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5節 90年代前半編

 

1項 団塊ジュニアの登場

80年代末頃から「若者語り」では新人類世代の次にくる世代区分―団塊ジュニア世代の議論がにわかに交わされてきており、90年代に入ると学術的な若者研究でも団塊ジュニアの分析がなされるようになった。

団塊ジュニアとはその名の通り、第二次ベビーブーマーつまり団塊世代の息子・娘を中心に構成される世代であり、いつの頃から使われるようになった語ということに関しては諸説あるが、一般に日本能率協会による『感性時代のニューシーンメーカー 団塊ジュニアの総合研究』(1985)の中で初めて使用されたと言われている。

「語り」の特徴としては(良い意味でも悪い意味でも)大人文化にもてはやされた新人類とは打って変わって、どちらかというと否定的な見解が目立つものとなっている。例えば、当時の大阪読売新聞(92年3月6日付)にはこんな記事が掲載されている。

 

(「預けた漫画を勝手に捨てた」として母親らを訴訟した息子=団塊ジュニアについて)…最初の漫画世代といわれた団塊の世代層はいま40年代半ば。そして新人類の30代前半を経てフリーターである原告(25)の年代には、団塊ジュニアの珍人類がいるそうである。80年代からの人手不足時代、空前の売り手市場に『思ったことかな適わぬ話はなし』とちやほやされて珍奇極まりない言動に出る種族を言うのだ。

 

こうした言説が見られる他方で、新人類世代同様に消費の側面から団塊ジュニアの実態を捉えようとする試みもあり、『アクロス』92年6月号によれば、団塊ジュニアたちは80年代後半あたりからすでに強力な消費予備軍として注目されており、マーケターたちは「親子消費」や「インターナショナル志向」「リバイバル志向」などのライフスタイルの側面から商業戦略を企てていたようだ。同誌では「親子消費」ターゲットとした例として、92年に改装オープンした大丸(京都店)を挙げており、その改装のねらいは団塊親子(母娘)を対象とした有名ブランドの単品を組み合わせた婦人服売り場だったと分析している。

団塊世帯との関係性から団塊ジュニアたちの特性を把握しようとする試みはなにも消費の領域に限ったことではない。例えば博報堂が91年に日経新聞に掲載した記事では「かつては全共闘世代と呼ばれ、社会に反発していた団塊世代だが、家庭を築く団塊でマイホーム主義を掲げ、家族との接触はそれより上世代より格段に多かったといわれている。そうした親のもと、団塊ジュニアはアットホームな家庭環境の中で成長し、なんでも家族と共同するのが自然になった。『全共闘世代』が『全共同世代』を生んだといえよう。」とった記述を確認することができる。この記事は比較的ニュートラルな語り口ではあるが、団塊世帯―ニューファミリーに対する否定的な意見も数多く見られ、93年に内閣広報室が行った調査によると、「最近は家庭のしつけなど教育する力が低下している」という質問に対し、そう思うと答えた者の割合が全体の75.0%(「全くその通りだと思う」31.1%+「ある程度そう思う」43.9%)で、88年の調査結果と比較すると11.7%も増えている。また同調査で「家庭の教育力が低下していると思う理由」として挙げられたものは「子どもに対して、過保護、甘やかせや過干渉な親の増加」が64.9%で最多で、この結果からは団塊世帯に対する批判的な眼差しを窺うことができるだろう。

併せて当時は青少年の逸脱行為が注目を集めていた。これを受けて1992年に内閣府が実施した調査では「一番大きいと思う青少年の問題行動」という問いに対し、「シンナーや覚せい剤などの乱用」が最多の28.6%、以下、「いじめ」(23.2%)、「家庭内暴力」(9.9%)、「登校拒否やひきこもり」(8.2%)の順に回答者が多い。同調査の「青年の非行などの問題行為はどこに原因があるか」という質問に対しては「主として家庭」と答えた者の割合が39.9%と最多で、また「青少年の問題の原因」として挙げられたものは、「ポルノや暴力の多いテレビ番組」こが50.1%ともっとも高く、これらの調査結果には4節2項で言及した、女子高生コンクリート詰め殺人事件、連続幼女誘拐殺人事件の報道および、それに対する一連の言説の流れが大きく影響していると考えられる。

 

 

2項 コミュニケーションの希薄化言説

教育学者の千石保は『「まじめ」の崩壊』で、当時の若者にいびつな「優しさ」を見ており、表面的にはディスコやロックライブで「ノリつつ」も、一方では同調圧力におされ「いじめ」に加担してしまうある種の「冷酷さ」から、「今の若者たちは「やさしい」のだが、それは友人と距離を置いていて、無難に、傷つかないようにしているだけであり、本当は「保身的」で「冷酷」で「残酷」な一面を持っている」と指摘している(千石 [1991])。またその「冷酷さ」や「残酷」な一面が事件として顕在化とした例として、89年の女子高生コンクリート殺人事件や同年の連続幼女殺人事件を挙げる。千石はこうした若者の「変貌」を、「モダン的/ポストモダン」という差異に基づいて分析しており、従来的な機能主義的思考(モダン的)では理解できない、「無意味に感じてしまう」現象・事件でも、そこにシンボリックな「意味」があればポストモダンを生きる若者たちの感性は満たされるのだという。

また本書では若者の「人間関係の希薄化」についても言及しており、先のような「やさしさ」の例として、「身体の清潔」志向から「……髪を洗って相手に好意を持たれようとし、あるいは少なくとも不快感を与えない「やさしさ」「気遣い」を持っている。が、その相手と「裸」のつきあいをしようとしない。これが、現代若者の「親友」関係である」と分析している。千石によると、こうしたプライバシーを過剰なまでに表出しない態度は他の局面にも見られ、例えば「親友」の悩みの相談では表層的には対話しているような態度を見せつつも、「もう一歩突っ込んだかかわり合い」は忌避する傾向に対して「相手の主張を認めてやりすごすやり方は、相手の立場を尊重するようにみえて、その実、冷酷な無視ともいえる。相手の立場を認めるやり方は、「やさしさ」と呼ばれているようだが、それは本当のやさしさではなく、無関係として一線を画する冷酷さである」と否定的な見解を示している。

時期を同じくして、教育社会学者の門脇厚司も若者の「人間関係の希薄化」を取り上げた著書を発表している。『子供と若者の<異界>』では、千石と同様に「若者変質」の例として、89年の女子高生コンクリート殺人事件と連続幼女殺人事件を挙げ、両事件の同列の「新種の若者」特有の傾向として「毎朝シャンプーしないと外に出ていく気がしない」、「結婚しても相手のからだに一切触れようとしない」「大学入って授業には出るがコンパとなるととたんにおじけづいて落ち込んでしまう」といった諸例を列挙する(門脇 [1991])。そうした「新種の若者」に共通する意識として、門脇は「若者たちの心の中からスッポリと他者が抜けて落ちているように思えてならない」とし、その上でこれらを「嫌人現象」と名付け、その証左として「結婚離れ」といった現象のデータを提示している。

真偽性はともかくとして、千石や門脇のような「若者の内向化・人間関係の希薄化」言説は90年代前半あたりから若者研究においてもしきりに唱えられるようになり、以後長きにわたり再生産されていくことになる。

 

 

3項 コミュニケーションの高度化言説

若者のコミュニケーションに希薄化の傾向を見て取った千石=門脇だったが、同時期に同じ新人類ジュニアを観察対象と据えつつ真逆の見解を示した若者論客もいる。

岩間夏樹は宮台真司との共同研究を援用しつつ『戦後若者文化の光芒』の中で団塊ジュニアを団塊世代―新人類世代との連続性から捉える試みを行っている(岩間 [1995])。岩間=宮台によると、団塊世代は「世界」を「解釈」―「世界」の「複雑性を縮減」のための「関係性モデル」は「世代コード」―連帯だったが、連帯のリスク上昇によってそれは衰退し、新人類的な「関係性モデル」である「個別コード」―消費に代替されるようになったというが、消費社会の加速により「複雑性の縮減」を目的とする消費行動自体が「複雑化」してしまい、新人類の共有するコードも凋落していく。そして、その凋落の先に登場するのが団塊ジュニアたちである。

しかし岩間は本書の中で「団塊ジュニア世代文化は今の時点ではっきりとした形をなしてない」と記述しており、団塊ジュニアたちの社会性やメンタリティをここでも宮台との研究を参照しつつ「新人類世代の相違」から捉えようとする。宮台は『サブカルチャー親和解体』の中で新人類世代の消費行動を通してその人格システムを5つの類型に区分しており、岩間の分析を理解するためにはこの類型がキー概念なので以下のところで簡単に紹介する[1]。

 

①ミーハー自信家……高度な情報処理能力を用いて、期待水準を自在に変更する、柔らかいシステム。「期待外れの対処」は「学習的適応戦略」。

②頭のいいニヒリスト……期待水準を万事低めに設定することで、期待外れに対する免疫を獲得するシステム。「期待外れの対処」は「負の先決戦略」。

③バンカラ風さわやか人間……期待水準を万事高めに設定し、期待外れには当為的・規範的に対処するシステム。「期待外れの対処」は「正の先決戦略。」

④ネクラ的ラガード……期待外れが生じる領域―とりわけ対人関係―から退去する非活動的なシステム。「期待外れの対処」は「退却戦略」。

⑤友人よりかかり人間……近隣の活動的システムに追従する、模範的システム。「期待外れの対処」は「模範的戦略」。(宮台 [1993:223])

 

岩間=宮台は統計調査のデータから86年の若者と92年の若者での上記の人格型における割合の推移を明らかにし、それによると①「ミーハーとバンカラの激減(ミーハー:30.0%→8.4%、バンカラ:18.4%→4.8%)」②「ヨリカカリとニヒリストの激増(ヨリカカリ:13.0%→45.8%、ニヒリスト:16.8%→21.1%)」③「ネクラの増減なし(21.8%→19.9%)」といった3つの傾向が確認された。このデータから、特に本書では「ヨリカカリの増加」が団塊ジュニアの「寂しがり屋」な側面を、「ニヒリストの増加」が団塊ジュニアの「合理主義的」な側面を反映しているとし、その分析に力点を置く。また、上記の新人類世代と団塊ジュニア世代の比較意識調査も行っており、その回答から団塊ジュニアは「親密な友人以外との対人関係における好奇心が乏しい」といった解釈を導き出している。

この解釈は80年代おたく論で繰り返し述べられた「仲間内での親密なコミュニケーション/仲間以外に対する排他的・内向的なコミュニケーション」という分析と極めて近しいものであるといえるだろう。岩間はそうした二面性のあるコミュニケーションの原因として、団塊ジュニアには団塊世帯(ニューファミリー)での親子関係が要求するドラマトゥルギーの作法が身体化されており、それは「その時々のノリをつかんで、うまくそれにあわせていかなくてはならない」といった精神性として顕在化し、「そういう訓練を団塊ジュニアは家族の日常として育ってきた」ことを挙げる。

また岩間が参照する宮台自身も団塊親という切り口から問題視されていた団塊ジュニア―「援交女子高生」を考察している[1]。宮台はやはりニューファミリー内部で「高度なロールプレイング」能力が身体化された「制服少女」たちは、コミュニケーションにおいて際限なき「場の適応」(「友だち親子」としての自己/「変なオッチャン」に写真を撮らせる自己)を見せると分析しており、また彼女たちの親世代である団塊世代が、かつて既存の文化や道徳を否定し、相対化した過去を持つため、絶対的規範(「援助交際」の否定)の伝達者として機能しなかったことにも「援交ブーム」の要因を見ている[宮台 1994]。

その上で宮台は「援交女子高生」たちが一元的に否定しきれる存在ではないと考える。むしろ「郊外化がもたらした共同性の喪失によって「不確か」になってしまった自分自身」を、かつての全共闘運動の闘士が「自己否定」の倫理をもってして乗り越えられなかったのに対して、「援交女子高生」たちは「都市的現実」の中に自らをカメレオン的に紛れ込ませることで克服しているというのだ。それは「環境変化へのもっとも効率的な仕方」のひとつであり、またその「都市的現実」への「扉」として機能する「電話風俗」や「告白情報誌」の存在も、同じく単に否定の対象となるものではない、と宮台は結論付けている。

つまり岩間=宮台によると、若者は希薄化した人間関係を生きているのではなくて、むしろ極めて状況志向的な高度なコミュニケーション能力を獲得しているということだ。過去との連関性でこうした言説を捉えるならば、80年代末に登場した、「多元的自己」言説と極めて親和性の強い見解であるともいえるだろう。

 

[1]この人格類型はルーマンの予期理論を分析枠組みとしており、予期理論とは宮台の言葉でまとめると「人が必然的に行う一定の予期や期待を前提とした行為、もしくはその予期や期待が裏切られた際の対処方法」についての理論である。

[2]宮台真司 1994 『制服少女たちの選択』

 

 

6節 90年代後半編

 

1項 「キレる」酒鬼薔薇聖斗

周知の通り90年代の後半は社会的動揺を煽るような事件が立て続けにおこり、まさに閉塞の時代を印象づける時代であった。例えば95年の1月の阪神淡路大震災、同年の3月のオウム真理教地下鉄サリン事件、そして97年の神戸連続児童殺傷事件、通称酒鬼薔薇聖斗事件などが挙げられ、とりわけ神戸連続児童殺傷事件は「若者を語った言葉」に多大な影響を与えることになる。

神戸連続児童殺傷事件とは、97年の2月から6月にかけての約4カ月間にわたって起きた事件で、被害者の内2名が死亡、3人が重軽傷を負った。特筆すべきは、被害者児童の頭部が「声明文」とともに中学校校門置かれたこと、地元新聞社に「挑戦状」が送られたこと、そしてその犯人が中学生の少年だったことで、これらを主たる理由として当時の世間の注目を大きく集めた。以下にその「挑戦状」なるものを引用しよう。

