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Rorty,richard 1989→2000 『偶発性・アイロニー・連帯』

『偶然性・アイロニー・連帯』 1989→2000 R・ローティ

 

◇第Ⅰ部 偶然性 p.13~151

第1章 言語の偶然性 p.13~51

・今から約200年前、フランス革命によって政治の領域にて、ロマン主義によって詩作の領域にて、それぞれ「真理が実在-発見されるものではなく創造されるものである」ということが確認された。

→同時期に哲学の領域ではカントやヘーゲルに代表されるドイツ観念論が「真理の創造」を正当化した。

 

・しかしドイツ観念論は「真理の実在-発見」の否定を「世界の実在-発見」の否定と混同していた点で、短期的な成功しか収めることができなかった。

→真理とは人間の言語ゲームの枠組み内部においてのみ産出されるものであり、例えばフロイトの語彙とユングの語彙を比較することが、一般に真理性の検討とされる営為である。他方で、語られる「現象それ自体(=世界)」は人間に対していかなる言語ゲームも強制しておらず、ゆえに真理の否定は世界の否定と区別されなければならない(真理が実在しなくとも世界は実在する)。

 

・「どの言語ゲームで世界を語る(発見する)か」という主張は、単に言語ゲームの恣意性を看破するのではなく、むしろ我々が世界を語る際に、世界が何らかの「本有的特性」を有していると想定し、特定の尺度を設けようとする欲求を持っているという事実を反映している。

 

・従来的に言語は自己と世界の関係性の媒介として捉えられてきた。

→しかしながら、言語を媒介として捉える限り、「どの言語ゲームが世界の解説として適切か」という終わりなき問いに飲み込まれてしまう。

→デヴィットソンが主張するように、言語は偶発的であり、媒介としての必然性を有していない(いかなる言語ゲームでも世界は発見される)。

・本書はこうしたメタファー(言語ゲーム)の変遷を知の歴史として捉える。メタファーそれ自体は意味を持たず、メタファーが変更されるということも単に異なる言語利用に移行しただけである。

→2章と3章では、新たなメタファーの産出者としての「詩人」について考察される。さらに本章では言語利用の偶発性について考察されたが、2章では自己概念、3章ではリベラルな共同体の偶発性にまで拡張される。

 

 

【メモと批判】

・ポストモダンくせ~。オシャレかよ。あと言語哲学と科学哲学と心の哲学から引っ張ってきといてEM出さないとか舐めてんのかよ。言語が「世界-自己の媒介」としてではなくて、「状況志向的な関係性に共通の理論を提供するだけのもの」として機能するという主張はなによりエスノメソドロジーによって裏付けられるべきだと思うよ。

 

・いちおう整理しとくと、

世界を語る際に、どのメタファー(言語活動)を選択するべきかについて、世界それ自体はいかなる強制力を人間に及ぼさない(好きに語れ)

ゆえに

メタファーの選択は(一般的見解とは異なり)偶発的であり、

その偶発的なメタファーを産出するのは詩人である

 

 

第2章 自己の偶発性 p.53~95

・ラーキンの詩は偶発的存在としての自己を受け入れつつ、自己を創造していくというある種の緊張関係を描いている。

→ニーチェは真理-知の歴史が「メタファーの一群」であるということを看破しつつ、他方で確固たる自己創造を説いている(真理を女に例えつつ、「超人」をスローガンにした)。

→自己に関わる道徳を脱-神聖化したのがニーチェだった

 

・フロイトは自己を強迫神経症についてのみならず、道徳の領域、宗教的衝動など様々な角度から考察し、(従来的には道徳や理性の領域において中心化されていた)自己という概念を分散―偶発性に晒した。

 

・従来的に自己の徳性は「カント/ニーチェのどちらを選択するか」という問題として扱われてきた(定言命法としての道徳か/虚構的メタファーとしての道徳か)

→フロイトは先述の通り自己の多元性を発見することによって、そもそも自己-良心-道徳という従来的な枠組みを解消することに成功した。

 

 

【メモと批判】

・なんでローティはかたくなに脱構築って言わないの。フロイトがカント/ニーチェを脱構築したって解釈は違うの?

 

 

第3章 リベラルな共同体の偶発性 p.97~149

・第1章ではウィトゲンシュタイン-デヴィットソンのテキスト解釈を通して「言語の偶発性」が、第2章ではニーチェ-フロイトのテキスト解釈を通して「自己(道徳)の偶発性」がそれぞれ看破された。

→こうしたローティの主張は相対主義に陥っているのだろうか。本章では「相対主義 対 普遍主義」という従来的なメタファーが、政治的メタファーであるリベラリズムに代替されるべきであることが示される。

 

・バーリンによれば。リベラルな政体においては、(ローティのいうニーチェやウィトゲンシュタインやフロイトなど)「詩人」がより多く登場し、「偶発性を承認することによる自由」がより重要な徳性となる。

→サンデルはバーリンに対して「過度な相対主義に陥る危険性」を確認し、その上でなぜ「自由」が特権的な徳性として扱われるのか批判する。

→「偶発性の承認による自由」によって相対化される以上の相対性を観察できるほどのメタな眼差しは存在せず、また「特定の徳性を(メタファーの一つとして)評価しない態度」=哲学的中立性は放棄されても問題はない。

