top of page

学術用語警察24時

↑今のキッズは知らんだろうな……

※本稿は濫用されている学術用語を見つけ次第取り締まる目的で作成されたであります。

シュレディンガーの猫(量子力学)

 文理問わず全国の学者相手に「一番有名な思考実験とは何か?」というアンケートをとったら、シュレディンガーの猫がおそらく最も票を集めるだろう(たぶん)。よく耳にするのは「箱を開けてみるまで猫の生死はわからない」ことから転じて「明らかになるまで結果はわからない」という意味の、いわば諺的な用法だが、これは残念ながら誤りである。もちろん「にゃんこが可哀そう……」とかそういう話でもない。しかし著者は高校物理の授業すら受けたことすらない完全なる門外漢のため、あまり深入りせずに解説しようと思う(まぁシュレディンガーの猫は分析哲学とか科学哲学で話題に上がったりするけど)。シュレディンガー方程式とか出てくるとマジでわけわかめ。

 シュレディンガーの猫は古典物理学に位置づけられるエルヴィン・シュレディンガーが提示した思考実験で、量子力学における確率解釈への批判がその目的としてある。すっごく噛み砕くと、量子力学の確率解釈って理論に忠実に従うと、理論上はあり得ても現実的にはわけわかんないことが生じちゃって、そのわけわかんないことを指摘したのがシュレディンガーの猫って思考実験、といえるかな。ちょい詳しく見てみよう。

 ミクロの世界は本当に謎だらけで、例えば粒子には「人に観測されているときと、観測されていないときで状態が異なる」というよくわかんない特性がある。ダルマさんが転んだかな。ちなみにこのことを証明した実験としては二重スリットの実験とかが有名。マクロ世界では絶対にありえない特性だけど、そうである以上経験的事実として受け入れるしかないので、ミクロの世界において粒子は、観測されると状態が変わる、もしくは観測されて状態が収束(波束の収縮っていうよ!)する=確率的に複数の「重なり合っている」状態を持っていることが所与とされることになる。これがいわゆる波動関数の確率解釈(コペンハーゲン解釈)だ。

 で、例えば箱の中に「1時間後に50%の確率で崩壊する放射性原子」があるとしよう。すると1時間経過した箱の中には、放射性原子が50%の確率で存在しているとも存在していないともいうことができる。つまり観測されるまではXとYという2つの状態が同確率で「重なり合って」いる。シュレディンガーが疑問を持ったのはこの点だ。この実験を発展させ、箱の中に「猫」、放射性原子を検知する「ガイガーカウンター」、そのガイガーカウンターがスイッチとなった「青酸ガス発生装置」の3つを用意しよう。すると、1時間後にはガイガーカウンターが50%の確率で止まり、50%の確率で青酸ガス発生装置がONになり、したがって50%の確率で猫の死体ができあがる。さて果たしてこのとき、生きている猫と死んでいる猫が「重なり合って」存在しているとしてもよいのか?

 というのがシュレディンガーの猫っていう思考実験。ちなみに未解決問題のはずなんで答えはないよ。まとめれば「確率解釈をすると、直観と明らかに反する帰結が導かれる」って話であって、「やってみなきゃ結果はわかんねぇ!」みたいな熱い展開じゃねーす。

トーンポリシング(政治学ほか)

 トーンポリシングという言葉はあまり聞き覚えがないかもしれない。というのもまだ日本でバズってから日の浅い概念だからだ。​話題になったのはだいたい今年(2017年)の6月くらいで、twitter上でつぶやかれるや否や、爆発的にポリコレ界隈を中心に拡散された。そんな若い概念をなぜ取り上げたかというと、この誤解は議論という実践そのものの有効性を根幹から揺るがす危険性を孕んでいるからに他ならない。即刻、訂正される必要がある。

