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Rawls,John 2001 『公正としての正義 再説』

『公正としての正義 再説』 2001→2004 J.ロールズ 

 

◇第一部 基礎的諸観念 p.1~66

1,政治哲学四つの役割

①実践的役割

・政治的立場の対立の根底にある道徳的-哲学的な意見の相違を狭める。

→宗教戦争後における功利主義、南北戦争期における奴隷制の是非など

・現代においては、平等と自由をいかに序列付けるかに焦点があてられる(リベラルかリバタリアニズムか、左派か右派か、福祉か自由競争かetc)

②方向付け

・政治哲学は社会的協働-連帯の媒介として機能する国民性(nation-ship)を保障する。

③宥和1

・政治哲学は現代の社会が長期間に渡る歴史の中で合理的に構成されたということを明らかにする。

→宥和の役割は社会が共同体ではなく、世代に渡る公正な協働システムであるということを成員に知らせることである。例えば、偶発的な遺産相続などは排除される。

④宥和2

・政治哲学は(宥和からさらに踏み込んで)あらゆる社会制度が成員の連帯によっては変更可能であることをも教えてくれる。

※以下からは『正義論』の冒頭で掲げられる「公正としての正義」を構成する六つの基礎観念のうち、「公正な協働システムとしての社会」(二節)、「秩序だった社会」(三節)、「基本構造」(四節)の三つがまず紹介される。

 

 

2,公正な協働システムとしての社会

・社会的協働は、

(a)協働する人によってそれぞれ自発的に達成される。互恵性。

(b)公正な条項を含んでいる。公正な条項とは、各人がそれぞれの立場関係なくコミットメントすべきと考える条項のことである。

(c)善ないしは合理的な観念も含んでいる。

→社会的協働へのコミットは道理(reasonable)に適っている/必ずしも合理的(rational)ではない

 

3,秩序だった社会の観念

・ある社会が秩序だっているということは、

(a)成員が正義の政治原理についてコンセンサスを形成している。

(b)成員は社会の「基本構造」が正義原理に適っているということを知っている。

(c)成員は公に承認された正義原理に従うことの互恵性を知っている。

 

・秩序だった社会という理念系は理想化されたものであるが、この理念系が世代間協働のモデルとしてふさわしくないことが明らかになったとき、正義原理それ自体の欠陥が発見されるため、尺度として機能的である。

 

 

4,基本構造の観念

・3(b)にあるように基本構造は公正としての正義原理が第一義的に適用される社会構造である(経済制度、家族形態、政治制度など)。

→しかし、学校、宗教団体、会社、労働組合といった結社は基本構造の制約下にあるとはいえ、それぞれ異なる価値に準拠しており、その自由は認められる。

→規模でいえば、「ローカルな正義(結社、共同体)」―「国家規模の正義(基本構造)」―「グローバルな正義(諸国民の法)」となる。このうち本書が焦点をあてるのは「国家規模の正義」と「グローバルな正義(諸国民の法)」である。

 

5,われわれの探求の諸限定

・本書で探求されるのは、

①正義原理―基本構造であり、ローカルな正義原理ではない。

②理想化された正義の理念であり、現実の比較検討がされる。

③諸国民の法も含まれる。

・また「公正としての正義」は、包括的な宗教的、道徳的、哲学的正義ではない。

→基本構造に限定して適用される正義の特殊系である/一般系ではない。

 

 

6,原初状態の観念

※以下からはさらに、「公正としての正義」を構成する基本的観念のうち「原初状態」(本節)、と「自由で平等な人格としての市民」(七節)について解説される。

 

・原初状態の想定によって各人は「公正な協働システムとしての社会」における公正な条項を合理的に選好することを明らかにされる。

・契約論における自然状態とは異なり、各人は「無知のヴェール」で覆われている=他者との選好や資産などの差異に無自覚的である。

・また原初状態はⅰ仮説的でⅱ非歴史的である。

→しかし、原初状態はあくまで思考実験のモデルであり、よってそれは公正な条項を明らかにするために機能さえすればよい。つまり、原初状態は概念装置である。

 

 

7,自由で平等な人格の観念

・自由で平等な人格は、

①公正な条項を理解し、合意し、達成しようと試みる正義感覚への能力

②各自の善の構想を目的にあわせて自己修正していく能力

という二つの「道徳的能力」を有する。

→先述の通り、「公正としての正義」は包括的な道徳ではなく、特殊な政治的道徳である。よってその下位観念である「自由で平等な人格」も政治的道徳に依拠している/包括的観念の自我とは異なる(形而上学や心の哲学の主題ではない)。

 

・各人が「平等な人格」を有するということは、政治社会/共同体を区別する。

→各人は政治的道徳から見たときに平等であり、特定の価値や規範によって他の成員を区別することができない。一方で部分社会としての共同体は特定の価値(信仰、人種、性差など)に立脚している。

 

・各人が「自由な人格」を有するということは、政治的アイデンティティ/非政治的アイデンティティを区別する。

→共通の善の構想を志向するという点で各人の政治的アイデンティティは「公正としての正義」の制約下にある/他方で結社などの共同体において個々人の非政治的アイデンティティは自由である。

・また各人が「自由な人格」であるということは、各人が自身に政治的請求権があることを認知していることを意味している。

 

 

8,基礎的諸観念の関係

・ここまでで登場した5つの基礎的諸観念―「公正な協働システムとしての社会(第三節)」「秩序だった社会(第四節)」「基本構造(第五節)」「原初状態(第六節)」「自由で平等な人格(第七節)」はそれぞれ説明がなされる順に配置されている。

→「公正な協働システムとしての社会」という観念編成から始めれば、その実現された形態である「秩序だった社会」と適用される場所「基本構造」が説明される。次いで協働の公正な条項が各人にいかに選好されるか(「原初状態」)、協働活動に携わる人々の人格がどのように見なされるか(「自由で平等な人格」)考えられる。

→社会的協働の観念は演繹的に適用されない。ある形態がふさわしくないとされるとき、それは協働の観念に反しているのではなくて、立憲民主主義政治の歴史に反している。

→つまり、社会的協働の観念に内在的な価値を認められない(自己正当化しない)。これが正当であるのは、穏当な多元性の事実があり、最も一般的な反省的均衡(第十節)が達成されている状態で各人に承認されているときだけである。

 

 

9,公共的正当化の観念

※ここではロールズが『正義論』で掲げた六つの基礎的観念のうち最後の観念「公共的正当化」が紹介される。

 

・「公共的正当化」は「秩序だった社会」において見られる、「公正としての正義」に対する成員の合意形成を意味する。ここまでで見たように公正としての正義は、

(a)国民国家―政治的道徳という特殊な対象にしか適用されない原理である。

→よってローカルな共同体の諸価値については留保される。

(b)よって包括的な道徳でもない。

(c)六つの基礎的構想から成る。

・「公共的正当化」は無論、重要であるが、現実問題として全ての具体個別の政策にて合意形成がなされるのは困難である。むしろ、憲法の規定など「合意形成の過程が保持される」過程において「公共的正当化」はなされないとならない。

 

