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Kenny,Anthony 1995→2001 『フレーゲの哲学』

アンソニー・ケニー 1995→2001『フレーゲの哲学』

 

第1章 フレーゲ哲学への伝記風の手引き p.1-13

○フレーゲの主著として以下の3つが挙げられる。

(1)『概念記法』1879

○フレーゲはアリストテレスによる従来的な名辞論理学を拡張し、現代論理学における2つの潮流を本書で完全に決定付けた。

[①命題論理学]

○名辞ではなくp, q, rのような記号表記やFxやGx,yのような関数表記の命題を扱う。

→さらに“not(¬)”、“and(∧)”、“or(∨)”、“if~then(⊃)”といった論理記述子を用いて命題間の関係性が主題化される。

○命題間の内的関係性を表した複合命題は、要素命題の真理値によって一義的に規定されている(真理関数論理もしくは合成原理とも)

 

○『概念記法』においては、これら複数の論理規則が少数の原初的原理から導出されるということが明らかにされている(ちなみに本書でのフレーゲによる表記法はもう使われていない。)

 

[②述語論理学]

○量化理論を用いて命題の内部構造を問う論理学。

→といっても量的記述子は“all(∀)”と“some(∃)”の2種類しかない(それで事足りるのだが)。

→すなわち量関数を用いて、命題内部の名辞の量的関係を表現できるように形式化した。

 

○『概念記法』における上記のフレーゲの主張は、長期的には「数学の全てを論理学に還元する」という野心的な意図に基づいたものだった。そしてこれは以下の長らく続いた数学本性に関する論争に終止符を打った。

(a)『純粋理性批判』においてカントは、数学本性をアプリオリかつ綜合的なものであると定義している。彼によれば数学はあらゆる経験に先立って真正な情報を事物に付与するという。

 

(b)対するJ・S・ミルは数学をアポステリオリなものであると主張した。それは広く得られた経験的事実を一般化したものであるという。

→フレーゲは(a)のカント的解釈をとる。しかしカントのように数学をアプリオリに規定された真理だとしつつも、綜合的であるとはしていない。

○このようにフレーゲが『概念記法』で展開したプロジェクトは、①命題算(命題論理)と②関数算(述語論理)の定式化に加え、(a)カント的前提に基づいて数学を論理学に還元することだった。

 

 

(2)『算術の基礎』1884

○記号表記ばかりの『概念記法』があまり好意的に受容されなかったため、本書はどちらかといえば文章が多い。本書でのフレーゲはカントやミルといった同時代の人々への批判を通して、人間の実践を論理に回収してしまう「論理主義」の土台を形成しているといえる。

○また本書では重要な2つのテーゼが登場する。

①各個の数は自存的な対象である

→数は主観や心から独立した客観的公準である

 

②数に割り当てられる言明の内容は概念についての主張である

(ex.) 言明「地球は一つの月を持つ」……概念「地球の月」に数1を割り当てる

→この2つの命題の功績は、当時において数学-論理学と混同されていた2つのディシプリン、すなわち心理学とデカルト的認識論を切り捨てた点に求められる(ゆえにフレーゲは「心の哲学」の先駆者でもある)。

 

 

(3)『算術の基本法則』1902

○フレーゲの哲学者としてのキャリアの頂点。

→論理学的真理から出発し、推理規則を導出。さらに『概念記法』における記号表記を用いて算術的真理を一つ一つ提示していくスタイルをとった。

○本書の特徴は数の観念の定義に必要な「集合(class)」がこれまでに増して強調されていることだろう。

→フレーゲは第5公理において「クラスF=クラスG」という同一性によって「概念の外延への広がり」を認めていた。しかしラッセルによって、このクラス形成が自己言及的な公理に基づくため、結果的にクラスに含まれないメンバーを許してしまうことになる欠陥が指摘された(いわゆるラッセルのパラドックス)。

 

 

 

