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4 分析的マルキシズム

 次は分析的マルキシズム(Analytical Marxism)の著作を紹介していこう。分析的マルクス主義というのは、単純にいえば「マルクスの妄言をとっぱらったマルクス主義」のことだ。だから、そもそもマルクス主義がなにかということを押さえておかないと分マルの本懐は理解できない。しかし、僕は社会学やっていた時代に社会科学の古典としてマルクス主義を齧っただけなのであまり深いところまでは説明できないと思う。というかがっつり説明するとヘーゲルとか絡んできて非常に面倒くさい。一応これでもユースカルチャーとしての左翼思想に傾倒していた高校時代(もしかしなくても:中二病)に『資本論』を借りたことがあるのだけれども、残念ながら当時は相当おつむが足りていなかったので理解できなかった。ついでにいうと高野悦子や奥浩平(2人とも学生運動に参加してそのまま死んだ人たち)の著作を教科書の代わりにリュックに入れて、「いちご白書」を無理に英語で鑑賞しながら、Tシャツにプリントされたチェ・ゲバラが見ている明後日の方向に向かって走りながら毎日生きていたのだけど、それはまた別のお話だ。

 カール・マルクスはおそらく社会科学の歴史ひいては学問全体の歴史の中でも最も影響力を持っている学者の一人といっても過言じゃないだろう。全うに高校教育を受けていれば誰でも名前くらいは聞いたことがあるだろうし、顔を知っているよって人も多いかもしれない。そうその髭のおっさんで間違いない。だが、彼の主張をざっくりとでも理解しているという人になると、途端に人数が減ってしまう。さっき挙げたような学生運動に加担して馬鹿騒ぎしていた左翼系の奴らも、実はほとんどマルキシズムがなんたるか理解していなかったらしい(僕は全共闘は文化としては好きだけど、運動としてはスカンクの下痢便以下だと思っている)。また話がそれてしまった。ともかくマルクスの影響力はすごかったよという話がしたかったんだ。今では想像できないけど、いくつもの国が彼の主張を真に受けて国家体制を整備していった。ソ連とかね。ではその思想をざっくりとだけど見ていこう。

 マルクスに限らずだけど、著名な思想家や哲学者の多くは「前期」(「中期」)「後期」みたいな区分が設けられていて、主張の変遷が丁寧に追われているものだ。ロールズとかまさにそうだね。めんどくさいことにマルクスもまた「前期」「後期」がある学者さんなんだよ。そして、一般に『ドイツ・イデオロギー』という本がちょうどターニング・ポイントであるというふうに言われている。この本自体の解説は置いておくとして、前期マルクスと後期マルクスの違いを把握しておくことは分析的マルクス主義を知る上で重要だと思う。前期/後期を区別するもの、それは観念論と唯物論であり、マルクスの盟友であるエンゲルスの言葉を借りるのであれば、まさに「空想」/「科学」の区別に他ならない。

『経哲手稿』なんかに見られる前期マルクスの主張は観念論や形而上学的な傾向が強く、いわゆる「テツガクしてます」って感じの内容だった。ちなみにエンゲルスはこうした観念論的な社会科学をdisる意味で後に「空想」と呼んでいる。しかし、後期のマルクスはこうした「空想」には見切りをつけ、ヘーゲルを援用しながら唯物論的な「科学」の領域に主張を移してくる。その「科学」の内容がどういうものだったか、ということはコーエンの著作等で見ることにして、とにかくマルクスがある時から思弁的な語りは止め、経験的事実や物的世界の観察に極力依拠しながら理論を打ち立てていくスタイルに変化したということを理解しておいて欲しい。観念論としての「空想」から唯物論としての「科学」へ、マルクスの思想の変遷を最高にざっくり描くとこんな感じだ。

 しかし、結論からするとマルクスの「科学」は間違っていた。ご存知の通り現実世界の情勢としても20世紀の終わりに社会主義国家はどんどん倒れていったし、そうじゃなきゃ中国みたいに資本主義にうまく乗り換えていった。それと同時に学界でもマルクス主義への信頼が一気に揺らぎ始めるわけだ。完全に失効したとはいえないけど、少なくとも「大きな物語」としては機能しなくなったし、リアルガチに社会主義をやっていくのは無理だってみんな身をもって知ることになった。

 そんな中登場した分析的マルキシズムは、従来的なマルキシズムの失敗を受けて、根本的な方針転換を始発点に理論を構築していく。つまり、「科学」から「正義」への移行だ。マルクスの「科学」は間違っていたのだから、それはもう理論的支柱としては機能しないことは自明だし、いつまでも固執していても仕方ない。だけどマルクス主義それ自体を殺してしまうのは惜しいので別の何かが柱として必要となってくる。そこで白羽の矢が刺さったのが「正義」というわけなのだ。ここでいう「正義」というのはもちろんロールズとかノージックとかが言っているそれで間違っていないよ。換言すればマルクス主義は自身の主張の柱を獲得する代わりに、血を血で洗う規範理論のリングに上がることを表明した、というのがここまでの流れね。

 冗長に(自分語り含めて)書いちゃってアレなのだけど、僕は分マルという立場は常々微妙な感じがしている。彼らはどうもマルクス主義に無意味に固執している感じがしてしまうんだよなぁ。もう素直にリベラリズムでいいのなって思う。確かキムリッカも同じようなこと書いていた気がする。さらに言うと、これは決定的な致命傷だとも思えるけど、立場全体の共通項がほとんどない印象も受けてしまう。上の分析的マルクス主義の特徴は主に最初にとりあげる予定のコーエンって人の主張に基づいているものなのだけど、ローマーやパリースがこれに賛同しているのかと聞かれるとちょっとどうだろうってなってしまう。というかパリースに至っては自分が分マルに位置づけられてしまうことを拒否ってたはず。もう何がなんやらだね。この人はむしろ何ゆえ分析的マルクス主義の論者として一般的にカウントされているのかね?

 ただし、コーエンは鬼のような完成度の論理からノージックを中心としたリバタリアンに挑んでいくし、ローマーのクーポン資本主義やパリースのベーシック・インカムの制度的構想は実際の政治現場で参照されるくらいに有名だ。立場全体で見ると問題があるように思えるけど、個々がめちゃくちゃ有能な人たちなので著作はすごく面白いんだよ。

 

 

●ジェラルド・コーエン 1995 『自己所有権・自由・平等』

 このジェラルド・コーエンという人が一般的には分析的マルクス主義を始めた人として知られている。ついでに言っとくと2章で登場したキムリッカの師匠でもあるね。しかし、コーエンが出てくるずっと前、ポパーを筆頭とした反マルキストがマルクス主義を叩いていく中でその科学性を確かめていた、という意味においてはその辺が始発点になるのかもしれない。まあここはあまり踏み込まないでおこう。マルクスとヘーゲルのガチ勢はそれぞれ両学会に行けばわかるけどなんか怖いんだよな。一回ずつしか行ってないけど、両方とも登壇者と質問者が普通に喧嘩してたもん。マジで下手なことはいえない。

 先述の通りコーエンは後期マルクスの主張を徹底的に練り直し、それを規範理論の土俵に載せることに成功した。ここ普通に書いているけど膨大な分量があり、なおかつ強大な影響力を有している誰かの主張を、その「色」を失わせないまま別の文脈になじむよう作り変えていくのって、常人のできることではないと思うんだよね。この時点でコーエンの功績は相当に偉大だといっていいだろう。しかし、やはり時代になじまない点は捨象していかなければならない。コーエンがマルクスの主張から切り捨てたのは冒頭に書いたように、その唯物的視座、つまり「科学」だった。

 マルクスによれば社会は上部構造と下部構造に区分される。上部構造は政治や宗教、思想信条といった広い意味でのイデオロギーとそれによって体現されるもの(国家や法)を意味しており、対する下部構造というのは上部構造の土台として機能している唯物的世界、つまり経済システムのことである。「下部構造は上部構造を規定する」という超絶有名なマルクスの言葉があるけど、逆も真であり上部構造は下部構造を規定しているのはけっこう重要。マルクスはさっきのヘーゲルを引きつつ、両者は弁証法的関係にあるとも主張している。とにかく優劣の関係にはないというわけだ。

 しかし後期マルクスが論を展開していくにおいてとりわけ注目するのは経済システムを意味する下部構造の方だ。これが自身の主張を史的唯物論だの唯物史観だのと呼んでいる所以でもあるね。観念論的なイデオロギーの世界ではなくて、唯物論的な科学の世界にこそ視点を移していこう、というのが後期マルクスの主張の肝だったのはすで書いたとおりだ。

ところでマルクスの考えでは労働それ自体に価値があるという。これを「労働価値説」なんて呼んだりしている。古典的なマルキシストが労働賛歌を歌っていたのは有名な話だよね。しかし、悲しいことに労働者(以下プロレタリアと読み替えてもいいよ)たちは資本家(以下ブルジョワジーと読み替えてもいいよ)たちによって「搾取」されているという。要チェックなのは、ここでいう「搾取」というのは一般的な意味での搾取とは違ってマルクス主義独自の定義があるということ。ここを踏まえると実は全共闘当時のガキ共が何かあるごとに「搾取だ!資本家死ね!」って言っていたのは半分くらい的を外している。まぁそれは置いといて、マルクス主義における「搾取」というのは「労働によって得られる対価以上のものを、資本家が獲得している状況」を意味している。つまり労働者の報酬をpとし、資本家の報酬をqとしたときに「p<q」とならないとマルキシズム的「搾取」は成立しないというわけである。だから、労働者がそれこそ小林多喜二の『蟹工船』のような生活をタコ部屋で送っていても、pの方が大きくなっていればそれは「搾取」の定義からはもれてしまうというわけである。そしてマルキシストの考えでは、こうした労働の「剰余価値」が認められる場合にしか資本家は労働者を雇用しないという。

 先述の通りマルクスは「労働価値説」を主張しており、こうした資本家たちによる「剰余価値」の「搾取」が続いている事態は「科学的」に認められない。別に彼は世界で起こった労働者運動みたく、「プロレタリアートの同志たちよ、搾取を認めるな!団結せよ!」とか言ったりしているわけではなくて、「科学的」にあり得ないと言っているのである(大切なことなので二回言いました)。つまりマルクスからすれば、継続的な「搾取」が革命の契機になるという予測は、当為論などではなくて、むしろ歴史における必然的事実であり論理的な帰結に過ぎない。

そしてさらにさらに、革命達成後には労働者たちによる労働者のためのユートピアがやってくるなどとまでマルクスは主張し始める。このユートピアでは生産手段が共有されており(よく勘違いされているけど社会主義において生産結果は共有されない)、いずれは生産のための資源となる「財の希少性」も解消されると推察されるので、マジで世界中のみんなハッピー!労働者最高!我等永遠社会主義最強!

 

……君は笑ってしまったかもしれないけど、以上のストーリーをマジのマジでけっこうな人数が信じていた時代があったのだよ。少なくとも世界が二つに割れて、冷たい睨みを効かせあっていたときの半分である東側陣営は信じていた(むしろ信じていないと粛清されたけど)。その事実が僕は心の底から興味深い。このマルクスないしはマルキシストの歴史観を冷戦くらいには冷え込んだリアルを生きている現代日本の小学生に噛み砕いて話したら、きっと鼻で嗤われるはずだろう。そうなのにも関わらず当時は大の大人がこの話を信じて見えない何かと日夜闘っていたんだ。馬鹿にしているとかじゃなくて、本当に面白い話だと思う。

ごめんマルクスの説明がそもそも長引いたのに脱線してしまったね。ここでは現代の小学生でも笑ってしまうくらい楽観的な「科学」であるということをはっきりさせたくて、マルクス主義的歴史観の概略をざっくりではるけど解説してみた。これらをもう一回ドロドロに溶かして再鋳造して現代的文脈に適合させたのがコーエンの仕事なのだけど、それを紹介する前に、どこがおかしかったかを整理しておこう。コーエンの整理に従えば、マルクス主義的「科学」の事実認識の誤りは以下の3つに整理できる。

①労働それ自体に価値があるという主張(「労働価値説」)

②労働者による資本家への革命

③ユートピア状況における「財の希少性」の解消

 話に登場した順である①から見て行きたいところだけど、②と③のほうが理解しやすいのでそっちから入る。まず②は明らかに嘘だというのは経験的にわかる話だね。マルクスは不当な「搾取」に激おこプンプンな労働者による革命が必然だと予期したわけだけど、こんなことは実際の歴史では起こらなかった。ほぼ全ては「起こそうと思って起こした」物である点においてマルクスの主張に合致しないし、仮にそうでないものがあったとしても成功なんかしなかった。左翼運動が下火になった70年代に森田童子がかの有名な「みんな夢でありました」という歌を出したけど、ほんとこれ。あの時代はなんだったのでしょうか。

 次に③の「財の希少性」について。実を言うと「社会主義と共産主義の何が違うのか」という区別の解釈には諸説あって、共産主義とは「社会主義における生産効率が爆発的に成長したことによる進歩版」っていうのはマルクスが明言しているので間違いないけど、生産効率がどういう経緯で爆発的成長するのかということについてはいくつかの見解に分かれている。それでコーエンは一段階目の社会主義における「財の希少性」が解消されることによって、フェーズ2である平等分配を行うことができる共産主義に至るという(ちょっと)独特な解釈をとっている。ここは後の「なぜ分マルが(リベラリズム以上に)自己所有権を退けられないか問題」を考えるにあたって超重要な点なので押さえておきたいとこだよ。まぁいずれにせよ資源が枯渇しつつある世界を生きている僕たちからすると、「財の希少性」の解消なんていうのは蛙の小便以下の妄言以外のなにものでもない。マルクスは永久機関でも発明するのつもりだったのだろうか。面白いのはコーエンが「マルクスは財の希少性の問題に楽観的であったのではなく、むしろ絶望していたからこそ、深い考察を避けてこう言った」と考察しているところだろう。なんとも皮肉屋である。

 最後に①の「労働価値説」について。これはマルクスで一番批判されるところの一つな気がする。僕これさっき確かややこしいから最後に回したって書いたよね?でもさっき別の著作ぱらぱら読み返していたら、コーエンが数文字でパーフェクト論破してたの発見したわ。仮にこうした状況を想定してみよう。30年前、商品Aを完成させるのに、10人の人手が必要だった。しかし、現代はオートメンション化が進み、商品Aは1人いれば作れるようになってしまった。このときマルクスの言い分に従えば、労働それ自体に価値があるため前者の商品がより価値があることになる。しかし、商品Aの価値は30年後も商品Aとして変わらないはずではないだろうか。というか、「労働価値説」は明らかに転倒しているだろう。そしてこのタイミングで引用。「労働それ自体に価値があるのではなく、労働によって作られる商品に価値があるのである。」(Cohen 1998:266-7)。はい論破wマルクスさん顔真っ赤w

 

 クソ長くなったわ。でも以上でマルクス&その支持者の唯物史観とそれへのオーソドックスな論駁が終わった。今のところほとんどコーエンの主張は取り上げられてない。だから上を踏まえて、ここからが本番だぜよ!

