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Frege,Gittolob 1884→2001 『算術の基礎』

ゴットロープ・フレーゲ 1884→2001 『算術の基礎』

 

緒言 p.35-49

○本書は数学において自明視されがちな数の概念について明らかにする。

→数の概念は、ほとんど児童の算数レベル以上の議論として受容されてはこなかったが、こうした姿勢は無知の知がかけてくる。

 

○数の概念をめぐっては、主に以下のような立場において検討されてきた。

(1)心理主義

○数を心に生起した表象として捉える立場。

→心は私秘的であり、ゆえにこの見解に従うと客観的に存在するはずの数“100”が「百」や「C」などといった具合に、異なる表象として経験されるか明らかでない。

 

(2)歴史主義

○さらに心理主義に付随する問題として、数が表象であるのならば、科学知識の発展に伴って式「2×2」の解が「5」とも「7」変化しうる可能性が排せない。

→数は社会的因習や態度によって構成されるものではなく、「2×2」は普遍的に「4」とならなければならない。

 

(3)経験主義

○数の真理性が経験によって導出されると考える立場。ミルに顕著。

→経験主義は、ある定義が経験的規則に則って確かめられることによって、その真理性が明らかになると考える。多くの数学者はこの立場を支持してきたし、完全には排せないが、ここでも個数言明が経験を超えたアプリオリな判断であるということが忘れられている。

→よっていずれの立場も不当である。こうした議論の背景には、数学ないしは哲学が心理学に過剰接近している事実が挙げられる。しかしながら、数学と心理学は区別されなければならない。

→数学はむしろ論理学と関連して検討されるべきである。

 

○これらを踏まえ、本稿は以下の3つの問題を軸にして議論が展開されていく。

(a)心理的なものを論理的なものから、主観的なものを客観的なものから、明確に分離しなければならない。

(b)語の意味は、命題という脈絡において問われなければならず、語を孤立させて問うてはならない。

(c)概念と対象との間の区別を、念頭に置かなければならない。 [Frege 1848→2001:43]

→(a)は突き詰めて言えば表象と概念の区別についてである。前者が心の中に生起する主観的像であるならば、後者は客観的に(物象を伴うとは限らないが)存在する論理である。

→(b)の論点は(a)を徹底するための方法である。つまり概念/表象の区別には、語を主観には還元されえない命題として捉える必要がある。

→しかし(c)にあるように対象/概念も異なる。概念は対象のように不偏の存在ではなく、状況に応じて変化しうる。

 

 

[1節]数学においては近頃、証明の厳密性と概念の明確な把握を目指す傾向が認められる。

○数学は証明の厳密性が希求されている。

→ある証明が真であるかどうかは、その証明において登場する概念の真理性に依存的である。

 

 

[2節]吟味は最終的には基数概念にまで及ばざるを得ない。証明の目的。

○ゆえに証明の真理性をできる限り遡行して検討する必要がある。

→最終的に行き着くのが数学的命題の全てを構成している基数概念である。

 

○個々の定理ではなく、その全てを規定しうる公理としての、あるいは原初的真理としての基数概念が明らかにできるのであれば、数学証明の厳密性が補償されるはずである。

→つまり問いは帰納的(個別的定理→公理としての基数概念)ではなく演繹的(公理としての基数概念→個別的定理)な形式によって立てられる。

 

 

[3節]このような探求の哲学的動機:数の法則は分析的真理か綜合的真理か、アプリオリかアポステリオリかという争点。これらの表現の意味。

○上述の問題を検討するにあたり、数学がカントによる区別―すなわちアプリオリ/アポステリオリ、分析的/総合的のいずれに位置する判断かが問われる必要がある。本書ではカントに準拠して、以下のような定義を与える。

アプリオリ……先験的判断。定理を遡行した最終地点である基数概念が、それ以上は遡行(証明)できず、また遡行する必要がないならば、それはアプリオリである。

アポステリオリ……経験的判断。基数概念にまで遡行した結果、その説明に何か個別具体的な事実を引き合いに出さねばならないのであれば、それはアポステリオリである。

 

分析的……数の法則を遡行する過程において、純粋な論理形式以外の判断が必要でないのであれば(数学と論理学以外に出会わないのであれば)それは分析的である。

綜合的……数の法則を遡行する過程において、何か特定のディシプリンに依拠した説明を行う必要が生じるのであれば、それは綜合的である。

→ネタバレするとフレーゲはカントやミルに対する反駁を通し、数学を「アプリオリで分析的な」判断と結論付ける。

 

 

[4節]本書の課題。

○証明の厳密性、基数概念はそれ以上遡行不可能な原初的真理か否か、アプリオリ/アポステリオリ、分析的/総合的といった諸論点は基数概念の定義に最終的には帰着する。

→基数概念にどのような定義が与えられるかという問いこそが、数学の基礎と本性を明らかにするための課題に他ならず、ゆえに本稿の課題でもある。

 

 

 

Ⅰ.算術命題の本性に関する何人かの論者の見解 p.49-69

数式は証明可能か?

[5節]カントはこの点を否定するが、ハンケルは正当にもそれは逆説的であるという。

○カントによれば数式はそれ以上遡行できない真理であり、ゆえに証明ではなく、直観によって妥当性が与えられるという。

→例えば数式「2+4=6」の妥当性は、「2本の指と4本の指の合計」という直観的判断に基づいている。

 

○しかしカントの見解は明らかに少ない数の場合にしか適用することができない。

→「783927本の指と839572本の指の合計」といった直観が抱けない以上、数式「783927+839572」が説明できない。

 

 

[6節]2+2=4についてのライプニッツの証明には隙間がある。a+bについてのグラスマンの定義には欠陥がある。

○他方でライプニッツは数式の証明を直観に依拠するのではなく、少数の定義と公理によって導出できると考えた。

→曰く数式「2+2=4」の証明は、個別的に行われるのではなくて、以下のような証明の手続きを踏む。

定義:1)2は1+1である

2)3は2+1である

     3)4は3+1である

公理:等しいものを互いに置き換えても、等式は依然として成り立つ。

証明:2+2=2+1+1=3+1=4

  定義1 定義2  定義3

∴公理より2+2=4

 

○ライプニッツの手続きは概ね妥当な証明であるといえるが、括弧を省略したことによる見落としがある。厳密には以下のように表記される必要がある。

2+2=2+(1+1)

(2+1)+1=3+1=4

 

ここで欠落しているのは、命題

2+(1+1)=(2+1)+1

であり、よってこれらは一般式

a+(b+c)=(a+b)+c

の個別事例であるといえる。

→この一般式[a+(b+c)=(a+b)+c]が全ての個数言明の公理となる証明であり、表象や直観による説明に頼らずとも、数式が証明できることになる。

 

 

[7節]個別の数の定義が観察される事実を主張し、それから計算が帰結するというミルの見解は、根拠を欠いている。

○ミルもライプニッツと同様に、数の定義とそれに準拠した公理によって一般数式が提示できると考えた。

→しかしミルの場合、数は経験的事実に準拠して定義されるという予断によって、主張の正当化に失敗している。

 

