top of page

Keyens,John Maynard 1936→2008 『雇用、利子、および貨幣の一般理論』

ジョン・メイナード・ケインズ 1936→2008『雇用、利子、および貨幣の一般理論』

 

第一篇

第一章 一般理論 p.5-6

○古典理論における公準が特殊事例しか捉えられないため、経済学における一般理論を確立する必要がある。

 

 

第二章 古典経済学の公準 p.7-33

「価値と生産の理論に関するたいていの論考は、所定量の生産諸資源が種々の用途間にどのように配分されるか、そしてこの量の資源が雇用されるとしたとき、これら諸資源の相対報酬とその生産物の相対価値はどのようにして決まるか、といったことに関心を寄せている。」(p.7)

→加えて「利用可能な現実の雇用」が俎上に載せられることも少なかった。

 

○古典理論は以下の2つの公準を基礎においている(p.8-10)。

Ⅰ賃金は労働の限界生産物に等しい(賃金∝限界生産物)

→「被雇用者の賃金」は、「雇用が一単位減少したときに失われる価値」(生産物の減少によって浮く諸経費を控除する)に等しい。ただし、競争と市場が不完全な場合、この均等は撹乱を被りえる。

 

Ⅱ 労働雇用量が与えられたとき、その賃金の効用は、その雇用量の限界不効用に等しい(賃金の効用∝限界不効用)

→Ⅰと同様に撹乱がないならば、被雇用者の観点から見て、現在の賃金は現在の労働量を引き出すのに過不足ない大きさになっている。仮に「賃金の効用<限界不効用」なら、労働の-が賃金による+を上回ることになる。

※限界不効用……「財一つ分の生産労働」を一単位分増加させたときに生じる、労働におけるマイナスの効用。

→後者のⅡの公準は「①摩擦的失業」と「②自発的失業」と両立するが、そこに「③非自発的失業」が入り込む余地はない。

※摩擦的失業……ケインズ失業三類型の一つ。需要や技術の変化に対応する、産業・職種間の労働力移動・需要の不均衡。短期的な失業形態。

※2自発的失業……三類型の一つ。被用者は働く意欲があるが、現状を上述の「賃金効用<限界不効用」の状態であると見なし、自ら失業している状態。

 

○古典理論においては、第一公準によって労働需要、第二公準によって労働供給が把握され、雇用量は「生産物の限界効用と、被雇用者の限界不効用が交差する点」によって計られることになる。

→これに従うと、失業の対策として可能な対策は以下の4点しか挙げることができない。

(a)「摩擦的失業」を減らすための、組織・先見力の改善

 

(b)「自発的失業」を減らすための、限界不効用の引き上げ。

 

(c)賃金財産業の物的生産限界効用の引き上げ。

※賃金財……労働賃金の効用が依存している財のこと。

 

(d)非賃金労働者の支出を非賃金財に移し変え、その上で賃金財よりも非賃金財の価格を割高にする。

→ピグーの『失業の理論』を整理すると概ねこの4点にまとめられる。

 

○しかし、現行賃金のもとで労働者が働きたいだけ働いている状況=働きたくても、働けない人がいない状況はそうあるものではない。

→古典派は第二公準にこの議論を適用させるが、労働者は限界不効用と釣り合わない労働はしないという暗黙の前提に成立しており、ゆえに自発的失業の一類型と把握されている。

→この観察については以下の2点を指摘することができるだろう(※後者のほうが重要)。

①労働者が限界不効用を測る際、必ずしも実質賃金水準に依拠しているわけではない/むしろ名目賃金水準に依存している。

→仮に「労働者が限界不効用を測定する水準を実質賃金のみに限定する」=「労働供給が実質賃金/物価変動を唯一の変数にしている」ならば、物価が動くたびに労働供給が大変動を起こすことになってしまう。

→ゆえに「労働者が賃金を限界不効用との均衡で考える」という第二公準は反駁される。

 

②賃金は一般に労働者と雇用主の交渉によって決まるが、古典派の想定によれば交渉において名目賃金に加えて実質賃金まで決定されうる。

→「名目賃金によって、名目上の限界費用が規定されることとなり、限界費用によって物価が左右される以上、実質賃金にまで帰着することになる。」というのが古典理論における主張だが、これは明らかに間違っている。

→実質賃金を規定する諸力は別に求められ、その解明が本書の主題の一つである。

→以上の2点が古典理論の第二公準における誤謬である。

 

○労働者は確かに自身の賃金に対して声を上げることがある。

→誰しも名目賃金の切り下げが行われると、「相対的な」実質賃金の切り下げも同時に起こるため、これを問題視するだろう。

○しかしながら、貨幣の購買力低下(※たぶんインフレ?)といった「一般的」な(―労働者全員が被るような)実質賃金の低下に対して、その勤め先に異議申し立てをするとはまず考えられない(インフレに対する不服を雇い主にぶつけるはずがない)。

 

○先述の①摩擦的失業、②自発的失業とは区別される③非自発的失業について、定義する段階に至った。それは以下のようなものである。

「賃金財価格が貨幣賃金に比べて相対的にわずかばかり上昇したとき、この貨幣賃金と引き換えに働こうとする総労働供給とその賃金の下での総労働需要とが、ともに現在の雇用量よりも大きいなら、そのとき人々は非自発的失業の状態にある。」 p.23

※「賃金財価格>名目賃金」の条件下において、「労働供給&労働需要>現在の雇用量」ならば非自発的失業になる。

→現行の雇用条件orそれ以下であっても、現在の雇用数より求職数/求人数が高ければ非自発的失業。

 

○古典理論における謬計は、端的には上記の非自発的失業をその体系に包含することができない点にある。

→彼らは「求職状態」や「賃金が労働と釣り合っていないことに対する休職状態」しか捕捉することができないのである。

○後に詳しく解説するが、非自発的失業が観察されない状況を、「完全雇用」と呼ぶことにする。摩擦的・自発的失業は、この完全雇用とも両立し、逆を返せば古典理論は完全雇用という特殊な状況下のみを想定しているとも言える。

→いずれにせよ第二公準を棄却し、非自発的失業を考えられる新たな体系の構築に向かう必要があるだろう。

 

○ここで留意するべきは、確かに第二公準には上述の問題があったが、他方において古典理論の第一公準(実質賃金∝限界生産量)は否定しないということである。

→すなわち組織、装備が同じであるとすれば、実質賃金と生産量―よって雇用量は一意的対応にあることになる。逆を返せば、雇用の増加によっては、短期的に見れば実質賃金は低下する(実質賃金と雇用量の反比例)。

○ただし第二公準を含めて考える際、確かに雇用が減少することで、実質賃金は増加することになるが、先述の通り実質賃金の増加は、労働者が雇用者に賃金財を要求するから(つまり交渉によるもの)ではない。