第2章 『概念記法』Ⅰ p.14-98

○フレーゲは算術の本性をカントがそうだったようにアプリオリに物事を規定する論理的規則と見なし、その記述を概念記法という独自的な方法論に基づいて試みた。

→ただしフレーゲは概念記法以外の言語(すなわち自然言語)が概念記法によって完全に代替されるとは考えていなかった。

→概念記法と自然言語の関係性は顕微鏡と顕微鏡の関係に似ている。つまり、肉眼(自然言語)によって十分に日常的実践が可能ではあるが、特定の目的(論理学や数学)に対しては顕微鏡(概念記法)の方が優位にある。

 

[関数と項]

○概念記法における最初の要点は、従来的に主語-述語によってなされた記述を、関数と項を用いて行ったことである。例えば以下の文。

(a)ウィリアムはハロルドを打ち負かした。

 

(a´)ハロルドはウィリアムに打ち負かされた。

○主語-述語による記述においては、前者と後者の間に重要な差異があることになる(受動態/自動態など)。

→しかし命題としては(a)も(a´)もほぼ同じことを意味しており、関数を用いれば異なる文章の同義性の問題は解決される。ちなみに(a)をめぐっては以下の3通りの関数-項による記述がありえる。

①[ただ一つの項をとる関数]F(x)――xはハロルドを打ち負かした。 

→このときの関数Fは「~ハロルドを打ち負かした」/項はxである

 

②[ただ一つの項をとる関数]F(y)――ウィリアムはyを打ち負かした。 

→このときの関数Fは「ウィリアムは~を打ち負かした」/項はyである

 

③[二つの項をとる関数]F(x,y)――xはyを打ち負かした。 

→このときの関数Fは「~は~を打ち負かした」/項はxとyである

→最初に固定化された表現の部分が関数/置き換え可能な表現の部分が(変)項である。

→論理式におけるxの値は、一般的な数式のように数に限定されない。ゆえに「変数」ではなく「変項」という表記を用いるのである。

 

 

[三段論法における概念記法の優位性]

○主語-述語の関係式においては量数(allとsome)を扱う三段論法が内包する誤謬に対し、フレキシブルに対応することはできないが、論理式においてはこの問題も解消されている。

(1)[大]すべてのギリシア人はヨーロッパ人である

[小]あるギリシア人は男性である

[∴]したがって、ギリシア人は男性である。

 

(2)[大]すべての牛は哺乳動物である

[小]ある哺乳動物は四足歩行である

[∴]したがって、牛は四足歩行である。

○上述の三段論法は、大命題における「すべての~」の記述と、小命題における「ある~」の記述が互いに齟齬を起こし、結論において誤った命題が導出されているという誤謬を内包する。

→この問題を回避するため、名辞論理学は複雑な規則を用いる必要があった。

○しかし概念記法においては“∀”と“∃”の概念(※記号自体の導入は別の人)が導入されることによって、そうした複雑な規則に依拠せずとも関数によって表記できるようになった。

例えば、xを変項(生物一般)/Dを関数(死ぬべきもの)とすると、

「ソクラテス(ある人間)は死ぬべきものだ」― (∃x)Dx

「すべての人間は死ぬべきものだ」― (∀x)Dx       となる

 

 

[否定]

○フレーゲは今の論理学における“∃”の量的記述子は用いていない(含意としてはあった)。代わりに否定(¬)の概念(※またしても論理記述子自体を発明したのは別の人)を用いてこれを表した。

(例)「あるローマ人は臆病者だった」―― (∃x)Fx

=「全てのローマ人が臆病者ではない」―― ¬(∀x)Fx となる

 

○また「ソクラテスは死すべきものだ」が関数と項に還元されたよう、¬「ソクラテスは死すべきものだ」も関数と項による表記が可能である。

→関数は¬(xは死すべきものだ)となり、項の値は「ソクラテス」となる。

→これを関数式化すると「(x)¬(xは死すべきものではない)」となる。

 

 

[未規定性と代名詞としての量化]

○関数と項を未規定のまま式に表す際に、フレーゲは以下のように記述する。

[一項関数]φ(X)