 トーンポリシングは英語で表記すると"Tone Policing"。直訳すれば「口調取り締まり」となるかな。最近はびこっている使われ方を見ていると、クソ激おこぷんぷんな人に対して「お前の口調は荒いから冷静になれよ」と指摘するのはトーンポリシングが適用される好例になる。しかしこれは全くもって正しくない。トーンポリシングはもともとセクシャル・マイノリティやエスニック・マイノリティなどの怒りや悲しみの表出に対して、マジョリティ側が「落ち着け」「冷静になれ」と指摘し、不当にその感情を貶める行為を意味するからだ。すなわち議論に内在する権力関係・抑圧関係が想定される場合でなければ、トーンポリシングにはならない。これは絶っっっ対に間違えちゃいけないところだ。

 トーンポリシングの拡大解釈が許されない理由はこの記事の@Altageって人が丁寧に整理してくれている。まさしくこの通りで、原理主義者が暴力を肯定する方便ともなるし、その暴力の制止に対する足枷にもなるし、愚かな人が感情論を正当化するための道具としても使うかもしれないし、究極的には暴力の応酬をも正当化しかねない。

 個人的にはあくまで議論の場に限定するのであれば、原義のトーンポリシングという概念そもそもが不当であると思う。なぜマイノリティの感情までも受け入れる必要があるのか、どういう論拠によってその忖度は強制されることになるのか、そもそも議論における理性的実践は近代人に求められる根源的な素質ではないのか、などなど。一言でいえば「知ったことじゃねぇよ」という話だ。淡白に聞こえるかもしれないが、(特に学術的な)議論に関していえば、万人が対等でフラットな関係の中でなされなければならない。そこに立場性を持ち込み、主張を論理的正しさ以外から正当化するのは、つまるところポジショントークに過ぎない。仮にそれが抑圧された弱者によるものだったとしてもだ。

トラウマ(精神医学・臨床心理学)

 「『死霊の盆踊り』(※エド・ウッド脚本のZ級映画)怖すぎ!トラウマになるわ~」みたいな感じで、日常会話の中でトラウマ概念を耳にする機会は多々ある。いつからこんなに広範に使われるようになったのか調べてみると楽しそうだけど、まぁ本題とは関係ないのでこの問いは留保しておこう(ちなみに「池袋ウエストゲートパーク(00年)」っていう伝説的ドラマでは、トラウマが物語のキーとして登場するね)。

 まぁ日常語と化してしまった以上しょうがないのだけど、上のような使い方はあまりに軽すぎる&雑すぎる。そもそも厳密な定義に従えば、深刻なトラウマ体験はほとんどの場合、トラウマ体験として自覚することができない。だから「トラウマものだわ~w」とか普通は言えない。これはフロイトの時点ですでに「抑圧された記憶」という概念でちゃんと定式化されていて、比較的最近確立された脳科学の分野でも、人の脳に無意識化に辛い記憶を忘却するメカニズムがあることは認められている(らしい)。

 トラウマ概念の端緒は先の通りフロイトにまで遡り、そのあとフェリンチやサリバン、あと愛着理論のボールビィとかって精神医学者・臨床心理学者がいろいろ考察してきた経緯がある(この辺詳しく書くほど知識なし)。でまぁいろいろあって、トラウマ概念に注目が集まったのは、ベトナム戦争帰還兵の心的外傷が深刻な社会問題化した1970年代とされている。実際、1980年に出たDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)-Ⅲにおいて、PTSDの記述と共にトラウマ概念はきちんと追加されており、それによれば「明らかにそうと認められ、ほとんど誰にとっても重大なストレスとなるような出来事」がトラウマとなる。1992年のICD(International Classification of Disease)-10でも「ほとんど誰にとっても打ちのめされるような苦痛を引き起こし、格別の脅威になったり破滅的な性質を持ったりするようなストレスや出来事」とほぼ同様の定義がされている。ただPTSDの研究が進むに連れて、トラウマの定義はビミョーに変わっていることも注意しておこう。DSMとかの記述を見ればわかることだけど、臨床心理や精神医学におけるトラウマは、PTSDと不可分な概念なので興味あったら調べてみるよろし。

サブカルチャー(社会学)

​ もしあなたが中野、吉祥寺、高円寺あたりの西東京をブラブラしてる時に、「ロッキーホラーショー」とか「狂い咲きサンダーロード」とかのカルトムービーが好きで、「モールル」とか「ゆら帝」聴いてて、宮台とか大槻ケンヂの著作読んでて、黒縁メガネにショートボブ、首から一眼レフかモンスタービーツのヘッドホン吊り下げながらマキシ丈のスカート履いている(あとチーク濃いめの)女を見かけたら、それは99.9999%の確率でサブカル系女子だろう。さぁもたもたしてないで奴らが久保ミツロウや能町みね子の話をしだす前に早く脱兎するんだ!

