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2014年度うきうき読書デスマラソン―構成主義(社会学理論)編

 

※本ページは2014年度に(一人で開催した)うきうき読書デスマラソンについてのまとめです。まさか二回目を開催できることになるとは思っておらず、また休学中だったので暇にまかせ、ちょっと複雑性を高めて構成主義についてまとめたぽよ。

 

 

0:構成主義とはなにか。

●社会学全てが構成主義だよねって言うなよ

 「社会構成主義」―「Xは社会的に構成されている」とする立場なので、まあ字義通りに捉えれば間違っていない。実際に中河伸俊なんて人は「究極的には社会学とは構成主義である」なんて言っている(中河 2001)。確かにウェーバーは「資本主義を社会的に構成されている」としたし、デュルケムは「自殺を社会的に構成されている」と主張した。だから「社会学=構成主義」という主張は決して間違ってはいない。しかし、決して間違ってはいないけども、それは何も言っていないに等しい。じゃあ最初から周りくどい言い方をせずに社会学って言えよダボがって思うじゃん。

 だから、ここでは構成主義という語の含意を簡単に探り、次にその区別に準拠した文献リストを作成したい。じゃないと、マジで社会学の文献全部拾わないといけなくなるけぇのお。

 

 

●マクロ/ミクロ

 とりえあえず構成主義のこと構築主義とも言ったりするよね。上野千鶴子によれば構築主義/構成主義の違いは、前者が「マクロな構造→ミクロな行為」という方向の視点に基づいているのに対し、後者は「ミクロな行為→マクロな構造」という視点に準拠しているという(上野 2000)。

 しかし、この区別はイズミ的にはあまりよろしくない。というのは、マクロ/ミクロという区別をいらずらに強調すると、構成主義の立場を分断してしまうことにつながりかねないからである。例えば、上野のいう構築主義的立場では「マクロな構造→ミクロな行為」という想定が可能だが、では「そのマクロな構造を規定するのはなにか」という問いに対して回答することができなくなってしまう(そして逆もまた可である)。つまり一方通行的な眼差ししか有していないためである。

 

 

●観念/集団・制度

 いきなり国を飛んで、カナダの科学哲学者イアン・ハッキングの区別を参照しよう。ハッキングによれば、構成主義者たちは、以下のような思惑を有しているという。

 

(1)X(自明視される概念)のこれまでの存在には必然性はない、ないしは、それが現在あるような仕方をしている必然性はまったくない[…]。

(2)Xの今日のありようは、まったくもって悪いものである。

(3)もしXが根こそぎ取り除かれるか、少なくとも根本的に改められるかすれば、我々の暮らしはいまよりずっとましになるだろう。 (Hacking [1999→2006:15])

 

 ハッキングによるこの定式化はかなりくだけているけど、うまいこと構成主義について言い得ている。特に(1)の括弧内に何気なく書かれている「自明視される概念」という一語。これこそがまさに構成主義的立場の核となるところである。例えば、エスニックマイノリティや選挙制度といった社会的慣習が「社会的に構成されていますよ~」と告発したところで、誰もが「あっそふーん」というだろう。そんなことはわかりきっているから。しかし、例えば「若者」や「精神病」といったふだん当たり前だとされている概念が「社会的に構成されていますよ~」と指摘されたらどうだろうか。おそらく、研究の新規性の観点からも、日常的実践の立場からも構成主義の主張は(少なくとも制度や集団の場合よりも)注目されるだろう。そして往々にして構成主義者は(2)と(3)の主張につなげるものであるが、まあ一旦それは置いておこう。

 肝心なのは構成主義は集団や制度ではなく/観念に着目するのである。

 

 

●シカゴ学派/現象学的社会学/言説分析系マージナルな奴ら

 とりあえず構成主義という語の含意は「観念が構成されていることの告発」にあることがわかった。ゆえに今回の読書デスマラソンのコースは「観念的な意味での構成主義的立場」についての主要文献ということに決定した。おそらく読みきることは出来るだろう。でもこれじゃあまだ文献リストを「製作する」には範囲が広すぎる。ただ網羅するよりも、リストを区別した方が読みやすいしなにより楽だ。ので、次により専門的にシカゴ学派/現象学的社会学/言説分析系という区別を設けたい。

 具体的に掘り下げよう。シカゴ学派とはアメリカ社会学における「第三世代以降のシカゴ学派」をここでは指している。シカゴ学派といえば、フィールドワークの手法の確立に寄与した功績を取り上げられがちだが、理論もガチガチであり、構成主義という言葉を中心となって使っていたのは彼らだった。特徴としては比較的限定的な領域に焦点を当てることタイプの構成主義だったことが挙げられる

 構成主義という語を中心的に使っていたグループの一つは上記の「第三世代以降のシカゴ学派」だったのだが、社会的構成という文言を最初に使ったのは現象学的社会学のP・バーガーとT・ルックマンだった。この二人は若干マニアックな人たちだけど「現実の社会的構成」という重要なテーゼを提示しており、よって、ここでは現象学的社会学の系譜をデス読書マラソンのコースに加えたい。たぶんみんな大好きルーマンとかもその系譜上に出てくる。どちらかといえば、より包括的な構成主義的立場であるといえる。

 最後に、言説分析系についての説明だが、これがちょっと難しい。っていうか現時点でこの立場を強調したのがフーコーとさっき出てきたハッキングしか思いついてない。苦肉の策でカンギレム&アリエスとニーチェをコースに加えようか迷っているけど、前二人は歴史学者だし、ニーチェは思想家だしなぁ。でもそういえばそもそもフーコーもハッキングも社会学者じゃねーわ。レインやポモ界隈も加えて「社会学じゃない人たちの構成主義」ってことにしよう。言説分析っていうくくりやめよう。やめやめ。マージナルな奴らってことで。

 

●ここまでの整理

 構成主義は、

①実体のある集団や制度でなく観念に注目する(読書デスマラソンのコース設定)

 

②以下の三点に区別できる(読書デスマラソンのコース分割)

(a)第三世代以後のシカゴ学派―より限定的な構成主義

(b)現象学的社会学―より包括的な構成主義

(c)言説分析マージナルな奴ら―社会学以外の立場による構成主義

 

 では順に文献リストを製作していこう。コース分割したけど途中でコースがつながるかも。まぁ学史とはそんなものである。

 

 

 

1:シカゴ学派の構成主義

 シカゴ学派の構成主義は先述の通り、より限定的な観念に注目する。とはいえ系譜に位置づけなければなので、さっそくルールを無視して、観念ではなく自己に焦点を当てた人から(しかもたいして面白くもない)から紹介せねばなのはマジで心苦しいで。

 

●H・G・ブルーマー 1969→1991 『シンボリック相互作用論―パースペクティヴと方法』

 

http://www.amazon.co.jp/シンボリック相互作用論―パースペクティヴと方法

 

 シカゴ学派を第四世代からではなくて、第三世代から開始しないといけなくなったのはひとえにこのブルーマーのせいだ。その彼によるシンボリック相互作用論(長いから以下Symbolic Interactionism 略してSI)という今では少し忘れ去られた感のある理論を最初に提唱した本がこれ(自己論の人とか未だに使ってるかな。イズミは鈴木謙介っていう宮台の弟子が使っていたの目撃したことある)。ちなみに一般にSIの起源はプラグマティズムで有名なデューイのお仲間、G・H・ミードまで遡ることができるとされる。

 ミードによれば、自己とは自我(I)/客我(me)から構成されている。自我とは他者との関係性の中で育まれる自己の側面であり、いわば関係性の中で社会的な規範を獲得していく際の「受け皿」として機能する。他方で、客我は、ある程度自我が獲得されていくと機能し始め、獲得された規範に基づいて「自己内呼びかけ」を行う。

