若者の就業意識も変化。それで実際の業務といざ対峙となったときにそのギャップで辞めてしまうのだと。あとは、肝心の要求された能力が発揮できるポストに就く前の下積み期間があまりに長すぎて耐えきれないとも。確かに就活時の仮想人格が喋る「グローバルマインドガー」とか「リーダシップガー」とかってぶっちゃけ新人に求められていないからね。
●本田由紀・後藤和智 2006 『ニートっていうな!』
まあタイトルままね。2人とも00年代に全面化した俗流若者論にとても懐疑的で、じゃあ実際にデータ見ようや、って内容。特に本田お得意の量的調査によって、「非求職型」(仕事やりたくない人)がほぼかつてから一定数いるのに対し、「求職型」(仕事やりたいけどやれない人)の数が圧倒的に増加していることが本書では明らかになっている。つまり多くのニートに関する語りでは「非求職型」が範型となっていたが、実際はそんなことはなく、むしろ「求職型」の増加にこそ目が向けられなければならないということだね。ていうか直観的に考えれば、空前の不景気で働きたくても働けない人が出てくるのは至極当然だし、それを安易に自己責任論に回収してしまうのは知性が不調だよね。
●阿部真大 2006 『搾取される若者たち―バイク便ライダーは見た』
本田由紀が量的調査を用いてニートを解明したのに対し、阿部は質的調査の観点からフリーターとりわけバイク便ライターを考察する。より風呂敷を広げるのであれば「構造(本田) 対 行為(阿部)」の構図になっているようにも思える。就業意識に関する「構造 対 行為」といえばブルデューとウィリスの研究が想起されるが、本書もウィリスの『ハマータウンの野郎ども』っぽいといえばぽい。というのも、多くの若者が当初は不安定に思えるバイク便の仕事に従事していく中で、バイクのテクニックや車種といったコアな世界に没頭していくことによって、ある意味自発的にワーカーホリックになっていく過程が本書の中で緻密に観察されているからだ。これは一般的にアンダークラスの仕事とされている肉体労働に、実は「野郎ども」は誇りを持っていたというウィリスの見解に近しいのではないだろうか。っていうかインタビュイーの発言を読んでいくと次第にバイク乗りたくなる。
●雨宮処凛 2007 『生きさせろ―難民化する若者たち』
これまで見てきた若者論というのは一部の例外(浅田の『スキゾキッズ』)を除いて、大人世代によって構成されてきたものであった。しかし、過剰な若者の悪魔化を要因にしてかどうかはわからないが、若者世代が若者論を執筆するというケースが00年代には多く見られるようになった。上のバイク便も若者による若者論とも言えるかな。
本書も雨宮とそのインタビュイーによる若者の悲痛な叫びが記録されており、論というよりかはエッセイに近いが、注目を集めた。特に雨宮が俎上に載せるのは先の三浦に代表されるような自己責任論である。ワープアとは必ずしも積極的選択ではなく、その泥沼から抜け出したい若者も多くいるのである。
●赤木智弘 2007 『丸山真男をひっぱたきたい―31歳フリーター希望は、戦争』
本書もまた若者による若者論の一冊(まあ論文だけど)に数えられるだろう。表題にもあるよう「希望は、戦争」というセンセーショナルな一説は話題を読んだ。つまり、戦争が起きればハイクラスも、アンダークラスも、そしてミドルクラスもみな一様に不平等を被るため、現在よりも逆説的に「平等」であるということだ。丸山真男を引っ叩きたいというのは、丸山がかつて思想犯として第一線に徴兵され、そこの一等兵に思いっきりしょっぴかれたというエピソードに由来する。一等兵という中学も出ていないような人間が、東大卒の丸山を「ひっぱたける」状況、すなわち戦争を望むと。
●湯浅誠 2008 『反貧困』
でも大人世代がみな一様に若者を叩いていたかといえばそんなことはない。今や法政大学で教鞭を振るうようになった湯浅誠のような人もいたのである。湯浅と言えば「年越し派遣村」と村長として有名であるが、本書でも若者に限らず失業者やワーキングプア、そしてなによりホームレスに焦点を当てて分析とその救済を論じている。特に湯浅の主張において新規的だったのは、「働きたい/働きたくない」という00年代の就業論を脱構築してしまったことだろう。そこでは「働きたいが/自分で能力の限界を見定めてしまい」結果的に「働けない」という層を見落としてしまっているのである。