 とまぁこんな感じで「サブカル」という言葉がちょっとコアな若者文化を指示する語として日本で使われるようになったのは、だいたいフリッパーズとかオザケンとか出てきた90年代くらいから(これは文化社会学とか表象文化論での通説)なのだが、大元をただせばサブカルチャーは40年代末~50年代にアメリカの社会学者によって提唱された概念だ。ちなみに日本語版英語版のwikipediaでは『孤独な群衆』でおなじみのリースマンが最初に使った人とされてるけども、これは独自調査によりあまり信憑性がないことがわかった。wikiには「リースマンが1950年に使ったのが最初」と書いてあるが、リースマンが1950年に出した著作は"The Lonely Crowd"のみ。でこれのpdfに"subculture"で文字列検索かけてもヒットしないんだな。まぁ同年にリースマンが論文とか出してたら話は別だけど、そんな重要な論文ならかなり有名なはずで、検索したらすぐ出てきそうなものだ。また"ブルデューおばさん"ことサラ・ソーントンは、サブカルチャー研究の鏑矢をリースマンに先立つ40年代末における初期シカゴ学派のフィールドワークに見ているし、まぁこの辺はここで詳しく論じても仕方ないかもしれんね。

 重要なのはリースマンも初期シカゴ学派も、サブカルチャーをメインストリームの文化に対する下位集団(エスニック・マイノリティ、労働者、セクシャル・マイノリティ、移民、ギャング、若者など)によって織り成される文化一般として定義していたことだ。つまり若者文化も確かにサブカルチャーの外延なのだが、若者文化=サブカルチャーではない。若者文化をサブカルチャーと呼ぶのは、いわばスパゲティのことをパスタと呼ぶようなものだね。

 ただ科学領域において提唱された概念が、日常的領域において新たな意味を獲得し、その後において科学的領域に再流入するみたいな流れは(サブカルチャーに限らずだけど)観察される。そもそもこういう「ループ効果」(Hacking)を簡単にまとめておくために本稿は作られたりしてるよ。だからあまり躍起になって「本来」の概念の使い方を強調するのもどうかというね。日本語用法でも「一生懸命は『生』じゃなく正しくは『所』だろ!」とか今さらあんまり言わないじゃん。なおサブカルチャーのループ効果に関しては別に論文する予定なので見てみてね(けっこう自信作になる予定)。

防衛機制(精神医学・臨床心理学)

 防衛機制は臨床心理士試験はもちろん、教員採用試験とかの公務員試験でも頻出なので知っている人は多いだろう。現行の保健の教科書にも掲載されていることから、中高生でもテストに出たよ!ってな人はけっこういるはず。しかし防衛機制の誤解は他でもない、このように保健の授業で扱われているということによって助長されたものだ。

 防衛機制はもともとトラウマのとこでも登場したジークムント・フロイトが提唱した概念で、娘のアンナ・フロイトによって修正されたものが一般に知られている。そしてこのフロイト娘が追加した「昇華(sublimation)」が教育現場では誤解と共に教えられている傾向が強い。防衛機制は何か嫌なこと(テストで悪い点とったとか、大会でミスったとか、好きな子に振られたとか)に対して、その負担を軽減するために無意識下でなされる正常な心理的作用のことだ(過剰だったり、恒常的だったりすると適応障害とされたりもするけど)。したがって防衛機制とはどれが良いとか悪いの話ではなく、戦略的な心の働きだといえるだろう。子どもっぽく泣きわめく(退行)のも、「酸っぱいぶどう」として諦める(合理化)のも、決して優劣の関係にあるわけではなく、無意識下で戦略的に心理的負担を軽減しているのである。

