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Sen,Amartya 1992 『不平等の再検討』

『不平等の再検討―潜在能力と自由』 1992→1999  A・セン

 

序論 p.1~16

・政治理論は本質的に平等を志向する。

→ノージックのリバタリアニズムは一般に反平等主義的理論とされてきたが、各人の経済成功の真価の「平等な」享受の理論であるとすることができる。

・よって問題は諸理論において指向されているのが「何の平等か」ということであり、多様な平等の「焦点関数」と、その関数の組み合わせである「空間」が意識される必要がある。

 

・各章の概観は以下の通りである。

[第1章]規範理論において基礎的平等が志向されている事実、およびその理由の解明。

[第2章]達成された成果/達成するための自由の区別

[第3章]後者に焦点をあてられること、及びその擁護

[第4章]両者の間にある問題の確認

→機能を達成するための潜在能力(capability)によって、平等や効率性を分析する試みは従来的ないかなる理論とも異なる。

[第5章]実際に従来の理論(ロールズ「公正としての正義」)と、潜在能力の理論の差異の検討

[第6章]-[第7章]潜在的能力の分析と、経済的不平等(変数=所得)の評価の関係性

[第8章]潜在的能力の分析と、経済以外の不平等(変数=ジェンダー、階級など)の評価の関係性

 

 

第1章 何の平等か p.17~46

1,なぜ平等か、何の平等か

・一般に現代の政治哲学における課題は「(ⅰ)なぜ平等であるべきか」/「(ⅱ)何の平等が志向されるべきか」という2つの問いに答えることである。

→(ⅱ)の解明は(ⅰ)の解明にとって必要条件であるが、(ⅰ)の解明は(ⅱ)の解明にとって十分条件である(ⅰよりⅱの方がより根本的な問いである)。ゆえに本書は(ⅱ)の問い、つまり平等の変数が多様であるということに注目する。

 

・ロールズやドゥウォーキンによるリベラリズムの理論が平等主義的とされるのは明らかだが、ノージックによるリバタリアニズムは「経済成功の平等な真価」、功利主義は「最大多数の最大幸福の平等」をそれぞれ志向する点において(一般的見解とは裏腹に)やはり平等の理論であるといえるだろう。

 

 

2,公平さと平等

・ではなぜ、規範理論にはこうした平等主義的な性格が認められるのであろうか。

→倫理的命題は、カントの定言命法的性格(誰もが正当だと思う論拠)を有している必要があり、平等はその論拠となりえるため。

・また特定の平等を支持するということは、特定の不平等を裏で容認することとも同義である。例えば、リベラリズム的な配分原理は各人の平等な顧慮を支持する他方で、リバタリアニズムの自己所有権的な不平等を肯定している。

 

 

3,人間の多様性と基礎的平等

・人は多様であり、それぞれ価値を認める財は異なっている。

→よって平等/不平等を評価するための焦点関数も多様である。

・ゆえに「変数Aよりも変数Bがより重要な平等である」ということを論証するためには、変数Bの「基礎」がより妥当であるということが示されなければならない。

 

 

4,平等 対 自由?

・従来的に平等と自由は対立項として扱われてきた。

→例えばノージックによるリバタリアニズムは、経済的自由の理論であり、反平等主義的性格を有していると考えられてきた。

・しかし、これまで何度も確認したように、ノージックは経済的自由の「平等」を説いているのであって、単にリベラルの「平等」と相容れないだけでしかない。

→つまり、自由とは平等の変数の一つに過ぎない。

 

 

5,複数性と平等の「空虚さ」

・平等の変数がこのように多様であるのは、平等という概念が本質的に意味内容を持たない「空虚な」ものだからだろうか?