 例えば、「道端に壱万円落ちている」というシチュエーションに遭遇したとしよう。このとき、あなたに「拾っちゃダメよ」という天使の呼びかけをするのが客我であり、その客我を獲得したのが自我である。そして肝心なのは、客我に基づく規範的な行為が、役割期待を通して別の誰かの自我を育んでいる、ということである。ゆえにシンボリック「相互作用」論なのですね。

 さっきSIを終わコン扱いしちゃったけど、SIの役割期待の議論はパーソンズの社会システム理論(文化システムによる「規範の内面化」のの議論はほぼ上述のミードの主張だったりする)や初期のゴフマンの演技論に強烈な影響を与えていたりするので侮れない、というか少なくとも当時はかなりの影響力を持っていたと考えられるね。

 で、肝心のブルーマーの理論なんだけど、これがまた大したことない。というかミードが大体SIの基礎を構築しちゃったのでブルーマーはあまり重要な主張をできなかった、という表現の方が適切かもね。ていうか本当にブルーマーの主張で書くことない。強いてあげれば、ブルーマーが社会を先のミードによる「シンボリック相互作用」の連鎖として捉え、社会学者はその連鎖の中に参与していく必要性があると主張しているところかな。心的作用としての社会は、社会学初期におけるジンメルのものにも通じるところがあり、この点は押さえておいた方がよいかもしれない。あとまぁ「シンボリック相互作用論」という名前をつけたのはこの人なのでそこは功績としなきゃならないか。

 

 

●H・ベッカー 1963→1993 『アウトサイダーズ―ラベリング理論とはなにか』

 

http://www.amazon.co.jp/アウトサイダーズ―ラベリング理論とはなにか

 

 やっと構成主義っぽくなってきたよ。ベッカーはシカゴ学派の第四世代のエースで、フィールド参入のためにジャズやったりバーテンやったりと、恐ろしいほどのハイスペック研究者だ。この『アウトサイダーズ』という著作が最も有名なのだけど、"Art World"という別の著作ではそうしたベッカーの多様な文化的経験が存分に活かされていて、相当に面白いらしい。

 で、本書の解説に移りたいのだけど、実はこいつもけっこう問題児なんだよね。というのは表題に「ラベリング理論とは何か」と銘打っておきながら、ラベリング理論について言及されているのは序説(いわゆる理論枠組みの紹介)だけで、あとはアウトサイダーズによるマリファナ服用の話がずっと続くというめっちゃ奇妙な構成をとっているから。おそらく「俺はフィールドノーツを淡々と整理していくから、お前らがラベリング理論の観点から勝手に解釈しろよな!」っていうスタンスと予想される。

 ここで「ラベリング理論とは何か」という表題の問いに再訪することになる。ベッカーが序説で解説するラベリング理論とは「逸脱は制度や規範によってあらかじめ規定されているものではなく、ある行為にラベリングがなされたときに初めて社会の中に顕在化する」ということを説明する。ちょっとなんのこっちゃなので解説すると、逸脱って一般的にはルールによって決められているものだと考えられているじゃん。でもベッカーによればそうした「ルールによる規定」は形式的なものに過ぎなくて、本当はある行為―例えば「マリファナの吸引」に逸脱のレッテルが貼られたときに「逸脱」として認知されることになるって主張をしているの。わかった?

 ラベリング理論は当初、逸脱といった行為観念にのみ焦点を当てていたのだけど、後に反精神医学運動(たぶんあと5回くらいこの運動は登場する)とかにも応用されるようになり、なんとかって人(マニアック過ぎて名前忘れた)は、「精神病棟に健常者を精神病の診断つまりラベリングを貼ってぶち込む」みたいな倫理的にやばい研究を発表していたぞ。でも興味深いことに、医者は健常者に一度精神病のラベルを貼ってしまうと、なかなかその眼差しを改めない、つまり「ラベルを剥がそうとしない」。こうした特定の社会集団に対するラベリングの例ってけっこう日常生活の中で観察できて、例えば宮崎事件以後のオタクの扱いとかはまさにラベリング理論の出番って感じですよね。

 

 

●J,I,キツセ&B,M,スペクター 1977→1990 『社会問題の構築―ラベリング理論を越えて』

 

http://www.amazon.co.jp/社会問題の構築―ラベリング理論をこえて

 

 本当はゴフマンを間に挟みたかったけどまあ後に回そう。出版10年足らずで「ラベリング理論を越えて」という大胆不遜な挑戦を突きつけられてしまったラベリング理論。しかし、思うにキツセとスペクターによる本書の考察では、ラベリング理論は超克できていなし、はっきり言ってラベリングとはけっこう別物である。キツセ&スペクターの知名度はベッカーの知名度にはるかに劣ることからも察して欲しいかな。

 スペクターとキツセによれば社会問題とはある特定の「状態」のことではなく、「活動」のことである。例えば、当時のアメリカでは子どもの誘拐事件が多発していて、牛乳パックに誘拐された子どもの特徴を書く活動が広まったらしい。「牛乳がまずくなる」とかって突っ込みは置いとくとして、二人からすればこのとき社会問題となっているのは「子どもが誘拐されていること」という状態ではなく、それに対する「牛乳パックで子ども探し」という運動が社会問題ということになる。「ある行為はラベリングを貼られたときに逸脱となる」というベッカーの主張となんとなく近いような遠いようなね。

 そんでまあスペクターとキツセは結局何を本書の中で強調ししたかったかというと、ある社会的現象に対する客観的実在性などは実は存在せず、社会的現象は現象に対する眼差し及び各人の働きかけによって流動的に構成されているよということかな。これを社会問題(社会的現象)に対する「異議申し立て」(働きかけ)を例にとって説明したわけだ。ちなみに、ここで客観的実在性を認める立場として二人が想定しているのは当時一大パラダイムを築いた機能主義的立場だ。本書ではマートンの名前が出てきているね。構成主義論争ってやつだね。

 

 

 

●S・ウールガー&D・ポーラッチ 1985→2000 「オントロジカル・ゲリマンダリング」

 

http://www.amazon.co.jp/構築主義の社会学―実在論争を超えて

 

 さーてどんどんマニアックになってきたよ。先にラベリング理論の系譜やるからゴフマンは後回しでええわ。マニアックとか言ったけどウールガーは科学社会学の筆頭であるラトゥールとも共同研究したことがある大物で、まあこの論文はクソだけどその界隈ではけっこう知られている研究者。まず「オントロジカル・ゲリマンダリング」ってどこの超合金ロボだよって。直訳すると「存在論的なontological・有利な線引きgerrymander」ってなる。ちなみにgerrymanderっていうのは「選挙区を特定の候補者に有利に区切ること」を意味する単語で、ontologyはまだしもこっちは普段使わないよね。

 では、この「オントロジカル・ゲリマンダリング」というメタファーを用いてウールガーとポーラッチはなにを試みたのか。それは先述のベッカーとスペクター&キツセの構成主義に対する批判である。曰く、こいつら三人はAを社会的に構成されていると主張しつつも、それを構成したとされる環境Bは自明のものとして想定しているという。例えばベッカーはA逸脱をラベリングによって構成されるとしたが、一方でBマリファナの成分は自明の環境として想定している。しかし、なぜAは社会的に構成されているとしてBはそうではないといえるのか。それって「オントロジカルな意味(存在論的に)でゲリマンダリング(有利な線引き)してるよね~」というのがウールガーとポーラッチによる批判の概要である。

 ちなみにこいつらの批判を真に受けると「Aを構成したBを構成したCを構成したDを構……」という無限後退に陥ってしまうことになる。本当に厄介な突込みを入れてくれたもので、実際、これが内ゲバ的な論争を巻き起こしてしまった。でも実はこんなチェックメイトな一手に対してもちゃんと答えは用意されているんだな。たぶん3マージナルな奴らのとこで出てくる予定(マジで構成考えずにやってるから変わる可能性も全然ある)のハッキングは難なく乗り越えてる。