 本書で展開されるプロジェクトは、第一に伝統的マルクス主義との決別、第二に「規範理論の文脈に移った分析的マルクス主義がリバタリアン的な自己所有権を避けられなくなってしまう問題」があるということの紹介、第三にノージックの珍妙な思考実験をこれまた珍妙な思考実験から論駁していく作業、最後に社会主義のこれからを見ていく、の4つくらいある。一つ目はすでにした話なので、二番目のお話をこの節では詳しく見ていこうかな。第三番目もめちゃくちゃ大切で、「エイミーとベンの奴隷関係」の話とかはすごく(不穏な意味でない)面白いのだけど長くなりそうなので省いていきます。

 まずそもそも、なんでコーエンはこんなにリバタリアンや自己所有権を目の敵にしているのかというと、それはマルクス主義を規範理論版にチューンした理論すなわち分析的マルクス主義にとって、これらがリベラリズムなんかよりもはるかに強大な壁として立ちふさがっているからに他ならない。コーエンは本書の中でしきりに「分マルは自己所有権の回避に失敗している」って頭を悩ませているのだけど、これはコーエンが悪いのではなくて、むしろマルクスが理論構築した時点で避けられない問題となっていた。ここにきて冒頭で長々した話が生きてくるわけですよ。こうやってフラグを立てておくの得意なんだぜ。

 マルクスの「科学」には3つの大きな誤りがあったのは見た通り。そのうちさっきの番号でいうと③にあたる「財の希少性」の問題がここでコーエンの悩みの種となっている。おさらいしておくと、マルクスは共産主義における生産様式はイノベーションによって変化しており、よって「財の希少性」も解決されているため、彼のあまりに有名な一節を借りれば「各人は各人の必要なままに」共有財にアクセスすることができると予見したということだった。こうした共産主義的状態を夢想してみると、そこは自己所有権もクソもないということがわかってくるだろう?自己所有権というのはリバタリアンの章で紹介したように「自分で自分の資質及びそれによって産出された資産所有する権利」のことを意味している。コーエン的な共産主義の解釈では、生産過程のみならず、産出された財も共有化されているため自己所有権は厳密にいえば侵害されている。しかしながら同時に「財の希少性」が解決されているため、そもそもその侵害にいちいち目くじらを立てて騒ぎ立てるような人自体がいないと予想されるのである。もし君が「自分の右手から無限にチョコを出す能力」を持っていたならば、子どもたちにそれを分け与えることは苦痛でないはずだ。

 だが、これもすでに見たよう現実の世界では「財の希少性」は解消どころかどんどん深刻化している。するとマルクスがこの概念によって回避していた自己所有権の問題がいよいよ分析的マルクス主義の段になって顕在化してくることになり、コーエンがその尻拭いに頭を悩ませるという話にたどり着くわけだ。乙ですとしか言いようがない。

 自己所有権が従来的なマルキシズムにとって不可避の問題であるというのはわかった。では回避できないと一体どのような問題が生じてしまうのか。あるいは回避する必要があるのか。端的にいえば回避する必要があり、というのも分析的マルキシストが志向しているような平等配分原理達成の障害となるためである。というわけで次にまず彼らの掲げる配分原理がどのようなものか見て、その後でコーエンがどうやって自己所有権を回避したのかということについても言及するつもりだ。

 伝統的マルクス主義は労働者の理論であり、他の属性(ジェンダー、エスニシティなど)が顧慮されていないという点において現代社会に不整合を起こしているといえるが、理論の射程を労働者に限定しないでおけば分析的マルクス主義では、この話は暫定的には解決しておくことができ、すると分析的マルクス主義は万人の平等な顧慮を目指す理論と生まれ変わることになる。ここがすごく肝心なのだけど、こうしたコーエン的な分析的マルクス主義の原理は、ロールズやドゥウォーキンらのリベラリズム的平等よりもはるかにラディカルな内容になっているということを覚えておいて欲しい。というのも、彼の理論からは徹底的に自己所有権が排除されているため、ロールズ=ドゥウォーキン的な「選択運(Choice Luck)」ですら認められていない。平たくいえば「責任」という概念が存在しないのである。

1章にあるようにロールズ=ドゥウォーキンは先天的・後天的問わず、自発的選択には基づいていないことによって被る社会的・非社会的な不平等を退ける理論を打ち立てた。例えば、脳の障害、あるいは親の性的虐待による「歪められた選好」などがこれに該当する。ロールズが運命論的な恣意性を排したという話は、『正義論』のところで強調しといたはずだよ。しかし、この見解は逆を返すと自発的選択による不平等は看過されうるという論理的帰結をもたらす。実際、ドゥウォーキンは非自発的/自発的を区別し、前者を「所与運」後者を「選択運」というふうに呼んで、顧慮されるべきなのは前者に限定すべきだと主張している。実はリベラリズム内部でもこれは論争になっていて、そもそも人間には完全なる自由意志が存在しない以上、ドゥウォーキンがいうような両者の区別はできないとして、反駁を試みる人たちもいる。しかしそうなってくると、責任という帰属の宛名自体が否定されてしまうので、今度は法や正義そのものが破綻してくることになってしまう。

 とにかく2人の主張はこんな感じ。しかし、コーエンはリベラルもリバタリアンも自己所有権を資質/外的資産に区別できていないと指摘した上で、ロールズ=ドゥウォーキンが、前者を「所与運」によって顧慮しつつも、後者を「選択運」として認めてしまっていることに不服を唱える。例えばロールズ的リベラリズムの世界では、「自発的なFXによる多額の報酬/借金」はどちらも顧慮の対象ではないことになり、その点において自己所有権を退けられていないことになるわけだ。他方で、コーエンによる分析的マルクス主義は自己所有権を拒否しなければならないため、「選択運」をも配分原理の対象に含めることになる。ここに分マルはロールズ的リベラルよりはるかにラディカルだよと言った真意があるんだな。

 正直なところ、僕にはこうしたコーエンの主張は納得がいくものではないように思える。なぜなら「自己所有権をどうやって(how)退けるか」というのは全くもって本質的な問題ではなく、考えるべきなのはそもそも「自己所有権はなぜ(why)退けられるべきなのか」という規範的な命題だからである。ロールズやドゥウォーキンは恣意性を、ロスバードやノージックはロック的自然権を、フリードマンは帰結主義的な観点から、それぞれ反駁ないし正当化を行っていた。しかしながらコーエンは「なぜ」という問いに対して、少なくとも本書では珍妙な思考実験を用いつつ中心には常にノージックの主張を置きながらでしか応答していない。確かにノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』は現代でも政治哲学ひいては社会科学のベスト300冊を作れば必ず入るくらいには影響力がある。しかしながらコーエンの対象範囲はいささか限定的過ぎて、自己所有権論争という政治哲学の主要なトピックの一つに対するものとしては普遍性に欠けている。さらにいうと、こうした論証スタイルは論理学でいう「無知論法(argument from ignorance)」的欠陥を内在しているように思える。これは「命題Aが証明できないがゆえに、命題Aが偽である」とは断言できないことを表現した差し手で、例えば「神の存在証明はできない、ゆえに神は存在しない」というのが典型的な無知論法だね。ここでのコーエンも同じで「ノージックの思考実験からは自己所有権は正当化できない、ゆえに自己所有権は誤りである」というかたちをとってしまっている。仮にノージックの論証が間違っていても、自己所有権の正当性それ自体が否定されることにはならないから論拠としてはやはり不十分だ。ごめんまた話がそれた。ともかく次は予告どおり次にコーエン流の自己所有権回避術を見ていこう。

 コーエンの整理に従うと、マルクス主義が自己所有権を退けるために講じる手段として次の三つが考えられる。第一のものは従来のマルキシズムが掲げていた「財の希少性」の解消。ここでは社会における対立は無になる。次に何らかの理念による成員の自発的社会参加。これは部分的に社会関係の対立を解消する。そして最後がこれもマルクス主義がよく掲げる「動機の社会化」の三つがそれである。結論からいうとコーエンは第一と第三の手段によっては自己所有権を根本から回避できないとした上で、第二のものを支持している。まぁ順に解説していこう。

 第一のものは何回も言っているようにそもそものマルクス主義にあった欠陥なので、その時点ですでにアウツ。一応解説しておくと先ほどちらりと書いたよう、あらゆる財の希少性が解消された世界ではそもそも外的資産の自己所有権を訴える人はいない(ゆえに対立も存在しない)ことになるのではあるが、訴える人がいないだけで根本から自己所有権を退けることに成功していないというのが理由となる。

 第二のものと見せかけて先に第三のものから先に説明しよう。「動機の社会化」というのは伝統的マルクス主義もよく掲げてきた主張で、低い水準の生産効率(財が希少な状態)を想定して主張される。このとき全ての人が労働を礼賛し、社会主義ないし共産主義を謳歌するように「動機を社会化」してしまえば、誰も自己所有権を訴えることはできなくなるだろう。しかし、こちらの場合にしても根本問題は解決していないため支持できない。付け加えておくと、「動機の社会化」をマジでやろうとするとスターリン政権下のソ連みたいになるので絶対に真似をしてはダメである。いわゆる全体主義やで。

 そして最後に紹介する第二の回避手段は、なんらかの統一的理念や原理を当該社会で共有し、そこへ市民を自発的に参加させるというものだった。これは確かに、マルクス主義的平等を達成しつつ、自己所有権の問題を回避しているといえる。第一の手段は「訴えなくていいや」(不必要)というだけ、第三の手段は「訴えたら粛清されるお^ω^」(不可能)というものであったのに対し、第二のものは自発的に協働システムとしての社会に参加をしているという点で一線を画しているのである。かくしてマルクス主義は「財の希少性の解消」や「動機の社会化」といった切り札を出さずとも自己所有権という目の上のたんこぶを切り離すことに成功し、いまや分析的マルクス主義として、新たな道を歩みだしたのである。               ―fin

 

 「って納得できるかーい!」って思ったそこの君は僕と同じ意見だ。そうだね。第二の回避手段に出てくる「何らかの統一的な原理」ってまさにロールズがいう「正義」だね。実は読みながらずっと思っていた。「お前もう素直にリベラル標榜しようや」って。確かに、「所与運」/「選択運」を区別せずに顧慮し、資質/外的資産という自己所有権を同時に退けている点において、少なくともロールズやドゥウォーキンのリベラリズムとはコーエンの分析的マルキシズムは微妙に違っている。しかし、リベラリズムの内部でもコーエンのように両者の区別を排している理論はあるし、なによりコーエンが掲げた自己所有権が不当であるということの論拠は、ノージックによる思考実験の否定にしか依拠していない。マルクス主義を新たに作り変えたというのは紛れもない功績だと思うけど、その立場に固執するあまり真理性の契機が損なわれるというのは本末転倒以外なんと呼べるだろうか。素直になろうや。なぁ。

という感じで最後の方は好き放題書かせてもらったけど、分析的マルクス主義はこの程度で終わる理論ではない。本章のイントロダクションで「理論全体の合意点がほとんど見えてこない」と書いたけど、それは逆を返せば「一人の論者が死んでも他が道連れにならない」ということだからね。幸いなことにローマーとパリースはより実践的な話だ。コーエンとは被りようがない。

 

 

●ジョン・ローマー 1994 『これからの社会主義』

 ローマーもコーエンと並んで分析的マルクス主義では真っ先に名前が挙げられる論者だ。しかしコーエンと読み比べてみると「分析的マルクス主義ってなんぞや」ってくらい言っていることが違う。そもそもローマーは資質はともかくとして外的資産の自己所有権は否定しない。というよりもむしろ市場経済の競争自体は推奨しており、この時点ですでにコーエンの主張とは相容れないのである。ちなみにだけどコーエンは前節の本でパタン付き配分原理を掲げつつ外的資産の自己所有権を認めるような論者を「左派的リバタリアン」という風に称している。彼なりのディスなのかな。

ともかくローマーが分析的マルクス主義の名において展開したプロジェクトはコーエンのそれとは異なっており、彼のものは市場経済を容認しつつも、他方で市場とは独立したかたちで平等な配分原理の達成可能性を提示することを目的としている。そしてローマーはこの体制を、開祖であるランゲに倣って「市場社会主義」と呼んでいる。そのまんまである。市場社会主義は次節で紹介するパリースによるベーシック・インカムの構想と共通点が多く、2人は並んで実際の政策として検討されているくらいだから現実的な実効性も高いといえるだろう。

 具体的な市場社会主義の解説に入る前に紹介しておきたいことがある。本書の第三章で断り書きがあるということである。それによればローマーは本書で「なぜ市場社会主義が正当化されるのか」ということを考えるつもりはなくて、むしろ「どのようにしたら市場社会主義が達成されるのか」という問題にフォーカスを絞っていきたいそうだ。つまりロールズ的リベラリズムの文脈でいえば「原初状態や重なり合う合意の話ではなくて、ケイパビリティ・アプローチについて語りますよ~」という宣言を、ノージック的リバタリアリズムならば「自然権や自己所有権の話ではなくて、ミナルコ・キャピタリズムのあり方について語りますよ~」という宣言をしているのとそれぞれ同じである。「どのレヴェルでの議論を展開していくのか」を明らかにしておくのは実はかなり大切なことだと僕は思っていて、というのは「規範倫理学的レヴェルでの議論or実践的レヴェルでの議論」を明かさずに後者のレヴェルの議論を展開されると、無条件に前者のレヴェルが肯定されているように見えてしまうからに他ならない。例えばなんの予告もなしにロールズ的正義論の文脈で、ケイパビリティについて肯定的な主張が展開されると「この人は原初状態の話とかを肯定しているってことでしょうか?」って思ってしまう。そもそもの話を留保して、その先の話をしないでね、ってな話である。意外にこれができている人いなくて、その点でローマーは偉いなって思った次第でした(小並感)。

 脱線したので市場社会主義の話に戻ろう。ローマーの構想はそんなに複雑なものではなく、市場原理が適用される場/社会主義原理が適用される場をそれぞれ区別し、両立して維持すれば達成可能だろうという(単純な)発想に基づいている。問題は市場と社会主義が適用される場の差異化である。ローマーはこのことを考察するために、ハイエクとランゲの論争、及び二次大戦後のソ連、毛沢東政権化の中国を例に出しつつ、市場社会主義の小史を振り返る。この話は学界で論争から現実の世界情勢に滑り込ませるように移行していて面白い例ではあるのだけど、長いので割愛するわ。この本はそんな高くないので読みたいなら買ってみれば。

 ともかく小史の考察で明らかになったのは、第一にボリシェビキ政権下のソ連がそうだったように、社会広範囲で短期目標として行われないと市場社会主義は定着しないこと、第二に毛沢東政権化の中国がそうだったように、何らかのインセンティブが設定されないとそもそも社会主義自体が成立しないことの2点である。まぁ一つ目は「なるへそ~」という感じだけど、二つ目に明らかになったことは伝統的な社会主義を根幹から否定している点でかなり重要だと思われる。

毛沢東時代の中国は「文化大革命」などによって国民意識を「改革」し、それによって社会主義へ方向付けていくというスタイルをとっていた。コーエンが伝統的マルクス主義の問題点として挙げていた「動機の社会化」がまさにこれのこと。ただしあちらは自己所有権の回避の観点から見て「動機の社会化」を不当なものであるとしていたが、ローマーの場合は社会主義を行うためのインセンティブの設定として現に失敗しているから不当だとしている点で異なっている。では当時の中国における社会主義がなぜインセンティブの設定ミスを犯しているといえるのか。それは毛沢東がこのとき国民に社会主義体制を納得させる根拠として掲げたのが、週刊少年ジャンプ的な理念(大マジ)だったからに他ならない。社会主義の目指す先ではなくて、理念の強制によって社会主義を実現できると考えた中国共産党民の頭がユートピアだったのかもしれない。とにかくこうした実践例から、伝統的社会主義・共産主義における生産手段や財の公有化はまずうまくいかないだろうとローマーは結論付け、に代わりにローマーは以下の3つないしはその下位の5つからなる(市場原理と両立可能と目される)を提案する。

[労働者自主企業的体制]

①いわゆるサンディカリズム的な体制。労働者自身が管理するから公有化自体がそもそも起こらない。しかし、労働者自身がおそらくこの体制を望まないため、選好の観点から見たときに微妙感すごい。

 

[伝統的政治体制を拒絶しない穏当な平等主義体制]

②企業経営のだいたい半分を公有化してしまう体制。ここでは企業が銀行からの信託でガチガチに縛られているため、半分で自由な経営をしつつも、半分では平等主義に対するインセンティブをそこまで希求しない(賛同してくれる)。一番安直。

③思い切って市場原理に飲み込まれない、新たな平等主義実現の領域を開拓してしまう体制。市場原理が平等主義への道を阻むのであれば、別枠でそれをやればいいんじゃね?みたいな感じ。まさにコロンブスの卵(実現可能性は置いておくとして)。

 

[そもそも財の公有化を特徴としない体制]

④資本主義から権力関係を抜き取った体制。一般に富裕層とされている重役会のお偉いさん共を引きずりおろしていっそ市民全体が資本主義に介入できるようにしてしまう、なかなかラディカルな発想。

⑤共同社会的民主主義の体制。①のサンディカリズム的な体制をもう少し穏当にして、労働者のみならず市民全体が共同することによって、制度的には所得格差を認めつつも、事実上は否定していくスタイル。ソーシャル・キャピタルの話とか繋がってくるかも。

 

 さて以上の5つが、ローマーがまぁ伝統的な体制よりはましだろうということで、とりあえず挙げた代替案だ。さてここで君に問題です。実はこの中にはローマーが強く推している体制は一つだけなのですが、それはどれでしょうか?