 

○セーとリカードの時代以降、供給は需要を作り出すという原則が信じてこられた。これは2人よりさらに一昔前のミルの記述にも見られる。

「商品を買うための支払い手段となるのは端的に言えば商品である。他人の生産物を買うために各人が用いる支払い手段は彼自身が保有している商品から成り立っている。すべての売り手は定義上、必ず買い手である。」  ミル『経済学原理』第十四章

→一時的に財を貯蓄したところで、結局は必ず消費や投資に使われることになるため、つまり経済全体で見れば最終的には「生産コスト(供給)=購入額(需要)」に行き着くという考え方。

※国債の中立命題(リカード)は、まさにこの考え方だったはず。

 

○後期のマーシャルやピグーには、直接的にはこうした考え方は見られないが、それでもやはりこの前提を拭い去れないでいるのは間違いない。

→しかし本来的には、消費を控えること/先延ばしにすることの両者は、全く異なる動機に基づくはずであり、こうした古典派の「平行公理(需要価格=供給価格)」をひとたび承認してしまえば、利子率の議論、節約の議論、貯蓄の議論、投資の議論といった諸々の問題が芋づる式に規定されることになる。

 

○本章の問題提起された古典理論の誤謬を整理すると、以下の3点になるだろう。

①実質賃金は現行の雇用における限界不効用によって規定されている。

 

②厳密な意味での非自発的失業など存在しない/完全雇用の場合しか視野に入れていない。

 

③産出量と雇用量の水準にかかわらず、経済全体で見れば需要価格=供給価格となり、その意味で「需要は供給を産出する」。

→これらは一見それぞれ独立している用に見えるが、後に判明するとおり、実は互いが互いを包含しているため、最終的には一つの問題に収斂する。

 

 

 

第三章 有効需要の原理 p.34-48

○ある程度の雇用をする企業には、以下の2つの費用が生じる。

①要素費用……生産要素の当期の用役に払われる額。変動費に近い。

 

②使用費用……(a)他の企業から購入する財への対価の額と、(b)装備を休ませる代わりに必要となる雇用の費用。減価償却費に近い。

→なお「産出される財-(要素費用+使用費用)=利潤=企業の所得」となる。

○また企業から見れば要素費用は支出であるが、生産要素側(労働者)から見れば当然ながら要素費用は所得になる。

→ゆえに「企業の利潤+要素費用=企業の総所得」となるだろう。

※売上収入……企業側から見て、所定の雇用量から発生する企業の総所得(利潤+要素費用)を雇用の売上収入と呼ぶ。

 

○上記の方程式を組み替えると「利潤=総所得-要素費用」になり、この利潤が最大になる期待の下に雇用を行う。

→つまり(その雇用から)産出されると期待される売上収入の大きさに雇用量は依存する。

 

○雇用する人数をN人とするとき、関数を以下のように定義する。

総供給関数……総供給価格をZと置くと、Z=φ(N)となる。

 

総需要関数……「N人の雇用から期待できる売上収入」をDと置くと、D=f(N)となる。

○上述の議論から、売上収入の期待が供給価格よりも大きいとき(D>Z)、企業は雇用をN以上に増やすことになる。

→逆の場合も真であり、Z=Dになるまで調整は続く。そして総需要関数と総供給関数の交点は理論上、利潤期待が最大になる点である。この交点におけるDの値を有効需要と呼ぶ。

「以上が雇用の一般理論の中味であり、それを評論するのがわれわれの目的であるから、引き続く諸章は、主としてこれら2つの関数が依拠するさまざまな要因を検討すること充てるとしよう。」 pp.37-38

 

○ひるがえって古典理論が想定する「需要は供給を生み出す」という命題(1章の最後に登場した話)を検討する。

→これに従えば、Nの値にかかわらずZ=Dになるはずだが、このとき企業間の競争は拡大し続けることになり、有効需要は伸び続け、雇用数も限界がくるまで――つまり完全雇用が達成されるまで/非自発的失業が観察されなくなるまで、増加する。

→よって命題「需要は供給を生み出す」は、究極的には「完全雇用に対する障害などない」という帰結をもたらすことになる。

 

○雇用が増えると当然、社会全体の総所得は増加する。しかしながら、その所得すべてが消費に向かうかといえばそうではなく、ゆえに雇用者は雇用量を「消費性向+当期の投資量」の総需要(D)から考える。

→よって消費性向が均衡状態にあれば、雇用を決めるのは当期の投資量となり、その投資量は金利と資本効率によって誘引が規定されている。

 

○このように消費性向と当期の投資量が一定であることによって、唯一の均衡雇用水準が導出することができる。

→当然だが「完全雇用≧均衡雇用水準」(雇用水準は完全雇用の状態を上回らない)、よって実質賃金は限界不効用よりも小さくはならない。なお古典理論の誤謬は、有効需要が完全雇用のとき「のみ」しか想定できなかった点にある。

 

○ここまでを整理すると、本理論は以下の8点に要約される。

(1)技術、資源、費用の状態が一定であるなら、実質所得も名目所得も雇用量Nに依存する。

 

(2)社会の所得から消費に充てられると期待される消費額(総消費)をD1とすると、D1は消費性向によって規定され、消費性向は総所得によって規定されている。よって(1)よりD1はNによって規定されている。

 

(3)企業が雇用量を決定するとき、期待された消費額D1と期待された投資額D2の合計Dに依存する。Dは何度も述べられている通り、有効需要に他ならない。

 

(4)総供給関数はφ(N)で表記されたため、D1+D2=D=φ(N)。また(2)から、消費性向は雇用量Nによって規定されていたため、D1=χ(N)と置くことができる。

→よってφ(N)-χ(N)=D2となる(有効需要-総消費=総投資)。

 

(5)上記から均衡雇用量は、(a)総供給関数φ、(b)消費性向χ、(c)投資額D2に依存する(b-cが有効需要D)。これが雇用の一般理論の核心である。

 

(6)雇用量Nが増加するにつれて、限界生産力は逓減する。よって限界生産が実質賃金を規定する。よってNは実質賃金が労働の限界不効用であると規定する値(つまり交点D)を超過できないことになる。

 

(7)古典派においてはNの値にかかわらず、D=φ(N)が成立した(「需要が供給を産出する」)。

 

(8)所得が増えるに従って、D1も増加する。しかしその増加はDほどではない。というのも所得の増加率よりも、一般に消費の増加率は下回ることになるため(本節冒頭参照)。

→雇用が増えれば増えるほど完全供給額Zと消費性向D1は幅が開くことになるため、投資D2での増加が見込まれない限りは、企業はNを増やせない。

 

