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Hacikng,Ian 1999 『何が社会的に構成されるのか』

http://www.amazon.co.jp/何が社会的に構成されるのか

 

 本書は科学哲学者I,ハッキングが理系vs文系最大の論争サイエンスウォーズ及び社会構成主義の視角について、「中立な」立場から整理したものだ。本書全体を通して非常にハッキングの歯切れがよく、内容も理解しやすい。

 

 

第1章 なぜ「何が」を問うのか

 

第2章 多すぎるメタファー

 

第3章 自然科学はどうなのか

 

第4章 狂気―生物学的かあるいは構成されるのか

 

第5章 種類の制作―児童虐待の場合

 

◆構成主義とは何か

社会的構成というアイディアが人をさまざまな束縛から解放する、驚くべき効果を持っていた、という理由があろう。(p4)

 ハッキングは80~90年代にかけての社会構成(構築)主義ブームの由来を、構成主義がもつこのような効果に見る。しかし、何でもかんでも「構成物」と断言してしまうとソーカル事件―サイエンス・ウォーズのような混乱が起きる。そこで本書は「社会的構成」という概念を分析することを目的とする(p7)。

その上で、次に構成主義者の抱く思惑を以下のようにまとめる。

 

(1)X(自明視される概念)のこれまでの存在には必然性はない、ないしは、それが現在あるような仕方をしている必然性はまったくない[…]。

(2)Xの今日のありようは、まったくもって悪いものである。

(3)もしXが根こそぎ取り除かれるか、少なくとも根本的に改められるかすれば、我々の暮らしはいまよりずっとましになるだろう。 (p15)

 つまり構成主義者はの主張には社会的な構成物であるXに対する批判や否定の意図が含まれているということである。例えば「選挙制度は社会的に構成されている」という命題は、自明のことであり、人々の関心を喚起するものにはならないだろう。

◆「観念」と「対象」

 構成主義は無差別に「それは社会的に構成されている」ということはできない。サイエンスウォーズを勃発させた張本人であるA,ソーカルの言葉に「物理法則を構成物というのであれば、高層ビルの21階から飛び降りればいい」というものがある。物理法則とは懐疑する余地のない(現象学的に言えば「それ以上疑うことに意味のない」)事象であり、これを社会的構成物とすることはできない。ハッキングはこうした疑い得ない事実を「対象」とし、「対象」の対概念として「観念」なるものを挙げている。
 「観念」とは「それについて議論されたり、誰かによって受け入れられたり、みなで共有されたり[…]、意味内容が明確にされたり、異を唱えられたりするもの」のことで、先の「物理法則」の例に当てはめるのならば、「物理法則」それ自体は「対象」であるが、その印象や表象は「観念」ということになる。そして、社会的に構成されるのはこの「観念」に他ならない。

 さらにこの「観念」を構成する社会的な環境のことを、本書では「マトリックス」と呼んでいる。この「マトリックス」の中で「観念」は形成されるのである。

 

 

◆自然科学はどうなのか

 サイエンスウォーズにおいては自然科学における研究を社会的な構成物として批判する動きが盛んであった。しかし、先述の「対象」―「観念」での議論を踏まえると、自然科学は「対象」を扱う学問領域であるため、一見すると構成主義者たちによる批判が妥当ではないように思える。本書の3章にあたる「自然科学はどうなのか」ではハッキングが「自然科学の構築主義」が一体なにを疑っていたのか、ということ3つの係争点から解説を試みている。

 

①偶然性

『クォークを構成する』(Pickering 1995)はハッキングも言うとおりなんとも大胆不敵なタイトルである。クォークとは素粒子のことであり、それ自体は紛れもなく「対象」であるため、少なくともこの書名の字面通り受け取れば明らかに誤っているように感じられる。しかし、ハッキングはここで著者であるピカリングの意図を汲み取り、その妥当性を主張する。

 曰く、ピカリングの疑念はクォークの「観念」でも、ましてや「対象」としてのクォークでもなく、「クォーク発見の必然性」にある。つまり、物理学はクォークを想定するという道筋をたどる必然性はなかった、ということである。この見解は必然的にパラレルな(あるいはオルタナティブな)道筋をたどった物理学の可能性を示唆している。

 

②唯名論

『実験室の生活』(Latour and Woolger 1986)においてラトゥールとウールガーは、「事実」というものを「科学的活動の原因(動機)」としてではなく「科学的活動における帰結点」であると主張した。こうした「事実」や「真理」というものは意味論的に高い次元にある「エレベーター語」であり、それを定義しようとすると堂々巡りに陥ってしまう。一般に「真理」や「事実」は所与のものとして世界の中に実在すると思われているが、その真理性を決定するのは人間であり、その点において「科学的活動における帰結点」、つまり社会的に構成されたものであるといえる。ラトゥールとウールガーが言うように、事実が事実として存在していることは疑い得ないが、それはあくまで人工的に構築されたものなのである。

 

③安定性の不安

 自然科学がその論理的耐久度、すなわち安定性を保ち続けるための条件とはなんだろうか。おそらく、一般的にはその安定性とは科学知識の真理性、妥当性によって保証されると考えられているだろうし、多くの自然科学者もそのように考えるだろう。すなわち、自然科学の安定性とは自然科学そのものに内在しているという考え方である。これに対し、K,ポパーやT,クーンといった科学哲学者たちは科学の安定性は社会的な関係性やネットワークに依存すると異を唱えた。彼らが活躍した時代が(それこそポパーの言葉になるが)科学のパラダイムシフトを経験した時代であり、自然科学に対する絶対性が揺らいだ時期であったことを考慮する必要があるが、それでも両者の申し立ては少なくとも絶対知なるものが完成されるまでは重要なものだといえるだろう。

 

 

◆様々な「種」

 本書の4-5章では、多種多様な「種」の存在について言及されている。このうち、ループ効果の議論において最も重要な「種」の区分として、「自然種」/「人口種」―「相互作用種」がある。

 「自然種」とは自然科学が扱う「ヒト」を除く全ての「対象」であり、巨大天体から微生物、先のクォークなどもこれに該当するだろう。対する「人口種」とは人間科学(ヒトに関する自然科学、人文・社会科学)の扱う「対象」を意味する。単に「自然種」/「人口種」という区分だけならば、特に目新しさもなく、さほど重要にも思えないが、そこに「相互作用種」が加わると話が変わってくる。「相互作用種」とはそれを取り扱う科学や言説から何らかの影響を受けてしまう「種」のことであり、つまるところ「ループ効果」を形成する「種」である。この定義によってまずは「自然種」が「相互作用種」から除外されることになる(天体もクォークも自らの研究内容はおろか自分たちが研究されていることすら意識することはできないだろう)。となってくると、「人口種」=「相互作用種」と判断してしまいそうになるが、ここで留意しておくべきは「人口種」全てが「相互作用種」になるわけでもない、ということだ。

 ハッキングは「人口種」だが「相互作用種」ではない種の例として「自閉症の子ども」を挙げる。彼らは心理学や認知科学、行動科学といった人間科学の「対象」である点においては紛れもなく「人口種」であるはずだが、その人間科学での研究成果や、または社会における自分たちに対する態度などを自覚することは(おそらく)できない点で「相互作用種」にはなり得ないのである。

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