→このことは以下の3点から反証される。

①特定の平等の変数を評価することは、一般的条件とすることができる

→つまり比較可能であり、過剰な相対化はされない(空虚ではない)

②ひとたび、文脈を固定してしまえば、平等は厳密な要件となる。

→平等はコンテクストに依存的である。

③平等の多様性は価値の多様性によるものである。

→つまりあらゆる目的志向的な概念(例えば効率性)はそもそも多様になるのであって、平等に限った話ではない。

 

 

6,手段と目的

・政治哲学における規範理論は、このように他の平等の基礎をなす基本的平等の達成を目指す(【メモ】ドゥウォーキン的にいえば「平等主義的土台」の完成を目指す)

→例えばロールズは「基本財(primal goods)」という概念を導入することで、配分される財の変数の多様性に対応しようとした。

・しかし、ロールズの「公正としての正義」の議論においては、「配分のされ方」(例えば妊婦と成人男性に同程度の基本財が分配されても平等は達成されないだろう)と「個人の目的」(各人によって基本財を何に使うかは異なる)といった変数には対応できていない。

 

 

7,所得分配、福祉、自由

・「個人の目的」は人間の多様性(年齢、性別、体格、知力、健康など)に依存的である。

→しかし、これらを不平等の評価枠組みに導入するのは困難であり、ゆえに往々にして配分的正義の理論は所得にしか注目してこなかった。

・確かに所得は多くの目的を達成するための手段になりえる点で基本的平等の変数であるように思えるが、

①その他にも多くの手段が存在すること

②個人によって手段-目的の関係が多様であること

という2点から、やはり基本的平等の変数にはなりえないといえる。

 

第2章 自由、成果、資源 p.47~58

1,自由と選択

・ある不平等は、以下の2つに区別される。

①達成された「成果」の不平等―効用、QOL、豊かさ など

②それを達成するための「自由」の不平等

→これらは常に一致するとは限らない。

・功利主義はこのうち①の「成果」の不平等の解消にしか努めてこなかった。

→これに対してロールズは基本善、ドゥウォーキンは資源という「自由」を保障するための財の分配をそれぞれ訴えることで、②の解消に焦点を当てた。

・つまり、「成果」の不平等を解消するためには、その「自由」を保障してくれる「資源」の不平等が解消されなければならない。

 

 

2,実質所得、機会、選択

・実質所得評価もまた以下の2つに区分される。

①「選択の視点」―獲得された財の組み合わせの比較による評価(財の組み合わせxは財の組み合わせyより望ましいだろうか)

②「オプションの視点」―潜在的に購入される可能性にある財の組み合わせ集合の比較による評価(予算集合Aは予算集合Bより望ましいだろうか)

→従来的に両者は混同されてきたが、前者が単に「成果」の比較であるのに対し、後者は「自由」の比較も行うことができる点で異なっている。

 

 

3,資源とは区別された自由

・「自由」はさらに、その手段と程度に区別される必要がある。

→「自由の手段」とはそれを実現するために必要な「資源」のことであり/「自由の程度」とは自由それ自体のことである。

・これは先の「オプションの視点」における「予算集合を決めるための資源」/「予算集合自体」という区別に準拠している(前者が手段/後者が程度)

→この区別が重要になってくるのは、「個人間の資源の利用能力の多様性」(1章7節)を加味するときである。「資源」を活用する能力は個々人で異なるため、それが平等に分配されたとしても、「自由」の平等が達成されたことにはならない。

 

第3章 機能と潜在能力 p.59~84

1,潜在能力の集合

・機能―生活を構成する要素(状態や行為)であり、福祉の評価とは機能の評価である。

・潜在能力―実現可能な機能の組み合わせ。ゆえに潜在能力の集合とは生活の潜在的選択可能性の「自由」である。

 

・福祉は以下の2つの理由から潜在能力によって考えられなければならない。

①「達成された機能」が「達成された福祉」を構成していると考えると、潜在能力は「福祉を達成するための自由」を構成している。

→ゆえに「善き社会」とは福祉のための自由が保障されている=より多様な選択可能性が保障されている社会である。

②「達成された機能」(「成果」)は潜在能力(「自由」)の可能性がより幅広く保障されていた方が実現されやすい。ゆえに福祉によって潜在能力が保証されるべきである。

 

・またロールズの「基本財」やドゥウォーキンの「資源」は自由のための「手段」であったのに対し/潜在能力とは福祉の構成要素(機能)を追求する自由の「程度」である。

 

 

2,価値対象と評価空間

・評価を行う際には、価値対象に優劣順序(dominant ranking)をつけていかなければならない。

→潜在能力アプローチでは、機能や潜在能力を評価空間とし、福祉の評価を行う。

 

 