「要するに、所定の実質賃金に対応した(労働供給曲線上の)労働供給は雇用の最大水準を画すにすぎず、雇用が実質賃金で測った労働の限界不効用によって決定されるわけではない。消費性向と新規投資率とが相俟って雇用量を決定し、その雇用量は所定の実質賃金水準に一意に関係付けられている。[…] 消費性向と新規投資率が十分な有効需要を与えない場合には、現実の雇用水準は、現行実質賃金下の潜在的な(最大)労働供給量に満たず、均衡実質賃金は均衡雇用水準の労働の限界不効用より大きくなるだろう。」 pp.43-44

○豊かな社会においては有効需要が不足する=労働の限界生産性が高くとも完全雇用が達成されない、というパラドックスが生じている。

→加えて豊かな社会においては一般的に消費性向D1が弱く、そのため雇用量N――それが依存する有効需要Dを上げようと思ったらD2に回す必要性がある。しかし豊かな社会ではインフラ等の整備が整ってしまっているため、D2の先もなかなか見つからない。

 

○まとめれば、本理論に今後必要となってくるのは①消費性向の分析、②資本の限界効率の定義、③利子率の理論である。

→物価の理論は捕捉程度の問題だが、貨幣の理論は③利子率の問題に深く関連するため、解明の必要がある。

 

○総需要関数を経済学的には瑣末な問題として扱う言説は、元をただせばリカード以来の伝統である。

→古典理論は極めて楽観主義的で、自然の法則に任しておけば自動的に最適雇用状態に向かう、という願望がもしかしたら経済学には投影されていたのかもしれない。無論、それは現実に即さないのであるが。

 

いったん整理のコーナー

【古典理論の誤謬】

①労働者と雇用者によって実質賃金が決定される ②非自発的失業が捕捉できない ③雇用量にかかわらず需要=供給となる

→最終的には雇用量の謬計に収斂する。

 

【非自発的失業の定義】

現行の名目賃金に対して不満がなくとも、労働供給と労働需要が雇用量を上回る状態。またこれが観察されない場合、完全雇用となる。

【雇用の規定】

期待される[消費性向D1­=χ(N)+新規投資率D2=有効需要D]に対して、必要な[総供給関数Z=φ(N)]によって、雇用量Nが決まる。なお有効需要Dの値が企業にとって利潤が最大になる点である。

 

【3つの誤謬の反駁】

①労働者と雇用者の交渉で実質賃金が決まる――実質賃金を決めるのは雇用量で、雇用量を決めるのは消費性向D1と投資D2の合計:有効需要Dである(よって実質賃金はDが規定する)。

②非自発的失業の見落とし――働く意思がある=実質賃金・限界不効用に不満がない人々が多くいても、雇用量は有効需要Dによって規定されているため、それが低ければ労働供給も低いことになる。

③雇用量にかかわらず、需要=供給となる――その社会の総所得が増えるほど、総供給額も増えるが、それに対して消費量が同程度増加するとは限らない。消費が控えられた差分は、投資によって補填される必要がある。

 

 

 

 

第二篇

第四章 単位の選定 p.51-63

○ここからの三つの章は、これまで経済学が応答してこなかった幾つかの難問について応答することになる。ただしこれが本論の中心的問題(雇用、貨幣-利子、消費)に深く関係しているわけではないため、あくまで脱線ふうの章である。

→すなわち①経済体系全体の単位の問題、②経済分析における期待の役割、③所得の定義。

※注:調べたところ本篇で使われている単位・定義はケインズのねらい通り、古典理論を刷新し、今日でも一般的に経済学で使用されるに至った(らしい)。そのため現在においては本人が認める以上に『一般理論』全体で見ると、第二篇の重要度は低い。よってざっくり整理していく。ただし5章は本書の主題に関連するため、極めて重要。

 

○以下では古典理論における茫漠とした3つの概念の不当性について検討する。

①国民分配分……当期生産物・実質所得を表す概念。しかしながら財は多様な存在であり、端的に言えば計量不可能な非同質複合体である。

 

②実物資本ストック……これは生産装備にかかわる概念であるが、新しい装備が開発されても、この概念の元では古い装備と同様の尺度から測られることになってしまう。

 

③一般物価水準……物価の水準は曖昧であり、因果分析に用いるには問題がある。

→それぞれに価値がないことはないが、それでも数量分析に用いるにはいずれも非数量的概念であるため、見掛け倒しの正確さしか認められないだろう。

 

○ある社会で総需要が増加すれば、当然その財の総供給量も比例して増加する。そして総供給量が増加するということは、その財を供給するための労働者数、つまり雇用量も増加することになるのは自明である。

→逆を返せば雇用量を見ることによって産出量を推し量ることができるだろう(むしろ産出量は上述の旧来概念が証左となるように、一元化して記述することは困難である)。

 

○よって雇用理論においては、上述の猥雑な概念を用いず、①雇用量と②貨幣価値量の2つの単位さえあれば事足りる。

→貨幣価値量は同質的であるが、雇用量に関しても相対報酬を固定的に見なすことによって、ある程度は同質的に勘定することができる。よって古典理論が孕む単位の複合性という問題は解決される。

→産出量の差も総労働時間によって導出することができるはず。

 

○供給曲線の弾力性は先の雇用量と貨幣価値量によって、数式化することが可能である。

→さらに個々の企業の経済事情に反映することもできれば、当該社会全体における経済にもこの議論は応用することができる。

 

 

 

第五章 産出量と雇用の決定因としての期待 p.64-72

○生産はそれが決定されたタイミングと、それが製造されて販売されるに至ったタイミングとの間には多かれ少なかれタイムラグができる。

→よって消費者がどれだけ支払ってくれるか、ということは企業側の「期待」に依存していることになる。なおこの期待は可能な限り最善の期待を形成する必要がある。

 

○期待は以下の2グループに区分することができる。

①短期期待……製造業者が生産を開始するにあたって、「完成(※あとは販売するだけの状態)」時に、当該の生産物から期待ができる価格に関するもの。生産計画の期待。

 

②長期期待……「完成」された生産物を、追加の資本装備として購入する際に、その資本装備が将来的にどれだけ利益を産出するかという期待。投資計画の期待。

→これらは実際に起こった結果と違背することも十分にありえるが、雇用に関係するのはあくまで「現在の期待」であり、それが実際外れるか否かは特に関係ない(その後の期待形成のリソースにはなるだろうが)。

 

○しかし期待が雇用に及ぼす効果は非常に緩やかなものであり、急激に変わることはそうそうありえない。

[短期期待の場合]

○期待が悪い違背に向かう場合、生産量=雇用量は急激に0に追い込まれることはないし/逆に期待が良い違背に向かう場合、生産の改訂はタイムラグの問題から緩やかに行われるはずだからである。

 

[長期期待の場合]

○期待が悪い違背に向かう場合、資本装備が磨耗するまで雇用を提供するだろうし/期待が良い位牌に向かう場合、資本装備がその環境に適合した後に雇用の拡大に向かうからである。

