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Hayek,Friedrich 1944→1992 『隷属への道』

第一章 見捨てられた道 p.3-22

○ドイツやイタリアが歩んだような全体主義の忌避。

○「彼ら(自由主義の創始者たち)は経済的自由なしには個人的自由も政治的自由も存在しえないと教えていたのだが、われわれはその経済的自由を次から次へと放棄してきた。」 p.8

→アントン、トグウィル「社会主義は隷属を意味する」

 

○自由主義の放棄・全体-社会主義の趨勢は長い歴史を通じて観察される。その中で休息に捨て去られてきたのはギリシャ-ローマ時代から受け継いできた個人主義という思想的基盤に他ならない。

→個人主義と集産主義(collectivism)の2つの原理が対立していることが本書を通じて明らかにされる。

 

○個人主義が阻害されないところでは、諸個人が各々の能力を自由に発揮し、技術革新などに顕著であるよう、様々な発展に寄与してきた。

「自由主義の基本原理には、自由主義は固定した教義であるとする考え方は、まったく含まれていない。またこの原理に、一度決めてしまえばもう変える必要のない厳密な理論的原則があるわけではない。」 p.14

→19世紀に構成された「自由放任(laissez-faire)」という教説に固執するような自由主義は、すでに矛盾を孕んでおり、また実際上も当初は経済的繁栄を達成したが、その成功によってドグマ化してしまい、自由主義の教義が固定的なものになってしまった。

 

 

第二章 偉大なユートピア p.23-34

○自由主義が上述の理由から形骸化した「自由」に凝り固まるようになると、自由主義者たちは本来的に対極に位置するはずの社会主義に「新しい自由」を見出すようになった。

「社会主義が、自由を求める諸勢力と結びつくようになったのは、1848年の革命を準備することになったあの強力な民主主義的思潮の流れに影響を受けてのことであった。」 p.23

→こうした潮流に反して、民主主義と社会主義が相容れないものであるということはトクヴィルが看破していた。「民主主義は自由において平等を求めようとするのに対して、社会主義は統制と隷属において平等を達成しようとしている、という相違である。」

 

①先人たちの自由主義における自由……「圧制からの自由」「他者からのどんな恣意的な圧力からも個人が自由でなければならないこと」

②社会主義における「新しい自由」は客観的必然性という言葉で表現される、環境的制約から人間の選択を解放するという意味での「自由」。

→①から②へ自由概念が緩やかに変遷していき、旧来の自由と「新しい自由」が混同されるに至った。

→しかし結局のところ、後者は物質的富の飛躍的な増大(※マルクスがいう「財の希少性の解消」)という無責任な約束の上に立脚していた、自然的制約というよりも単に経済的制約に基づく「自由」に過ぎない。

 

「まだまだ英国やその他の国におけるいわゆる「進歩主義者たち」は、共産主義とファシズムとはまったく異なる両極端を代表する考え方であるという、誤った理解を頭から信じ込んだままでいる。だがその一方で、人々は次第に、この二つの新しい専制体制は、実は同じ思想的傾向がもたらした結果ではないかと、ひそかに思い始めてもいる。」 pp.28-29

→フォークトやドラッガーが見抜いているような、実は社会主義と全体主義ないしはファシズムが地続きのものであるという事実は、驚きをもって迎えられた。

 

 

第三章 個人主義と集産主義 p.35-49

「社会主義という概念は、単に社会的正義とかより多くの平等や生活の安定といった、つまり社会主義の究極の目標である「理想」のみを意味するものとされたり、あるいはその理想を説明する言葉として用いられたりする。一方それは、大半の社会主義者がそれらの目標を達成しようとする際に用いる、あるいは、たくさんの有能な人々がそれらの目標の安全かつ速やかな達成のために唯一可能であると考えている、特定の「方法」をも意味する。」 p.36