○ミルの見解に暫定的に従うならば、数は具体的に観察された物象的事実に準拠して定義される。

→カントの直観と同様、数量が増大するに連れて直接的な観察は困難になっていく。

○あるいは具体的観察など必要なく、そうした個別的観察が全て含まれる一般規則が、個別の観察によって帰納されうるとミルは主張したかったのかもしれない。

→しかし「100枚の葉から成る群葉」を「100枚の葉」と観察するか/「1つの群葉」と観察するか、文脈を無視して同定することはできない。ゆえに観察全てを含むような一般法則は帰納できないため、ミルの主張はいずれにしても不当である。

 

 

[8節]これらの定義を正当とするためにそうした事実を観察する必要はない。

○先述の通り、ミルは数式の証明と数の定義を経験的事実から導出しようとした。

→彼によれば数式「2+3=5」の証明には、「2個の何か」と「3個の何か」が経験されなければならない。しかし「0個の何か」の場合、それを経験することはできないため、0はその意味するものが存在しない空記号となってしまう。

 

○我々が感覚によって個数の区別ができない(感覚と独立して数が存在する)と考えるならば、いかにして算術が成立するのかという疑問が生じる。

→しかしここで繰り返されているのは、命題としての個数の真理性であって、その表象についてではない。命題の真理値は感覚とは独立しているし、その命題は確かに表象として諸個人によって観察、経験、知覚されうるが両者は相互依存の関係には無い。

 

 

算術法則は帰納的真理か?

[9節]ミルの自然法則。ミルは算術的真理を自然法則と呼ぶことにより、算術的真理をその応用と混同する。

○ミルは何度も述べているように、観察された経験的事実すなわち自然法則と算術的法則を混同してしまっている。

→確かに算術法則が物象化された事実の説明に用いられる例は枚挙に暇が無い(例えば液体4ℓと5ℓの合計は9ℓであるといった具合に)。

○しかしながらこうした自然法則における計算は、いわば算術法則の応用であり、算術法則それ自体ではない。

→例えば先の液体の例であれば、普遍的な算術法則に則る以上、4ℓと5ℓあるならばどんな液体を混ぜても9ℓに成ることが含意される必要がある。しかし実際は、液体の種類によって(例えばエタノールと血液)化学反応が起こり9ℓになるとは限らない。

→よってミルの主張とは裏腹に、観察された経験的事実から算術的真理を帰納できるとは必ずしもいえない。

 

 

[10節]加法法則が帰納的真理であることに反対する幾つかの理由;数は互いに同質ではない;定義によるだけでは、数が共有する一群の性質はまだ得られていない;恐らく逆に帰納は算術に基づかなければならない。

○ミルの主張はいまやほぼ完全に反証されたが、それでも算術法則が帰納されうるといった見解はありえるかもしれない。

→ここではさらに3つの理由から、算術的真理を帰納的真理とすることは、謬計に基づく主張であると証明される。

(1)数の非同質性

○数は図形と異なり互いに同質であることはない。

→三つの角度が同一である二等辺三角形は互いに合同であるが、3つ存在する数が同一であっても、それが埋め込まれている数列によって性質が異なるため、同質であるとはいえない(数は時空を欠く)。

 

(2)定義によって数の同一性質を規定できない

○動物種の同一性質は定義(例えば「嘴を持つ」等)によって規定することができる。他方で数の性質は、配列の中に見出される限りにおいて確定的であり、それを無視して規定することはできない。

 

(3)数学における帰納(※今で言う数学的帰納法のことだと思われ)

○数の同質性や同一の性質は一義的に規定することができず、ゆえに数が顕れている数列においてその都度ごとに定義が与えられる必要がある。

→数nの定義は「n+1をすれば隣り合う次の数になる」という性質以外に見出すことができず、またこのn+1という性質を念頭に置けば、数の一般法則を共通する一つのやりかた(つまりnに1を加算する)から証明できる可能性が開かれる。

→帰納とは算術法則を導出するためにあるのではなく、むしろ算術の一般法則に則った、全ての自然数に共通する数の生成方法である。

→ゆえに算術法則は帰納されない

 

 

[11節]ライプニッツの「生得的」。

○算術は帰納される事柄ではなく、ライプニッツがいうように「生得的に」与えられる事実である。

→算術的真理は個人の内面にアプリオリに(つまり生得的に)存在するにも関わらず、我々は算数や数学といったかたちでそれを学ぶ。

→生得的に備わっている判断を、学習を通して発見している。

 

 

算術法則は綜合的アプリオリか分析的か?

[12節]カント。バウマン。リプシッツ。ハンケル。認識根拠としての内的直観。

○先述の通りカント的区別に従えば、判断は以下の4つの形態がありえる。

 

アプリオリ

アポステリオリ

分析的

ライプニッツによる算術の解釈

 

綜合的

カントによる算術の解釈

ミルによる算術の解釈

○分析的であれば論理の一般形式によってしか算術は説明されない、すなわち経験的事実は不要なので「分析的アポステリオリ」が脱落する。

○さらにミルのいうような経験的事実から算術的真理を導出する方策は、すでに見たとおり不当だった。ゆえに「綜合的アポステリオリ」も算術法則を考えるにあたって、選択肢から消える。

→よって残る可能性は、「分析的アプリオリ」か「綜合的アプリオリ」の二択となる。

 

○カントは算術的真理が綜合的アプリオリに与えられると考えた。

→すでに見たとおり、カントは直観によって数の定義は捉えられると考えていた。

→しかしこれも先述の通り、数が過大になるほど、直観的把握は拒まれることになる(10000本の指は直観できない)。

 

 

[13節]算術と幾何学の相違。

○また綜合的アプリオリとしての数概念を拒否する論拠として、幾何学と数学の区別が挙げられる。

→10節「数の同一性」で説明された理由(数の特殊性は直ちに同定できない)から、数はユークリッド幾何学のように直観的には把握することができない。

 

 

[14節]諸真理とその支配領域に関して比較する。

○綜合的であるとするということは、真理が直観によって導出されると同時に、特定の支配領域に留まるということも意味される。

→綜合的な経験命題は心理学や物理学において、幾何学的真理は空間的領域においてのみ適用される。

○しかし数学の一般規則は特定の領域にのみ限定される真理ではない/個々の領域に対して包括的に作用する。

 

 

[15節]ライプニッツとSt.ジェヴォンズの見解。

○ライプニッツは算術を分析的アプリオリであると考えたが、彼の場合「アプリオリであればすなわち分析的」であるという図式に基づいており、ゆえに全ての真理を証明可能なものであると見なしてしまう。

→偶然的真理と必然的真理はそれでも区別されるべきである。

 

○またジェヴォンズは、算術の分析的アプリオリな本性を「数は単に論理的な区別でしかなく、そして代数は高度に発展した論理学である。」と簡潔に表現した。

 

 

