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Dwarkin,ronald 1977→1986 『権利論』

『権利論』 1977→1986 R・ドゥウォーキン

 

◇第1章 ルールのモデルⅠ p.3~47

1,厄介な問題

・「法的義務」とはなにか?

→「法」により規定された禁止の体系である。

・唯名論者は、「法」や「法的義務」を恣意的な観念として退ける。

→対してオースティンやハートらの法実証主義は「法」や「法的義務」を「実体のあるもの」として想定する。

 

 

2,法実証主義

・法実証主義の主張は以下の三点から整理することが出来る。

(a)法とは直接的に事例に適用される「法準則」の総体のことである。

→「法準則」は正しく、一般に道徳的ルール=原理と区別されている(次節)

(b)法のすべて=法準則である

→ゆえに、法=法準則によって解決されない事例に直面したとき、裁定者の裁量に委ねられることになる(法の改正、創造など)

(c)ある人に法的義務があるとき、彼には法準則が適用されている。

・以下ではさらにオースティンとハートの主張を詳しく確認する。

 

[オースティン]

・法準則は当該社会の主権者によって規定され、法的義務は一つの強制力を伴うものとして行使される。

→①主権者の多元性(例えば国民主権を謳うアメリカならば誰か)

②法的義務における不当な権力の正当性(例えばギャングによる強制力の行使も法的義務になりえるか)

という二点に回答できないため、オースティンの実証主義は批判される

 

[ハート]

・ルールは以下の二つに区分される。

(ⅰ)一次的ルール……殺人、横領、窃盗の禁止などといった義務を課すルール―単に成員に「受容(accept)されている」ルール

(ⅱ)二次的ルール(「承認のルール」)……一次的ルールが誰によって構成されているかを規定するルール―成員から「妥当性(validly)を有する」と考えられているルール

→後者が存在しなければ法が存在することにならない

・主張の差異はともかくとして、オースティンとハートらの法実証主義は共に「b裁定者の裁量」を認めている。

 

 

3,法準則、原理、政策

・本書におけるオースティン=ハートら法実証主義への批判の核心は、彼らが「法準則/原理を区別できていない」ということに求められる。以下では法準則/原理/政策の差異を簡単に確認する。

・法準則……法のすべて

・原理……公正さや正義などといった道徳的ルール

・政策……ある社会における政治的-社会的-経済的目標

→法準則/政策の差異に関してはとりあえず留保し、当面は法実証主義における法準則/原理の差異に焦点が当てられる。

 

Ex)リッグズ 対 バーマー事件

[事例]「遺言状に名前が載っている相続人」がその遺言の作成者を殺害した(遺産相続を目的とした殺害)とき、相続はどうなるか。

[判決]法的に殺害者にも相続の権利が認められる(法準則)。しかし、不正による財産の獲得は不当であるため(原理)相続権は否定される

→法準則/原理はそれぞれ独立している

→上記の例から、

・原理……①法準則の事例への方向付け(曖昧な範囲設定)

     ②方向付けをするための特性=「重要性」を持つ

・法準則……①実際に事例を判断する(白黒つける)

      ②原理の重要性によって方向付けられる    という相違点を確認できる。

 

【メモ】ルーマンも法システムにおけるコードが「正義」と「法律と契約」の二つからなると主張している。前者が法に統一性を与えるのに対し、後者は合法/違法という二値コードに準拠して事例を裁定していく。この見解はドゥウォーキンによる原理/法準則の区別に親和的だといえるだろう。

 

 

4,原理と法概念

・原理が法準則の方向付けを行うのはよいとして、ではその所在はどこに求められるのか。

(a)法準則に内在するとする立場

(b)法準則に外在するとする立場   の二つが想定される。

→ハートらの法実証主義は(b)の立場をとるが、次節で確認されるように彼らが用いる「裁量」概念から、この立場をとることはできない。

 

 

5,裁量

・「裁量」という概念は一般に以下の三つの用法に区別される

①正確な情報を持っていない裁定者による判断のこと

→ある軍曹が部下を任命する際、どの部下が当該任務に適しているか知らない

②優劣が存在する裁定者による判断のこと

→二塁審判は二塁における判定において主審よりも優位である

・①と②は文脈依存的であり、ゆえに「弱い意味」での裁量である。

 

③正確な情報を持つ∧絶対的優位な裁定者による判断のこと

→¬(①∧②)=③、「強い意味」での裁量

・法実証主義者は、②を最高裁以上の法権威が存在しないことから退け/「法準則は外的原理によって方向付けられる」(前節b)と想定するため、①の立場をとれない

→ゆえに③の意味での裁量概念を採用する(実証主義者は③の「強い意味」から原理の外在性を主張する)