 

 

●E・ゴフマン 1963→1980 『集まりの構造―新しい日常的行為論を求めて』

 

http://www.amazon.co.jp/集まりの構造―新しい日常行動論を求めて

 

 時は遡り、ベッカーがシカゴ学派第四世代として活躍した同時期に、同じく第四世代の名前を背負う男がいた。その名はアーヴィング・ゴフマン。こいつもなかなかすごい社会学者で、今日の社会学の議論にも余裕で耐えうる構成主義的主張をしているなかなか稀有な人だ。しかし、ゴフマンの著作は例外なく英語版は頭おかしいレベルで読みにくい。英語圏の辞典にすら載っていない単語や言い回しガンガン使ってくる失われし言語の使い手である(ゴフマネスクと呼ばれるゴフマンの異常に難解なレトリックは、それ単品で研究対象になってたりもする)。幸い日本語訳は相当に頑張って読みやすくなってるから、ゴフマンを読むときは恥じることなく翻訳されたものを選ぼう。

 さて本作『集まりの構造』はちょうど後期ゴフマンの開始点あたりに位置づけることができる著作である。前期ゴフマンはブルーマーのところで書いたようにSIの役割期待の議論に多くを負っている。ドラマトゥルギーとかまんまそれだよね。しかし、本書におけるゴフマンはちょっといつものゴフマンとは異なり、見知らぬ人たちが単に「集まった」だけの状況から、それが徐々に独自的な秩序(無関心や連帯)を形成していく過程を緻密に考察している。拾うべきところが多くありすぎて、全部を紹介できないのが残念なのだけど、本書の中で特に有名なのは「儀礼的無関心」の議論だろう。

 儀礼的無関心は見知らぬ人の「集まり」で観察される態度で、ゴフマンは各人が場面や他者への関与を戦略的にしないでいる状態のことをこう呼んでいる。儀礼的無関心の議論に従えば、エレベーターの中に鏡がよくあるけど、あれは狭い空間の中で、各人が関与の対象を逸らすのに使っていると言えるよね。気まずくならないように無関心を装うという一種の「エチケット」はしかし、やばいことが起こると一発で壊されるとゴフマンは指摘している。極端な例を出せば、巨大地震が起こったら、儀礼的無関心は破られ、各人は各人に関与するようになるだろう。一緒に逃げたりね。そういう漫画とか映画も多いよね。

 そして、この「関与のバランスが破られる場合」というのが本作を構成主義の文脈に位置づけることにした最大の理由である。ゴフマンによれば精神病患者は関与のバランスが健常者とは異なる。いや正確に言えば、関与のバランスが異なる人に対して、社会は「精神病」のラベリングをする。つまりゴフマンによれば「精神病」は関与のバランスの差異によって構成されているというのである。本当はこの辺の話が詳しく書かれている『アサイラム』を取り上げたかったのだけど、なんか絶版になっていて4万円とかいうアホみたいな値段したので即刻マラソンのコースから外されました。ちなみにゴフマンはベッカーのところで紹介した反精神医学運動でかなり盛んに参照された人でもあったんよ。

 

 

●H・ガーフィンケル 1968→1987 「エスノメソドロジー命名の由来」

 

http://www.amazon.co.jp/エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

 

 おkだ。君の言いたいことはわかっている。「エスノメソドロジーを構成主義の系譜に位置づけるな」ということだな。確かにエスノメソドロジー(長いから以下EMで)は構成主義的立場を表明していないし、ましてやシカゴ学派でもない。でも、ここでEM一派をマラソンのコースに加えたのには二つの理由がある。

 第一にゴフマンの流れからちょうどよかったから。実際、EMは前述のシカゴ学派的構成主義の潮流をかなり濃密に受け継いでおり、特にゴフマンによる相互行為論とは親和性が高い。第二にEMは確かに構成主義的立場を表明したことはないけど、系譜上の関係性としては次章からの現象学的社会学の構成主義との先に位置づけることもできるという論拠。で、これはシカゴ学派よりも明確なラインで、っていうのはガーフィンケルってEM設立者のおっさんがどっかでシュッツの話をしてたからだ。じゃあ、現象学的社会学のところで紹介すればよいじゃん?って思われるかもしれない。その通りだが、ガーフィンケルはドイツ人ではなくてアメリカ人でEMもアメリカ産なんだ。苦しいけどこっちにしたかったの。

 

 話が長くなったがそんなわけでシカゴ学派編構成主義の最後3つはEMに関する文献だ。最初の一本目は、EM設立者ガーフィンケルによるEMの理念についてのお話で、まぁ学術的価値はあんまりないけど、簡潔にEMがなにかつかむために読んでおこうかなって内容。

 EMは「社会学的思考を解体した」と言われる。スペクター&キツセが「ラベリング理論を越えた」と言うのとはわけが違うレベルで、この表明はアクチュアルなもので、事実ガーフィンケルは師であるパーソンズの批判を通して、本当に今までの社会学を根本から覆す発想に至ってしまった。

 パーソンズは「社会秩序はいかにして可能か」というホッブズ問題を検討し、先述のSIに倣って「諸個人の価値の内面化」という解答を提示した。他方で、弟子であるガーフィンケルはここで真っ向からパーソンズに対立する。「パーソンズが社会秩序について考える前に『すでに』社会は秩序だっているだろw」と。実際、こんな風に煽ったかどうかはわからないが、確かにパーソンズが社会秩序を―否、社会学者が社会的な現象をあれこれ考える前に、社会的現象は社会の成員による独自の方法論によって解決されている。だからガーフィンケルは社会学者目線に立つのではなく、社会の成員目線で秩序を観察-(再)定式化していこうじゃん!と主張する。「エスノメソドロジー」という長ったらしい名前も、こうしたスタンスに由来していると本論分の中でガーフィンケルは明かしている(「成員(ethnic)の方法論(methodology)」)。とはいえ、成員たちが自覚的にそうした「メソドロジー」を利用できているとは限らない。というのは現象学がよくいうように成員たちにとっての「メソッド」は自明性の中に埋め込まれており、ガーフィンケルの言い回しでは「見えているけど、気付かない」からである。

 

 

●H・サックス 1979→1987 「ホットロッダー―革命的カテゴリー」

 

 

http://www.amazon.co.jp/エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

 

 ガーフィンケルはEMの基礎を作り上げた点ですごいんだけど、ぶっちゃけ本人はアイディアマン的な立ち位置の人で、EMの隆盛は後続の優秀な研究者たちの功績によるところが大きいんだよね。その中でもサックスはトップクラスの切れ者で、ある意味ガーフィンケルなんかよりも全然EMに貢献してる。マジで。サックスは若くして交通事故で亡くなっちゃうので、論文の形として残っているのがこれと、次に紹介するつもりに『会話分析基本論集』くらいなのが惜しまれる(なのに十分な功績といえるあたりサックスはやっぱり別格だったのだけど)。ちなみに講義録はいっぱい残っているよ。クソ読みにくい英語だけど。

 サックスは本論文の中で、文化集団における「カテゴリー化」の営為について考察している。当時のアメリカ(今もか)では、大人が十代の若者を語るとき、「ティーンエイジャー」というカテゴリを利用していた。他方で、アメリカ製尾崎豊みたいな暴走族軍団はホットロッドという車をブイブイいわせながら、大人たちによる支配的カテゴリ「ティーンエイジャー」を退け、自らを「ホットロッダー」であるとカテゴリ化する。