・「公共的正当化」は「反省的均衡(第十章)」と「重なり合うコンセンサス(第十一章)」、そして「自由な公共的理性の観念(第二十四章)」を含んでいる。以下では前二つが考察される。

 

 

10,反省的均衡の観念

・合意形成のプロセスにおいて、各人はそれぞれの選好から主張をする。

→しかし、各人は「自由で平等な人格」を有しており、また「原初状態」の例で明らかにされたよう最終的には「公正としての正義」に到達する(ことは前提化される)。

→よって、ある正義の構想が修正されたり、考慮されたりする過程がむしろ重要である。

 

・ある人が独りで正義の構想を練り上げる―より多くの人に熟慮されていない=「狭い反省的均衡」/すでによく知られた正義の構想を掲げる―より多く人に熟慮された=「広い反省的均衡」

→「秩序だった社会」では合意形成が達成され、全ての人が同じ正義原理を共有していると想定されているため、「反省的均衡」は「完全」な状態である。

 

11,重なり合うコンセンサスの観念

・「穏当な多元性の事実」は政治的道徳としての「公正としての正義」と、包括的道徳(教義、哲学)と部分的道徳(結社、共同体)がそれぞれレイヤーは異なるということを示している。

→それぞれ道徳のレイヤーが違うため、包括的道徳、部分的道徳内部で対立が起ころうとも政治的合意は十分に達成される(「重なりあうコンセンサス」)。

 

・現代の民主主義的社会に見られる以下の五つの一般的事実は、一過性のものではなく恒久的なものである。

①穏当な多元性の事実……民主主義において包括的、部分的道徳はその多様性を認められている

②抑圧の事実……包括的な宗教的-哲学的道徳が国家の正義となるとき抑圧が起きる

③政治決定は事実上の多数派が有利である(ため包括的-部分的道徳によって支持される政治原理が望まれる)

④程よく活動してきた民主主義的社会には政治原理を受容する土壌がある

・ではそもそも、道理に適った人々の意見の不一致から合意形成は可能なのか。意見の相克は以下の理由から起きる。

(a)科学的-経験的論拠の矛盾と複雑性 (b)同一意見に対する異なる重み (c)概念の不確実性 (d)各人の経験的差異 (e)加味すべき規範の対立(ダブルスタンダード)

→⑤同意形成には以上のような困難がつきまとうが、それは客観的真理が存在しないということを意味しない。

 

【メモと批判】

・キムリッカも言ってたけど理想系とはいえ楽観的過ぎるだよ~

→「自由で平等な人格」の話は特に不満。政治的アイデンティティ/非政治的アイデンティティなど峻別できるはずがない。

 

・包括的教説=共通善で理解していいの?コミュニタリアンからの批判を意識してるなら語句統一してほしいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・第三章で自由で平等な人格/原初状態に焦点が当てられる。

・第四章で秩序だった社会/基本構造に焦点が当てられる。
◇第二部 正義の原理 p.67~140

12,三つの基本的な要点

・以下では本書の基本的な要点が三つ確認される。

①[民主主義的理念としての正義]

・「公正としての正義」は民主主義の枠組みに依拠して降り、従って民主主義的国家においてどのような理念が望ましいか考察される。

②[社会的・政治的制度]

・公正な社会的協働はいかなる社会的-政治的制度(基本構造)によって実現されるか。特に所得分配の問題はどうなるか。

③[政治的道徳としての正義]

・「公正としての正義」が政治的道徳であり、形而上学的-宗教的道徳あるいは共同体、結社の道徳などとは区別される/「国家規模」の「基本構造」にしか適用されない。

→民主主義における「穏当な多元性の事実」と「包括的教説」が存在する事実がこれを裏付けている。

→「①民主主義において③各人の認める価値の自由を保障しつつ②公正な所得の分配を実現する正義原理とはなにか?」が問われる。

 

 

13,正義の二原理

※13節では正義の二原理について解説されたあと、自由原理(第一原理)と均等原理(第二原理)の説明がされ、14節-22節で格差原理(第二原理)について考察される。

 

 

【正義の二原理】

(a)各人は平等な基本的自由からなる十分な適切な枠組みへの同一の侵すことのできない基本的請求権を持っており、しかも、その枠組みは諸自由からなる全員の同一の枠組みと両立する[自由原理]

(b)社会的-経済的不平等は、以下の条件を満たすように配置されなければならない。

・機会の公正な平等という条件のもとで全員に開かれた地位や職務に関するもとして[機会原理]

・社会で最も恵まれない人々の最大の利益となるように[格差原理]

 

・さらに第一(自由)原理>第二原理

・第二原理のうち、機会原理>格差原理 である

 

 

[機会原理について]

・先天的才能、意欲、出身階層など諸々が同じならば、全ての人はほぼ同等の地位や職務の成功を収めるはずである。

→諸条件が揃えられることが機会均等である。

 

[自由原理について]

・基本的自由は①思想-良心の自由 と ②政治的自由からなる。

→これらの諸自由をリスト化するには、

①歴史的方法

・歴史上保障されてきた基本的自由を確認し、その後「無知のヴェール」に包まれた市民にリストを知らせる

②分析的方法

・「自由で平等な人格」を発達させるにはいかなる自由が保障されるか考える。①思想-良心の自由は自己修正の能力、②政治的自由は正義感覚の能力に対応している(7節参照)。

 

・「第一原理>第二原理(内では機会原理>格差原理)」である。

→いかなる全体に経済的-社会的不平等が生じようとも信仰や良心の自由は制限されないし、また例えば良心的兵役拒否は経済的-社会的不平等を助長しようとも容認される。

・「基本構造」の規定という観点から「第一原理>第二原理/機会原理>格差原理」の優先順位を考えると以下のような段階になる。

①原初状態

・「無知のヴェール」によって正義原理そのものが決定される

②憲法制定会議

・第一原理によって憲法の必須事項が決定される

③立法段階

・第二原理によって社会的-経済的不平等をめぐる法が決定される(機会原理は憲法に一部立ち入る/格差原理は憲法に立ち入らない)

④法の施行

・すべての人が「基本構造」を始めて「知る」

→二原理の関係性は、相互補完的、憲法決定の優先、憲法決定の方が容易、憲法決定は合意を得る(穏当な多元性/包括的教説)と要約される。

 

 

14,分配的正義の問題

・功利主義における配分的正義/リベラルな平等における公正としての正義

→前者は効用最大化を目的としているので利己的な選好が認められる/後者は「公正な協働システムとしての社会」―背景的正義の世代間移動が目的であるため利己的選好は認められない。

 

 

15,主題としての基本構造―その第一理由

※15-16節では正義原理において基本構造が第一主題として選ばれる論拠が説明される。

[社会的制度の働きと背景的正義の世代間伝達のための制限]

・「人々の社会的環境と関係は理想的な合意形成のもと、長期にわたって継続されるべきだ」(ロックによる理想的歴史プロセス)

→背景的正義の世代間移動を訴える公正としての正義もこれに含まれる。

・では背景的正義の伝達はいかにして可能か。

・基本構造内部における結社を否定するのではなく、むしろそれぞれの合意形成が求められるため、「第二原理による基本構造の規制/第一原理による結社の自由」が両立されなければならない。