 

・リベラルな政体における「何でもありanything goes」というメタファーは、1章の冒頭で登場したように政治と詩作によって担われるべきである。

→よって文化をまるごと「詩化」できるような強い「詩人」が望まれることになる。

・また2章で明らかにされたように、道徳性も詩的なメタファーで刷新される対象となる。

 

 

【メモと批判】

・俺が知っているリベラルと違うのだけど。

 

・あとローティの主張はメタレベル/オブジェクトレベルの解釈が混同されているので、すごく読みにくいです。

→真理、道徳、政体をそれぞれメタファーとして捉えつつ(オブジェクトレベル)/自身の書いているテキストも一つのメタファーに過ぎない(メタレベル)としていて、この両方の解釈のレイヤーを往来するから非常に混乱する。

・さらに「詩人」を礼賛しつつ(オブジェクト)/自身も「詩人」的なスタンス(メタ)をとろうとしていることも読み手を混乱させるね。地獄の業火に焼かれますように。

 

 

◇第Ⅱ部 アイロニズムと理論 p.153~285

第4章 私的なアイロニズムとリベラルな希望 p.153~196

・アイロニストは以下の三点から特徴付けられる。

①自分の有する「終焉の語彙last vocabulary」を徹底して疑う

→他の「終焉の語彙」に絶えず感銘を受けているから

②自分の語彙によって①の疑念を解消できないことを自覚している

③自分の語彙を特権化せず、メタな語彙などないと考えている

 

・形而上学者は語彙に本来的特性を希求し、語彙の変遷によって正義や存在、信仰や道徳などの真理―「終焉の語彙」に到達できると考えるのに対し/アイロニストは語彙の変遷を単なる偶発的なメタファーの変化としてしか捉えないため、そもそも「終焉の語彙」に対して懐疑的である

 

・アイロニストは「終焉の語彙」の実在を認めないが、メタファーの移ろいとしての「論証」には好意的であり、古い語彙から新たな語彙への移行を弁証法として捉えている。

→こうした語彙の変遷としての弁証法は今日「文芸批評」と名付けられ、「文芸」というカテゴリもかつてと比べ、(ナボコフやオーウェルから、ヴィトゲンシュタインやフーコーまで)広範囲に拡大されている。

→「文芸批評」の領域拡大に伴いリベラルな政体における、アイロニストの知識人は形而上学者のそれよりも多くなった。

 

・しかし、(3章でのサンデルがそうだったように)アイロニストの増加は「過剰な相対主義」として批判されるようになる。特にハーバーマスは批判者の筆頭であり、彼によれば「私的な領域(個人主義的なアイロニズム)」の推奨/「公的な領域(政体としてのリベラル)」の推奨は相容れないという。

→3章で明らかにされたように、リベラルな政体において望まれるのは「偶発性の承認による自由」(バーリン)であり、むしろこうした自由を積極的に認めることで公共性は可能になるということだった。

・こうした公共主義的リベラリズム/個人主義的アイロニズムの両立に関する批判として以下の二つが想定される。

①公共性の実現には個人主義的アイロニズムの語彙ではなく、従来的な形而上学的レトリックが不可欠である。

②リベラルなアイロニストであるためには、形而上学的領域なしには心理学的に見て不可能である(ミルとニーチェを一人の人に同居させることは出来ない)。

→「終焉の語彙」への到達が疑わしいものとなっても(=形而上学レトリックが失効しても)、政治のレトリックそれ自体に社会が依存するため、社会的紐帯は弱まらない。ゆえにアイロニズムの語彙によっても公共性は実現可能である(①の反証)

・さらに②のアイロニズム/リベラリズムの同居が不可能であるという指摘も不当である。

→リベラルな政体において公共性を可能にするのはアイロニカルな「自由」だった(第3章)。「終焉の語彙」という共通の物語がなくとも、各人はむしろアイロニーによって互いを顧慮することができ、ゆえにアイロニズム/リベラリズムという二項はそもそも対立項ではない。

 

・形而上学的リベラリズムが共通の物語としての「終焉の語彙」への到達を目指すのに対し/アイロニカルなリベラリズムは語彙の弁証法的反復を記述しようと試みる

→第5-6章では「語彙の反復の記述者としてのアイロニストの哲学者」に焦点が当てられ、第7-8章では「リベラルな相互的顧慮を訴える存在としての小説家」に焦点が当てられる。

 

 

【メモと批判】

・ポストモダンですね~。

→「終焉の語彙」に向かうという形而上学の真理追究的態度って、つまりリオタールのいう「大きな物語」のことでいいよね。

→それで、「大きな物語」が失効したポストモダンではもはや「小さな物語」としての語彙が氾濫していて、その多様性を多様であるままに許容するのがリベラルな社会、多様性を産出するのがアイロニストってことだよね~。

・むしろローティはなぜポストモダニズムな立場を表明しようとしないのか。そことは距離を置いときたいのかつむは。

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