[16節]ミルはそうした見解を「言葉の巧妙な操作」とけなす。知覚可能なものを何も意味しないからといって、記号が空であることにはならない。

○ミルはジェヴォンズのように可触的な経験と独立して算術を考える見解を、記号を用いた言葉遊びに過ぎないと批判する。

→しかし感性や経験、あるいはカントの言うような直観を含まないということと、記号が空であることは必ずしも一致しない。

→むしろこうした個別的事例(感性、経験、直観)が算術法則を帰納するのではなく、算術法則が個別的事例に演繹されるのである。

 

 

[17節]帰納の不十分さ。数法則が分析的判断だという予想。その場合に数法則の有用性はどんな点にあるか。分析判断の評価。

○ここまでで明らかになったとおり、算術とは分析的アプリオリな判断である。

→算術的真理は必ずしも経験可能なものだとは限らず、個別的な推論であるというよりかは、個別的推論に演繹されるべき一般的論理形式であるといえる。

 

 

 

Ⅱ.基数概念に関する何人かの論者の見解 p.69-85

[18節]基数の一般的概念を探求する必要性。

○算術の一般法則は分析的にアプリオリであり、ライプニッツらの主張するように、帰納ではなくn+nといった一つの公理から全ての加算命題は導出されなければならない。

→よって公理を構成する基数概念とはそもそも何かということが次に問われる必要がある。

 

 

[19節]基数の定義は幾何学的であってはならない。

○まず基数を定義するに際して、最初に思いつくのは基数を幾何学的に定義する方法である。

→ニュートンは数を集合ではなく、比の体系であると考える。しかしながら、全ての数に空間的関係が成立するわけではないため、数を幾何学的に捉える試みは成功しない。

 

 

[20節]数は定義可能か?ハンケル。ライプニッツ。

○数が位相によって規定できないのであれば、そもそもそれが定義可能であるか考えなければならない。

→ハンケルとライプニッツなどがそうであるよう、反対勢力のほうが強い。この事実はおそらく、数の定義がこれまで失敗してきたことに起因する。

 

 

基数は外的な物の性質か?

[21節]M.カントールとE.シュレーダーの見解。

○基数を定義可能であるとする勢力のうち、数概念が質量(「重い」)や色(「赤い」)といった形容と同様に、物の外的性質であるとする立場が存在する。

→カントールは個の発想に基づき、外界に目を向けなければ数は定義できないとしたし、シュレーダーも数と物象はそれぞれ独立して考察される必要があるとした。

 

 

[22節]バウマンの反論:外的なものは厳密に単位をなさない。見たところ、基数は我々の見方に依存する。

○他方バウマンは数を物象の外的性質だとする見解を退ける。

→物の数は(他の外的性質とは異なり)固定的に定義できず、我々の眼差しによって境界付けられている。

→例えば100枚の群葉を「葉の塊1つ」とするか「100枚の葉」とするかは、当該の個数言明がなされるコンテクストによって異なる。またイーリアスの詩集を「24巻」とすることもできれば、「1つの連なる詩」とも捉えられる。

 

○上記のことから、他の性質(例えば色)と基数の本質的な違いは、前者が我々の眼差しによってはどう変化させることもできない(青いものは青い)性質であるのに対し、後者は任意の見方と関連させなければ定義ができないことである。

 

 

[23節]数が物の集積の性質であるというミルの見解は、維持しえない。

○数が物象の外的性質ではないことはすでに明らかになった。ではミルに倣って数を集積の性質と見なすやり方はどうか。

→これも先の場合と同様、集積の境界も我々の眼差しによって規定される(先の群葉の例に顕著)ため、固定的な定義を与えることができず、ゆえに不当である。

 

 

[24節]数は包括的な適用可能。ミル。ロック。ライプニッツの非物体的な形而上学的図形。数が何か感性的なものだとしたら、数は非感性的なものには付与しえないだろう。

○上記のことを考慮すると、数は色や質量などとは異なり、もっと包括的な適用可能性に開かれていることが判明する。

→ミルは数が物象の集積に帰属されるとし、ロックは表象される全てのもの(実在しない天使や神にも)に帰属されると拡張した。

→対するライプニッツは、数とは物象や表象の性質などではなくて、あらゆる対象に帰属することができる形而上学的かつ非物体的な図形であると考えた。

 

○(ミルやロックに従い)数は物象や表象から抽出されるとすると、「3角形」と「三段論法」からはそれぞれ同じく「3」が知覚されることになる。

→こうした基数概念に対する帰納法は明らかに謬計に基づいており、ゆえにライプニッツのように形而上学的図形の演繹といった見解の方がまだ支持できるだろう。

 

 

[25節]ミルは2と3の物理的な相違に言及する。バークリによれば、数は実際に諸物の中にあるのではなく、心によって想像される。

○ミルが物的差異に数が帰属されるとしたのに対し、ライプニッツとロックは観念的領域に基数を認めた。

→ミルの見解に従うのであれば、「1組の長靴」と「2足の長靴」は(同じ物象であるはずなのに)異なる数になってしまう。

→バークリは数が物的対象にはなり得ず、状況に応じて境界付けられる心的表象であるとしてミルの見解を退ける。

 

 

数は主観的なものか?

[26節]数形成のリプシッツの記述は必ずしも適切ではなく、概念確定の代わりとはなりえない。数は心理学の研究対象ではなく、何か客観的なものである。

○ではロックやバークリのいうように、数を心的表象すなわち主観的とする捉え方は正当化できるものなのだろうか。

→確かに我々はある物的対象なり心的表象に基数を帰属する際、境界付けを行っている。しかしだからといって個数言明を主観的営為であると見なすのは早計である。

 

○例えば北斗七星は7つの星から構成されている。このとき「7つある」とする判断と、「7つの星を北斗七星と見なす」判断は異なっている。さらに「北斗七星」と見なしても、見なさなくても「星が北天に7つ存在している」ことは主観に還元されない/客観的事実として存在する。

→このことはちょうど「赤道」が思考上の線であっても、その存在論的実在性が否定されないことと同様の理屈による。

 

 

[27節]数は、シュレーミルヒの意に反し、系列における対象の位置の表象ではない。

○ゆえにシュレーミルヒによる、数を対称の位置の表象とする見解にも首肯できない。数を表象とする主張が肯定されるのであれば、心理学があれば算術など必要なくなってしまうだろう。

 

○本章での議論を整理しておくと、

(1)数は「物象の外的性質」でも、「物象それ自体」でも、ましてや「主観的表象」でもない

(2)ゆえに数は非感性的かつ客観的に存在する

(3)ただし諸個人の経験において、心の触発として生じることは否定されない(客観的事象の主観的経験)。

 

 

集合としての基数

[28節]トーメのいう命名。

○数が「非感性的かつ客観的存在」なのはわかった。しかしまだ基数概念の定義には至っていない。ゆえに次にそもそも「非感性的かつ客観的存在」とは具体的に何なのかが問われる必要性が生じる。

 

○トーメのように数を「集合」ないしは「複数性」「多数性」として捉える論者も存在する。これは確かに「非感性的かつ客観的」という条件を損なわないが、いくつかの問題が存在する。

→まず基数を「複数性」「多数性」とすると、「0」と「1」が定義できないという難点がある。

→さらにトーメは「集合」に名前を付与することによって、その集合の構成要素の数について把握できると考えたが、構成要素間における共通のメルクマールが認められないのにも関わらず名前を与えてしまっては、事実上その集合は意味を成さない(「3匹の犬」と「水瓶座の星」と「1組の箸」を同じ名前の下に一つの集合に括ったところで無意味である)。

 

○では基数を「物の集合」とするのではなく、ユークリッドがそうだったよう「単位の集合」とする見解はどうだろうか。

→これは次章で個別に検討していく。

 

 

 

Ⅲ.単位と一に関する諸見解 p.85-114

数詞「一つの」は対象の性質を表現するか?