→ロックが後者に焦点を当てたのに対して、「公正としての正義」は両者を表裏一体の関係として捉える。

 

 

16,主題としての基本構造―その第二の理由

[基本的構造の深遠で広大な影響力]
・市民の人生の見込みを左右する出来事は、秩序だった社会においても以下の三つの偶然性によって生じうる

(a)出身階層

(b)先天的能力とそれを成長させる機会

(c)運と不運―非自発的失業や病気、事故など

→よって、①三つの偶然性と②基本構造が成員の人生を大きく左右する

 

・15-16節を要約すると、基本的構造は①背景的正義の伝達 ②偶然性の是正という二つの理由から「公正としての正義」の主題となる。

 

 

17,誰が最も不利な状況にあるのか

・この問題を考えるにあたり、基本善(財)という概念を導入する。

→基本善(財)とは各人の正義感覚と自己修正能力を実現するために不可欠な善(財)のことであり、以下の五つに類型化される。

①諸々の基礎的自由―思想と良心の自由/政治的自由(13節)

②移動と職業選択の自由

③諸々の地位と職務に伴う権力と特権

④(交換価値のある媒介としての)富と所得

⑤自尊の社会的基盤

 

・基本善の概念は格差原理の下位概念であり、格差原理は政治的道徳としての正義原理の下位原理である。よって、包括的教説に基本善は回収されない(包括的正義によってリスト化もされないし、序列化もされない)。

 

 

18,格差原理―その意味

・格差原理は分配に関わる原理であり、よって生産に関わる。

・x=MAG(more advantaged group)-より恵まれた集団の代表個人/y=LAG(low advantaged group)-より恵まれない集団の代表個人

・指数は基本善/原点O=平等分配点/P=生産高 (p.107参照)

→格差原理に従って「最も恵まれない人々にとって最大限の利益であるように(不平等は配置される)」ため、OP曲線が「LAGが最大限の利益を得ている状態を描く場合」が最も望ましい/MAGの利益は加味されない。

・社会的協働は世代を移動する。

→功利主義的には全体の効用が最大化される状態が望ましい(OP曲線は高位置にあるのが望ましい)/しかし、格差原理には全体の効用の規模は関係ない(OP曲線はLAGが最大限の利益を得ている状態を描くのが望ましい)

→OP曲線の位置ではなく形状に注目することになる(はず)

 

・基本善の指数には三つの偶然性(16節)が含まれているのに、ジェンダーや人種が含まれないのはなぜか。

→偶然性は基本善の配分に依存的である/ジェンダー、人種(による差別)は基本善の配分に従属的である から

→つまり、偶然性は基本善の配分の差異を否応なくもたらすが/ジェンダー-人種が差別の対象になるか否かは当該社会で異なり、基本善の配分の差異「によって」差別が顕在化するから

 

 

19,反例による異論

・なぜ「OP曲線がLAGの最大限の利益となる弧を描くとき」最も望ましいといえるのか。ここでは三つの異論及び反例が確認される。

[反例]

(a)最も効果的なOP曲線が最高点に向かってゆっくり上昇した場合

→MAGの利益はLAGのそれよりはるかに大きくなる

(b)最も効果的なOP曲線が最高点を通過後にゆっくり下降した場合

→MAGの利益はLAGのそれを下げれば上昇することになる

・どちらの場合も「MAGの潜在的利得/損失」と「LAGの潜在的損失/利得」が反比例していることが問題となっている。

[解答]

(a)もし格差原理が達成されているのであれば、OP曲線は急速に最高点に向かって上昇するため、「MAGの利益がLAGよりはるかに大きい」期間は事実上、存在しえない。

(b)もし格差原理が達成されているのであれば、MAGの利益は何らかの課税制度の対象となるため「MAGの利益は上昇しない/LAGの利益は下がらない」

→つまり反例(a)(b)で想定されているようなOP曲線は、格差原理が達成されている限り描かれる期間が事実上存在しない(理論上は描かれるがすぐに解消される)。

 

[反例]

(c)以下の基本善の配分の選択肢において格差原理は(3)を選ぶ。なぜなら「最も不利益な集団の最大限の利益となっている」から。

 

(1)

(2)

(3)

インド人

100

120

115

イギリス人

100

110

140

・一方『正義論』では(2)が正しいと主張されていた。

→「LAGがMAGの暮らし向きを受け入れられるのは、MAGの優位がLAGの暮らし向きが改善されるよう努められた結果であるということを知っているから」

・これは誤り。OP曲線はすぐに最高点に到達するため「LAGの暮らし向きが改善されるよう努めたられた」期間はない(LAGは相対的な暮らし向きの向上を知らない)。

 

・(3)は確かに(2)よりインド人の利益は少ないが、その近傍内で互恵性が達成されているため最も格差原理に適っているといえる(グラフはスペクトラムである)/(1)と(2)はグラフ内ではLAGの利益が達成されていない。

→よって(a)格差原理は正義原理が達成されているときのみ有効である(下位原理である)(b)格差原理は基本構造がスペクトラムを描くことを前提とする (c)諸々の無制限な自由な想定は常識的制度を加味すれば廃される (d)格差原理は正義原理であるため特定個人の所得増加は指向しない (e)格差原理の適用による社会的地位は正しく定められなければならない

 

20,正当な期待、権原、功績

・「公正としての正義」における分配は「正統な請求権と獲得された権原」に基づいて行われる(14節)=正統な請求権と権原は基本構造に依拠しており、背景的正義に帰される。

・一方で日常的に基本構造-社会制度は三つの道徳的な功績観念に依拠していると考えられている。このことを「公正としての正義」は否定しない。

①包括教説によって与えられる(厳密な意味での)「道徳的功績」の観念

②正統な期待の観念

③一定の目的達成のため、公共的諸ルールによって規定された<値する>という観念

→「正統な請求権と権原」に対して、

①は「穏当な多元的事実」に反するため不当である(利己的な選好が許容される)

②は「特別な諸関係」を役割期待から考えるため必要である

③によって競争があるため成功/失敗者は生まれるが、それでも社会的協働はコミットに<値する>と考えることが可能である

→①は排される。

 

 

21,生まれつきの才能を共同資産とみる見解について

・②と③の功績観念は生まれつきの才能それ自体による功績には目を向けない/その才能を伸ばすという過程は功績として捉える(正統な期待)。

・生まれつきの才能は共同資産である。

→ただし自己所有物としての才能それ自体が(共同)資産なのではなくて、才能の分配が共同資産である。つまり、才能の分配は互恵性の観念に基づいて格差原理に利用される。

 

 

22,分配的正義と功績についての総括

・「公正としての正義」は包括的教説における「道徳的功績」を利己的な選好として阻むために功績観念から退ける/包括的教説は政治的道徳-「公正としての正義」において相対化される。

→代わりに導入されたのは「正統な期待/正統な権原」という観念だった。これらは以下の条件を満たさなければならない。

(a)現代国家における産業にとって必要な社会的-経済的不平等を容認する

(b)互恵性の原則を表現しなければならない

(c)最も重大な不平等に対して政治的正義から応えなければならない/包括的教義から応えてはならない

(d)公正な分配の原理は公に検証されなければならない

(e)追求されるべき原理は適度に単純で、日常的直観に沿っていなければならない

 