3,選択とウェイト付け

・評価空間において、機能-潜在能力に対する序列付けは極めて困難なものである。

→「洗剤Aではなく洗剤Bを使う」といった機能-潜在能力はあまり重要でないかもしれず、こうしたウェイトの軽い機能-潜在能力を全て網羅すると無数の機能-潜在能力をリスト化することになるためである。

・ただ潜在能力アプローチは別にこうしたあらゆる機能-潜在能力のリスト化が必要性を訴えるものではなく、単に機能-潜在能力が福祉の基準であるべきと主張するものであるため、さしあたってこの問題は無視されてよい。

 

 

4,不完全性―原理的なものと実際的なもの

・全ての機能-潜在能力の序列化は不可能であるが、代わりに潜在能力アプローチは部分評価を用いる。

→価値対象a,b,c,dは全ての機能-潜在能力ではないが、この4つの価値対象間の序列付けをすれば、少なくともa,b,c,d間での評価問題は解決されることになる。

・しかし、以下で示されるよう機能-潜在能力の価値はそれぞれ単線的なものではない。

ex)aの自由の保障は貧困層にとってbより価値があるかもしれないが、レズビアンにとってはbの保障に価値があり、aに価値がないかもしれない

→このときa,b,c,dの序列付けは複線的グラフを構成する

 

・しかしながら、こうした価値対象の複雑性は以下の2点を示唆する。

①「不完全性の基本的根拠」

・まず価値のある機能-潜在能力が一義的に規定できないという事実は、福祉や不平等といった概念が曖昧であるということの証左である。

②「不完全性の現実的理由」

・先の例のように価値対象の間に部分的な序列付けが不可能であっても、別の価値対象間(例えばc-d間)では合意形成が可能な序列付けができるかもしれない。であるならば、こうした合意が可能な機能-潜在能力から保障していけば実践的にはよいだろう。

 

 

5,潜在能力か機能か?

・本章1-2節で述べたれたとおり、「達成された機能」―「達成された福祉」に関連付けられる/潜在能力―「福祉を達成するための自由」に関連付けられる点で両者は異なっている。

→しかしながら福祉の評価空間において、機能が空間内のある一点であるのに対し、洗剤機能はその集合であるだけであるため、評価に際して両者は混同されても構わない。

・むしろ機能は単一的にでも顕在化するが/潜在機能は集合的であっても文字通り潜在的であるため、観察可能なのは前者であることになり、ゆえに潜在能力集合の導出が困難であるときは福祉の評価が観察された機能によってなされる場合も往々にしてある(つまりこの場合は「達成するための自由」ではなく「達成された成果」に目を向けることになる)。

 

 

6,効用 対 潜在能力

・効用(功利主義)も潜在能力(潜在能力アプローチ)も共に機能を心理的状態に還元しない点で共通している。

→しかし、功利主義が機能(つまり効用)を幸福や快楽に限定してしまうのに対し/潜在能力アプローチでは機能を機能のまま評価するため功利主義のように価値対象が一元化されない。

→功利主義による機能の限定は「固定化してしまった価値」の問題を解決できない点で不公正である。例えば貧困層の人の価値対象となる機能は「雨風しのげる」ことのように矮小化してしまいがちである。このとき、功利主義のように機能を幸福に限定してしまったとしたら、貧困層に対する顧慮は矮小化した問題を解決するに完結することになる。

 

 

【メモと批判】

・5節あかんやろ。潜在能力アプローチは従来のように「達成された成果」ではなくて「達成するための自由」の方に注目します!って言っておいて、現実的には潜在能力の導出が困難だから機能のほうに注目する場合もありますよってエスケープ出すのは本質を損なっているやん(「成果」に注目しているやん)。

→だったらロールズやドゥウォーキンの「達成するための自由の手段」アプローチの方が現実的だろ。

 

・あと6節で出てきた功利主義っていうのは快楽(ベンサム)と幸福(ミル)を効用と定義する前期近代的なやつなの?選好を効用-機能とするタイプの功利主義ならばこの問いは解決できるんでね?