 

神戸新聞社へ

この前ボクが出ている時に たまたまテレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名前を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた 人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は暗号でも謎かけでも当て字でもない、嘘偽りないボクの本命である。ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。しかし悲しいことにぼくには国籍がない。今までに自分の名で人から呼ばれたこともない。もしボクが生まれた時からボクのままであれば、わざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行為はとらないであろう やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中だけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない

 だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」

 その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。しかし今となっても何故ボクが殺しを好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性(サガ=ルビ)としか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。
最後に一言

 この紙に書いた文でおおよそ理解して頂けたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名前が読み違えられたり、自分の存在が汚される事には我慢ならないのである。今現在の警察の動きをうかがうと、どう見ても内心では面倒臭がっているのに、わざとらしくそれを誤魔化しているようにしか思えないのである。ボクの存在をもみ消そうとしているのではないのかね ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。今度一度でもボクの名前を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。(原文ママ)

 

これを受けた当時のマスメディアにおける論調としては「現実と虚構の区別がつかない少年」や89年の連続幼女殺人事件から続く「内向的なメンタリティ」、「普通の少年の異常な犯罪」といったものが多く見かけられ、特に後者のものは現在でも日常会話の中に頻出する「キレる」という表現が一般定着することになったきっかけであると考えられる。

事実、1998年に内閣府が行った「青少年の非行等問題行動」の調査内で「きれる」という語が現在と同じ用法で登場しており、「きれる」ことの原因として「忍耐力が不足している」と回答した者が全体の59.5%と最も多い結果を示している。

また同調査では「青少年による非行等の事件は増えているか」という質問項目もあり、これに対して「増えている」の答えた者の割合が全体の94.3%(「かなり増えている」69.9%+「ある程度増えている」24.4%)も占めており、当時の世間で「凶悪化する青少年」といった「若者なるもの」が構成されていたことを推して知ることができる。しかし、この神戸連続児童殺傷事件に代表されるような青少年の凶悪犯罪(定義として殺人、強盗、強姦、放火)は、センセーショナルな報道とは裏腹に60年代以降急速に減少傾向にあり、また軽犯罪も含めても、特段90年代の後半が高いわけでもない。つまりは少なくとも統計データ上からすればこの「若者語り」は明らかに誤解に基づく虚構であるということだ。

 

こうした背景の中、後に『声に出して読みたい日本語』で爆発的なヒットを記録しすることになる教育学者の斉藤孝は99年に『子どもたちはなぜキレるのか』という著作を出している。斉藤は当時の若者・子どもに特徴的な傾向とされる「キレる」という所作を、「憤り」との差異から考える(斉藤 [1999])。それによると前者が「がまんしたあげくに爆発するのではなく、ちょっとしたことで突然怒り出す」のに対し、後者は「肝(はら)に据えかねた感情を爆発させる」ものであるという。そしてその両者が混同されている現状には<腰肝文化>なるものの衰退が関係しているらしい。

つまり、「キレる」「ムカツク」などといった反射的・感覚的な反応様式が若者たちの間で主流となり、他方で「ためる」「据える」といった精神の作法が喪失しているというのだ。

斉藤がその背景を戦後の教育観の転換に見出しており、戦時中に蔓延し、戦後厳しく糾弾されていくことになる「御国のために」的な精神主義と<腰肝文化>が混同され、同じように批判にさらされていったことがその衰退の主たる原因であるらしい。

また「キレる若者」への処方箋として、こうした<腰肝文化>の復興を本書の中で提言している。

同じく教育学の領域では90年代前半のところでも参照した門脇厚司もこの時期に『子どもの社会力』という本を書いている。門脇の論調は一貫しており、ここでもやはり若者・子どもの「嫌人」的な傾向を統計データを参照しつつ紹介している[門脇 1998]。また門脇は本稿4節のところで紹介した文化精神医学者の野田正影の著書『漂白される子どもたち』の中で用いた「写真投影法」から、現代の若者が(他者不在の)無機質な空間を好む傾向にあると考察し、「嫌人」現象の証左の一つとして挙げている。「写真投影法」とは子どもに「一日の生活と好きなモノ」を撮らせ、併せて提出させる撮影日の行動記録と写真を照らし合わせながら分析するものである。その結果、子どもたちが写してきた写真には他者が写っているものが一枚もなく、門脇はそこに人間関係を避ける現代若者・子どもの傾向を見て取っている。

ここでそうした「人間関係の希薄化」に対し門脇が提示した処方箋は「社会力の向上」であり、これは門脇自身がいうように社会力とは従来必要とされてきた社会性とは一線を画す概念である。前者が既にある社会に対応していくことに力点を置いているのに対し、後者は社会を構築していく人間の側に力点を置いている。

 

 

2項 「現実と虚構」の狭間で

当時はこうした一連の言説に対し、異議を唱えた若者論者たちの存在も90年代後半の「若者語り」を考察する上では避けて通ることはできないだろう。

宮台真司は神戸連続児童殺傷事件の犯人、少年Aを「現実と虚構の区別がつかない少年」とする見解に対し、明確にそれとは反する内容の考察をしている。それが「脱社会的存在」という概念である。宮台は藤井誠二との共著『脱社会化と少年犯罪』の中で以下のように記述する。

 

我々は一般に、尊厳を「社会」に関係づけています。すなわち、社会の中に位置を占め、他人と関わることで、何かを実現しようという意欲を持つし、そうした実現によって尊厳を構築・維持します。ところが、「脱社会的」な人間は、そういう意欲を持ちません。コミュニケーションによって何かを達成できるとは信じていないし、コミュニケーションの中で尊厳を確保しようとも思っていない。その意味で、「脱社会的」な存在にとっては、人とモノの区別がつきません(宮台 [1997:55])。

 

つまり犯人の少年Aは現実と虚構の区別ができていなかったのではなく、現実と虚構の区別が明確についていたが故に、活路を見出すことのできない現実ではなく、あえて虚構の世界にコミットした「脱社会的」な存在であったということである。

さらに本書の中で、そうした「脱社会的存在」を産出する要因を探り、その要因が分布しない社会のプログラムを作り出すこと、すでにいる「脱社会的存在」が殺人にまで至らなくてすむプログラムを考案することを社会的課題として宮台は挙げている。

宮台が「現実と虚構」云々の「若者語り」に異議を立てたのに対し、文化社会学者の中西新太郎は「「普通の子ども」がおこす「異常な行動」」という問題提起がそもそも問題の所在をわからなくしているとし、まず親世代の「普通」の感覚と、子世代の「普通」のギャップを分析する(中西 [1999])。

それによると、両者の感覚の区別は「消費社会を体験しているか否か」という差異に求めることができ、子世代の「普通」とは消費社会の倫理をその成長の過程に組み込んでいる立ち振る舞いであるという。

中西がそうした差異に基づく両者間の齟齬の例として挙げるのは「成長観」の違いである。従来的な成長観とは未来への配慮を優先基準として考えてきたが、現在の幸福を追求する消費社会の倫理はそうした成長の物語を崩壊させ、伴って「自己の確立」という所作が自分(たち)で自己像を発見していくものから、出来合いのものから選択していくものに変容したことを指摘している。そうすると子ども達の他者の感覚にも変化が生じ、かつてのような共同的現実は崩壊し、優劣を含め自己の価値を鏡として映し出す「抽象的な」他者しかいない現実を生きることになるといった見解も示している。つまり中西による子どもの「普通」とは、他者と一緒にいることが自明性を失い、「個立」が成長の出発点となり、むしろ「どうやったら他者と一緒にいることができるか」という問いが解決すべき文化的課題になっている状況のことである。

 

 

3項 「終わりなき日常」vsオウム的終末観

地下鉄サリン事件はふだんアンダーグラウンドな領域で活動しているカルト新興宗教団体の実態が明らかになった事件だった。またオウム真理教の信者には年長者のみならず、一定数の若者もおり、特にその若者たちが一般にエリート層とされる大学生を中心だったことが当時の世間の注目を集めている。

こうしたオウムの問題に「若者語り」の文脈から真っ先に切り込んでいったのは、これまで何度も参照している宮台真司である[1]。

宮台は80年代にサブカルチャーを中心に共有された二つの「終末観」を挙げる。一つは「終わりなき日常」としての「終末観」。「終わりなき日常」は80年代前半に女子を中心に形成され、それは「これからは輝かしい進歩もないし、おぞましき破滅もない。『宇宙戦艦ヤマト』のようなサブプライム(崇高)はありえない。とするなら学校的な日常の中で永遠に戯れ続けるしかない」といった世界で、言いかえれば「モテない奴は永久にモテず、さえない奴は永久にさえない」(宮台[1995:163])、よい意味でも悪い意味でも変化のない「日常」である。そうしたユートピアにもディストピアにもなり得る「終わりなき日常」に対抗するかのように、もう一つの「終末観」―男子中心に形成された「核戦争後の共同性」が台頭し始める。「核戦争後の共同性」では大友克洋の『AKIRA』や、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』のように「「終わりなき日常」の中でありえなくなった「非日常的な外部」を未来に投影することでやっと現実を生きうる」らしい。つまり変化の乏しい平坦な日常の中から、「非日常的な外部」にコミットメントすることで脱却していく戦略が、宮台のいう「核戦争後の共同性」的な「終末観」だ。

宮台によると、80年代には両者は均衡な力関係性だったが、90年代に入り徐々に「終わりなき日常」における「キツさ」が露呈していくことになる。社会構造の変容とともに自己の「失敗」を帰属させる「外的制約」の強度が弱くなり、代わりに「失敗」に伴う責任は「内的制約」として自己帰責任とされる。そして合理化のための「外的制約」を有さない「終わりなき日常」ではなく、より抽象的で実態のない外部に「失敗」を「帰属」させる「核戦争後の共同性」が人々の支持を集めていくことになる。宮台の語を借用すれば、オウム真理教的な世紀末思想は、まさに「核戦争後の共同性」的世界観であったといえよう。

その上で宮台は著書のタイトル通り『終わりなき日常を生きろ』と提言する。つまり、「失敗」を合理化するための「全面的包括要求」をやめ(宗教や恋愛への外的帰属をやめ)、「援交女子高生」のように平坦な毎日を「まったり」生きていくことこそ、不透明な社会を生き抜くための有効な戦略である、というのが宮台の主張である。

宮台がいうところの「核戦争後の共同性」に焦点を絞ったのは社会学者の大澤真幸であった。大澤はその師である見田宗介の議論を参照しつつ、「現実」の対義語として「理想」と「虚構」を挙げ、その対比から時代考察を行う[2]。大澤によると両者の差異は「最終的な帰着点が現実か否か」ということで、かつての「理想の時代」ではその「理想」を実現させる意志が社会の中で共有されていた。しかし、「理想の時代」は本稿でも参照した連合赤軍の敗北、つまりあさま山荘事件(72年)を象徴的な契機として終わりを告げ、代わりにやって来たのが「虚構の時代」である。大澤は「虚構の時代」の雛形として80年代に形成されたサブカルチャー、つまり新人類文化とおたく文化を挙げており、とりわけ後者のおたく文化で描かれた終末的な世界観(ここで大澤は宮台と同じく『AKIRA』と『風の谷のナウシカ』、また『宇宙戦艦ヤマト』や『美少女戦士セーラームーン』を挙げる)は「虚構の時代」の申し子的なオウム真理教の「教義」に大きな影響を与えたと分析している。

 

 

4項 「若者語り」の第二の転換

さて本章ではオウム真理教と神戸連続児童殺傷事件をめぐる「若者語り」を中心に参照してきた。あえて確認するまでもないかもしれないが、これら「若者語り」それぞれの主張は大きく異なり、時には対立する見解がみられる一方で、そこでの議論が若者のコミュニケーションを賭け金としていた点では共通している。これはむろん80年代から続く関係性論的な「若者語り」の文脈に位置づけることができるが、実は90年代後半にも一つの大きな転換を確認することができる。80年代の「若者語り」は先に確認してきたとおり、若者のコミュニケーションの様式に注目しつつ、それらは「消費」と関連付けられて語れるものが主流だった。しかし、「失われた10年」といわれる90年代では、そうした語り口は日本経済と同じく崩壊し、以後のところでは代わりに「労働・雇用」が「若者語り」における主題として採用されるようになってくる。

そのメルクマールとなるのが山田昌弘による『パラサイト・シングルの時代』だ。山田は本書の中で「30過ぎても親元に同居して」「気ままな独身男女」が社会的な機能を果たしていないこと批判する一方で、パラサイト・シングルの「意図せざる結果」としての側面の分析も行っている(山田 [1999])。

山田はパラサイト・シングルの実態を「生活満足度」を軸に、いくつかの量的・質的データを参照しつつ、パラサイト・シングルの経済的・精神的「豊かさ」が親に依存的であること、家庭内でのパラサイト・シングルが実質的に消費の機能しか担っていないこと、またその特徴として趣味指向・「自分探し」指向であることを挙げた上で、さらにそうしたパラサイト・シングルたちの増加が未婚化=少子化及び将来的な労働人口層の現象を促し、経済的な問題であることを指摘する。

一方の「意図せざる結果」としてのパラサイト現象の理由として、山田は日本の特殊性を中心に分析を行い、整理すると以下の三つの条件にまとめることができる。

ひとつめは親子関係についてで、山田によると日本では高度経済成長期に「子どものためになんでもする親」が誕生し、オイル・ショックを契機に、子どもを親に依存させる傾向が見られるようになったらしい。こうした例は日本特有であるらしく、これが多くのパラサイトを生みだす土壌であると論じている。

