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Becker,Howard 1963→1978 『アウトサイダーズ―ラベリング理論とはなにか』

ハワード・ベッカー 1963→1978 『アウトサイダーズ―ラベリング理論とはなにか』

 

 ベッカーはシカゴ学派第4世代を代表する社会学者の一人で、同じく第4世代に数えられるアーヴィング・ゴフマンと双璧をなす存在だ。彼は社会学者である傍ら、プロのジャズ・ピアニストとしても活動しており、本書や“Art World”といった著作では、そうした彼の文化的な才覚が如何なく発揮されている。

 当時のシカゴ学派における社会学は、シカゴという都市を舞台に、従来的に社会学が扱うに及ばないとされていた下位の社会集団、すなわち(原義での)サブカルチャーに対して、質的研究を行うことで注目を集めていた。その際、理論枠組みとして参照されたのがベッカーやゴフマンらの一つ前の世代であるシカゴ学派の社会学者、ハーバード・ブルーマーによって定式化された「シンボリック相互作用論(Symbolic Interactionism)」である。SIの詳細な解説については本題から逸れるためここではしないが、ベッカーもゴフマンも、ひいては現在においてむしろ主流となったエスノグラフィーも、元来こうした質的研究がSIによって可能となった研究手法であることを考慮すれば、ブルーマーの後続に位置づけられると言えるだろう。

 

 さて本題の『アウトサイダーズ』であるが、冒頭のところでベッカーは「ラベリング理論」という理論枠組みを提示している。ふだん我々は「逸脱」を検討する際、固定的な規範をまず想定し、そこからはみ出ることによって文字通り「逸脱」という事態が生じると考えている。しかしながら「ラベリング理論」に従うと、こうしたスタティックな見解は妥当ではなく、むしろより流動的な相互行為の中で、「あいつは逸脱をした」というラベリングを行うことによって、事態として生じていることになる。

 

われわれが逸脱のレッテルを貼られる行動をその関心対象として扱う際に留意すべき点は、当該行為が逸脱行為としてカテゴリー化しうるか否かは、他者の反応が起こった後でなければ決定しえないということである。逸脱とは、行動それ自体に属する性質ではなく、ある行為の当事者とそれに反応する人びととのあいだの相互行為に属する性質なのである。(pp.23-24)

 

 つまるところ、ベッカーの主張は「固定的な価値尺度を想定しない」という前提に基づいていると言えるのであるが、これは当時のエスノグラフィー的研究において強調されていた見解である。というのも、当時の社会学においてパーソンズやマートンといった構造-機能主義の潮流が一大パラダイムを形成しており(特にマートンはベッカー同様、逸脱を研究したことで知られている)、機能主義における固定的構造の自明視に対して、エスノグラファーの多くはアンチの立場をとっていたためである。俗に言う「マクロ-ミクロ論争」の一端である。この点も、ベッカーやゴフマンらの著作を読解する際には意識しておくとよい点だろう。

 ともかくベッカーも例に漏れず大きな構造を前提化するのではなく、ミクロなレベルの相互行為に着目していったのであり、そうした理論的視座が本書の冒頭の記述から垣間見えるのであるが、『アウトサイダーズ』の読解における問題はここからである。本書は全部で9章から構成されているのであるが、「ラベリング理論」という単語が登場するのがなんと理論枠組みを提示する1章だけなのである。他の章は延々と下位集団のフィールドノーツが掲載されているだけであり、分析というよりも「生のデータ」に近い印象を受ける。こうした奇妙な構成をどう解釈すべきか、ということは各人に委ねられるだろうが、私には1章で紹介された「ラベリング理論」の視座を用いて、他の章を読者が解釈を試みるようベッカーが勧めているように読める。これは一般的な読解ではないということは承知の上だが(何よりベッカーは読者に丸投げしていることになるのであるから)、そのように読むことで、章を追うごとにラベリング理論の輪郭が徐々に明瞭になってきて面白い。

 

例えばマリファナ吸引者に関するフィールドノーツでは、初心者が熟練の吸引者に誘われ、マリファナ吸引という体験に関するラベリングを改めていく過程が緻密に記述されている。それによれば初心者は最初、熟練者に言われるがまま手を出し、吸引によって引き起こされる不快感を露わにするのであるが、その感覚こそマリファナの快感であると熟練者に言われることによって、徐々に経験を再定式化していく。これは自己に「逸脱」のラベリングを貼る一方で、マリファナ吸引という行為それ自体に対するラベリングを改めていく過程であるといえよう。本書には他にもダンス・ミュージシャンの事例が紹介されており、冒頭に書いたようにベッカーの文化的能力の高さもうかがい知ることができるだろう。

 

本書で提示された「ラベリング理論」は一躍注目を集め、スペクター&キツセによる「異議申し立ての社会学」に部分的に継承されていったり、ウールガー&ポーラッチによる「オントロジカル・ゲリマンダリング」問題の俎上に載せられたりと、後のところでも議論されることは多かった。特にR・D・レインらが牽引し、最終的に当時の社会科学全体を巻き込んだ論争に発展した「反精神医学運動」において、ベッカーの「ラベリング理論」は精神病の実在性に懐疑的な論者によって、積極的に援用されていったことでも知られている。

例えばローゼンハンは、数人の健常者に精神病の立ち振る舞いを真似させ、精神科医の診断を受けさせることによって、結果的に8人の健常者を精神病棟に送り込むことに成功した。現在からすると研究倫理的にありえない実験ではあるのだが、それがゆえに興味深い考察が本研究ではされている。ひとたび受診によって精神病の「ラベリング」がされてしまうと、普通の立ち振る舞いを院内でしても(例えば「研究のためのメモ」)、それが何らかの病理的と関連付けられて解釈されてしまうという(先の例ならば「無我夢中で紙に書きなぐっている」と)。すなわち、ローゼンハンの実験からは、一度された「ラベリング」が「剥がれにくい」という事実が明らかになっている。またメカニックやダニエルズらの「反精神医学」的な研究功績においても、こうした「ラベリング理論」的考察が行われている。

 

すでに見たとおり、ベッカーの構成主義的眼差しは、機能主義へのアンチテーゼが意図されているとはいえ、比較的穏当であり、社会的な構成物(彼の場合は「逸脱」)の存在論的実在性についての懐疑は行っていない。一方で、その後続の研究者たちの主張はいささかラディカルであり、「精神病」というカテゴリーが「ラベリング」に過ぎないため、それは実在しえない虚構に過ぎないと結論付けている(「反精神医学」の論者の多くがこうした傾向にあるが)。しかしこうした主張は素直に首肯できるものではないだろう。彼らは明らかに存在論的なレベルを混同しており、すなわち唯物論的実在/観念論実在が区別できていない。確かに「精神病」が脳内の物質や血流などによって解明できる病理ではないため、客観的物象を伴い顕在化する他の多くの病気とは一線を画しており、ゆえに唯物論的は存在しないと言えるかもしれない。しかしながら、かといって観念論的には確かに存在しており、それによって苦しめられている患者もいれば、精神病に独特の立ち振る舞いというものも存在している。医者の側はただ、そうした立ち振る舞いを経験的に判断し、「精神病」というカテゴリーを帰属しているだけである。これはちょうど「頭がいい」ということが、客観的物象を有して存在しないということに似ている。「精神病」も「頭がいい」ことも、立ち振る舞いによって他者に帰属されるカテゴリーであるからだ。

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