→この2点が混同されていることもあり、社会主義という概念は極めて混沌としたものになっている。

○よって以下では、社会主義者たちが唱える計画経済や生産手段の国有化といった「方法」について表現するために、「集産主義(collectivism)」という語を用いることとし、社会主義はその一形態(下位集合)と把握することにする。

 

○ではこの集産主義が含意している計画経済とはどのような実践なのだろうか。

「今日に計画主義者が要求していることは、単一の計画に従ってあらゆる経済活動を中央集権化して統制していくことであり、社会の諸資源を、特定の目的に焼く立つためにある定まったやり方で、「意識的に統制・管理」していく方法を決定しなければならないということなのである。」 p.40

 

○対する自由主義者たちは先述の通り(凝り固まった)「自由放任」を訴えるが、これは社会主義者の主張する「計画」とは一線を画すものであるという点には留意しておく必要がある。

→自由主義者たちいう自由放任とは、有効な競争を生み出すために必要かつ適切な枠組みを提供することであり、場合によっては旧来の枠組みが積極的に否定される契機にも開かれている。

→これまでの議論の流れを踏まえて言えば、この自由放任的枠組みが、社会主義者の要求する競争を排する「計画」に入れ替わってしまっているのが現段階である。そして当然ながら、競争を市場から排するためには、国家による権力介入は避けて通ることができない。

 

 

第四章 計画の不可避性 p.51-68

○社会主義者の信仰する史的唯物論に基づく「鉄の必然性」は、繰り返し世代を超えて論者に唱えられてきたため、あたかも事実に見えるだけであって、一連の過程は根拠に乏しいものに過ぎない。

「「計画の不可避性」を論証しようとしてこれまでなされてきた様々な議論の中で、最もしばしば聞かされてきたものは、テクノロジーの変化が、一つの分野からさらに多くの分野へと競争を成り立たせなくしてきたのであり、残された唯一の選択は、民間独占体による生産管理を採るか政府による統制を採るしかない、という意見である。」 pp.52-53

→「テクノロジーの発展による競争の阻害・独占の促進」というテーゼは、本来はマルクスの「産業集中」の議論に依拠したものであるが、これも孫引きに次ぐ孫引きにより忘れ去られている。

→確かにテクノロジーの発展は観察されたが、経験的事実に基づくのであれば、それは決して過度な独占を引き起こすことはなかったし、自由競争を不可能にするものでもなかった。ゆえに計画が不可避であるという主張も、誤謬を孕んでいる。

 

○また経済の複雑化により、中央統制が必要とされるべきとし、計画の不可避性を訴える論調もあるが、これも誤りである。

→中央統制は価格の自動調整という手段に比べれば、はるかに原始的かつ硬直的であり、仮にそれに依拠していれば今日における経済発展などはありえないはずである。経済が発展すればするほど、中央統制よりもむしろ意図的に統制を退ける方法が必要となってくる。

 

「社会を計画化することに一番熱心なこれらの人々は、その計画が採用される段になったとしたら、最も危険な人間、他の計画を一切認めない教条的な人間となりうる。気高くて純真な理想化が狂信者となるのは、しばしばただ一歩の歩みでしかない。」 p.67

 

 

第五章 計画化と民主主義 p.69-89

○すべての集産主義に共通する徴表して、「ある決定的な社会的目標へ向けて、社会全体の労働を計画的に組織化すること」を挙げることができるだろう。そしてこうした集産主義の性格は、1章で述べたように自由主義-個人主義に真っ向から対立する。

「これら(※共産主義、ファシズム等)すべては、社会全体とその全資源を単一の目的に向けて組織することを欲し、個人それぞれの目的が至高とされる自主独立的分野の存在を否定することにおいて、等しく自由主義や個人主義と一線を画している。簡単に言えば、すべての集産主義は、最近生まれた「全体主義」という言葉の意味において、全体主義的なのである。」 p.70

○集産のための計画を正当化するためには、何らかの採用基準が不可欠となってくるが、その際に選択されるのは、人間の価値すべてを妥当に序列付ける一つの完全な倫理的規範に他ならない。