ふたつめは経済的要因についてで、親子関係の条件と同じくこちらも高度経済成長期の急激な社会構造の変容に伴って、若者の「自立」意識の水準が向上したという。しかし、かつてと比較すると経済成長が停滞した90年代においてはそうした「自立」の意識も同様に停滞しているという山田の見立てである。

最後はライフコースの標準志向化についてであり、山田によれば1憶総中流化により日本人には強い横並び意識が生まれ、その意識は若者の中にも内在していると考えられる。そうした身体化された標準志向は、若者が「多様なライフコース」を選択し、社会に出ていくことを妨げる心理的な制約となっているという。

山田が批判した「豊かな」パラサイト・シングルはさらなる経済状況の悪化に伴い、以後大きく取り上げられることはないが、しかし本書に00年代以降の「若者語り」における雇用・労働問題の黎明を見るのは妥当であろう。

 

[1]宮台真司 1995 『終わりなき日常を生きろ』

[2]大澤真幸 1996 『虚構の時代の果て』

 

 

 

 

7節 00年代前半編

 

1項 コミュニケーションの形式化言説

2002年は日韓ワールドカップが開催され、そこには屈託なく「ニッポンチャ・チャ・チャ」のエールを送る若者たちがいた。

精神科医の香山リカは、若者たちに見られる従来的な国粋主義とは無文脈に思われるナショナリズムを、「ぷちナショナリズム症候群」と命名し、その前景を以現代日本におけるエディプスの回避にあると分析する[1]。エディプスコンプレックスの理論は18世紀にフロイトによって確立され、今日まで臨床心理や精神分析における基本的なパースペクティブとして用いられているが、香山によると本来克服されるべきエディプスの葛藤を当時の若者たちは「辛い体験」としてその人格から「切り離し」ており、その解離的な人格が浮遊しているという(香山[2002])。

その上で香山は、もともとの人格とは無縁の「私」が、鷲田清一によって提唱された「鏡像的同一性」と結託することで「ぷちナショ」を生成させると考える。「鏡像的同一性」とは、「それぞれがほかの人の姿や動向をつねに意識しながら、自分は他人と大きく変わっていないか、共同体の中で浮いていないか、とだれかと同じ<分身>になることで自己を確認」する所作のことであり、一過性の「ナショナリズム」がワールドカップという契機によって生じ、さらにその中に「鏡像的同一性」が生じた結果、若者の解離的な人格がそこにコミットメントしていったというのが香山の見立てである。

こうした若者の解離的人格を別角度から捉えたのは同じく精神科医の斉藤環である[2]。斉藤は渋谷と原宿で活動する若者たちのインタビューを通して、当時の若者を「自分探し系」/「ひきこもり系」の二項対立図式から捉えようと試みる(斉藤 [1998-2003])。

「自分探し系」とは香山が見た解離的な人格―より精神医学の専門的タームに置きかえるならば「多重性人格障害」的な傾向を有する若者のことであり、中でも不随的に多元化する自己のイメージ像を定めようと、過度なコミュニケーションを志向する者を指す。

斉藤の分析によれば、90年代にはこうした若者がマジョリティを占めていたのだが、00年代に入り、「自分探し系」だけでは語りつくせない若者が登場する。それが後者の「ひきこもり系」で、彼らは自己のイメージ像は定まっている一方で、自らの内的過程に魅了されているため、対人的には「自分探し系」より淡白な傾向を示す。斉藤の著書では、「ひきこもり系」が90年代に全面化した「自分探し」への終わりなき問いをやめ、むしろ徹底して確固たる自己像を有効利用する戦略をとる、ある種ニュータイプな若者として記述されている。

00年代前半の若者に関する研究を語る上で避けられないのが、東浩紀による『動物化するポストモダン』での議論である。東自身は本書での議論をポストモダンにおける日本人の一般的性格として記述しているが、「動物化」とする現象の先端を「おたくの消費行動」、つまりサブカルチャーの領域に見出している点で、否が応にも「若者語り」的な性格を帯びていることになる。

「動物化」とは、他者を介することによって充足される人間特有の「欲望」が消費社会化の成熟化に伴い、可能な限り他者を経由せずにも満たされるようになり、その結果として動物的な「欲求」が全面化した現象を指す(東 [2001])。性的コンテンツを例にとってみても、従来は行為の相手がいないと成立しなかったものであるのに対し、現代ではネットさえ繋がっていればいつでもアクセスすることができるようになっている。他にも物を購入する際に、かつては売り手のとのコミュニケーションが半ば不可避に要求されていたが、コンビニエンスストアの乱立により、現代社会では実質的には他者を介さずに目的の物を入手することが可能になっている。東によれば、こうした一連の「動物化」現象の先端に立つのがおたく第三世代とよばれる人種である。

また東は大塚英志の「物語消費」の概念を下敷きにした上で、00年代のおたく向けコンテンツの底流から「大きな物語」が喪失したことを指摘する。代わりに台頭したのは「ネコ耳」や「メイド」といった属性―データベース的な消費形態であり、そこでは例えば「強気な女の子」のキャラクターを表現は「ツリ目」「ツインテール」といった記号的要素、つまりパターン化された「データ」の組み合わせによって可能になる。そしてこの「データベース化」はコンテンツ消費の次元を離れ、日常的なコミュニケーションの水準でも見られるようになり、「動物化」している(他者との関わりを断っている)はずのおたくたちが、コミケやネット上で積極的に仲間たちとの間で相互行為を交わしているのは、そのコミュニケーションに必要な要素を「データベース」の中から参照しているからだと東はいう。

他者の介在を避ける「動物化」と、紋切り型のミュニケーションを行う「データベース化」。東曰くこの二つの階層が、同時並行で見られるようになったのが当時のおたくたちであるのだ。

これら言説の興味深い点は、香山、斉藤、東が異なる現象から若者を論じているのにも関わらず、異口同音に若者の「コミュニケーションの形式化」を指摘していることだろう。そして、こうした若者文化における「コミュニケーションの形式化」を、より一般的な概念として提示したのは社会学者の北田暁大だった[3]。

北田は香山と同じく「右傾化する若者」に「形式的なコミュニケーション」の様式を見て取っており、こうした現象の背景として、60年代末から00年代までの若者文化の変遷の中で、そのコミュニケーションの至上目的が「意味内容を相手に伝えること」ではなく「コミュニケーションをしていること自体を相手に伝えること」に構造変容したことを挙げる

(北田[2002-2005])。例えば携帯電話の普及に伴って見られるようになったコンサマトリー型のコミュニケーションがこうした接続志向の代表的なものであり、北田によれば「電車に居合わせたオヤジの風貌や教師の「寒い」ギャグをメールで友人に実況する」といった所作にはメッセージの実質的な意味内容と必需性を欠いている。他方で、極めて強い接続志向を有するコミュニケーションは接続のために世界のあらゆる出来事を「つながり」のネタにしており、北田は若者特有のこうした実態を「つながりの社会性」と命名した。「つながりの社会性」では、いかなるものでも他者と「つながる」ための媒介として消化されてしまうため、「電車に居合わせたオヤジの風貌」といった身近なものだけではなく、時には国家や政治といった壮大なものであってもコミュニケーションのネタ化してしまう。その一端として立ち現われたのが、香山によって「ぷちナショナリズム」と名付けられた現象であり、あるいはネットで再生産される「嫌韓」思想であると北田はいう。

 

 

2項 メディアとの一人遊びと内向化

ここまでで確認してきたよう、89年以降の「若者語り」では、若者の「内向化」や「人間関係の希薄化」を唱える言説が常に一定の割合を占めていたが、00年代に入ると低年齢層にも携帯電話やパソコンといったネットメディアが普及し、そのことと内向化言説が関連付けられた見解が多く見られるようになってくる。

例えば霊長類学・発達心理学を専攻する正高信男の『ケータイを持ったサル』では、本書の冒頭で「人間の若者が「サル化」傾向をたどっている」という仮説を立て、自身の研究からそれを実証していく(正高 [2003])。

まず正高は当時の若者特有の気質として「家の中主義」なるものを取り上げる。それによれば電車内などでマナーに反する行為をする女子高生と、部屋から出てこないひきこもりは一見すると両極に位置する若者であるが、どちらも本質的には「自分の部屋に鍵をかけて閉じこもっている暮らし」をしているらしい。つまり、ひきこもりについては言わずもがな、女子高生たちの迷惑行為も、公共空間を自室として捉えているからこそ可能な振る舞いであるということだ。

正高によると、こうした「家の中主義」が生まれた土壌として、家庭内の支出が母親中心の「子ども中心主義的」な投資に移行したこと(例えば学習塾やケータイ料金の支払いなど)、それと同時に父性が凋落したことを統計データを中心に分析し、結果としてサル的な母子密着型子育てになっていることを指摘している。

また本書では若者たち固有のコミュニケーション形態がサルとそれと酷似しているといった考察もしている。具体的にいえば、(少なくとも正高の目からすれば)意味のないネット上でのやりとりやメールの交換、同じアイドルの情報の共有などによって得られる共同性・集団性の確認は、ザルが発する鳴き声の機能と同質のものであり、その点においても若者のサル化が顕著であるという。

精神科医の景山任佐は『超のび太症候群』で若者の生活世界の高度情報化に警鐘を鳴らしている。景山は当時の少年犯罪の傾向として「ホームレス狩り」や「大人狩り」などといった大人には理解しがたいものが多くなってきているとし、金銭的な利益などの実質的な機能がなく、スリルや快楽のみが行動原理となったこれら犯行には、若者の「空虚な自己」が関係しているという(影山 [2000])。またその空洞を穴埋めするため、まるで漫画『ドラえもん』に登場するのび太のごとく若者は超人的能力を付加してくれるパソコンや携帯電話といったハイテク機器に依存していくことになり、本書ではそうした自己の「空虚さ」を誤魔化すために結果的にハイテク機器依存症となった若者たちのことを「のび太症候群」と呼称している。しかし景山によると問題はそれだけにとどまらず、のび太の生活空間にはジャイアンやスネ夫といった友人とのコミュニケーションがあったのに対し、現代若者にはそうした身近な人間関係すらなく、希薄な関係性を生きているため、ある意味でのび太を「超えて」おり、そのことから問題の所在を「のび太」症候群ではなく本書のタイトルになっている「超のび太症候群」に見ている。

その上で本書では処方箋として「キャンプ療法」、つまり都市を離れた自然の中で、依存対象となっているハイテク機器から若者を遠ざけるのと同時に、集団生活において濃密な人間関係を体験していくことを挙げている。

正高=景山に共通するのは、特定の社会問題の理由をネットを手に入れた若者文化に見ていることであり、若者文化が高度情報化していくことに対して否定的な見解を示している。

その一方で、当時は高度情報化が若者文化に波及していく状況を肯定的に捉える見解もあり、その代表といえるのが08年あたりに登場したデジタル・ネイティブという概念であろう。デジタル・ネイティブとは生まれた時よりネット環境で生育されてきた世代を指し、その特徴として「金銭より自らの好奇心を満たし、社会的に評価されることに関心の焦点があること」や、「年齢差や属性にこだわらないこと」、「マルチタスクが得意なこと」などを挙げることができる。提唱したのはイギリスのIT関係の調査会社であるガードナーだとされているが、日本でも08年にNHKスペシャルで「デジタル・ネイティブ」特集が組まれており一定の影響力があったと考えられる。

 

 

3項 おたくの代替としてのニート・ひきこもり

89年の連続幼女殺人事件によっておたくという属性が否定的に捉えられるようになったのはここまでで見てきたとおりだが、00年代に入るとじょじょにそうしたネガティブなイメージ像は変容し、今日のようにおたく文化が市民権を得るようになりはじめる。そこに一役買った作品が04年にベストセラーになり、05年にはドラマ化もされた『電車男』である。

『電車男』は大手BBSサービス「にちゃんねる」での書き込みをほぼそのまままとめた書籍、およびそれを原作とした映画、ドラマ、漫画のことで、主人公となる自称「アキバ系」の青年が、電車で酔っ払いに絡まれている女性を助け、「にちゃんねる」の住民のアドバイスや応援に助けられつつ、二人の関係が恋愛に発展するまでを描く(原作はアフターストーリもある)。あくまで「にちゃんねる」上での書き込みが元ネタのため、「電車男」とされる人物の書き込みにどこまで信憑性があるのか、またそもそも「電車男」は実在したのか、などということはまったくもって不透明なのだが、それでも本作は口コミで話題を呼び、爆発的なヒットを記録することになった。

さて、ここでポイントとなるのは主人公が「アキバ系」であるということだ。これに関して以下の2つのことが考えられる。

一つ目は「アキバ系」=おたくの描かれ方が先にいったように変化しているということ。特に平均視聴率21.1%を記録したドラマ版では、「内向的」「人づきあいが苦手」「メディアとの一人遊び」といった従来的な表象は踏襲されつつも、「いざという時には勇気を示せる」「純粋で一途」といった特徴も追加されている。こうした新たなるおたくの人格型は『non-no』(08年4月号)で特集を組まれ、半ば日常語化した「草食系男子」の肯定的側面や、あるいはそのものずばりの「おたく系男子」といった人格型の原モデルとなったと考えられるだろう。

二つ目は特定の若者集団を指す際に「系」という語が使用されていること。本章1節で述べた通り、かつてこの「系」に相応する語としては「族」が一般的だった。おたくに関しても4節1項および2項で参照した「情報新人類論」や中島梓の「おたく論」では「おたく族」という記述を見ることができる。