 ありがちな話だがなかなか興味深い。サックスは「ティーンエイジャー」を支配的カテゴリと定式化しているのに対し、「ホットロッダー」を「自己執行カテゴリ」であると分析している。そして、支配に抗している点で、自己執行カテゴリとは表題にあるように革命的カテゴリなのだとさ。まぁ革命的かどうかはおいて置いても、例えばLGBTの文脈でよく出てくるクィアというカテゴリももともと差別表現を逆手にとった自己執行カテゴリだし、「DQNネーム」に対する「きらきらネーム」という名称も下位集団による自己執行の例だよね。というわけで、汎用性が高いんだよめっちゃ。

 

 

●H・サックス&E・シェグロフ&G・ジェファーソン 1974→2010 『会話分析基本論集』

 

http://www.amazon.co.jp/会話分析基本論集―順番交替と修復の組織

 

 構成主義(もはやあんまり関係ない)シカゴ学派編(もっと関係ない)最後を飾るのは、EM優秀後続研究者三本槍ことサックス、シェグロフ、ジェファーソンの『会話分析基本論集』だ。現在のEMの主要な関心は「会話分析」といわれる領域にあり、文字通り、会話の中に見られる相互的な秩序を鬼のように精緻に定式化する。本書はまさに会話分析の礎を作った論文集のまとめ本である。

 ……とかいったけど、本当に鬼のように精緻なので、本書で取り上げられている会話の「メソドロジー」は結構な数があり、ゆえに全部まとめるのしんどいというか無理だね。とりあえず、「隣接ペア」くらいに触れておこうか。

 まず会話の大々原則として「一人しか喋らない」ということが挙げられる。というか複数人しゃべっていている状況は会話じゃなくてただの「うるさい人たち」だからね。会話として想定することは出来ない。また仮に、発話の順番が被っても、「あ…どうぞ///」ってなるやん。アレなんかまさにこのルールに則っているよね。つまり会話は原則的にターン制なのだよ。

 で、隣接ペアというのは、ターンを交代する際に、次の相手の発話内容を規定してしまうような発話のこと。赤穂浪士が暗号に「山!」「川!」というやりとりを使っていたのは有名だけど、隣接ペアのイメージは大体そんな感じ。いろんなパターンがあるのだけど、一番メジャーなのは「質問」だね。俺のターンの発話で「質問」が召喚されたら、レシピエントの返しのターンはおそらく「質問への回答」になるだろう。あるいは質問の意図や内容を聞き返す「質問」が召喚されるかもしれないね(もちろんシカト食らう場合もあるよね辛い事に)。このへんはシェグロフ単体で書いている"Preliminaries to Preliminaries"って面白い論文があるのでそれを読むといいと思う。

 他にも「修復」だったり「付加表現」だったりと、会話の中には面白い秩序がいっぱいあって、サックス、シェグロフ、ジェファーソンがそれらを緻密に分析しているのだけど、でもまぁそれ全部説明してると日が暮れるからこの辺でやめておくわ。

 

 

 

2:現象学的社会学の構成主義

 最初のほうに書いたように、「Xの社会的構成」という言い回しを最初に使ったのはシカゴ学派の人たちではなくて、現象学的社会学のT・ルックマンとP・バーガーの二人だった。二人は自分たちの立場を現象学的社会学って明確に表明しているけど、系譜を遡ると実は現象学に多くを負いながらも、自らを知識社会学って標榜している人たちに突き当たる。その辺線引きがけっこう微妙なんだけど、最初に登場するシェーラーって人に関しては、現象学を創設したフッサールの弟子なので言い逃れはできないんだよね。ちなみにシェーラーはフッサールから離反しているのだけど、すぐ下の後輩にハイデガーやアーレントがいたりと功績以外のところでも面白いつながりがあったりなかったり。

 

 

●M・シェーラー 1920→2012 『宇宙における人間の位置』

 

http://www.amazon.co.jp/宇宙における人間の地位

 

 シェーラー晩年の講演をまとめた一冊……なんだけど、この本と社会学ほぼ関係ないんだよね。むしろポンティやサルトルの実存主義とか、あと意味厨人間性心理学とかに多大な影響を与えた著作だ。ただ、シェーラーは知識社会という単語を始めて使った人で、これが後の現象学的社会学の原型であるとする見方は強い。さっきのルックマン&バーガーやシュッツとかね。

 一応内容もまとめておこうか。シェーラーは人間の人間たるゆえんを、「精神」に求める。感情強迫や本能といった下等生物が有する能力、連合的記憶や実践的知識などといった高等生物の有する能力。その全てを人間は有しているのだけども、それだけじゃ植物や他の動物と、人間の実存は区別されることはない。こうした哲学的人間像を構成した上で、シェーラーは倫理学的な問題の解明に取り組んでいく。アーレントとかいうおばさんと同じでイズミには卓越主義にしか見えないのだけど、なんで現象学と実存主義ってこうなんだろうね。ちなみにシェーラーのこの講演がきっかけとなって一大人間学ブームを巻き起こしたらしい。当時の日本にもシェーラーの哲学的人間像は伝来されていたというから相当な影響力だったんだろうね。

 

 

●K・マンハイム 1929→1968 『イデオロギーとユートピア』

 

http://www.amazon.co.jp/イデオロギーとユートピア

 

 シェーラーがどっちかというと実存主義寄りだったのに対し、それを批判したマンハイムは正当な社会学勢である。なんといっても師匠はジンメルだからね。知識社会「学」という語を最初に用いたのもこのマンハイムおじさんだった。ぶっちゃけここを現象学的社会学編デスマラソンコースの始発点にすればよかったと思っている。マンハイムの本書で展開したプロジェクトはシェーラー批判に加えて、経済原理に依拠しないマルクス批判だ。でマルクス批判の方がかなり系譜上はかなり重要なのでそっちを中心にまとめようか。

 マルクスの主張によれば、労働価値を不当に搾取する資本家たちというのはイデオロギーに拘束された存在だ。しかし、マンハイムはこの「拘束」を資本家にという特定の立場に限定されたものではなく、より普遍的なものであると見なす。例えば、近代以降の人間はさかんに「主体性」とか「自分らしさ」とかってフレーズを口にするようになったよね。現代日本の大学生にも目を輝かせながら「自分語り」しちゃう奴多くて本当にお前ら勉強しろよというか、頭悪いなーって思ったりするのだけど、おそらくマンハイムも同意見だろう。というのはそうした「自分らしさ」を希求する態度それ自体こそが、アイデンティティの帰属先がリキッドになってしまった近代という時代に「拘束」されているからに他ならない。黒々しく言えば「主体性を希求することがすでに主体的でない(拘束されている)」。このことをマンハイムは「知識の被存在拘束性」なんて呼んでいる。ちなみに表題のイデオロギーは過去志向の、ユートピアは未来志向の被拘束的な現実把握の仕方を意味している。

 個人的にマンハイムおじさんの偉いところは、自分たち社会学者もまた被拘束的な立場にあることと気付いて、特権的立場につくことを避けたところだと思うな。かといってポストモダンな相対主義に陥るのではなく、「多様な拘束的立場を往来して視野を広げようぜ!」っていう相関主義の必要性を本書の中では一貫して論じている。

 

 

●アルフレッド・シュッツ 1997 『現象学的社会学の応用』

 

http://www.amazon.co.jp/現象学的社会学の応用

 

 さて満を持して登場したアルフレッド・シュッツ大先生だ。彼は自らの立場をウェーバーによる理解社会学とフッサールによる現象学の複合形態―現象学的社会学として位置づけ、さらにシェーラーとマンハイムの延長線上の議論を繰り広げていくよと表明する。はっきりいってシュッツは数いる社会学者の中でもずば抜けて頭いいとイズミは思っている。ともすれば実存主義的方向に陥りがちな現象学を社会学と併用することで、観察枠組みとして見事なまでに昇華させたことがまず凄い。実はシカゴ学派編に登場したEMはシュッツの現象学的社会学に多くを負っているし、このあと出てくるだろうルーマンや、パーソンズやルーマンと論争したハーバーマスなどなどにも多大な影響を与えていることからもその卓抜したセンスを推して知ることが出来るだろう。