 もったいぶってもしかたないので答えをいうと、意外にも③がローマーの推しメンである。その詳細を見ていく前に、その他4つが抱える問題点を簡単に見ておこう。ただしこの問題点については、必ずしもローマーが本書の中で提起しているものではなくて、僕の解説によるものもあるのでそこのとこよろしく。

 まず①は古すぎる。サンディカリズムは19世紀末頃のフランスで流行った思想だ。第一次ロシア革命が起きておらず、中国共産党すら誕生していない。ノージックの意見を持ってくると、そもそもサンディカリズム自体がマルクス主義的な労働価値説に依拠した考えだという。そして労働価値説が明らかに不当だという話は一つ前のコーエンの節で解説したね。つまりそういうことです。

 ②は書いたとおり安直過ぎる。完全に公有化を進めてしまうと既存の市場経済システムそのものを否定することになり、おそらく市民の大ブーイングを食らうことになるだろう。だから、その半分だけ制限することによって「ほら自由経済は(半分)認めているでしょ?だから平等主義的政策に納得してな」と半強制をする発想がこれである。しかし、「経営の半分くらい」が極めて恣意的な線引きになりかねない点、そしておそらく半分でも納得しない点の2つからこれは無理があると僕は思いました。

 ④も明らかに無理がある。市民全体が資本主義に介入している状態がまず想定できない。そもそも資本主義において一部の権力者に声が高まるのは、資本主義最大の特徴の一つ(もちろんロールズが否定するような恣意性を含めて)実力至上主義によるものであって、これを否定してその門を万人に開いたとき、それはもはや資本主義ではない。ゆえに両立可能な方法を模索するというローマーの趣旨から外れている。

 最後に⑤。けっこういいかなって思わなかった?確かに何らかの共同意識があれば、相互支援的な制度にみんな協力してくれるだろうし、この発想自体は共通文化としてのナショナリティを擁護するミラー的なリベナショとそんなに変わらない。というかミクロな地域レヴェルに限定すれば十分に実践可能だと思う(その辺の話は8章のパットナムがしてくれるので待ってね)。しかし、ここで共同のための紐帯として何が機能するのかローマーは明かしていないことは問題視されてしかるべきだろう。上の2人みたいにナショナリティやソーシャル・キャピタルといった概念を提示せずに、自発的共同の可能性を訴えることはできない。そしてこれはローマーも認めている。以上大まかにそれぞれの問題点を挙げるとこんな感じかな。続いて③の「別領域を作ってしまう案」について紹介しよう。

 ローマーは③のことを「クーポン資本主義(coupon capitalism)」と名付け、この体制こそ市場社会主義の最も明確な展望が描けるものであると主張する。さっきの解説にもあるよう、市場原理/社会主義の達成場所を区分するのがこの構想の基本なのだけども、名前にある「資本主義」の部分が当然ながら市場原理を、「クーポン」の部分が社会主義を請け負う領域としてそれぞれ表現されている。資本主義はともかく、クーポンについては説明がいるよね。

①まず原則的に無条件で社会の成員全てに対し、成人した際に自国の企業のクーポンを渡します。

 

②このクーポンは所有していることによって、当該の企業から配当が貰うことができます。またクーポン自体を個人間で売買することもでき、株式っぽいシステムになっています。

 

③「原則的に無条件」とあるように、誰でも企業からの配当が少なからず貰え、誰とでも売買できるため、その意味で平等志向であるといえます。

 

④他方で企業は企業で配当を渡すこと以外は自由な経済活動が認められているため、市場原理は以前保持されています。

 ざっくり整理するとこれが「クーポン資本主義」なるものの基本設計。かなりシンプルだと思わないかい?まぁこの後さらにさらにシンプルなベーシック・インカムを紹介するけどね。あと「株とは違うの?」と聞きたそうな顔をしているね。実際似ているよ。株券っていうのは個人でも法人でも売ったり買ったりすることができ、それによって価値は秒単位で変動している。しかしこのクーポンには換金できない取り決めがあるため、その点で株とは異なっていて、同時に富裕層による独占も回避されることになる。こうした株との差異を簡潔に説明しているローマーの言葉を借りれば、「クーポンは現金になるけど、現金はクーポンにはならない」わけだ(※個人間での売買は認められている)。このクーポンの不可逆的な性格こそが「クーポン資本主義」を根底から支えるコアともいえるね。

 さてここからが重要なところだ。仮にこのままクーポン制度を導入し、企業経営と区別される領域をつくったところで、企業経営に必要な株の価値と、そうではないところにあるはずのクーポンの価値が比例状態になっているのであれば、結果的に得をしているのは富裕層になるため、社会主義的平等が達成されていないことになってしまう。ちょっとややこしい話なので必殺三段論法で説明すると、「1,一般に価値のある株券を占有しているのは富裕層である」「2株券とクーポンの価値は比例関係にあると仮定したとき」「3,株券を独占している富裕層がクーポンも同時に占有している(本来の目的である社会的弱者の救済につながらない)」。我ながら綺麗にまとまった。しかし、ローマーはこの問題を社会階層と選好概念を用いて回避可能であると説明する。

 ところで株券の場合、それを持っている人ほど当然ながら企業に対する声が大きくなるのはわかるよね?一気に売りに出されればその株券は大暴落するし、それを収入源にしている以上、企業もやっていけなくなる。だから企業側は原則的に株主にへいこらしなければならない。それっぽくこのことを説明すれば「有力な株主ほど、企業に対して選好が反映されやすい」ってな感じですよ。他方でさっき説明したよう、クーポンは個人間の売買はできても、それを株のように手放して現金化することはできない。ゆえに株券とは違い「クーポン所有量の過多と企業に反映される選好の度合いは比例しない」ことになるわけだ。企業側は配当を所有者に与える義務はあっても、クーポン券によって利潤を産出しているわけではないから所有者の意見を聞く必要はないからね。

 ここでローマーは「富裕層<中間層<貧困層(人口)」によって構成される、ピラミッド型の社会階層を想定する。もうお分かりのよう、株の場合では選好の反映度合いによって力関係は逆転するため「富裕層>中間層>貧困層(株券)」となるね。しかし、クーポンの場合では選好が企業に反映されないため、人口とクーポン所有量が比例関係になる。最初の想定に従えば貧困層の人口が最も多いため、所有量は「富裕層<中間層<貧困層(クーポン)」となる。このとき階層全体で見たときに、最も配当を貰っている層は貧困層であることになるので、ゆえに社会主義が市場原理を損なわないかたちで成立していることになるわけだ(クーポン資本主義は市場社会主義を達成する)。

 基本構想はとても単純なのに、「貧困層に有利なシステム」になっているということを説明するとこんなに長くなってしまうんやね。僕は哲学的な次元の話や論理そのものを説明する方が実践的な制度設計の話をするよりはるかに好きなのですごく疲れました。ただ一応は丁寧に解説したつもりなので、とりあえず理解してもらえたとは思う。

 ローマーの主張はしっかりと現実の経済システムを視野に入れつつ、それでいて緻密な制度設計(ここには書ききれなかった制度上の試算もいっぱいある)に基づいている点でなかなか魅力的だ。本節冒頭で述べたように、ローマーは「なぜこの制度が倫理的に正当なのか」という倫理学レヴェルの問いには本書では応答していない。しかし但し書きがそこはあったので許してやろう。問題はむしろ、「クーポン資本主義」があくまで所得の配分のシステムに過ぎないというとこにあるだろう。ここまで当たり前のこととして扱って、特に言及してはいなかったけど「クーポン資本主義」によって配分されるのは所得のみである。つまりロールズの「基本善」やセンの「ケイパビリティ」の概念に含まれるようなより包括的な社会的財については言及されていないのである。例えば経済資本と学歴資本&文化資本のレヴェルが比例するというブルデュー的見解に立ってみると、おそらく富裕層の方がクーポンをより合理的に使え、貧困層の方がより非合理的に使ってしまうと考えられる。いわゆる「リテラシー」の問題になるわけだけど、こうしたケースはセンやヌスバウムからすると諸個人の能力、まさに「ケイパビリティ」そのまんまが保障されていないことになってしまう。他にも身体障害を抱えた人やアルコール依存症の人だってクーポンの合理的な使用能力が欠如していると見なすことができるはずだろう。そんな感じで単に所得の配分だけでは不十分だとする立場からすると、ローマーの主張はかくも脆弱なのである。実は次節のパリースにも同じ問題が……おっと誰か来たようだ。

 

 

●フィリップ・ヴァン・パリース 1995 『ベーシック・インカムの哲学―すべての人にリアルな自由を』

 社会科学にどっぷり浸かっているわけではない人でも「ベーシック・インカム」って単語は耳にしたことがあるんじゃないかな。新聞やニュースでもときたま取り上げられているし、これを書いている現在(2015年9月某日)フィンランドでこの制度を導入するかどうか揉めている。そんな感じで現実の政治にも現在進行中で大きく影響を与えているベーシック・インカムの議論なのだけど、その発端にいるのが今回紹介するパリースに他ならない。

 パリースは本章の冒頭で書いたように、自分がアナリティカル・マルクス主義に位置づけられるのにあまり良い顔はしていない(らしい)。他方で、彼の主張は市場原理を壊してしまわないように社会主義ないしはリベラリズム的配分制度を考察している点で特にローマーの議論に近いともいえる。そもそも所得を配分する制度である以上は、金銭的価値を否定した時点で矛盾してしまうけどね。ベーシック・インカムの構想は単純だし知っている人も多いと思うけど、一応ここでは解説しておこうかな。

 ベーシック・インカムはそのまま「基本所得」と翻訳されたりしていて、簡潔な一文で整理すると「社会の成員全てに最低限生活に必要な所得を、持続可能な最高水準の額で与える制度」みたいな表現が妥当かな。ポイントを「①全員に」「②最低限の」「③所得を」「④持続可能なかたちで」「⑤最高水準で支給する」の5つに絞ってもよいだろう。悪人も善人も、ビジネスマンもニートも、おっさんもおばさんも、ヘテロセクシャルな人もホモセクシャルな人も、キリスト教徒もモルモン教徒も全員に支給されるのである。

「財源は?」って疑問が頭をかするけど、曰く「雇用対策などの公共事業、年金や生活保護などの社会保障といった政府支出あたりを取り払ってしまえ!」とのことだ。この辺は少しミナーキーなリバタリアンっぽい発想かもしれない。事実、なにかの試算で日本の場合でも生活保護を廃止すれば、全員に月数万くらいのベーシック・インカムを保障できるみたいな記事を読んだことがある。まぁこの辺はソースがクソあいまいなので自分で調べてくれ。ともかくベーシック・インカムが従来的社会制度の部分的廃止の上に立脚したシステムであることが肝心である。

あとこれは謎なのだけど、ベーシック・インカムは各人に「同額の」所得を配分する制度であるとしている勘違いがよく見られる(学者の人が間違えているのも見たことある)。いや僕が知らないだけで擁護論者の中にはこうした主張を掲げている人もいるのかもしれない。しかしながら、少なくともパリースは後で見るようにレキシミンな配分原理を支持しているため該当しないし、現に彼のベーシック・インカムも「非優越的多様性」といった概念から個人間で徴収額及び配分額に差が出るようになっている。むしろ勘違いの火種が気になってしょうがない。誰か同額を配分すべきとしているベーシック・インカム論者がどこかにいるのだろうか。ともかくここ要チェックやで。

基本構想はだいたいこのような感じ。一見すれば超絶単純で超絶おおざっぱな制度だよね。パリースの名前を出されずに聞いたら、社会問題に関心がある少しませた小学生がパッと思いつきで提案した制度であるようにも思えてくる。「みんなにお金配ればいいじょ~^^」みたいなね。しかし、”simple is best”とはよく言ったもので、単純さが生み出す鉄の論理的強度こそがベーシック・インカム最大の武器でもある。そんで、いよいよ内容の解説に移ろうと思うのだけど、その前にパリースがどのような前提と立場から主張を展開していくのかもはっきりさせておこう。

 まずベーシック・インカムの目的とは副題にもなっている「すべての人にリアルな自由を」提供することに他ならない。本書の冒頭で定義されるのであるが、パリースの「自由」はロールズ的な意味というよりかは、むしろ(コーエンが必至に退けようとしていた)ノージック的な意味での「自由」に近い。さっきちらりと書いたことだけど、パリースの主張はリバタリアン的な直観を多く含んでおり、おそらく彼が分マルの学者の一人として数えられるのを嫌がる理由がここなのだろうと推察される。というか一章で「リアル・リバタリアン的な姿勢で考えていくで!」と高らかに宣言している。ただしこのリアル・リバタリアンというのはなんとも割り切れない立場(あとパリースは「リアル」って言い過ぎである)で、以下の割り切れない3点の特徴からなっている。

①各人の諸権利の保障を志向する。

 

②その上で各人の自己所有権を認める。

 

③その上で各人のしたいことへの機会がレキシミンに最大化され、開かれるべきであると考える。

 獣と鳥に動物社会が分かれて、両方の特徴を持っていたコウモリが陣営の真ん中でゆれる「裏切り者のコウモリ」の寓話はとても有名だけど、まさにそんな感じなのがこのリアル・リバタリアニズムだ。①はリベラルもリバタリアンもとりあえず否定しないだろう。しかし、②の自己所有権に関しては資質によるものならばリベラリズムが、外的資産をも含むのならば(コーエンの)分析的マルクス主義がそれぞれ首肯してくれない条件だったはずだ。さらに①と②で終わればパリースは紛れもない自然権論的リバタリアンでめでたしなのだが、③の条件が加わることで事態はややこしくなってしまう。

③の「レキシミン(leximin)」とは「辞書的序列付(lexicographical order)」的に「マキシミン(maximin)・ルール」を適用していくよってスタンスを含意しており、ざっくりといえば「恵まれない人から順に効用が大きくなる」配分のあり方を指している。ロールズの格差原理がまさにレキシミンを体現しているね。そして、なによりそのロールズがそうだったように、こうした社会的・経済的弱者の平等な顧慮を訴える理論はリベラリズムや現代的な社会主義の十八番だった。すなわちリアル・リバタリアニズムは一般にリバタリアンが主張するような自己所有権についての条件と、一般にリベラリズムが主張するような公正な福祉に関する条件の2点が含まれているのである。まさに鳥の羽を持ち、獣の顔を持つコウモリみたいだろう。しかし、これこそパリースが本書で一貫して見せている基本姿勢で、リベラリズム&分析的マルクス主義とリバタリアニズムにおける論争、ひいては資本主義と社会主義を弁証法的に行き来しながらその折衷案としてのベーシック・インカムを提示するパリースの主張が端的に顕れている部分だとも考えられるだろう。ベーシック・インカムは決して粗雑な制度設計などではないのだ。

やっと前提となる話が整理できたので、いよいよこの本の具体的な内容に入れるわ。ただ、本書は次章に出てくるコミュニタリアン共(特にマッキンタイアとテイラーお前らのことだよ)の書籍みたく”Helter-Skelter”って程じゃあないが、それでも多角的な示唆に富んだ内容なので網羅的にまとめるようなことはできないし、するつもりもない(めんどいからね)。とりあえず最初に予告しちゃったし、他の現代政治理論の諸立場と関わる重要な部分でもあるから「非優越的多様性(Undominated Diversity)」の議論は参照しておこうかな。