難波功士によれば「族」から「系」に全面的に移行したのは90年代の初頭あたりで、最初に広範囲に共有された「系」の呼称として渋谷の外資系レコードショップから誕生した「渋谷系」を挙げている(難波 [2005])。「渋谷系」とは主に93年ごろからフリッパーズ・ギターやピチカート・ファイブなどのギターポップ寄りで都市型志向の音楽ジャンルを指して使用された言葉で、他にも「ストリート系」(『checkmate』94年12月号)、「古着系」(アクロス編集室94年)、「モード系」「コギャル系」(『SPA!』95年6月号)などに代表されるよう、確かに90年代初頭の頃から「系」が一般的に定着していっているようである。また難波は両者の差異が「族」が「特定の集団あるいは集団性に対する呼称」だったのに対し、「系」は「特定の商品あるいはコンテンツに群がる人々への呼称」であることから、若者の共同性が、かつてより輪郭のはっきりしない茫漠で局所的なものに変容しつつも、「系」コンテンツが状況志向的な繋がりの媒介としても機能していると分析している。これは難波による「若者語り」の見解なので本稿では肯定することができないが、少なくとも『電車男』では、「おたく文化」や「にちゃんねる」が「電車男」を支えた形のない共同体としての機能を担っているように描写されていた。

二つの観点から「おたくなるもの」の変容を考察したが、かつてのおたく的な否定的表象が喪失したかといえばそうではない。この頃からかつてのおたく語りに酷似した語り方がされるようになるのが「ニート」「ひきこもり」と呼ばれる若者たちである。ここでは『電車男』に対置する00年代前半におけるフィクション作品として、こちらも話題作となった『NHKにようこそ!』を紹介しよう。『NHKにようこそ!』は自身もひきこもりである滝本竜彦がその実体験をもと執筆したライトベルであり、主人公佐藤の心理描写や人格設定はかつてのおたく像と酷似している。例えば、佐藤は作中でロリータコンプレックスに目覚め、連続幼女殺人事件のMを彷彿とさせる性妄想をする一方、物語冒頭のところでは完全に外界との関わりを断った暮らしをしており、訪問者や女性に対してまともにコミュニケーションをとることができない。これらの描写は「おたく叩き」全盛期のおたく像と同質のものであるといえ、そこからかつての「おたく叩き」から「ニート叩き」への移行を見て取ることができる。しかし、これは先にも述べた通り滝本の実体験に基づいた作品であり、どちらかというと当事者による自虐的な色合いが強いため、次に社会一般でのニート・ひきこもりの受容についても詳しく見てみよう。

フジテレビ系列の朝の情報番組『とくダネ』(2004年9月放送)では「働かない若者”ニート”」特集が組まれ、実際に大学を中退し、就職活動も行っていないニートの若者のインタビューの中で、今ではネットスラング化した「働いたら負けかなと思っている」という迷言が生まれており、対してメインキャスターの小倉智昭は「親御さんに「首を絞めるの手伝いましょうか?」といいたくなります」とかなり辛辣なコメントを残している。こうしたニートに対する風当たりの強さは『とくダネ』内に限ったことではなく、ざっと当時のゴシップ誌の見出しを見渡してみても 「「オンナたちはなぜ殺されたのか」土浦「ニート長男」一家殺害事件」(『週刊現代』04年12月)、「両親惨殺28歳ニート父親からの“せっかん”」(『週刊ポスト』04年12月)といった若年層の犯罪と関連付けたものや、「働くことも学ぶことも放棄した「ニート」40万人に急増の現実」(『週刊ダイヤモンド』04年9月)、「カリスマ社長が伝授! わが子を“ニート”にしない子育て10カ条」(『週刊女性』05年2月)のようにニートを社会悪として捉える記事が散見される。また読売新聞が05年に行った世論調査によると「ニートの増加で日本の社会が活力を失いかねない」と回答した者が全体の91%にのぼり、ニート増加の原因の理由としては「親が甘やかしているから」という回答が55%でトップだった。

ひきこもりに関しても犯罪と結びつける見解が多く見られ、例えば後に詳しく参照する00年の「西鉄バスジャック事件」の犯人がひきこもりだったという旨の記事が読売新聞(00年5月15日)に掲載されている一方で、「ひきこもり対策は「予防」から「対応」へ」(『中央公論』03年10月号)、「小泉首相「ひきこもり」解消に女性議員たちが愛の手を」(『週刊文春』04年1月)、「わが子を「ひきこもり」から防ぐための処方箋」(『FOCUS』04年8月)といった見出しからも窺えるよう、どちらかというと病理/治療・保護といった見解も多く見られる。

上記のように両者の語られ方の差異からはニートとひきこもりが地続きの問題ではあるが、それぞれに対する問題意識は異なっていることを窺うことができ、さらにいえばニートが雇用・労働と関連付けられるのに対して、ひきこもりはコミュニケーションや病理の問題として捉えられていたと考えられる。また後に見ていくように若者研究の主題として取り上げられる際にも両者の語られ方が微妙に異なっていることがわかる。

 

 

4項 「キレる17歳」たち

否定的な若者の表象が戦後最大に現実的影響力を持って顕在化したのがこの頃である。というのもここまでの各節でも何度か少年犯罪に対する世論調査を参照してきたが、「子ども・若者の凶悪化」という印象論が01年に実際の法改正にまで至るからだ。ここではまずそうした表象を一般に広めたと思しき事件を紹介し、次に当時の世論と改正された少年法を見てみよう。

まずこうした凶悪化言説の先駆けとなったと思われるのは前節で取り上げた97年の神戸連続児童殺傷事件だ。本事件の報道とそれに対する世間の反応は先述の通りであるが、翌年には当時13歳の少年によって栃木女性教師殺害事件がおこっており、その事件の経緯から「キレる」という言葉が一般化したのは後者の事件によるものだったともいわれる。またこの両事件を踏まえバタフライナイフなどの鋭利な刃物が各県の条例で有害玩具指定を受けることにもなった。00年の5月の豊川市主婦殺人事件では高校生男子が68歳の女性をめった刺しにし、学校ではいわゆる「普通」の少年だったことから、その解離性や90年代後半で中西が批判した「普通の少年の異常な犯罪」という言説が蔓延することになる。さらにその2日後には西鉄バスジャック事件がおこっており、犯人少年が先の神戸連続児童殺傷事件を模倣した犯罪予告を行っていたことや、手記の中で先の豊川市主婦殺人事件について言及していることが話題を呼んだ。またこの事件では大型電子掲示板の「にちゃんねる」に犯罪予告の書き込みをしており、そのことから以降ネット上のアングラなカルチャーもマスメディアの矛先が向くことになる。

奇しくもこれらの一連の事件の犯人が17歳前後だったことから、「キレる17歳世代」という言葉も生まれ、00年の流行語大賞に「17歳」がノミネートされていることからもその影響力の大きさを推して知ることができるだろう。02年7月に内閣府が行った調査でも「青少年による非行等の事件は増えている」と回答した者が全体の88.1%もおり(「かなり増えている」69.9%+「ある程度増えている」24.4%)、98年のものと比べると-6.2ポイントで下降傾向にあるが、それでも依然として「凶悪化」の印象が強かったと考えられる。また同調査の「少年犯罪の傾向」に関する質問の回答も、上から順に「突然キレて行う非行」(49.4%)、「低年齢層による非行」(34.4%)、「凶悪・粗暴化した非行」(34.1%)で、犯罪を起こす少年の背景に関する質問に対しても「家庭環境に問題のある少年」(59.8%)、「何ら問題がないと思われている少年」(32.0%)、「学校生活になじめていない少年」(30.9%)、「友人関係に問題のある少年」(21.5%)といった回答がされており、これらは諸メディアが生産する「若者語り」とほぼ同質のものであったといえる。

これらを受けて01年には少年法が改正され、従来は16歳以上が処罰対象だったのが現在と同じく14歳にまで引き下げられ、この時点で少年院への収容年齢の下限(14歳)も撤廃されている。

しかし、本稿でも何度も述べているとおり少年の凶悪犯罪は戦後下降傾向にあり、60年代と比較すると00年代はわずか4分の1にまで減少している。さらに先の「キレる17歳」とされた少年たちの何人かは彼らを取り巻く社会性や教育の問題以前のところで発達障害を抱えていることが精神鑑定の結果出ており、例えば豊川市の事件の犯人は犯行時にアスペルガー症候群による心神耗弱状態であり、これらを一般化して「キレる17歳世代」としてしまうのは、実証的云々の前に事実的な誤認であるといわざるを得ない。

 

[1]香山リカ 2002『ぷちナショナリズム症候群』

[2]斉藤環 2003 『若者のすべて―自分探し系vsひきこもり系』

[3]北田暁大 2002 『広告都市東京―その誕生と死』

 

 

8節 00年代後半編

 

1項 雇用をめぐる「若者叩きvs若者擁護」

00年代後半に入ると若者の雇用・労働問題がいよいよ深刻化し、以前にもまして盛んに議論が交わされるようになってくる。その議論を考察するに際して重要になってくるのは、90 年代以降顕著となった「若者語り」における「若者叩き派であるか」/「若者擁護派であるか」という二項の対立軸である[1]。まず「若者叩き」の言説から見てみよう。

前節でニートをめぐる「若者語り」は確認してきたが、フリーターの捉え方に関しても風当たりが強いものが目を引く。傾向としては「フリーターの選択の理由は「夢追求」……5年前に比べ増」(『読売新聞』06年12月1日号)といった見出しからも見てとれるように、「生活の困窮は自己責任」といった自己責任論が中心的だった。また脱フリーター・ニートを推薦する活動もこの頃から活発に行われるようになっており、その筆頭として挙げられるのが「キャラバン先生」こと鳥居徹也によって文科省の委託事業の中で行われた「フリーター・ニートになる前に受けたい授業」だ。この講義は04年から全国に設置されたジョブカフェのように具体的な雇用支援をするものというよりは、「ニート・フリーターになったらどれだけ損か」という旨のことを解説するもので、例えば鳥居のいう「フリーター3憶円事件」は正規雇用と非正規雇用の生涯賃金・退職金・国民年金の合計の差が3憶円にもなるということに関して危機感を煽る表現であるといえる。また鳥居は「有効求人倍率が高いのにも関わらず、職につけないのは若者の努力が足りないからだ」といった見解も示しており、いうまでもないがこれは「若者叩き」的な論調であるといえる。

こうした若者の雇用・労働めぐる問題を自己責任論的な立場から捉えたのは上記のような世論的な範囲に限定した話ではなく、若者関連の研究の中でも同質の考察がされている。

例えば『下流社会』で話題となった三浦展は著書『仕事をしなければ、自分は見つからない』の中で、フリーターを俎上に載せ、その特徴を分析した上で具体的な処方箋を提示している(三浦 [2005])。

三浦は05年当時若者のフリーターは400万人おり、フリーターの増加傾向がバブル期に確認されたことから、一概に不況だけが増加の要因であるとは言い切れないとした上で、フリーターに共通する傾向を「やりたい仕事がわからない若者が増えた」ことを指摘する。仕事を通して自己実現を達成しようとする若者、あるいは金銭的な報酬が十分であっても自分らしさを疎外する仕事には見向きもしない若者たちが、ここでいわれる「やりたい仕事がわからない若者」たちだ。

三浦によれば、こうした若者たちの心理的傾向は社会構造が「貧しい生産社会」から「豊かな消費社会」へ変容したこと密接に関わっており、その移行過程において自己評価の基準が勉強やスポーツといった「特別なもの」から、それ以外のもの、具体的には狭義の意味でのサブカルチャー(DJ、ダンサーなど)に代替されることになったらしい。しかし、サブカルチャーによって獲得される有能感や自己肯定感はかつてのそれとは違い、社会と円滑に接続されるものではないのは確かだ。結果、そうした自己実現の淡い幻想を抱いた若者たちがフリーターになっていく、というのが三浦の見立てである。

そして「やりたいこと」を探し続ける若者たちに対して、「まずは就職するしかないのだ」と提言する。本書の中で三浦は「就職しないと世の中はなにもわからないこと」を自身の経験談とともに記述し、社会へ出ていくことを拒む若者たちに対して、「就職しろ」とのメッセージを送っている。

 

若者の雇用に関して、城繁幸による『若者はなぜ3年で辞めるのか』は当時注目を集めた。城はIT企業の人事部に所属する者へのインタビューを通し、「3年で辞める若者」についての言及において頻出する「わがまま」「忍耐不足」という二つの若者の特徴を、「企業の受け入れ体制の変化」という観点から捉えようと試みる(城 [2006])。

まず前者の若者の就職活動における「わがまま」な傾向について。城によれば90年代前半以前のところでは、企業が求める人物像は二つ返事で「なんでもやります」と応じることのできる若者だった。しかし、90年代後半あたりからバブル崩壊による不況が顕在化しはじめ、企業側の採用枠も狭き門と化す。伴って、求められる人物像も変化し、「なんでもやります」タイプの人種ではなく、「組織のコアとなる」人物や「一定の専門性を持った」人間が要求されるようになる。そして、企業側からの要望の変化は当然、若者たちの意識にも影響を与え、結果として具体的な能力重視の要望に対応するために「仕事に対する意識」が相対的に上昇し、その結果実際の業務と対峙したときにギャップが生じてしまうのである。城によればこれが「3年で辞める」ひとつの要因となっているという。

後者の「忍耐不足」の考察に移ろう。先に「要求される人物像が高度化した」ことを参照したが、これは理念上の話ではなく、実際の入社試験の内容にも反映される。ここで城はTOIECの目標点数の上昇などを例として挙げている。しかし、こうした「入り口で要求される能力」の水準が高度であるのに反し、実際の企業の構造が少なくとも形式上は未だ旧態依然とした年功序列であるため、入社時点で「要求された能力」が十分に発揮できる立場に至るまでには長い月日を必要とされる。つまり、能力をアウトプットできるポストに就くまでに辞めてしまう若者を指して企業が「忍耐不足」といっているということだ。