[二項関数]ψ(X,Y)

→ここで肝心なことは、関数がφやψといった記号に代替されるということによって、φ(X)という関数それ自体がさらにφという記号によって表記されうるという点である。

→第一階の関数φ(X)を、第二階の関数φにおける「項」に上昇させた。

○具体的な記述としては、「xは死すべきもの」のxを確定させないために「全ての人」「ある人」といった量的代名詞を代入することによって、暫定的に関数化(つまりφ(x)のφ化)することができる。

[整理]命題「~は死すべきもの」――F(x)

→この「第一階の関数」は不完全であり、未規定性を固定するための方法は2つある。

①xの確定(すでに見たやりかた)。

→例えば変項xを定項「ソクラテス」にすれば「一階の関数」は規定される。

 

②未規定なまま「一階の関数F(x)」を二階の「項」に引き上げる(ここで見たやり方)。

→この場合はxを確定させないまま、「すべての~」や「ある~」といった量的代替をさせることで「一階の関数」の不完全性を解消する。

 

 

[条件法]

○フレーゲの量化子の最終的な着地点は、あくまで自然言語を概念記法への変換することにある。ここで要素命題を複合命題に組み立てる方法論が問われることになるが、そのうち特に肝心なのは条件法(if~then)である。

→留意しておきたい点は、フレーゲの条件法が自然言語的用法に基づいている必要があるということだろう。

(1)日が照っているならば、3×4=12である

(2)永久運動が可能ならば、世界は無限である。

(3)月と太陽が炬をなすならば、月は半月形に見える。

○(1)と(2)における要素命題の間に関係性はないが、両命題が真であることはありえるし、その場合は複合命題も真になる。しかしフレーゲは日常的な「ならば」の使い方と異なるとして退ける。

→ゆえに「p→q」としたとき、p-q間に真偽的連関が認められる(3)のみが条件法の複合命題として適切である。

→つまりフレーゲは「pならばq」が真であるとき、単に「pが真」で「qが偽」にはなりえないという事実(つまりp∧¬qは偽)が知られているのみであり、必ずしもqをpの帰結であると見なしているわけではない(これは勘違いしやすい点かも)。

○要素命題pとqの値によって、複合命題の真理値が一義的に規定される(ラッセルの指摘した真理関数)。

 

 

[内容の同一性]

○「X≡Y」という表記がされる時、XとYの内容が同一であることを意味している(XとYには要素命題でも名辞でもかまわない)。

→あくまで同一なのは「名前」についての主張であって、内容についての主張ではない。

○また異なる「名前」が同一内容の対象を指示することがあるため、この記号の使用は妥当な目的に基づいている。

→例えば頂点abcを持つ三角形において、名前「a-bの交点」と名前「c-bの交点」は同じ頂点を指示する。ゆえに「交点a-b≡交点b-c」となる。

○フレーゲは「X≡Y」の表記においてYとXは互いに置き換え可能であると述べたが、それは文の真偽性を損なわない限りにおいてである。

 

 

[概念記法の問題点]

○次章で詳しく解説するが、『概念記法』においては(まだ論理体系が確立されていないこともあって)表記や記号、概念が未分化なまま用いられている。

→これは後のフレーゲによって明晰化されていくのではあるが、そのうち一つの混同は看過できない問題を孕んでいるため、ここではそれを解説する。

 

○フレーゲは判断を「判断線」を用いて表記する。そしてある判断の「真理値が問われる場合」は、主張記号と内容記号の組み合わせ「│─」として表記される。さらに垂直線を除去し、内容記号のみ「―」と表記される場合は判断の妥当性ではなく「単にそこに表象がある」状況が指示される。

(例)Aは命題「異なった磁極が互いに引き合う」

[真偽性が問われる判断] │―A

 

[異なる磁極が引き合うという表象] ―A

→この使い分けの意図としては、「判断」という心的・主観的営為を/「表象」という客観的事実と区別することにあると考えられる。

→しかし「表象がある」と認識するのも「判断」と同じく心や主観に他ならない。

→さらにフレーゲは主張記号である垂直線が「判断」を表現するとも「主張」を表現するとも述べている。これは明らかな概念的混同である。

 