非優越的多様性は本書の3章に主に登場する概念で、この章でパリースはロールズやドゥウォーキンなどのリベラリズム的平等主義の趨勢を踏まえながら、諸個人の能力間に大きな開きがあるとき、どのようにして「平等」を実現してよいのかを考察している。それで肝心の非優越的多様性なのだけど、簡単にいうとベーシック・インカムの配分基準のことで、「諸個人の所与運による不都合の保障を認める」ことや、「嗜好の違いによる保障は認めない」といったことが決定されている。ここは訳者の解説(この本は解説が尋常じゃなく充実していることでも有名だよ)が簡潔に説明してくれているため、そこから抜粋しておこう。

「この基準は大まかに言って、ある社会において、ある個人Aよりも劣っていると満場一致で見なされる別の個人Bが存在しなければ、個人間での「平等」が達成されていると考えるものである。」(斉藤 2009:403)

そして「能力の劣っている人B」が存在しているのであれば、ベーシック・インカムによってその優越性をAにまで近づけることによって両者間の自由の程度は平等に揃った、と考えることができる。社会の成員全体の自由をとんとんにできた状態こそが非優越的多様性が最も均衡していると結論付けられることになるわけだ。いま「自由の程度」という表現をこっそり使ったことからもわかるよう、パリースの主張は配分される財を「所得」に限定している時点で、とある批判を確実に招き寄せてしまう。しかしそれは後で確認するとして、先にパリースが本書で想定している方の批判からいくつか見ていこう。

ベーシック・インカムは諸個人の能力の格差を、所得によって保証していく制度だった。ここで「能力が相当高い人A」となんらかの「先天的ハンディキャップを背負ったことで能力が相当低い人B」がいたと想定しよう。このときベーシック・インカムはAから当該社会における平均能力程度に引き下がるまで所得を徴収し、Bには当該社会における平均能力程度に引き上がるまで所得を配分するよう要求する。この事例を一見すると、Aが圧倒的にベーシック・インカムの前では不利になってしまい、逆にBが有利であるような気がしてしまう。パリースはこの事態を「能力を持った人の奴隷化」と呼んだ上で、選好の問題から回避可能だと結論付けている。

人間は「十人十色」「蓼食う虫も好き好き」といった言葉に表れているよう、それぞれの選好は異なっているものだと一般には考えられる。だから、思いっきり仕事をしたい人もいるだろうし、同じ時間をぼーっと壁を見て過ごしたい奇特な人だっている。このことはつまり、Bが必ずしも「Aの能力の高さ」を選好しない、ゆえにその補填であるベーシック・インカムの配分も受け取らないかもしれない、ということを意味している。ベーシック・インカムは「労働の帰結としての所得の配分」といった帰結主義的なものではなく、あくまで「労働するための能力を所得配分によって補填する」といった構想に依拠しているからね。先述のとおり万人が認める能力的に劣ったBがいるからといっても、優れたAへの徴収が確実なものになるとは限らないし、少なくともBが「完全に平均能力と同程度になるまで」所得の配分を望むとも考えにくいだろう。パリースが「能力を持つものの奴隷化」と呼んだ事態も部分的にではあるけど回避されるわけだ。少しロジカル力技な感じあるけど。

予告しといた批判の考察に移ろう。さっきの話にも関係してくるけど、パリースは所得を諸個人の能力や自由そのものに還元可能であるとしているきらいが強い。というかそもそもここを前提化していないとベーシック・インカムの議論は成立しえないといっても過言じゃあないよ。確かに所得はそれが目的志向性を有している(モノを買うためにお金は存在している)点で「行為の帰結」ではない。しかしながら、センが「自由の手段」/「自由それ自体」すなわちケイパビリティとの間に区別を設けた際、少なくともセンやヌスバウムの見解に従えば所得はケイパビリティとイコールで結ぶことはできなかった。というわけで本節はベーシック・インカムに対するケイパビリティ・アプローチからの批判を考察して終わろう。実はローマーの節でも予告しておいた話なのだけどね。まあ、僕はパリースに分があるとはとても思えないよ。というかそもそもの発端であるロールズの時点で、単純に経済的財を配分するのではなく、基本善のアイディアによって社会的財も配分に加えましょうねという話だっただろう(もちろん基本善には所得も含まれている)。

「奴隷化」の例ではBの能力的劣位を「所得の配分によって」平均のレヴェルまでは引き上げることができると想定されていた。換言すれば、能力は所得に代替可能ということがここでは暗黙裡に認められているわけだ。しかしながら、もうこの話は何度もしているけど「お金を使う能力がない」という人だって世の中には実際問題いて、彼らに対する補填を所得の配分によって行うとするのは明らかに社会保障として不完全だろう。当然だけどこれはパリースによる「選好の違い」によっても回避することはできない。「じゃあその能力なりケイパビリティなりはどないして保障すんねん!」って疑問は知らん。センに聞け。ただケイパビリティがどのようなものか、という話だったらヌスバウムがリスト化してくれていたよ。

実をいうとこの批判にパリースが自覚的だったかどうかはわからないけど、単純な所得保障以外の重要性を認めている箇所が本書の中にはある。紹介した非優越的多様性の下りにて、「優越的多様性」の解消を目指している社会政策はベーシック・インカムによる配分を容易にしてくれるため、積極的に支援するべきだと彼は主張しているのである。例えば、予防医療の現物支給だったり、ハンディキャップを持つ人に対して行われる教育費・交通費の特別な給付だったりが、ここで社会政策といわれているものらしい。まさに部分的ではあるがケイパビリティの保障に地続きの観点だと言えるだろう。この後パリースはこうしたベーシック・インカム以外の制度的保障のことを加味した際、ヘルスケアや教育システムの構築を単に効率性だけからは考えないのがリアル・リバタリアンぜよ!と結ぶ。もはやリバタリアンが何なのかわからないけど、少なくともパリースの視野の片隅にはケイパビリティが入っていたということで。

 

 

はい分析的マルクス主義終わり。なんだか長々と書いてしまったけど、やっぱり彼らの著作は読んでいて面白い。読んでいて諸制度が実現可能な気がしてくるほど。

コーエンのところで書いたよう、ロールズ的リベラリズムと分析的マルクス主義の差異が消えかかっているのは事実である。しかし個人的にはロールズらの議論で哲学的・倫理学的地平での正当化を考察していき、制度設計はこちらを参照していく、という路線に切り替えていったらいいのにと思っている。住み分けもできるし、なにより哲学的にも実践的にも強固な論理が立てられる強みはあるよね。今回の読書デスマラソンのインストラクションは某海賊漫画からパクったものだったけど、その漫画風にいえば超強い海賊団と他の超強い海賊団が合併しましたよ、って感じかな。最近読んでないけど。

次はコミュニタリアン。読むのマジできつくて投げようかなと思い始めている(この一文が削除されていないなら安心して欲しい)。頑張るぞい。

 

5 コミュニタリアニズム

 さて5番目に登場するのはコミュニタリアニズムだ。ふだんは新書すら読まない一般ピープルには主にサンデルの功績(功罪かも)で知られるようになったこの立場だけど、少なくとも「現代的な文脈でのコミュニタリアンとして」はその前にマッキンタイアやテイラーといった人が大活躍しており、彼らの著作(サンデルとは比較にならないくらいクソ難解)と併せて本章では解説していきたい。いま「現代的な意味でのコミュニタリアンとして」とわざわざご丁寧にかぎ括弧をつけておいた。著作紹介に入る前に例によってコミュニタリアニズムの概略を見ていくつもりなので、この強調の意図から解説をしていこうかな。

 伝統的にコミュニタリアニズムが着目してきたのは「共通善(common goods)」という概念であり、これは上述のサンデル、マッキンタイア、テイラーの数少ない共通項であるとも見ることができる。しかし、この「共通善」概念自体は彼らのオリジナルではなく、はるか昔の古代ギリシャ時代にまで起源を求めることができる。後で見るだろうけど、マッキンタイアが評価しているようなアリストテレスとかは「善」を全面に推した哲学だしね。また科学にとっては暗黒時代だった中世においてすらも、キリスト教的な文脈で「共通善」が用いられており、この時代ではカトリック信仰の確立とその諸価値による社会全体の安寧を指していた。またこれは呼称の話になっちゃうけど「コミュニタリアン言うたら共産主義者のことやん」って時代も長きにわたって続いていた。ただし共産主義は”communism”、いま紹介しているのは”communitarianism”なので元の語が異なっている(そのさらに元の語は一緒だけど)。最後の話は別だけど、このように「善」の概念を用いている意味においては、コミュニタリアニズム史は政治哲学史と同じくらい長いということがわかったと思う。ここで冒頭の「現代的な文脈」に話が戻っていくことになるわけだ。

 いま確認したよう、「共通善」は時代ごとに様々な解釈がされてきた。そして今回紹介する比較的新しい意味での「共通善」とは、とりわけ国家よりも下位に属する特定の共同体において、そこの社会的・政治的役割と固く結びつき、諸個人のアイデンティティを規定している徳に他ならない。特に本章で取り上げる3人の場合は、こうした「善」や「徳」といった概念が、ロールズ的正義のアンチテーゼとしても提示されていることは見逃せない。3人ともなかなか一つの立場として括りにくいのだが、この点においては合意していると見なしてもよいだろう。

また、彼らのように共同性を志向したコミュニタリアニズムが登場したのは1980年代初頭の頃の出来事である。いまでこそ社会学とかが「人口の流動化に伴う社会関係の希薄化・空洞化」なんて言ったりしていると紋切り型の意見だなぁと思うけど、80年代当時ではこのような指摘はまだまだ新規性のあるものだった。すなわち主に先進諸国を中心とした共同体の失効とそれに伴う個人化の進行が現代版コミュニタリアニズムの背景には存在していることは留意しておいた方が良いだろう。とはいえ個人化の波に対して「共同体に帰れ!」「共通善を大事に!」と強調する姿は、悪いけど僕には懐古厨にしか見えない。マッキンタイアやテイラーの主張を前近代的な共同体への郷愁、すなわちノスタルジーに過ぎないとする批判をキムリッカとかがしているので、あながち懐古厨って表現も的を外してはいないんだよ。だから個人的には関係性が希薄化したとされている都市社会における、新たな共同体のあり方を模索していくような研究の方が現実的だと感じるし、好感を持てるかな。とまぁ御託も並べきったしそろそろ著作紹介に移ろう、と言いたいところなのだけど、次章で取り上げるマルチカルチュアリズムとの差異についてもここではっきりさせておきたい。

 コミュニタリアニズムとマルチカルチュアリズムの主張(後者の立場はまた詳しく解説するだろうけど)は同じ想定に立脚していて、非常によく似通っている。というか主に後期テイラーの著作がマルチカルチュアリズムで取り上げられることも、逆に次章に出てくるマイケル・ウォルツァーがコミュニタリアンに数えられることもあって厳密な区別は難しい。いっそ同じ章で全員まとめようとも思ったけど、なんとなく線引き可能なラインが見えてきたので本稿では区分することにした。

 まず両者の主張はロールズがいうような「穏当な多元性の事実」をまず所与として考える。コミュニタリアンは先の通り正義と「共通善」を対置することがあって、この際の想定としては統一的正義には回収されない多様な生の領域としての共同体がある。一方のマルチカルチュアリズムは多くの場合「多文化主義」と翻訳されることが多く、まさに名前にそのまま「穏当な多元性の事実」の前提化と統一的正義の実現可能性への懐疑が顕れているね。このような事実認識を両者の合意点とすると、その先の提言レヴェルの段階が相違点となってくる。

 コミュニタリアンの場合、多様な共同体の存在とその可能性を主張するのはすでに見たとおりだが、その先のところで共通善に従った諸個人の生や倫理の推奨、あるいはアイデンティティへの問いに帰着する。そのため、ソクラテスの時代からあるような「諸個人の善き生」を考える倫理学や、現代では社会心理学の主な関心となった自己論的部分に比重が置かれている。一方のマルチカルチュアリズムの場合、社会に存在している多様性を認めるところまでは同じだが、そうした多様性(特にエスニシティによるもの)をいかにして政治の場に組み込んでいくかということを模索していく。その点でどちらかといえば政治学的な部分が争点にされている。

 こうした区別はあまり一般的なものではないかもしれない。ただそれでもこのような区分を設けておいたほうが読みやすいだろうし、いってもそこまで外したものでもないはずだ。いわゆる「複雑性の縮減」(Luhmann)的なノリですよ。さて今度こそ御託が済んだので、著作を見ていくとしよう。

 

 

●アラスデア・マッキンタイア 1981 『美徳なき時代』

 おそらく最初に現代的な意味でのコミュニタリアニズム路線を打ち出したマッキンタイアの主著。ちなみに彼のファーストネームは「アラスデア」であって「アデランス」ではない。他大の政治哲学の教授がネタにしていた(例によってその教授はリバタリアンである)。本書は比較的厚く、論点もその分量に比例して多岐に渡る。というかこんなガチガチの政治哲学の著作でまさか我らがアーヴィング・ゴフマン大先生(詳しくは去年の読書デスマラソンを参照)のお名前をお目にかかるとは思わなかった。少し懐古厨的なノリが気に食わないけど、マッキンタイアの知識量はたぶん半端ない。というか嘔吐物が喉元のあたりにやってくるくらいに尋常ではない。ゆえに凡人である小生らにはいささか論点過多に感じる。ついでに読みにくい。だからこそ本書もきっと君の知的好奇心を充足させてくれるはずだろう。

 マッキンタイアが本書で展開したプロジェクトは先述の通り多岐に渡っていて、ウェーバーやゴフマンといった王道社会学者からファイアーペントみたいにマニアックなところが登場したり、ムーアのような終わコン倫理学者が出たと思ったら、アリストテレスの時代にまで遡ったりする。もはや倫理学版「大乱闘スマッシュブラザーズ」みたいな様相を呈しているのだ(実際のところ本書の目的からすると、この意図はあってもおかしくない)。全部とりあげるのはこちらとしてもしんどいので、本書で一番ページ数が割かれている倫理学の系譜研究に加えて後のコミュニタリアンに引き継がれていく共同体-共通善の話、そして余力があれば「ナラティブ(narrative)」についての考察を中心にまとめようかな。意外に知られてないのだけど、マッキンタイアは比較的早い段階で社会科学に「ナラティブ」という概念を持ち込んだ人なんだよね。今でこそ心理学や自己論の専売特許になった感じあるけど、実は政治哲学でもこうして用いられていたわけだ。まぁ詳しくは最後の方で(できたら)解説するので、順に見ていこうか。

 マッキンタイアは本書を自身の「不穏な思いつき(a disquieting question)」の話から始める。曰くサイバーパンクなSF小説などで描かれるアノミー状態の世界、それがまさに今現在進行形の問題として道徳哲学にも起こっている、というのである。僕がマッキンタイアの指導教官だったら間違いなく「不穏な思いつき」なんて仰々しい表現を問題の所在に使うなと指導するだろう。それは置いておくとして、彼によればこのアノミー問題は3点の理由から整理できるという。

①概念の共訳不可能性……これはそのままだね。例えば、ロールズ的リベラリズムの「正義」は二原理にあるような基本的自由の保障と機会及び結果の平等の実現だったのに対し、ノージック的リバタリアンの「正義」は自己所有権の保障を第一に考えていた、まさに「正義」という「概念が共訳不可能」に陥っている。

 

②論証の非人称性……正義や規範などの倫理を一般的かつ普遍的なものと想定した言説がこのところ増えてきているねってな話。この時点ですでに、ロールズ以後の正義論が仮想敵としてマッキンタイアの頭の中に浮かんでいるのだろう。

 