 しかしながら教育現場では(主に性的)欲求を、芸術や運動活動へ転化させる「昇華」が規範的に良いものだと教える場面が散見される。何度も述べているように防衛機制はどれも正常な心の反応であり、したがって優位/劣位の関係にもないし、規範的判断が伴うものでもない。こういう学校教育における規範的意図みたいなのははっきりいって科学の中立性を壊す唾棄すべきものなので、もしこうした場面に出くわすことがあれば、はっきりクソ喰らえと言ってやろう(退行)。

江戸しぐさ(歴史学)

 江戸しぐさに関しては他の誤解とはちょっと毛色が違う。というのはこの江戸しぐさ自体がそもそも嘘っぱちであり、したがって概念の誤解ではなくて、江戸の歴史そのもの誤解に関する問題だからだ。詳しく見ていこうと言いたいとこだが、ぶっちゃけwikipedia程度のサイトですらそこそこ詳しく江戸しぐさの虚構性について書いてあるし、「江戸しぐさ」で検索して上位にサジェストされるのサイトの多くは批判的な内容の記事だ。なのでいかにそれが歴史考証に耐えられるものではないかここでわざわざ論じる必要もないかな(詳しくは各自調べてね☆)。まぁ「NPO法人江戸しぐさ」っていうクソ馬鹿団体がデマを流布させた諸悪の根源ってことだ。

 ただこうした偽りの伝統がまことしやかに(それこそ道徳の教科書に掲載されちゃうくらいに)共有されている事実は注目に値する。というのは、この江戸しぐさ問題、歴史学者のエリック・ホブズボームがいう「伝統の創造」の議論にぴったり当てはまるからだ。ホブズボームは一見すると所与とされる伝統的文化であっても、その時々の時代的要請に従って権力者によって構成されている可能性を示唆した。伝統は国家の成員に対して、民族的・歴史的な一貫性を提供するが、その裏には当然ながら権力による社会のシンボル操作という一面もあり、恣意的な決定という危険性を孕んだものであるということは忘れてはならない。あたかも「江戸の時代から継承されている」と見せかけることで、「日本人は礼儀正しい民族」といった、科学的根拠のない疑似的文化を蔓延させる要因となるのである。

 

表現の自由(法学・憲法学)

 頭の頭痛が激痛で痛い。表現の自由はこんな片手間で書いているコラムで扱うには重すぎる言葉だ。究極的にはテクスト解釈の話なので一元的に正しさを規定できないし、それが故にここから派生した議論も無数にある。また法的紛争の場面に限定して判例から帰納的に正しさを考えるのか、「そもそも自由とは何か」みたいな壮大な規範から演繹的に正しさを考えるのかということも問題になってくる。なのでここでは誤解されがちな文脈における表現の自由に焦点を絞り、検討していこうか。

 まずはヘイトスピーチは表現の自由によって保護されるか否か、というホットなところから考えよう。頭の弱いネトウヨが表現の自由を盾にしてヘイトする権利を主張する場面は嫌ってほど見かける。まず大前提として明確に日本の法務省はヘイトスピーチは憲法21条の適用外と宣言している。つまりお国の見解としては、ヘイトは表現の自由によって正当化されない。よってヘイトを表現の自由の範疇とする主張は、少なくとも日本国憲法における表現の自由が保証する権利を完全に履き違えているといえるだろう。しかしここからが問題だ。現状この国にはヘイトスピーチのオフィシャルな定義がどこにも存在しない(法的整備が追い付いていない)のである。したがってヘイトの取り締まりは各々の自治体に委ねられることになるのだが、この境界線引きを間違えると、馬鹿なリべサヨがやってるような恣意的な表現規制がまかり通ってしまう。ヘイトの規制のために表現の自由が侵害されるようなことがあっては、まさしく本末転倒だろう。性急かつ慎重に実定法の中でヘイトが定義される必要がある。

