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Sacks,Harvey 1963→2013 「社会学的記述」

ハーヴェイ・サックス 1963→2013 『社会学的記述』

 

序文

 デュルケム/ウェーバーの方本論的著作を読む中で、思索したpreliminaryを報告するのが本稿の趣旨。あくまで骨子を示すだけ。

 

イントロダクション

「本稿でのわたしの関心は、現在の社会学を奇妙なものにすることだ。その主題(subject matter 註:「ある主題」くらいの訳がよい)に対して現在の社会学が採用している立場は、わたしにとってとても奇妙なものであるように思える。その一方、多くのその(社会学的)実践者にとってはとても自然なものであるようだ。そのため、社会学的装置(sociological apparatus)と社会学的主題(sociological subject matter)との関係を再構成する試みが必要だと思われる。」p.1

 

〇多くの社会学者が試みてきた「社会学を一つの科学と見なすこと」という関心に準拠することで、以下のような議論は可能となる。

「科学者としてわたしたちは、わたしたちの主題の文字通りの記述を産出しようとする。記述するために、わたしたちは言語を構築する。わたしたちの言語から始めるのは粗雑なやり方であろうが、一つの規則が常に留意されていなければならない。それは、わたしたちが主題として取り上げるものは、それが何であれ記述されなければならないという規則だ。」p.1

→記述がすでに完了していなければ、その記述装置の一部として利用することはできない。なおこの規則については、本稿で後に再訪することになる。

※例えば「プロテスタンティズムの倫理」を主題とする際、それがどのようなものか、あらかじめ記述できていなければならない。

 

〇諸個人の使用する言語/言語外行動との関係については多様な仮説がある。以下では、社会学において好まれているもの——「日常生活における個人は、ある程度合理的な諸理論に基づいて様々な行為する」を検討しよう。

→この場合、「言語——合理的な諸理論・規則」/「非言語——様々な行為・活動」という区別がなされている。そして日常的実践者は、ある「行為・活動(非言語)」を区分(segments)するために、「合理的な諸理論・規則(言語)」を用いて、続く「行為・活動」の区分を予測することができる。

 

「(人類学者とは対照的に)社会学者は典型的に、社会学者が研究しようと提案している対象者の自然言語を知っている。社会学者は、自然言語で表現されている規範のカテゴリー(工場の規則や法的規則などなんでも)を選ぶ。社会の成員として、社会学者は規則のことばが何を意味するか知っている。」p.2

→すなわち、社会学者は日常的実践者の「諸理論・規則(言語)」/「行為・活動(非言語)」の相関関係や、関係が起こる相対的頻度について「日常的実践者として」熟知している。そして往々にして、相関関係が崩れる場合——つまり「逸脱」を興味深いトピックとして俎上に載せ、分析する。

→しかしながら、こうした手続きはまさしく第1歩から、社会学の仕事を誤解していると言わざるを得ないだろう。

 

〇以下では社会学者は「主題とするものを、あらかじめ記述している必要がある」という前提条件に立った上で、「日常的実践者は社会生活において、合理的諸理論を有している」というお馴染みの命題をテストするための要素を考える。

①まず「言語で構成される諸理論・規則の部分」/「非言語で構成される行為・活動の部分」をまず区別し、記述する。

 

②「言語の区分」が、「行為の区分」の記述を構成するために用いる、ある規準を考える。ここでは「認識(recognition)」を採用する。

 

③「言語の区分」と「行為の区分」の記述を整列(align)させ、前者との対応関係から後者を人々が何であると認識するか、予測する。

 

④もし日常的実践者が、両区分をある程度の規則性で一致させて認識しているのであれば、「日常的実践者は社会生活において、合理的諸理論を有している」という仮説は正しいと結論付けられる。

 

〇さらにここで、「言語」と「行為」の間に、より限定された関係が認められれば、先の仮説の強力な別バージョンをテストすることができるようになる。

[a]すでに記述され、かつある種の関係が認められている「言語の区分」と「行為の区分」を選択する。ここで「言語の区分」を捉えるための規準は、「『行為の区分』のある一部から、他の『行為の区分』を予測するための記述」が選択される。

 

[b]日常的実践者の「行為の区分」の記述を手段とし、彼が彼の「行為の区分」をなんと認識するか予測する。

 

[c]上記の段で(「行為の区分」に対する、日常的実践者による認識の)予測が正しいことが判明すれば、「言語の区分」に対する記述を手掛かりとして、他の「行為の区分」が発生した際、日常的実践者はどのような「言語の区分」を産出するか予測する。社会学者は、対象者(subject)に推測(agues)を求める。

 

[d]問題の行為が発生した際、対象者が推測した行動と認識するかどうか予測する。

 

[e]社会学者による「日常的実践者が推測した行動」に対する予測が正しいのであれば、「日常的実践者は社会生活において、合理的諸理論を有している」という仮説を正しいということができるだろう。

→社会学者は、日常的実践者の推測(guesses)について語ることから、予測(predication)について語ることへと優雅に移行する。

 