 

 

第4章 自由、エージェンシーおよび福祉 p.85~113

1,福祉とエージェンシー

・人には「福祉としての側面」と「エージェンシーとしての側面」がある。

「福祉としての側面」―ある個人に達成された福祉の「成果」/達成するための「自由」のこと。前章の通り、この評価空間は機能-潜在能力だった。

「エージェンシーとしての側面」―ある個人の目的達成の「成果」/達成するための「自由」のこと。

→両者は相互依存的であり、区別されつつも密接に関わりあっている。

 

 

2,エージェンシー、手段および実現

・エージェンシーの分析はさらに以下の2点に区別できる。

①ある人が価値を認め、達成したいと思うことが実現されること(他動詞)

②それがその人の努力によって実現すること(自動詞)―当該者はエージェントとしての成功をつかんだことになる

→後者の場合では、ある人がいかに成功をコントロールできたかが問題化されている。

 

 

3,自由と福祉は対立するか

・個人の自由を拡大すればするほど福祉の評価は上がるという主張がある。

→しかし、選択可能性が広いほど、個人はどの選択肢を選ぶか頭を悩ませ、困惑するかもしれないためこの主張は誤りである。

・この問題を考えるにあたって以下の2つの問いが提起される。

①自由(「福祉」/「エージェンシー」問わず)は福祉と対立するものだろうか(本節で考察される)

②先のように自由度の増加が、逆説的に個人を困惑させることがありえるのだろうか(次節で考察される)

 

・本章での「福祉の自由」/「エージェンシーの自由」の区別は①の問いを考察する際に、重要になってくる。

・自由=「エージェンシーの自由」でありかつ「エージェンシーの自由」が優先されるとき、「福祉の成果」だけでなく、「福祉の自由」までも低下する場合が想定できる。

・逆に自由=「福祉の自由」でありかつ「福祉の自由」が優先されるとき、「福祉の成果」のみが低下する場合を想定できる。

→後者の場合、「福祉の自由」の保障によって、個人の目標が福祉以外を指向するかもしれないからである。

・ゆえに、「エージェンシーの自由」/「福祉の自由」どちらの自由の優先であっても、それが「福祉の成果」と反比例する(対立する)場合はありえるのである。

 

 

4,自由と不利な選択

・では次に「②自由の拡大と個人の混乱」の考察に移る。

→確かに自由度が高ければ個人の選択肢が多く保障されることになるため、混乱や困惑を招くことになるかもしれず、その際に福祉は逆機能をもたらすことになるだろう。

・しかしこの議論は自由を十分に特定していない。

→例えばいかに自由が拡大されたとしても、自ら「飢えに苦しむ自由」を選択する者はいないだろう。つまり自由の拡大によっても不利な選択はあらかじめ除外されているため、個人を混乱させる選択肢とはなりえない。

 

 

5,コントロールと有効な自由

・前節の問いは自由とコントロールという区別に関わる。

→自由が保障されているということ=コントロールの権限を有していることではない。

・例えば、感染病や伝染病に対して、人はそれをコントロールする権限を有していないし、現実的にコントロールすることはできない。しかし、そうであっても「有効な自由」(ワクチンを打ったり、予防接種をしたり)は保障されており、ゆえにコントロールの自由/有効な自由がそれぞれ別個の問題系であるということがわかる。

 

・不平等や福祉の評価は、仮想的選択/実際の結果の両方からなされなければならない。

→変数があまりに多いためどれが仮想的選択なのかを判断するのは容易ではないが、例えば先のような「伝染病や感染病を避ける」といった選択(個人のコントロール外にある選択肢)は仮想的選択としてしまってよいと思われる。

 

 

6,飢え、マラリアその他の病気からの自由

・仮想的選択として想定が容易なもの(飢え、マラリアからの自由)を福祉によって保障してしまうことによって、自由一般が保障されることにはならない。

→仮想的選択として想定可能であるという事実は、その選択肢が誰によっても避けられるであろうという予期に基づいており、その予期が可能である以上、飢えやマラリアなどからの自由とは他の自由の前提条件となる「基本的自由」であり「有効な自由」ではない。

・ただしこうした「基本的自由」さえ達成されていない国家があるのも事実であり、「基本的自由」の達成度の比較によって、不平等を評価することも可能である。

 