 ​(主に猥褻な)漫画やアニメ、小説やビデオも表現の自由における係争点の一つであり続けている。規制派の主張としてはチャタレー事件の頃(1951年)から「性的秩序・性道徳を乱すため」という一貫した論調をとっているが、いまいちパッとしない。そもそもポルノグラフティとは公共良俗を乱すものなのか。もちろんそこに因果関係がないとはいえないが、明確にあると示すこともできない。そして因果関係ないし相関関係を明示できない以上、これを論拠に規制すべきとした場合も、規制すべきでないとした場合も未知論証に陥ってしまう。ただ性的欲望としてのセクシャリティ(当然それは男性によるものだけとは限らない)に対する根源的な嫌悪感から規制を求めるような声は、単なる感情論に過ぎない点において唾棄すべきものであり、表現の自由を恣意的に剥奪するものであるということには注意しておく必要があるだろう。

 書き始めて思ったけどやっぱり論点過多だわ。この辺で終わるお。

自然選択・自然淘汰/適者生存(生物学)

 進化論というのは往々にして誤解に基づいた解釈がなされてきた。特にナチス・ドイツによるゲルマン選民思想のプロパカンダに利用された事実はとうてい看過できるものではない。しかしながら、そもそも生物学における進化というのは「良い方に進む」とか「改良される」とかっていうポジティブな意味ではなく、「環境に適応するために起こる集団レベルの生物の遺伝子的変化」以上の意味を持たない。進化とは改良・改善のことではなくて、単に環境にあわせた変化のことなのだ。

 ダーウィンが提唱した自然選択の概念なんかは、一般ピープルのほとんどが誤解しているとしても過言じゃないだろう。これは主にダーウィン進化論を下敷きにして展開された社会進化論の功罪だともされている。スペンサーてめーのことだよ!実際、ハーバード・スペンサーの罪は大きくて、例えば自然選択の原理を紹介するときにセットで出てくる適者生存の概念は、ダーウィンではなくスペンサーが作り上げたものだ。少なくとも『種の起源』に適者生存なんて言葉は一言も出てこないゾ!。

 自然選択は一般に「環境に適応した者だけ生き残り、そうでない者は滅びる」といったふうに説明されるが、これは誤解甚だしい。現代生物学のタームを使えば自然選択とはダーウィン適応度の変異のことに他ならない。ダーウィン適応度とは、端的いえばある遺伝子型をもつ生物が生涯に残せる子孫の数のこと。それが諸々の要因によって変異することを自然選択とダーウィンは呼んだ。確かに環境に適応した生物ほど子孫を多く残せるのは間違いないが、種としての生殖機能や免疫力など、さまざまなファクターが絡んでくる以上、環境に適応していることばかりが重要なわけではない。そして自然選択は必ずしも種の生存みたいな仰々しい話に関係するとも限らない。子どもの数は個体差があるため、自然選択は常に作用しているからだ。まぁ生物学に限らず日本語の字面だけ見て勘違いしてしまうのはよくあること。優性/劣性遺伝子とかね。なのでテクニカルタームを使う場合は、焦らずしっかり元の意味を調べる癖をつけておこう。

ベクトル(数学・物理学)

 「方向性の違いから」ってのはよくある売れないバンドの解散理由だ。これを「メンバーの考えのベクトルの違いから解散」と言い換えると違和感しかないのだけど、両者の違い、つまり方向性とベクトルの違いを正確に説明できる(特に文系の)人はけっこう少ないんじゃなかろうか。

 実際、方向性とベクトルを同じ意味として利用している人はよくいる。「怖い話?日本の年金問題とか?」ってボケに対して「それは怖いの方向性が違うでしょw」ではなく「それは怖いのベクトルが違うでしょw」みたいに突っ込んだりね。まぁ両方別に意味としては通じるんだけど、ベクトルの場合は方向にプラスして「度合い(長さ、大きさ、強さなど)」という概念も含まれることに注意しなければならない。

 高校のときに数学万年欠点マンだった著者が説明するのは本当におこがましいのだけど、数学Bにおいて、平面上のベクトルは「大きさと方向をもった量」として定義されている(ちなみに大きさだけ持っている数はスカラーって呼ぶね)。微分・積分でベクトルを使うのも、こうした特性があるからだ。微分・積分・いい気分っつってね(嫌いな高校時代の数学教師がずっと言ってた)。