→しかし文明の進歩と同じくして、統一的な規範の存在はますます喪失していった。ゆえに現代においてそうした完全な倫理を希求することは、複数の儀礼的慣習に拘束されていた原始時代に向けて、歴史を逆走しているに過ぎない。

 

○統一的な倫理規範の不可能性を確認するためには、以下の基本的な事実を考えればよいはずである。

「きわめて重要なことは、どんな人間であろうが、限られた分野以上のことを調査することや、ある一定数以上のニーズがどれだけの緊急性を持っているかを考慮することは、不可能であるという、基本的な事実である。」 p.73

→諸個人の持つ選好やニーズはそれぞれ異なっているという自明の事実こそ、個人主義の哲学が成り立つ大前提であり、逆を返すと個人の目標が社会全体の統一的な目標に還元できない最大の理由に他ならない。

○無論、社会的合意の存在を否定するわけではない。しかし、社会的合意は往々にして最終的な目的ではなく、また国家活動は合意の領域を超えることもないため、個人の自由を抑圧するようなことはない。

 

「中央計画に機能を依存する社会では、その統制が、多数派の合意を得られるかどうかに左右されるようなことは許されない。そこではしばしば、まったくの少数派でしかない者の意見が国民に強制されることが必然となる。」 p.86

○先述の通り、計画に基づいた中央統制は完全な倫理的規範に立脚している必要があり、ゆえにそれが多数決をもってしても反駁されるようなことはあってはならない。その点において社会主義が進行することによって、民主主義は自壊を避けることはできない。

 

○ただし以下のような場合に限れば、民主主義と全体主義が両立する可能性もある。

「計画化と民主主義の間に衝突が起こるのは、民主主義は、統制政策が求める自由の抑圧にとっての障害になるからにすぎない。だが、民主主義が個人の自由を保証することをやめれば、それは全体主義体制のもとでも何らかの形で存続していくことができるかもしれない。」 p.88

※この辺の議論はまんまシュミットと同じ見解に基づいているのが面白い。またハイエクが(リバタリアン的意味での)自由主義を全体主義の対立物として見なしているのも、シュミットが(立憲主義的意味での)自由主義と全体主義を対置しているのと似ている。

 

 

第六章 計画化と「法の支配」 p.92-110

「「法の支配」とは、政府が行うすべての活動は、明確に決定され前もって公表されているルールに規制される、ということを意味する。」 p.92

→いわゆる(立憲主義的意味での)自由主義の考え方。形式的に設けられたゲームのルールの枠内であれば、個人の行動は自由にその目的を追求することができる。

○また恣意的権力との差異としては、

「「法の支配」においては、政府の活動は、諸資源が活用される際の条件を規定したルールを定めることに限定され、その資源が使われる目的に関しては、個人の決定に任される。これに対し、恣意的政治においては、生産手段をどういう特定の目的に使用するかを、政府が指令するのである。」 p.93

→法の支配が形式的な枠組みだけを与えるの(形式的ルール)に対して、恣意的政治においては政府が状況に見合ったなんらかの統制(実体的ルール)を設けていく必要がある。しかしその状況判断は、特定の誰かの判断に基づいているものであり、前章で見たように国民全体の選好やニーズをかなえるものではない。

 

「形式的なルールは一種の道具なのである。というのも、それは、どんな人にも役立ち、達成しようとする目的のために使用することで役立ち、詳しくは予測できない状況においても役立つからである。われわれはそれらのルールによってもたらされる具体的な効果はわからないし、どんな目的の追求に役立ち、どんな人々を助けるかもわからない。また、それは影響を及ぼす人々すべてに、全体としては利益となる。」 p.94

→法の支配におけるこの特性こそが、集産主義の計画と区別される重要な点であり、特定の目的や主体を選ぶことがないがゆえに皆の自由を保証してくれる。

→社会政策の特定成果は不可知である方がよい。

○上記の不可知性を正当化する論拠としては以下の2点がある。

①経済的観点……主に経済活動の軌道修正を図るとき、その当事者が状況を十分に判断できるはずであり、そこに国家があらかじめルールを設けているのは流動性に欠ける。

 

