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Goffman,Erving 1963 『集まりの構造』

http://www.amazon.co.jp/集まりの構造―新しい日常行動論を求めて

 

 ゴフマンの主著である本書は、相互作用秩序観についての基本的な指針について論じられており、かの悪名高い「ゴフマネスク」で書かれた文献の中でも比較的読みやすいものなのではないだろうか。

 

 第1部 序論
 第1章 問題の所在
 第2章 基本的概念

第2部 焦点の定まらない相互作用
 第3章 関与
  1 身体表現
  2 関与
  3 関与シールド
 第4章 関与配分に関する規則
  1 従属的関与の表現形態
  2 主要関与に関する義務
  3 非関与の余地
 第5章 関与対象に関する規則
  1 自己の身体への関与
  2 離脱
  3 不可解な関与

第3部 焦点の定まった相互作用
 第6章 対面的かかわり
  1 儀礼的無関心
  2 対面的かかわりの構造
  3 接近できる権利
  4 別れる権利
 第7章 知り合い同士のかかわり
 第8章 知り合いでない者どうしのかかわり
  1 かかわりを求められる立場
  2 かかわりを求める立場
  3 相互開放のかかわり
  4 回避と違反
  5 逆コントロール
 第4部 接近可能なかかわり
 第9章 コミュニケーションの境界
  1 状況の慣習的区分
  2 接近可能なかかわり
  3 かかわりの慣習的区分
 第10章 相互関与に関する規則
  1 制約
  2 場面が誘発する相互関与
  3 漂流
  4 関与を隠す行為
 第11章 封じ込められていないかかわり
  1 注意をそらすこと
  2 かかわりの境界に生じる共謀行為
  3 大騒ぎ
  4 現場放棄

第5部 解釈
 第12章 状況における適切な行為の構造と機能
 第13章 きびしい規則とゆるやかな規則
 第14章 状況における不適切な行為の兆候とその意味
  1 コミュニティ
  2 社会制度
  3 社会関係
  4 かかわり
 第15章 結論





 

 

 

◆問題の所在

なぜある行動様式が「適切」/「不適切」とされるのか、その歴史的過程とはいかなるものか、ということを考えるのが本書の目的であり、この問題を考えるにあたってゴフマンが用いた概念枠組みは「社会秩序のモデル」だ。ここでの社会秩序とは「人間が目的を追求する際に、その様式を規制する道徳律から生じる状態」(p9)であり、その道徳律―制約のうち本書が取り上げるのは「個人が直接的・物理的に他者と場を共有する際、あるいはそのことのために、自分および他者をどのように規制するか、といった方針を支配する制約」(p10)であるという。この社会秩序の定義によって、必然的に対面コミュニケーションにおける秩序が本書における射程となるだろう。

 

 とはいえ、社会秩序がなにを指示しているかということを定義してもまだ主題がざっくりし過ぎている。そこでゴフマンは次に、この秩序を成り立たせている要素を考える。曰く、秩序は相互的なメッセージ(情報)の交換により成立しており、そのうち本書が扱うのは「脱身体的メッセージ」(手紙や贈り物)に対する「身体的メッセージ」である。会話やジェスチャーなどに代表される身体的メッセージは、送り手と受け手のナマの感覚に依存しており、送り手もまたメッセージを受け取る可能性に常に曝されているため、送り手=受け手となる。

 では、この身体的メッセージはどのような条件下で共有されるのだろうか。ゴフマンは3つの条件を想定する。

 

①「集まり」……「直接的に居合わせている2人以上の集合」(p20)

②「状況」……「集まりの空間的環境の全体」(p20)

   ↓     →「状況」の成立には、その「集まり」の視覚情報を得るため、視界の境界の相互性が不可欠。

③「社会的場面」……「多くの状況や集まりに社会的コンテクストを与え、それを形成したり、解体したり、再形成したりるするが、その過程              で、ある型の行為がその場に適したものとして承認されるようになる」(p20)

              →例)パーティー、職場、ピクニックなど 

「集まり」はパーティーにおけるボーイ(職場)/ゲスト(遊び場)や、避暑地における観光客/地元住人といった具合に「社会的場面」という変数が絡み合って形成されるとゴフマンは定義している。そして本書が注目するのは具体個別的なカテゴリーが定まっている「社会的場面」ではなく「集まり」と「状況」の方だ。

 また「状況」には「単純状況的側面」と「共同状況的側面」という2つの側面があり、前者が状況外で起こる現象(例えば状況の想起や反省等)なのに対し、後者は状況内部でしか起こりえない現象である(挨拶や会話など)という。そしてこのうち本書が注目するのは後者の「共同的側面」である。よって本書の関心は「集まり」とその空間的環境である「状況」のうち、「共同的側面」であるということになる。

 この諸条件の前提を引き受けた上で、今一度本書の目的を明確にすると「人々がおたがいに居合わせるとき、人間の身体は物的の道具としてだけではなくコミュニケーションの役割も果たすということ」―「状況適合性の規則」が相互行為の中で如何にして成立するかということを明らかにすることにある。