「わがまま」「忍耐不足」のどちらにせよ、城の見解では、若者のメンタルが弱くなったのではなく、企業の体制によって相対的に若者の立ち振る舞いが変化したということである。

城が若者の早期退職を対象として分析を行ったのに対し、本田由紀はニートに焦点をあてた研究を行った。その成果の著作である『「ニート」って言うな!』では、統計データを用いて、一般の認識とは全く異なる「ニート」像が極めて巧みに浮き彫りにされている(本田 [2006])。

まず本田はニートについての厚生省の統計データを参照し、ニートの内実を就職意欲の観点から「非希望型」(今は仕事に就きたいとは思っていない)と、「非求職型」(働く意欲はあるが、今は仕事を探していない)の二つの類型に区別した。次に1992年と2002年のデータを比較し、前者の増加率が1.02倍、後者は1.65倍という事実を紹介する。これはつまり「働きたくない」と思っている者がほとんどその数に変動がなかったのに対し、「働く意欲があるが仕事を探していない」者は圧倒的にその割合が増加していることを示しているということだ。

 

実は「非求職型」すなわち仕事に就く意欲はあるが行動をとっていない層というのは、そのすぐ外側に接する位置にある失業者や「フリーター」の層と、本当は同種で連続的な層――同じような原因から生み出され、同じような困難な状況に直面している層――として捉えられるべきである。(本田 [2006:36])

 

本書の中でこのように述べる本田からは、世間で問題視される一般的なニート像=「非希望型」と、就業意識を有する「ニート」の認識が混同され一括りにされていることに対する問題意識を汲み取ることができる。

若者の雇用問題を本田とはまた異なる角度から捉えたのは08年に『反貧困』を出版し、また「年越し派遣村」の「村長」でもある湯浅誠だ。湯浅は本田由紀編著の『若者の労働と生活世界』に掲載した論文で、00年代前半から後半にかけて展開されたバッシング/アンチバッシングの議論において、両者が「働く意欲」の有無を賭金にしていたこと、つまり「働く気のない若者」/「働きたいが仕事がない」という対立図式であったことを指摘し、次に対抗言説の提示する処方箋が「働きたいが仕事がない」若者のために「労働市場の参入障壁を下げる」「労働力の質を高める」といった一定方向に閉じられるとき、見落とされ「残余」となる問題があるのではないか、と問題提起をする(湯浅 [2007])。

その「残余」とは、従来治療対象となる「例外」として取り扱われてきた「働きたいけど、働けない・動けない」といった意欲と意志の問題を抱える若者たちのことで、その上で彼らの問題と先の「働く意欲があるが仕事がない」という問題の両者がともに産出される社会構造自体を包括的な眼差しで捉えていくべきなのではないかという。

これら問題の所在を記述した上で、湯浅はいままで大々的に取り扱われることのなかった若年ホームレスを俎上に載せ、彼らが「意欲の貧困」状態にあると分析する。「意欲の貧困」とは「就労意欲があるが、自信で自己の限界を設定しているため仕事を辞めてしまう」という心理状態で、「意欲がある」ということと「働けない」ということが共時的に生じているため、そこでは「意欲がある/ない」という問題設定から派生する議論は空転してしまうことになる。

また湯浅によれば「意欲の貧困」の原因として、「働く」ということを無意識下に支えてくれる意欲・意志の外部の存在、親密な人間関係や公的社会保障といった「溜め」が脆弱化していることが挙げられる。逆を返せば、ここでの湯浅の主張は「働く」支えとして機能する「溜め」の創造の必要性を訴えるものだったといえるだろう。

 

 

2項 若者による若者論

一連の「若者叩き」をめぐって00年代後半におきた興味深い現象として、若者自身による若者論[2]が数多く執筆されることが挙げられる。系譜上には、すでに80年代のところで浅田彰による『逃走論―スキゾ・キッズの冒険』が登場しているが、この頃のものはそれとはまったく異なる性質の若者論である。いくつかある若者による若者論の中から、ここでは雨宮処凛と赤木智弘、そして本稿の先行研究としても参照した後藤和智のものをピックアップしてみよう。

雨宮は『生きさせろ―難民化する若者たち』の冒頭で以下のような宣言をしている。

 

我々は反撃を開始する。

若者を低賃金で使い捨て、それによって利益を上げながら若者をバッシングするすべての者に対して。

我々は反撃を開始する。

「自己責任」の名のもとに人々を追いつめる言説に対して。

我々は反撃を開始する。

経済至上主義、市場原理主義のもと、自己に投資し、能力開発し、熾烈な生存競争に勝ち抜いて、やっと「生き残る」程度の自由しか与えられないことに対して。(雨宮 [2007:7])

 

いささか感情的ともいえる雨宮で、本書の位置づけ的にも学術的な文献というより自身の体験を交えたエッセイの形式に近い。しかし、統計データやフリーター当事者を含める問題の周辺人物(ちなみに先の湯浅誠も登場している)のインタビューを通して、貧困問題の輪郭を浮き彫りにし、雇用をめぐる「若者叩き」に対するカウンターの意図を主張している。特に先の三浦と比較してみると、両者の論述は180度真逆のものであることがわかる。三浦はその著書のタイトルからもわかるように「仕事をすることで、自分が見つかる」ということを論じていたが、対して雨宮は「フリーターになることで、夢が見つかる」というった旨の記述をしている。しかし、この場合の「夢」というのは三浦のいう確固たる自己像的な意味ではなく、フリーターという不安定な状況にある自己の実存的不安を覆い隠すための「夢」を指しており、フリーターになってしまったが故にその泥沼化から足を抜け出せない、つまりは三浦の主張のように「(正規の)仕事につけない」と雨宮はいう。

赤木智弘もまた自身のフリーターとしての経験から「丸山真男をひっぱたきたい―31歳フリーター希望は、戦争」の中で雇用格差をめぐる若者論を展開している(赤木 [2007])。

赤木はNHKスペシャル「ワーキングプア 働いても働いても豊かになれない」(06年7月放送)の中で、かつて家庭を手に入れ社会的自立もしたことがあった経済成長世代と、そもそもそうした機会すらなかったポストバブル世代が混同されたままワーキングプアという言葉で語られていたことに異を唱え、さらにそうした眼差しをより一般化すると、格差是正言説の中では高齢者が家族を養えるだけの豊かな生活水準を要求しているのにも関わらず、若者の場合はせいぜい行政レベルの職業訓練しか対策が興じられていないという現実があり、格差是正言説・対策の中にもひとつの世代間格差があることを指摘している。

その上で赤木は「希望は、戦争」と強く主張する。一部の弱者だけが屈辱を味わう世の中より、国家全体が死のリスクを背負う戦争、「国民全員が苦しみ続ける平等」を望んでいるというのである。

こちらも学術論文というより雨宮寄りのエッセイの形式に近いものだが、貧困に苛まれるワーキングプア当事者の主張をそこから読みとることができる。

雨宮=赤木が非正規雇用を中心とした労働問題に焦点をあてたのに対して、後藤の方はどちらかというと「若者を語った言葉」全般に対するセンセーショナルな批判を行っている。先にも参照した本田由紀との共著『「ニート」って言うな!』、そして本稿の先行研究としても取り上げた『おまえが若者を語るな!』で注目を集めた後藤であるが、特に広田照幸編著『若者文化をどうみるか?』に掲載された論文(というよりブックガイド)には後藤の主張が凝縮されており、ここではそれを参照したい。

後藤は主に90年代後半以降の若者を主題とする言説の紹介を通して、それらを「読むべき本」「読んでもいいが読むさいには注意すべき本」「困った本」の3つに類型化している。特筆すべきは後藤がここで「困った本」―後藤の言葉でいうところの「俗流若者論」批判を試みていることである(後藤 [2008])。

後藤の紹介は極めて多岐に渡るため一概にはいうことはできないが、概ね共通している傾向はここで登場する「困った本」が本稿でいうところの「若者叩き」本であったということだ。例えば本稿の6節で紹介した門脇厚司や千石保、山田昌弘、7節の正高信男、影山任佐などが「困った本」に分類されている。

 

 

3項 秋葉原大量殺害事件

『電車男』以降、「おたくの街」というイメージを決定的なものとした秋葉原で08年の6月、一人の若者によってたいへん痛ましい事件が起きた。

これは当時25歳の犯人Kがレンタルした軽トラックで秋葉原の歩行者天国に突入し、通行人と警察官合わせて14名を立て続けに殺傷した事件で、死傷者7名、負傷者は10名にもなる。また、犯人のKが事前にネット上のBBS に犯罪予告を書き込んでいたことや、Kがかつて「キレる17歳」とされた世代だったこと、おたく向けのコンテンツを消費していたこと、そして派遣労働者だったことなどから様々な見解を生んだ。

これに関して、マスメディアで主流となった論調はやはり過去の連続幼女殺人事件や、神戸児童殺傷事件などと同類のものだった。例えば事件直後の『ニュースジャパン』(08年6月)では、以前のKの人物像を高校時代の知人や職場の同僚の証言、卒業文集などをもとに「周囲から成績優秀、スポーツ万能、明るいと評判」「紳士的」だった他方で、「突然キレる」といった特徴をもっていたとしており、これは90年代後半から00年代初頭のところでの「キレる17歳」事件の報道と極めて近しい見解だったといえる。またサンケイ系列のニュースサイト『ZAKZAK』の「“ゲームと無差別殺人”両者に因果関係はあるのか?」(08年6月18日)という記事ではKのネット上の書き込みから、暴力的な描写があるゲームを購入していたとし、それと犯行との因果関係に焦点をあてている。

また本事件に関してはマスメディアのみならず多くの言論人が言及しており、以下では作家の高山文彦[3]、思想家の仲正昌樹[4]のものを取り上げようと思う。

高山はかつてから作家活動の傍ら若年層の犯罪に関していくつかの著書を発表しており、特に97年の神戸連続児童殺傷事件を少年犯罪における一つのエポックとして捉えているようである(高山[1997-2008])。それによると、「酒鬼薔薇以後」のセンセーショナルな少年犯罪の加害者、つまり「キレる17歳」たちの多くは酒鬼薔薇を「神」として崇めており、結果的にその亜流でしかないらしい。本事件のKもその典型例で「キレる17歳」世代であるにも関わらず、二十歳を過ぎてから犯行に及んだのは、高山によるとKが「遅れてきた青年」だったからであり、つまり酒鬼薔薇のように「魔物」を内面に棲ませつつも、それを顕在化させる契機を逃してしまった存在であったということである。また事件後、ネット上には特に比較的若い世代と推測されるKの「共感者」たちが確認されたが、高山は彼らの書き込みが奇妙に「明るい」ことを指摘した上で、その理由として入念な推敲を必要としないネット上の言説空間の特殊性を挙げている。

仲正は本事件とKの前景にあったとされる格差社会や経済的困窮を、安易に関連付ける見解に対して批判を投げかけている。中正はこうした報道や分析を行った論者たちを「サヨク」系とし、「サヨク」系によって交わされる議論をマルクスの概念から「下部構造決定論」、つまり半ば強引に経済的な生産様式(=下部構造)から社会問題を捉える見解として、とりわけその偽善性が仲正の批判対象となっている(仲正[2008])。またこうした見解はその構造上犯罪の要因を犯人以外の理由に求める、つまり外的な要因に帰属させてしまうが、仲正はKの生きてきた過程においてプラスの選択肢があったのにも関わらず、それらを無視して犯行に及んだとし、それはつまり「自己責任」であると結論付けている。

高山=仲正が本事件に否定的な見解を示したのに対し、ここでも擁護側の論陣を張った論客たちがいた。

本事件を受けた大澤真幸編著の『アキハバラ発』には多くの言論人たちが寄稿しており、ここではとくにその中でも明確に擁護の立場を示している(アンチバッシングの意図を明らかにしている)湯浅誠、佐藤俊樹、浅野智彦による論文を以下で参照する。

先にも取り上げた湯浅は、ここでもやはり雇用の問題から本事件を捉えており、自身の調査から経済的な困窮状態にある人たちの特徴として、世に溢れる自己責任論を素直に受容してしまうことを挙げる(湯浅 [2008])。しかしそうした人々の現状はあくまで困窮しているため、その結果として「あるべき自分の姿」と「現実の自分」との間に深いギャップが生じ、延々とフラストレーションをため込むこととなる。湯浅の見立てではKもそうしたギャップを抱えた一人であり、ため込んだフラストレーションが爆発し、本事件に至ったとしている。

佐藤は犯行に至ったKの背景についてというよりはその報道や捉え方に対して「解釈ゲーム」という切り口から分析を試みている(佐藤[2008])。「解釈ゲーム」とは「事実性という外部基準をもたない解釈」のことで、それは先入観や印象論といったものに大きく左右される。例えば本稿でも何度か述べている通り「凶悪犯罪が低年齢化」したといった言説は佐藤のいう「解釈ゲーム」に相応するものであり、統計データという外部基準がそれを反証する。

その上で佐藤が本事件において問題視する点は、犯行の背景の分析が犯人Kの証言に大きく依拠していたということだ。一見すると当事者による自己分析であるためそれなりに信憑性のあるものとして受容できそうだが、しかしKの発言の意味内容を詳しく見てみると、それは従来交わされてきた紋切り型の「解釈ゲーム」的であり、それを参照している限りは外部基準に至れないという。

さて最後は本稿でも何度か参照している浅野による見解である。浅野はKの人間関係に注目し、一定数の友人がいた事実からKが親密性という意味での孤独を抱えてはいなかったのではないかと仮説を立て、その場合少年犯罪がおこると必ずどこからか聞こえてくる「コミュニケーション能力が低く、親密な関係性を築くことに失敗した犯人」といった物語が通用しないということを指摘する(浅野 [2008])。