 しかし、生前のシュッツは二冊しか著作を出していないのよね。残念なことに。しかもその二冊とも30代時点でのシュッツの論考なのであんまり方向性定まっていないという問題もあって、ここではシュッツの没後にお弟子さんたちが必死こいてまとめた論文集のうちから『現象学的社会学の応用』を選んだ。だから例によって全部を見たりはしないけど、特に第一章、第二章の「他所者」/「帰郷者」の議論はいまだにEMなどで取り上げられたりしてる重要な議論なので確認してみよう。

 シュッツによれば、ある社会集団には「独自の秩序」が存在している。例えば、友達の家に泊まりに行ったとき、カルチャーショックよりも低いレベルで文化の差異を感じることは多々あると思う。「お風呂の前に歯を磨きなさい」みたいな謎ルールとかね。でもその家庭にとって「お風呂の前に歯を磨く」という実践は自明の秩序であって、それを確認することができるのは、外部参入者―つまりシュッツのいう「他所者」だけなんだ。「郷に入りては郷に従え」とか"as Roman’s Do"なんて格言があるように、「他所者」も時間と共にそこの秩序を自然と自明視していくのだけどね。 一方で、「帰郷者」の場合はまた話が異なる。というのは「帰郷者」は当該集団を離れる前の段階での秩序を「知っている」から。本書では戦争からの帰還兵の話が取り上げられているけども、終戦後29年間もルバング島で残留してた小野田さんなんてまさにその好例だよね。彼が日本に帰ってきたとき、情報技術の発展やファッションの変化など、彼の知る日本はもうそこになかったはずで、帰郷後も凄く葛藤があったと思う。それはきっと「他所者」の当惑とはまた次元が異なるものだっただろう、というのが「帰郷者」の議論。マンハイムがより大きい社会集団の知識の拘束を論じたのに対して、二つの論考でのシュッツはより状況依存的な共同体レベルの知識の所在に関心を寄せているということは両者を区別する上でのポイントだろう。

 

 

●P・バーガー&T・ルックマン 1966→2003  『現実の社会的構成』

 

http://www.amazon.co.jp/現実の社会的構成―知識社会学論考

 

 さてさて、ここまでで何度か名前が登場していたバーガー&ルックマンご本人の登場です。シェーラー(知識社会)、マンハイム(知識の被拘束性)、シュッツ(自明の秩序)と確認してきたけど、各人いわんとしていることはそれぞれ相違点がありつつも収斂させることは可能で、それを一文で表すと「現実は社会的に構成されている」となる。そしてそのテーゼ(と社会学で初めて「社会的構成」という視点)を掲げて実際に三人を系譜の上にまとめあげたのがバーガーとルックマンだった……なんだけど、現象学的社会学っていうとさっきのシュッツばかり取り上げられてて、二人の知名度はけっこう低い。というか知らない人はマジで知らないレベル。でも、確かに本書での主張の新規性は稀薄かもしれないけど、イズミ的にはけっこう拾う点は多いと思う。シェーラー後の知識-現象学的社会学の議論に目を向けた上で、そこから現実一般を定式化をするという二人の優等生スタイルは、理論枠組みとしての援用価値があるかはおいとくとしても、読み手の思考の体系的な整理を促してくれるからね。だからここでは二人の主張を確認しつつ、現象学的社会学の整理もついでにしてしまおうかな。

 二人にとって現実はどのように定義されるのだろうか。それは一言でいえば「知識として他者に通用するもの」である。観念がより意味論的次元が高く他者一般との共有が困難であるのに対し、知識は他者との間に間主観的世界を提供してくれる。その知識によって構成される間主観的世界こそが現実であるというのだ。これは現象学を創設したフッサールのいうところの「生活世界」概念と意味するところはほぼ同じで、またシュッツが解明したように「他所者」/「帰郷者」にとっては当惑の対象となる。さらにシェーラーとマンハイムが強調したように、人の知識というものは社会的に構成(拘束)されている。

 必殺三段論法から整理すると、①知識は社会的に構成される②知識は間主観的世界―現実を構成する③ゆえに「現実は社会的に構成される」(ルックマンとバーガーのテーゼ)。綺麗にまとまったね。冒頭から全部ぶっつけなんだぜ、これ。まあデスマラソンだしね。

 

 

●N・ルーマン 1984→1995 『社会システム理論(上)・(下)』

 

http://www.amazon.co.jp/社会システム理論<上>

 

 もう構成主義とかあんまり関係なくなってきたけど、この人だけはどうしても外せない。社会学ひいては社会科学を代表するクレージー研究者―N・ルーマン。この本だって上・下で合計1300ページくらいあるし、しかも内容マジで意味がわかんないし、なんなら読みながらイズミは泣きそうになっていたし、読破語は本当にちょっと嬉しくて泣いたレベル。苦行だったよマジで。しかし、マラソンのコースに入っているのはそんな熱い理由だけではないところが社会学。確かに、イズミが知る限り、EMがそうだったようにルーマンも構成主義的立場を表明したことはない。がしかし、現象学(的社会学)から部分的にではあるが継承しているところがあるとはルーマン自身が認めている。だから、EM-シカゴ学派よりも、ルーマン-現象学的社会学の間の距離ははるかに短い(なんならEM-現象学的社会学の距離はもっと短いけど、そのいいわけはEMのところで書いたから勘弁)。なにがいいたいかというと、つまりここでルーマン出てくるのはそんなに外してないよってこと。

 で、ルーマン社会システム理論の説明に移りたいのだけど、「システムにおける一般的に象徴化されたメディアに基づく二値コードをダブルコンティンジェンシーのもと区別/支持―観察し産出されるコミュニケーションがシステム内部における動作をパラドックス化/脱パラドックス化(嘘つきのパラドックス)によって自己言及的に可能にする」(本当にルーマンのテクストこんなんだからな一回読んでみ)みたいな話したくないし疲れるしうまく説明できる気がしないので、現象学社会学との関係性を整理して終わろうかな。ちなみにこの2冊だけでwordの読書メモが100ページゆうに超えたよ。どうしてもって人はナセヒとクニールって人が書いている『ルーマン―社会システム理論』(1993)って解説書がおすすめ。日本人だと宮台とかも入門書っぽいの出してるけど、けっこう記述に間違いがあった気がするので、とっかかりとして読む程度にした方がよし。

 じゃあ本題に入ろう。ルーマンの社会システム理論と現象学的社会学の関係性についてだった。ルーマンによれば近代以降、統一的な社会というのはなくなり、個々の部分社会としてのシステムに分化したという(ちなみに社会システムは①相互行為②組織体③ゲゼルシャフトの三つの「大きさ」から区分することができるのだけど、ここではそれは置いておこうか)。この発想はウェーバーやデュルケムの頃から見られる伝統的な社会学の主張の一つだよね。で、その部分社会としてのシステムを成立させているのが、「意味(Semantic)」だ。各システムはそれぞれ、独自の意味論的志向性を有しており、それによって環境との間に差異を生み出し、独立したシステムと成りえる。ちょっと抽象的な話なので、具体例に置き換えてみよう。地域Aと地域Bという隣接する二つの組織体システムがあったとしよう。地域Aは「観光産業の発展」に「意味」を見出す一方、地域Bは「社会教育機関の充実」に「意味」を見出す。ルーマンっぽくいえば、このとき二つの地域の間に差異を生み出すのは、地理的境界線ではなく、その地域内部が志向している二つの「意味」であるということになる。理解できたかな。ちなみにこれは感覚的な説明なので、きちんとルーマンに準拠すればもっと複雑性が増大した説明になってしまう。ここでは「意味」が差異を生み出すということがつかめればよし。