 

○期待が安定している場合/違背がなかなか起きない場合、そのときにおける雇用水準のことを「長期雇用」と呼ぶことにする。

→長期雇用の状況が現実化しなくとも、つまり期待が絶え間なく変化し続けている状況下でも、長期雇用という水準自体は存在している。

 

○上述の議論より、現在の雇用は現在の期待のみならず、過去の期待にも左右されている。特に過去の期待は、現在においては資本装備――すなわち設備に体現されている。

→つまり雇用は①現在の期待と②それに関連した現在の資本装備に支配されている。

 

○ただし短期期待は日々の実践によって左右されるため、雇用に関しては長期期待ほど影響力があるわけではない。

→ただし耐久財の短期期待は、当然ながらそれ自体が資本装備になるため長期期待に依存することになる。いずれにせよ、長期期待の詳細な議論については12章まで待たなければならない。

 

 

 

第六章 所得、貯蓄および投資の定義 p.73-105

Ⅰ 所得

○完成生産物の販売額をA、完成生産物を他企業から購入した額をA1、期末に残った資本装備をGと置く。

→すると[所得=(A+G+A1)-前期資本装備からの引継ぎ]となる。このとき問題となる「前期資本装備からの引継ぎ」を控除する方法さえ見つければ、所得は産出できる。

 

○この控除の方法は以下の2つがありえる。

【①生産に関連する方法】

○減価償却費をB´とし、その支出の結果による資本装備の期末における価値をG´とする。そして商品の販売額Aにいたる諸々のメンテナンス費を使用費用Uと置く。

→すると[U=(G´-B´)-(G-A1)]。加えて生産に使う人件費や材料費の方を要素費用Fとすると、販売額Aのために支出される総費用は[U+F]で表現できる。

→ただしFの法は経済全体で見ると供給と需要がその中で完結しているため、収支が同じになる。ゆえにある社会における純所得の総計は[A-U]となる。

 

【②消費に関連する方法】

○上述の議論はあくまで自発的な支出を前提にしていた。

→しかしながらメンテナンスは必ずしも意図したように起こるわけではなく、陳腐化や経年劣化などの問題も抱えている。この予期できるメンテナンス費をVとおく。すると先のある社会における順所得の総計は[A-U-V]が正しい。

→Vには偶発的な事故(破損や災害など)による支出が含まれていないため正確性に欠ける。

 

○しかしながら上述のような順所得の概念から曖昧さ――とくに心理学的要素を排除することは困難である。例えばVの値などは特に心理的な要因が絡んでくる。

→ハイエクも「個人は所得を一定に保とうとする」といった定義をしており、やはり順所得の概念そのものが不確かな規準に立脚しているのである。

 

Ⅱ 貯蓄と投資

○語義が氾濫している際には、とりあえず定点を目指すことが有効である。そこで貯蓄が「所得から消費を差し引いたものである」ということは概ね合意されているといっても差し支えないだろう。

→所得のほうは前節ですでに定義しており、問題は消費であるが、これも先述の記号を用いて[∑(A-A1)]と表記することができる(販売額-購入額の総和)。

 

○よって「貯蓄=所得-消費」であるため、[(A-U)-(A-A1)=U-A1]と表記できるだろう。

→貯蓄が「所得のうち消費されなかったもの」という前述の定義をとると、短期投資を同様の数式から表記できるはずである(短期投資も所得-消費である)。

○これは極めて重要な点であり、貯蓄が個別消費者の集合的行動/投資は企業等の個別法人の集合的行動であるのにもかかわらず、この両者は一致するのである。

→ではなぜ「貯蓄額=投資額」という恒等式が成立するのかということだが、投資は社会全体で見ると自企業の支出であり/同時に他企業の収入でもあるからに他ならない。

※所得を(A-U)、消費を(A-A1)として、貯蓄=投資を数式で証明すると、

(1) (A-U)=生産物価値=(A-A1)+投資 → 投資=(A-U)-(A-A1) (2) 貯蓄=(A-U)-(A-A1) ∴投資=貯蓄

 

 

 

第七章 貯蓄と投資の意味――続論 p.106-121

※この章はケインズが先の貯蓄=投資の等式に対して想定される反駁をあらかじめ潰しておく目的で足したと思われる。つまるところ捕捉なのでよりざっくりと(ただし貯蓄=投資の議論は一般理論全体には関係ないけど超重要)。

○先述の通り、貯蓄の定義に異議申し立てされることはありえない。ゆえに「貯蓄=投資」に対する論駁の要点としては、本書における所得の定義、もしくは投資の定義であると予想される。

 

○投資は一般に資本装備(固定資本、運転資金、流動資本)の増分であると定義できる。

→資本装備のどれを含めるか/排するかによって、定義に関する議論が起こってしまう。

 

○例えばホートレーは流動資本に主眼を置くが、なぜ在庫の増減を投資の中心的判断残量として含めるか、あまり妥当性があるようには感じられない。

○オーストリア学派による資本形成・資本消費の概念はあまりに茫漠としていて、投資の概念として用いることはできない。ここで定義された投資とは異なるのは確かである。

 

○所得の定義が特殊であることによって、貯蓄と投資の定義が異なってくる場合もある。

→『貨幣論』における(ケインズ自身の)定義も、「実際の利潤」ではなくて「正当利潤=所得」と見なしたことによって、この問題が生じていた。

○『貨幣論』では「貯蓄>投資」になると期待されるとき、現実の利潤が低下するため、雇用者は超過分の生産力を下げると指摘していた。

→現在の議論はこれの発展形であり、本書の議論に即して言えば、逆に「貯蓄<投資」が期待されれば、その超過分を雇用者は生産力増加――つまり雇用量増加に回すと考えられる(2章で出てきた新規投資D2にかかわる話)。

 

○ハイエクらが用いる「強制貯蓄」という概念があるが、やはりこれも曖昧な概念であり、その輪郭は不明瞭なものとなっている。

→まず標準貯蓄を定義しないと「強制」の状態を指示することはできないし、ベンサムに倣って完全雇用下における貯蓄を標準と定義することもできるだろうが、完全雇用はすでにここまでで確認しているようにほとんどありえない事態である。

 

○貯蓄と投資が同様の額にはならないという憶見は、銀行を経由することによって貯蓄額があたかも目の前から消えた印象を受けるからに他ならない。しかしこれは誤りで、その貯蓄分を銀行はしっかり投資に回しているのである。

→すなわち社会全体で見れば必ず取引は送り手/受け手が存在しており、ゆえに総量が変わることはない。個人の眼差しからは、こうした総量計算を行わずとも取引ができるというだけに過ぎない。

 

 

 

 