③道徳的言説の多元性……道徳的言説は横の広がりもたいがいだけど、歴史的な変遷もかなり遂げてきており多元的になっている。この問題意識から本書の当面の目的である「マジ冗長じゃね?」とも思えるくらいの系譜学的な考察が始まることになる。

 

 そんなこんなのアノミー状態において、半ば必然的に「もはや道徳の系譜とかええやんけ」なんてスタンスの倫理学の立場が登場してくる。それこそマッキンタイアが唾棄すべき対象と考える情緒主義(emotivism)だ。ムーアに端を発し、スティーブンソンの分析哲学などに見られる情緒主義は、道徳とは合理的な理由から説明できるものではなくて、結局のところ個人の感情や選好の帰結に過ぎないと指摘する。まさに「美徳なき時代」における淡白なスタイルの倫理学といえるね。たぶんマッキンタイアはこういうの許せないんだろう。さらにこの情緒主義に踏み込んで、マッキンタイアは「情緒主義の隆盛」という現象自体が近代に特有であること、そして情緒主義を体現する人格がいかの3つに類型化可能であるということを指摘する。

 情緒主義を体現する人格として挙げられる一つめは「審美家」と名付けられるもので、彼らは「功利性」に道徳的判断の重心を置いているという。ここでいう功利性というのはもちろん近代の初頭あたりで隆盛していた功利主義の功利性(効用の最大化志向)のことだよ。これが現代的な価値基準かどうかと聞かれると素直に首肯はできない気もするけど、功利主義である以上は間違いなく近代的な価値基準ではあるだろう。

 二つめの人格は「セラピスト」。彼らは「権利」に重きを置いている。これはさっきの功利主義とだいたい近しい時期に出てきたカント的義務論が重視してきたものだ。ただここの文脈では、カント的義務論を「原初状態」や「反照的均衡」といった概念で再定式化したロールズ的リベラリズムも含まれていることは留意しておこう。まぁこの辺の話はすでにコース設定と功利主義とリベラリズムの3つの章で事細かにしたつもりなので、いちいちぶり返すつもりはないよ。マッキンタイアが「審美家」と「セラピスト」として説明した2つの人格が近代の産物であることも、ここまで読んでくれた君なら知っているはずだろう。

 そして3つめが「官僚組織」だ。「近代」と「官僚」と聞いてマックス・ウェーバーが瞬間的に頭に思い浮かんだ人はちゃんと勉強している人だね(社会科学世界では学部で習うレヴェルの常識だけど)。ご名答。マックス・ウェーバーによる「官僚性」の議論に登場するような人格こそがこの「官僚組織」だと考えてよい。彼もまた近代を徹底して考え抜いた学者だからね。この「官僚組織」の人格が重視する道徳的価値は「効率性」だ。

 さて次の話に入る前にいったん整理をしておこう。マッキンタイアは情緒主義に見られるような近代的人格を以下の類型にまとめたのだった。

「審美家」……近代的倫理のうち、「功利性」(功利主義)に価値を認める。

                                                          

「セラピスト」……近代的倫理のうち、「権利」(カント的義務論)に価値を認める。

 

「官僚組織」……近代的倫理のうち、「効率性」(ウェーバーの官僚制)に価値を認める。

 ここの議論まとまっているように見えるじゃん?これら人格は本書の中では並置される概念かどうかすら非常にわかりにくいんだよ。だって同時に出てこないうえに、認める道徳的価値も不明瞭だもん。そもそも「官僚組織」以外のネーミングの由来からわかんねーわ。だから全部僕が(他の本や論文を参考にしながら)ここでまとめているわけだ。だから文章も固くなっている。ふざけている余裕がないからね。もう読了したけど、マジで読みにくいよ。

 さて3つの近代的人格(倫理的立場)が出揃ったわけだが、簡潔に要約するとマッキンタイアはこれらと情緒主義をあわせて「クソ食らえ」って言っている。というのもこれらの立場はすべて、一方で自由で負荷なき「人格(character)」(いわゆるアトム的個人)を想定しているにもかかわらず、他方では外在的な「社会的役割(social roll)」や道徳規則に対し制約されている人間像を描いているためである。本来アリストテレスの時代の倫理学には「あるもの」が第三項として「人格」と「社会的役割」や道徳規則を媒介してくれていたため、両者を想定している道徳言説にも説得力と真理性があったのだが、マッキンタイアによれば近代に入り、その「あるもの」は失効していったという。しかし、第三項がすでに喪失しているのにも関わらず、道徳言説は残りの二項を共存させた主張を繰り返し続けており、ゆえに矛盾を内包(つまり「クソ食らえ」)することになったという見立てである。現代のコミュニタリアニズムが何に注目していたかを思い出せば、「あるもの」が何かはすぐにわかるよね。以下でマッキンタイア的クソ倫理学がどこまで遡れるのか、ということについて紹介しておくので、その間に答えを考えておこう。

 系譜の遡行はそんなに難しい話ではない。近代哲学の始め頃にあった潮流を考えればおのずと答えは導出されるはず(マッキンタイア的には近代哲学開始当初からそもそもに綻びがあったということだ)。つまりヒュームやディドロに代表される啓蒙主義が矛盾した道徳言説の始発点になる。さらにご存知の通り、啓蒙主義はこのあとカントに受け継がれ、さらにそのカントはキルケゴールに受け継がれていく。それぞれの詳細はwikipediaの専門家気取り共が執筆してくれているはずなので、そちらにブン投げるとして、

4人の想定していた人間本性が「情念(ディドロとヒューム)→理性(カント)→倫理的様式(キルケゴール)」という感じで、どんどん存在規定がゆるくなっていっている方向に進んでいっているのもマッキンタイア的にはまずかったらしい。つまり人間本性に対する存在規定の弱さが、ますます道徳的言説に普遍性が取り込まれ、同時に個別性が損なわれていく要因となり、結果として人格と社会的性格の間の乖離を広めてしまったというわけである。「本来は個別の事情にそれぞれ縛られているはずの諸個人の人格を、普遍化していってどうするねん!負荷なき自己や!」って感じかな。

 では先の問題の答えあわせといこう。人格と社会的役割&道徳規則を介してくれる第三項としての「あるもの」、それは「共同体(共通善でも可)」でした。つまり、ここでやっとこさ系譜学的な遡行が終わり、コミュニタリアン的な主張に至るわけだ。近代的な道徳言説の流れにおいて、普遍化・一般化される人格概念を考えるにおいて、そして現にアトム化していく近代的個人への処方箋として、「共同体」が必要であるというのがマッキンタイアの主張のコアであり、後のコミュニタリアンに継承されていった一番のポイントなのである。

 またさっきちらっと書いたよう、「共同体」はアリストテレスの時代には第三項として機能しており、ゆえにアリストテレス的な倫理学の時点では道徳言説が空論になっていなかったという。ちなみに冒頭に懐古厨っていたのはこのことだ。2000年規模の懐古だけど。他方、マッキンタイアによれば啓蒙主義以降の倫理学の流れに疑問を呈していた哲学者はなにも自分だけではなく、「稀代の反キリ野郎」ことニーチェ大先輩がまさしくこれに相当するらしい。これに関してはニーチェ大好きな僕からするとちょっとわかる気がする話ではある。しかしマッキンタイアは尋常じゃないので、ここから常人では思考が及ばないような論の展開を見せる。すなわち道徳言説において「ニーチェorアリストテレス」のどちらの可能性をとるか、という問いを立てる。これがどんなことだか君にわかるか?他の道徳言説の歴史をスッパリと切り捨てたのだよ。ちなみにアリストテレスからニーチェまではだいたい2000年くらいの時代が開いている。哲学暗黒時代の中世もその期間に含むとはいえ、やっていいことと悪いことがあるのではないか(マジおこ)。

 もちろん彼はコミュニタリアンなので「アリストテレスをとる!」と即答する。アリストテレスもまた多岐に渡る主張を展開した人ではあるが、ここでマッキンタイアが注目しているのは「諸個人の善がどのようにしたら顕在化するとアリストテレスが考えたか」という点である。そしてアリストテレスによれば、それは他者からの評価によって、つまり共同体内部に属することによって初めて可能になるという。ちなみにアーレントも『人間の条件』の中で「活動」の概念を提示する際、ここと同じアリストテレスの見解に触れていたはず。

 

さてだいたいこんな感じだろうか。冒頭で「ナラティブ」について言及しているところにも触れます(※余力あれば)と書いたけど、ごめん余力ないです。この節はword文章のたった5頁分にしか相当しないのだけど、書くのに5時間はかかった。1枚1時間とかお年寄りのパソコン教室でもないぞ。

本書が読みにくいのはまず単純にマッキンタイアの構成がクソ。ちらりと調べたら意図的にやったみたいな話もあるらしい。むしろ後のコミュニタリアンはよくこの本を継承していったな。次に議論の展開がアクロバティック過ぎる。取り上げられたそれぞれの学者を、入門レヴェルでいいから知っておかないとまずこの本読めない。あとウェーバーとニーチェとゴフマンとアリストテレスが同列で並んでいる文章はここくらいでしかお目にかかったことないし、これから先も目にすることはないだろう。賭けてもいいよ。

……みたいな感じで大風呂敷広げる割には結論がクソ。本当にクソ。「この美徳なき時代にも、諸個人の徳が育つ地域とかそういう身近な共同体を再建していきましょう!」(大意)とか選挙演説みたいなこと言うの。今まで縦横無尽な論の展開しておいて最後の最後で月並み。僕は読んでいて誇張抜きで(°Д°)って顔になった。

少しだけ学術的な角度から切り込んでおくと、諸個人の中に何らかの内在する価値(この場合では「善」や「徳」)を所与とし、それが育まれるよう何らかの規範(この場合では共同体の規範)を強制するような主張を完成主義や卓越主義と呼び、政治哲学では批判することがままある。まさにこうした立場の起源がアリストテレスであり、さっきわざとらしくアーレントを出しといたのもここへの複線で、彼ら彼女らはこの批判が幾度となくぶつけられてきた。そして残念ながらマッキンタイアも真逃れることはできないだろう。

そもそもなぜ人間に内なる「善」が存在しているとなどいえるのだろうか、人間の本質や本性といった議論はカントがいうように人間の認識能力を超えた問題で、それ以上考えることはできない超越論的領域での話になる。また僕はアリストテレスにも、アーレントにも、そしてマッキンタイアにも(彼らのことはむしろリスペクトしてるよ)僕の「本質」なるものを規定してほしくはないと思うし、そんな権限はお前らにないでしょと思う。

また仮に9999999歩譲って「善」を諸個人が内在しているとして、それを「共同体によって育む」といった考え方にもっていくのは非常に危険だ。端的にいえば国家より下位の共同体レヴェルで全体主義が起こっているのと大差がない。ナチは「遺伝」を内在的価値として、国民の善き生を追及した。しかし、ご存知の通り待っていたのはああいう社会だった。この辺の話はソ連とまとめてアーレントが『全体主義の起源』で書いてるので興味があれば読むとよいよ。もっともアーレントも同じミスを犯してしまっているがね。

ともかく「共同体によって諸個人の中に眠る徳性を育成する」なんて書くと聞こえはいいけど、結局のところそれは共同体の規範に沿った特定の生き方を個人に強制し、「善」の概念によって強制を正当化しているに過ぎないんだと僕は思います。往々にしてコミュニタリアンを完成主義だとする批判はあるので、このことは次節のテイラーとその次サンデルの著作紹介でも念頭に入れておこう。

 

 

●チャールズ・テイラー 1989 『自我の源泉』

 いまでこそテイラーはコミュニタリアンの代表的論者の一人にカウントされているけど、少し前までは政治哲学の領分で取り上げてよい学者なのかどうかということも自明ではなかった(実はフーコーとかもその一人だったらしいけど)。一つ前のマッキンタイアと並んで、彼らの主張には政治の問題よりは、むしろ人格やアイデンティティといった自己論的な趣が強いからね(この章の冒頭で説明した)。

 本書もテイラーの自己論的な関心に基づいて書かれた一冊で、僕は姜尚中がずっと前に書評を書いていたのを見たことがある。姜尚中とはよく朝生とかに出ているテレビでは知識人枠に収まっている人で、彼の書評が面白かったのは夏目漱石の『こゝろ』から話を始めていたところだ。そう「精神的に向上心がない奴は馬鹿だ」のそれ。高校の教科書に全章載っていなくて、たぶん耽読できるタイプの人は掲載されていない前後を読むために購入することでも有名だね。姜によれば本書は『こゝろ』に登場する「先生」ひいては作者である漱石が懊悩した近代的自己の在り方に応答してくれる内容だという。周知の通り漱石は国木田独歩や島崎藤村のロマン主義文学の後にやってきた自然主義文学の筆頭で、己の内面に存在している「ありのまま(自然)の自我」すなわちエゴと向き合いつつ、しかしそのエゴには飲み込まれないかたちで近代的な個人主義のあり方を模索した。この辺は『私の個人主義』っていう名著中の名著で漱石が考察しているので興味あるなら読むとよいよ。100年前に書かれたとは思えないくらいアクチュアルな内容だね。僕は感動した。ごめん近代文学好きだから少し語ってしもうた。何が言いたかったのかというと、漱石がまさしく『こゝろ』で表現し、『私の個人主義』で論考を展開した近代的自己の分析が本書のテーマになっているって話ね。姜さんもきっとそういう意図でさっき紹介した書評を書いたのだと思う(ああ先に言っとくけど、この夏目漱石の話は複線だ。本節が終わる頃に再び漱石に立ち戻ることを予告しとくよ。高度な執筆技術を拝みやがれ)。しかしそもそも近代的自己はいつ・どこで・どのようにして生まれたのだろうか。漱石やその前の独歩、藤村、他にも与謝野晶子らが問うた主体像なのは間違いないが、一般的に元来の日本に存在していたというよりは、明治に他の思想と共に西洋から輸入されたものであるとされている。となると西洋の何に端を発するかが次の問題になるが、ここでやっとテイラーと本書の出番がやってくる。

 テイラーが本書にてとっている分析スタイルはマッキンタイアと同じく系譜を遡行する歴史学的アプローチで、こうした特定の概念への構築主義的アプローチという点では初期フーコーの「知の考古学(Archeologie)」にも通じる(研究スタイルとは別の話になるけど、テイラーもフーコーも多くをハイデガーに負っている点でも共通している)。僕はかつて卒論で「若者」概念に同様のアプローチをかましたことがあるのだけど、たかだか40年程度の戦後日本の若者論をまとめるだけで相当に骨が折れた。だからマッキンタイアのように「倫理史」やテイラーのように「自我史」を主題とするのは、横にも広く縦にも長い概念にスポットライトを当てていることになるので、骨が折れるどころの騒ぎではないと思う。事実、本は鈍器のように厚くなり、読んでいるこちらも正直つらい。ましてや書いている当人たちはもはやマゾヒストに領域に足を踏み入れているんじゃないかと心配になってしまうよ。ともかくそんな感じでテイラーは近代的自己史がどのような経緯を辿って今日にまで至るのか考察を始める。例によって本書の内容もいわゆる一つの混沌(それでもマッキンタイアよりは読みやすいとは思った)なので、網羅的に見ていくのではなく、主にテイラーによる近代的自我の分析とそこから導出されるリベラリズムへの批判を軸にして検討していこう。勘弁な。

 テイラーによれば自我を語る際に使われている言語はいつの頃からか、人間の志向性や目的、意識といった生の部分を無視するようになっているという。60年代アメリカ隆盛した行動科学や、それを受けた認知心理学や社会科学全般に見られる自然科学的・客観的な第三者的視座からの説明こそが、ここの文脈で批判されている生を無視した言語の典型例だといえるだろう。

