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「サブカルチャー」の概念分析

 

Ⅰ:問題の所在

   「必死こいてバぁイトして、東南アジアやインドへ行く/気まま旅求め、その旅行はツアーを組まない/細見武士好き!音楽フェスにはがぶりつき/見た目は同じ!黒髪ボブヘアダテ眼鏡/ブログはお菓子祭り、お菓子はチーズケーキ/装備は黒ぶち眼鏡、かばんは缶バッチまみれ/結末の甘い映画、暗い感じのドラッグムービー見つけてはまた借りて/誰に自慢するわけも無く……」 出典:キュウソネコカミ サブカル女子

 

 邦ロックバンドのキュウソネコカミはサブカルチャーに傾倒する女子を皮肉交じりにこう歌う。まさしく「サブカル女子」の特徴を捉えた、わかる人にはわかるあるあるネタなのだが、そもそもこのような揶揄の対象としての「サブカル系」という表象はいつ頃から、またどのようにして私たちに共有されるようになったのだろうか。

 もともとサブカルチャーはアメリカの社会学者によって、エスニックマイノリティやセクシャルマイノリティ、あるいは労働者階級の文化や、やくざ者などによって営まれる「街角の社会(ストリート・コーナー・ソサエティ)」といった主流に対する下位もしくは「副」の文化形態の総称として提起された概念である(これについては後に仔細に解説する)。しかしいつ頃からか、我が国においてサブカルチャーは「サブカル」と省略されるようになり、メインストリームとは一線を画した、ある意味アングラとも形容できる若者文化一般を包括する概念としてその意味を変容させた。そしてまた興味深いことに、こうした事情を反映してか、我が国におけるサブカルチャー分析を企図した研究のほとんどが若者文化にのみスポットライトをあてた内容となっている[1]。驚くことにそれが当の社会学者によって執筆されたものであってもだ。このようにざっと概観しただけでも、サブカルが明らかに元来のサブカルチャー概念とは乖離した意味内容を有していることがわかる。

 しかしながら本稿はサブカルから「本来の」サブカルチャー概念への回帰を訴える論文ではない。そうではなくて元来学術領域において――すなわち①科学的実践の内部において形成された概念であるはずのサブカルチャーが、②日常的実践の中でその意味を変容させ、今日的なバッドテイストな文化一般を意味する「サブカル」となり、③再び科学的実践にて、「サブカル」が研究の俎上に載せられていく経路を遡行的・系譜学的に分析する。そしてこうした科学的/日常的実践間にある双方向の作用を考察することによって、両者が相互に新たな経験可能性の契機を提供している事実ついて明らかにしようと試みる。なお参照される資料は文化社会学やカルチュラル・スタディーズ、表象文化論といった多様なディシプリンを横断することになるのだが、本稿自体は明確に分析哲学の方法論に立脚し、かつ社会構成主義的関心に基づいて展開される。

Ⅱ:理論枠組み

 科学的実践/日常的実践の相互性を捉えるため、本稿では分析哲学者のイアン・ハッキングによる「ループ効果(looping effect)」を理論枠組みとして用いる。ループ効果とは科学的実践において構築されたある観念が、日常的世界に参入する際、その実践にどのような効果や影響を与えるのか、そしてまた日常的実践から科学的実践に当該の観念が再参入する際、どのように新たな経験を可能にするか、というある種のフィードバックが連鎖する過程に説明を与える概念であり、例えばハッキング自身はこれを用いて「多重人格」という観念の分析を行ったことがある(Hacking 1995)。

 酒井泰斗によれば、ループ効果の一連の過程は以下のように定式化することができる。

[p] 人間に関する科学的・専門的な概念は、どのようにしてその意味を獲得し、日常生活との関連性をもちうるのか。

[q] 人間に関する科学的・専門的な概念が日常生活に入り込んでくるとき、そこでどのような経験の可能性が生じるのか。

[r] 新たな経験に基づく知識は、専門的な知識にどのような効果をもたらしうるのか。     [酒井 2009 p.71]