第三篇 消費性向

※この第三篇は『一般理論』において最も有名な部分らしい。例えばルーズベルトが大恐慌の対策として講じたニューディール政策の元ネタはここの議論。

第八章 消費性向(一)――客観的要因 p.125-148

○すでに第三章で述べている通り、雇用量を規定するのは総供給関数と総需要関数が交差する点――つまり有効需要に他ならない。

→総供給関数については(目新しい議論ではないが)20章で立ち返るとして、本篇(消費性向)と次篇(投資)では伝統的に問題にされてこなかった需要関数に焦点を当てる。

 

○これも確認したとおり、総需要関数はある雇用量によって期待される消費性向+新規投資――「売上収入」に関連する関数である。

→換言すれば「売上収入」とは、雇用がある水準の際の、(期待された)消費支出額と投資額の合計である。

 

○ここでは賃金単位表示における消費をCwとし、賃金単位表示における所得をYwとする。雇用はこれまで同様にNで表記する(※賃金単位表示は一人あたりの賃金に基づく観点で、消費性向の算出に不可欠ではないため、以下からはwを省略して表記する)。なお所得YとNは原則的には一意的対応にある(例外は20章で検討する)。

→所得水準Yを、そこから消費に支出されるCとの関係関数χとして定義すると、[C=χ(Y)]となる。このχ(Y)が他ならぬ消費性向である。

 

○社会が消費に支出する額は様々な要因に結びついているが、これは以下の3つに大分することができる。

→すなわち①所得額、②客観的付帯状況、③主観的付帯状況である。

→これらは相互依存的関係の上に成り立っているため、諸々の要因を解きほぐすのが困難であるが、それでも客観的/主観的くらいには区別しておこう。

 

○まず消費性向に影響を及ぼす6つの客観的要因を上げる。当然こちらのほうが主観的要因よりも推し量りやすいため、分析における重要度は高い。

①賃金単位の変化……同様の労働に対して、より多い賃金が支払われる場合、当然それに比例して消費も増える。

 

②所得と純所得の差分の変化……以前見たように、人は所得よりもむしろ純所得から消費を考える。よってその差分の変化も影響力を持つことになる。

 

③純所得を計算する際、想定の外におかれる資本価値の変化……(純)所得の変化は比較的予測可能だが、手持ち資産の変動は想定しにくい。短期的な消費性向の変化。

 

④時間割引率/現在財と将来財の交換比率の変化……時間による価値の変化に関連するもので、多くの場合は利子であるが、他にも「死の危険」や没収的課税なども含まれる。さらに将来的な期待の不明瞭化なども該当する。

 

⑤財政政策の変化……所得税、資本利得税、相続税などの消費に関連する財政政策。加えて国が債務返済をする際に行う政府減債基金。

 

⑥現在と将来の所得水準に関する期待の変化……特定個人の単位で見ればおそらく重大な消費増減の要因だが、社会全体で見ると均されるかもしれない。

→これ以外の客観的要因は消費性向の検討においては加味する必要がないだろう。上述のことにしても、通常の状況においてはそれほど重要度が高いとは思えない。

 

○3章で述べられたように、総所得が増加した際、確かに消費額も比例して増加するが、それは所得の増加率ほどは伸びない。経験的事実からは、そうした心理的性向が観察される。

→よって消費Cと所得Yに関して、同じ傾向(比例して増加)を持つためΔCとΔYと表記できるが、[ΔC<ΔY]となる。つまり[0<dC/dY<1](消費額が所得額を上回らないためdC/dYは1より小さい)。

 

○さらに重要なことは、総所得の増加率ほど消費の増加率が高くない、ということは総所得が増加すればするほど、総所得と消費の幅が開いていくことになる。

→そしてこの差額分は貯蓄(=投資)に回されることになる。

○換言すれば、所得が増えたとき、その分の総供給に対応するだけの消費があるわけではない(0<dC/dY<1)。よって雇用を増加させたいのであれば、需要のうち消費額(D1)ではなく、投資額(D2)の増加を期待しなければならない。

 

○以前見たように、雇用Nは消費と投資――つまり予期される需要Dの関数である。他方で消費は純所得の関数となる。ゆえに純投資の関数にもなる。

→逆を返せば投資の支出がよりあれば、消費はより抑えられることになる(消費の支出がなければ、投資でまかなうしかない)。

 

○「(消費・投資のための)金融的準備額」が「当期の装備維持額」を上回ってしまったとき、この超過額は、当期の装備維持とは独立したものに投資される必要が出てくる。

→ゆえにこの超過額分の需要拡大が不可欠になる。

○例えば誰も住まない家に対する減価償却費はただ支出されるだけなので、その分の雇用を引き下げることになる。

→しかし家が再建される段になると、その家一件分が一気に支出されることになる(つまり「金融的準備額」が一気に必要となるので、「当期の装備維持額」を上回る)。

→特にこの問題は減価償却費に加えて、減債基金(国債償還のための基金)において生じる。大恐慌の発端も一気に解放された減価償却費と減債基金に必要となった投資需要がなかったことに求められる。

 

○わかりきったことであるが、経済における究極的な目標は消費に他ならない。将来の消費のために前もって貯えをしておくことは利益になるが、消費をいつまでも先延ばしにしておくことはできないし、過度な貯蓄は現在の需要を減少させ、結果的に現在の雇用も減らすことになる。

→しかし逆に現在の所得を増やすと、すでに見たとおり消費との間が比例して拡大することになるため、まさしく難問であるといえる。

 

 

 

第九章 消費性向(二)――主観的要因 p.149-156

○8章の冒頭で述べたとおり、消費性向を規定するのは客観的要因に加えて、主観的・社会定要因がある。

→しかしこれらを分析したところで何か新しい知見が得られるとは考えにくいので、比較的重要だと思う目録をざっと挙げておく。

【個人的要因】

○予期できない未来への備蓄、家族構成や自分の老後(予期できる未来)への備蓄、利子と資本利得のため、支出が増えていく楽しみ、なんとない自立感、投機のための軍資金、財産の遺贈、金銭欲それ自体など

 

【集団的要因】

○企業動機、流動性動機、向上動機、堅実金融主義など

→これらは主に消費を控えて貯蓄に回す要因になりえるものだが、反対に消費を促す動機として作用することも考えられる。いずれにせよ人種や慣習、教育や宗教といった外的要因に左右されやすいものであるため、以下の消費と貯蓄に関する論考ではこれらを所与の条件として扱う。

 

○先の章で見た利子等の客観的要因、つまり短期的影響が二次的重要性しか持たず、上述の主観的・社会的要因がせいぜい緩やかな変化しかもたらさないのであるとすれば、消費の変化は消費性向(つまり主観的・客観的要因)よりも、所得の変化により依存しているという帰結がもたらさせる。