②政治・倫理的観点……新しい機械をすべての人々に解放したいのであれば、予測に基づくルールを設定してしまうのではなくて、選択の自由を保証しておくべきである。

 

「異なった人々に平等な結果を与えるためには、人々に異なった扱いをしなければならない。また異なった人々に客観的に平等な機会を与えることは、主観的に見て平等な機会が与えられるということではない。」 p.101

→誰に対しても可能性が開かれている以上、経済的格差は生じるだろう。しかし法の支配がこれを意図したものではない、ということは断言できる。

 

 

第七章 経済統制と全体主義 p.111-128

「われわれの生活の中でも、あまり重要でないし、また価値のあるべきではない側面においては、自由を放棄することになるが、かわりにもっと高次元の価値の追求において、より大きな自由を獲得することになるだろう。」p.112

→政治的独裁を嫌う人が、経済的自由を手放してしまう理由。

○しかし貨幣は決して労働のインセンティブだけにその機能が留まらず、むしろ「貨幣は、これまで発明されてきた自由の道具の中で最も偉大なもの(114)」である。

○経済統制とは単に人々の過程を統制するにあらず、その金銭的目的をも統制することを意味する。

→すなわち経済的自由を手放してしまうということは、諸個人の生活における価値を、第三者の審級に委ねることになる。

 

「当局の意志がわれわれの日常生活を型にはめ「誘導」していくのは、こういった消費者としての活動可能性の部分だけではない。むしろそれは枝葉の部分なのであって、より強大にそれが発揮されるのは、生産者としてのわれわれの立場に対してである。」 p.120

→多くの計画主義者が謳うのとは裏腹に、計画化によって「職業選択の自由」が保証されるという帰結はもたらされない。そればかりか、計画化は確実に業種や新規参入、報酬をも統制するだろう。

 

○「政治的自由は経済的自由なしにはなしえない」というフレーズは、まったくもって正しい。ただし社会主義者がいうような「経済的自由からの解放」といった約束ではなくて、個人の「選択の自由」の保証なしには、政治的自由はありえないということである。

 

 

第八章 誰が、誰を? p.129-152

○以前述べたよう、国家似て起用されるべき規範は、恣意的な権力による意志決定ではなく、あくまで不透明性を保証する「法の支配」だった。

「迫られる選択は、誰が何かを手に入れるかを少数の人間の意志が決定する体制か、それとも個人の報酬は少なくともある部分は当人の能力と企業家精神によって、またある部分は予測できない諸般の条件によって決まるような体制か、という二者択一なのである。」 pp.130-131

→予期できない条件に左右されることが含意。またここには(相続財産と私有財産が含意されるため)機会の不平等があるが、これを完全に退ける必要もない。

「もちろん、競争のもとでは、貧乏な状態から人生を始めた人が富豪になる可能性は、遺産を相続した人がそうなる可能性よりもはるかに少ないことも事実である。だが、その可能性は充分存在するし、より重要なことは、競争社会こそ、権力者の好意によってではなく、ひとえに自分の努力や運によってそれを可能にさせ、また誰かがそれらを妨害することを禁じる、唯一の体制だということである。」 p.131

「たとえば不平等は、非人為的な成り行きでそうなったのなら、意図的計画によって課せられるよりも、ずっと耐えやすく、また当人の個人的尊厳を傷つけることも少ないだろう。」 p.136

※ハイエクの社会主義-全体主義批判はもっともだけど、この部分は積極的に首肯できない。いまのところ自由経済における貧富の格差を肯定している箇所はここ(ともう一箇所くらい)だが、その正当化の論拠が「社会主義よりマシ」程度の消極的なものであり、十全であるとは思えない。

 