 このp-q-rは、前節で見た①-②-③の過程に順に対応していることがわかるだろう。換言すればp-①専門的知見に基づくサブカルチャーと日常生活の関連、q-②概念サブカルチャーによって提供される新たな日常的経験ないしは実践の可能性、r-③変容した概念サブカルによって提供される新たな科学的経験ないしは実践の可能性という3段階を考察することが本稿の至上課題となる。

 またループ効果が日常言語学派寄りの分析哲学のアイディアに依拠したものであるということも確認しておこう。ハッキングが『記憶を書きかえる』(1995)の中で参照する、後期ウィトゲンシュタインの正統後継者とされるエリザベス・アンスコムは、“Intention”という論文の中で、意図的な行為は「ある記述の下」でなされる行為である、と主張している(1959)。例えば、手動ポンプを必死に上下して、ある家に水を送る男がいたとしよう。一見、前時代的な風景に過ぎないのだが、その「ある家」は実は世界戦争をたくらむ悪人たちの巣窟であり、彼らを毒殺しようと男は必死に水を送っていたのである。

 このとき「ポンプを上下する」「家に送水する」「悪人を毒殺する」といった様々な行為の記述の区分がありえる。つまり行為が複雑かつ連続したものになればなるほど、より広い範囲の行為の状況区分があると推察できるだろう。しかしながらアンスコムに従えば、確かに作業する男に対する「君は何をしているのか?」という問いの答えは一つに絞れないが――したがって記述の可能性はいくつかあるが、行為それ自体はただ一つであることには変わりない。というのも、人の行為が意図的な行為になるためには、人がAの下で行為をなそうと意図する、ある一つの記述Aがなければならないためである。

 アンスコムの理論を踏まえたハッキングは興味深い指摘をしている。ハッキングは「記述Aの下の行為」を遂行している、と思っていたら同時に異なる「記述Bの下の行為」も遂行していた(ことに気付いた)場合に目をつける。先の例でいえば、「送水」に専念していたら、実は「悪人の毒殺」に繋がっていたことに事後的に気付いた場面、などを思い浮かべても良いだろう。このことは逆を返せば、ある「行為の記述」が利用可能になったとき、新たな意図的な行為の可能性が開けてくるということに繋がる。当初「送水」しか行為の記述を持ち得なかったが、異なる記述「悪人の毒殺」が利用可能となったとき、2つの意図的な行為の可能性が存在しうることになるからだ。ハッキングは次のように述べる。

 

 「新しい記述が利用できるようになり、それが広まったとき、またはそれについて発言したり、考えたりしても構わないような事柄になるとき、わざわざ選んで行えるような新しい物事が生まれるのである。新しい意図を私が自由に手に入れられる理由は、新しい記述、新しい観念が、私にとって入手可能なものになっているからである。私は新しい機会の世界に住んでいるのである。」[Hacking 1995→1998 pp.291-292]

 この主張を踏まえると、ループ効果によって引き起こされる現象は「新たな観念の獲得によって、これまでなかった行為の記述が利用可能になり、新しい経験の契機が生まれる過程」と整理することができるだろう。

 他方で科学的/日常的実践の間に観念が観察される際であっても、ループ効果が必ずしも成立するわけではない、という事実には留意が必要である。特に人工類(human kind)/自然類(natural kind)の峻別は必ずなされなければならない[Hacking:1995→2000]。前者は人々に適用されるカテゴリや、行為や行動の種類のことであり、例えば「虐待」や「セクシャルマイノリティ」などがこれに該当する。後者は多くの場合において、自然科学の分析対象となるカテゴリーのことであり、「マリファナの成分」や「中間子」などが含まれる。端的にいえば、両者の間には観念の変化を受容できるか、否かという点において差異がある。

 前者の人工類は観念を参照したり、あるいは新たに意味を組み込んだりすることができる。ゆえに「虐待(者)」や「セクシャルマイノリティ」はループ効果を引き起こすことがありえる。また人工類はループを引き起こすことから、「相互作用類(interactive kind)」ともハッキングは呼んでいる。

