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Luhman,Niklas 2000 『法の社会学的観察』

『法の社会学的観察』 N・ルーマン

 

法の社会学的観察 p.1~71

Ⅰ 社会学と法律学 p.3~9

◇社会学はデュルケム-パーソンズによる社会的理論/ミクロな行為の記述という行為的理論の二つの道を歩んでいた。

→その中に法を位置づけることは困難が伴っており、社会学と法律学の間には一定の距離がある。知識社会学、科学社会学がこの溝を縮めると考えられるが、一般社会学における理論的先導とはならないだろう。

→法を一般社会学理論から考察するのが本書の目的である

 

 

Ⅱ 自己言及的システムの理論 p.10~23

※理論枠組み(いつもの話)

◇オートポイエーシス・システムは以下のような特徴から記述される。

①オートポイエーシス・システムは自己言及的に自己を構成する要素を産出し、自己の産出は環境との間に差異を生み出す。環境との差異によってシステムの自律性は保障され、また自律しているが故にシステムは環境と差異化される。

 

②意味(ゼマンティク)を作動のモードとしてシステムは自己を観察する(=自己同一性を確認する)。このとき、環境とシステムとの差異が再びシステムの中に現れることになる。

 

③同一性の観察はトートロジックに達成され、この自己規定だけがシステムにおける唯一の自由である。あるシステムにおける同一性の観察に対して別のコードに準拠した観察が可能なのは、別のシステム(例えば社会学)による場合のみである。

 

④ラッセル以降の論理学が主張するように、ある指示は別の指示の可能性をパラドックス化する(嘘つきのパラドックス)。システムの自己同一性の観察も同様であり、このとき、もう一方の可能性は不可視化される。

→(社会学による)外部観察はこうしたある自己観察におけるトートロジー/パラドックス化を暴露する。法システムの社会学的観察も同様にして達成される。

 

 

Ⅲ 規範 p.24~30

◇法システム内部において、規範はそれ以上意味論的に遡行不可能なトートロジーである。つまり、法システム内部において、規範を事実から導き出せない。

→ウェーバー-デュルケムも同様に主張しており、二人は規範の事実性を経験的事実という遡行不可能なものとして想定している。

→よって法社会学の理論は、「法社会学がいかにして規範を事実として扱うか」という問題に出発することになる。

◇認知的予期と異なり、規範的予期は予期の違背が起こりえないものとして想定する(安心のコミュニケーション)。もし予期の違背が起きた場合、付随的に自己正当化されていくことになる。

 

 

Ⅳ 法妥当の実定性 p.31~37

◇17世紀~18世紀にかけて、法の階層性(妥当的根拠と照らし合わせて妥当であるか、正当であるか)は解体された。

→法システムと政治システムの機能分化―妥当性/正統性

→機能分化後の法は妥当性としての実定法に依拠するが、それ以上遡行する必要はなく、また(トートロジーなので)できない。もはや法はトップダウン的に規定されるのではなく、法内部で自己準拠的に規定される。

◇法社会学はこれを外部観察するが、それは法による自己観察とは異なる。

 

 

Ⅴ 結果指向の法解釈上の諸問題 p.38~43

◇法内部において、20世紀に二つの転換が起こった。第一の転換は結果指向。

→法的裁定の結果指向は「正統性」を排除し、それ自体によって意味が与えられる形式(つまり自己言及性)を用意した。

◇さらに結果指向の特徴は、

①未来における不確実性が、予期と結果が外れた際にも、なお法的裁定を妥当化する。

→例えば、ある離婚裁定で夫に連れられた子が後に不幸になったとしても、母に連れられた場合を想定することはできない(不確実である)ので、裁定は妥当である。

②公務的裁定に限定されているため、非公務での法的裁定とは異なる帰結をもたらす可能性を示唆している。

→つまり、結果指向でなければ(非公務では)、非合法が合法にも成りえる。

 

 

Ⅵ 法律的論証の特性 p.44~55

◇第二の転換は「弱められた合理性」による論証。

→従来のように、基礎付けを「発見」(not論証)したり、印象深く植え付けたり、といったことは問題にならず、間主観性に訴えかけるレトリックが求められるようになった。

→もはや、法律家には基礎付けは裁定を正当化するが、裁定は基礎付けを正当化しないものとして目に映るようになる(裁定と基礎付けの非対称性)

◇論証の中で基礎付けは行われる。社会学者が疑うべきはその「機能」である。

→法的事例は原則的に無関係である(離婚、飛行機の墜落、殺人など)。しかし、論証によってこれらは法的一貫性を有する(つまり基礎付けされる?)。それぞれの具体個別事例が、法的事例と成り得ることの驚きを縮減するものが冗長性(レジュンダンツ)であり、基礎付けの機能が冗長性である。

→冗長性は基礎付けに回収されるが、その逆は不可である(非対称性)。

 

 