 

第3章 『概念記法』Ⅱ p.47-61

[条件法による複合命題と対応する諸命題]

(x)(xは死すべきものである)

○こうした単純な形式の要素命題は概念記法における基礎に過ぎない。むしろ多くの現実は以下のような複合命題となって顕れる。

(x)(Fx→Gx) 「すべてのxに関して、もしFならばGである」

 概念記法における条件法は先に見たよう、真理値による連関性にしか関心がない(論理学の「ならば」とは真理値連関を指示する接続語である)。すなわち上記の複合命題においては、要素命題F(x)の値が真、G(x)の値が偽にはならない事実だけを意味する(それ以外の可能性はひとまず捨象される)。

 

○また上述の複合命題には矛盾命題も存在し、

¬(x)(Fx→Gx) 「あるxに関して、もしFならばGである」 がそれである。

○さらに反対命題は、

(x)(Fx→¬(Gx)) 「すべてのxに関して、もしFならばGではない(いかなるxもGではない)」 となる。

○さらにこの反対命題の矛盾命題は、否定記号を二重で用いて、

¬(x)(Fx→¬Gx)「あるxに関して、FならばGではない」 と表記される。

→これらの命題に登場するような量化子(∀or∃)される変項“x”を束縛変項と呼び、そうではない変項を自由変項と呼ぶ。

 

 

[否定記号を含む3公理]

○フレーゲが『概念記法』において提出したのは、「定理」と呼ばれる多数の命題を導出する、「公理」と呼ばれる少ない未証明の命題である。

→すなわち論理学の公理化を試みたのであり、フレーゲによる公理は以下の特性を持つ9つから成る。

(1)-(3)否定記号を含む公理が3つ、

(4)-(6)変更文字および条件法記号しか含まない公理が3つ、

(7)-(8)内容同一性記号を含む公理が2つ、

(9)最後に一般性記号すなわち普遍化量化子による公理が1つある。

→最初に(1)-(3)を確認する。

 

(1) (q→p)→(¬p→¬q)

(2)  ¬¬p→p

(3) p→¬¬p

○この3つはそこまで難解な話ではない。

→(1)は条件法を含む複合命題がその対偶と一致することを意味している。(2)と(3)は二重否定による打消しを意味している(賛成の反対の反対で賛成)。

 

 

[条件法と変項のみからなる3公理]

(4) p→(q→p)

(5) [r→(q→p)]→[(r→q)→(r→p)]

(6) [r→(q→p)]→[q→(r→p)]

→これらは直観的には把握しにくいので丁寧に見ていく。

○まず(4)は「もし命題pが真であるならば、任意の命題qが成立する際に、pは依然として成立する」ということを意味している。

○次に(5)を把握する上では「命題pが命題[rとq]の必然的帰結であるならば、qはrの帰結であり、かつpもrの帰結であることになる」という構造的理解が有用である。

→しかし何度も述べているよう、条件法における「ならば」とは真理値による関連性にしか注目しないため、厳密に言えば「必然的帰結」という表現は正しくない。

○(6)の場合も(5)と同様に因果論的帰結ではないことに注意した上で、「もし命題pが命題[qとr]の帰結であるならば、qとrの順序は問われない」という理解をすればよいだろう。

 

○ここまで見たフレーゲの公理(1)-(6)において決定的に重要な点は、これらの記述によって今でいう命題論理学において必要な公理が全て網羅されていることである。さらに次に見ていく公理(9)によって今日の述語論理学(関数論理学)の礎が完成された。

→『概念記法』での主張が現代論理学の開始地点となったというのは、ここで紹介している公理系の確立がその理由に他ならない。

 

 

[内容同一性記号を含む公理と量化に関する公理]

(7)  (c≡d)→[f(c)→f(d)]