7,福祉の妥当性

・エージェンシーの自由/福祉の自由どちらが重要になるかは、その文脈による。

→むしろ、一般的に言って人は自己の目的追求の中に自分自身の福祉の目的達成を含めるため、多くの場合エージェンシーの自由の中に福祉の自由が含まれることになる。

→よって本書はこれから「福祉を達成するための自由」(潜在能力)―「福祉の達成」(機能)を評価空間にして不平等の考察をしていくが、その場合でも「エージェンシーを達成するための自由」を常に視野に留めておかなければならない。

 

 

 

第5章 正義と潜在能力 p.115~139

1,正義の情報的基礎

・正義の理論において、その評価空間は効用(功利主義)、自由と基本財(Rawls)、権限(Norzick)、権利と資源(Dworkin)など様々である。

→またその特性の序列化も効用の最大化、辞書的優先順位とマキシミン原理、平等など様々である。

・しかし、1章で既に述べられたとおり、究極的には全ての規範理論は平等を志向している点で共通している。

 

 

2,ロールズの正義と政治的構想

・おそらくこうした規範理論の文脈において最も影響力を有していたのはロールズによる正義論(Rawls 1971)である。

→ロールズの正義論は以下の2点から特徴付けられる。

①政治哲学としての「公正としての正義」の構想は、道徳的構想である

②政治哲学としての「公正としての正義」の構想は、あらゆる形而上学的、宗教的といった包括的教説を否定しないが(「寛容」であるが)、独立している。

→②の主張はよく批判されるよう、一方で「穏当な多元性の事実」を認めつつも、一方で政治道徳としての「公正としての正義」を特権化している点において矛盾しており、契約論的論拠によってもこれは正当化されない。

・ただし、本書ではこうした「善 対 正義」の問題には詳しく触れず、ひとまずロールズの正義論を正当とした上で、基本財ではなく潜在能力こそがその実現の評価空間として適切であるということが考察される。

 

 

3,基本財と潜在能力

・3章で確認されたよう、ロールズによる基本財(とドゥウォーキンによる資源)は自由の手段であって、自由の程度ではなかった。

→しかし、これも既に確認されたように、自由の手段の運用能力は個々人によって異なるため(例えば健常者と知的障害者に同等の基本財が保障されてもそれは平等ではないだろう)、福祉による手段の保障は適切ではなかった。

・他方で潜在能力はこうした①基本財や資源などの手段/②達成された成果(機能)とは区別されるため、この問題を克服することが出来る。

①潜在能力とは「実現されうるものとして想定可能な機能の集合(3章1節)」=「基本財や資源を運営することの出来る能力」であるため、手段と区別される。

②同様の潜在能力を有していても、異なる目的を有しているのであれば達成された成果は各人によって異なってくるため、これと区別される。

→②に関して、ロールズの想定では各人が同じ目的(公正としての正義の構想)を有しているとされるため、一見するとロールズの理論とは相容れないように思われる。

→しかし、②でいわれる「異なる目的」とは包括的教説に依拠したものではないため、(現にロールズも自己目的修正能力を人格に認めている点において)潜在能力アプローチは依然として公正としての正義と矛盾しない。

・ただし、ある人Aと別の人Bの信じる包括的教説が同様であったとしても、基本財の運用能力は先述のように異なるため、やはり基本財ではなく潜在能力が福祉の評価空間として選択される必要がある。

 

 

4,多様性―目的と個人的特性

・人の多様性は以下の2点に区別できる。

①各人の目的が異なる包括的教説に依拠しているという多様性(目的の多様性)

②各人の目的を達成するための手段の運用能力が異なっているという多様性(個人的特性の多様性)

→ロールズの正義論はこのうち、「政治哲学としての正義の構想/穏当な多元性の事実の許容」によって「①目的の多様性」の問題を解決した。

・しかし、何度も述べられているように「②個人的特性の多様性」については、分配されるべき財を、自由の「程度」ではなく「手段」に限定してしまったため解決することができていないのである。

 

 

【メモと批判】

・2節あかんやろ。政治的リベラリズムっていう妥協案が失敗に終わっていることを認めつつも、とりあえずそれは留保してロールズの評価空間を正していきますよってあかんやろ。前提の不当性を認めているのだから、その後に展開する議論全てが間違っていることを認めているようなもんじゃん。学問的潔癖さが足りませんね。