 つまり「ベクトルが違う」といった場合、単に方向性のみならず、目指す数値や数量までも異なっていることが含意としてあることになる。だから具体的には「お前のやってることより方向性良いし、やってることの強度もあるぜ」くらいの強い言い方になっちゃうので注意しよう。まぁ事細かに突っ込んでくるめんどくさい人も稀有だろうけど。、

フェミニズム(政治学ほか)

 社会科学においてもっとも誤解されている立場といえばフェミニズムだろう。もう本当にごっちゃごちゃで、当のフェミニストを標榜している人ですらよくわかっていないことが多い(著しく履き違えてるフェミニストは似非フェミってdis入れてる)。

 まず留意しなければならないのは、フェミニズムという一言で包括できるほど一枚岩の立場は存在しないことだ。今ここで徒然に挙げてみるだけも、ラディカル・フェミニズムにレズビアン・フェミニズム、クィア理論に精神分析派フェミニズム、ポストモダン・フェミニズム、マルクス主義的フェミニズム、ポストマルクス主義的フェミニズム、エコロジカル・フェミニズム、フェミニズム神学、フェミニズム文芸批評……などなど。だから「フェミニズムはクソだ/フェミニズムは素晴らしい」みたいな主張は、いわば「食べ物ってまずい/食べ物っておいしい」って言うくらいには馬鹿げている。で説明していったらきりないんだけど、主に目につくとこだけまとめておこうかな。

 まず女性の公的領域における社会的顧慮(自己決定権の獲得など)を訴えるのは一番歴史が長いリベラル・フェミニズムだ。だいたい起源はフランス革命くらいにまで遡ることができ、男女雇用機会均等法などは一応この流れに位置づけられるかな。でもリべフェミの主張はあくまで公的領域の議論に留まる。そこで1970年代に出てきたのが女性の私的領域における顧慮(家父長制批判、男女という区別に基づく性差別や公/私二元論の廃絶)を訴えるラディカル・フェミニズム。いわゆる第二派とされる潮流で、ケイト・ミレットの「個人的なことは政治的なことである」というスローガンにその考え方は集約されているね。

 私見だけど、日本でフェミニズムといった場合、このリべフェミとラディフェミの混合物が一般に想起されているのではないか。だからこそ両者にゴッソリ抜け落ちている視点とかがフェミニズムの抱える課題として問題化される。例えばラディフェミは異性愛を前提としていたきらいがあり、セクシャル・マイノリティについて考える枠組みを持っていなかった。実際、80年代に出てきたレズビアン・フェミニズムとか、90年代に出てきたクィア理論とかがこの点を猛烈に批判している。他にもエスニシティに対する視角がなかったりね(これはフェミニズム文芸批評やブラック・フェミニストの台頭から窺うことができる)。いずれの話も正統なフェミニズムにおいては克服された、あるいは克服を試みている途中の問題なので、フェミニズムを掲げる人も、噛みつく人も少しは歴史を勉強してからどうぞ。

自由主義(政治学・経済学)

 自由主義も厄介な概念だ。歴史的に見れば元は一つの意味しかなかったが、そこから枝分かれした異なる理念も、なぜか日本語では自由主義という同じ言葉で表現されていることがある。政治経済を語るうえで基本中の基本でありながら、全く異なる理念が(少なくとも)3つも「自由主義」として括られているのは、初学者らを混同させてしまい非常によろしくない。順に紐解いていこう。

 もともと自由主義の考え方は中世後期ヨーロッパに端を発するとされる。当時はネトゲユーザーお馴染みのギルド全盛期である一方、王侯が絶対的な権力を握っていた。当然ギルドからすれば自分たちの「自由な」商業活動や制作活動に、そうした権力が介入してくるのは非常に疎ましい話で、そこで商人は商人、工業従事者は工業従事者で自分たちの自由な活動の保護を目的に取り決めを作った。これが自由主義の原型とされるギルドの利権擁護に他ならない。まぁ近代への移行期にギルドはその閉鎖性・特権性を批判され、市民革命でぶっ壊されることになるのだけど、その理念自体は近代国家に設立時にも脈々と受け継がれた。すなわち①取り決めや体系化された合意=「法の支配」によって、恣意的な権力行使から自由を守る理念、つまり立憲主義的な自由主義だ。これこそが自由主義の基本形であり、民主主義と並ぶ近代国家の基本理念に他ならない。