○こうした個人の選択の自由を、当局が計画・統制によって阻害しているという反駁に対し、計画主義者は計画は生産部門にのみ限定されるのであり、諸個人の私有財産つまり所得に干渉することはない、と応答するかもしれない。

→しかしながら、所得分配の統制なしには、産業の統制はなく、相互依存的である経済の任意部分だけ計画化してしまうというような、むしのよさは通用しない。

 

○先述の通り、個人は全体という外的要因に基づく経済生活の不平等を、より快く思わないはずである。そうであるのにもかかわらず、計画によって社会主義国家は諸個人や集団を、国家にとって「ふさわしい」位置に置こうとする政治的議論を展開する。

「あの「誰が、誰を?」という有名な警句は、たぶんレーニン自身によってロシアに持ち込まれたものだったと私は思うが、初期のソビエト体制時代、人々は社会主義社会の全問題をこの言葉で要約したのだった。誰が誰を計画化し、誰が誰を統制・支配し、誰が人眉宇の人生の位置を決め、誰が他からの割り当てをもらうに値するか、これらの問題が、最高権力のみが解決すべき中心的な問題として、必然的に生まれてきたのである。」 p.138

→確かに政策決定はすべからく「誰が、誰を?」という問いを立てる。しかしながら、以下の2点の区別を留意しておく必要がある。

①具体的政策は、特定の誰かへの影響を目的とせず/むしろそのような特定をするようなものであってはならない(前に出た不透明性の議論)

 

②誰がいつ何を手に入れるのかすべて政府が決定する/ある人が・あるとき・ある場合のみ何かを手に入れる場合に限り、政府は影響を与える。

→この2点に全体主義/自由主義のすべての差異が求められる。

 

「社会主義が約束したのは、絶対的平等ではなく、より正しい、より平等な分配であった。絶対的な意味における平等ではなく、「より多くの平等」だけが、真に社会主義がめざしている目標なのだ。」 p.140

→これらは似通ってはいるが、同一ではない。絶対的平等を採択すれば、社会主義の応じるべき功罪判断はすべて消えうせるのに対し/「より多くの平等」に応えるやりかたは、「富裕層から取り上げ、分配せよ」以外の何も言っていない。

 

 

第九章 保障と自由 p.153-172

「それにしても、「経済的保障」という理念は、こういった分野のほかの言葉に劣らず、曖昧で漠然としている。だからこそ、一般的に正しいと思われているこの「経済的保障」への要求は、時に自由を脅かす危険なものとなるのである。まったくのところ、「保障」ということをあまりにも絶対的な意味で理解し、一斉にこれを達成しようとすると努力すれば、自由への機会を増大させるどころか、逆に自由に対する最も重大な脅威となってしまう。」 p.154

→保障という概念は以下の2種類に区別することができる。

①限定的保障……社会の全員に実現可能である/特権的でない、人々が欲して当然の保障。

→物質的窮乏からの保障

 

②絶対的保障……自由社会では全員に実現することはできない、特権的な保障。ただし裁判官のような一部の特権的な職業に対しては、重要な意義を持つ。

→個人や集団が既に占めている社会的位置を不動にしてしまう保障

→前者の保障は自由主義体制において、担保されている不透明性がゆえに生じるリスクに対するものであり、これのために国家が社会保険を運営することは(対立はあるだろうが、)正当である。「政府がより多くの保障を提供することと、個人の自由を維持することは、原則的にはまったく両立しうるもの(p.156)」

○ただし非自発的な失業であっても、政府の大規模な公共事業がその有効かつ唯一の処方箋にはなり得ない。

※ここは地味ながら重要かも。ハイエクはリバタリアンながら穏当なレベルのリベラリズムを擁護している。まあでもケインズはディスっているけど。

 

○しかしながら後者の絶対的保障は、特定の社会・経済的地位を保証するがあまり、各人の職業選択の自由を明らかに侵害している。

「大きさの変化するケーキがあったとして、その固定した一部分を誰かに与えるとしよう。そこで大きさの変化が起こった場合、他の人の取り分の変動率は、ケーキ全体の変動率よりはるかに大きなものになってしまう。そして、競争社会が提供する保障する機会の巨大な多様性は、どんどん減少していくことになる。」 p.165

