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Durkheim,Emile 1897→1985 『自殺論』

エミール・デュルケム 1897→1985 『自殺論』

 

 本書はマックス・ウェーバーと並んで、社会学黎明期を支えた巨頭の一人デュルケムの主著だ。当時のフランス社会の自殺の背景にあるメカニズムを、統計データを巧みに駆使して暴き出した業績は大きく、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と並んで今なお、社会学の初学徒たちに読み継がれていることからも、その優れた分析的視座を窺い知ることができるだろう。

 さっそく内容の紹介に入ろうと思うが、その前にウェーバーとの対比を明瞭にしておきたい。これは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神のページに書いたことでもあるが、ウェーバーがプロテスタンティズムという諸個人の主知的領域に注目し、マクロな資本主義の構成を考察したのに対し、デュルケムは以下で見る通り、マクロな社会構造が、諸個人による「自殺」という実践を規定していると主張する。つまりウェーバーが「個人→社会」という方法論的個人主義のパースペクティブに準拠したのとは、ある意味で真逆の視点で本書の議論は展開されており、方法論的個人主義に対比する表現を用いれば、デュルケムの眼差しは「社会→個人」の方法論的集団主義的である。

 

 まずデュルケムは冒頭で自殺を定義することから始める。それによれば、

「死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも当人がその結果の生じることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける。」p.22

いささか冗長な書き方がされているが、これは一般的に自殺と言ったときに想起されるイメージと概ね同じだろう。「死」を前提とした積極的ないし消極的行為が自殺というわけだ。

 このように自殺を定義した上で、次にデュルケムは政治的変動期(革命前夜など)や都市/地方の対比、年齢や性別といった様々な変数から統計的な自殺の件数について言及する。要約すると、

「けっきょく、著者は、次の三つの命題を順次立証してきたことになる。

自殺は、宗教社会の統合の強さに反比例して増減する。

自殺は、家族社会の統合の強さに反比例して増減する。

自殺は、政治社会の統合の強さに反比例して増減する。

以上を比較することにより、次のことが明らかになる。すなわち、それらの種々の社会が自殺の抑制作用を持っているのは、それぞれの社会の特殊な性格によるのではなく、それらすべての社会共通するある原因による、ということである。」p.247

そしてこの分析をより一般化することで「自殺は個人の属している社会集団の統合具合の強さに反比例して増減する」という極めて重要な帰結が導出される。これこそデュルケムが本書で提示する1つ目の自殺類型「自己本位的自殺」に他ならない。

なぜ社会の成員間の紐帯が弱まると自殺が増加してしまうのだろうか。デュルケムによれば統合の度合いが低い社会においては共同の目標よりも、個人的目標の方が優先されることになり、諸個人の私的関心が強まる一方で、社会的自我が弱体化してしまう。その結果として自殺を抑制する集合的な力が弱まり、自殺が増加するのだという。

 

では連帯が強い社会において、自殺は減少傾向にあるのだろうかと思うが、デュルケムによればそうでもない。前近代的な生活を営む民族などでは、個人が確立されていない場合が多々あり、個人と共同体と未分化である。こうした過度に緊密な凝集力がある社会においては社会が個人を強く従属下置いており、社会が散り散りの場合とは真逆ながらも、自殺が多く観察されるのである。これが2つ目の類型「集団本位的自殺」だ。

「自我がただ自分自身の生をいとなみ、自己以外のなにものにも従属しないでいる状態を自己本位主義と名づけたうえは、集団本位主義という言葉が、その反対の状態をあらわすのに適切であるといえよう。すなわち、自我が自由でなく、それ以外のものと合一している状態、その行為の基軸が自我の外部、すなわち所属している集団におかれているような状態がそれである。」pp.265-266

 

ここまでで社会の統合が過度に弱い場合の自己本位的自殺と、過度に強い場合の集団本位的自殺の2つの類型を紹介した。本書ではさらに「アノミー的自殺」なるものが紹介されている。アノミーとは無秩序状態のことであり、人の活動が規制されず、その無規制が苦悩を生み出した結果、この種の自殺が増加するという。

「アノミーは、現代社会における自殺の、恒常的かつ特殊的な要因の一つであり、年々の自殺率を現状のごとく維持している一つの源泉にほかならない。こうして、われわれは、他のタイプから区別されるべき新しい自殺タイプをここに見出したことになる。」p.319

一見すると社会の連帯が弱まったことで生じる自己本位的自殺と同種のものであるように思えるが、デュルケムによれば両者は関連がありながらも、異なる自殺類型である。というのも、自己本位的自殺が生じる場合、社会なるものが喪失しているのは集合的活動においてであり、諸個人を繋ぎとめることができないからであるのに対して、アノミー的自殺は社会なるものが諸個人の情念から消えている状況下で生じるものであり、その情念を規制することができないため死が選択されるためである。

 

駆け足ながらデュルケムが提示した自殺の三類型を整理した。最初に述べた通り、彼の視点が「社会→個人」に向いているのがわかるだろう。すなわち社会(の統合度合い・秩序の状態)が個人(の自殺)を構成しているのである。

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