→ただし客観的要因のところで挙げた金利は消費性向には影響を与えないとしても、消費・貯蓄それ自体には影響を与えることは留意しておかなければならない。

→さらにこの影響は一般に考えられているのとは逆に、「利子率が高くなっても、貯蓄は増えない」というかたちで表出する(金利が上がっても貸し手が投資を減らし、社会全体の所得が落ち込むことになるため貯蓄額も投資額も結局低下する)。

 

 

 

第十章 限界消費性向と乗数 p.157-182

○雇用の変化は消費性向よりも、投資にその要因を求めることができるという事実を8章で確認した。

→この段において、ようやく考え方を一段階前に押し出すことができるだろう。

「所与の状況の下で乗数と呼ぶことのできる、ある定まった比率を、所得と投資のあいだに、そしていくつかの単純化を設けてやることができれば、総雇用と投資(財)生産のために用いられる雇用(一次雇用)とのあいだにも打ち立てることができるのである。」p.157

 

○この純投資と総雇用の間にある関係を推定するための一般理論(=乗数理論)を構築するために、まずは限界消費性向の概念を導入しておく。

 

※本文では消費Cと所得Yの添え字として賃金を表すwがついているが、ケインズもp.159で述べているように原則的にはYとYwは相互互換なので、以下では無視する(前にもした話)。

○もう何度も主張しているように、所得Yの増加に対して消費Cも比例するが、その増加率はYほどではない、という経験的事実に基づく心理的傾向がある。

→ゆえにYの増加をΔYとし、Cの増加をΔCとすると、[ΔY>ΔC]となるのだった。これを微分流に表現した[dC/dY]を限界消費性向と以下から呼ぼう(0<dC/dY<1)。

 

○限界消費性向は極めて重要で、というのも消費増加分をΔC、投資増加分をΔIとすると、所得増加分ΔYは、[ΔY=ΔC+ΔI]と表記することができる。この比率を同じだとすると、[ΔY=kΔI]となる(所得増加分=投資増加分×k)。

→さらに先の限界消費性向[dC/dY]をこのkを用いて表記すると[1/(1-k)]となる。そしてこの[1/(1-k)]のことを「投資乗数」と名付ける。つまり「総投資の増加があると、所得は投資の増加分をk倍した額だけ増加する(総投資が1単位増加したら、総雇用はk倍増加する)。

 

○カーンも類似する発想に至っていて、彼は投資財産業で一次雇用の増加に対し、総雇用がどれだけ増加するのか、という比率を導出しており、言うなればこれは雇用関数k´とも呼べるものである(投資増加分ΔIの一単位につき、総雇用増加分ΔNはk´倍増加する)。

→一般的にはk=k´と想定する理由はないが、ここでは議論を単純化してk=k´としておこう。

 

○仮にある社会は総所得が10増加したとき、消費に9を回すと想定すると、(ΔY=kΔIより)乗数kは10となる。さらに上述の想定により、k=k´なので総所得10増加によって、(k´=10より)雇用も最初の10倍になる。

→「所得が増加しても消費が全く増加しない社会」ならば、総雇用の増加分は最初に増やされた一次雇用分だけになるし、逆に「所得が増加した分を全て消費に使う社会」ならば、雇用と物価は留まらずに上昇することになる。

 

○結局のところ、投資を増加させるためには、貯蓄を増加させなければならないし(貯蓄額=投資額)、この貯蓄が増加するのは総所得が増加している場合のみである。しかしながら所得が増加した際、貯蓄に回される額は心理学的要因に起因する。

「(大衆の心理的には)貯蓄を苦い丸薬、消費を甘いジャムだとしたら、丸薬を追加するにはその大きさに比例した余分のジャムが存在していなければならない。」p.162

 

○ここまでを整理すると、以下の対照的な2つの帰結がもたらされる。

①限界消費性向が1に近いとき(消費増加分が多い)……わずかな投資によっても雇用が大幅に変動する/他方で投資の増加額がわずかでも完全雇用が達成できるといえるだろう。

 

②限界消費性向が0に近いとき(消費増加分が少ない)……投資による変動が小さく、ゆえにそれによる雇用の変動も小さい/他方で完全雇用のためには大幅な投資額の増加が必要である。

→前者は完全雇用までの道のりが短いため、非自発的失業に陥っても治療できるが、変動が激しいため放置しておくと悪化していく。逆に後者は非自発的失業の治癒には労力が必要だが、変動の小ささゆえに放置してもさほど悪化しない。

 

○ここまでの議論は純増加にのみ限定して展開されてきたが、実際には例えば公共事業の拡大への投資kΔIによって雇用ΔNが増加しても、その分他のところで同じだけのΔNが減っていることになるため、社会全体で見れば純増加分はもっと少ないはずである。

→カーンはこうした投資の滅殺要因について看過できないものとして、以下の4つを挙げている。

①公共事業の雇用拡大……雇用が拡大して物価が上がるので、利子率が高まり投資が落ち込むかもしれない。

 

②民衆の心理的混乱……一過性の気持ちで流動性選好が増大するなどして、投資にその分額が回らなくなるかもしれない。

 

③諸外国との取引……外国と取引をしている国においては、投資による増分が海外に流出しているかもしれない。ただし逆に流入している場合も考えられる。

 

④公共投資による雇用拡大……限界消費性向は雇用水準によって一定ではなくて、雇用に伴って一般的には逓減していく。

→他にも様々な投資減退の要因が考えられるが、原則的には投資(雇用)乗数は成立しているだろう。比較的小さな額である投資によって、比較的大きい額である総雇用と総所得がいかにして動かされるか、ということについてはもう少し議論を進めてから考える。

 

○ここまでの議論は、比較的予期が可能な投資変動を中心としていた。

→しかしその投資が依存している資本財産業の産出量の変動は完全に予見できず、また変化のスピードも緩やかなため、瞬間的に成り立つ乗数との間に乖離が生じるように思えるかもしれない。

 

○この混乱は以下の2点を指摘しておけば明瞭になるだろう。

①資本財産業の予見しにくい拡大は、総投資もゆるやかに増加させていくだろう。

 

②資本財産業の拡大によって、限界消費性向も通常の値から一時的にズレが生じるかもしれないが、それはやがて通常地に復帰する。

→つまり資本財産業の生産量は確かに投資額に影響をもたらすが、投資乗数は瞬時に与えられるため、変動している期ごとの投資乗数は確かに存在している。

 

○予測が困難あるいはできない資本財産業の変化が、緩やかにもたらさせるものであるという点は重要であり、それが緩やかであるがゆえに、投資乗数の価値がなくなるわけではないのである。

 

○すでに前々節で見たように、dC/dYつまり限界消費性向が高いほど、乗数が大きくなるため、所定量の投資に対して雇用の変動が大きくなるのだった。では貯蓄(=投資)が低い社会――貧しい社会ほど、消費に回る額が多くなり、dC/dYが1に近づくため、投資の雇用に対する変動が大きくなるのだろうか。