・格差原理に関心が集まるのは、それがコミットするに<値する>と考えられているからではなく、むしろそうした役割期待が各人をそれぞれの部署に引き付けるからである。

・弱者救済という教義から格差原理にコミットすると考える人がいるかもしれない。しかし、それはあくまで包括的教説によるものであり、政治的道徳「内部での」出来事にすぎない。こうした包括的教説の対立に政治的道徳は関与しない。

 

 

 

◇第三部 原初状態からの議論 p.141~238

23,原初状態―その構成

・原初状態の議論はパーソンズによる「純粋経済人」への批判および目的合理性/価値合理性の区別に類似している。

→しかし、原初状態の場合、原初状態における正義の選択は合理ではなく道理に依拠している。カントがいう定言命法/仮言命法の区別。合理性は道理に服従しており、物自体としての人間は道理に従う。

・よって原初状態はいかなる社会的-心理的条件も反映させない、純粋な演繹的理念系である(このことは「無知のヴェール」によって説明)。

→もし「公正としての正義」は選択されないという主張が考えられるならば、原初状態における諸個人の状態ではなく、原初状態の構成自体を疑う必要がある(よってコミュニタリアンの批判は不当である)。

 

 

24,正義の環境

・「公正としての正義」は以下の環境を所与とする。

①財の希少性及びそれを維持するための社会的協働の必要性

②各人がそれぞれ異なる包括的教説を抱いているということ(穏当な多元性)、特定の包括的教説を国家が支持すれば抑圧が生まれるということ(抑圧の事実)

→「穏当な多元性の事実」は必然的に政治哲学における正義の実現が包括的教説に依拠する可能性を排する。ただし、このことは包括的教説の真理性を否定しない。

・正義原理への合意は各人の個人的利益の追求によって達成されるが、これは一般的意味で各人が利己的であるということを意味しない。

→「個人的利益の追求」が包摂的教説に立脚すると対立は深刻となる。

 

 

25,形式的な諸制約と無知のヴェール

・原初状態下において「無知のヴェール」によって各人に以下の制限が課されている

①各人は自分の心理的な傾向(嫌悪や嫉妬、あるいは好感)を知らない

②各人は自分の包括的教説および善の構想を知らない

→ではそもそも動機が不在なのではないか

→基本善(17で「各人にとって必要である」と定義されていた)の概念が説明する

 

 

26,公共的理性の観念

・原初状態にて、人々はいかなる知識を持っていると考えられるべきだろうか(完全に「無知」であるということにはならない)

・原初的合意は ①基本構造を規定する政治決定に関わる合意 と ②推論原理と証拠規則に関わる合意 の二つのレイヤーからなる。

→前者は政治的道徳/後者は穏当な多元性-包括的教説に依拠している

→これらが区別されるということ(①の合意形成に②が関与しないということ)は、政治的理性/公共的理性(政治的アイデンティティ/非政治的アイデンティティ)が区別されるということに他ならない。

・よって結社などの共同体からの「離脱」は可能だが/国家からの「離脱」は困難である

→リベラリズムは政治を結社-共同体として見なさない。

 

 

27,第一の基本的比較

※原初状態が正義の二原理をそれぞれ支持する二つの基本的比較について27-33節で第一の基本的比較、34-39節で第二の基本的比較が説明される。

 

・原初状態は正義原理を正当化する二つの基本的比較を用意する。

①第一の比較/マキシミンルール……リベラルの「平等な観念」が功利主義の「最大化主義」より優位であるということを示す。なおこちらの比較はより重要で単純である。

②第二の比較……リベラルの「互恵性の観念」が功利主義の「集計主義」より優位であるということを示す。

→もし原初状態によって「公正としての正義」が正当化されたのならば、政治哲学における功利主義、卓越主義、直観主義を反証することになる(特に功利主義はパラダイムとなっている)。

 

 

28,議論の構造とマキシミンルール

・ここからの議論(-33節)は以下の段階からなる。

(ⅰ)基本的構造に正義原理が適用されるとき、マキシミンルールに導かれてなされるのが合理的である。

(ⅱ)↑が真ならば、マキシミンルールは三つの条件を提示する。

(ⅲ)これら三つの条件は原初状態によって充足される

(ⅳ)よって正義の二原理は功利主義の効用原理より真である。

 

・では、マキシミンによって満たされるべき三つの条件とはなにか。

①各人は選択によって想定外の最悪な結果が実現される可能性が現実にどの程度起こるか考えない。マキシミンはそうした確率的想定は加味しないよって、確率の概念そのものを排する。

②各人は最悪の結果の回避を指向する―最悪な諸結果の中の最善な結果=「保障水準」を目指す。よって、「保障水準」が各人を満足させなければならないこと。

③最悪な諸結果が「保障水準」をはるかに下回ること(②の逆)。

→第二条件と第三条件は可逆的であり、第一条件は部分的に充足されればよい。よって第三条件と(部分的な)第一条件が満たされれば、第一比較は真である。

・また条件の充足は以下の事実を支持する

第二条件が満たされる――公共的政治文化が各人の生活に与える効果が善いものである

第三条件が満たされる――ある人々の基本的自由と権利が他の人々あるいは社会全体の利益のために制限されるべきであること

 

 

29,第三条件を強調する議論

※以下では先述の条件のうち、第三条件の強調(29節)と第二条件の強調(33節)でなされる。

・とりあえず、第一条件は満たされているものとして仮定する(立憲民主主義よりも、貴族政、神権政、王権政、独裁制における正義の方が確率的に選択されるという問いは不毛である)

 

・第二-第三条件を強調する議論は、マキシミン下における各人が「自分たち個人が受ける根本的利益を追求しつつも、許されない事態をあらかじめ回避することができる」=平等の観念/互恵性の観念がそれぞれ優位であることに立脚している

→マキシミン下における各人はギャンブル嗜好をも持たない(最悪の諸結果に陥るリスクを賭けない)

・さらに第三条件は「当事者たちが合意を結ぶ」ということが含意としてある。

→つまり、各人はコミットメントの緊張を考慮する。

 

 

30,基本的諸自由の優先性

・いかなる基本的自由も絶対的ではない/相対的である

→しかし、「基本的自由が認められるべき(自由原理)」という正義構想は(政治道徳として)特権的であり、原初状態において選択される。

→包括的教説によって基本的自由のどれかが特権的であるとされたとき、別の教説と対立が生じることになる。

 

 

31,不確実性への嫌悪に対する異論

・リスク―予期が可能な最悪な結果/不確実性―予期が不可能な最悪な結果

→原初状態における各人は不確実性を極端に嫌っているのではないか?