Ⅶ 正義 p.56~65

◇中世の時点で、宗教的正義は多くの罪人を裁いており、両義的になっていた。

→近代の機能分化(特に経済システム)によって正義は法システムの中に閉じ込められた(=固有のプログラムとなった)。

◇さらに、法は単に正しいものを「正義」のプログラムに準拠して観察するのではなく、「法律と契約」というプログラムに準拠して観察する(合法/非合法)ように内部文化した。

→このとき、「正義」は正しいものの統一性を保障するが、そのコードは明らかではない(図参照)。

 

コード

プログラム

統一性の反省

正義

作動の構造

合法/非合法

法律と契約

 

 

Ⅷ 法社会学の効用 p.66~70

◇法社会学は法社会学にのみ役に立つ/法システムに社会学が寄与するかどうかは不確実である。

→自己観察/外部観察の問題

◇学システムの外部観察によって変換された法システム内のパラドックスが、再び「学システムを外部観察する法システム」として観察されるかもしれない。

→だから、規範性、実定性、結果指向、論証、正義の問題を法の外部から観察(脱パラドックス化)したということは法システムにとって有意義かもしれない(しそうではないかもしれない)。

 

 

 

作動上の閉鎖性と構造的カップリング p.71~130

Ⅰ 開放性と閉鎖性 p.71~79

 

Ⅱ オートポイエーシス・システムとしての法 p.80~89

 

Ⅲ 作動上の閉鎖性 p.90~98

 

Ⅳ 内部作動  p.99~104

 

Ⅴ 構造的カップリング  p.105~110

 

Ⅵ 法システムの構造的カップリング  p.111~119

 

Ⅶ システム理論と経験的調査研究  p.120~123

 

Ⅷ 法のオートポイエーシス  p.124~129

 

 

 

 

 

訳者解説 ポスト・グルンド・ノウム(脱-根本主義)p.129~159

Ⅰ 閉じられたシステムとしての法 p.130~132

◇「閉鎖された」と「閉鎖している」は異なる(「開放された」/「開放している」も同様)

→ルーマンはシステムを「閉鎖された」として体系として理解する。

→法システム外部の様々な社会的事象は法内部に進入する(システムは「開放している」)/他方でシステム内部において、進入した事象は、法のコンテクストに依拠してのみ処理される(つまり「閉鎖している」)

→外部から見て「開放している」/内部から見て「閉鎖している」という両義的事態を同時に表現したのが「閉じられたシステム」の含意である。

 

 

Ⅱ 外部根拠のアポリア p.133~135

◇法は当初、外的根拠(自然、神など)に依拠していた/しかし、近代の到来はデカルト的主観主義をもたらした。

→これによって、我々が何かを観察する際に、観察者という隠蔽された特権的立場を介しているということを示唆された。例えば、逸脱に対する自然、言説に対する知の考古学、そして法に対する法社会学。

 

 

Ⅲ 法の循環 p.136~140

◇「法の根拠は法である」という命題はトートロジーである。

→しかし、法の根拠であるとされる外的根拠は法システム内部のコンテクストに依存しており、それは「閉じられたシステム」による自己観察でしかない(法外部ではない)。

◇法が自己言及する事実は「ザイン(である)/ゾルレン(べきだ)を峻別せよ」というゾルレン命題を考えれば理解できる。

[命題]「法は規範の体系である」

①ザイン命題として理解する場合

・「法は規範の体系である」という事実が述べられている。

→外部による観察であり、「法をゾルレンと想定した者」の存在が示唆される。

②ゾルレン命題として理解する場合

・「法は規範の体系であるべきだ」という要請が述べられている。

→「法はゾルレンであるべきだ」という要請と「法をゾルレンと想定した者」(法自身)の両者が描き出される。

→法は後者のゾルレンループ―自己言及性から記述される

 

Ⅳ 合法/不法―コード p.141~142

◇「法は法である」というトートロジーは合法/不法という二値にコード化される。

→法が正しいといったとき、それは合法という判断をしており、法それ自体が法システム内部から懐疑にさらされていることにはならない/法が懐疑にさらされるとは外部観察による

 

Ⅴ 端緒 p.143~146

◇では、合法/不法の端緒(最初の観察)はどこにあったのだろうか。

→楽園追放の逸話に象徴されている。つまり、神の(無根拠な)禁止―暴力が最初の合法/不法の観察であり、以降最初の観察に準拠して二番目以降の観察が行われていった。

 

Ⅵ 不法の非在 p.147~150

◇すでに見たように合法/不法はコインの表裏である。つまり、法典は合法についてのリストであり、同時に不法についてのリストでもある。

→これについては指示/区別の関係性と同様である。

 

Ⅴ 法の脱-不完全性 p.151~158

◇法は無欠陥である。

→常に法に欠陥が認められることはない。法が変更されるときも法は法に則って自らを変更しているのであり、欠陥を認めたわけではない/無欠陥であるが故に法に則って法を変更する。

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