(8)   c≡c

○(7)はcとdの内容が同一であるならば、cとdの置き換えは自由に(要素命題内部の名辞としても、複合命題内部の要素命題としても)行ってよいことを意味する。

○続く(8)もcの内容とcの内容の同一性を意味した単純な公理である。

→これらの2つの公理によって、以下のような定理がいくつか証明される。

 (c≡d)→(d≡c)

 

○そして最後の公理である(9)は後の述語論理学に決定的影響を与えた。

(9) (x)(fx)→fc

○これを文字表記に変換すると「全てのxがfであるならば、任意の対象cもfである」となる。

→フレーゲは文章「もしダチョウが鳥であり飛べないのであれば、ある鳥もまた飛べない」をここで例示している。

○公理(9)と述語論理を敷衍するにあたり、以下の2つの規則が利用される。

① cがφ( )の項場所にのみ現れ、かつ(x)がφ(c)の中にすでに現れていない場合、φ(c)からの(x)φ(x)の推論は妥当である。

 

② pはcがその中に現れない表現であり、cはφ(c)の項場所のみにおいて現れる場合、「p→φ(c)」から我々は「p→(x)φ(x)」を導出できる。

○まず①の解説から。関数と項が未規定の際にφ(X)という表現が用いられるのはすでに見たとおり。

○順序としては最初に「φ(X)において変項Xとして「のみ」名辞“c”が命題に適用され、異なる名辞“x”が命題φ(c)に適用されていない条件下」を想定する。

→その条件を満たすことで、特殊命題φ(c)から、全称命題(x)φ(x)が導出されるということである。

○先の例でいえば命題「ある鳥(ダチョウ)は空を飛ばない」から「全ての鳥は空を飛ばない」を導出することができる。

→この場合明らかに間違いであるが、2つの規則は単にフレーゲの概念記法のみに通用するものであり、論理的真理を意味しない。すなわち本来は命題φ(c)の時点で正しいものである。

 

○次に②は「もし(x)φ(x)が偽であるならば、(①で述べたように)その導出要件であるφ(c)に偽である根拠が求められる必要がある。しかし「p→φ(c)」がすでに真であり、「p→(x)φ(x)」も真であるならば、(x)φ(x)を偽にはできない」事実を意味する。

→(x)φ(x)の導出に用いた特殊命題φ(c)と、当該の全称命題(x)φ(x)との間には真理値の相関性がある、ということ。

 

○上述の公理(9)とこの2つの規則、そして命題論理に関わる公理(1)-(6)が合わさることで、今日の述語論理学の方向性が決定付けられたといえよう。

 

 

 

第4章 『算術の基礎』Ⅰ p.62-98

[心理学/数学の区別]

○フレーゲが本書でまず強調するのは、数学/心理学の区別である

→ミルは数学的な真偽が心的現象として顕在化すると主張したが、フレーゲはこれを以下の2つの論拠から反駁する。

①人によって数学的表象にそれぞれ異なる像が結び付けられる

→100に対し「百」という像を想起する人もいれば、記号化して「C」とする人もいるだろう。このことは心理学者が主張するような万人に共通する心的現象が実在しない可能性を示唆する。

 

②そもそも心理学と数学の関心が異なる。

→心理学はある像が心の中に生起する過程を考察する/数学はある像の論理性や真理性を検討する。このことは仮に心理学が脳科学に代替される未来が来てもおそらく変わらない。

○さらに命題の思考/命題の真偽が区別される具体例として、「間違った計算」が挙げられる。

→「2×4=9」は命題としては偽だが、命題に対する思考自体は行われている。

 

○このようにフレーゲは心的表象それ自体を存在論的に否定するわけではないが、数学と混同されてはならないと指摘している。さらにフレーゲは両者の考察対象を表象(idea)/概念(concept)として区別する。

→前者が社会的因習や時代によって変化していくものであるのに対し/後者は普遍的事実として存在するものであり、確かに科学知識の発展に伴い変化しているように感じられるが、それは単に新たな概念が発見されているだけであるといえる。

