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Baudrillard,Jean 1970→2015 『消費社会の神話と構造』

ジャン・ボードリヤール 1970→2015 『消費社会の神話と構造』

 

第Ⅰ部 モノの形式的儀礼 p.13-55

「今日、われわれのまわりにはモノやサーヴィスや物的材の増加によってもたらされた消費と豊かさというあまりにも自明な事実が存在しており、人類の生態系に根本的な変化が生じている。」p.14

「モノは人間の活動の産物であって、自然の生態学的法則によってではなく、交換価値の法則によって支配されている事実を決して忘れてはならない。」p.15

 

【豊富とパノブリ(パッケージ)】

「豊かさの最も基本的な、だが意味ありげな形態である山と積まれた商品の段階を超えて、モノはパノブリやコレクションに組織される。[…]そのなかにあるのは過剰な品物ではなく、選択され補いあい消費者の好みや心理的反応に応じてき引き渡される一連のモノであって、消費者はそれらを一通り眺めて値踏みをし、すべて単一のカテゴリーに属するものと見なすのである。」p.17

→消費者は有用性からではなく、全体としての意味としてモノのパッケージと関わる。モノはひとつながりの意味するものへ。

 

【ドラッグストア】

「ドラッグストア(あるいは新しいショッピングセンター)は多様な消費活動の総合を実現する。その最たるものはショッピングであり、モノとのじゃれあい、組み合わせの可能性である。」「ここでは商品が様々な種類別に並べられているのではなくて、記号を――消費の対象として記号の一部をなすあらゆる財を混合する。」p.19

→日常生活の全面的な組織化・均質化。これらは現実生活の昇華物であり、特に「バルリー2」のように都市全体まで拡大されたショッピングセンターは四季さえも廃絶する。

 

 

1 消費の奇蹟的現状 p.25-34

〇消費社会の心性……「消費を支配する魔術的思考であり、日常生活を支配し奇蹟を待望する心性であり、それは思考が生み出したものの絶対的力への信仰(記号の絶対的力への信仰)の上に成り立つという意味での原始人の心性である。」p.26

→消費は労働から経験されるのではなく、そうした客観的定義を排した、魔術的奇蹟ないし自然の恩寵として感じ取られる。

〇魔術的思考が自らの変化や歴史を祓いのけるが如く「イメージや事実や情報によって一般化された消費も、現実の記号によって現実を祓いのけ、変化の記号によって歴史を祓いのけることを目的としている」p.29

〇そうした中でマスコミも三面記事的性格を帯びる。「これらの情報はまったく現実的なもの、つまり目につきやすいように劇的にされ、と同時にまったく非現実的なもの、すなわちコミュニケーションという媒介物によって現実から遠ざけられ記号に還元される。」p.30

→記号による保護と現実の否定=奇蹟的安全。

 

〇消費の実践……「記号を記号として、しかしながら現実に保証されたものとして消費すること。」これは「現実世界、政治、歴史、文化と消費者との関係は利害や投資=美久弥責任の関係ではなく、また完全な無関心の関係でもない。それは好奇心の関係である。同様の図式に従えば、われわれがここに定義したような消費の次元は、世界についての認識の次元ではないし、完全な無知の次元でもない。それは否認の次元である。」p.32

〇消費の場……「それは日常生活である。日常生活とは、単に日常的な出来事や行為の総体、月並みな反復な次元のことではなくて、解釈のシステムのことである。また日常性とは、超越的で自立した抽象的領域と「私生活」の内在的で閉ざされた抽象的領域への、全体的な実践の分裂のことである。」p.32

 

 

2 経済成長の悪循環 p.35-55

 「消費社会は個人支出の急速な成長によって特徴づけられるだけではなく、第三者による個人のための支出の増加をも伴っている。後者の支出のあるものは資源の分配の不平等をなくすことを目的としている。」p.36

→こうした格差是正の方策は機能しておらず、それどころか帳簿上はすべて消費と記録され、国民総所得として経済成長の指数に加えられる。

「積極的な満足を増加させるよりはむしろ調子の悪いところを直すためのこれら私的および集団的支出、つまり補償としての支出は、すべて帳簿上は生活水準の向上という項目に加算される。」p.42

〇これらの統計上の数値はまさしく「白魔術的」性格を帯びており、生産されたものはすべて生産されたという事実によって神聖化されてしまう。

 「帳簿に書き込まれた集団的執念である生産性は、何よりもまず神話としての社会的機能をもち、この神話を成り立たせるためにはすべてが善となる。矛盾に満ちた客観的現実を、この神話を裏付ける数字に変えることさえ許される。」p.44

 