〇ここで提示した前者と後者のテストについては、以下の3点が言える。

①後者のテストは社会学者によって採用されたことはない。

②前者のテストは典型的な社会学者の手続きである。

③後者のテストは、多くの社会学者が奇妙だと感じるものだろう。

→しかしながら、実は前者のテストの方が奇妙なものである。次節では、社会学者が現在ある主題に対して採用している立場を明らかにするために「代表的隠喩(representative metaphor)」を提示する。

 

※近代稀に見るクソ訳。3ページで骨折れ過ぎ。整理すると、

Ⅰ:サックスは①「社会学を一つの科学と見なすこと」と、それに伴う社会学者の好む仮説②「日常的実践者は、社会生活上において合理的諸理論を持っている」を所与とする。

Ⅱ:伝統的な社会学者は②の仮説を、「日常的実践者は「言語の区分」と「行為の区分」を認識上一致させている」ことを明らかにすることで、立証する。

Ⅲ:サックスは②の仮説を、「日常的実践者は「行為の区分」から他の「行為の区分」を推測ないし予測している」こと、「その際に日常的実践者はどのような「言語の区分」の記述を行うか」を明らかにすることで、立証する。

→現前に表出した「行為の区分」の繋がりから/背後にあるとされる「言語の区分」を直截的には扱わずに、分析を展開するのがEMっぽさみたいな議論だよね。たぶん。

 

 

〇ある産業科学博覧会で、「特定の動作を行う」「遂行中の特定の動作について音声で述べる」という2つの部分から構成される「コメンテーター機械」が展示されていると考える。

→この機械に対して4パターンの遭遇者が想定されうる。

①素人……たまたま博覧会を訪れた地元の人のように動作部分/言う部分が関係しているという前提がわかる者。4類型におけるプロトタイプ。

 

②よそ者(stranger)……外国のエンジニアのように、動作部分はわかるが/言う部分はわからない遭遇者。もしかしたら彼は機械が動作を音声に出すことで、言葉を教える(直示的教示をする)機械と認識するかもしれない。

 

③実践理論家……動作部分/言う部分の両者ともに理解している遭遇者。彼によってのみ、動作部分/言う部分の対応関係が正しいか否か判断できる。彼は動作がうまく働いていないのであれば、「コメンテーター機械の貧弱バージョン」と見なすこともできるし、言う部分が「ただのスケッチ」に過ぎないとアイロニカルな評価を下すこともできる。

→2つの部分を意味付けし、何らかの調停を行う理論を構築できる立場である。調停のためには「[a]機械が発している言語を機械と共通して知っていることと、[b]機械が行っていることをなんらかの言語において知っていること」p.4の2点が不可欠である。

→したがって「素人」と「よそ者エンジニア」も自身の不利を克服すれば、実践理論家になることは可能である。

 

④ナイーブな科学者……動作部分/言う部分ともにわからないという遭遇者。上述の遭遇者たちは態度変更によってこの視角を獲得できる。利点がないように思えるが、新たな社会的行動を調査しようと望むとき、この態度をとる必要がある。

→他の遭遇者による「コメンテーター機械」の報告を聞いたとき、彼は「コメンテーター機械」に対する調査を簡単にするためだけに構築された対象を耳にしたに過ぎない。

 

 

「この隠喩はさまざまな視角と対象との出会いについて述べるものだ。これら視覚に共通するひとつの特性は、対象を理解するという関心を持つと表明していることだ。対象を理解することのなかで、それぞれの視角は、対象を理解することを構成する問題を提起し、その解決策として対象の「記述」を産出すると言うことができるかもしれない。」p.5

→本論の課題は、「記述」ないしは提案された記述の適切性の規準が多様であることを所与とするとき、[a]現在の社会学はどのような基準を採用しているのか、[b]社会生活が社会学の主題を構成するとするとき、社会学はどのような基準を採用すべきなのだろうかという2つの問いに応えることにある。

〇また上述の課題を踏まえた上で結論を先取りすると、社会学の実践とは「たとえ、人びとが社会的世界の記述を産出すると言うことができるとしても、社会学の課題はそれらを明瞭化することでも、それらを記録に書き留めることでも、それらを批判することでもなく、それらを記述することである。」p.5

〇先の最初2つの遭遇者(素人とよそ者)と第3の遭遇者(実践理論家)の差異と共通点について考えてみよう。以下の通り。

①両者は「コメンテーター機械」の2つの部分の調停を行う。

②両者は自然言語から調停を始めるばかりか、「機械」の自然言語を共有し、利用する。

③常識的視角の所有者にとっては「言う部分」と「動作の部分」の背景を把握することで、予期を可能とすることが、本質的な課題となる。

 