 

 

[『基礎』の概観]

○他方で数学は論理学と共に考えられなければならないとフレーゲは主張する。『算術の基礎』はこれまでの哲学者(主にミルとカント、ライプニッツ)に対する論駁によって構成されるが、この批判を通して自身の上述の主張が仄めかされていく。

→『基礎』の問いは以下の3点に整理できるだろう。

①主観的なものと客観的なもの、心的なものと論理的なものの区別

②語の意味は命題を通してのみ考えられる

③いつでも概念と対象の区別に注意する必要がある

 

○上述の3つの論点は相互に関連しつつも、独立した章でそれぞれ扱われている。

→①についてはすでに述べられた通りで、②と③についてもいずれ明らかにされる。ここでは論点を先取りして、『基礎』における基本的な構想を検討しておく。

 

○カントは人の認識をアプリオリ/アポステリオリ、綜合的/分析的という知識形態2通りの組み合わせ4通りから考えた。

アプリオリ……文字通り先験的に与えられる真理で、一切の経験に依拠しない。

アポステリオリ……逆に経験的に知られる真理

 

(判断「AはBである」おいて)

綜合的……「主語Aと述語Bが、概念Aの中に含まれない」といった認識論的考察の対象となるべき判断。

分析的……「主語Aに述語Bが、概念Aの中に含まれる」といった論理学的考察の対象となるべき判断。

→綜合的であることとアポステリオリであること/分析的であることとアプリオリであることはそれぞれ近しく感じるが、必ずしも2つの軸が一致するとは限らない(例えばカントも認めるよう「アプリオリな綜合的判断」も存在する)。

 

○また心/論理の区別に関連して留意しておくべきは、これらの4つの判断は例外なく正当化の過程を経由するので、真理値が真である命題としてしか現れることはない。

→アプリオリな誤謬など存在しないし、感性の領分における現象(すなわち心的な現象)はここでは「判断」という語に含意されていない。

○このように心的現象としての、あるいは表象としての数学が拒否される以上、数学的真理とはアポステリオリに経験されるものではない。

→よって次に問題になるのが綜合的か分析的かという区別である。

 

○カントは数学的真理をアプリオリに規定された命題によるものであると考えた一方、綜合的であると評価している。

→綜合的であるということは、特定の学問分野における論理に還元されるということ―直観的に示すことができるということ/逆に分析的であるということは、学問一般における普遍的論理として把握されるということを意味する。

○確かにカントが主張するようユークリッド幾何学における命題は綜合的である。空間における点や線が直観によって判断することが可能であるからだ。しかし全ての命題に空間が想定できるわけではないので、普遍的に適用可能な論理形式であるとはいえない(分析的ではない)。

→先述の通りフレーゲは諸論者の主張の反駁を通し、数学がアプリオリかつ分析的であるという評価を最終的に下すことになる。

 

 

[カント、ミル、ライプニッツ]

○では具体的にどのような論拠によって数学的真理のアプリオリかつ分析的という特性が正当化されうるのか、以下ではフレーゲが実際に行った批判と擁護を順に確認する。

[カント的合理論に対して]

○カントは数学をアプリオリかつ綜合的判断と位置づける。

○例えば命題「7本の指と8本の指の合計は15本である」は(幾何学同様に)「7+8=15」という数学的直観に支えられている。

→しかし「789本の指と638本の指の合計」といったふうに数が増したとき、この計算は直観的に判断できるものではないはずだ。またもしそのような直観を有するのであれば、そもそも「789+639=1428」などという計算自体不要だろう。

→このように加算という論理が数学というディシプリンに限定されるわけではないため、綜合的であるとはいえない。

 

[ミル的経験論に対して]

○ミルは数学をアポステリオリかつ綜合的判断と位置づける。

→すなわち数には実際の物的現象が与えられる。

○例えば2という数にはそこにいる2頭の馬が、3が示される時にはそこにある3本のペンが直観されるといった具合に。

→しかしこれは明らかに無理がある。例えば102頭の馬と103頭の馬の区別は、2頭と3頭のときよりも困難であるはずだし、カントの直観と同様に89273頭などといった事実上経験不可能な量の物的現象に対して数の説明が与えられないことになってしまう。