・以下では③を反証し、(b)の論駁が展開される/(a)「原理の内在性」の正当性が主張される

・③は、「裁定者が外的な原理を選択する際の、原理間の優位下位が存在しない事実」と「裁定者が外的な原理を選択する際の、正確な情報を持ち得ない事実」の二点から不当であり、ゆえに(b)の立場も不当である。

→裁量の「強い意味」は、実証主義者が「法=法準則」を何によっても変更されない絶対的規準として暗黙裡に想定している事実/よって法準則内部ではなく、法準則外部の原理によって裁量が決定されると想定している事実 に起因している

 

 

6,承認のルール

・裁量とは別個の問題系として、法実証主義は「承認のルール(ハート)」の議論においても、原理と法準則を混同している。

・ハートによれば二次的ルール(承認のルール)によって、一次的ルールに「妥当性」が与えられ、法的義務が生じることになる。

→しかし二次的ルールは法準則を承認するが、(外的な)原理にまでは及ばない/道徳的ルールとしての原理は承認の対象ではない

 

・ゆえに法実証主義者は

①「強い意味」の裁量を用いる限り(5節)、

②「承認のルール」を用いる限り(6節)、

(b)「法準則における原理の外在性」(法準則/原理の区別)を主張できない/(a)を「法準則における原理の内在性」(法準則=原理の混同)を認めざるを得ない

 

 

【批判とメモ】

・クソみたいに読みにくすぎワロタ。法哲学者ってみんなこんなんなの?すごくトリヴィアルな論証に鬼神の如くやる気出している感半端ないんだけど。

・つまり、法実証主義者は「原理の外在性」(bの立場)を主張するけど、「裁量」と「承認のルール」の議論では、「法準則=原理」(aの立場)と想定しちゃっているよね~(法準則/原理を区別できていないよね~)ってことでおkですね。

 

 

◇第2章~第4章

・ざっくり読んだけど、どう見ても5章まで政治哲学じゃなくて法哲学ですありがとうございます(しかもクソみたいに難解)。ので、2~4章はざっくりまとめる。ただ「なぜ2-4章でドゥウォーキンは法哲学の議論を展開する必要があったのか」ということを考えることは、彼の政治哲学を知る上で有益かもしれん。

 

・ドゥオーキンは1章で主張しているように、法実証主義への批判を通して、「原理/法(準則)」の区別を強調している。

→2章ではハートの「承認のルール」の拡大版である「社会的ルール」でさえもこの区別が徹底されていないとして、論駁されている。

・では「原理≠法準則」とするのはよいとして、原理とは一体なんなのだろうか。

→1章で定義されたように、原理とは「正義や公正さといった道徳的ルール」であった。そして、3章でドゥウォーキンは原理が究極的には「個人の権利の尊重」として記述されると主張する(「原理=正義=「個人の権利の尊重」)。

・さらに4章にて原理は、(多くの法哲学者の理解とは異なり)法準則ではなく憲法が扱う問題であると主張される。

・ここで初めて「個人の権利の尊重」としての正義原理が(法哲学ではなく)政治哲学の主題として問われることになる。それが5章以降のお話。

 

 

◇第5章 正義と権利 p.197~242

1節

・原初状態における契約には(現実のルールとは異なり)ルールに同意するための強制力が働いていない。

Ex)ポーカーの勝負

・AとBがポーカーで勝負しており、Aが有利な状況にある。

・このときBはジョーカーが一枚抜けていることに気付き、Aにゲームの中止を提案する。

→しかし「Aが中止に同意する」というBの想定は、Bの想定それ自体にしか根拠が求められるものであり、ゆえに実際のAに対して一切の強制力を及ぼすことはない(Aが同意するだろうという想定は無意味である)。

→「ある合意が利益をもたらす」という言明は、予期の時点では「先行的」利益として/予期が違背しなかったときに「現実的」利益として区別されなければならない。

→ロールズの契約論的論拠では、各人の「先行的」利益の保証が正義原理を正当化する論拠となっていたが、「無知のヴェール」下において各人は「先行的」利益について知りえないため、(ポーカーの例のように)合意に強制されることもない。

 

・ここまでの問題は、ロールズの「反省的均衡(reflective equilibrium)」概念を導入すれば解決されるかもしれない。

→ロールズによれば、各人の持つ政治的構想は「公正としての正義」との擦りあわせによって、最終的に均衡状態に到達する。

・しかし、反省的均衡は原初状態という特殊な状況下においてなされるものであり、ゆえに原初状態の一般性を正当化する必要がある。

→ロールズは、原初状態を概念装置としつつも、「他方で各人が有する直観的観念である」と記述している。しかし、直観的観念としての原初状態に関するロールズの解説は不十分であり、本章ではその再構成が行われることになる。

 

 