 この「状況適合性の規則」は段階的に適用されるものであり、まず第一段階として、その場にたまたま居合わせた他者を一瞥することで、その他者の情報を集めるコミュニケーションが成される「焦点の定まらない相互作用」があり、次の段階として、人々が近接しており会話のやりとりを通して単一の焦点を指向するコミュニケーションが交わされる「焦点の定まった相互行為」に移行する。

 

 

◆焦点の定まらない相互作用

 ・関与

 「状況適合性の規則」が適用される最初の段階―「焦点の定まらない相互行為」にまず本書は注目する。この時重要になってくるのが「関与」である。 

 関与とは「ある個人が、ある行為―一人でする仕事、会話、共同の仕事など―をするのに調和のとれた注意を払ったたり、あるいは払うのを差し控えたりする能力」のことで、これには「主要関与」と「副次的関与」という対立軸と、「支配的関与」と「従属的関与」という対立軸の二つがある。

・主要関与……その時点で最も重要で、効果の決定因となる関与 (例)工場での作業

・副次的関与……主要関与と並列して行うことのできる関与 (例)工場での作業における鼻歌

 

・支配的関与……個人に対して義務として課され、社会的場面においてはこれに関与せざるを得ない

・従属的関与……注意を支配的関与ほど払わず、また断続的に関わることができる

 

 留意しておくこととして、多くの場合主要関与=支配的関与、副次的関与=従属的関与だが、そうではない状況も存在するということが挙げられる。例えば「工場での労働」はその工場内集団における支配的関与のはずだが、単純労働で他に「夕御飯の献立を考えること」で頭がいっぱいならば、「工場での労働」=支配的関与/副次的関与、「夕御飯の献立を考えること」=従属的関与/主要関与となるだろう。

 また、「場面」ではなく「集まり」においても、人は最小限の主要関与を保とうとする。多くのエレベーターの中には鏡があるが、その存在によって多くの人が偶発的に乗り合わせた場合でも、主要関与―「身だしなみのチェック」にコミットすることが可能になる。むしろ「集まり」において無目的である状態、つまり主要関与をしない状態は不当であると見なされてしまう。

 もちろん例外もあり、ホームレスのようにコスチュームによって主要関与をしないことが正当化されることもあれば、危機的状態の微笑みのように非関与をアピールすることで冷静さ―「過剰関与」の回避を示すこともできる。

 

 

◆関与対象の規則

 関与には様々ながあり、中でも特筆すべきものとしてゴフマンは3つの例を挙げる。

①「自己の身体への関与」

 食事、着付け、化粧、居眠りなどに代表され、多くの場合これは従属的・副次的関与であることが多い。よって、それが埋め込まれる状況によっては不当なものとして扱われることもしばしばある。

 

②「離脱」

 状況から遊離した心の世界への関与。下位分類として「黙想」や「ひとりごと」「つぶやき」などが挙げられる。特に後者は主にスキゾフレアや正統な教育を受けていないものが行うとされるが、戦略的に自己の不適切な行為の訂正(EMふうに言うなら自己「修復」)を行う際にも用いられる。

 

③「不可解な関与」

 「離脱」―「黙想」、「ひとりごと」、「うわの空」はそれが無意識下の関与だとしても、後に本人は「離脱」していたことに気づくことができるという特徴がある。自己の「離脱」に気づくことができない場合、それは「不可解な関与」となる。一般に「不可解な関与」は望ましくないものとされるが、それが異質だからというより、むしろ気づくことができないという性質=集まりに身を戻せないという性質それ自体にある。またその行為が不可解な関与か否かという基準はそれに内在するのではなく、あくまでその「集まり」における他者の視線によって規定されているということも重要である。

 

 

◆対面的かかわり

 ここまで「焦点の定まらない相互作用」についてまとめてきたが、次からは「焦点の定まった相互作用」についての考察に移る。その前段階として、両者を架橋する相互作用―「対面的かかわり」についてのゴフマンの見解をここではまとめる。対面的かかわりに発展する前に、「集まり」においては「儀礼的無関心」という作法が見られるとゴフマンは指摘する。儀礼的無関心はあまりに有名な社会学上の概念の一つなのでここでは解説を控えるが、これは立ち振る舞いにおける暗黙の相互作用以上のなにものでも未だないため、「焦点の定まらない相互作用」に区分することができる。そして「儀礼的無関心」の状態が乗り越えられ、その「集まり」内において単一の目的に向かい始める場合、つまり相互の身体的情報以上のやりとりが生まれた時、ここで初めて「対面的かかわり」が発生する。

 さらにゴフマンはそのかかわりの形態を、参加者の人数から3つの類型に分ける。

①「完全に焦点の定まった集まり」

 焦点が完全に定まるためには、「集まり」のメンバー全員が同一の目的を志向していなければならない。つまり「2人」の時のみこの状態になる。

②「部分的に焦点の定まった集まり」

 部分的に焦点が定まるとは、逆を返せば同一の目的を志向していない者のいる可能性がある状態のことなので、「2人以上」の「集まり」においてこれになる。

③「多くの焦点をもった集まり」

 様々な焦点が並列している状態とは、「3人以上」の者がいて、複数の出会いが形成される可能性がある「集まり」によって達成される。

 