[29節]“μovas”と「単位」という表現の多義性。単位を数えられるべきだとするE.シュレーダーの説明は、見たところ無用である。形容詞「一つの」はより詳しい規定を含んでおらず、述語として役に立ちえない。

○シュレーダーによれば、単位とは性質語の形式である概念に付属する

→「賢い人」と「一つの都市」はどちらも同じ要領で、「人」に形容「賢い」と「都市」に形容「一つ」のが接続されている。

○しかし「賢い」が単独でも意味が通じるのに対し、「一つ」はそれ単独では意味をなさず、ゆえに述語にもなりえない。

→「ソロンとターレスは賢かった」とは言えても、「ソロンとターレスは一人だった」はそれだけでは理解できない。

 

 

[30節]ライプニッツとバウマンの定義の試みによっては、単位という概念は全くぼやけてしまうと思われる。

○ライプニッツやバウマンによれば、数「一」の定義とは、他と境界付けられていることに求められる。

→すでに見たとおり個数言明を我々が行う際、その境界は我々の眼差しに依存しており、ゆえに2人の定義に従うと恣意性が排除できず、単位概念が茫漠としたものになってしまう。

 

 

[31節]バウマンの挙げる徴表:分割されていないことと境界付けられていること。単位の概念は、すべての対象が我々に提供するもの(ロック)ではない。

○バウマンは「一」は内的直観に基づいて「分割されていない」「境界付けられている」とし、その徴表2点から定式化する。

→しかしこの徴表は動物によっても識別される(犬は一つの月に向かって吼える)だろうが、表象されるとまでは考えにくい。

 

○このことから単位の観念とは、ロックの主張とは裏腹に、あらゆる対象によって提供されるものではなく/我々人間にのみ許されたいっそう高次の精神的能力であると言えるだろう。

 

 

[32節]それでも言語によって、分割されていないことや境界付けられていることとの結びつきが示唆される。しかしその際には意味のずれが生じる。

○しかしながら、日常的な言語表現を見てみると、先のバウマンの徴表が適切であるように思える例も散見される。

→例えばドイツ語において、“Ein[1つの]”から“einig[一体となった]”が派生語として現われており、後者は境界付けの表現として把握することもできるだろう。

→ただ「地球が一つ“Ein”の惑星である」と言うとき、「地球」を自存的対象として境界付け、分割されていないものとして見ていると言うよりかは、単に木星や火星といった他の惑星と対比しているだけである。

 

 

[33節]分割不可能性(G.ケップ)は単位の徴表としては維持できない。

○さらにケップのように単位の徴表として「分割不可能性」を挙げるような論者までいる。これは先ほどのバウマンが「分割されてないということ」を挙げたのよりもさらにラディカルな主張である。

→しかし何度も見ているよう「分割不可能性/他との境界付け」は恣意的であり、ゆえにここまで来るともはや単位概念は何も指示し得ない。

→むしろなぜある対象の単位は「分割不可能」かつ「他と境界付けられる」ものとして認識されるのか、ということが問われていく必要がある。

 

 

単位は互いに等しいか?

[34節]「単位」という名前を用いる理由としての相等性。E.シュレーダー。ホッブズ。ヒューム。トーメ。物の相違を捨象しても基数概念は得られず、物がそれによって互いに等しくなるわけではない。

○すでに見たように、単位は全ての対象に帰属されると見なされている。

→当然ながら全ての対象が共通しているわけではない(アリと象は異なる)、しかし単位は全ての対象に共通して見出すことができる(「1匹のアリ」と「1頭の象」)。

→ゆえに任意の境界付けによって、物の相等性を見出すことができる。

 

○確かに物の性質(色や重さ)は、基数の相等性には無関係の事項であるように思える。

→しかし実際には「1匹の黒猫」と「1匹の白猫」に相等性「1匹の猫」を見出したからとして、色「黒」「白」が捨象されるわけではないし、現実に猫が無色になるわけでもない。

 

 

[35節]複数性について語るべきだとしたら、相違は捨象すべきどころか、必要である。デカルト。E.シュレーダー。St.ジェヴォンズ。

○よって単に概念上の手続きによっては、異なる事物に完全なる相等性を見出すことはできない。仮に成功しても、そこにはもはや概念的な区別は無い(「猫」が表象されるのみである)。

→よってジェヴォンズやシュレーダーが主張するよう、単位は互いに異なるものでなければならない(と思える)。

 

 

[36節]単位が互いに異なるという見解もまた困難に遭遇する。St.ジェヴォンズの相異なった一。

○しかし先のジェヴォンズの主張に従って、単位から相等性を斥け、単位を互いに異なると捉えると以下のような窮状に帰着する。

→ジェヴォンズによれば単位は互いに異なるため、数式

1+1+1+1+1

における1は異なるメルクマールが必要となる。ゆえに表記としては、

1+1’+1’’+1’’’+1’’’’

が適切である。これはつまり1=1が維持できないということであり、そもそも異なる単位1が同一記号“1”によって表記されること自体、不可解であるだろう。

→よって我々は相等性を必要とする/排せない。

 

 

[37節]ロック、ライプニッツ、ヘッセが与える、単位もしくは位置を用いた数の説明。

○他の論者の場合もこの相等性に関心を払っていなかった。例えばライプニッツは、数「1+1+1」を、数「1」の合計、すなわち「諸」単位の合計として定義する

→このときライプニッツは概念「単位」の集合の中に、記号「1」が含まれると考えており、個別の対象全てにこの記号「1」を振り当てることで、個数言明が可能になると主張していた。

 

 

[38節]「一」は固有名であり、「単位」は概念語である。数を諸単位として定義することはできない。「と」と+の相違。

○しかしライプニッツのように数「1」=「単位」とするのはかなり早計である。

→例えば一般名詞「元素金」は「単位」と考えることができるが、固有名「フリードリヒ大王」は「1」であっても「単位」ではない。

 

○このことはジェヴォンズにも当てはまる。ジェヴォンズは単位は互いに異なると考えたが、全ての単位が固有名を表記していると考えなければ、この結論には至らないはずである。

→つまりそれぞれ1つの固有名「ソロン」「アークトゥルス」「インド」を区別するために、1’と1’’と1’’’を表記に用いるのは明らかに謬計に基づく発想である(全て同じく1である)。

 

 

