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内ゲバが生まれるロジック

 このサイトはブログではないため、あんまり時事ネタを書きたくないけど、たまにはよかろうもん。

 近頃、右派/左派の対立が激化している、あるいはネット上のやり取りなどを通して可視化されやすくなっている一方で、右派内部・左派内部における対立――すなわち内ゲバも目にする機会が増えた気がする。統計的な数量データがあるわけではないし、あくまで印象論に過ぎないが、とりわけ左派内部における内ゲバは顕著であり、具体的な事例を出しながら倫理学的な検討をする価値があるように思える。21世紀にもなって右派/左派とかいう二項対立設定はマジでナンセンスだけど、とりあえず本稿ではエスニシティやセクシャリティをめぐる排外主義=右派/反排外主義・擁護陣営=左派と便宜上定義しておきますです。

右派内部の対立と二極化

 これについては要因が明らかなので、そこまで検討する面白味がない。端的にいえば統失スレスレの過度な国粋主義・排外主義者から構成される「馬鹿なウヨク」と、経済成長やそれに伴う戦略的な国粋主義を促進する「賢い右翼」の二極化が進んでいる。ショーヴィニズムが最終的に国益に資することを着地点としていないため、個人的にはずっと前から似非右翼と呼んでるね。

 で、この右翼内部における分離傾向に関する議論は、実は全く目新しいものではなくて、例えばエリック・ホブズボームとかが優れた考察をすでに展開している。ホブズボームによれば、福祉国家が倒れた70年代以後あたりから、国家や階級への帰属意識が曖昧化したことに伴い、ナショナリズムが自らの競争力増強を志向し、内政・外政を求める「上部のナショナリズム」と、マイノリティへの敵意によって動く「ポピュリズム的新ナショナリズム」に二分化するという(Hobsbawm 1990→2001)。

 『ナショナリズムの歴史と現在』もそろそろ出版から30年経ちそうなので、そっくりそのまま現状に適用するわけにはいかないが、今の状況は基本的にはこの議論の延長線上に位置づけてよいだろう。ただ出版当時なかったもので、現在あるものといえばやっぱりネットなので、この辺の影響は新たに加味する必要がありんす。まとめると合理性の有無が二極化の要因だと思うな。ゴリゴリのリバタリアンの自分からすれば、似非右翼はそもそも右翼を標榜する資格がないクソザコナメクジの群れなのでフリードマンとハイエクの霊に祟られてしまえばよい。

左派内部の対立と二極化

 ​こっちも一言で片づけてしまえば賢いか/馬鹿かの対立なのだが、右派では合理性がその賭け金になっていたのに対し、左派の場合、倫理的・論理的一貫性が係争点となっている。こちらについては事例が豊富なので、ちょっと例を見てみよう。

 近々のところでは、twitterでのヘイトスピーチ踏みつけデモ(2017/9/6)に対する左派・リベラル側からの批判などが好例だ。だいたいは似非右翼によるゴミヘイトだったので気のすむまで踏めばよいと思うが、問題は主催者側がヘイトか否かの線引きをきわめて恣意的に行ったが故に、一般的なヘイトの定義から外れるようなツイート(例えば能町みね子のとか)まで槍玉に上がってしまったことにある。こうした恣意性に対して左派・リベラル(と目される)陣営はわりと手厳しい糾弾を加えている(キクマコ先生とかキムカン先生とか)。

​ ちょっと風呂敷を広げてみると、行き過ぎた、あるいは恣意的で無秩序なポリティカル・コレクトレスが、右派からよりも、むしろ左派から強いバッシングにあっている光景もよく見る(これについては別ページで以前ちょこっとだけ言及しといた)。個人的にはtwitterに蔓延る似非フェミニストは、フェミニストという多様体の威信をまとめて落としている点で、似非右翼と並んで嫌いだ。ミレット(先週亡くなったね)とボーヴォワールとフリーダンの霊に祟られてしまえばよい。

 

 しかしなぜそもそもこのように左派内部における対立は目につくようになったのか。左翼は「自己否定!」とか言ってた赤軍のころから内ゲバが専売特許、というわけではない。少なくとも自己否定の倫理と今日的な左派内部の対立は構造的に全く異なるように思える。おそらく「賢い左派」は、共訳不可能性が横たわり、根源的な価値対立を伴う右派への論駁(右派対左派)よりも、左派内部における対立(正しい左派対間違った左派)の方がはるかにやりやすいことに直観的に気付いているのではないか。

 

 まず前提として、「穏当な多元的事実」(Lawls)が所与となった今日的状況において、客観的明証性のある定義が可能で、万人に共有される倫理的教説などは存在しない。カントのように形而上学的・神学的領域の存在を認めればア・プリオリに「悪いことはしてはいけない」と言うことができるかもしれないが、おそらくほとんどの人は納得するはずがない。

 次に絶対的倫理が認められない以上、(特にラディカルな)右派/左派の対立は根源的な部分で共訳不可能である。確かにこうした主張は、悲観的で敗北主義的な考え方に基づくものだろう。しかしこれは「なぜ差別が悪いことなのか」という問いに対して、合理性以外の論拠から回答を与えることができない事実を考えてみれば理解できる。むろん「自分がされたら嫌だから」というのは論拠にならない。なぜなら「自分がされたら嫌なことをなぜ人にしてはならないのか」という問いが連続して浮上するからだ。「なぜ差別が悪いのか」という問いに明示的な説得性が与えられない以上、すなわち両者に統一的な倫理が存在しない以上、両者の主張は未来永劫、平行線を辿ることになる。熟議や討議によって「より良い」意見(悪く言えば妥協点)を導出できるとする楽観的な考え方もあるが、物理的接触にまで両者の対立が至っている現状は、その不可能性の何よりの証左になるだろう。

 これらの2点を踏まえると、ある価値観・倫理観から、異なる価値観・倫理観に対してなされる外在的批判の困難性が明らかになる。乱暴にまとめれば、それはコミュニケーションのコードの齟齬としても、共通善の齟齬としても、言語ゲームの齟齬としてもよい。いずれにせよ価値観A対Bという構図は、どちらかが物理的暴力に屈するまで対立構造であり続けることになる。

 他方で価値観A対A´の構図は、外在的批判が伴わない――内在的批判が可能な点において、はるかにたやすいものだろう。というのも、すでに倫理という土俵が共有された状態から論争が始まるからだ。例えば「反レイシズムを掲げる人間の人種差別的発言」「女性差別の代替にオタク差別を掲げるようなフェミニスト」などの、いわばダブルスタンダードは、共有された倫理観からいとも簡単に内在的に叩くことができる。

 

 おそらくこうした倫理の内在性という構造が、主に左派内部での内ゲバを促進する装置として機能しているはずである。ある倫理対別の倫理ではなく、同じ倫理を共有する者同士の闘争。ダブルスタンダードへの徹底的な不寛容さはここに起因する。

 

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