→これは「限界消費性向」と「平均消費性向」が混同されている。前者が高いと比率的効果は確かに大きいが、後者が同時に高ければ絶対的効果は小さいままである。

【数値による例証】

[条件]

○ある社会ではN=500万人分が(今の資本装備によって)生み出した生産物をすべて消費する。

○追加雇用N=10 万人の生産物は99%、さらに追加雇用N=10 万人の生産物は98%、さらにさらに追加雇用N=10 万人の生産物は97%が消費され……[以下続く]とし、このときの完全雇用は1000万人であると想定する。

 

[乗数]

○このとき[500万人+追加分n×10万人]が雇用されているとすれば、(限界消費性向は100-n/100なので)限界的乗数は100/nとなり、国民所得のn(n+1)/2(50+n)%が投資されていることになる。

 

[結論]

○ここでは、例えばN=520万人ならば、(n=2、乗数は100/nより)乗数が50という大きい数字になるが、投資額は(国民所得のn(n+1)/2(50+n)%より)所得の0.06%に過ぎない。

→投資が激減して現在の2/3になったとしても、雇用Nは510万人つまり2%しか減らない。

○逆の場合として、例えばN=900万人ならば、乗数は2.5で比較的小さいが、投資額は所得の9%も占めることになる。

→投資が2/3に減少したら、雇用N=690万人となり、23%も低下することになる。

○つまり貧しい社会は雇用が少ないから貧しいのである。しかし確かに貧しい社会の方が雇用が少ないため、上述の通り乗数が大きくなっていたが、雇用に対する投資の影響が大きいのは例証されたとおり裕福な社会である。

 

○そしてこのことの重要な帰結として、「公共事業に雇用される所定数の雇用が総雇用に及ぼす影響は、深刻な不況時のほうが、やがて完全雇用に接近するときよりもずっと大きいこと」p.175 がもたらされる。

→Nが小さい方が公共事業雇用の影響が相対的に大きく、例えば上述の前提では「雇用520万人のとき、公共事業で10万人を雇用すれば、総雇用は640万人に上昇する」が、逆に「雇用900万人のとき、公共事業で10万人を雇用しても、総雇用は920万人にしかならない」。

→よって失業時には効用の疑わしい公的事業であっても、とりあえず拡大して雇用を増やしておけば、失業対策分の出費が抑えられることになるため、儲けものである。

※この命題は『一般理論』の中でも群を抜いて有名で、実際にニューディール政策はこれを下敷きに展開された。

○あとは統計上の精度の問題となってくる。

 

○今見た「失業時には無駄な公共事業でも増やせばよい」という帰結は一般的には嫌がられるものだろう。しかし非自発的失業下においては、限界効用よりもはるかに限界不効用の方が低いはずだ。

→長い期間失業しているものからすれば、ある程度の労働は正の効用になるかもしれない。下手をしたらピラミッドの建設や、地震、戦争ですら富の推進に一役買うかもしれないのである。

 

○確かに常識から見れば国を富ますためにはよりマシな事業を展開したほうがよいだろうし、そうすべきだと言われるだろう。しかし、それらが困難なときには、金採掘であってもやらないよりマシである。

→金脈探しは限界不効用も当然あり、実質的には富には何の貢献もしないのであるが、射幸心を煽られるだろうし、仮に見つかったところで他の事業とは異なり、限界効用を下げることもない。

 

捕捉

【概要】

○この章は最初に書いたように重要度が比較的高いが、乗数効果の議論が押さえられていないとほとんど理解できない(つーか極限&収束とか知らない文系にはまぁ辛い)はずなので、補足を入れておく(出典はだいたいwikipedia)。

○「乗数効果(Multiplier effect)」はここでも度々引かれているリチャード・カーンが雇用乗数として発見した増幅作用のことで、ケインズが投資乗数として体系化したことで知られている。

●定義:「ある条件下で有効需要を増加させた際、その増加額よりも大きく(乗法的に)国民所得が増加する現象」。

●メカニズム:「企業・政府による投資増加→国民所得の増加→消費の増加→さらなる国民所得の増加→さらなる消費の増加→……」の連鎖(無限等比数列)。

 

【数式】

○各家庭の可処分所得が1単位増加した際、そのうち割合「β」を消費に充て、「1-β」を貯蓄に充てると仮定する(βは消費なので所得を上回らない。『一般理論』での0<dC/dY<1)。βは限界消費性向、1-βは限界貯蓄性向と呼ばれる。

○ここで投資によって可処分所得がx増加したとすると、そのうちβxが消費に回されることになり、よってβxは企業の収入となる。それがさらに給与として家庭に入り、ゆえに「βxのβ割=β^2x円」が消費に回り、それが企業収入から給与となって、家庭が「β^3x円」が消費に回り……以下同様となる(※無限等比数列なので合計は極大値[1/(1-初項)]に収束する)

→βx+β^2x+β^3x+β^4x+……=1/(1-β)

○この1/(1-β)を乗数、最初の投資xが1/(1-β)倍される現象を乗数効果と呼ぶ。

 

【応用】

○ケインズは本書(p.163-164)で、限界消費性向βが1に近いほど「わずかな投資でも雇用に与える影響が大きい∧完全雇用までわずかな投資ですむ」となり、逆に0に近いほど「投資による影響が低く、雇用も変動しにくい∧完全雇用までより多くの投資が必要」と主張している。

→これはβの値が大きい方(1に近い)方が、乗数[1/(1-β)]の値が大きくなるため、より乗数効果も大きくなるためである(例えば、β=0.5なら乗数は2だが、β=0.9ならば乗数は10になる)。

○非自発的失業がより多く観察される状況下では、「貯蓄に回す余裕がなくなる」=「所得を占める消費の割合(dC/dY)が高くなる」=「限界消費性向が1に近づく」ことになるため、ケインズがいうように投資を積極的に行った方が、雇用に与える影響は大きくなるのである。

 

 

 

 

 

第四篇 投資誘因

※第四篇も『一般理論』において第三篇と並んで重要度が高い。

第十一章 資本の限界効率 p.185-201

○投資によって資本装備を購入するということは、耐用期間である1、2、3……nにおける見込み収穫に対する権利を購入するということである。

→この期間ごとの収益の系列Q1、Q2、Q3……Qnのことを以下では「期待収益(見込み収益)」と呼ぶことにする。

○この期待収益には、資本装備の「供給価格」というものが対置される。

→これは資本装備の市場価格のことではなくて、「製造業者がもう一単位分この種の資産を生産してもよいと思う価格」つまり「取替価格」に他ならない。

 

○そして「期待収益」と「供給価格ないしは取替価格」との間にある関係――「ある期間を通じてその資本資産から得られると見込まれる収益の割引現在価値」と「その資産の供給価格」をちょうど等しくする割引価格のことを、「資本の限界効率」と呼ぶ。