○この問題に加えて、職業選択の自由を認めないということは、既存の格差を固定的なものにしてしまうという指摘もすることができる。

 

 

第十章 なぜ最悪の者が指導者となるのか p.173-197

「どんな民主的な統治者であっても、国民の経済活動を計画化し始めるやいなや、独裁的な権力を振るうか、それとも計画を放棄するかという二者択一に直面してしまうのと同様に、どんな全体主義的独裁者も、その体制を運営し始めるやいなや、通常の道徳を無視するか、それとも運営に失敗するかの二者択一をせざるをえなくなるだろう。」 pp.175-176

→善良な人間による全体主義ならばあるいは、と考える人はいるが、まさに上述の点において不道徳で自己抑制力のない人間が全体主義において、権力の座につこうとする。

 

○すでに論じたように、民主主義的手続きの遅さに対する不満も社会主義の趨勢を支えた要素の一つだった。中央ヨーロッパでは、こうした過程において、同じ思想・信条を持つ成員から構成されるグループが台頭し始めた。

→そしてこれらのグループは、往々にして最善というよりは最悪の人々から構成されることが多い。その理由は以下3点に集約できる。

①知的水準が高いほど、人の選好や価値観は多様化する。

→逆を返せば同一性の強さに反比例して、知的なレベルは低くなる。

 

②独裁を目指す者は、騙されやすい人々をターゲットに定める。

→これらの人々は信条を持っていないのに加え、ぼんやりとしているか、逆に情熱や感情にすぐ駆られるため独裁者のよいカモとなる。

 

③結集力の高い・同一性の強い支持母体構成のためにとられる否定性の扇動計略。

→一般に人々は否定的な物事に対して、より合意しやすい。ドイツにおける「財閥」やユダヤ人、ソ連における「富農」などがまさに悪魔化の対象だった。

→特に三番目は最も重要であると考えられ、こうした性質が排他性に拍車をかけるとともに、同一性への強い欲望をも生み出す。

 

 

第十一章 真実の終わり p.199-220

「社会的計画が目指している単一の目的体系の達成に向けて、すべての人々を奉仕させる最も有効な方法は、その体系に含まれた諸目的を心から信奉させてしまうことである。全体主義を効率的に運行するためには、人々を強制的に同一の目的のために、働かせるだけでは十分ではない。人々にそれらの目的は自分自身の目的でもある、と考えさせることが不可欠である。」 p.200

→統制が至上の目的であるため、伝統的な倫理感には沿わないものであっても全体主義に適用される規範としては成立しうる。

○しかしこうした倫理性の問題に加えて、全体主義は、

「「真実とは何か」という問題、道徳観とは異なった形で人間の知性がかかわることになる問題までも、その活動の対象としないではおかないのだ。」 p.203

→この理由として以下の2点が挙げられる。

①価値観の正しさの保証ないし、新しい価値観が人々がこれまで抱いてきた価値観と整合性がとれていることの説明のため

 

②全体主義ではぼやけている目的と手段の区別の曖昧さを明瞭にする

 

「「神話」が全社会の行動を規制する理念として、全体主義的指導者によって受け入れられるようになるやいなや、その妥当性は決して問題としてはならないものにされる。」p.206

「[…]それらの価値観が、すくなくとも人々ないし裁量の人たちが、これまで信奉してきたもとの実のところは同一で、ただこれまでは適切に理解されていなかったり、はっきりと認識されていなかっただけのことだと、人々を説得することである。」 p.207