 で、この「意味」というのは実はちょくちょくさっきから出てきている現象学の創始者フッサールが中心的に扱った概念の一つで、世界に「意味」が与えられることによって間主観的世界である「生活世界」が可能になると彼は主張している。この辺はさっきのバーガー&ルックマンが「知識によって現実が可能になる」と言ってるのとかなり近い話だよね。二人にあわせるなら「意味によって社会システムが可能になる」みたいな感じかな。逆を返せば、個々の社会システムとは「生活世界」であり「現実」であるともいえるんじゃなかろうか。またシュッツによる「他所者」(あるシステム)にとって見知らぬ共同体(別のシステム)が当惑の対象となるという議論は、両者の持つ「意味」の違いによるものとして説明できるかもね。まあ安易につなげると厳格派に怒られるかもなんでこの辺でやめておこう。とにかく、ルーマンが現象学に多くを負っているのは間違いないってことですよ。

 

 

●N・ルーマン 2004 『社会の教育システム』

 

http://www.amazon.co.jp/社会の教育システム

 

 極めて広範囲に適用可能かつ体系的な理論を既存の議論に依拠しつつも一人で打ち立ててしまう(超人的な)学者は稀にいるもので、さっきのフッサール、あとはマルクスやウィトゲンシュタインなんかがその代表だとイズミは思う。しかし、ではその自分で打ち立てた理論を枠組みとして具体個別な現象をガシガシ考察した研究者となると、さらに稀というかフロイトくらしか思い浮かばないんだよね。

 ルーマンがクレージーなところはそれを地で行っているところだろう。前期~中期ルーマンにとって、パーソンズの批判を通して上述の社会システム理論を打ち立てることが中心的課題だった(もちろんこの時期からいろいろ具体的な考察もしてるけどね)。しかし、後期ルーマンは今度はその自分でつくった社会システム理論を用いて諸システムの考察を重ねていく。しかも物凄い速度で。法、政治、芸術、愛、経済、学問、などなどに対する研究は全て一冊の本として完成され、しかも実際にそれぞれの領域に少なからず影響を与えているというクレージーっぷり(社会の政治と経済はけっこう微妙だけど)。

 で、今回紹介するのはその教育編である。これは遺稿なのだけど、日本の教育学にも大きな影響を与えた。仁平先生って人はこれをルーマンショックなんて呼んでる(2009)。残念なのは教育学の人がまったくといっていいレベルでルーマン使えていないことかな。イズミは教育学部の教授でルーマンまともに使えているの2,3人くらいしか出会ったことないもん。まあそれは置いとこうか。

 本書の内容を一言でいうと、「ルーマンシステム理論に基づく学校教育批判」って感じかな。もちろん他にも拾うところはけっこうあるのだけど、本書でのルーマンは中盤くらいまで現行の学校教育に対して批判的態度を示している。ルーマンが批判しているのは教育システムの「人間本位主義的」態度である。まあいわゆる「主体性」とかって言っちゃうような近代的自己ってやつに根ざす教育観のことですわ。そんでこの「人間本主義的」教育観に基づいて様々な能力を児童に獲得させていくのが教師の「意図」なんだとさ。これのなにが問題って、「人間を中心に教育を見てしまうこと」。黒々しくいえば「人間に対して教育は従属的である」と(傲慢にも!)考えてしまうことにある。人間(こと人格システム)もまた社会と同様に高度に複雑であり、短絡的な「意図」の通りなるようなものではないし、なにより社会システムの制約下にあるからね。あとまあ「相互行為としての授業」とか「選別/善き意図」の議論とか面白いんじゃね。まとめないけど。

 

 

●N・ルーマン 1994→2000 『法の社会学的観察』

 

http://www.amazon.co.jp/法の社会学的観察

 

  構成主義(もはや関係ない)現象学的社会学編(ちょっと関係ある)の最後はルーマン『社会の法』で締めようと思っていたけど、例によって上下巻あるし、クソみたいにカロリー高いからこっちで妥協しました。『社会の法』も法社会学にけっこう影響を与えた一冊で、よくデリダの法解釈と対置させられて検討されている(詳しくないけど二人の法概念はけっこう近いらしい)。そんで、この『法の社会学的観察』は『社会の法』で述べられていることの概要だけかいつまんだ講演会のまとめ本。翻訳悪いけど、わかりにくいってほどじゃあない。

 ルーマンによれば「法は法であるが故に法である」なんのこっちゃだね。でもそういうトートロジーが法システムの自律性を支えているのである。法は合法/違法かという区別/支持―観察を行うが、その観察の根拠は法外部に求めることはできず、常に法内部で決定され、コミュニケーションとして産出されている。ゆえに法が懐疑に晒されているとするとき、それは法内部で法に疑いを持っているのではなく、経済や政治が法を外的観察しているという事態を意味するのである。これによって「法は無欠陥である」という論理的帰結が導き出される。法は法内部で法について疑い得ないのだから、欠陥などないということだ。

 ルーマンのテクストに倣ってまとめると誇張なしにこうなるんだよ。今までどれだけ内容を噛み砕いてたかご理解いただけただろうか。

 

 

 

3:マージナルな奴らの構成主義

 最後はマージナルな奴らによる構成主義だ。マージナルっていうと本人たち怒りそうだからフォローしておくと、シカゴ学派と現象学的社会学の両方の系譜に位置づけるのが難しかった人たちって意味で、コース設定によっては彼らが周縁的でなくなる区別も十分にありえた。例えば、「精神医学の構成主義」コースだったらフーコーやレインなんてゴフマンと並ぶ主役級だしね。他にも設定によってはEMのあとにハッキングくっつけたりとかも出来たんじゃないかな。まあ「過ぎたるは及ばざるが如し」つってね。それでも一応系譜っぽいの意識して作るけど。その場合フーコーが中心になるかな。

 

 

●フィリップ・アリエス 1960→1980 『<子ども>の誕生―アンシャンレジーム期の子どもと家族生活』

 

http://www.amazon.co.jp/〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

 

 まぁこれは鉄板ですわ。「ある自明な概念が社会的に構成されている」という事実を暴露するために、歴史を遡って解明してやんよ、というスタンス。非常にシンプルかつ有用だよね。こういう構成主義の歴史学的アプローチの起源ってどこに求められるのかよくわからんけど、おそらくニーチェの『善悪の彼岸』あたりが最初くさいとイズミは睨んでいる。事実、この次あたりに紹介する予定のフーコーは「ニーチェを参考にしました」って認めているし。そうそう、フーコーとアリエスは学史上かなり重要な関係性にあるんだよ。アリエスがいないとフーコーはデビューできていないからね。アプローチもかなり近いし、個人的な親交もけっこう深かったらしい。いわばフーコーにとってのアリエスはアルチュセールに次ぐ師の一人といってもいいかもね。

 本書でのアリエスの主張は、シンプルなもので18世紀前の西欧には「子ども」はおりませんでしたよって話。ただこの「子ども」というのはもちろん「小さい人」って意味の子どもではなくて、近代社会で顧慮の対象となるような概念としての「子ども」って意味ね。アリエスによればそれ前近代においては「子ども」って概念がないから、「小さい人」は「小さな大人」として現代の大人同様の扱いを受けてたらしい。

 アリエスが実は17世紀あたりに近代「子ども」概念の雛形を見ると主張しているのも興味深い。祈りの言葉に見られるよう子どもは「無垢/無知」という二面性から語られるようになり、前者が可愛がりの対象としての、後者が教育の対象としての「子ども」にそれぞれ分化していったという。この話はさっきのルーマンが『社会の教育』で取り上げていた気がしないでもないけど記憶が定かじゃないわ。