→これはレトリックの問題であり、各人が道理的判断をした結果このように見えるだけである(よって各人の心理に還元されない)

・このことは、「第三条件の議論は形式上どうあれ(不確実性を嫌う/道理的判断)功利主義の主張と同じではないか?」という批判を招く。

→功利主義が「選好・利益―効用の最大化」を考えるのに対し/リベラリズムは「道徳的能力―効用最大化」を考えるため異なっている。しかし、「効用の最大化」に焦点を当てる点において、功利主義的であるともいえる。

 

 

32,平等な基本的諸自由再訪

・基本的諸自由に関して、制限/規制は異なる。

→前者が包括的教説に則って内容に課される禁止であるのに対し/後者は政治的道徳に則って基本的諸自由そのものに課される制約である

 

・基本的自由は自由原理に関わるので本当に必須な自由のみに限定されなければならない。しかし、本当に必須な自由とはいかにして決定されるのか。

→「市民が二つの道徳的能力を発揮-成長されることができる社会的条件」が達成されることが条件となる(13節)。それは以下のように記述される。

①自由の行使を通して、正義原理が基本構造とその社会的制度に適用される(平等な政治的自由と思想の自由)。

②自由の行使を通して、穏当な多元性の事実が保障され、また各人が自身の信じる包括的教説をいつでも変更できる(結社の良心の自由)。

 

・留意しておくべきは、「財の所有」は基本的自由ではなくて、基本的権利の問題(自尊の問題)であるということ。

→資源と生産財及びそれに対する私的財産権は個人ではなく社会的に共有される(自由原理によって保護されない)。

 

 

33,第二条件を強調する議論

・第二条件「保障水準(最悪な諸結果の中の最善の結果)が人々を満足させなければならない」

・第二条件の充足は以下の「安定した立憲政体の三条件」が満たされた上で、功利主義の効用計算よりも優位であることが示されなければならない。

①「穏当な多元性の事実」を所与として前提化し、各人の基本的自由を認める―互恵性の立場から社会的協働を促す/功利主義は効用最大化が至上目的であるため、包括的教説による不当な選好を防げない

②公共的理性の確固な基盤を規定する/功利主義は恣意的な仮定による基盤であるため、成員に従うに<値する>ものして見られない

③「基本構造によって社会的協働が促進される」ということが公知されている。公共的理性は「資本」であるということ。

→これはベンサム的功利主義に対するミル的功利主義の批判に近い。ミルによれば、単純に効用を最大化するだけではなく、効用の概念が進歩する人間像と一致したものでなければならないという。

 

 

※ここまでを整理すると、

・功利主義に対して「公正としての正義」の妥当性を主張する「原初状態-マキシミン」の議論には、

第一比較(27-32)―(功利主義に比べ)平等の達成

第二比較(33-40)―(功利主義に比べ)互恵性の達成      があり、

そのうち第一比較において、

[仮定]「各人は最悪の諸結果から最善の結果を選びうる」としたとき、

①第一条件―確率を加味しない

②第二条件(33)―保障水準は各人を充足させる

③第三条件(29-32)―保障水準に比べると最悪の諸結果はさらに悪い

という三つの条件が満たされる必要がある(このうち①と③が満たされればよい)。

そして、

②の充足は「公共的政治文化が各人の生活に与える効果が善いものである」

③の充足は「ある人々の基本的自由と権利が他の人々あるいは社会全体の利益のために制限されるべきであること」           をそれぞれ意味していた。

次節からは「原初状態」の第二比較の検討に移る。

 

 

34,第二の基本的比較―序論

※ここでは格差原理の正当性を明らかにするために、「自由原理+格差原理」(正義原理)の比較対象として「自由原理+ミニマム保障付きの効用原理」(仮想敵正義原理)のどちらが妥当か検討される。

 

・「自由原理+格差原理」(正義原理)と「自由原理+ミニマム保障付きの効用原理」(制限つき効用原理)を比較する場合、マキシミンのうち第一条件と第三条件は加味される必要がない。

→よって、第二条件(公共的政治文化の有用性)が示されれば第二比較において格差原理は妥当である。

 

 

35,公知性に属する諸根拠

・秩序だった社会において実現される公知性は以下の三つのレベルに区分される

①市民の正義原理に対する相互承認、および基本構造がそれを実現しているという認知。

②原初状態において正義原理が選ばれたという事実の認知。

③「公正としての正義」それ自体に対する正当性の認知(つまりロールズ-読者と同じレベルの認知)―完全な公知性

→公知性にて理解されているものは、(虚偽意識としての)特定のイデオロギーとは区別されなければならない/完全な公知性はイデオロギーを極力排除する。

→これは教育システムによって実現される

 

 

36,互恵性に属する諸根拠

・格差原理は平等分割(原点O)から出発して、「MAGがLAGの暮らし向きが悪い状況で、より暮らし向きがよい生活をしていてはならない」ということを示す(OP-Dが最も望ましい地点となる)。

→これは原初状態において各人が選択するという点において互恵性の観念を達成しており、

「制限付きの効用原理」では不可能である。

 

 

37,安定性に属する諸根拠

・「公正としての正義」の安定性は各人がそれに承認を与え、社会的協働にコミットメントするに値すると考えているということで保障される。

→しかしMAGがLAGを切捨てる欲望に駆られるのではないだろうか。これは以下の理由から反証される。

①教育システムによって公知性が達成されている(35節)

②各人が互恵性を理解しているため、MAGは自身がMAGであると知っている(36節)

③「安定した立憲体制の三つの条件(33節)」によって示されるよう、社会的協働は促進されている  (からMAGはLAGを切り捨てない)

 

 

38,制限つき効用原理に反対する諸根拠

・効用原理の問題は不確実性にあった(効用最大化を目指す際の変数が多すぎる)

→不確実性はMAGとLAGの間に紛争と不信感を生む

→「効用最大化」よりも平等と互恵性の方が紐帯として機能する。

 

・制限つき効用原理にはミニマムが付加されている。

→これはコミットメントの緊張を最小にするミニマムでなければならない(29節)

→またコミットメントの緊張に対する否定の形式として ①武力や暴力の行使/②離脱 の二つのパターンが想定される。

・おそらく、「制限付き効用原理」のミニマムは①の否定を制約することができる(武力行使による効用最大化の侵害は認められない)が、②の否定は制約できない。

→正義原理は社会的ミニマムを特定するところから始めるため、こうした問題はそもそも浮上しない。

 

 

39,平等についてのコメント

・なぜ社会的-経済的不平等は容認されてはならないのか。以下の四つの理由が挙げられる。

①一方で裕福な暮らしが可能な人々がおり、他方に貧困にあえぐ人々がいるという事実それ自体が直観に反する。

②社会的-経済的不平等によってそれ以外の社会の部分が支配されるのを防ぐため。

→ミルのいうように不平等は社会的協働の障害となりえる。

③富裕層と貧困層の間に支配/服従の関係性を生み出す。

④ただし不平等=不正義というわけでではない(地位は立場関係に属する善である―ニーチェ『善悪の彼岸』)

・このうち③と④は「公正としての正義」はルソーの解決法に倣っている。つまり、効用原理による「最小の」ミニマムではなく、互恵性による社会的ミニマムを支持する。

 

 

40,結語

・本章で格差原理が効用原理より優位であるということが示された。しかし、それ以上は言及できていない。つまり、格差原理は他の立場の掲げる原理よりも相対的優位にあるだけで、絶対的優位であるか否かは明らかにされていない(できない)。

 

・また原初状態はあくまで概念装置である。それによっていかにより善い正義原理を提示することができても、実践的な検討によってでしか真価は検討できない。

 

【批判とメモ】

・28節で「第二比較にマキシミンは関係ない」(p.168)としているが、34節では「第二比較にマキシミンの第二条件の議論を引っ張って」きている(p.211-212)

→矛盾してないですか?