代わりに浅野が考察するKの孤独とは、親密性におけるそれではなく、社会的な参画ができないといった公共性における「孤独」であり、そうした意味で社会的な排除の対象となっていたが故に、犯行に及んだ分析している。また論の最後のところで、紋切り型のコミュニケーション論ではなく、より包括的な視座からコミュニケーションを捉え直していく必要性も訴えている。

 

[1]以降のところでの「若者叩き」/「若者擁護」の差異とは、論者の意図によるものではなく、その論の意味内容を参照する。若者が当事者として関与している社会問題、例えば少年犯罪やニート・フリーター問題などを考察するにあたって、前者が若者文化内部にその要因を帰属させるのに対し、後者は若者文化の外部に要因を帰属する。具体例として若者の就職難に関していえば、「若者叩き」の言説は若者の「甘え」によるものとするのに対し、「若者擁護」の言説は長期的な不況にその理由を見る。

[2]ここでの「若者」とは年齢的な区分によるものではなく、その記述が「当事者的であるか否か」ということから判断している。例えば、00年代の後半時点で赤木や雨宮は30を超えているが、ワーキングプアの問題に対して「当事者の立場から」言及しているため、「若者」として扱った。

[3]高山文彦 2008 「「臆病な殺人者」加藤智大と酒鬼薔薇聖斗」 『現代』8月号

[4]仲正昌樹 2008 「アキバ事件をめぐる「マルクスもどきの嘘八百」を排す」 『諸君!』9月号

 

3章 系譜の分析

 

1節 系譜の整理

本章では2章で提示した「若者語り」の変遷を詳しく考察していくことになるが、さしあたって再度確認しておきたいのは、本稿における「若者」の定義である。フーコーの社会構築主義的な眼差しからすれば、「若者」とはそれを観察する社会的な経験や環境によって概念化された存在ということになる。しかし、ここで重要となってくるのは、フーコーが『狂気の歴史』の中で「狂人」たちの性質そのものは「語り」によって構築されるようになったとはしていないということだ。「狂人」は言説の中で概念化されることによって、社会的に認識されることになるのではあるが、「健常者」とは異なる「狂人」たちの性質は潜在的に彼らの中にあるのであって、「排除」や「治療」といった言説が唱えられることによって「狂人」たちの内部に異質とされる性質が生まれるというわけではない。認識がそうした「狂人」たちの特殊性を概念上に顕在化させるということだ。これは当然のことであるように思えるが、「若者」に関しても同様であり、「若者」に関する言説が生産されること「のみ」によっては、若年層が上世代とは異なる性質―例えば「対抗的」や「シラケ」といったものが獲得されるわけではないのである。これはつまり「若者語り」の変質の要因は決して大人世代の眼差しの変化のみに求めることはできないということを意味する。よって本稿で考究すべきは、なぜ特定の性質を持つ若年層を「若者」として概念化し、大人世代と分節したのかという、いわば「若者語り」の主題と論調が変容した要因である。

他方でフーコーが「狂人」をめぐる言説の中に見出した見解をそのまま「若者語り」にトレースするわけにはいかない。というのも、「若者」は(少なくともフーコーの取り上げた)「狂人」とは異なり、観察者すなわち大人世代が生産する諸言説を認識することが可能であり、「若者語り」も「若者」の変容に少なからず影響を与えていると予想できるからである。これについては本章3節で詳しく解説するので、ここでは「若者語り」の系譜を整理するとともに2章で行うことになったその考察を試みることにする。

 

70年代前半の「若者語り」は2章1節で見た通り、「若者」を政治や国家、イデオロギーの問題と関連付けたものが主流だった。『死にがいの喪失』の井上俊の表現を借りるのであれば、「若者」とは既存文化・大人文化から「離脱」する存在であり、それによって自己のアイデンティティを確立するものと考えられていた。これは若者研究における見解であるが、そこまでいかなくとも左翼系の運動に関する報道やテレビドラマといったメディアの中でも「対抗的」な「若者」が強調されていたのも2章で確認したとおりである。

 しかし、70年代後半になると、そうした「対抗的若者」の前提となっていた、学園紛争やニューレフト系の運動が衰退していくことになる。これは2章2節で提示した統計データからも窺うことのできる事実である。単純に考えると、この時点で「対抗的」な「若者」像に基づく「若者語り」はその耐用年数が失効したように思える。事実、「若者」から「対抗的」な性質を読み取る言説もほとんどこの頃には見られなくなっており、「シラケ」や「アパシー」といった語が流行したのも70年代後半のことであった。しかし、「若者語り」はあくまで「若者」を大人文化から「離脱」する存在という前提を捨てなかった。例えば先 の「シラケ」という語には前提として何らかの対象が設定されている必要があるが、70年代後半の「若者語り」においてはそれに相応するのはやはり「全共闘」や「新左翼」といったかつての「対抗的」な若者文化であり、その点において「離脱」する存在としての「若者」が前提としてあったのである。

80年代に入ると、もはや「対抗的」とされた「若者」たちは完全に過去のものとなり、それを前提とする「シラケ」についても改めて指摘されることもなくなった。代わりにこの頃には消費社会が若者文化の中にも本格的に浸透し、それらに積極的にコミットしていく新人類世代が大人世代の関心を集めることになる。2章3節で取り上げた田中康夫の『なんクリ』が象徴するように新人類たちは消費を積極的に楽しむ存在として受容され、その消費も「広告」や「ブランド」、「お笑い」や「ニューアカ」といった具合に多種多様な領域にまたがったものであった。そして、こうしたあるある種「スキゾ」な新人類たちから浅野智彦が指摘するように「若者語り」は「アイデンティティの多元性」を読み取ることになる。70年代の「若者語り」では大人世代への「離脱」によって確立されるとされたアイデンティティは、80年代に入ると代わりに消費によって実現されるものとされ、その多様性から「若者」の「アイデンティティの多元化」を指摘する言説が唱えられるようになった、ということだ。

 ここまでで2章の1節から3節で扱った70年代から80年代までの「若者語り」を駆け足で整理した。突然だが、本稿ではこの20年間に生産された「若者語り」を「若者語り前期」としたい。もちろん本稿で取り扱った「若者語り」におけるおおよその中間地点であるから「前期」とするのではない。これ以降の「若者語り」、具体的には89年の「おたく論」のあたりから、「若者語り」の主題と論調が急激に変化することになるためである。「前期」と「後期」の差異は本節の最後のところで検討するので、とりあえずここまでを「若者語り前期」とすることを確認した上で系譜の整理を続けよう。

 

89年には戦後「若者語り」におけるエポックメイキングな事件がおきた。2章4節で解説した、連続幼女殺人事件である。この事件の犯人Mが「おたく文化」の消費者であったため、これまで特に意識されることのなかった新人類とおたく世代の差異が明確に線引きされると同時に苛烈な「おたく叩き」が始まることになる。

世論調査を見るに、世間一般では「おたく叩き」の見解が共有されていたようだが、しかし、それに異を唱えた大塚英志や宮台真司といった若者論客も登場した。以後、繰り返されることになる「若者叩き」と「若者擁護」の対立がはじまったのもこの頃としてよいだろう。また、「おたく」を擁護する立場の者も、バッシングする立場の者も、互いにおたくのコミュニケーションの問題に焦点をあてた言説が主流となっていったのも「若者語り」における重要なポイントであり、89年以降「若者語り」は「若者」のアイデンティティに関してではなく、コミュニケーションに注目した言説が主となってくる。

特に90年代に入るとそれらは顕著になり、いわゆる団塊ジュニア世代をめぐる言説では「若者」のコミュニケーションを賭け金に「若者叩き」の言説と「若者擁護」の言説が真逆の見解を示すことになっていく。しかし、ここでも世論で支配的なのは「若者叩き」といえる姿勢であった。また90年代後半における「若者語り」で特筆すべきは、新人類世代やおたくが消費形態を切り口に語られていたのに対し、山田昌行の『パラサイト・シングルの時代』に代表されるよう雇用・労働問題を論点とした言説が唱えられることになったということである。先に「おたく論」の時点でアイデンティティ論的な「若者語り」から、関係性論的な「若者語り」に主題が移行したと述べたが、90年代後半では消費から雇用・労働問題への主題の移行も生じていたのである。そして、こちらでも同様に「若者叩き」と「若者擁護」の対立する見解が見られるようになっていく。

00年代に入るとますます「若者叩き」は激化していき、関係性論的な軸と雇用・労働問題の軸にまたがってそうした言説が確認されるようになった。この頃にはケータイが若年層にも普及した時期であり、それに伴い「若者」の「内向化」や「人間関係の希薄化」といった捉え方が社会の中に定着した。また雇用・労働をめぐってはニートやフリーターたちが俎上に乗せられ、「働かないのは甘え」といった具合に自己責任論的な立場をとる言説がマスメディアを中心に生産されてくことになる。また、この対立とは少し距離を置いたところで東浩紀や北田暁大を中心として「若者」の「コミュニケーションの形式化」について指摘する声も見られるようになったのも00年代前半のできごとである。しかし、やはりそこでの議論は関係性論的な視座に基づくものであった。

00年代前半から後半にかけては大きな「若者語り」の変化はなかったが、当事者による若者論は当時話題を読んだ。雨宮処凛や後藤和智など、様々な論客たちがそれに該当するが、彼らに共通するのは「若者叩き」に対するアンチバッシングの立場をとったことであろう。逆を返せば、それほどまでに「若者叩き」が激化していたともいえるのかもしれない。

 

本稿ではここまでで整理した90年から00年代末までが「若者語り後期」ということになる。要所で「若者語り前期」と相違点を述べていたが、今一度「前期」と「後期」の差異を明らかにしておこう。それは大きく3つ挙げることができそうである。

まず一つ目は「若者語り」におけるパースペクティブがアイデンティティ論的なものから、関係性論的な視座に移行したこと。明確にどこで移行したのかとういことはいえないが、一つの契機となったのは89年あたりの「おたく論」以降であろう。

二つ目は同様に「若者語り」の主題に関するもので、消費から雇用・労働問題へ「語り」の切り口が移行したこと。これも明確にどの時期からということはできないが、本稿ではそのメルクマールとして99年に書かれた山田昌行の『パラサイト・シングルの時代』を取り上げている。

 最後は「若者語り」の論調そのものの変化についてである。70年代の全共闘世代やシラケ世代に関する言説や、80年代の新人類世代についての言説は「若者」を「異質な他者」とするものであった一方で、「若者叩き」の傾向があったかといえば必ずしもそうは言い切れない。しかし、89年以後の「おたく論」以降では、明らかにバッシングといって差支えない言説が生産され、統計データを見るに世論調査でもそうした言説を反映していたと思われる結果が出ていた。「前期」から「後期」への移行に伴い「若者」は「異質な他者」から「悪魔的な他者」になったのである。

 次節では「前期」から「後期」にかけてこうした変化があった理由についてそれぞれ考えたい。

 

 

主題Ⅰ

主題Ⅱ

論調

「若者語り前期」

1970~1989

若者の

アイデンティティ

若者の

消費形態

「異質な他者」

「若者語り後期」

1989~

若者の

コミュニケーション

若者の

雇用・労働

「悪魔的な他者」

表:「若者語り前期」と「後期」の相違点

 

 

2節 「若者語り」変容の要因

 まず主題が消費から雇用・労働へ移行した要因について考えよう。これは他の二つと比較すると比較的単純な理由であると考えられる。本稿では再三述べている通り、山田の『パラサイト・シングルの時代』が書かれた90年代後半に、この主題設定が変化したとしているが、周知の通り、90年代はバブル経済がはじけ「失われた10年」とよばれた10年であった。不景気の波は当然、「若者語り」にも大きな影響を与え、「就職氷河期」が94年の流行語大賞にノミネートされたことからも伺えるように就職することがかつてと比べ狭き門となり深刻な社会問題と化した。その中で「若者語り」における消費という切り口はゆるやかに失効し、代わりに雇用や労働が「若者語り」における主題となったというわけである。不況が「若者語り」にもたらしたものは実は上述の主題変化だけではないのだが、それを考察する前に、もうひとつの主題の変化であるアイデンティティ論的な枠組みから関係性論的な枠組みへの移行について考えよう。

本稿ではこれに関して「若者文化の崩壊」が関係しているように考える。何度も確認しているように本稿における「若者」とは大人世代による眼差しによって、全体的な社会集団から文節された存在であり、よって若者文化とされるものもまた同様の性質を持っているといえる。それを念頭においた上で「若者文化の崩壊」とはどういった現象なのか考えたい。「若者文化の崩壊」とは実際に若者文化なるものが喪失したということを意味するのではなくて、若者文化における「大きな物語」が失効し、かわりに「小さな物語」が氾濫するようになった事態を指す。つまり70年代から80年代末までにあった統合的な若者文化が細分化・局所化した、ということである。これは実際に2章の系譜を見れば明らかなのだが、70年代は全共闘や新左翼系の運動、80年代は消費社会系の文化、いわゆる新人類文化といったユースカルチャーが「若者語り」の主たる対象として選択されていた。2章の1節エリクソンの議論を思い出してみると、アイデンティティは「他者」との差異化によって実現されるとされており、70年代の「若者語り」における「他者」とは大人文化であり、80年代における「他者」とは友人といった身近な者たちであった。言い換えれば、「若者語り前期」における「若者」とは若者文化を媒介に「他者」との差異化を志向する存在であったということである。これは逆を返せば想定される若者文化がないと「差異化-アイデンティティの確立」といった枠組みが機能しないということも意味している。