 対する自然類はその逆で観念の動きを参照することができない対象のことだ。「マリファナの成分」や「中間子」などは(当然だが)自らその意味内容を確認する能力を持ってはいないためこちらに含まれることになるのである。なお先に自然類は「多くの場合自然科学の分析対象である」と書いたが、区別の準拠点はあくまでループが形成できるか否か、ということに求められるため、例えば「先天的な遺伝疾患」といったカテゴリは自然科学的だが、人工類に含められることになる。

 また一見すれば自然類のようにループを形成しそうにないものであっても、当事者の周辺の人々に観念が影響を与え、ループ効果が見られるような場合もある。これをハッキングは「接近不可能な類(inaccessible kind)」と呼び、その例として「自閉症」を挙げている。つまり自閉症の人々に観念が直接的に接触することはないが、その周囲にいる人々――自閉症の子どもを持つ親には何らかの影響を与えうるし、その親の行為の記述が観念を変容させていくこともあるだろう、というわけである。

 理論枠組みを押さえたうえで、次節からはいよいよ系譜の分析に移ろう。

Ⅲ:サブカルチャー概念の誕生と科学的実践におけるその系譜

【メモ】

・subcultureという語は一般にリースマンが1950年に初めて用いたとされる。

→これめっちゃ言われるけど実は出典不明(少なくとも"The Lonely Crowd"(1950)のpdfに"subculture"で文字列検索かけてもヒットしない)

・あと40年代末時点でA・グリーン(1946)とか、M・ゴードン(1947)とかが"the subdivision of a national culture"っていう雛形の概念をすでに使ってる。

→どっちを始発点に位置づけるか(まぁ概念の意味が地続きならそんな大きい問題ではないかも)

→そもそもサラ・ソーントンが指摘している通り、サブカルチャ―研究の原型はグリーン=ゴードンからさらに遡り、シカゴ学派のフィールドワークに求められることが多い(Thornton 1997)。

・で、このシカゴ学派の潮流から10~20年くらい遅れてイギリスのバーミンガム学派(CCCSの系譜/カルスタ系)でも盛んにサブカルチャー研究がなされるようになる。

→したがってこの節では、

①シカゴ学派系列のフィールドワーク――ウィリアム・ホワイト(1943)、ハワード・ベッカー(1963)、クロード・フィッシャー(1975)

→『ストリート・コーナー・ソサエティ』と『アウトサイダーズ』は手元にありんす/ゴフマン入れても面白いかも

→ホワイトはシカゴ学派の影響受けてるけど、シカゴ学派の括りに入れていいものか.(系列ってことならおkか)。

②バーミンガム学派系列のフィールドワーク――スチュアート・ホールorフィル・コーエン(1972)、ポール・ウィリス(1977)、ディック・ヘブディジ(1979)、

→『ハマータウン』と『サブカルチャ―』は手元にありんす/ホールはなに取り上げようか

 の2つの系譜を整理して、科学的実践における元来のサブカルチャー概念の輪郭を捉える。

シカゴ学派がサブカルチャーを「自明とされている社会規範に対するもう一つの文化として再構築」(吉見 2001 p.103)しようと試みたのに対し/カルスタ系は(特にホール以後)象徴的なヘゲモニー闘争の舞台としてサブカルチャーを見なす傾向が強い(コーエン=ヘブディジの抵抗的記号としてのスタイル分析や、ウィリスの反学校文化の議論などに共通する見解)。

※吉見俊哉とグレアム・ターナーのカルスタ本が家のどっかにあるのでこちらも参照しとこう。あと難波功士の『族の系譜学』。

Ⅳ:日本におけるサブカルチャー概念の受容―サブカルチャーからサブカルへ

​【メモ】

・宮寺昭夫によれば日本においてサブカルチャーという語が初めて用いられたのは『美術手帖』1968年2月号(宮寺 2014)。

→写真家の金坂健二が「もう一つのイメージ文化」という特集に寄稿した「惑溺へのいざない―キャンプとヒッピー・サブカルチュア」というエッセイ。

・しかし宮寺によればサブカルという語が使われたのは90年代あたりから(同)。近藤正高も同じく90年代にサブカルの興りを見ている(近藤 2005)。

 「「アングラ」という意味合いで表現されるもの、ないしは悪趣味、さらにはアニメだったり、「萌え絵」がイメージされる」[宮沢2014 p.98]