[39節]単位の相等性と区別可能性を調停する困難は、「単位」の多義性によって隠される。

○さてここまでで登場した、単位の2つの相反する(ように感じられる)論点を整理しておこう。

(1)区別不可能性……我々は対象を「分割できない集積」として他の対象と境界付け、単位を獲得する。

(2)相等性……単位とは相互に同一であり、相等性として対象のうちに見出せる。また我々はそれに基づき全ての対象は統合することができる。

→前者を通すと対象は境界付けられることになり単位の相等性が否定され/逆に後者を通すと対象は一つに統合されうるので、今度は区別不可能性が否定されることになる。

→この2点の調停が次節から遂行される。

 

 

困難を克服するいくつかの試み

[40節]区別する手段としての空間と時間。ホッブズ。トーメ。それに対して、ライプニッツ、バウマン、ジェヴォンズ。

○まず相等性と区別不可能性を両立するための方策として、単位を時間・空間に限定するというものがある。

→空間点または時間点によって両者は互いに境界付けられる一方、「異なる場所・時間の同一点」として相等性も保証されるように思える。

○しかしながら全ての単位が時間・空間的なものではなく、ゆえにこの方向性はいささか視野狭窄である。

 

 

[41節]目的は達成されない

○さらに言うと単位概念の適用範囲を時空に限定したところで、相等性と区別不可能性の2点が調停されるわけではない。

→空間にしても時間にしても、対象を異なる地点に同定しているため、対象間には何らかの境界付けが設けられており、ゆえに区別不可能性に偏っている。

 

 

[42節]区別する手段としての系列中の位置。ハンケルのいう措定。

○では対象を時空ではなく、より一般的な配列間に定位させる方法はどうだろうか。

→「配列への定位」という時点で既に何らかの境界付けが行われている(まだ区別不可能性に分がある)。

○ハンケルは単位の把握過程において、一つの対象を1回、2回、3回……と個々に措定していく必要があるとしたが、この場合では配列中にそれぞれ「1回目の対象」「2回目の対象」……といった境界付けが行われている。

 

 

[43節]シュレーダーは諸対象を1という記号で模写する。

○ジェヴォンズの問題点は、「1」を全て固有名の区別されるべき対象の表記に用いたことにあった。

→シュレーダーはこの問題を回避するため、数記号からは固有性を排し、あらゆる対象を「1」として表記する。また、当該の諸単位の和は、数記号を用いると以下のように記述される。

1+1+1+1+1

よってこの構成は「自然数は幾つかの一の和である」と記述されることになる。

→手にしている諸対象と同じ数だけ、数記号「1」を並べ、その間に+を書き足していけば、個数言明は成立する。

 

 

[44節]ジェヴォンズは相違の特徴を捨象して、その存在を堅持する。0と1が数であるのは、その残りが数であるのと変わらない。困難は依然として残る。

○ジェヴォンズが「無名数は相違の空虚な形式である」と言うとき、一体何が含意としてあるだろうか。

→「物の区別する性質を捨象して、物を一つの統合体として捉えなおす」or「物を一つの統合体として把握した後、相違する性質を捨象する」の2通りがありえる。

→このうちジェヴォンズは後者を選択している。

 

○しかし単に数(全ての数を規定する0と1)の中に相違を見出せるとする主張は、不当だったのはすでに見た通りである(ジェヴォンズの見解に従うならば、相異なる1が存在していることになってしまう)。

 

 

困難の解決

[45節]回顧。

○ここから相等性と区別不可能性の調停に入るが、その前に前章にまで遡り、いくつか提示された論点を整理しておく。

○数は、

(1)物象から抽出される性質ではなく、物象それ自体でもない。ゆえに物理的事象に限定されない。

(2)逆に主観的な表象や心理現象でもない。

(3)さらに茫漠とした区別に基づく「集合」「複数性」「多数性」でもない。

→個数言明が文字通り「数」を言明する際、扱っているものとは何か?

 

○また残る可能性として(4)「1」と「単位」が提示された。しかしこの場合、

(a)数えられるべき対象の相違(境界付け)―区別不可能性

(b)互いに共通する性質―相等性  

という矛盾する2つの性質が数に付与される必要があることが問題として残った。

 

○ここまでで判明した点は、ジェヴォンズらが陥った明らかな誤謬、すなわち「1」と「単位」の混同は避けなければならないということだった。

→「1」が固有名であるのに対し、「単位」にはそうした固有性は求められない。従って、複数の異なる「1」の加算によっては、数の導出は有り得ない。

 

 

[46節]個数言明は概念についての言明を含む。概念は変わっていないのに、数が変わるという反論。

○繰り返し確認されているように、個数言明は常にコンテクストと我々の眼差しに依存してなされる。

→「4個の中隊」/「500名の兵士」、「1塊の群葉」/「500枚の葉」など

 

○これらの境界付けの議論が意味しているのは、「個数言明が概念についての言明をも含んでいる」という事実に他ならない。

→これは特に「0の表明」を考察すると顕著に観察できる事実で、例えば「0個の金星の惑星」という個数言明によって、概念「金星の惑星」の性質(空集合である)に関する言明が含意されているのである。

 

 

[47節]個数言明の事実性は概念の客観性から説明される。

○個数言明は必ず概念の客観性が根拠となり、決して主観的で恣意的な概念間の結びつきが提示されているわけではない。

→例えば、命題「鯨は哺乳類である[(∀w)H(w)]」の真理値は真である。しかしそれは具体個別対象としての(固有名を持つ)「鯨」が指示されているわけではなく、客観的概念としての鯨および哺乳類の結びつきが命題として記述されている。

→概念は固有名を有さず、ゆえに命題においては定項ではなく常に変項として現れる。

 

 

[48節]幾つかの困難の解決。

○人は一般に、数を物から共通の性質を抽象することよって導出しようと試みる。

→しかしこの過程を誤るとジェヴォンズのような見解に至ってしまう。そうではなく、人が物から「まず」抽象するのは概念であり、その次に概念によって数判断の形成が可能となるのである。

 

○また数の広範適用性についてもすでに説明可能となった。

→個数言明の対象はすでに見たように如何様にも有り得る(外的現象/内的現象、空間的/非空間的、時間的/非時間的など)。しかしこの広範適用は対象自体に数が帰属されていることによってではなく、これら多様な対象の「概念が」帰属先であることで可能となる。

 

 

[49節]スピノザにおける確証。

○スピノザによれば、物は同一の尺度にもたらされて初めて、数の下で経験・表象できるようになるという。

→これは先の「対象を抽象した概念に帰属される数(対象→概念→数)」という説明と合致する。

 

○ただしスピノザの場合、対象の抽象に失敗する場合は数の表象にも失敗するとされているが、これは誤りである。

→例えば「神」は対象としては存在し得ないが、「0人の神が存在する」という記述は可能であり、この場合では概念「神」は何も内包しないことが明らかになる。

 

 

[50節]E.シュレーダーの記述。

○シュレーダーは「ある物の頻度」について述べる時は、常に固有名ではなく、一般名詞でなければならないと主張する。というのも固有名は一つの対象にしか適用できず、ゆえにその登場は一過性の出来事である/一般名詞ならば繰り返し登場しうる。