→妥当性は二の次であり、社会の成員の持つ目的を「新しい神話」において刷新し、国家目標に適合させていくことが全体主義の指導者には求められる。

※「キリストはユダヤ人ではなく、実はゲルマン人だった」という言説を、ときのナチスが流布していたって話を『アドルフに告ぐ』で読んだ気がする。

○そして最も被害を受けた刷新された概念が、他ならぬ「自由」だった。

→感情的連想というかたちで、意味が次々拡張されていくことによって、最終的には本来の語法とかけはなれたものであっても成立してしまう。しかしこの段で既に言葉は意味をもたない外皮だけの存在になっているともいえる。

 

「どんな隠された目的も持たずにそれ自体を目的として行われる、あらゆる人間的な活動を弾劾することも、全体主義の全精神と完全に合致しているとされる。[…]そのような活動は、前もって予見できない結果や、もともとの計画が対策を準備していない結果を、発生させる可能性があるからだ。」 p.214

→実際、ナチは「科学のための科学」「芸術のための芸術」といった趣のある活動を、徹底的に弾圧し、そうした活動が持つ志向性を社会的目的による正当化のみに限定した。

「集産主義者たちの教義が「意識的な」管理や「意図的な」計画を要求することによって、実は特定の個人の精神が最高権威者として支配すべきであるという要求へと、必然的に転化してしまうということこそ、あらゆる種類の集産主義者の教義が孕んでいる矛盾である。その一方、社会的現象に対する個人主義者たちの分析だけが、人間の理性の成長を誘導している個人を超えた諸力をわれわれに認識させてくれる。」 pp.219-220

 

 

第十二章 ナチズムの基礎としての社会主義 p.221-243

※ナチズム台頭の系譜的な引用(興味ないから割愛)

 

第十三章 われわれの中の全体主義者 p.245-274

「全体主義政府が犯してきた様々な不法行為が、あまりにはなはだしいものだったために、そういった体制がいつの日かこの国でも生じるかもしれないという恐れを増大させるどころか、かえって逆に、そのような事態は決してここでは発生しえないという安心感をつよめてきた、という見方はおそらく真実に近いだろう。」 p.246

→しかしこれは誤りであり、特に昨今(1944年)では、全体主義国家が目の敵にしてきた自由主義の国、イギリスにおいても全体主義的兆候が観察されるようになっている。研究者たちが社会の組織化を訴えるようになってきている等。

 

「全体主義へ向けての運動を推進してきた本当の刺激は、組織された資本家と組織された労働者という2つの巨大な特殊利益団体から、主として発生してきたものである。おそらくそれは、2つの最強グループが推進している諸政策が、同一の方向を目指しているという事実ゆえに、何にも増して大きな脅威であろう。」 p.261

→資本家は当然自分たちの地位を保証するために独占を望むが、それによって本来的には被害を受けているはずの労働者ですら、雇い主の支払い能力から独占を支持するという転倒した世論が見受けられる。

○しかしながら、独占体をさらに国家に移行させるという、マルクス的な主張には大いに疑問の余地がある。国家統制によるものよりも、まだ資本家による独占(民間のドク船体)の方が、競争と地位の流動性が保証されている以上マシである。

 

 

第十四章 物質的条件と道徳的理想 p.275-301

「われわれの世代は、良心や祖父母の世代に比べて、経済的な問題に対する様々な考え方に重きを置かないことを、得意に思う傾向がある。すなわち、「経済人の終わり」という考え方が、現代を支配する神話の一つになりそうな気配がある。」 p.276

→「終わり」というよりむしろ「経済嫌い」という性格が強く、特に「諸個人を超えた(市場の)諸力」に対して抗うことがこの風潮にはある。

○しかし、

「われわれの中の誰一人として十分に理解することができないより偉大な何事かを気付き挙げていくのを、われわれは毎日助けているのだ、という考え方を人々が受け入れてきたこそ、このように偉大な文明も初めて可能になったのである。」 p.279

→そもそもこうした「超個人的な市場の諸力」を合理的に理解することはまず不可能であり、だからといって諸力に身を任せる道を忌避すれば、あとは市場の超個人的制約から解放してくれると謳う者が、恣意的に振るう権力に身を任せる道を選ぶしかない。

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