 

・あといくらなんでも39節ひどいだろ。疲れてたの?

 

 

 

◇第四部 正義に適った基本構造の諸制度 p.239~314

 

41,財産私有型民主制―序論

※41-42節ではまず正義原理を達成している政体として財産私有型民主制/他の諸政体が比較され、次に財産私有型民主制/福祉型資本主義が比較される

 

・システムとしての諸政体は 

①正と正義を実現できているか ②公然の目標を実現できているか 

③各人は政体の①と②の実効を感じているか ④職務や地位への役割が困難ではないか

という問題を抱えている。

→このうち、ここで問われるのは①。つまり、「どの政体及び基本構造が正と正義を実現できているか」という問いである。なお実効性は問われない/理念系の妥当性が問われる

・比較される政体は以下の5つである。

①自由放任型資本主義 ②福祉国家型資本主義 ③指令経済を伴う国家社会主義

④財産私有民主制 ⑤リベラルな社会主義

・このうち「正と正義を実現できているか」考えると、

①自由放任型資本主義は「政治的自由」の公正な価値と「機会」の基本的平等を認めない。よって正義原理に適わない。

②福祉型資本主義は社会的-経済的不平等を解消する社会的ミニマムをある程度の水準から実現する。しかし、それは「互恵性の原理」によるものではないため適わない。

③指令経済を伴う国家社会主義は平等な「機会」を保障するが、「政治的自由」と「基本的自由」を保障しない。よって適わない。

→④財産私有民主制と⑤リベラルな社会主義が正と正義を実現する

 

 

42,政体間の基本的比較

・むしろ財産私有民主制/福祉国家型資本主義の差異が肝心である

②福祉国家型資本主義――互恵性原理に依拠しないため富と資本の集中=権力の集中/社会的-経済的不平等は解決されるものとして考えられるが、背景的正義がないため社会的協働は世代に渡って継続されない

④財産私有民主制――互恵性原理に依拠するため富と資本の分散=権力の分散/社会的-経済的不平等は解決されるものとして考えられ、背景的正義があるため世代間で継続される。

 

 

 

 

43,公正としての正義における善の諸観念

・正義構想を含むいかなる政治構想も「正」と「善」を必要としており、両者の関係性はいずれの場合も相補的である。

→正が限界を定め、善が意味を与える(正はハード/善はソフト)

 

・ところで公正としての正義における善の構想は全部で六つある

①合理性としての善――各人が各人の人生の目的をそれぞれ構想する

②基本善としての善(17節)――公正としての正義における基本構造の指数

③包括的教説における善(17節)――穏当な多元性において観察される

④政治的徳性としての善(33節)――正義構想それ自体を志向する善

及び、

⑤正義の二原理によって実現された秩序だった社会善

⑥社会的連合の社会的連合による善

→①から出発して②に到達し、原初状態に至る。そこで④によって正義原理が達成される/③も両立される(前章)。⑤及び⑥はさらに実現された「秩序だった社会」において達成されることになる。

 

・ここで「公正としての正義」と古典的共和主義と公民的ヒューマニズムの差異を確認する

→公民的ヒューマニズムは公共性を政治に内在する価値と考える点で卓越主義的-アリストテレス主義的である。これは哲学的道徳-包括的教説の一つに過ぎないため、「公正としての正義」においては多元性に回収されるだけである。

・他方で古典的共和主義は「非政治的な諸自由の安全は、政治的徳性を備えた各人の積極的政治参加を必要とする」と考える。このことは包括的教説に回収されないため「公正としての正義」に合致する。

 

 

44,立憲民主制 対 手続的民主制

・立憲政体―掲げる正義が法や社会制度に首尾一貫されている政体=憲法-章典は法に演繹的/手続的民主制―適切な手続きに則って過半数(相対的多数)で可決された制約は法として認められる政体

→どちらが優位かは決定できないし、それは政治社会学の役目である。しかし、「正義の公知性条件」(35節 政治的構想の果たす教育的役割)の観点から見たときに、法及び社会的制度の(正義論的)妥当性が議論される立憲政体の方が優位である―原理の公共的フォーラムとしての機能([反証]手続的民主制でも議論の可能性はある)。

・ミルは人間の心理が正義を志向するから立憲政体を支持した/「公正としての正義」は立憲政体が原理の公共的フォーラムの機能を果たすから支持する。

 

 

45,平等な政治的諸自由の公正な価値

・マルクスのブルジョア批判に代表されるように、「平等な政治的自由とは虚構であり、実際は社会的-経済的な財をより多く持つ者の声が大きい(から規制されるべき)」

→平等な政治的諸自由はこのときどう考えられるべきか

・基本的諸自由――各人にとってそれぞれ同様に自由である/基本的諸自由の価値――各人が持つ基本的諸自由に対する評価に依存するためそれぞれ異なり、また基本善を指数とする。

・正義原理(自由原理において)政治的諸自由は特権的に保障されるべき自由とされる/社会的-経済的に有利であろうと規制されるべきではない)

→他の自由を保障するために財の集中/権力の集中を区別するためである

 

 

46,その他基本的諸自由の公正な価値の否認

・なぜ政治的諸自由は特権的地位を与えられるのか/他の基本的諸自由は下位に位置づけられるのか

→経済活動の自由に関しては、格差原理があるため不当である。信仰や良心の自由などの各人の人生目的に関わる自由に関しては、これらのいずれかが特権化されると社会的分断を起こすためである(なぜ信仰より教育の自由が優位と言えるのか)

→後者の事実は無論、「穏当な多元性の事実」に依拠しており、それを根拠として卓越主義的原理に根ざした自由が排される(人は神を信じるから~、人は芸術に価値を認めるから~など)

 

 

47,政治的リベラリズムと包括的リベラリズム― 一つの対比

・リベラリズムは共同体における社会的慣習や規範といった価値に反対している/自律や個性を優遇している(コミュニタリアンからの批判)

→そもそもいかなる政治的構想も基本構造に何らかの制約を課す。よって問題は、自律や個性を優遇しているということではなくて、一定の基本構造が正義原理に則ってこうした包括的教説をいかにして支持/排除しているかということである。

→包括的教説は ①それが真っ向から正義原理と対立する場合 ②対立しないにしても正義に適った立憲体制では信者を獲得できないかもしれない場合 妨害されることになる

→問題は包括的教説が正義原理によって恣意的に扱われていないか/各人の信じる包括的教説が正義原理と一致しないか ということである。

→いかなる社会を設計しても特定の教説は排除される運命にある。しかし、それは特定の教説が恣意的な扱いを受けるということと同義ではない。

 

・とはいえ政治的リベラリズムによっては特定の包括的教説が優位にならない社会的協働を継続的に維持することは出来ないのではないか。

→政治的リベラリズムによる包括的教説の制限は、むしろ包括的教説が横並びであることを保障するためである(穏当な多元性の事実)。

→カントやミルの古典的リベラリズムならば、人の本質(形而上学的、心理学的)に自由や個性を帰属させることができた/しかし、政治的リベラリズムは次世代への継続、つまり子どもの教育という観点(公知性の条件)からも特定の包括的教説を擁護しない。