そして湯浅はそれこそ派遣村のような、「意欲の貧困」を外的に支えてくれる「溜め」の存在が不可欠であると述べる。これはロバート・パットナムがいうソーシャルキャピタルの変奏であるように思える。
●宇野常寛 2008 『ゼロ年代の想像力』
大塚、宮台、そして東の延長線上に位置づけられる日本のサブカル研究の一冊……なのだが、なんていうか、ちょっと残念。ほかの3人は今でこそアレなエッセイみたいなの書いているけど、少なくとも学界をきちんと経由していて、批判はあるけど一定の評価を与えてもよいと思う。だけの宇野のこれは学術的なタームを使っていつつも、かなりいい加減な援用が目立つんだよな。例えばラカンの象徴界を「社会や歴史や国家のこと」としてたのは噴飯通り越して脱糞ものだよマジで。
あと決断主義が全面化し、サヴァイブしないと生きていけないとされる00年代への処方箋として宇野が提示したのが結局「終わりなき日常」(宮台)で、大風呂敷広げといた割には結局90年代の「想像力」に回帰するという残念さ。
●大澤真幸 他 2008 『アキハバラ発―<00年代>への問い』
90年代のとろこで見たよう、酒鬼薔薇聖斗事件は当時の社会に衝撃を与えた。奇しくも彼と同年代にあたる加藤智大という男がこの年に秋葉原で通り魔事件を起こした。良識のある人々(笑)は宮崎事件によって表象化された「犯罪者予備軍としてのオタク」という言説も飽きもせず再び唱え始め、また加藤がフリーターであったことから、フリーターも悪魔化の対象となる。
そうしたディスクールへのアンチテーゼとして執筆されたのが本書である。本書は大沢真幸が中心となり、様々な著者(けっこう豪華)によって、事件の分析が行われている。特に先の湯浅さんや何回か登場している浅野先生のものは、従来的な視座では本事件を語ることができないとしている点で、新規性があり、面白かったよ。
●土井隆義 2008 『友達地獄―空気を読む世代のサバイバル』
うちの大学ではよく社会学科なりたての人たちがこの本の話をしてる。「それって<優しい関係>だよ~」みたいなのこないだも聞いたよ!ってくらいには読まれている著作。
土井によれば、当時の若者世代は人間関係を円滑に、事無く築くために当たり障りのないドラマトゥルギーを演じているという。そしてそうした関係性こそが先の<優しい関係>というわけだ。でもたぶん、これの元ネタがギデンズの「純粋な関係性」ってことはどっぷり社会学やってる人しか知らないぜ。参照すべき関係性の軸が(後期近代的な意味で)失効し、関係性それ自体を再帰的に確認しながら、他者と関わっていくこと。コミュニケーションの接続それ自体が新たなコミュニケーションを産出していくというのは、先の北田先生の「つながりの社会性」に近いね。
●後藤和智 2009 『お前が若者を語るな!』
再度の登場、後藤和智。これも先の若者による若者論の文脈に位置づけていいかな。この本では主に90年代から00年代の若者論の恣意性が論じられている。宮台とかあずまんとか香山リカとかフルボッコされてる。
でも本書に学術的に価値があるかどうかと言われたら微妙なところ。似たような表題の『若者論を疑え』かこっちか忘れたけど、冒頭の本田由紀との対談で、「社会学的には特定の言説を相対化してハイ終わりではいかんのよ」って本田が話してたのだけど、まさにその通り。後藤がいうところの「俗流若者論」がなぜ90年代あたりから大量生産されるようになったのか、とかそういう背景的なメカニズムに焦点を当ててこそなんぼだよ。
●荻上チキ 2009 『ネットいじめ―ウェブ社会と終わりなき「キャラ戦争」』
気鋭の研究者(なのか?)荻上による青少年のネット問題を取り扱った著作。本書で特に焦点を当てられているのは当時、悪い意味ではやった「学校裏サイト」というやつである。「ネットいじめを止めるためにネットの方を規制すればよい」というあまりにも短絡的な言説が今日に至るまで主に教育学界隈(笑)の人々によって唱えられているが、荻上によれば単にアーキテクチャを規制しても、ネットいじめの問題の所在は人間関係の方にあるため、空転しているのだという。
例えば先の「優しい関係」の延長線上に、いじめがあるのであれば、確かにネットを規制することに実効性はないだろう。というかそういう物理的な制約設定っていうのマジで鼬ごっこにしかならないのでやめようぜ。
5:10年代―さとり世代?