→しかし例えば「地球から見て2番目に近い距離にある惑星」に該当するのは「火星」以外にはありえず、ゆえに固有名でなくとも確定的な記述は行えると言えるだろう。

→逆を返せば、ある概念を特定するための確定的な記述や徴表を捨象することで固有性を失わせられる。

 

※ここでのフレーゲの主張は、後にクリプキによって反駁されていたと思われ。固有名は特殊性(確定記述)に還元されない/単独性のみに還元されうる。

 

 

[51節]その訂正。

○上述のシュレーダーの主張で紛らわしい点がいくつかある。

→まず「概念語=対象の名前」という定式は必ずしも成功しない。概念語が指示するのは概念であって、対象の名前はその概念に内包されることはあっても、イコールではない。

 

○よって固有名は、ある概念の下に包摂される対象の名辞と表現するのが適切だろう。

→概念「犬」に包摂される固有名「ポチ」

 

 

[52節]ドイツ語の慣用語法に確証が見出せる。

○数が概念に付与されるということの根拠として、ドイツ語における日常的語法が挙げられる。

→“zehn Mann[10人]”、“vier Mark[4マルク]”、“drie Fass[3樽]”の単数形は、それが付与している概念(人、マルク、樽)を指示している(これは日本語でも同様)。

 

 

[53節]概念の徴表とその性質との区別。存在と数。

○概念の徴表/概念の性質は区別されて考えられなければならない。

→徴表とはある概念の下に属する対象に共通する性質(Merk-marl)であって、その概念自体が有する性質とは異なる。

→例えば徴表「直角を有する」は、概念「直角三角形」の性質ではない/命題「直角を有し、直線で囲まれた、等辺の三角形」は概念の性質を述べている(この場合ではそんな三角形は存在しないため、数0が帰属される)。

 

○また存在しない概念には「0」の帰属/存在する概念には「1」が帰属されることから、存在と数は似ているとも言える。

→ただ存在や一意性それ自体が概念の徴表となりえることもある。

 

 

[54節]単位は個数言明の主語と呼ぶことができる。単位が分割不可能なことと境界付けられていること。相等性と区別不可能性。

○さて本章のおける当初の目的は、「単位」の所在を明らかにすることだった。

→対象それ自体や対象の外部、あるいは心理などの主観的・表象的領域にはなく、ここまでで明らかになったよう、「単位」とは「対象を抽象した概念」にこそ帰属されるのである。

 

○このことを提起する上での障害となっていたのは、相等性と区別不可能性の両立ということだったが、今やその解決も容易である。

→例えば命題「木星の4つの衛星」における単位は「木星の衛星」で、この概念の性質によって内包されるのは衛星Ⅰ~Ⅳである。ゆえに衛星Ⅰの単位と衛星Ⅱの単位は相等であると言え/他方で個数言明の対象となる概念「木星の衛星」は、概念「火星の衛星」や「地球の衛星」からは境界付けられていることになる。

 

【ここまでまとめ】

 

 

 

 

 

 

Ⅳ.基数概念 p.114-150

各々の個別の数は自存的対象である

[55節]個別の数のライプニッツの定義を補完する試み。

○前々章では数の一般法則が分析的アプリオリに規定されており、ライプニッツに従って全ての個数の定義が0と1の加算によって明らかにできることが確認された。

○前章では数が物象や表象ではなく、対象の概念に帰属されることが明らかになった。

 

○上記の2点から最後に導出される課題は、0と1の定義である。これは以下の3点から定義される。

(1)ある概念Fに数0が帰属されるのは、「対象aがなんであれ、概念Fの下にaが属さない」という命題が成立する場合のみである。

→(Fξ)η0=∀a¬Fa

 

(2)ある概念Fに数1が帰属されるのは、「対象aがなんであれ、概念Fの下にaが属さない」という命題が成立するとは限らず、かつ、

命題「aはFの下に属する」と「bはFの下に属する」からa≡b(aはbと同一である)が帰結する場合である。

→(Fξ)η1=(∃a)Fa∧[(∀a∀b)Fa∧Fb⊃a≡b]

 

(3)ある概念Fに数(n+1)が帰属されるのは、ある対象aが存在し、aはFの下に属し、かつ、「Fの下に属するが、しかしaではない」という概念に数nが帰属される場合である。

 

 

 

[56節]試みられた定義は、数がその一部分でしかない言明を説明するため、役に立ちえない。

○先の定義でまず引っかかるのは「概念Fに数(n+1)が帰属する」ことの意義である。

→「概念Gに数nが帰属する」の意義が明らかでないのと同様、この場合も説明されているようで厳密には説明になってはいない。

 

○さらにこの問題を敷衍すると、ある「概念Fに数ジュリアス・シーザーが帰属する」という命題を明らかにすることができないし、また命題「概念Fに数aが帰属され、数bも帰属されるとき、a=bである」も明らかではない。

→先に確立されたのは「数0が帰属する」「数1が帰属する」ことの言い回しであって、厳密には定義ではない。ゆえに自存的対象としての0と1の定義は未だ明示されておらず、あらゆる概念に帰属できる相等性も定かになってはいない。

 

 

[57節]個数言明は数の間の等式と見なすべきである。

○概念Fに数が帰属されるとき、「数が概念の性質であるという」ことは意味しない。

→数とはあくまで自存的対象として概念に帰せられるのであり、概念それ自体ではない。

 

○「火星は2つの衛星を持つ」という記述は、「火星は地球から観察される」という記述と本質的な点で異なる。

→前者は個数言明であり、個数言明である以上は「火星の衛星=2」という等式によって表記を改めることができる。

 

 

[58節]数は自存的対象として表象しえないという反論。数はそもそも表象不可能である。

○自存的対象としての数は表象しえないという反論が想定できる。

→しかしそもそも数が表象しえないからといって、概念及び対象それ自体が表象しえないことにはならない。

[ex.1]語「黄金海岸」は4つの漢字から構成される。このとき4は表象されなくとも、黄金海岸の情景は想起することができる。

[ex.2]命題「金星の衛星は存在しない」は等式「金星の衛星=0」に変換できる。0は表象されないが、「金星の衛星」という観念を頭に思い浮かべることはできる。

 

 

[59節]表象不可能だからといって、対象を探求から排除してはならない。

○対象の表象不可能性によって、それが考察や探求から除外されるという考えも謬計である。

→例えば我々は地球-太陽間の距離を特大の物差しでもない限りは表象することはできないが、それでもその距離を試算し、また探求することはできるし、現にしている。

 

 

[60節]具体的なものでさえ、表象可能だとは限らない。語の意味を問う場合には、語を命題の中で考察しなければならない。

○先の例のように、具体的な存在物ですら(例えば地球の大きさ)表象可能であるとは限らないが、それでも探求は可能であるとのことだった。

→語の意味や基数もまた同様で、それが表象不可能であるとはいえ、命題として表出する以上は探求できる対象として扱われるはずである。

 

 

[61節]数は空間的ではないという反論。客観的な対象がみな空間的だとは限らない。

○数は地球と違い、空間的に実在しておらず、これが先の主張の反駁の論拠になりえるかもしれない。

→数は確かに空間的に存在する対象ではないが、それでもなお客観的であると言える。

 