 

 

48,人頭税と自由の優先性に関する覚書

・人頭税はマルキシズム等において正当化されていた。

→個々人の有する才能に比例して人頭税を課せば社会的-経済的不平等は軽減されるのではないか。

・これに関しては三つの批判がある

①個々人の才能を測る明確な尺度がない

②知力や才能は先天的なものというより環境依存的なものである(16節)ため自己所有権が認められない

そして、

③税を課すことで個々人の余暇つまり自由が侵害されることになる

→つまり才能に人頭税を課すことはできない(ノージック―自己所有権の議論)

 

 

49,財産私有型民主制の経済制度

・基本構造は現在の公正でない社会的-経済的不平等の解消(格差原理)のみならず、公正な協働システムとしての社会を維持するために次世代にも目を向けなければならない。

→貯蓄原理は(仮に貯蓄それ自体がなくなろうとも)「社会的協働の維持」だけを至上目的とする原理である。また貯蓄原理はすでに「公正としての正義」に含まれるため、原初状態で選択されている。

 

・具体的な課税システムとしては

①相続税に関して。相続する遺産それ自体に課されるのではなく、遺産の受領者に累進課税として課されるべきである。

②累進課税に関して。累進課税は効用最大化を目的としているのではなく、公正な社会的協働を目的としている。よって背景的正義に反するときは税制が見直される。

③比例式消費税に関して。累進課税が撤廃される場合、財やサービスの利用に比例した消費税が課せられる。

 

・格差原理と社会的制度に関わる二つの批判

①格差原理は、あらゆる政治的制度に最も恵まれない人の顧慮についての考慮を強いるのではないか

→基本構造が実現されているなら、格差原理は自動的に適用されるので(OP曲線が自動調節されるので)他の政治制度に考慮を強いない。

②格差原理は憲法によって規定されるべきか

→格差原理は憲法に立ち入らない(13節)。具体個別的な経済学的知識が望まれる判決を裁判所で行うのは困難であるため。

 

 

50,基本制度としての家族

・家族は基本構造であり、公正な社会的協働に子どもの教育、出産などのかたちで寄与しなければならない。ただし、それさえ履行されれば家族形態はいかなるものでもかまわない。

・また家族は正義構想の外部にあり、よって女性や子どもは正義原理と無関係であるとする主張は誤りである。

→家族は道徳的哲学としての正義構想の内部にある共同体-結社であり、独自の包括的教説を有する一方で、離脱する自由も認められる。

→このことは、家族内部の問題が正義構想によってではなく包括的教説によって解決されるべきであるという事実を示唆している(政治的リベラリズムによる政治的領域/日政治的領域の区別)。←[キムリッカ]集団間の包括的教説の対立は解決されない

 

・包括的教説としての家父長制は正義構想によって矯正されなくともよいのか。

→オーキンによれば、①原初状態によって相互の性別を知らない ②ジェンダーシステムは基本構造がそれから受ける影響を吟味する

→おそらく家父長制は正義原理と矛盾する(しかしこの問題はもはや社会学や心理学の領域の話である)

 

 

51,基本善(財)指数の柔軟性

・センによれば基本善(財)の概念は「基本的潜在能力(capability)」を加味しておらず、柔軟性の低いものとなっている(から基本的潜在能力を加味すべきである)

→基本善(財)は諸個人のもつ二つの道徳的能力(正義感覚/自己目的修正能力)を前提としているため基本的潜在能力は加味されている。

・また基本善が柔軟であることを示す場合、以下の極端な事例検討が有効である。

①[基本的潜在能力が最低限のものを超える場合]

・個人の先天的な資質や能力が明らかに高くとも、それらを基本的潜在能力として数値化はそもそもできない(ため基本善の配分に加味されない)。

②[基本的潜在能力が最低限のものを下回る場合]

・突然の病気や事故によって基本的潜在能力が下がることはありえる。しかし、「基本善の配分」(格差原理)については憲法段階ではなく立法段階で規定されるため(13節 格差原理は憲法に立ち入らない)柔軟に対応することができる。

 

 

52,マルクスのリベラリズム批判に取り組む

※ここでは本章1節で財産私有型民主制/リベラルな社会主義が共に正義原理を達成できると考えられたことをうけ、マルクスによる批判を考察することで両者の差異を明らかにするねらい(だと思う)

 

・以下マルクスの批判及びその回答

①基本的諸自由のうちいくつかのもの(コンスタン-「近代人の自由」)は、資本主義における市民相互のエゴイズムを保護する。

→適切にこれらが保護されたならば、市民はより平等な顧慮されるし、正義原理もこれを要求する。

②立憲民主制の自由は見せかけである/階級によって権力関係が生まれる

→二原理によって権力の集中/財の集中は区別されている

③財産私有型民主制は消極的自由しか保障しない

→自由原理だけだとそうなるが、機会原理と格差原理によってむしろ積極的自由が保障されている

④資本主義的生産体制は各人を拘束する

→財産私有型民主制においては克服されるはずである

 

・以上の回答からマルクスが財産私有型民主制を受け入れたとしても、

①生産手段を私有化している体制において、正義原理は達成できない

②財産私有型民主制の諸制度によっては、労働現場における民主制についての説明がなされない

という二点の批判を掲げると予想される。

 

53,余暇時間に対する手短なコメント

・公正としての正義において、各人は積極的に「公正な社会システムとしての協働」に参画していると仮定されている。つまり「誰もが喜んで働いている」。

・しかし基本善と労働の関連性が不明瞭なので、最も恵まれない人は「生活保護を貰ってマリブのビーチでサーフィンをしている人」であるかもしれない。

・これは以下の二つのやり方で処理される

①余暇時間を指数(基本善)に含める

・余暇でないと基本善にカウントされないので、サーフィンに割く時間は基本善にならない

②実現された才能や意識状態を指数に含める

・これもサーフィンでの時間を基本善から排除するが、基本善の客観的水準を損なう恐れが高いのであまり推奨されない

 

 

【批判とメモ】

・44節、確かに立憲民主制が公的な原理のプラットフォームになることは示された。しかし「手続的民主制がプラットフォームにならない」ということが示されていないため正統性は主張できない(どっちでもいいことになる)。

 

・50節、家族を結社とするのはわかる。しかし、そこから「離脱」ができるとするのは無理があるでしょ。単に包括的教説云々の問題ではない/経済的依存度が加味されていない。

 

・47節、キムリッカが言っていたけど政治的リベラリズムの問題/包括的リベラリズムは結局別の形での自由を許容しており、どちらが正しいかは決定できない(個人/共同体)

 

 

◇第五部 安定性の問題 p.315~356

 

54,政治的なものの領域

※本章では「公正としての正義」の安定性について考えられる。その際に、25節における原初状態の二つの条件(個々人は自身の心理状態を相対的に「知らない」/個々人は自身の包括的教説を相対的に「知らない」)が取り上げられ、このうち安定性の問題は後者に関わることが明かされる。