またこうした潮流はキリスト教のアウラが喪失し、代わりに自然科学が絶大な力を誇った産業革命つまり近代の開始地点にまで遡ることができるという。宗教イケイケな暗黒時代である中世が終わったことで、やっとこさ宗教学以外の学問が日の目を見ることができるようになり、自然科学は産業革命のための知識について、社会科学や人文科学は自然科学によって「神が死んだ」世界における人間存在についてそれぞれ頭を悩ませ始めた。そこで登場するのが近代哲学の出発点に位置づけられるルネ・デカルトさんである。デカルトの功罪のうち「功」の方はめんどくさいし、有名なのでいちいち解説はしない。ここではテイラーの注目した「罪」の方にフォーカスを絞ろう。

デカルトの主張はいろんな始発点に数えることができるけど、中でも有名なのは「心身二言論」を最初に定式化したことだろう。つまり「心」(「精神」や「魂」でも可)と「身体」を分けて彼は考察を重ねていったわけだ。しかし、この辺はジョン・サールらによる「心の哲学」の領分でも論争を生んでいるよう、近代哲学の最初に位置するデカルトが「心」と「身体」の区別を彼の哲学の前提としてしまったことによって、後々いろんなところでいろんなめんどくさい問題が生じてしまった。テイラーの問題意識もここにあって、人間存在をまず(不当に)区分した「心」と「身体」のうち、後者の「身体」を語る際の自然科学的な言語が全面化し、認知行動科学などに顕著なよう「心」を語るときにもこの因果論の呪縛に捕らわれるようになってしまったというわけだ。これでやっと最初の話に通じたね。

これに対してテイラーは「行為者の自己能力」についての理解を深める、今でいうとまさに自己論的な学問の展望と可能性を示唆した上で、そんな自身の主張を「哲学的人間学(Philosophical Anthropology)」の系譜に位置づけた。この哲学的人間学というのは現象学の開祖であるフッサールに支持していたシェーラーという人を起源に持つ潮流(前年度の読書デスマラソンでも現象学的社会学のくだりで紹介している)で、彼によって現象学の実存主義的方向性が決定付けられたといっても過言ではない。

 実存主義というのは20世紀に入ってから栄えた哲学の潮流で、単線的に描けばさっき言った現象学の後、構造主義の前に位置づけられるのだけど、現象学より一つ前にいるニーチェやキルケゴールにも実存主義的傾向は見られるとされる。そしてテイラーが因果論的な自然科学の言語に対して哲学的人間学を持ってきているのと同じ理由から、実存主義もまた実証主義や合理主義へのアンチテーゼ的な色合いが強く、従来的な哲学が取り組んでいた人間本性の解明よりかは、人間の行為や主体性からその実存を考えていくスタンスに切り替えたところに最大の特徴を認めることができそうだ。サルトルの「実存は本質に先立つ」って言葉はクソ有名だけどまさにそれな。こうやって人間の実存を応援してくれていたという意味で「元気の出る哲学」ナンバー1だったのだけど、その隆盛も長くは続かず、次の構造主義がけちょんけちょんに論駁してしまった。実存主義が想定するような自由な主体性や行為といったものなど人間にはなくて、主体も行為も文化の「構造」に実は強く規定されているというのが構造主義による批判の要点だ(その構造主義も次のポストモダニズムに倒される)。これ以上やると西洋哲学史の講義になってしまうのでここらで終わる。ここで理解しておいて欲しいのはテイラーのスタンスはシェーラーによる哲学的人間学にあって、そのシェーラー後に展開された実存主義にはむしろ批判的な態度を示している点である。このことは後でもう一度立ち戻って確認する。では地ならしは終わったので、いよいよテイラーがいう哲学的人間学に基づいた自己像の素描に取り掛かろうか。テイラーの自己論は多岐に渡る論点を孕んでいるけど、特に彼が強調している「行為者としての自己能力」をとりあえず見てみようか。

 テイラーは人間と動物の区別を行う上で、人間が「第二階の欲求(second-order desire)」を有している点に差異があると考える。これは単純な話で一般的に全ての動物は「腹減ったなぁ」とか「クソ眠いなぁ」とかいった多種多様の欲求を持っているとされる。もちろん人間もその例にもれない。しかしながら、同時に人間の場合ではこの第一階の欲求に対するメタレヴェルの欲求、すなわち第二階の欲求も持っている。例えば、君が空腹の欲求を抱く際、「ダイエット中だから我慢しなきゃ」とか「食べ放題だからめっちゃ食うぞ」って空腹それ自体にも反省的な評価を下している。これがまさに第二階の欲求に他ならない。

 そしてさらにテイラーはこの反省的な能力をさらに二分する。それが「弱い評価(weak evaluation)」と「強い評価(strong evaluation)」だ。「弱い評価」は第二階の欲求において「よい/わるい」の価値評価を行わず、単に量的な反省として経験される。上述の「ダイエット中だから我慢しなきゃ」とか「食べ放題だからめっちゃくうぞ」といったものは特定の価値を含まないのでこちらに分類されることになるかな。対する「強い評価」とは対照的な二値(「善/悪」「高貴だ/卑しい」「謙虚だ/傲慢だ」など)を含んだより強い意味での反省のことで、さきの例で「ダイエット中に我慢しないのは」―「怠惰だ」とか、「食べ放題であっても食べ過ぎるのは」―「卑しい」と感じたのであれば、それは「強い評価」に分類されるのである。そしてテイラーは「弱い評価」をする人のことを「単に考量する者」、自己-解釈を繰り返し、自己の人格を再帰的に問い続ける人のことを「強い評価者」とそれぞれ呼んでおり、特に後者の方に価値を認めている。先にテイラーが中心的に参照しているのは哲学的人間学であって実存主義ではない、と書いた。この「強い評価者」概念を用いたサルトル批判にそのことは顕著である。

 サルトルは理性によって解決できない問題(病気の母を看取るか/レジスタンスに加わるか)に人が直面したとき、選択によって自身の価値を創造していく必要があるという。これは「根源的選択」といってサルトルの有名なテーゼの一つなのだけど、テイラーは他ならぬ「根源的選択」にこそ理想の近代的自己像、すなわち主体性や選択責任に重きを置く指針が顕れているとして批判する。

テイラーは先に見たとおり、第二階の欲求において不断の自己評価を繰り返す「強き評価者」に人間的価値を認めていた。サルトルの「根源的選択」の場面においても同様で、選択によって事後的な価値を付加していくのではなく、どちらの選択をするか「強い評価」に基づいて判断するかが重要な課題である。「根源的選択」への批判は近代的自己像と不可分の選択責任の概念にも変更を迫るものであり、単に行為の帰結にのみ責任を負うのが近代的自己ならば、行為の帰結をもたらした自己の在り方それ自体にも責任を負うのがテイラー的自己であると結論付けられるだろう。ここが起源を同じくしつつ、テイラーが従来の実存主義と袂を分かつ理由の一つだよ。「強い評価者」の話はもう終わりたいのだけど、次のサンデルに引き継がれた点もここにあるので、もう一つだけさせてもらおう。

 次節でちゃんと見るけど、サンデルがロールズ批判の文脈で持ってきた自己概念は「負荷なき自己」というものだった。曰くロールズは「秩序だった社会」において諸価値から自由な人格を想定しているが、現実の人間は共同体に埋め込まれて(embed)おり、そこにおける共通善に基づいて内省を繰り返している。ゆえにロールズの考える自由な人格とは「負荷なき自己」であり現実にはありえない、らしい。

他方で先の通りテイラーの掲げた理想の自己像とは「強き評価者」とは、価値評価という文脈に「位置づけられた自己」だった。実際この語を用いて、自然科学のような第三者的言語によって語られる自己像を批判しており、サンデルの関心とは地続きとしてよいだろう。まぁ本当のこというとサンデルの主張に新規性がないだけなんだけどね。

一応大事な話はだいたい終わったかな。こうやって見ると彼の自己論はけっこう独特だ。自由な人格を想定している実存主義や近代的自己を拒否しているかと思えば、それらをチューンアップしたような自己像である「強き評価者」を評価している。だからテイラーの主張を一元的にアトミズム的自己/コミュニタリアン的自己と線引きすることはできないんだよな。実は。

俗流の解釈だと個人主義に批判的な立場をとるとするのがコミュニタリアンだ。しかし、テイラーは近代的な個人主義の一形態をむしろ評価している。すなわち自己の内面の「自然」を受け止めていくような「真正さ(authenticity)」を追求する個人主義の形態である。……あれ?この話どこかで聞いたことがある……?って思ったそこの君は記憶力がすごくよい。これは導入で紹介した夏目漱石が自然主義文学の中で確立しようとした自己像と完全に一致している(見事な複線回収)。漱石は自身のエゴイズムを受け入れながらも、それに飲み込まれないような近代的自己を擁護していたのだった。まさにここでテイラーがいっている「真正さ」というやつだね。前近代的とも批判されるコミュニタリアン的自己像と近代以降に登場した個人主義の脱構築を目指し、模索した点で二人の姿勢は重なる。たぶん姜さんもここのこと言ってたのだと思うよ。

とまぁ初期テイラーはこのような感じでほとんど違う畑(自己論)の人だ。後期に入るとマルチカルチュアリズムの文脈に乗っかってくるけど、それはまた別のお話。むしろこれと前のマッキンタイアを合成してコミュニタリアンと括りあげたのは次節のサンデルさんである。

 

 

●マイケル・サンデル 1998 『リベラリズムと正義の限界』

 サンデルの名前は聞いたことあるかな。一般ピープルにはこの筋の人で一番有名なのだけど、政治哲学やってる勢からするとマジでアンビバレントの塊みたいな存在だ。ここの話は完全に余談だけど、学と俗をめぐる大切な論点だと思うので少しチラ裏しておきたいかな。全部チラ裏だけど。

サンデルって人は喋り方やジャスチャーを最大限活かしたパフォーマンスがすごく上手で、いわゆる劇場型講義によって一躍時の人になった。日本でもNHKの白熱教室だったかを見て、政治哲学に興味を持った人はかなり多くいたはずだろう。問題はこの「興味を持った人」がいったい誰だったかということだ。もちろん全員が全員とはいわない。しかし、その多くがやはり「他者との差異化(俺政治哲学やってるんすよーw)」を目的とし、消費していた学生層だったことは否めないのではないか。そんでこういうカスのカスみたいな奴らが増えたところで、学界には悪い影響はあっても良い影響はまずない。もちろん差異化を目的としたところから、そのうち学問が本当に楽しくなってきて、そのままどっぷり嵌るパターンもある。というか正直言うと僕がコレだ(赤裸々)。だが、基本的にはやはり衒学的とかって言うのもおこがましいような奴らが一過的に増産され終わり。いわば学問が消費されるわけだ。

なんでここまで熱弁するかというと、こういう「学問の消費」問題って実はサンデルに以前にも以降にもあって、例えば80年代だと浅田彰の『構造と力』が馬鹿みたいに売れたし、少し前だとニーチェの言葉みたいな永井均先生が激おこ必至みたいな本が、最近だとピケティやアドラー心理学、自称社会学者の古市某(地獄の業火に焼かれろ)の本とかが話題になっている。パンピーに知られることそれ自体はいいことだし、僕の考え方ははっきりいってコンサバなものだろう。しかしこれでもまだまだ穏当な方で、学界には学問の消費を親の仇の如く、いやそれ以上に嫌う学者さんが大勢いる。東浩紀や宮台真司くらいでもう殺意の波動に目覚めるみたいなね。たぶんこうした人たちは心の底から嫌なんだろうし、中には実害を被られた方もいるのかもしれない。でもまぁこうした人たちの存在を踏まえたとしてもこの問題は両義的過ぎて答えが絶対にでない話だ。学問の消費現象それ自体を観察していこうぜみたいな社会学者も知っている(本当に立派だと思う)。だから君も自分の頭で考えてみてください。ここではサンデルがそんな功罪を背負った人だよって知ってもらえればよいです。

本書でのサンデルの主張はそこまで目新しさを感じるものではない(だからこそ叩かれるのだけど)。ただリベラル-コミュニタリアン論争の争点、およびロールズ的リベラリズムの概観を簡潔に整理してくれているので、過度な期待をしていないのであればきっと優良入門書に感じるんじゃないかな。まぁそもそもサンデルの扱いは「わかりやすく概説を教えてくれるおじさん」で良いと思う。学者としてここまで挙げた人たちと肩を並べるには少し力不足だけど、この本や『これから正義の話をしよう』は、とっかかりとしては適しているのではないだろうか。

サンデルはまずロールズの正義論がどのようなものか解説を始めるのだけど、これは本稿でもすでに終わった話なのですっ飛ばそう。ともかくそんな感じでロールズの主張を整理していくと、コミュニタリアン的には引っかかる部分がいくつか出てくる。つまりロールズは正義論において諸個人に2つの正義感覚を認めているのだが、その一方が明らかにマッキンタイア-テイラーの自己論的な観点からは退けられなければならないものであるというのだ。

ここでサンデルが問題化するのは正義感覚のうち「各人が自分の人生の目的を自分で修正し、生きていくための能力」すなわち「自己目的修正能力」とでも呼べる能力である。すでに2章で確認しているよう、ロールズに従えば市民は自発的に公正な協働システムとしての社会に参画する他方、いつでも自由に自分の人生の目的に修正を加えることができる。他方で、コミュニタリアンが自身の人格形成の場として想定していたのは国家より下位に位置づけられる共同体だった。諸共同体における「善」を包括的教説とし、それが「正(義)」よりも下位の規範と見なされる際(この態度は初期ロールズの”priority of right over good”という言葉に象徴されている)、少なくともテイラーが重視するような「強い評価」としての「自己目的修正能力」はまず獲得されないだろうとサンデルは指摘する。それに加えてこうした「道徳的な深みがない自己」=「負荷なき自己」を有する成員によって構成される社会では、ロールズの理論が志向していた自由で平等な社会の実現すらも怪しいとまでサンデルは批判を続ける。

だいたい最も有名なサンデルの批判はこんな感じ。この次の章だったかで、サンデルはもう片方の正義能力である「互恵性の指向」と契約論的論拠のトートロジカルな関係についても批判をするのだけど、これはぶっちゃけノージックが『アナーキー・国家・ユートピア』で言っていたこととほぼ同じ(ノージックの節で紹介するのを忘れていたけど)内容なので割愛するかな。

ここまでで紹介したような鬼のような論理を構築した人たちと比べると、サンデルの批判はかなり味気ないものではあるけれど、彼が簡潔に論点を整理してくれたおかげで騒動は広まり結果的に政治哲学全体にまで火の手が広がる。そして最終的にはロールズ側に主張の変更を余儀なくさせたわけだ。もうお分かりかもしれないけど『正義論』からその次の論文である「政治的リベラリズム」の間に新しく加わった概念、すなわち「重なり合うコンセンサス」がその変更の結果に他ならない。これもすでに話したことなので細かく解説はしないけど、包括的教説としての「善」とロールズ的「正義」が優劣関係から両立関係にまで改められているのがわかるだろう。

 

サンデルの節はいきなり関係ない話から入ったけど、何を隠そうそれほど書くことがないからなんだよね。いや本当に。まぁコミュニタリアニズムの章はマッキンタイアとテイラーの節で血反吐を出し切ったからここらで終わらせても良いことにしようか。次はマルチカルチュアリズムだ。コミュニタリアンとの差異を意識しながら読むのが吉だよ。

 

6 マルチカルチュアリズム

 ついに6番目のマルチカルチュアリズムに到達した。思えば遠くに来たものだ。功利主義から出発して、リベラリズム、リバタリアニズム、アナリティカル・マルキシズム、コミュニタリアニズム、そんでこれ。前にもどっかに書いた気がするけど、読書と並行しながらこの文章は書かれているので「前書き」を執筆してからすでに1ヶ月半経ってしまった。とはいえこの短期間に政治哲学の原典を17冊、厚めの概説書を3冊とか読了するとか、自分けっこう常人離れしている気もする。そこそこ難解な文献を約2日に1冊のペースで消化しているわけだからね。でもまぁ俺的難解学術書ランキング上位のルーマンとかラカンとかに比べるとこの辺の原典(ただしマッキンタイアてめーはダメだ)は『さかなのスイミー』みたいなもんだしな。なんて感慨に浸っていても前に進めないね。「エンディングまで泣くんじゃない」というやつだよ(”MOTHER”自体は糸井重里が監修しているけど、このコピーは糸井が考えたわけじゃない豆知識)。