→思うにセンは経済学者なので、あまりこの辺の政治学的な議論(リベラルvsコミュニタリアン、リベラルvsマルチカルチュアリズム)には立ち入りたくなかったのかと。まったく許容できないけど。

 

 

 

第6章 厚生経済学と不平等 p.141~161

1,空間の選択と評価目的

・これまで論じられてきたように不平等-福祉の評価空間は機能-潜在能力だった。

→しかし、別の文脈では経済的豊かさ、つまり所得が評価空間として適切である場合も想定できる。

・ゆえに本章では所得の分配について考察される。

 

 

2,不足分、到達度、潜在性

・不平等の測定方法は以下の2つがある。

①到達度による測定

・成果の水準を基準にし、プラスの形で測定

→絶対的な到達度の平等

②不足分による測定

・各人の達成可能な成果の潜在的最大値を基準にし、それと比較しどの程度達成されていないかマイナスの形で測定

→各人の持つ可能性の平等

→一般に「①到達度の平等」の方が「②不足分の平等」よりも困難であるが、だからといって到達度の平等を退けてよいことにはならない。このことは8-9章で詳しく考察される。

 

 

3,不平等、厚生、そして正義

・不平等に関する研究はここ10~20年の間(※本書の執筆は1992年)に増加してきており、以下の主要な2つのアプローチから議論される。

①ある政治倫理や社会倫理の枠組みの中で、「基本構造」(Rawls)を評価するために、不平等を考察するアプローチ(第5章ですでに検討された)

②厚生経済学を中心に行われている所得ベクトルが社会的厚生を規定するとして不平等を考察するアプローチ

→本章では②が個々人の多様性を見落としているとして批判される。

 

 

4,厚生に基づく不平等評価

・ダルトンは全ての人が同様の効用関数を持っていると仮定し、人々の間で分配される総所得が与えられれば、平等な分配が必ず達成されると主張した。

→しかし、実際は個人の効用は効用の総和の最大値と比べた不足分について論じるのが限りなく不可能であるため、妥当性に欠けていた。

・対するアトキンソンは効用ではなくて所得の不足分を測定することによって不平等を評価するため、ダルトンのような問題を回避することが出来る。そしてこの手法は厚生経済学においては一般的なものである。

→アトキンソンのアプローチは所得を福祉に運用する個々人の能力の差異(個人的特性の多様性)に無自覚であり、それを加味しない場合では有用であるといえるが、ひとたび多様性が変数として認識されるのであれば、福祉の評価空間としては不十分であることになる。

 

 

第7章 貧しさと豊かさ p.163~187

1,不平等と貧困

・従来的に貧困は所得の不平等というかたちで記述されてきた。

→この前提に立つと以下の3つの指標が必要であるということがわかる。

①ある人口のうちに占める貧困線以下の人々=貧困層の比率H

②貧困層を貧困線以上まで引き上げるために必要な追加所得=所得ギャップI

③貧困層内部での所得の差異D=ジニ係数G

→よってこの3つの関数であるPが貧困指標となる。

・実際にこれまで貧困-所得の不平等はこれらの指数を用いて算出されてきた。

→本章で問いたいのは、そもそも貧困の指標として選ばれる変数が所得に限定されてもよいのか、というより根源的な問題である。

 

 

2,貧困の性質

・まず以下のようなケースを考察する。

Ex)AとBの「貧しさ」

・Aは多くの所得を有しているが、腎臓に病気を抱えており、毎週透析手術に多大な費用を払わないとならない。

・BはAと比較すると所得は圧倒的に少ないが、持病等はなく、治療への支出はない。

→このとき単純に所得によって貧困を定義するのであれば、Bの方が「貧しい」となるはずだが、果たしてその主張は妥当なものだろうか。

・貧困は記述的な定義と政策的な定義の2つがあり得る。

→前者は単に貧困の状態をどのように記述するかという規定で、「お金がない状態」「所得が低い状態」などといった一般的定義があり得る/後者はその状態をいかに公共政策によって解決できるかという規定のしかたで、このときに注目されるべきは何度も主張されているように機能-潜在能力という評価空間である。