しかし、90年代以降のところでは本稿で取り上げたものだけでも「援助交際」「ケータイ・ネット」「おたく文化」「ひきこもり」「ナショナリズム」「少年犯罪」といった具合に、取り上げられる若者文化もバリエーションに富んでいた。すると、かつてのように「アイデンティティの確立」といった単一的な視角からは、これらの若者文化の「語り」をカバーすることは困難化し、その結果、より普遍的な語り口、すなわちコミュニケーションが主題として選択されるようになったということである。

さらにこうしたコミュニケーション論を主題化した「若者語り」において支配的だった見解は「若者」の「人間関係の希薄化」や「内向化」を唱えるものであった。こちらの理由については本稿でも何度か参照している浅野智彦の著作『「若者」とは誰か―アイデンティティの30年』の中に興味深い議論が紹介されているので、それをここでも取り上げることにしよう。浅野が紹介した橋元良明によれば、「若者」のコミュニケーションが「希薄化」しているとされることには構造的な問題があるという(橋元 [1998])。多くの場合、若者のコミュニケーションに専門的に言及するのは研究者である大学教員であり、よってその対象となるのは周辺にいる大学生が中心となることになる。しかし、大学教授と大学生の間には社会的な距離があり、その距離によって教授間大学生とのコミュニケーションは、学生たちの間で交わされるコミュニケーションと比較すると「希薄」なものになってしまう。橋本はそうした距離感によるある種の「さびしさ」を投影したのが「コミュニケーションの希薄化論」であるとしている。

浅野はさらにそれを橋元の議論を受けた北田暁大の見解もあわせて紹介している。北田はNHKが75年から行っている意識調査を参照した上で、人間関係が希薄化しているのはむしろ大人世代であるとの指摘している(北田 [2012])。それによると、現代中高年は職場や近所で「全面的な関係」を望む者よりも、「部分的な関係」を望む者の方が多くなっており、こう回答した者の割合は若年層を上回っているのである。そして北田は橋元と同様に、一連の「コミュニケーション希薄化論」はこうした上世代たちの社会性を、若年層を見る眼差しに置き換え、投影していると結論づけている。つまり「希薄化論」とは大人世代の眼差しの変化が大きく作用しているということである。

特に一連の「希薄化論」は「若者叩き」の文脈で盛んに唱えられていたが、しかし橋元=北田の議論だけではその理由を説明する証拠として未だ不十分である。「人間関係の希薄化」がバッシングされる直接的な理由にはなりえないからだ。そこで最後に「若者語り」における論調の変化、「若者」を「異質な他者」から「悪魔的な他者」とする眼差しへ移行した要因を最初に明らかにした、消費から雇用・労働問題への主題の変化とあわせて考察したい。

 消費から雇用・労働問題へ主題が移行した理由は先に述べた通り、経済状況の悪化に伴うものであった。しかし、これも先に述べたが不景気はそれとは異なる影響を「若者語り」に与えている。本稿ではここでジョック・ヤングによる「排除型社会」の議論を参照したい。

排除型社会を一言で説明するならば「分離と排除を基調とする社会」のことで、この問題は対概念である「同化と結合を基調とする社会」包摂型社会とともに語られる。ヤングによればかつての社会構造は多様な人々を「労働力」として積極的に受け入れる包摂型社会であった(Young [1999])。このような特徴を持つ社会[1]では、誰かが何らかの逸脱とされる行為をしたとしても、それは近代主義において望ましい属性を欠いているだけの存在として処理され、排除の対象となることはなかった。しかし、後期近代に入り、価値の多様化にともなう実存的不安や経済的な格差による不安が顕著なものになってくると、人々は他者に対して不寛容になり、同時にそうした不安を解消するために自己と他者を本質化した上で、異他性を排除し、自己もしくは自己が所属する集団性の価値を高めるとされている。また排除型社会における特性として「他者の本質化」があり、これはある社会に所属している人々の社会的性格がその社会や文化に固有の本質と結び付けられるということである。

つまり大人文化の外部である若者文化に問題の要因を帰属させる態度は、まさにヤングの「排除」に相応するものであるといえ、当該者たちは若者文化に対する大人文化の優位性や正当性を主張することによって不透明な社会における「不安」を抑え込もうとする。またその眼差しは「他者を本質化」するものであるため、例えば明らかに特異な少年犯罪がおきたとしても、その犯人が若者である以上、若者文化の特殊性と関連付けられて解釈されてしまう。具体的には89年の連続幼女殺人事件や97年の神戸連続児童殺傷事件などの受容のされかたにその傾向をみることができるだろう。

また問題なのは、若者文化の内部でも同様の「排除」が行われているということである。

教育社会学者の新谷周平は、自身が受け持った大学での道徳の授業で「ギャルサー」のVTRを紹介したところ、学生たちの反応が「恐ろしいもの」「モラルのない集団」といった極めて「道徳的」なものであったことに「排除」の傾向を見ている(新谷 [2006-2009])。また別の研究では、00年代のニート・フリーター批判言説が「マジメなマジョリティ」たちによる卓越化の欲求を担っていることも指摘している。本稿における線引きが若者文化/大人文化というものであったのに対し、新谷のいうような「マジメなマジョリティ」/「不真面目な(とされる)マイノリティ」の区分であるならば、十分に若者文化の内部で「排除」が行われることはあり得るだろう。

 

 

3節 「若者そのもの」と「若者なるもの」

 さて前節および前々節では「若者語り前期」と「後期」の差異と、その変化の要因について考えた。本節ではここまでの議論を踏まえつつ、そもそも「若者」とは誰かという大きな問題に踏み込んでいくことになる。本章1節でも述べた通り、「若者」とは大人世代の語りによって規定された存在である反面、その「語り」の中で指摘されるような性質を潜在的には有している。ここで「若者」とはいったい誰なのか、という問を考えるにあたり重要になってくるのは、その「若者」特有とされる性質、いわば「若者」が「若者」であるための「若者の特殊性」といったものがいかにして生成されているか、ということである。

 分析に先立って、以降の論述をよりクリアにするため「若者そのもの」と「若者なるもの」という対立する二項の概念をここで提示したい。「若者そのもの」とは「若者語り」によって示された「若者の特殊性」を実際に有する集団を指し、「若者なるもの」とは「若者語り」を生み出す、大人文化によって共有される「若者」の表象である。

 「若者そのもの」は大人世代の眼差しによって構築されるのであるが、それは認識論的な話には完結せず、その「若者なるもの」は社会的に構築された集団である「若者そのもの」が自己同一性を確認する際にも機能していると考えられる。例えば、「若者語り後期」における社会的排除の一つの傾向として、雇用・労働問題に関する自己責任論が盛んに唱えられたが、これは大人世代の眼差しだけではなく、現実的な影響力を持って「若者そのもの」たちにもスティグマ的な影響を及ぼした。スティグマとは社会学者のゴフマンによって提唱された概念で、直訳すると「烙印」を意味する語である。ゴフマンによれば人は偏見や差別に基づく他者からの眼差しによって、当該者たちがそれらの眼差しを意識し、否定的なアイデンティティを形成するに至るという(Goffman [1963])。つまり「烙印」を押された者たちは、「烙印」を意識することによって初めて被偏見的、被差別的な存在として社会の中に顕在化するということだ。

昨今、就活自殺が深刻な社会問題となっており、2012年の警視庁の統計によると、同年に起きた「就職活動の失敗」が理由と思われる20代の自殺は149人にのぼり、これは07年の60人から約2.5倍に急増している。また一部のデータ[2]では我が国における20代の死因の半分が自殺であるということが明らかになっておりとても看過できる状態ではないことがわかる。これは「若者語り」内部で唱えられた当為が実際の「若者そのもの」にスティグマ的に作用した顕著な例であろう。

 また「コミュニケーションの希薄化論」もスティグマとして機能しているといえ、その一例として若者文化における「コミュ障」「非リア」といった語の流行が挙げられる。両者とももとはネットスラングに由来し、「コミュ障」とは「コミュニケーション障害」の略語、「非リア」とは「友人がいてリアルが充実している」人々を指す「リア充」の対義語である。主にネタ的な文脈での使用が一般的ではあるが、こうした語が流行しているという事実からは「内向化」「希薄化」言説で指摘されるような「コミュニケーション能力の低い若者」の存在を「若者」が想定し、それらを否定的に扱っていることを窺い知ることができる。

 さらに「若者なるもの」はまったくの無根拠というわけではない。これも何度も述べている通り「若者なるもの」は「若者」の表象であるが、そこで取り上げられる「若者の特殊性」は否定することはできない。つまり、「若者なるもの」はそれによって構築した「若者そのもの」を再度観察しているということである。

 整理すると「若者なるもの」は「若者そのもの」を概念上のみならず実質的に構築し、さらには再帰的に「若者そのもの」を観察することによって新たな「若者なるもの」を構築していると考えられる。つまり「若者」―「若者そのもの」とは社会構造の変化とそれに伴う「若者なるもの」によってその特殊性を構築した/された、主体性と受動性の両側面を持つ存在であると結論付けることができるだろう。

 

 

図:「若者なるもの」と「若者そのもの」の相関性

 

[1]ヤングは後期近代への移行を、フォーディズムを前提とした生産様式が崩れ、消費社会が全面化した70年代に見ている。それに即せば若者を排除する傾向が見られるようになるのは本稿における系譜の始発点からということになるが、我が国において経済的な不安が本格的に顕著になるのはバブル経済が崩壊した1990年代からであり、事実「若者叩き」の言説も89年あたりから顕著になっている。

[2]自殺対策白書 平成25年度版

 

 

4章 結論

 

1節 「観察」と「提言」

ここまでで見てきたとおり、この40年間で社会における「若者」の扱いはめまぐるしく変化していた。「若者なるもの」は常にその時々の社会で自明のものとして受容され、またそうした表象に基づく言説も再生産されているが、それによって構築された「若者そのもの」とは常に大人文化による共同主観的な解釈に依拠しており、実のところ極めて恣意的な存在でもあった。

こうしたことから、本稿の最後に強く提言したいのは「観察の必要性」についてである。その必要性をここでは「観察」を「提言」と対置させた上で考えたい。

「観察」とは「対象」[1]の構造的理解を志向する行為であり、それらは「認知的な態度」として顕れる。一方で「提言」とは「対象」への当為を志向する行為であり、それらは「規範的な態度」として顕れ、平易な言葉でいえば「べき論」(「対象」は○○すべきだ)のことである。

「観察」は「対象」を構造的に理解「さえ」すれば達成されるため、そこに対する社会的な「提言」がなくとも成立しうる。逆に「提言」は当為が外部に受容「さえ」すれば達成するため、「提言」の内容が仮に「対象」の印象論に基づいていても成り立つことになる。また「観察」の場合は「対象」の構造が明らかになればその時点で行為が終了するのに対して、「提言」はその当為論が外部に接続されない限り達成されない、いわば外部指向的な行為であるため、何らかの社会的機能が果たされることを前提としている。

しかし「提言」のこうした性質は社会的な意味で大きな危険性を孕んでいる。先述の通りその至上目的は外部接続であり、逆を返せば「対象」の構造が実際にどうなっていようがそれらは関係ない。つまるところ事実関係をミスリードしていようとも、何らかの実効性を帯びてしまうということである。では単に「観察」を意識した「提言」を行えばいいのか、といえばそうではない。「提言」がすでに目的としてある場合、その行為遂行がすでに予定されるため、「観察」をないがしろにされる可能性は十分にあり得る。「観察」と「提言」は完全に峻別されるべきなのである。

本稿においてこうした「提言」の危険性が顕著となった好例として挙げられるのは、01年の少年法の改正であろう。「少年犯罪が減少傾向にあった」という事実を「観察」しなかったため、「凶悪化している若年層はより強固に取り締まられる「べき」」といった当為に基づく言説が共有され、実際の法改正にまで至ったのである。またそうした「凶悪化」の要因をゲームや漫画といったサブカルチャーにあるとし、それらを制限しようとした人々は極めて「規範的」だった。同様にニート・フリーターを「叩いた」言説も「提言」的であり、本田由紀が指摘しているように[2]そうした見解が事実関係を見落としている可能性は極めて高い。事実の認知を意図しないコトバが空転するのならばまだいい。事実に対して認知的でないのにも関わらず現実を構成してしまうことがありうるのである。

私が問題視するのは一連の「若者叩き」言説の意味内容ではない。もちろん当事者として「息苦しさ」なるものは抱えているが、それらが精緻な観察に基づく見解であるならば一向に構わないのである。問題なのは「観察」を意識しない、または自覚的でないことであり、よって若者を「擁護する」言説であってもそれらが「観察」を意図しないのであれば、「若者叩き」同様に何らかの危険性を抱えているともいえる。問題の所在は肯定的/否定的といった立場性ではなく、その構造的な部分にあるのだ。

「若者語り」は「提言」に溢れている。特に排除型社会が全面的になった「若者語り後期」においては大人世代の「若者叩き」によって実存的不安を解消しようとする傾向が顕著に見られ、それらは「認知的な態度」というより、若者に対する当為を含んだ「規範的な態度」が主だった。しかし、そうした「規範的な」物言いは時に状況を明らかにミスリードしており、にも関わらず「若者そのもの」においてはスティグマ的機能を果たしているという大きな問題を抱えている。こうしたことからも「若者なるもの」という表象に対し自覚的かつ、その上で安易な当為論を避け、精緻な「観察」を実践していくことが望まれる。