 前章で確認したようにコミュニタリアニズムとマルチカルチュアリズムは似ていたけど、前者が倫理や自己論的な問題を俎上に載せるのに対し、後者はよりポリティカルな地平に議論を帰着させているという区別が可能だった。リベラリズムとコミュニタリアニズムの論争はサンデルのおかげで有名になったけど、先述の特徴からより政治哲学的次元においてリベラリズムとマルチカルチュアリズム間も論争を繰り返してきた。すでに2章で解説したように、キムリッカやミラーといったリベラル・ナショナリズム系論客の仮想敵は多文化主義者だったし、ヌスバウムがケイパビリティ概念によって乗り越えようとしたのは「穏当な多元性の事実」を所与とした上でのリベラルな平等原理が抱えた問題だった。加えてそもそも「穏当な多元性の事実」という言葉を使ったのはロールズで、『再説』での「重なり合うコンセンサス」や「政治的リベラリズム」の議論は明らかに多文化主義者への批判に応答している。こうした例からもリベラリズムの心臓を突いた批判は、コミュニタリアンの自我や自己をめぐるものよりも、マルチカルチュアリストによる諸個人の抱える「差異化されたシティズンシップ(differentiated citizenship)」に注目したものだと僕には思えて仕方ならない。

 「差異化されたシティズンシップ」という概念はフェミニズムのところで取り上げる予定のアイリス・M・ヤング(彼女はマルチカルチュアリズムの論者にも数えられている)が提起したもので、所詮マジョリティしか中心的課題にしていないロールズがいうような統一的な正義構想へのアンチテーゼとしての含意がある。つまりロールズの議論では周縁化されてしまった(ように感じる)エスニシティ、セクシャル、宗教などのマイノリティが有する、マジョリティのそれとは差異がある成員資格を意味する。端的にいえば、マルチカルチュアリストとは「差異化されたシティズンシップ」が統一的な原理に回収されるのを拒んだ上で、コノリーやヤングのように異なる政治のあり方を望む主張や、ウォルツァーのように異なる配分のあり方を望む主張を展開していく傾向にあると纏められるだろう。

マルチカルチュアリズムはマジョリティの時代が終わりを告げ、マイノリティに関心が向きつつある現代社会において、極めてホットなテーマの一つであるといえる。といっても日本は人権後進国とかって揶揄されるし、まとめブログに踊らされたレイシスト共が騒いでいるし、男が育休とれば珍しがられるし、同姓婚への風当たりが強いクソみたいな国だから、こうした日本がマイノリティに関心を向けているとする分析には異論を唱えたい人がいるかもしれない。でもこういうことが逐一問題にされてニュースに取り上げられることになったのは、逆を返すと関心を集めている証左に他ならないし、かつてに比べれば数歩ずつだけど前に進んでいるともいえる。凄く楽観的に見ればね。だからそんな異論を唱えたい人にこそ伝統的ヒエラルキーに挑んでいくマルチカルチュアリズムの書籍を読んで欲しいなと思いますお。

 ただし語弊を恐れず個人的見解をいうと、マイノリティのアイデンティティを政治の場に持ち込んでしまうような方策はあまりよいものではない。確かにロールズらの正義の構想には回収しきれない「差異化されたシティズンシップ」は存在するだろうし、ウォルツァーのような穏当な主張ならば賛成だ。無論この時にもう一つの極にある伝統的な権力構造を擁護するつもりもさらさらない。そんなものクソ食らえ。しかしながら、マルチカルチュアリズムのように多様で多元的なアイデンティティが社会に存在している(「穏当な多元性の事実」)という前提に立つのであれば、それを政治の領域で許容していくと政治内部で確実に深刻な対立が生じることは想像に難くないはずだろう。そもそも対立するアイデンティティを問題としているのに、それを単一の領域に集めてどうするのって話だよ。だからコノリーやヤングのようないささかラディカルなマルチカルチュアリズムの主張には納得できないのが正直な感想かな。むしろ、そうした「差異化されたシティズンシップ」が平等に顧慮されるためにこそ、逆説的だけど「統一的な」ルールの構想が不可欠なのではないだろうかね。ウォルツァーみたいに全くの別角度から攻めていくのもよいと思うけど。

 

 

●ウィリアム・コノリー 1991 『アイデンティティ/差異―他者性』

 コノリーはデビュー当時オースティンやウィトゲンシュタインといった分析哲学を用いた政治哲学を展開していて、ウィトゲンシュタインが「言語ゲーム」の概念で表現したような状況志向的言語使用などを論拠に政治(学)を「本質的に論争的な概念」と評したことがあった。

またこの本あたりからコノリーは自身のことをニーチェ-フーコー主義者だとも標榜しており、これも先の話から地続きの関心に基づいていると考えられる。ニーチェは「善悪」に、フーコーは「狂気」、「真理」、「性」などの概念に対して系譜学的な眼差しを向けており、結果彼らはそれら概念の自明性が、実は社会の成員の慣習や日常的な態度によって構成された虚構に過ぎないことを看破した。前章に登場したマッキンタイアやテイラーといったコミュニタリアンも自己ないしは自我の系譜を遡行し、その現代的あり方に一石投じたためニーチェ-フーコー主義者的といえるかもしれんね。

こうした分析哲学と系譜学的アプローチは、出自は全く異なるものの日常的実践の知識の自明性を疑う点において共通している。これは一般に「社会構成主義(social-constructionism)」と総称される立場(ちなみに去年の読書マラソンでは社会学のこれがテーマになっている)で、構成主義(構築主義とも)は境界線がかなり曖昧なカテゴリーではあるけど、少なからずある概念が持つ絶対性を崩壊させてしまう志向性がどんな構成主義にもあるため、このアプローチをとる人に何らかの相対化の当為が見え隠れしているのは間違いないだろう。

 さて前置きが長くなった。要点は分析哲学やニーチェ-フーコーを持ち込んだコノリーの政治哲学があらゆる政治(学)的立場から優位性を剥奪し、いささか過剰ともいえるくらいに相対化してしまうものであるということだ。それはさっきの「本質的に論争的な概念」といった表現にも端的に顕れているだろう。ジャンプとかに連載されている少年漫画ならば「能力無効化系能力者」って感じかな。しかし、この「能力無効化系」「能力者」という言明はなんとなく矛盾している気がしない?そしてこれが「政治学無力化系」「政治学者」だったらもっと変な感じがしてくるでしょ?そう「政治学無力化系」という言明部分と「政治学者」という言明部分がいわゆる自己言及性のパラドックスに陥っているのである。あえてコノリーが好きな分析哲学から援用するならばサールの「嘘つきのパラドックス」(知らない人はwikipediaへ)の構造に似ているね。そしてこの内包されたパラドックスにこそ、コノリーひいてはラディカルなマルチカルチュアリスト最大の弱点があると思う。僕は倫理的相対主義というものが少なくとも伝統的権力構造と同じくらいには嫌いなので、本節では特にマルチカルチュアリズムが陥りやすい相対主義の罠とそれを政治哲学で表明すること空虚さへの批判についても解説できたらいいな。そうそうヌスバウムも「若人は相対主義にひっかかりやすい」(大意)って言っていたよ。

 最初に紹介したように本書の第1章はニーチェとフーコーの話だ。ニーチェ-フーコー的構成主義はその後ハッキングなどによってよりシステマティックな方法論として改良・継承されていくことになる(去年の読書マラソンではこの話までも網羅しているんすよw)のだが、コノリーが注目するのはそうした方法論的特性ではない。そうではなくて彼によればニーチェ-フーコー的視座の利点は、支配的アイデンティティの全面化によって被支配的アイデンティティが周縁化されてしまった事実やその瞬間、そして周縁化が社会的な関係性の中で行われていることを明らかにできる点にあるという。この2人は僕もけっこう読んだけど、ニーチェもフーコーもカントやロールズのように規範倫理学的な問いを立てて向き合った学者ではない(そこが魅力やで)。むしろその問いが内包する不可能性を見極め、徹底して挑んでいった2人の姿勢が、コノリーの自明視されている支配的アイデンティティが歴史的・社会的構成物に過ぎないことを暴く目的と合致したというわけなのだろう。ではお膳立ても終わったことだし、本書のメインテーマである「アイデンティティと政治」をめぐる問題についてコノリーの考察を見てみよう。

 一般的に個人のアイデンティティはいくつかの多様で複合的な要素が結合することによって構成されている。つまり男性、女性、異性愛者、同性愛者、アメリカ人、ドイツ人、インドア派、アウトドア派、警察官、殺人鬼……などの「確定記述」の束こそが各々のアイデンティティに他ならない。まぁここはテクニカル・タームを使っているけど、そんなに直観に反する話でもないだろう。これも経験的な事実から分かる話なのだけど厄介なのは、これらの多様なアイデンティティは「攻撃的なもの/被攻撃的なもの」、「承認されているもの/いないもの」、「他人を脅かすもの/脅かさないもの」などといった具合に様々な対立軸から競合して存在していることだ。 

他方で、先述のようニーチェやフーコーからすればいかなるアイデンティティも社会的な構成物に過ぎず、神や自然といった超越論的他者から賜ったものなどでは(当人がそう思っていても)決してない。このことはアイデンティティを他人によっても認められるかたちでは(何らかの超越性を論拠として)特権化をすることはできないことも同時に意味する。ゆえに現実世界に見られるようなアイデンティティの競合関係において、社会的に優位かつ支配的とされるアイデンティティには、何らかの(フーコー的な意味でない)権力が恣意的に刻印されていると考えられるだろう。

また優位/劣位は常に相対的な尺度であり、アイデンティティの場合も例にもれない。つまり優位であるアイデンティティが存在するということは、他のアイデンティティがどこかで劣位に置かれている。だからこそ、優位なり真なりといったアイデンティティを獲得することは多様な差異を「他者性(otherness)」として見なすことにつながるし、逆に差異に対して誠実であればアイデンティティの優位性には無頓着かつ「他者性」も問題にはならないはずだ。コノリーはだいたいこんなこと言っていましたよ。ここで少し留意点なのだけど、本著のコノリーが「他者」というとき、だいたい否定的文脈で出てくる。多くの多文化主義者には他者性を肯定的な概念として用いるのでややこしいけど、コノリーのいう「他者性」とは異なるコンテクストによって規定された「悪」のことを意味していて、例えばキリスト教が悪と見なす異教徒をより観念的存在にしたのが「他者性」となる。アイデンティティの差異を許容できないとき、人は異なるアイデンティティを有する人やその社会集団の特性を一元化・本質化しがちである。「在日は○○だ」とか「オタクは○○だ」みたいなね。この一元的に匿名化された「他者」こそ、「悪」が外部化される際の帰属先として機能しているといえるだろう。この辺は排除型社会を生きる我々からするとけっこうアクチュアルな議論だと思わないかい?というかコノリーがここで引き合いに出しているのがアウグスティヌスさんなので、それから1700年近く経ったのに人間って全く成長してねぇなってなるよね。ぐだっているけど「超越論的他者が決定したわけではない/社会的に構成されている」はずのアイデンティティは、諸個人の間に差異を生み出し、ともするとその差異がさらに「悪」の宛名である「他者性」を産出してしまう。これは非常に由々しき事態だ。なんとかしよったい!(博多弁)というのがここまでの要約だ。次からはこれらの前提を踏まえて、コノリーがロールズ的リベラリズムに喧嘩を売っていくのを見てみよう。

 何度も書いているよう、アイデンティティ/差異はいかなるアプリオリな本質性を備えておらず、そのすべてが社会関係の中において構築されているとのことだった。ここで問題になるのがリベラリズムの想定する政治的アイデンティティである。カントは前書きで解説したように、「彼岸の国」といった形而上学的領域を持ち出すことによって、定言命法としての倫理の正当化に成功した。しかし、コノリー的にはこれはまずい。とてもまずい。というのもカントの見解は彼の義務論において、その倫理に従う者たちのアイデンティティは超越論的他者(そもそも「超越論的○○」という言い回しがカントから始まっている)によって規定されているという論理的帰結をもたらすからである。社会構成物のアイデンティティをこんなかたちで優位に立たせるなや、っていう話だからまぁカントとコノリーは相容れないだろう。

しかし問題はむしろロールズである。これも前書きにあるようロールズの功績の1つはカント的義務論に対して原初状態と反照的均衡の2つを武器にして、これを形而上学的領域から引き摺り下ろすことに成功した。ゆえに少なくとも言葉の上ではデウス・エクス・マキナとしての超越論的他者を召喚せずに倫理的教説を正当化できているため、コノリーとは衝突しない。しかしながらコノリー的にはやっぱりダメで、けっきょくは存在神学的伝統をロールズも回避できていないと本書で主張している。というのも、ロールズ的リベラリズムが想定するような個人のアイデンティティは、その設定段階ですでに特定の諸価値が注入されていて(正義感覚とかの話だと思う)、差異の政治には無頓着な人格として考えられているからに他ならない。これはやはり不当な特権化だというわけだ。

コノリーがこのように「神なるもの」を拒絶するのはやはりニーチェの主張に多くを負っているからだろう。こないだ板垣恵介っていうバキの作者さんが挿絵を書いている『史上最強の哲学入門』っていうクソ頭悪い本(内容はそこまで悪くないッ!)を読んだのだけど、その本でニーチェは「神を殺した男ッ!」とかって煽り文が書いてあって笑った(ちなみにバキには元ネタ「虎殺し」が登場する)。で、実際のニーチェも『ツァラトゥストアは―』で「神は死んだ」という超絶有名なテーゼを出しているし、『反キリ』や『善悪の彼岸』みたいにキリスト教そのものに対して喧嘩売っている著作も多数ある。いかなる超越者を認めず、存在の多元性・多義性に対して徹底して無神論者を貫くまさに「超人」的姿勢。コノリーが参考にしたのはニーチェのこういうスタイルだったのだろう。

コノリーはここからさらにマッキンタイアやテイラーなどのコミュニタリアン的な共通善の政治においても、善が共同体内部の複数性を捨象し、単一的な各人の生しか許容していないとして批判する。彼にとっては従来的なリベラリズムもコミュニタリアニズムもアイデンティティと差異を肯定していない点では同様なのである。そして差異のパラドクスの公的な表現場所こそが政治であり、そうした政体が支持されている社会こそよき社会であると結論付ける。

 各人の差異を肯定し、政治の場でこそ多様なアイデンティティを表出させるべき。いい話じゃないですか。話だけ聞けばな。ここからは僕のターンだ。冒頭で予告していたようにコノリーに徹底論駁を試みる。はっきりいって彼の「差異の政治」みたいな構想がめちゃくちゃ嫌いだ。この極端なまでの嫌悪感は学部のときにこういう相対主義を掲げたクソな奴らほど原理主義的傾向が強かったという個人的経験に基づいている。だからぶっちゃけ江戸の敵を長崎で討つ以下の話ではあるが、しかしコノリーてめーは俺を怒らせた(ここでスタープラチナが時を止める)。 

 まずだ。まず相対主義というものがどういうものかを確認しておく。一応言っておくが自身の思想信条として相対主義を掲げる学者はまずいない。批判される文脈で使われるからね。まぁこれも一口に言っても多義的な概念ではあるが、一般には特権的な倫理や立場といったものを否定し、それぞれの包括的教説を今風にいえば「ヨコナラビの差異」として捉える立場である。神も正義も存在せず、あるのはただ金子みすゞ的「みんな違って、みんないい」世界。特権的立場が存在しないということは僕も認める。ていうかデリダにしろ、ロールズにしろ、ルーマンにしろ、昨今の社会科学のメジャーどころは少なからずこういう前提に立っている。