→ゆえに数学的真理はアポステリオリでもない。

 

[ライプニッツに対して]

○ライプニッツは数に関するいくつかの公理(例えば加算や減算)によって、無数の定理を導出できると考えた。

→若干の一般命題によって、無数の加算式や減算式を生み出すことができる。

○これらを踏まえライプニッツは、数をアプリオリかつ具体個別的な直観には還元されない分析的判断であると考えていると見なすことができる。

→このことからフレーゲはライプニッツを支持する。

 

○数学は幾何学のように直観的に判断できるものではないし、心理学のように経験的判断を伴う学問ではない。

→数の概念はもっと広範囲に適用可能な普遍的かつ一般的論理形式であり、ゆえにアプリオリで分析的であると結論付けられる。

 

 

[基数概念]

○ライプニッツの観点からすれば、「1+1=2」という最低限の公理さえあれば、その他の数に関する定理はすべて導出することができるようになる。

→次にそもそも(基)数とは何かということが問われる必要がある。フレーゲはまず以下の3つの見解を不当と見なすことから始める。

[可触的性質としての数]

○ミルは数を色や形などと同様、経験可能で可触的な物象の性質であると考えた。

→「1個の青りんご」と「2個の赤りんご」があるとき、個数1/2と赤/青の区別は同じ仕方に基づいてなされる。

○しかし数を物の集積と見なすミル的観点は、集積を区別する基準が唯一ではないことから不当であるといえる。

→藁の束を1つと見なすか、それとも無数の藁の集積と見なすかということは、藁の性質として帰属することはできない。

 

[主観的現象としての数]

○数が客観的物象の性質ではないのであれば、心の中に生起する主観的現象であるということになるのだろうか。

→先述の通りフレーゲが最も忌避した考え方。数が本当に私秘的な心的現象ならば、「2個のりんご」という判断が各人によって異なるかもしれない可能性が出てくる。丸

 

[集合としての数]

○数を客観的物象に帰属される性質、心的・主観的現象として捉える見解はここまでで退けられた。では数を集合として扱う主張はどうだろうか。

→この主張に従えば、ある集合に含めること、すなわち対象に共通の性質を見出すことで数えることは可能となる。例えば命題「りんごが3個ある」は、集合「りんご」に3つの対象を含めている。

→しかし共通の性質を見出すことは、逆を返せば概念的区別の捨象に他ならない。すなわち加算のために「りんご」という集合を用いれば、今度は「青いりんご」「赤いりんご」といった区別が蔑ろにされてしまう。

 

 

[概念としての数]

○フレーゲは個数言明を(物的対象、心と主観、集合ではなく)概念に帰属されると考えた。これは先の集合と近い発想であるが、概念と集合は以下の点で異なっている。

→例えば「りんご3つ」という個数言明は(集合の場合と同様)概念「りんご」の下で可能となっている。

→しかし数を集合と見なす見解が、対象に完全に類似する性質すなわち「同一性」を認める必要があるのに対し、概念の場合はもっと抽象的な境界付けによるものである。

→厳密な類似性を見出す場合、そもそも対象の区別自体が不可能になってしまう。

 

 

○さらに存在や単数性自体が概念を表す場合もある。

→ある概念の下にそこに属する唯一の概念を集めるとき、この場合が生じる。例えば「地球の衛星」といえば、地球の衛星はそれぞれ他の場所にはないので(地球の衛星上にしかないので)、概念それ自体に一意性が帰属されることになる。

→こうした特性を有する概念を「第二階の概念」とフレーゲは呼んだ。

 

 

 

第5章 『算術の基礎』 Ⅱ p.99-127

[数の定義]