 「90年代を通してサブカルチャーという語は「サブカル」と略されることで一般に浸透し、やがて多くの書店にサブカル棚が設けられるようになった。[…]こうしたサブカル棚の出現により、どのジャンルにも立脚しないことが特徴だったはずのサブカルチャーが、それ自体が一つのジャンルとして認知されてしまうことになる」[近藤 2005 pp.174-175]

→「おたく」初出は中森昭夫の83年のコラム、「○○系」初出は90年代渋谷タワレコでの渋谷系特集だったはず。この辺の絡めかた。

→エヴァ、セーラームーン、あやしいわーるど、あめぞう、IWGP、フリッパーズ、ピチカート​、オザケン、鶴見済、村崎百郎、宮台真司……みたいに語りたい90年代サブカルは山ほどあるけど、どれをエッポクメイキングな文化だったか選定するのむずいな。

・当時の雑誌とかでサブカル特集組まれていればすげー理想的。

→宝島、Olive、ビックリハウス、ガロあたり怪しい。ただOlive以外は90年代にはピーク過ぎてたからな……。

・あとオタク文化がサブカルに内包されるようになったのはちょっとタイムラグがあるはず(根拠なし)。

→これが正しければハッキングの意味論的伝染が使える。

・ともかく90年代~00年代の間に、サブカルという新たな語彙によって、アングラな映画や音楽、アート、ファッション、オタク文化を包摂、カテゴライズすることが可能となった(日常的実践における新たな経験可能性)ことの証左が提示できればこの節はおk。

Ⅴ:サブカル概念の再参入―サブカル研究の趨勢

【メモ】

・日本のサブカル研究は卒論のときにあらかた読んだので詳細は割愛。

→宮台の『サブカルチャー神話解体』(1993)と東の『動ポモ』(2001)はマストでいれる。

シカゴ学派=バーミンガム学派のサブカルチャー研究が、「下位集団としてのサブカルチャー」を分析したのに対し/日本のサブカル研究は、「媒体としてのサブカル」を分析し、若者の関係性論という論調をとる(科学的実践における新たな経験可能性)。

→これについては北田先生の『社会にとって趣味とは何か』(2017)の解説記事や、浅野先生の『若者とは誰か』(2013)にも同じようなこと書いてあったはずなのでソース提示。

Ⅵ:分析

・ループ効果についてはここまでを整理するだけでおk(Howの問)。

・なぜ日本において若者文化のみがサブカル(チャ―)の外延になったのか分析(Whyの問)

→考え中。以下は仮説。

①70年代でマルキシズムがオワコン化したことに伴って、アルチュセールとかグラムシなどのカルスタ系スキーマが文化論に機能しなかった/労働者に対する関心も希薄だった。

②セクシャルマイノリティやエスニックマイノリティの問題にはそもそも学術的関心が当時払われなかった

③逸脱研究は教育社会学会で2回ほど(1975年と1984年)主題に選ばれており、ベッカーのラべリング理論の影響が窺えるが、サブカルチャーという概念自体は用いられていない=ラべリングだけで事足りた。

④80年代における若者文化(いわゆる新人類文化)の興隆が顕著だったため目につきやすかった。

↑ここはもうちょい文献を読もう。ただループ効果の議論と接続するのであれば④を最も主要な要因として扱うべき。

 

[1]例えば論文検索サイトCiNiiで「サブカル」と検索するとヒットするのは軒並み若者文化に関連した研究である。

http://ci.nii.ac.jp/search?q=%E3%82%B5%E3%83%96%E3%82%AB%E3%83%AB&range=0&sortorder=1&count=20&start=1

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