 問題はここからで、恣意的な権力行使から自由を守るといったときに、どこまでの自由の範疇が問題化されるかが問われることになる。そうした経緯から、②経済活動や自分自身や外的資産の所有権の自由を侵害してはならないといった考え方―リバタリアニズムが登場した。詳しく見ていくと、自然権論者か帰結主義者か、アナーキストかミナキストか、ウィーン学派かシカゴ学派かみたいな細かい対立軸があるけど、ここではめんどいので解説しません。興味あったら各自で調べてね。

 他方でそもそもそうした自由を謳歌する土俵に立てない人々を顧慮すべきだという考え方も共有されるようになった。こうした立場の多くの人は福祉国家を支持し、財の再配分を訴える傾向が強い。このように③人間としての自由をまずはみんなに保証(補償)しようや!とする自由主義をリベラリズムと呼ぶ。こちらもリベラル・ナショナリズムだったり、ロールズ正義論だったりいっぱい立場があって混沌としている。

 上のざっくりした説明からもわかるように、リバタリアニズム/リベラリズムは同じく自由主義と訳されるのにも関わらず、明確に対立している(財への干渉を退けるリバタリアンと財の積極的配分を訴えるリベラル)。なので自由主義という語は立憲主義に限定して、両者の場合は意図的にリバタリアニズム/リベラリズムと使い分けるほうがベターだと個人的には思うな。

​逆差別(政治学)

 著者が一番好きなピアニストはビル・エヴァンスだ。完全におっさん趣味だけど、ジャズなのにスウィングしてない、むしろドビュッシーやショパンを思い起こさせる繊細なスタイルは、いつ聴いても心を清らかにしてくれる。よく知られている通り、エヴァンスは「キング・オブ・ジャズ」ことマイルス・ディビスに誘われて、クッソ名盤(たぶん全ジャズアルバムで一番売れた)の"Kind of Blue"の収録に参加した。しかしエヴァンスは白人、ジャズは黒人音楽であり当然他のメンバーも黒人。そしてアルバムが完成した1959年は、公民権運動真っ只中とはいえ、まだまだ両者の対立は今よりはるかに激しいものだった(まぁ今も白人至上主義者とか出てきて激化しているけど)。そんな中では当然ながらエヴァンスは他のメンバーからのイジメにあう。特にコルトレーンによるものがひどかったらしい(ちなみにディビスに関しては「肌の色が緑で、血が紫でも、腕が良ければ俺は雇うよ」みたいなこと自伝に書いてた。理想のジャズの前には人種とかどうでもよいらしい)。

 さて前置きが長くなったけど、このエヴァンスの境遇(黒人による白人差別)を指して逆差別であるとする記述がネット上には散見される。例えば、これとかね。しかし、こうした逆差別の使い方は典型的な誤解に基づくものだ。

 逆差別は確かに字面通りに捉えると、被支配集団(主にマイノリティ)による支配的集団(主にマジョリティ)に対する差別のことだと勘違いしがちだが、そうではなくて、本来は差別や抑圧解消の実践が過度なものとなり、被支配的集団を優遇してしまっている場合に使われなければならない言葉である。例えばアメリカならばアフォーマティブアクション、日本ならば女性専用車両とかに対するアンチが逆差別を指摘してきた(している)経緯がある。これらの例を見て逆差別を差別主義者が訴えているとするのは早計だ。確かにレイシストがマイノリティ優遇に抗弁するために逆差別という概念を使ってきた事実は否めないが、人種的多様性を盛り込むことを目的とした入試制度によって、白人が(合格基準を裕に満たしていたにもかかわず)不合格になったという事例も現にある。この話はサンデル先生(笑)の『白熱教室(笑)』に出てくるので、気になったら見てみるよろし。

 まぁいずれにしても間違えると恥ずかしいレベルの話なので、要注意やで。

オーガニック(有機化学)

モラトリアム(発達心理学)

bottom of page