 

基数概念を獲得するためには、数等式の意義を確定しなければならない。

[62節]我々は数の相等性に対する規準を必要とする。

○ここまでで数詞が自存的対象であることが確認された。

→本章の最初と二番目の節で問題になっていたよう、数の相等性がどのような規準によって確立されるかが次の問題である(基数1の定義の説明)。

 

○相等性は前章で述べられたとおり、数の同一性を普遍的に支持するための性質のことで、数の一般法則には(区別不可能性と共に)不可欠である条件だった。

→よって一般的命題「概念Fに帰属される数は、概念Gに帰属する数と同一である」が、「概念Fに帰属する基数」という表現を回避しつつ、その意義が明らかにされなければならない。

 

 

[63節]このような規準として一意的対応を用いる可能性。相等性を数の場合のために特別に説明することにならないか、という論理上の疑念。

○ヒュームは数の相等性を規定するため、一意的対応(一対一対応)を用いて解説を試みた。

→こうした一対一の対応図式からの説明は一般的に賛同されているが、ここではいくつかの疑念から吟味する。

 

○[疑念1]一意性は数の特権ではなく、様々な他の対象にも観察される。

→(ヒュームのように)数に対してのみ一意性を適応させ、相等性の定義を試みるのではなくて/すでにある相等性の概念から、先の命題の意義を導出する必要がある。

 

 

[64節]類似した手続きの幾つかの例:方向[無限遠点]、平面の方位[無限遠直線]、三角形の形。

○命題「線分aと線分bの方向は同一である(線分aと線分bは並行である)」を数式で表現すると「a//b」となり、これを「a=b」として表記を改めることができる。

→このように幾何学的図式における相等性を提示することは容易であるが、これは空間的判断が(カントのいうように)直観を含んだものであるからに他ならない。

→線分aとbの方向はそれ以上遡行して定義することができない(図表に対する直観以外に求められない)。

 

 

[65節]定義の試み。第二の疑念:相等性の諸法則は満たされるのか。

○先の命題「線分aと線分bは並行である」と「線分aと線分bの方向は同一である」は(一般に考えられているよう)同じ対象を同定しているとしてよいのだろうか、方向が直観に依拠する以上、aとbの相等を約定できないのではないだろうか。

→このとき、定義「aの方向は至るところでbの方向に置換できる」という定義が加えられれば、両者が架橋され、相等性が保持されるように思える。

 

 

[66節]第三の疑念:相等性の規準は不十分である

○しかしなお問題は残っている。先の「aの方向は至るところでbの方向に置換できる」という定義によって、aの方向とbの方向の相等性を再認する普遍的契機が保障されたが、言明「bの方向」が対象qに置換される際に問題が生じる。

→例えば「bの方向」が「イギリスの方角」という対象に置換されると、「aの方向はイギリスの方角と同一である」という言明は行えなくなる。

→なぜならこのとき、「bの方向」と対象「イギリスの方角」が同一であることが知られてなければならないからである。

 

 

[67節]対象が導入される仕方を概念の徴表として用いても、補完を行うことはできない。

○先の問題を回避するためには、命題における変項「bの方向」に、「イギリスの方角」が定項として当てはめられる場合のみに限定して定義されなければならない。

→定項化によって確かに相等性を確立することができるが、それは命題の流動性を損なわせることになるため(事実、変項「bの方向」に「イタリアの方角」を代入することも可能である)、解決策としては不十分である。

 

 

[68節]概念の外延としての基数。

○以上のように概念それ自体の相等性を約定する方策は困難を極める。

→よって概念自体ではなく、対象の外延における相等性を約定する方法に切り替える。よって先の例であれば、

線分aとbが平行であるとき、対象「線分aの方向」の外延「線分aと平行である」は、対象「線分bの方向」の外延「線分bと平行である」と等しい。ゆえに線分aと線分bは相等である。

という証明が可能となる。

→この証明過程は逆を返して一般化すると、「ある概念Fに内包される対象を、異なる概念Gに内包される対象と一意的に(一対一で)対応付け、その帰結として概念Fと概念Gが等数である」としている。

[ex.1]対象「ラーメン」の外延は「食品」(概念「食品」に対象「ラーメン」は内包される)である。また対象「カレー」の外延も「食品」(概念「食品」に対象「カレー」は内包される)である。

∴両者の概念は等数である。

 

 

[69節]注釈

○先の場合、数ではなく線分の相等性が例となっていたため、数の場合に直接援用するのはまた別の話であるように思える。

→しかしながら、自存的対象としての数は概念に帰属するため、以下のような証明が可能となる。

「自存的対象1の外延は概念Fである」「自存的対象1の外延は概念Fである」

∴「概念Fと概念Gに帰属される数は同一である」

かつ命題「概念Fと概念Gに帰属される数は同一である」が真である時に限り「概念Fと等数」という概念の外延は、「概念Gの外延と等数」という概念の外延と相等である。

→これは本章最初の節に登場した、「基数1が帰属されること」の言い回しと一致する。

 

 

我々の定義の補完と確証

[70節]関係概念。

○相等性は関係概念によって代替できる。

→ある対象aが概念Fに属し、異なる対象bが概念Fに属するとき、aとbは同一の関係φにあると推論される。

→これはちょうど、ナイフ(対象a)とフォーク(対象b)が皿と同一の関係(概念F)に基づいて配置されるのと似ている。

 

 

[71節]関係による対応付け。

○概念Fに内包される全ての対象と、概念Gに内包される全ての対象が互いに関係φを結ぶ時、そこには一対一の関係性、すなわち一意的関係φが成立している。

 

○また概念Fが何も対象を内包せず、概念Gの内包する対象と関係φを結ぶ時、

前者「概念Fが何も対象を内包しない」と/後者「概念Gが対象を内包する」のどちらかの命題が確実に偽であるはずである。

→この複合命題[φ(a,b)¬Fa∧Gb]矛盾命題であり、よって両立しえない。

 

 

[72節]一体一関係。基数概念。

○概念Fと概念Gにおける関係性は一意的であった。これが成立するのは以下の2つの命題が成立する時である。

(1)dがaに対して関係φに立ち、また、dがeに対して関係φに立つとすれば、d、a、eが何であれaはeと同一である。

(2)dがaに対して関係φに立ち、また、bがaに対して関係φに立つとすれば、d、b、aが何であれ一般的に、dはbと同一である。

→またここまでを踏まえると以下のことが確定項として扱うことができる。

[表現]「概念Fと概念Gは等数である」は、

[表現]「概念Fの下に属する対象を、概念Gの下に属する対象と一意的に関係付けるφが存在する」 に置換できる。

 

すでに確認されたよう「概念Fに帰属する基数とは、「概念Fと等数」という概念の外延である」。このとき、

[表現]「nは基数である」は、

[表現]「ある概念が存在して、nは帰属する基数である」 に置換できる。

 

 