 

 

●M・フーコー 1961→1975 『狂気の歴史』

 

http://www.amazon.co.jp/狂気の歴史―古典主義時代における

 

 こいつも鉄板だよね。アリエスが自明の概念としての「子ども」に焦点を当てたのに対し、フーコーは「狂気」ないしは「精神異常者」に注目し歴史学的アプローチを展開していく。どうでもいいけど(あまりどうでもよくないかも)、前期のフーコーは「この歴史を遡行し、概念の恣意性を暴露する」アプローチのことを、単に「歴史を連続的に観察する」歴史学と区別するために、「アルケオロジー」なんて呼んでいる。さらに、後期のフーコーは「アルケオロジー」っていう立場を前面に推すのはやめて、今度は「言説分析」なる手法を強調しだす。歴史学/アルケオロジーの違いはわかるんだけど、アルケオロジー/言説分析の違いはけっこう微妙というか、後者の言説分析がなんのことやらわからんちんなので、違いもわからんちんというね。強いていえば、後者のほうが「より具体的な実践の中に潜む<権力>に注目している」なんて特徴づけられるかもね。まあそれは次の『知への意志―性の歴史Ⅰ』で詳しくみようか。

 でアルケオロジーな本書は今日ではケアの対象となった「狂気」が実はこの数世紀でめまぐるしく概念的な変遷を遂げていることを暴露する。最初の変化は17世紀のことだった。当時のパリには今の基準からすれば間違いなく「精神障害」を抱えていると診断されるであろう者が普通に暮らしており、特に誰もそれを気に留めることもなかったという。つまり「狂気」は存在しなかったということだね。これはさっきのアリエスのみならず、ベッカーのラベリング理論やスペクター&キツセの「異議申し立て」の議論とも親和性のある見解だ。だけども、ある日いきなり「阿呆船」(どん引きするほど差別表現だなこれ)に乗せられ、彼らは郊外の島に隔離されることになる。排除の対象としての「狂気」というカテゴリが生まれたわけだ。その後19世紀あたりから、「狂気」は病理として捉えられ、現代のようにケアの対象として扱われるようになりましたとさめでたしめでたし。本書の大まかな流れはこんな感じかな。

 ちなみにだけど、フーコーの歴史認識はけっこう間違いだらけで、本書も厳格な歴史学者からぼろくそにたたかれていたりする。まあフーコーにとっては「狂気」概念の恣意性を告発するとが至上目的だからあんまり正確な歴史には興味なかったんだろうね知らんけど。

 

 

●M・フーコー 1976→1986 『知への意志―性の歴史Ⅰ』

 

http://www.amazon.co.jp/知への意志 (性の歴史)

 

 『狂気の歴史』がフーコーのデビュー作だったのに対し(本当は前に一本論文書いてるけど)、『知への意志―性の歴史Ⅰ』は晩年の著作。よってさっきちょっと書いたように、フーコーは言説分析っていうアプローチを本書の中でとっている。んで、それが故に本書の複雑性は高まりに高まっている。勘弁してくれ。ただ一つ断言できるのは、本書の目的が(『狂気の歴史』のように)「性」概念の恣意性の看破「ではない」ということだろう。そうではなくて、おそらく本書におけるフーコーは、性に関する言説(フーコーはディスクールともいうね)の分析を通して、「権力」とは単に何かを抑圧する作用ではなく、日常の生活実践の中に網の目状のネットワークを形成しているという事実を明らかにしようとしている。これがおそらく言説分析のねらい、なんだろうけどいかんせんわかりにくいね。

 例えば、2章では「権力」と「(性的な)快楽」は互いに互いを否定しないとフーコーは述べている。これはどういうことだろうか。普通、権力による二次元ポルノの規制といったとき、権力が二次元ポルノを「否定している」と考えるのが妥当だろう。でもフーコーによれば、「権力」による禁止があるからそこそ、「快楽」が生まれるらしい。つまり、国を挙げて二次元ポルノを禁止すればするほど、萌え豚たちは二次元ポルノにはぁはぁできるようになるということだね。さらに、禁止は新たな性的倒錯を生み出し、性的倒錯は新たな禁止を生み出し、禁止は新たな……

と以下無限に続いていくともフーコーは分析している。わが国での性的倒錯の細分化を見るに、この辺は非常にアクチュアルだといえるだろう。ゆえに一元的な禁止は効果がないという示唆も得られるね。まあおつむの弱い役人どもには理解できないだろうけど。

  そんで、こんな特徴をもつ「権力」なのだけど、フーコーによれば言説によって「権力」は網の目上のネットワークを構成する。本書では「性の科学」なんてものがディスクールの例として取り上げられているけど、これは家族や学校といった様々な実践領域にまことしやかに共有され、さっきの「禁止」/「快楽」の関係性を産出しているのだとさ。そういえば中学生のときとか学校にエロ本持ってくる奴とかいたけど、フーコー的には学校に潜む「権力」による「禁止」がそうした欲望つまり「快楽」を駆り立てていたと説明できるのかもね

 

●R.D.レイン 1960→1971 『引き裂かれた自己』

 

http://www.amazon.co.jp/ひき裂かれた自己―分裂病と分裂病質の実存的研究

 

 シカゴ学派の構成主義編あたりからちょくちょく名前が登場していた反精神医学運動―その提唱者がまさにR.D.レインその人である。レインの師匠はウィニコットっていうラカンとかにまで影響与えた超偉大なフロイディアンなのだけど、レイン自身は従来的な精神医学の理論に真っ向から立ち向かっていくという反骨精神の持ち主だった。その結果、フーコー×現象学×ゴフマンみたいな今回紹介した全立場を網羅したかのような理論を提示するに至る。実際どこのコースに入れてもあんまり違和感ないっていうのがレインの凄いとこかな。せっかくだから、それぞれのフーコー×現象学×ゴフマンの順からレインを定式化してみるか。

 レインによれば統合性失調症(昔の本なので分裂病って書かれているけどまあどっちでもいいよ)が自明のカテゴリではなく、むしろそれを「異常」とする人々の眼差しによって構成されているものであるらしい。これは、「狂気」の概念は社会の成員による扱いによって変遷していると考えたフーコーの主張とけっこう近しいよね。次に、レインは人間は一般的に、フッサールのいう「生活世界」あるいはバーガー&ルックマンのいう「現実」への参入を通して自己同一性が確立されるという現象学的な推論を立てる。ブルーマーも述べていたけど、自我/客我の獲得は確かに他者との関わり合いによって達成されるから、自己論的にもレインの推論は概ね外していないといえるだろう。んで、統合失調症の人っていうのはこの「生活世界」なり「現実」なりへの参入がいろんな理由から困難な人たちのことで、故に「異常」という眼差しに晒されることになる。これは対面的力学における関与規則から精神病を考えたゴフマンの意見と極めて親和的だろう。

 まとめると、統合性失調症とされる者は、健常者とされる人々と「世界」や「現実」を共有できない(現象学)ため、対面的関わり合いにおいて「異常」とされる行動をとってしまい(ゴフマン)、その「異常」の眼差し及びそれに基づく諸実践が「統合性失調症」という概念カテゴリを生み出す(フーコー)ということになる。自分でも綺麗にまとまりすぎて驚いてるなう。

 

 

●I・ハッキング 1995→1998 『記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム』

 

http://www.amazon.co.jp/記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム

 

 さてさて、読書デスマラソンの最後の論者は社会学者でも、現象学者でも、歴史学者でも、精神科医でもなく、冒頭から登場していた科学哲学者のI・ハッキングだ。ぶっちゃけると、今回のデスマラソンの大会報告を書き始めたときから最後はこの人で締めようって予定してた。つまり温めに温めて満を持しての登場というわけだね。系譜上の関係としては、特に誰の延長線上にも位置づけられるわけではなく、少なくともここまでで挙がった立場とのやりとりでいえば、