 また「集まり」において「対面的かかわり」が生じるか否かは規範的な問題であり、生じる理由としては参加の拒否によって、社会の成員になることを拒んでいると受け止められる可能性があるからで、逆に拒否する理由としては、その「かかわり」において脅迫、嘘、侮蔑などをされる可能性があるということ、つまり「信頼」がそこにないことが挙げられる。

 

◆知り合い同士のかかわり/知り合いでない者の同士のかかわり

 ゴフマンはさらに「対面的かかかわり」が生まれる関係性として「知り合い」/「知り合いでない者」の二つを区別して考える。順に見ていこう。

・知り合い同士のかかわり

 「ふたりの間でいったんこの情報関係が成立すると、それは例外はあるにしても社会的連帯を生み、新しい、普通は終わりのない相互関係をもつことになる。」また、「知り合い」に対する義務として会釈や返戻といった儀式的なジェスチャーー「社会的認識」を行うことが挙げられる。知り合いは「公式」に成立する場合と、「非公式」に成立する場合があり、前者が友人からの紹介などといった自己紹介の義務がある場において成立した知り合いであり、後者はその義務がない状況下で成立した知り合い関係である。

・知り合いでない者同士のかかわり

 一般に考えられるようこちらの方が敷居の高いかかわりであり、この時、顕著となる問題は「個人の利益を損なうか否か」ということだ(対面的かかわりにおける「信頼」)。しかし、立場性によってかかわりを持つことのハードルが下げられることがある。例えば、警官や老人、子どもに対しては知り合いでなくてもかかわりを持つことが比較的容易い。また危機的状況などといったシチュエーションを共有している際にもかかわりは正当化されると考えられる。

 

 

◆コミュニケーションの境界

 ここで考えるのは「対面的かかわり」において、「傍観者」(集まりにおいてかかわりに関与しない者)に適用される規則についてである。まず、かかわりとは可視的なものであるため、傍観者の視点からすればそれは「接近可能なかかわり」であるということができる。逆に、かかわりの中にいる者の視点からすれば部外者の関与を防ぎたい場合もあるので、遮蔽物等によって「接近可能なかかわり」ではない状況を作ることもできるだろう。

 傍観者から見たかかわりには様々な慣習的なルールが適用されており、ゴフマンはそうした「かかわりの慣習区分」を以下のようにまとめている。

(a)傍観者は関わりに対し、儀礼的無関心を装う。

(b)傍観者が聞き耳を立てないであろう、という信頼のもとかかわりの参加者は秘密めいた動作をしない。

(c)傍観者がかかわりに新たに参入する場合、タイミングを見計らう必要がある。

(d)かかわりの区切りを維持するため、参加者は物理的に空間を区分する。

(e)「多くの焦点をもった集まり」において、「状況の再構成」が行われることもある。

→学校等で「集まり」全体に「昼休み終了のチャイム」がなる時に、傍観者と参加者は再編成されるだろう。

 

 

◆相互関与に関する規制

 では次に、傍観者がいる状況下の参加者の相互関与について考えてみよう。とりわけここでゴフマンが注目したのは「傍観者が出会いにどう振舞うか」ということと、「参加者が集まり全体にどう振舞うか」ということだった。例えば「場面に誘発する相互作用」では、その相互作用が埋め込まれた場面によって取るべき相互作用が決定され、それに参加しない、つまり「場に反する」振る舞いをした場合、何らかの負のサンクションが下されることになるだろう。

 とはいえ、実際にはある関与に夢中になってしまい、その状況における主要関与や支配的関与から無意識下に遠ざかっていくことも考えられる。その例の一つとして先に挙げた「離脱」を挙げることができるが、これは相互的な営みではなかった。ゴフマンがここで提示したのは「漂流」という状態であり、結婚式における口論や葬儀における談笑などといった相互関与として状況からの遠ざかりがこれに該当する。

 

 

◆状況における適切な行為の構造と機能

 ここまでで状況や集まりには様々なルールが適用されるということを紹介してきた。本書の12章に相応するここでは、ゴフマンはそもそもそのルールがなにによって規定され、どのように機能しているかを考える。

 まず諸ルールの規定を考えるにあたり、ゴフマンが想定したのは「状況適合性の規範」の存在だ。どのように関与配分を調整するかということや、かかわり合いになるべき相手などはすべてこの社会的価値―関与規範によって規定されており、これがゴフマンのいう「適切な行為」の構造の部分に相当する。そして状況適合性の規範は、集まり内部における在り方を具現化し、集まりそれ自体を単なる人の集合から、それ自体が社会的な営みの一形態に変化させる。いわば「集まり」の中にある(山本七平のいうような)「空気」の存在を可視化し、それによって単なる集まりにおいても秩序が生まれるということがゴフマンの主張である。

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