[73節]概念Fの下に属する対象を、概念Gの下に属する対象に一対一に対応づける関係が存在すれば、Fに帰属する基数はGに帰属する基数と等しい。

○ここで確認したいのは、概念Fと概念Gが等数であるならば、概念Fに属する基数と、概念Gに属する基数は等しいということである。

→このことが明らかになるには、前節の命題の形式に当てはめ、証明しなければならない。すなわち「概念Hと概念Fが等数であれば、概念Hは概念Gとも等数である」及び「概念Hと概念Gと等数であれば、概念Hは概念Fとも等数である」が証明されなければならない。

→前者の場合は「HφFφG」つまり「ある対象に対し、cが関係φをとり、かつそれはbに対して関係φをとる」ゆえに「bの外延である概念と、cの外延である外延は等数である」となる。

 

 

[74節]ゼロとは、「自己自身と等しくない」という概念に帰属する基数である。

○次に0の場合を考える。0は概念「自己自身に等しくない」に帰属する。

→これは「鉄の木」や「四角い丸」といった単なる存在矛盾のことではなく、実際にその概念が何も内包しないという事実関係が明らかにされて初めて基数0の帰属が可能となる。

→よって表現「対象aは概念「自己自身と等しくない」に内包される」は、表現「対象aは自己自身と等しくない」「対象aは対象aと等しくない」に置換可能である。

 

○すなわち0の帰属は、以上の条件(「対象aは概念「自己自身と等しくない」に内包される」「対象aは自己自身と等しくない」「対象aは対象aと等しくない」)が満たされる時に帰属されるのである。

 

[75節]ゼロは、その下に何も属さない概念に帰属する基数である。ゼロがある概念に帰属する基数であれば、この概念の下にはいかなる対象も属さない。

○先述の通り0が帰属する概念はいかなる対象も内包しない(空集合である)。

→これと先の関係性図式の約定を用いれば、以下のことが導出される。

「概念Fには基数0が帰属する(いかなる対象も内包しない)」かつ「概念Gが対象aを内包する」とき、

「概念Fの下の対象は、概念Gの下の対象aと、いかなる関係性φも結ばない」

→概念Fに0が帰属されるのであれば、それは他の概念といかなる関係も結ばず、ゆえにFとGは等数でもない。

 

 

[76節]「nは自然な数列においてmに直属する」という表現の説明。

○1と0の場合がここまでで説明された。最後に自然な数列(n+1)を説明する。まず、

[表現]「ある概念Fが対象xを内包し、その基数はnである」かつ「同概念Fが異なる対象yを内包し、その基数はmである」 は、

[表現]「nは自然な数列においてmに直属する」 に置換できるとする。

→ここで「n=m+1」としてしまうのは性急である。その前に2つの命題を証明する必要がある。

 

 

[77節]1とは、「0と等しい」という概念に帰属する基数である。

○まず基数0に基数1が直属することが証明されなければならないだろう。

→先述の通り、0とはいかなる対象をも内包しない概念に帰属する基数であった。よって0は概念「0とは0と等しいが、0とは等しくない」に帰属する(この概念はいかなる対象をも内包できない)。他方、1は概念「0と等しい」に帰属する。

→ゆえに概念「0と等しいが、0と等しくない」に概念「0と等しい」が後続することが提示できれば証明完了となる。

 

○自然な数列において1は0に後続する。よって概念「0と等しいが、0と等しくない」(基数0)に概念「0と等しい」(基数1)は後続する。

→1は自然な数列において0に直続する。

 

 

[78節]我々の定義を用いて照明できる諸命題。

○この定義を、先の問題(対象x:基数nから対象y:基数mへの移行)に立ち返って適用してみよう。すると以下の順序で明らかになる。

1,(先の定義より)aが自然な数列において0に直属するのであれば、a=1である

 

2,基数1がある概念に帰属されるならば、その概念には何らかの対象が内包される。

 

3,1がある概念Fに帰属される基数であるとき、概念Fの下に対象xと対象yが内包されるならば、x=yとなる。すなわちxとyは同一である。

 

3´,ある概念Fが何らかの対象を内包しており、対象xと対象yが概念Fに内包されるのであることによって、x=yが推論されるのであれば、1が概念Fに帰属される基数である。

 

4,命題「nは自然な数列においてmに直続する」によって規定されるnからmへの関係は一意的である。

→ただし、「どの基数についても異なる基数が存在し、かつ後者が前者に直続ないしは前者が後者に直続すること」は未だ自明ではない。

 

5,0以外の基数はどれも、自然な数列においてある基数に直属する(QED)。

 

 

[79節]系列における後続の定義

○未解決問題として、全ての基数nに自然な数列において何らかの基数が直属するということの証明が残っている(前節参照)。

→まず「直続する後者の基数が帰属する概念」が明らかにされなければならない。ここでは概念「nで終わる自然な数列に所属する」を選択する。

→概念「nで終わる自然な数列に所属する」は、以下のように定義される。

命題「対象xとφの関係にある対象は、概念Fの下に属しており、対象dもまた概念Fに内包されることから、dと関係φにあるものも概念Fに内包される」ならば「概念Fがいかなるものであっても、対象yは概念Fに内包される」 は、

 

命題「yはφ系列においてxに後続する。」 や、

命題「xはφ系列においてyに先行する。」 に置換できる。

 

 

[80節]この定義に関する注意。後続の客観性。

○本定義に関しては、いくつかの留意点、とりわけ系列における後続が主観的に現れるものではないということが確認される必要がある。

→yが系列φにおいてxに後続する時、その間の時間などの感覚からは独立している。

→例えば60度の水に塩を入れた際、水溶度は観察のタイミングによって異なる。しかしながら、我々の観察とは関係無しに、水溶の過程は一律である。

 

○すなわちある命題から異なる命題への帰結・移行は、何か主観的な事柄ではなく、客観的な事実として立ち現れることになる。

 

 

[81節]「xはyで終わるφ―系列に所属する」という表現の説明。

○さて「nは自然な数列においてmに直続する」によってnからmへの関係をとるときには、「φ系列」ではなく、「自然な数列」と言う。

 

○さらに以下の定義も行う。

命題「yはφ系列においてxに後続するか、または、yはxと同一である」 は、

命題「yはxから始まるφ系列に所属する」 や、

命題「xはyで終わるφ系列に所属する」   に置換できる。

→したがってaがnで終わる自然な数列に所属するのは、nが自然な数列においてaに後続するか、またはaと等しい場合である。

 

【まとめ】

基数1の定義

(1)ある概念Fに何らかの対象が内包されるとき、 [(∃a)Fa]

(2)ある概念Fに内包される対象aと、異なる概念Gに内包される対象bにおいて、対象aと対象bが一意的に(一対一で)対応付けられるならば、その外延である概念Fと概念Gは等数である。

(3)またその一意的対応図式は、関係図式φによって表現できる。すなわち[aφb⊃F≡G]。

 

基数0の定義

(1)ある概念Fが何らかの対象を内包しないとき、 [(∀a)¬Fa]

その概念に帰属する基数が0である。

 

基数(n+1)の定義

(どう見ても数学的帰納法でした)

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