〇これまですべての社会は浪費と濫費と支出と消費を行ってきた。というのは「個人にせよ社会にせよ、ただ生きながらえるだけでなく、本当に生きていると感じさせられるのは、過剰や余分を消費することができるからである。」p.47

→豊かさは結局のところ浪費の中で意味を持つ。「豊かさがひとつの価値となるためには、十分な豊かさではなく有り余る豊かさが存在しなければならず、必要と余分のあいだの重要な差異が維持されなければならない。これがあらゆるレベルでの浪費の機能である。」p.52

 

 

第Ⅱ部 消費の理論 p.57-152

1 消費の社会的論理 p.57-94

「消費が理想とする幸福とは、まず第一に平等の要請であり、そのために常に目に見える基準との関係で意味を持つべきものなのである。」p.59

 「すべての人間は欲求と充足の原則の前で平等である。なぜなら、すべての人間はモノと材の使用価値の前で平等だからだというわけである。」p.60

→「豊かさ」を経済成長から考えるような視座は通用せず、その論理とは切り離した別の論理から考える必要がある。

「たとえ経済成長がすべての人々に、絶対量としてはより多くの所得と財への接近を可能にするとはいえ、まさか成長の中心において進行しているのはひずみの過程だし、成長に構造と意味を与えているのはひずみの過程だし、成長に構造と真の意味を与えているのは、このひずみ率に他ならないのだから。」p.64

→富の絶対量に関わらず、体系的な不平等を常に含みつつ安定している。つまり成長は「豊かさ」を近づけも遠ざけもしない。「成長は、ここでは決定的審級である社会構造全体によって、豊かさから論理的に切り離されているのである。」p.66

 

〇豊かさと成長の神話を超えて産業の問題に臨むとき、以下の2つの立場があり得る。

①ガルブレイスのように一切の否定現象(貧困や公害など)を修正可能なもとしてシステムから払いのけ、成長の魅力的軌道を守り抜こうとする立場。

 

②システムが不均衡と構造的窮乏、すなわち絶えざる欠損の状態によって生存していると主張し、その論理の両義性を認める立場。

→先から論じている通り、本書は後者の立場。

 「システムは自分が生き残るための条件しか認識しようとせず、社会と個人の内実については何も知らないのだ。」p.72

→システムは「豊かさ」や「貧困」といった人間のロジックを判別することができず、自己が生存するための固有法則にしか従うことはない。

 

 「学校が文化的機会の均質化に役立たないように、消費もまた社会全体を均質化するわけではなく、むしろ社会内の差異を強化しさえするのである。」p.76

 「そしてそれは常に差異表示記号として機能するのである。モノは記号のかたちをとるときにこの構造的規定を受け取る――モノがこうした規定を受けないことはまず不可能なのである。」p.77

→学校と同じように、消費は一つの階級制度として機能している。またこうした視点に立つと、消費過程は以下の2つの根本的側面において分析可能となる。

①消費活動がその中に組み込まれ、そのなかで意味を与えられることになるようなコードにもとづいた意味付けとコミュニケーション過程としての側面。

→消費は言語活動のように捉えられる。

 

②分類と社会的差異化の過程としての側面。

→記号としてのモノは単に意味上の差異だけではなく、ヒエラルキーにおける地位の価値として秩序付けられる。

〇そして分析の原則は次のようなものである。

 「人びとは決してモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。――理想的な準拠地して捉えられた自己の集団の所属を示すために、あるいはより高い地位の集団をめざして自己の集団を抜け出すために、人々は自分を他者と区別する記号として(最も広い意味での)モノを常に操作している。」p.80

→単なる意識的規定がプラスの方向にしか向かわないのに対し、差異表示記号の方はマイナスでもある。したがって、これら記号は消費者の欲求を満たすことはない。

 

 「経済成長は単に欲求の増加や財と欲求のあいだのある種の不均衡だけを伴うのではなく、欲求の増加と生産性の増加とのあいだのこの不均衡自体の増加をも含むのである。この矛盾から「心理的窮乏化」と潜在的かつ慢性的危機の状態が生じる。この危機は構造的成長と結びついていて、破局の入り口、矛盾の爆発へと導きかねないものである。」p.86

 「以上の事実を考えに入れるなら、成長社会は豊かな社会とは正反対の社会として定義されることになる。競争心をかきたてる欲求と生産とのあいだの恒常的なこの緊張、すなわち貧乏性的緊張である「心理的窮乏」のおかげで、生産の秩序は自分に十分引き受けられる欲求だけを生じさせ、満足させるよう振舞うのである。」p.88

→システムそれ自体は先述の通り「成長の欲求」という固有の論理によって動いており、諸個人の合目的性についてそこで加味されることはない。むしろ成長とは構造的貧困の再生産によって定義される。