〇また差異は以下のようになる。

④前2つの遭遇者と、実践理論家の差異は「機械」が一つの活動が最後まで行くと、最初の活動に戻るというサイクルを構成していることに求められる。

→常識的視角の出会いはサイクルのある期間が記述として成立する場合、「十分に良い」ものであると言える。よその者も同様で、素人との差異は単に出会いについての証言の独自性が異なるだけである/対する社会学者は活動の記述の科学性を保証しようと、サイクルを観察する同僚による記述ないし、使用されうる記述を書こうと試みる。

 

⑤理解については、常識的視角/社会学者の両視角によって、尋問者と主題(object)の間に「質問に対する回答が、質問に対する回答を構成する共通の自然言語がある質問」を見いだされることで達成される。

→自然言語の二重特性……質問の自然言語はそれを遂行する尋問者のみならず、対象(object)によっても理解されている必要がある。

⑥社会学者とその他の遭遇者のトークの差異は、前者が「発見」した方法論的問題に前者の関心が求められるという点にある。

→この問題を「エトセトラ問題」と名付ける。

〇エトセトラ問題……社会学者がある対象を調査する際、正確な記述を極力志向する必要がある一方で、その記述が無限に拡張される場合、当該の記述はいかにして正確性を保証されるのだろうか。どのような記述であっても、全て書ききれるわけではないので、最後には「などなど(etcetera)」と締めくくる必要がある。

→またこの方法論的問題を指摘することで、素描したいのは以下の点。

[a] 社会学と常識的トークの差異は、(その記述の仕方にではなく)社会学者特有のエトセトラ問題に対する関心に求められる。

[b] 社会学者間の違いとは、エトセトラ問題に対する解決策の違いに他ならない。

[c] 社会学と他の科学の違いは、トピックの違いだけではない。

→次節で仔細な検討を行う。

 

「現在の社会学は、「ナイーブな科学者」にとっては奇妙なものにうつるだろう。それは現在の社会学が調停活動に従事するからではなく、調停活動が社会学自身の問題を解決する記述を生み出すと想定しているからだ。」p.6

「調停活動はその問題を解決する記述を産出するかもしれず、調停活動は社会学者にとってある効用があるかもしれない一方、もしそれが適切に着手されるならば、わたしのイントロダクションで素描された第二の手続きの線に沿って進行するだろう。」 同

→後者は実は誤り。これについても後述。

 

 

Ⅲ エトセトラ問題再考

【A対応の問題】

〇社会学は社会生活を記述する。その際に記述と現象の一致の度合いによって、記述の正確性は保証されることになる。そこでエトセトラ問題を受容することは記述の他に、減少と記述を調停するなんらかの付録を産出する必要がある。

→結局のところ、記述/現象の調停の正確性を認めてくれるのは、社会学者の仲間集団に過ぎず、彼らの満足が(調査をした)彼自身の満足になるのである。

〇さらにエトセトラ問題の正確さが同僚による満足の上に立脚しているのであれば、研究累積によって、より正しい帰結が導出されるという想定も疑ってかかる必要性が生じるだろう。

 

【B一般化あるいは抽象化の問題】

〇社会に対する記述を調停してくれる基準がないということは、逆を返すと記述のエトセトラがどのようなものであれ、現象を抽象化・一般化しているとも考えられる。

→数学的な意味での抽象化は一度それがなされると、その対象と同じものを繰り返し捕捉することができる/他方で社会学における抽象化はそうした再捕捉を許してはくれない。

→エトセトラ問題の意味するところは、特定対象にそなわった特性の不確定性集合を無視することに他ならない。

〇また抽象化の問題から導出される帰結として、

①社会科学の抽象化は(数学とは異なり)対象の普遍性を保持する画策としては機能しない。

 

②普遍性を保持しえない以上、抽象化によって予測することも不可能である。

「(理論などの)一般化記述を書くことについての不愉快な帰結は、一般的な対象の特定対象をひとは考えるということだ。そこで世界のどんな対象も「不完全(imperfect)」として扱われる。例えば、ある行動が理性的と記述される行動と合致しないとき、対象は「部分的に非理性的」だとして語られる。人々が理性的でないと語ることには意味がある場合があるが、人々の行動が理想的な理性的人間に期待される行動に合致しないからといって、彼らが非理性的であることの証拠にはならない。」p.10

→例えば合理的選択理論が扱うような、純粋経済人のモデルに沿わないからといって、彼が非合理的であるとはいえない。むしろ記述の不十分さが明らかになっただけである。

 

 

結論

「本論はDurkheimの『自殺論』と、Weberの方法論的著作にまで遡ることができる、社会学が取ってきた本心に関するものだ。その決定的な特性は、社会学が主題として扱わなければならない社会生活の特性としてではなく、常識カテゴリを社会学の資源として受容することだ。」p.10

→この特性を社会学が自覚することで、

①Durkheimとその追随者の方針、常識カテゴリによって分類されていると想定される現象の諸変異を説明すること、

②Weberとその追随者の方針、すなわちエトセトラ問題を前提としつつ一般化された記述と実践的な有意味さを志向すること 

は目的となり、また両者の方針に従うことも容易となるだろう。

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