10年代に入るとさすがに論争も落ち着き始め、マスメディアも短絡的にユースカルチャーやテクノロジーと若年層の犯罪を結びつけるような報道は控えるようになった(たまに見かけるけどね)。そんで肝心の若者論なのだけど、イズミ的には「過去の若者論の系譜整理をするもの」か、あるいは「過去の若者論を焼き直したもの」が多く目に付く気がするね。で前者は価値があると思うけど、後者はぶっちゃけ無価値だよね。古市とかあと古市とかね。まあ前ほど盛んではなくなったよって話。完全に今のジャパンは高齢社会だから、向こう数年で若者論は鳴りを潜めて、高年齢層の分析にシフトしていくんじゃないかな。でもまたいつか再燃するかもね。知らんわ。
●古市憲寿 2011 『絶望の国の幸福な若者たち』
駄作オブ駄作。つーか大澤真幸のパクリやん。社会学の面汚しめ。上に書いたように、10年代の若者論は焼き直しが多いんだけど、これはその一冊。不景気だけど幸福度調査が高いみたいなところに注目したのに、結局宇野と一緒で「終わりなき日常」持ち出してた。その議論は90年代に既出なのですわ。
こいつみたいなのが社会学者や若者標榜すんのマジで勘弁してほしい。
●村澤和多里 他 2012 『ポストモラトリアム時代の若者たち』
本書は70年代のところで紹介した小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』になぞらえた表題となっている。ポストモラトリアム、つまり小此木が指摘したモラトリアム期間としての青年期がなくなってしまいましたよーってな話。実際、大学入学するとすぐに就業のことを考えなければらず、将来のことを考える猶予期間などはもはや用意されていないのである。
そのくせ、就職に際しては自分が何者であるかということが問われることになる。エリクソン的な意味でモラトリアムがないと自己像が確固たるものとして形成されないのだが、アイデンティティを問われるという矛盾。というか無理ゲー。
●浅野智彦 2013 『「若者」とは誰か―アイデンティティの30年』
本書は本稿みたいに若者論を70年代あたりから整理し、かつ論文として成立させた良書である。わたくしがこうして「若者論」論に関心を持ったのもひとえに本書のおかげに他ならない。特に注目すべきは、本書が若者の変化ではなく、むしろ大人世代の眼差しの変化に中心的に焦点をあてていることだろう。また若者論の中で構成された概念(ニートやオタク)が当の若者の実践にも影響を与えるのではないか、と冒頭で論じている。ハッキングがいうところの「ループ効果」に近い発想かもしれない(でも本人と話したとき、これはうまく捉えられなかったって言ってたけど)。
6:総括(と言い訳)
ちょうど50冊!けっこう読んだね~。ぶっちゃけ00年代以降の若者論はほぼ新規性を感じないんだよね。だからさくさく読めるんだけど、まあ研究としてはどうなのって思うよね。みんな擁護/叩く―コミュニケーション/労働・雇用っていうコンビネーションでポジション決めて、あとはサブカル分析なりネット論客なり名乗っていればいいからね。ぼろい仕事よ。
最後に諸都合から登場しなかった文献(というか研究者)について言い訳しておこう。
●広田照幸……この人出さずに若者語るなって話ですよ。苦しいながらに言い訳すると広田さんはどっちかというと学校教育系で、学校教育の言説って微妙に若者論とは異なるんだよね。子ども/若者の差異というか、前者が保護や評価の対象であるのに対し、後者は(大人世代による)差異化の対象みたいなね。ルーマン的にいえば扱うコードが違う。
●苅谷剛彦……東大比教社に迷惑かけたから。同上の理由から。
●仁平典弘……この人が優秀な研究者だっていうのは存じております。が、手が回らなかった。『ボランティアの―』は600ページあるからね。正直他の若者論と同列で扱っていいのかすら定かじゃねーわ。
でもまあけっこう網羅できていたのじゃないかな。とりあえず完走記念にサライでも張っておくか。