 

・原初状態における各人は「無知のヴェール」によって

①各人は自分の心理的な傾向(嫌悪や嫉妬、あるいは好感)を知らない

②各人は自分の包括的教説および善の構想を知らない  (25節)

→第二の部分が「公正としての正義」の安定性に関わるものであるため考察していく

 

・政治的なものの領域をまず特定する。先述の通り政治的構想は形而上学、哲学あるいは宗教などの道徳―包括的教説に回収されない。

→よって政治的なものの領域―政治的関係とは

①基本構造内部においてのみ築かれるものである。基本構造は先述の通り、各人の一生涯を内包している。

②政治権力は政治機関による最大権力である他方で、市民各人の権力でもありえる。

……と特徴付けることができる/非政治的領域(結社的なもの、家族的なもの、個人的なもの)とは区別される

・ある包括的教説と対立が生じるとき、政治的構想はそれを退ける。しかし、それは教説の強制が道理に反するからであり、教説の真理性を否定しているわけではない。

 

 

55,安定性の問題

・原初状態の第二の部分が安定性に関わるということはすでにのべた。

→問題は乱立する包括的教説がいかにして一つの政治的構想である「公正としての正義」に承認を与えるのかということ=「重なり合う合意」が形成されるかということである。

・一般に安定性のためには、

①すべての包括的教説に認められるような政治的構想になるよう努める

②承認をしない包括的教説を排除する      という二通りの選択肢が選ばれる。

→他方で、「公正としての正義」は「基本構造を通して、各人が自発的に(包括的教説とは別に)政治的構想を支持するシステムの達成」を通して安定性を保つ。

 

 

・「重なり合うコンセンサス」によって、各人の中に(社会全体にとって単一の)政治的構想と(各人が信じる)包括的教説の二つが同居可能となる。

→政治的リベラリズムの達成

・また「秩序だった社会」とは、

①各人が政治的構想として「公正としての正義」を信仰しており、

②かつ基本構造を脅かす包括的教説が存在しない状態

と特徴付けることができる。

 

 

56,公正としての正義は間違った仕方で政治的か

・ある政治的構想が間違っていない――各人のコミットメントの自由が保障され、公知性が確保されている/間違っている――特定の包括的教説に依拠し、それを推し進める

→重なり合うコンセンサスはこうした「公正としての正義」が間違った仕方に陥らないように保障を与える

 

 

57,政治的リベラリズムはいかにして可能か

・政治的リベラリズムはいかの二点から可能であるといえる。

①政治的領域における諸価値は偉大であり、他の非政治的諸価値(包括的教説)によってたやすく凌駕されるようなことはない。

②歴史的事実が示しているように、乱立する包括的教説は積極的に正義原理を受け入れるまでにないにしても、少なくとも正義原理と対立は起こさない。

→宗教的教説/宗教的寛容によって政治構想を肯定、カントやミルの哲学的教説/特定の政治構想を肯定、政治構想と包括的教説を曖昧に含む教説/政治構想を優先する

・こうした包括的教説は「道理に適っている」

 

 

58,重なり合うコンセンサスはユートピア的ではない

・「重なり合うコンセンサス」は所与のものではなく、歴史的過程の中で緩やかに形成され、安定性が保たれていくものである/当初、「暫定合意」としてあった「公正としての正義」の維持が世代に渡って包括的教説の「重なり合うコンセンサス」を形成する。

・また先述の通り、公知性条件(35節)によって教育システムの再生産が確保されるため、安定性は保証される。

 

 

 

59,道理に適った道徳心理学

・いかにして暫定協定から「重なり合うコンセンサス」を形成するのか。このことを、各人の「道理に適った」性格を道徳的心理学から解釈することで実証する。

・道理に適った道徳的心理学は「各人が道理に適いかつ合理性と矛盾しない能力を有しており、社会的協働を目指す」ということを前提とする。

①各人は二つの道徳的能力(正義感覚/自己目的修正能力)を持ち、公正な社会的協働を志向する。よって道理に適い合理的である。

②各人が社会的慣行を正義に適っていると考えるとき、各人は喜んでその維持に尽くす。

③他人が社会的慣行の維持に尽くしているのを見るとき、各人がさらなるコミットメントを促される。②と③より各人は互恵性を志向する。

④社会的慣行の維持がより長いほど、各人の互恵性はより育まれる。

⑤各人は「穏当な多元性の事実」が歴史的に「抑圧の事実」に晒されてきたことを知っており、「判断の重荷の事実」からそれを受け止める。

⑥財の希少性と公正な条項に基づいて、協働がより多くの利益を産出することを理解している。

 

 

60,政治社会の善

・何度も見ているように、「公正としての正義」は包括的教説によって統合された社会を「穏当な多元性の事実」から排除する。そうではなく、リベラルな民主性は個々の包括的教説を維持しつつ、その多くに支持される政治構想を掲げる。

→各人が共通の構想を有しており、かつそれに至上価値を認めていることから、正義の政体は「共同体」であるといえる。

・よって「公正としての正義」の「秩序だった社会」は以下の二点から善である。

①個人にとっての善――第一に「道理に適った道徳的心理学」が明らかにしたように個人は善の能力を有する/第二に社会システムがそうした個人の道徳的能力を維持しようと努めてくれる

②社会にとっての善――何度も見ているように「公正としての正義」は継続的な「公正な協働システムとしての社会」を自己準拠的にもたらす。また公知条件によって安定性も保証されている。

 

 

【批判とメモ】

・この章はなんか同じことばっか繰り返しているまとめの章だった。

・とりあえず以下のとこで、本書の構成を簡単に要約してやるぜよ。

 

[第一部]

・イントロダクションと枠組みの整理

・ここでは6つの基本的観念とその対応関係が説明される

①「公正な協働システムとしての社会」―中心観念

 

②「秩序だった社会」―「公正としての正義」が実現された社会

③「基本構造」―「秩序だった社会」の社会-法あと憲法制度とか

→詳細は[第四部]

 

④「自由で平等な人格」―二つの道徳的能力(正義感覚/自己目的修正能力)を持つ

⑤「原初状態」―「自由で平等な人格」が正義原理を選択することを示す概念装置

→詳細は[第三部]

 

⑥「公共的正当化」―反省的均衡(10節)、重なり合うコンセンサス(11節)、公共的理性(24節)で説明される。政治的リベラリズムに関連している。

 

 

[第二部]

・ここでは正義原理についてのおさらい。

・というか14-22節が格差原理についての説明なのでほぼ格差原理についてのおさらい。図がわかりにくい。

 

 

[第三部]

・人間つまり「自由で平等な人格」はいかにして「原初状態」にて正義原理を選択するか、というお話。

・議論の構造が入り組んでいる。

→第一比較(第一条件、第二条件、第三条件のうち第三、第二の順で)の次に第二比較

 

 

[第四部]

・「秩序だった社会」においてどのような基本構造が望まれるかというお話。いろんな政体を比較検討していく。

・[第三部]より具体的なので理解しやすい。

 

 

[第五部]

・ではその「秩序だった社会/基本構造」をいかにして維持していくか、という安定性が問われる章。[第四部]の補足でいいのか。

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