※現在の内部収益価格IRRのことらしい。

 

○一般的にはある資本資産に対して投資が行われれば、それに対して期待収益が下がるため、資本の限界効率も下がる/逆に当該資産への需要が増えるため供給価格・取替価格は上がることになる。

→さまざまな資本装備における限界効率と投資額の対応を一つ一つ記述していった関数関係を「投資の需要表」ないしは「資本の限界効率表」と名付ける。

→いかなる投資であっても、限界効率が利子率を上回るようにはならない。換言すれば、投資水準とは資本の限界効率と利子率が等しくなる水準に他ならない。

[ex] Qrをある資産から得られる期間rの期待収益、r期の1ポンドを現行利子率に置き換えた金額をdrとする。

→すると∑Qrdrは投資の需要価格であり、先述の通りこれが投資の供給価格と等しくなるように推し進められる/∑Qrdrが供給価格に満たないならば、投資は行われない。

→この数式から明らかなのは、期待収益Qrと利子率drが独立している問題であるということである。利子率は期待収益や資本の限界効率からは導出できない、ということを念頭においておく必要がある。

 

○まずここで資本の限界効率の定義を明確にしておく必要がある。限界生産力、限界収益、限界効率、限界効用といった言葉は、経済学徒にとってお馴染みの概念であるが、これらには少なくとも以下の3つの不明瞭な点がある。

①「資本の追加一物理単位を雇用したことによる物理的生産物」なのか、「資本の追加一単位を雇用したことによる価値の増加」なのかが不明。

→前者の生産力にかかわる場合、その物的単位(トン、キロ、個など)をいかに一元的に定義するかが解決困難な問題となる。

 

②資本の限界効率とは物量があるものか、それとも何かの比率なのかが不明。

→文脈的には比率であるはずだが、明確にされてはいない。

 

③価値の増加を見るのは、当期の期待収益Q1だけなのか、それとも資本装備の耐用年数期間における期待収益Q1~Qnすべてなのかが不明。

→多くの理論は当期Q1だけの限界効率しか関心を払わないが、期待収益Qが常に固定的なはずがないので、これは明らかに謬計に基づいている。

→特に伝統的な資本の限界効率をめぐる誤りは、③にあるように、期待収益を当期に限定していたことに求められるだろう。

○従来の理論の不明瞭な点を挙げることはできるが、他方でマーシャルやフィッシャーは資本の限界効率に対して、前述の「期間全体の期待収益と供給価格を等しくする割引価格」に類似する定義を与えていた。

 

○先述の通り、従来理論の最も重大な欠陥は、期待収益を当期に限定し、その先の期間について加味していなかった点にある。こうした考えは、期待収益が静的であるならば問題はないが、現実は様々な変動を被っている。

○例えばお金の価値の変化は、投資に影響を与えるのは間違いない。

→貨幣価値が上昇する(資本装備<貨幣)と期待されれば、投資は一般的に控えられることになるだろうし、逆に貨幣価値が下降する(資本装備>貨幣)と期待されれば、投資は盛んに(ゆえに雇用も)なると考えられるはずだろう。

※貨幣価値が下落すれば、投資が盛んになるという命題は、本書の首長の中でも著名なもので、すなわちインフレに伴う投資の活発化を指摘している。

 

○ピグーやフィッシャーは貨幣価値の変動を視野に入れていたが、それが上述のように資本の限界効率に影響を与えるのではなく、むしろ利子率に作用すると考えていた点に問題がある。

→常識的に考えれば物価が上昇すれば、資本の限界効率(つまり物)に影響を与えるはずであり、仮に利子率が資本の限界効率と歩調を共にして上昇するのであれば、物価上昇の刺激効果と相殺されてしまうことになるだろう(物価上昇は投資を抑制するから)。

 

○利子率が将来的に低下するだろうという期待は、資本の限界効率表を引き下げる働きを持つ。

→当期の資本装備は、将来の段階でより利子率が低下してもやっていける資本装備と競合することになるため。

 

○従来的には顧みられてこなかったが、投資に影響を与えるリスクは以下の3つのものがある。

①借り手のリスク……例えば企業が自分の望む期待収益が実際に得られるか、その見込みについての疑念によって生じる。自腹の投資ならば危険はこれだけで済む。

 

②貸し手のリスク……貸借をして投資をする際に生じる危険。期待が外れてしまった場合の債務不履行や、意図的に債務を踏み倒されたときに生じるリスク。

 

③貨幣価値のマイナス変化……このリスクが存在するため、実物資産よりも貨幣の方がややリスキーであるといえる。

→これらは通常の場合は加味しなくともよいが、好況時には貸し手も借り手もこうしたリスクに対して通常よりもはるかに無頓着になってしまうためである。

※つまりバブル期にはみんなリスクをほとんど考えなくなってしまうということ。

 

○資本の限界効率表は極めて重要であり、というのも将来における期待はすべてこの対応関係を通じて、現在に作用するからである。

○古典理論の非現実性は、当期の期待しか俎上の載せてこなかった点にある。しかしここに本書で論じている使用費用(※第二篇で登場した減価償却に準じる概念)と、資本の限界効率の概念を導入すれば、わずかな変更で現実に古典理論を引き戻せるだろう。

→端的に言えば、未来への回路は資本装備の耐久整備と、その需要価格において開かれており、これは我々の日常的直観と一致する。

 

 

 

第十二章 長期期待の状態 p.202-228

○収益期待は、①既知の・現在の事実と、②未知の・将来の事実の2つから見込まれることになる。

→前者は様々な資本ストックや資本ストック一般の現存状況、あるいは財に対する消費者の需要などが挙げられる/後者は資本ストックの状態や種類の増加、耐用年数に対する有効需要の程度や貨幣価値の変化などが挙げられる。

→後者の心理的期待のことを一括して長期期待の状態と呼ぼう。

※ここで登場した長期期待は、5章にて短期期待と区別されたものと同一である。

 

○人が何かを予期する際、まるっきり未知で不確実な事柄に依拠するのは理にかなっておらず、多少なりとも確実性の高い既知の事実に依存する。

→ゆえに長期期待は現在判明している事柄を、しばしばそのまま未来に適用させてしまう。つまり長期期待だからといって蓋然性が高いわけではなく、確信の程度にも依存している。

 

○経済学者たちもこの「確信の状態」に対して関心を寄せることは少ない。しかし確信の状態は資本の限界効率表を決定する主要因の一つであり、看過してよいものではない。

→この議論は市場に対する実際の観察に基づくものでなければならないため、本節はいささか本書の部分とは趣を異にする。また以下の論考は投資価値の変動を、利子率を度外視し、期待収益に限定することによって展開する。

bottom of page