→つまり単に財(自由の「手段」)ではなく、その運用能力(自由の「程度」)に注目することが福祉政策の上では重要である。

 

 

3,所得の「低さ」と「不十分さ」

・先の例ではAの方が所得は多かったが、潜在能力ではBに劣っていた。

→結果的に貧しい状況にあるのはAであるのは明らかである。

・しかし、貧困の変数に機能-潜在能力が導入されなければ、こうした角度からの考察は不可能である。換言すれば、不利な状況にある人ほど、その人の社会的環境や個人的特性を考えると、より深刻な所得の不足にあることになるはずである。

→つまり所得とは「達成された機能」であり、何度も述べられているよう個々人の多様性を加味するのであれば、「潜在的な機能」ないしはそれを達成するための自由の程度(潜在能力)に注目される必要がある。

 

 

4,概念はどれほど重要なのか

・ここまでを整理すると貧困は「所得不十分」/「低所得」という2つの定義がありえるということだった。

→前者が所得を運用する潜在能力の問題に帰せられるのに対し/後者は単に所得が少ないという物質的な定義だった。

・後者の視点にとらわれている限り、特定の生物的条件や社会的条件に関わる貧困を過小評価してしまうことになりがちである。

→例えば70歳の老人と20歳の若者が同程度に「低所得」であっても、両者の貧困の程度は異なるだろう。

 

 

5,豊かな国々における貧困

・「所得不十分」による視座は先進諸国における貧困の考察にも有用である。

→例えば米国において35歳~55歳のアフリカ系の死亡率は白人のそれの2.3倍であるが、アフリカ系の社会集団が低所得であるという事実はこの要因の半分でしかない(Otten 1990)。

→これは所得が同程度であっても、健康状態や社会集団に提供される公共サービス-医療サービスの差異によって潜在能力にも差異が生じるためである。

・また途上国における所得の低さと先進国における所得の低さが同程度であったとしても、前者の方が相対的な貧困度は低い(周囲も同レベルで低所得の)ため、後者の貧困の方がより深刻であるという事実も加味されなければならない。

 

【メモと批判】

・根本的な問いとして、センのいう潜在能力とは資質や病気、障害といった自然的に獲得される特性に限定されるのか/リテラシーや文化資本といった社会的に獲得される特性まで含まれるかがわからない。

→ここまで読んだ感じだと前者に限定(ないしは中心的な関心)があるように思える。

 

第8章 階級、ジェンダー、その他のグループ p.189~207

1,階級と分類

・従来的に分配原理は特定の多様性に注目した上で、特定の平等に基づいた分配原理の必要性を訴えるというスタイルをとってきた。

→例えば「階級」の多様性に目を向けたマルクス主義は、プロレタリアートの平等と所得の分配を訴えた。

・しかし、労働にのみ価値を認め、それに準拠した分配原理はその他の多様性を見逃していた点でマルクス主義は間違っていた。つまり所得や富は生活の重要な一部分であっても、その全てではない。

→実はマルクス自身も階級分析を超え、より多様な個人に注目できる平等の理論が完成される必要性があると認めていた。

 

 

2,ジェンダーと不平等

・所得以外の平等に目を向けられる必要があることの強力な論拠として、ジェンダーの問題が挙げられる。

→途上諸国においては男性より女性の方が生物的要因(体力等)と社会的要因(性暴力、教育機会)における潜在能力が低く扱われており、これは所得を平等にしたところで解決される問題ではない(所得とジェンダーはそれぞれ独立している)。

→さらに先進諸国においても「給与が低い」「家庭への従事」といった諸社会的要因から、女性の潜在能力は男性に比べて不利な状況にある。

 

 

3,地域間の対照性

・またもし所得の平等が、個々人の基本的機能の平等をもたらすのであれば、GDPと平均寿命は比例するはずである。

→しかし、実際はGDPが低い地域であっても、先進諸国と同等の平均寿命の地域は多く存在する。

・例えばインドのケララ州は、インドの内部でも実質所得が低い地域であるにもかかわらず、平均寿命は70歳とかなり長い(インド全体の平均寿命は57歳)。

 

→ケララは所得が低い一方で、教育機会、医療機会、食料支給といった潜在能力の平等を保証する公的サービスが充実していたことがこの要因であると考えられる。

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