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Kant,Immanuel 1978→2006 『啓蒙とは何か』

イマニュエル・カント 1784→2006 『啓蒙とは何か』

 

「啓蒙とは何か、それは人間がみずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。」p.10

→人に理性がないということではなくて、他人の指示を仰がなければ自身の理性を使う勇気が持てない。したがって、人は自らの責任で未成年状態にとどまっていることになる。

※超有名な未成年状態の議論。カントは「啓蒙の定義」に付言してこれも定義している。

 

「ほとんどの人間は、自然においてはすでに成年に達していて(自然による成年)、他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。また他方ではあつかましくも他人の後見人と僭称したがる人も後を絶たない。その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。」pp.10-11

→多くの人は理性を使わず、牧師、書物、医者(=他人の指示)に頼り、思考の必要をなくしている。また後見人を標榜する者によって、未成年状態からの脱却は、何か困難で危険であることのように吹き込まれてもいる。

〇こうした後見人による先入観は強力なもので、革命を起こして専制や独裁を転覆したとしても、本当の意味で公衆の考え方は革新することはできない。

 

「ところが公衆を啓蒙するには、自由がありさえすればよいのだ。しかも自由のうちでもっとも無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由さえあればよいのだ。」p.14 ※この理性の公的使用の議論も超有名。

→理性の私的な使用はどれだけ制約されても啓蒙に差支えはないが、公的使用は常に自由でなければならない。

「さて理性の公的な使用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として、読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。そして理性の私的な使用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。」p.15

→後者は公務員として人為的に意見を一致させ、多勢の目的を推進するためのものであり、その実現のために自己の理性使用は控えられる。対する前者は学者の資格において文章を発表し、本来の意味で公衆に語りかけるもので、こちらは議論が許される。

 

〇公的/私的使用を考察するために、以下の3つの場合を検討する。

①上官からの命令を受けた将校が、任務の是非を議論する。

→命令には服従せねばならないため、将校が学者として公衆に問いかけて、その判断が妨げられてしまうのは明らかに有害である。

 

②税金の支払い義務がある市民

→課税義務を一市民が知ったかぶりで非難するのは、多勢に対する反抗的な行為として解される。しかし学者の立場から、課税の是非を公衆に問いかけるのは正当である。

 

③教会の牧師

→牧師は自分の教区の信徒に講話を行う。その際に、経典の間違いや、改善する考えを提案するのはまったくの善意であり、良心に基づく。しかし教区の集まりはどこまでいっても内輪でしかなく、それがゆえに私的な使用にしか該当しない。ただし、一牧師が学者として世界に文章を発表する場合、公的な使用となる。

 

「もしも一つの世代の人々が集まって誓約し、次の世代の人々がきわめて貴重な認識を拡張し、誤謬をとりのぞき、さらに一般に啓蒙を推進することを禁じたとしたら、それは許されないことである。これは人間性にたいする犯罪とでも呼ぶべきものであろう。人間性の根本的な規定は、啓蒙を進めることにあるのである。」p.19

→どんな場で制定された宗教的制度であっても、すべての人の公的な表明を妨げ、疑念を抱かせないような内容のものは、人間の進歩の足を止める不毛で有害な遺産となる。したがって次の世代の人々は、こうした決議が何ら決定的な権限を持たない不当なものとして廃止することができる。

〇またこのことから国民がみずから決議して定められないものを、君主が国民のために決定することもできない。「君主が配慮すべきことは、すべての真の改革、また真のものであると考えられた改革が、市民的な秩序と共存できるようにすることだけである。」p.21

→啓蒙的な君主とは「宗教的な問題については、あらかじめなにも定めておかず、国民の完全な自由に委ねることを義務と考えると語っても、みずからの威厳が損ねられたとは感じない君主である。寛容という語は高慢なものだと感じて、みずからは使わないことにしている君主である。そして少なくとも統治者として、人類を未成年状態から解放し、良心にかかわる問題については、みずからの理性を行使する自由を各人にあたえ、そのことによって当世の人々からも後世の人々からも感謝される価値のある君主とみなされるような君主である。」p.23

 

〇本論文では主に宗教の領分に限定した啓蒙について俎上に載せてきた。

→科学・芸術の分野では、君主が後見人を標榜しないことに加えて、宗教では未成年状態が最も有害で、恥ずべきものであると考えられていることが理由。また法の議論においても、宗教の場合と同様に各人の理性の公的使用を促すことが、君主の役目となる。

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