また「なるもの」については「若者語り」に限定したものではない。「対象」と、そこに何らかのかたちでアプローチを試みる存在があれば、この問題が大なり小なり生じると予想できる。例えば地域社会に対する外部団体の参画や[3]、生徒に対する教師の眼差し。または発展途上国に対する先進国による援助など、とくに外部が「対象」に何らかの機能を果たすことを意図する場合-つまり「提言」を目的とする場合に、両者間の意識の齟齬が発生することが多々あるが、それらは外部の「なるもの」に基づく営みと、「そのもの」における営みの齟齬に他ならない。

 

 

2節 「若者語り」のこれから

 本稿では意図的に2章の9節にあたる「10年代前半編」をあえて設けなかった。「若者語り」―とくに「若者論」における目新しい見解が見られなかったということがその理由として挙げられる。10年代に書かれた若者論はいくつかあり、90年代から今なお活躍する宮台真司や本稿でもたびたび参照している浅野智彦などがその代表として挙げられる一方、「新しい論客」としては『絶望の国の幸福な若者たち』(2011)で注目を集めた古市憲寿、批評家の宇野常寛や濱野智史もサブカルチャーに言及しているという点でこれに該当するだろう。しかし、それら論客の著書に目を通した限り、未だ80年代(中野収を含めるならば75年)から続く関係性論的な論調であり、随所に新たな見解が含まれつつも、基本的には従来的な言説と同じく「若者のコミュニケーションの形式化」や「若者のアイデンティティの多元化」といった方向に閉じられている。マスメディアが生産する「若者語り」の方も同様で、かつてほどではないにしろ未だに特異な社会問題がおこれば、その要因をSNSを中心としたネットメディアに見出し、またその対応としてもネットメディアの規制や有害図書の規制といったものが有効策として打ち出されている。こうしたことから「若者語り」は未だ90年代から続く「後期」の中途であるといえ、2010年代の分析を追加する必要性はなかった。

こうしたことから今後の「若者語り」における行く先としては二つの可能性が考えられる。一つ目は新たなるパースペクティブが共有される可能性。本稿では「若者語り」の系譜を追ったが、その変化は常に社会構造の変化と密接に関係していた。よって今後、社会構造が新たなフェイズに移行するのに伴い、これまでと同様に「若者語り」もまた新たな段階に入ると予想される。逆を返せば「若者語り」に大きな変化が見られないということは、社会構造も90年代以降劇的には変化していないということになる。

もう一つは「若者語り」がその耐用年数を切らす可能性である。「若者語り」はそれを生産すること/共有されることに何らかの社会的な機能を担っていると考えられる。本稿ではその機能がなんであるかは明らかにしていないが、その機能が等価的な別の機能に代替されることがあれば、「若者語り」はこれまでのように盛んに生産されることはなくなるだろう。

「若者語り」が今後このどちらの可能性に転ぶかはわからない。しかしただ一ついえるのは再三述べている通り、社会の「不透明さ」に対して、常に「認知的な」眼差しを意識すべきであり、どんなに社会が複雑化しようとも「観察」を怠ってはならないということだ。

 

[1]ここでいう「対象」とは人、社会、自然の三つに大きく区分され、それぞれ人文科学、社会科学、自然科学の領域に対応している。

[2]本稿2章8節参照

[3]伊藤雅一 2012 「祭の継続はどのようにして成り立っているのか~地域内部の様相と「地域そのもの」・「地域なるもの」の接続」

 

 

 

参考文献リスト

間場寿一  1971「青年の問題意識」『社会学評論』22-2

浅田彰 1984『逃走論―スキゾ・キッズの冒険』 筑摩書房

浅野智彦『若者とアイデンティティ』2009 日本図書センター

    『「若者」とは誰か アイデンティティの30年』河出ブックス

東浩紀  2001『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』 講談社現代新書

雨宮処凛 2007 『生きさせろ―難民化する若者たち』 大田出版

新谷周平 2006 「フリーター・ニートと教育の課題―差異化と抵抗の観点から」

2008 「道徳教育の省察的実践―他者の悪魔化と対話による超克の可能性と限界」

稲垣吉彦 1989『流行語の昭和史』読売新聞社

井上俊 1973 『死にがいの喪失』 筑摩書房

1977 『遊びの社会学』 世界思想社

岩佐淳一 1993 「社会学的青年論の視覚―1970年代前半期における青年論の射程」『若者論を読む』 pp.6-28

岩間夏樹 1995 『戦後若者文化の光芒』 日本経済新聞社

宇野常寛 2008 『ゼロ年代の想像力』 早川書房

2013 『日本文化の論点』 筑摩書房

大塚英志 1989 『物語消費論―「ビックリマン」の神話学』 新曜社

1990 『子供流離憚―さよなら<コドモ>たち』 新曜社

小此木啓吾 1978 『モラトリアム人間の時代』 中央公論新社

小谷敏 1993 『若者論を読む』 世界思想社

大澤真幸 1996 『虚構の時代の果て』 ちくま新書

大澤真幸編著 2008 『アキハバラ発―<00年代>への問い』 岩波書店

景山知佐 2000 『超のび太症候群』 河出書房

笠原嘉 1977 『青年期 精神病理学から』 中公新書

門脇厚司 1993 『子どもと若者の<異界>』東洋館出版社

         1998 『子どもの社会力』 岩波新書

香山リカ 2002 『ぷちナショナリズム症候群―若者たちのニッポン主義』 中公新書

岸本弘 1971 「現代青年の思想」

北田暁大 2002 『広告都市東京』 廣済堂出版

2005 『嗤う日本の「ナショナリズム」』 NHKブックス

栗原彬 1979 『やさしさのゆくえ=現代青年論』 筑摩書房

後藤和智 2009 『お前が若者を語るな!』 角川書店

斉藤孝 1999 『子どもたちはなぜキレるのか』 岩波書店

斉藤環 1998 『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 PHP新書

2001 『若者のすべて―ひきこもり系vs自分探し系』PHPエディターグループ

塩原勉 1971「青年問題の視覚」『社会学評論』22-2

城繁幸 2006 『若者はなぜ3年で辞めるのか―年功序列が奪う日本の未来』 光文社

千石保 1991 『「まじめ」の崩壊―平成日本の若者たち』 サイマル出版会

滝本竜彦 2005 『NHKにようこそ!』 角川文庫

田中康夫 1981 『なんとなく、クリスタル』 河出書房新社

土井隆義 2008 『友達地獄 空気を読む世代のサバイバル』筑摩書房

2009 『「キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像」』

永井均 1998 『ニーチェはこう読め』 講談社現代新書

中島梓 1991 『コミュニケーション不全症候群』 筑摩書房

中西新太郎 2004 『若者たちに何が起こっているのか』 花伝社

中野収・平野秀秋 1975『コピー体験の文化―孤独な群集の後裔』 時事通信社

中野収 1985 『まるで異星人 現代若者考』有斐社

中野独人 2004 『電車男』 新潮社

難波功士 2004「「若者論」論」

2005「「族」から「系」へ」

野田正彰 1987 『コンピューター新人類の研究』 文芸春秋社

広田照幸編著 2008『若者文化をどう見るか―日本社会の具体的変動の中に若者文化を帝位する』 アドバンテージサーバー

古市憲寿 2010 『希望難民ご一行様―ピースボートと「承認の共同体」幻想』 光文社新書

2011 『絶望の国の幸福の若者たち』 講談社

文春新書編集部編 2008 『論争 若者論』 文藝春秋

星野克美 1985 『消費の記号論』 講談社新書

本田由紀・内藤朝雄・後藤和智 2006『「ニート」って言うな!』 光文社新書

本田由紀編著 2007 『若者の労働と生活世界』 大月書店

正高信男 2003 『ケータイを持ったサル―人間らしさの崩壊』 中公新書

松谷創一郎 2008 「<オタク問題>の四半世紀」 羽渕一代編著 『どこか<問題化>される若者たち』 恒星社厚生閣

三浦展 2005 『下流社会―新たな階層集団の出現』 光文社

2005 『仕事をしなければ、自分は見つからない―フリーター世代の生きる道』 晶文社

宮台真司 1994 『制服少女たちの選択』 講談社

1998 『終わりなき日常を生きろ』ちくま文庫

宮台真司・藤井誠二 2001 『脱社会化と少年犯罪』 創出版

宮台真司・大塚朋子・石原英樹 2007 『増補サブカルチャー神話解体』ちくま文庫

守弘仁志 1993 「情報新人類論の考察」 『若者論を読む』pp.142-168

山田昌弘 1999 『パラサイト・シングルの時代』 ちくま新書

湯浅誠 2008 『版貧困』 岩波新書

ヨハンナ・オサクラ 2011 『フーコーをどう読むか』 新泉社

Erikson, Erik Homburger 1968 “identity” 岩瀬庸理訳 1969『アイデンティティ―青年と危機』北望社

Jean Baudrillard 1968 “Le Système des objets” 宇波彰訳 1980 『物の体系―記号の消費』 法政大学出版局

  1970 “La Société de consummation” 今村仁司,塚原史訳 『消費社会の神話と構造』紀伊國屋書店

Jock Young 1999 “The Exclusive Society: Social Exclusion, Crime and Difference in Late Modernity” 青木秀男・伊藤泰郎・岸政彦・村澤真保呂訳  2007 年『排除型社会――後期近代における犯罪・雇用・差異』 洛北出版

Michel Foucault 1961 “L'Histoire de la folie à l'âge classique” 田村俶訳 1975年『狂気の歴史』 新潮社

 

 

◆おわりに

 

本稿は主題に対して適当だと思われた自分の手持ちのカードを全て用いて書きました。昔からあまり努力が好きではない自分ではありますが、この論文に限っては全力を尽くせたと思っております。ただ、それでも本稿には(少なくとも自覚可能な)いくつかの「欠陥」がありますので、以下に記しておきます。

 まず学校教育に関する記述がほぼ皆無といって差支えないこと。「若者語り」は当然、学校教育の領域と密接に関わっているといえ、今日でも「若者の内向化」や「コミュニケーション能力の低下」といった言説に基づいて教育的実践がされているのを私は大学生活で目にしてきました。若者論とされる著作の中にも学校教育について言及されたものは数多くあり、例えば本稿で何度か参照させて頂いた浅野智彦先生は、『論争 若者論』(2008年 文藝新書)の中に寄稿された「若者論の40年」というブックガイドの中で「若者論の40年を知るための10冊」の一冊として苅谷剛彦氏の『階層化日本と教育危機』(1999年 有信堂高文社)を紹介されています。また他にも代表的なものでは土井隆義氏の『友達地獄―空気を読む世代のサバイバル』(2008年 ちくま新書)なども挙げられ、これら著作を俎上から降ろしたことは、ひとえに学校教育領域への言及を避けて執筆を簡略化するためだったからに過ぎません。

 他方で、「若者」/「子ども」の差異についても私は頭を悩ませていました。「若者」という集合に「子ども」が含まれるのか、それとも「若者」と「子ども」は峻別されて考えるべきなのか。その思考の紆余曲折の結果、本稿では明言していませんが「若者」・「一般的子ども」/「学校教育における子ども」という区別をするに至りました。本稿における「若者」・「子ども」というのはもともと概念や言説によって構築された存在であり、そうした観点に基づくとなると、世間一般における「若者」・「子ども」の「語り」と「学校教育における子ども」の「語り」は相互に関係し合いながらもそれぞれ別領域での「コミュニケーション」であるよう捉えられます。こうしたことも学校教育に関する記述を避けた理由の一つであります。

 次に本稿における「実証性の薄さ」についてですが、これはもはや研究における致命的な「欠陥」といっても差支えなく、系譜学―言説分析といった方法論を確立したのがそもそもニーチェ=フーコーといった抽象的かつ思弁的な語りの思想家であったため、その理論的強度は書き始めの段階で疑問視されるべきものでした。また本稿では何度か世論調査といった統計データも参照していますが、実際のところ、これがマスメディアや一部の若者論客によって生産される「若者語り」を反映しているのか否かについては「実証」されていません。こうしたことからも、言説分析は大変興味深い研究手法である反面、その実証性については今後とも議論が交わされていくことになると予想されます。

 

最後にいくつかの謝辞もここで述べておこうかと思います。

まず卒論指導教官の神野先生をはじめとした生涯教育課程の先生たちに。私は4年間でいくつかの研究室のゼミにお邪魔させて頂きましたが、そこでの体験どれをとっても自分には新鮮で、また(決して悪い意味ではなく)時に同じ対象について語るそれぞれの先生の見解がまったく異なるものであったことも大変よい刺激となりました。このことは一つの出来事に関しても多元的な理解があることを私に教えてくれ、またあらゆる解釈に対する相対的な眼差しを獲得できた一番の理由でもあります。「若者語り」を所与のものとしない捉え方も、こうした環境での学びの成果によるものかもしれません。

次に論文執筆にさしあたって、私の拙い考察に貴重な意見を述べてくれた友人のみなさんへ。ゼミで議論した学友はもとより、プライベートな付き合いがある友人や、これまで共に学内で活動をしてきた友人、果ては両親や恋人もここに含まれます。全く異なる生活領域のみなさんであるので、それぞれの意見は生涯教育課程の教授陣と同じく多様性に満ちており、本稿への重要な示唆も得ることができました。特に博士課程の伊藤さんには大変お世話になりました。彼には何度も相談に乗ってもらい、また何度も鋭い指摘を頂いており、本稿のキーとなる概念の「若者そのもの」/「若者なるもの」は伊藤さんの修士論文(さらにいえばその指導教官だった新谷さんの論文)から着想を得たものであります。彼がいなければ本稿をいまのかたちで書きあげることはできなかったといっても過言ではないです。

最後にスペシャルサンクスとして、論文執筆に関して他大生の急遽の訪問であるのにも関わらず快諾して下さった学芸大学の浅野智彦先生、東京大学の北田暁大先生への謝辞もここに記させて頂きます。

 

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