2節

・ロールズの契約論的論拠を精緻化すると、以下の三段階から構成されていると解釈することができる。

「A(反省的)均衡化の技術」、「B契約」、「C原初状態」

→Aから順に表層的-深層的の構造的関係性にあり、以下ではAから詳しく考察される。

 

A 均衡化の技術

・先述の通り、各人は反省的均衡の段階において、「正義に関する一般理論」(公正としての正義)と、個人的に有する「正義への直観」を照合し、反省する。

・ところで、「正義に関する一般的理論」は二つの異なる観点から想定することが可能で、この想定によって均衡化のモデルについての記述も異なることになる。

(a)自然的モデル

・「正義に関する一般理論」を、例えば物理法則のように客観的明証性のある真理として想定する。ゆえに各人の直観とは、こうしたアプリオリな正義感覚の断片として捉えられることになる。

(b)構成的モデル

・「正義に関する一般理論」を、客観的な存在とするのではなく、共同主観的な構成物と考える。ゆえに各人の直観とは公的な志向性によって「正義に関する一般理論」に到達する。

→往々にして、ロールズノ均衡化のモデルは「(a)自然的モデル」から解釈されてきた。しかしながら、各人の直観は常に否定の契機に晒されており、流動的である。つまり、直観とはアプリオリな正義の断片ではなく、公的な構成物として想定されており、ゆえに均衡化は「(b)構成的モデル」から解釈されなければならない。

 

 

B 契約

・ロールズの主張とは裏腹に、単に契約それ自体では強制力を持たないため、正義原理を正当化するための論拠になり得ない(ポーカーの例)。

→ゆえに契約は、「A均衡化の技術」と「C原初状態」を接続するための中間地点として解釈される。

・政治理論において、義務論の重点は以下の三つに区別される。

(a)目標

・ある特定の政治的行為(福祉の増大、効用の最大化、理想的人間像の完成など)を推奨し、その際に目的化されるもののこと。

→「目標」に重きを置く政治哲学は全体主義、卓越主義、完成主義的な性格を有しており、また功利主義もここに含まれる。

(b)権利

・ある「目標」を志向する政治的行為に参加しないことが認められる場合、各人は「権利」を有していることになる。

→ロールズのリベラリズムでは、各人は反省的均衡の段階において個人の直観から政治的行為(が準拠している正義原理)を否定することができる。ゆえに「権利」を擁する政治理論であるといえる。

(c)義務

・ある「目標」を持つ政治的行為に参加することが去勢される場合、各人は「義務」を有していることになる。

→「義務」に重きを置く政治理論では、諸個人が「目標」への参加を本質的に義務付けられていると想定するため、本質主義的である。

※目標/義務の差異について、前者が全体から個人を考えるのに対し、後者は個人から全体を考える点で異なっている(まあ一緒くたにして批判されているけど)

 

・先述の通りロールズ的リベラリズムは、個人に契約への拒否権を認めている点において、「権利」に重点を置く政治理論だった。

→逆を返すと、目標と義務に重きを置く政治理論は、A-(b)構成的モデルの公共性指向に反してしまうことになる(完成主義や全体主義は公的な議論を認めない)。

 

 

C 原初状態

・ロールズは義務-目標的政治理論から距離をおきつつ、他方で原初状態において以下の二つの自然的義務(道徳的能力)を想定している。

(ⅰ)平等……各人が互いに互いを顧慮しあうという互恵性に基づく平等。より抽象的意味での平等であり、「平等主義的土台」となりえる→正義感覚

(ⅱ)自由……各人が自己の人生の目的を各人によって修正できるという一般的意味での自由→自己目的修正能力

・これら二つの自然的義務によって社会契約は締結されることになる。

 

 

【批判とメモ】

※ちょっと頭おかしいレベルで議論が入り組んでいるので整理するよ。とりあえず本章でドゥウォーキンがやりたかったのは「契約論的論拠―公正としての正義」の精緻化だったらしい。

[C原初状態](理論の深層)

・ここで各人は「平等&自由」という二つの自然的義務(『再説』では「自由で平等な人格」として再定式化されていた)から社会的契約に向かう。

[B契約](理論の中間地点)

・各人は「目標」と「義務」に対して、拒否権を有しており、ゆえに「権利」が保護されている。

[A反省的均衡](理論の表層)

・各人は公共性の中で個人的な「正義についての構想」と「一般的な正義原理」を往来し吟味する。ゆえに構成的モデルの均衡が維持されることになる。

→「公正としての正義」が導き出される

 

・そんで批判としては、ノージックとサンデルが言っていたけど、「原初状態において各人に平等主義的性格を設定して、それで平等主義的正義が導き出されますよ」というのはトートロジーだよね。互恵性を大切にする人たちが集まったら、そら互恵性を重んじる原理が構成されるに決まってるがな。というか契約論的論拠では正義原理は絶対に正当化できないと思われる。

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