○ここまでをいったん整理すると、以下の2点に要約できる。

(1)数学はアプリオリに分析的である。ライプニッツに従うと数の0と1、及び1の加算さえ公理として定義できれば全ての個数言明が導出できる。

(2)個数言明は物的対象、心的現象、集合ではなく/概念についての主張である。

→よって残すところは「0と1」「1の加算」の定義の検討のみである。しかし4章以降のフレーゲは、拙速とも思える速さで議論を展開させる。

○例えば上述の定義を以下のように性急にまとめ上げる。

(a)[数0について]数0が概念Fに帰属するのは、aが何であっても、aがFの下に属さない場合である。

 

(b)[数1について]数1が概念Fに帰属するのは、次の(1)は成り立たないが、しかし(2)は成り立つ場合である(¬1∧2)。

(1)aが何であっても、aはFの下に属さない

(2)aとbが何であっても、aがFの下に属し、そしてbもFの下に属すのであれば、aとbは同一である。

 

(c)nを用いたn+1の定義、数n+1が概念Fに帰属するのは、ある対象aが存在して、aはFの下に属し、かつ「Fの下に属するが、しかしaとは同一ではない」という概念に数nが帰属する場合である。

 

○これら定義は手放しに首肯できるものではなく、付随する問題として以下の2点が挙げられる。

(ⅰ)4章の見出しには「数とは自存的対象である」とある。

→しかしすでに見たように数は概念に帰属されるものであり、また対象と概念の区別も(ミルの論駁を通して)強調されていた。

→この主張と「言明内容とは概念である」とする主張はいかにして調停可能なのか。

(ⅱ)上記に関連して、ここまでの主張では数の定義が自然数にのみ限定されて語られてきた。しかしながら4章では固有名「ジュリアス・シーザー」に数の定義が拡張され、与えられている。

 

○まず(ⅱ)に対しては、先の数の定義(b)が援用される。

→数1は、ある概念(ここでは固有名「シーザー」)の下に属しており、自然数以外の概念「シーザー」を数とするのは直観に反するが、定義に反してはおらず正当である。

→さらにある概念Fの下に数1と数2が帰属されたとしても、このとき1=2とはならない(同じ概念の下にある数でも同一性があるとは限らない)ことも併せて留意させるべき事項である。

→概念Fの下に唯一の数が帰属されるとは限らない。

 

 

[自存的対象としての数]

○次に(ⅰ)に関して、確かに先述の通り数nはある概念Fの下に帰属されるが、これは概念Fの性質として数nがあるのではなく、帰属する数として概念Fがnを持つと考えることによって、矛盾に思えた主張が両立される。

→これは先の「第二階の概念」を考えることでいっそう明晰化できる。例えば固有名である「ジュリアス・シーザー」の概念に含まれる数は1のみである。このとき数1は「シーザー」の性質ではなく、「シーザー」が帰属する数として1を持っているというわけである。

 

○では数を自存的対象として定義することによって、どのようか示唆が得られるだろうか。それは以下の2点に要約できるだろう。

(1)自存的対象であることには、外的な条件に規定されないことが含意される。

→数は客観的対象物でありながらも、カントが言うように空間によって規定されているわけではない。

(2)自存的対象であると定義することによって、数の主観的営為への還元が妨げられる。

→数は(可触的ではないにしろ)客観的に存在しており、ゆえに心の営みには還元されない。

 

 

[3つの論点]

○先述の通りフレーゲは『算術の基礎』における論点を3つに整理していた。つまり、

①論理と心理の区別

②常に語の意味は命題として現れる

③対象と概念の区別

→いまやこの3つがそれぞれ明らかになったといえるだろう。

○まず①は自存的対象としての数は、存在論的に見て客観性を有するため、心といった主観的現象には還元されないという事実を反映している。

→関連して②も既に述べたとおり、数とは心理現象のようなアポステリオリなものとしてではなく、アプリオリで分析的な特性を持っていることから、(真の)命題としてしか表出されないことを意味している。

→そして③にあるよう数は自存的対象であるため、概念とは区別されるが、概念の下に帰属される数nという性質を持っている

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