 

2 消費の理論のために p.95-127

 「消費についてのあらゆる議論は、次のような神話的寓話によって要約される。――人間は欲求を授けられるが、この欲求は彼に満足を与えてくれるモノへと人間を導くという寓話である。」pp.95-96

→社会科学者の欲求に対する立場は以下のようなものがある。

①欲求は相互依存的で合理的である(マーシャル)

 

②選択は説得によって押し付けられる(ガルブレイス)

 

③世級は相互依存的だが、見習い学習の結果である(ジェルヴァジ)

→しかし現在において合理的経済人のようなモデルはもはや通用しない。というのは、市場の動きをコントロールするのは消費者ではなく、生産者の側にあるからである(「逆転した因果連鎖」p.101)

「この「逆転した因果連鎖」は少なくとも次のような批判価値を持っている。すなわち経済システムにおいて個人こそが権力を行使するのだという、古典的順序の根本的神話を粉砕するのである。個人の力をこのように強調することは、社会組織を肯定することに大いに役立っていた。つまり、生産領域に内在するあらゆる機能障害、公害、矛盾は、消費者が主権を行使する領域を拡大するという理由で正当化されてしまう。」p.101

 

 「だから真なる命題は「欲求は生産の産物である」ではなくて、「欲求システムは生産システムの産物である」なのである。」p.106

→欲求システムとは、欲求がモノに応じて生まれるのではなく、消費力として生産力の全面処分力として生産される現象のこと。すなわちこれらの欲求はシステムの要素として生み出されるのであって、個人とモノの関係から生み出されるのではない。

①生産の秩序において以前の道具類とは根本的に異なる、生産力としての機械を生み出す。

 

②以前の「富」とは異なる合理的流通のシステムの、生産力としての資本を生み出す。

 

③伝統的な「仕事」とは異なる抽象的生産力である賃金労働力を生み出す。

 

④上述の三つのシステムを補完するように生産の秩序は欲求のシステムを生み出す。システムの欲求は先述の通り、満足といった個人的感情とは一線を画す。

 

〇モノを享受のほうへ導かれるように見える消費行動は、差異表示記号を通じた価値の社会的コードの生産といった他の目的と対応している。

「決定的な力をもつのはモノの集まりを貫く利害関心という個人的機能ではなく、記号の集まりを通しての諸価値の交換・伝達・分配という直接的に社会的な機能である。」p.113

→消費の言語体系とは差異化されたコミュニケーションであって、個人的欲求の充足や教授などはこの体系に比べたら話し言葉(parole)に過ぎない。

 

〇消費の目的が享受でないことの証左として、享受が今日では市民の義務として課されていることを挙げることができる。

 「この強制は、新しい倫理においては労働と生産の伝統的強制と同じものである。現代人が労働を通して生産にかける時間はますます少なくなっているが、自分自身の欲求と安楽の絶えざる生産と改良にかける時間はますます多くなっている。」p.117

→こうした強制は19世紀におきた産業労働訓練の大掛かりな延長線上に位置づけられる。

〇消費は次のような2種類の強制によって支配されている。

①構造分析レベルでの意味作用に伴う強制

 

②戦略的分析における生産と生産循環に伴う強制

「消費対象は、たとえ人々を孤立させないにせよ、やはり差別し、消費者をあるコードに集団的に割り当てるか、だからといって逆に集団的連帯を生み出すというわけではないのである。」p.127

→消費者は19世紀の労働者と同じように無自覚な存在である。

 

 

3 個性化、あるいは最小限界差異 p.128-152

 「すべての宣伝には意味が欠如している。宣伝は意味作用を伝達するだけである。宣伝の意味作用は決して個性的なものではなく、まったく差異表示的であり、限界的で組み合わせ的である。つまり、宣伝の意味作用は差異の産業生産に由来している。この事実こそ消費のシステムを最も強力に定義づけるものであるといえよう。」p.132

→例えばある車の機能性の前で万人は平等であるが、厳しいヒエラルキーのある記号や差異捉えると全く平等ではない。

 

〇消費は先述の通り個人の欲求充足によるものではない。そうではなくて「最初に差異化の構造的論理が存在し、この論理が諸個人を「個性化された」ものとして、つまり互いに異なるものとして生産する。[…]個人という項目についての独自性/順応主義の図式は本誌素敵なものではなく、体験レベルの問題なのである。コードに支配された差異化/個性化の図式の論理、これこそ根本的な論理である。」p.140

〇したがって消費は以下のように定義することができる。

①消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。

 

②消費はもはや個人の単なる権威づけの機能ではない。

 

③消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動として定義される。

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