 しかしだ。政治哲学、特に規範理論は文字通り特定の規範や倫理を正当化する学術的領分であり、冒頭に書いたよう主張は何らかの提言(sollen)の形式をとる。それがリベラリズムのものでも、コミュニタリアニズムのものでも、アナリティカル・マルキシズムのものでも、リバタリアニズムのものでもそれが規範理論である以上一様に結語が「~べきだ」となるはずだろう。そしてコノリーも今見たような様々な論拠から「差異を肯定すべきだ」という結論に至っている。ここで僕は問いたい。特定の主張や立場や教説を特権化できないと考えるあなたが、どの面下げて「べき」論を述べているのか、と。

当為論は例外なく禁止ないしは強制を志向する。しかし相対主義と批判されても致し方ない主張を他方でしているのならば、究極的にはあらゆる禁止や強制に関する言明は行えないはずであるし、それが効力を持たないということを論者は「知っている」(すでに相対主義に含意される)。ゆえにコノリーの主張は自己言及的なパラドックスを陥っているといわざるを得ない。

ここでコノリーはニーチェ的な反存在神学的前提に依拠しており、強い意味での義務論的主張を行ってはいない点で、カントやロールズとは一線を画しているとする擁護も可能だろう。だがこうした擁護は悪手に他ならない。というのはこの擁護に基づくと本書におけるコノリーが「何も言っていない」という論理的帰結が導出されるためである。すでに見たように彼は差異の政治を検討する過程でロールズらを批判した。仮にこれが何らかの義務論的志向性を持たないとしたとき、

(p)差異の政治が「穏当な多元性の事実」という前提に立った主張である以上、自身の提言もまた包括的教説の一部に過ぎないことはコノリーにとって自明である

(q)「穏当な多元性の事実」において、あらゆる教説やそれに基づくアイデンティティに優劣は無いとコノリーは考えている

(r)ゆえに自身が行うロールズへの批判が有効ではないことを暗黙裡に認めている

これはコノリーが本書を執筆したという事実と矛盾する(真に意味がないと感じる行為は自発的に行われない)ため、先の擁護は空転することになる。他にも想定される反論がいくつかあるけど、そのどれも脳内で片をつけた(死屍累々である)のでここでは書かない。なにか強力な擁護論があるなら是非お聞きしたいね。

 ……なんて頭にだいぶん血が上っていたけど、普段「社会の多様性ガー」って壊れたおもちゃみたいに繰り返している奴らが自身の主張が受け入れられない他者を排除し、また自身の主張を特権化して人に強要する様を僕は大学で嫌になるほど見てきた。本当に嫌になるほど。しかし、彼らを批判すると、「お前は多様性を許容しないのか」の一点張りが返ってくる。もうね「俺がお前の頬を全力で一発ぶん殴る多様性」を許容しろって思ったね。そのときは。

 無論コノリーはそんなゲロ以下の臭いがプンプンするカス共とは次元が違うのはわかっている。しかしながら、抱えている問題はやはり相似形であるように僕には思えて仕方ならない。冒頭に書いた「政治学無効化系」「政治学者」は成立しないんだよ。きっと。それにラーメンを否定しているラーメン屋さんなんて行きたくないでしょ?

 

 

●マイケル・ウォルツァー 1983 『正義の領分』

 リベラリズムの最後のところに書いたよう、今回の政治哲学マラソンのスタンスとしては「書籍として楽しむ」が最優先事項だった。だから論理的に見て正当性云々みたいな評価を下したりはするけど、それはあくまで机の上の話であって、現実にいずれかの諸立場が実効力を握ったりはして欲しくない。ただし、ウォルツァーの議論だけは少し事情が異なっていて、社会学をこれまでやっていた自分としては一番この「正義の領分」に真理性を感じたし、ここで語られているような配分原理が政策に取り込まれても積極的に賛同すると思う(まぁ政策決定には反映しにくいか)。なんというかとってもルーマン(社会学者ね)やEM(社会学の立場ね)くさいところが好きなんじゃよ。この辺の理論的接続を検討しているような論文は英語を駆使しながらネットの海に潜っても全然見つからないから、割とマジな話しっかり吟味して一本書けばけっこう新規性あって面白いと思う。ルーマンとEMはここ数年(一部で)ブーム到来中だし、そこに少しマニアックなウォルツァーを繋げていけたら面白いと思うんだよね。何より何度も書いているように政治哲学は経済学や法学と繋げられることは多くあっても、社会学とは未だに邂逅していないとして差し支えないからね。この節ではその辺の展望も示しつつ解説していこうかな。

 ウォルツァーによる「正義の領分(sphere of justice)」の議論はとてもシンプルな発想に基づいている。何かの社会経済的財が配分される際、そのニーズの多様性は常に政治哲学者の頭を悩ませ、それぞれ独自の回答を提示させてきた。功利主義のような帰結主義的アプローチではそもそも多様性の問題に太刀打ちできなかったのだろうし、ロールズは基本善によってこれを克服した(とされる)。さらにセンやヌスバウムといった人たちが自由そのものを保障していく指針、ケイパビリティ・アプローチを提案したのもすでに2章で見たとおりだ。一方、本書の冒頭でウォルツァーはニーズが多様であることによって生じる問題に目を向ける。

 曰く、財の力関係が不均衡であると問題が生じてしまうらしい。すなわち、ある財aに対して他の財bが「優越(dominant)」の関係にあるとき、財aを選好する社会集団が不利になってしまうのである。いまいちピンとこないね。もう一つ具体的な例を引き合いに出そうかな。社会集団Xと社会集団Yがいたとします。Xは所得の配分を、Yは何らかの事情によって「信仰の自由」の配分を選好します。このとき「所得>信仰の自由」という優越が認められてしまうと、Yは明らかにXより顧慮されていないことになる。おわかりかな?ともかく、こうした諸財の間にある「優越」を取り払い(諸財間にある価値や意味をそれぞれ切り離し・独立させるといった記述も可能かな)、それに準拠して配分のための「正義」をそれぞれの「領分」に分けてしまいましょう、というのがウォルツァーの根底にある発想だよ。多様で多義的な社会集団を想定している点において、彼がマルチカルチュアリズムの論者に数えられるのも理解できるだろう。

 ポイントはウォルツァーが財の「独占(monopoly)」は別に問題にしていないこと。ここでの独占とは日常的な意味での独占。文脈に即して言えば「希少性のある特定の財を特定の社会階層が占有してしまうこと」だね。従来的な配分原理が問題にしてきたのはこちらの独占の方だった。例えばロールズ的リベラリズムは、特定の社会階層による財の独占をまとめて基本善やケイパビリティの配分によって解消してしまう発想であり、これは悪い発想ではないけど、

①財の独占を解消したところで、また異なる財が独占されてしまう(つまり堂々巡り)

②財の配分を決定する「政治権力」それ自体もまた重要な社会的財であり、彼ら的には独占されてはならないはずである

の2点を論拠とし、ウォルツァーは優越の解消を目指す理論にやはり道理があると判断している。また従来的なリベラルの正義が「単一なる正義」と呼べるものであるのに対し、ウォルツァーは自身の構想を「複合的正義」と名付けてもいるよ。

まだポイントはいくつかあるのだけど、だいたい以上が「正義の領分」の基本構想かな。とてもシンプルゆえにディープといった印象の理論だろう。個人的にはこうしたぱっと見単純なのに、実は可変性に富んでいるような理論や構想にエレガンスを感じるね。本書は序章でこうした基本的な話をして、2章以降は優越を無くすべき社会経済的財を一つの章ごとで事細かに考察していく構成をとっている。だからそのうちいくつかピックアップして紹介しよう。

まず2章に登場する財は「成員資格(membership)」で、ウォルツァーは優越をなくせとか言う割にこの成員資格に関してはいささか特権的な地位を認めている。最初にして、いきなり例外の登場というわけだ。しかし成員資格は「他のあらゆる社会経済的財の配分を決める資格」を財として定式化したものであるため、その特性上しゃーないっちゃしゃーない(むしろ2章にいきなり登場したのも今後の議論の前提になるからだ)。

成員資格を獲得すると当該社会における相互扶助に加わる義務が生じる一方で、配分を獲得する権利を持つことができるようになる。逆を返すと、この資格がない「部外者」は相互扶助に加わらなくてもよいが、配分を受ける権利もないということになる。これは移民といった外来エスニシティの権利を考察するにあたり、とても重要な論点になるので確認しておいたほうがよい。というかマルチカルチュアリズムの文献紹介ってコンテクストでこの話をしているし、ウォルツァーがいくつか提示している移民の例もここで解説しようか。

まず「移民」とはどのような人たちだろうか。以下の亡命者のように非自発的になる人もいれば、外国人労働者のように(半)自発的になる人もいる。また時事ネタを挟んでおくと最近(書いているのは2015年の9月末くらい)、シリア紛争が激化してヨーロッパに大量の移民がなだれ込んでいるというニュースをよく見るようになった。ドイツとかでは特に国粋主義者を標榜する人たち中心として移民の排斥運動を活発化させており、その点でも移民と成員資格の問題はアクチュアルだといえるだろう。ウォルツァーは移民に対して一概には社会的財としての成員資格を認める必要はない、とここでは書いている。というのも彼らの選好は「移民」として人括りにはできず、ゆえに「単一なる正義」による訴えとは異なり、必ずしも成員資格の保障が約束されることはないというわけだ。「Youは何しに日本へ?」への回答はそれぞれなのである。つまるところケース・バイ・ケースなのでさらに以下の細分化した例を見てみよう。

まずやむを得ない「移民」すなわち「亡命者」の場合だ。彼らはまさに紛争から逃げてきた人たちなどが含まれており、全体集合である移民の一部を構成している。ここで留意しておくべきは、亡命者はそもそも元に居た国で成員資格を認められないから亡命してきているということだろう。例えば命の危険による亡命であっても、それは社会的財としての「安全・福祉」を配分する権利(つまり成員資格)が保障されていない事態と言い換えが可能であり、ゆえに彼らには元の国家に対して十分に成員資格配分への不服があったとすることができる。亡命者は紛れもなく成員資格を要求しているのだ。ウォルツァーはこの問題に関し、彼らが非自発的な選択によって資格を剥奪されていること、彼らの排斥は当該国家の間接的な肯定につながること、そして十分に受け入れ可能な人数であることの3点から配分を認めるべきだと主張する。しかし、このうち3点目は少し楽観的というか、それこそシリアのような大規模な紛争が起こった場合には当てはまらないのではないか、って思ったよ。たぶんシリアの一件はこれからもっと増えるだろうし。

次に「外国人労働者」の場合だ。彼らも一元的にくくれない人たちで、積極的な選択肢として海外に出ている人たちもいれば、出身の国家がとても貧しいため消極的選択で出稼ぎをしている人もいるだろう。大昔アテネでは、外国での労働を当人たちの選択結果と見なし、成員資格を付与しなかったとされている。これも一つの指針としては有りだが、現在のグローバル化社会において、外部労働力に依存せずにやっていける先進国はおそらく存在せず、外国人労働者を仮に切ってしまった場合、国家も不利益を被ることになる。この点において外国人労働者と彼らが在住する国家は相互依存的な関係にあり、ウォルツァーの主張に従えば外国人労働者(特に長期に渡って滞在する場合)には成員資格を配分する義務が当該国家にはあることになる。

とまぁそんな感じ。他にも「在留外国人」の話があったけど気になるならあとは自分で読んでくれたまえ。僕は説明するのに飽きた。ともかく最初に書いたようにウォルツァーが複合的正義を考えるにあたって、成員資格にのみ唯一の特権性を与えているということが何より肝心なことだ。共同体が共同体である以上、社会経済的財の配分問題(「¬配分する」も含む)は不可避の条件であり、これを考えなければ他の全ての話ができないためである。

そんな感じでウォルツァーは章ごとで一つの財の優越や配分について考えていく。他にも「安全・保障」や「公職」などや、ユニークなところでは「辛い仕事」や「自由時間」といった社会的財の検討にまで及んでいる。ルーマンの話とかもしたいし、全部取り上げるのはめんどうくさいのでアレだけど、「政治権力」か「教育」の章は紹介しておこうかな。……いまコインをトスしたら「教育」になったのでそちらを整理しますね。ウォルツァーはこの2つの配分-優越の除去に関してはかなり神経質に気を使っている(つまり重要な話だよ)。

ウォルツァーによれば、教育の機能とは次世代への社会規範の伝達である。このように書くとレシピエントである子どもに対する配分の問題に聞こえるが、『屋根の上のヒレル』の逸話(ウォルツァーが例示したけど初めて聞いた)にあるように教育者側が優秀な子どもを求める場合も想定でき、ゆえに送り手に対する教育機会の配分が検討される必要があることになる。また自発的な社会参画を促すよう教育は努めなければならないが、当該国家の当為に基づくものであるため、複合的正義の観点からすると公平かつ民主的な内容の教化が行われなければならない。またさっきちらりと登場した「公職」の配分を吟味する際に問題になるのは世襲制が挙げられるが、こうした親の権力関係が介入することも望ましくない。「公職」という財と「教育」という財の間に優越が生まれてしまうからね。

「教育」配分の論点はこんな感じかな。最後になぜこれが(現象学的)社会学と親和性が強いのかって話をして本節を締めよう。まぁ個人的な関心にしか基づいていない話ではあるけど、ここは僕のサイトで、いわば僕の「正義」が適用される「領分」だからね。自由にやらせてもらおう。

現象学的社会学というのは文字通り現象学と社会学を結合させた立場で、最初にこの方向性を打ち出したのは前章のテイラーが参考にしていた哲学的人間学を提唱したマックス・シェーラーとされている(僕はこの見解にめっちゃ反対しているけど)。いろいろ拾うべき要点が多いのだけど、簡潔に整理すれば「当該社会における行為者の内在的視点から社会学的な考察をしていきましょう」みたいな感じかな。ざっくりし過ぎか。というか去年の読書デスマラソンで現象学的社会学の文献の有名どころはだいたい網羅したのでそっちを参照してくださいお。ともかくいろいろあって現象学的社会学の系譜における、比較的現代のところでルーマンって人が出てくる。彼を現象学的とするかについては賛否あるけど、『社会構造とゼマンティク』って鈍器みたいな本で、現象学に多くを負っているって明言していたはずなので悪いがこれには異論を認めない。

そんでルーマンによれば近代始まったあたりから全体社会における複雑性が飛躍的に増大し、その縮減のために全体社会は個々の部分社会に機能分化したという。そして複雑性の縮減-機能分化が進行した結果、教育システムや経済システム、科学システム、宗教システムといった異なるコードに準拠して自己準拠的に駆動するゲゼルシャフトレヴェルのシステムが観察されるようになった。これらはそれぞれ独立しているため、あるシステムからあるシステムへの直截的な干渉は不可能であり(外部の参照はシステム/環境間の差異としてシステム内部において反復的に経験される)、その点において政治システムによる統一的規範の不可能性を示唆している。

なんのこっちゃかな。まぁルーマンは難しいからね。そんでこの「機能分化し、固有の駆動を見せる諸社会システム」っていうルーマンの構想から、ウォルツァーの「正義の領分」に繋げられないかなって思ったわけ。「システム」と「領分」ってなんとなく字面が似ているし、現に2人の発想はけっこう近いって僕には思える。例えばウォルツァーは『正義の領分』の最初の章で、ある領分にとって必要とされる財を理解すればその領分を希求する社会を理解したこととほぼ同義みたいなこと書いていて、一方でルーマンもシステムを理解する際に当該システムにおける「象徴的に一般化されたメディア(二値コードの準拠点)」を理解しておくことが大切ぽよみたいなこと言ってるわけ。確かにメディア概念と財の概念を短絡的にイコールで結ぶようなことはできない。しかしながら、特定の「何か」によって環境ないしは別の領分との間に差異を生み出し、独自のシステムないしは領分を構成している、って発想はやはり近しいって思うんだけどなぁ。いっそ誰かに論文にしてほしい。

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