①M・リンチっていうウィトゲンシュタイン派のエスノメソドロジストからの批判に応えている

②その批判を受けてフーコーとゴフマンを定式化する論文を書いている("Between Foucault and Goffman"っちゅうまんまなタイトル)

 くらいしか少なくともイズミは知らない。でも、この二つが決定的に重要で、特に上述の論文は個人的に構成主義を語る上では外せないと思う(ちなみに翻訳はされてないが)。とにかくハッキングは凄いシンプルで、かつ構成主義の要点をうまいこと突いており、ゆえにどの立場とも比較検討可能といえるレベルで汎用性が高い理論を提示してくれるマジでゴイスーな人だ。オントロジカルゲリマンダリング問題とかが凄く雑魚キャラに見える(実際ハッキングは意図せずあっさり解決してしまった)。

 

 ハッキングのアプローチはさっきのフーコーの言説分析にならって概念分析なんて呼ばれることもある。とはいえフーコーみたく権力云々なんて得たい知れないことは言い出さずに、素直に概念に焦点を当て分析していく。ただ、留意しておかなければならないのは、ハッキングが「概念」というとき、日常的実践/科学的実践という対立図式が想定されているというとだろう。これは具体例を見たほうが早いので本書の説明と一緒に確認しよう。

 本書で取り上げられている「多重人格」という概念カテゴリはまず最初に精神医学―科学によって確立された他方、80年代アメリカではダニエル・キィスの『24人のビリー・ミリガン』に象徴されるような一大ブームを起こしたという。すると奇妙なことに、統計上における「多重人格者」の数が年々増加していく事態が観察されるようになったではありませんか。多重人格が客観的に実在すると想定すると、これは明らかに不可思議な事態であることになる。ハッキングによれば、『ビリー・ミリガン』のなかで描かれたような「多重人格」のアーキタイプ―「子どもの頃に虐待を受けていた」が共有されることによって、被虐待の経験を持つ人たちが自分たちを「多重人格者」だと思い込んでしまったことに起因するらしい。表題の『記憶を書きかえる』とはこのことだね。ゆえに多重人格は社会的に構成されていることになる。んで、このときハッキングが注目するのが科学/日常の間の「ループ効果」と呼ばれる現象だ。ループ効果は以下の段階からなる。

 ①まず科学によって概念が打ち立てられる→②概念が日常的実践を変化させる(多重人格ブーム/記憶の書き換え)→③日常的実践で変化した概念は科学的実践をさらに変化させる

 ③の段階についてもちゃんと証拠が挙がっており、実際、「多重人格ブーム→多重人格者の増加」はDSMの基準を変化させてしまったというね。マジでループ効果面白いね。なんかめっちゃハッキングのとこ詳しくなったからそろそろ終わるわ。もう一冊だけ紹介するけど。

 

 

●I・ハッキング 1999→2006 『何が社会的に構成されるのか』

 

http://www.amazon.co.jp/何が社会的に構成されるのか

 

 さーていよいよ2014年度デスマラソン最後の一冊だ。24時間テレビならそろそろサライをBGMに、汗だくになったタレントが武道館の前で力尽きそうになっている場面が映し出されるところだね。ああいうの嫌いだけど。

 最後はまさに構成主義を総括するのにふさわしいタイトルの『何が社会的に構成されるか』という一冊。しかし、問題なのは本書で取り上げられている構成主義って、シカゴ学派(そういえばオントロジカ(ryのウールガーと共同研究したラトゥールって人は出てくるよ)によるものでも、現象学的社会学によるものでも、反精神医学によるものもなくて、「ポストモダン界隈の構成主義vsソーカル擁する理系軍団」の議論いわゆるサイエンスウォーズなんだよねぇ。イズミはポモあまり好きじゃないので今回はマラソンのコースからうっかり外しちゃたけど(大して面白くもないし)、まあ気乗りはしないが一応そのへんもざっくり解説しておこうか。

 サイエンスウォーズっていうのはさっき書いたように文系vs理系の血を血で洗う闘争のことで、だいたい80年代~90年代初頭あたりにかけて展開されたのかな。んで、そもそも何でこんな論争が起きたかって話なんだけど、ソーカルっていうお茶目で破天荒な物理学者が、カルスタ系の雑誌に「出鱈目に書きまくった論文」を送ったところ、うっかり掲載されてしまった事件、いわゆるソーカル事件がことの発端なんよ。ソーカルの意図としては、文系のポモ界隈の豚共がなんでもかんでも「社会的に構成されている」とペダンティックに言ってくるから、それを煽りたかったんだと。中学生かよお前は。んでポモも躍起になってそれに応えたんだとさ。目くそ鼻くそだね。

 でも、ソーカルの言うとおり、何でもかんでも「社会的に構成されている」とはいえない。ソーカルの有名な言葉に「物理学が社会的に構成されているって言ったお前らビルの21階から即座に飛び降りろしw」というものがあるけど、確かにそうだよね。物理法則は社会的に構成されているとはいえないよね。

 こうしたしょうもない論争を冷ややかに分析したのが本書でのハッキングである。ハッキングによれば、対象/観念という線引きを行えばこの問題は即座に解決される。対象と言うのは認識論的にそれ以上疑いえないもの(現象学的にいえばそれ以上「意味」が遡行できないもの)で、ざっくりいうと自然科学で扱われる内容の多くはこの対象という理解で大丈夫。一方、観念というのはそれについて議論されたり、みんなで議論されたり、異を唱えられたりするもののことで、一言でいえば「社会的に構成されたもの」のこと。だからいかなる構成主義者も対象にその眼差しを向けることは出来ないし、向けるべきでもない。って簡単にいうけど、実は『記憶を書きかえる』の段階でのハッキング自身も両者を混同していて、けっこう区別するのが難しいって嘆いていらした。ちなみに、オント(ryもこの区別で解決される。「逸脱」は観念で、マリファナの成分は対象というわけだ。あとはまあサイエンスウォーズにおける文系陣営の擁護に割かれているかな。のでイズミ的に大事なのはたぶんこの対象/観念の議論だと思うな。

 

 

 

4:2014年度ウキウキ読書デスマラソン総括

 合計21冊。いやー疲れたね。前年度の30倍くらい疲れた。いうて若者論なんて国またがないしせいぜい40年くらいだから楽勝なんだよね。それに比べて構成主義ってやつは茫漠としてて範囲設定にまず一苦労だったな。

 最後に恒例の「登場させてあげられなかった人たちごめんなさい」のコーナー。

 

○R.K.マートン……科学社会学や知識社会学に含まれるよね。でもこいつ入れたらパーソンズも入れないといけなくなるし、するとルーマンやEMも含んでいるから構成主義というかもうそれ社会理論だよねってなる。ついでにハーバーマスとかも出てこないといけない。つまり芋づる式を防ぐために退場願った。

 

○L・ウィトゲンシュタイン……この人も芋づる式を防ぐために退場願った。実際構成主義を表明していないし、サールとかオースティンとか師匠のラッセルとか分析-言語哲学系にまで手が回らなかったよ。それこそルーマンやハッキングの関連で読んでおかないとなんだけどね。また別の機会に。

 

○D・クーパー……確かにレインだけ出してごめんと思ったけど、あんまし精神医学者が登場するのもどうかと思ってね(小声)。

 

○B・ラトゥール……名前だけの登場だったけど、冷静に考えればマートンかクーンを始発にして「科学社会学編」っていうコースを作ってもよかったな。実際、明らかにSSは構成主義だし、EMやハッキングとの関係も濃密だ。

 

○ポモ界隈……嫌い。以上。

 

 

というわけで来年も読書デスマラソンが無事開催できる暇がありますように。

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