top of page

Kymlicka,Will 2002 『新版 現代政治理論』

『新版 現代政治理論』要約 W.キムリッカ

 

◆第一章 序説 p.1~15

 

◇第一節 本書の課題 p.2~7

・伝統的政治理論ないしは政治哲学は左派―平等―社会主義/リベラル―自由と平等―福祉型資本主義/右派―自由―資本主義といった図式を採用してきた。

→しかし、今日的状況はこの図式のみからは語ることができない

①伝統的見地の狭隘さ

・政治的な諸立場が歴史的文脈に「埋め込まれている(embeddedness)」問題、フェミニズム等の性的平等の問題等に単純な二項対立図式からは回答できない。

②単一の政治理論による諸価値の包括不可能性

・上記のリバタリアンの「自由」、マルキシストの「平等」に加え、今日の政治理論は「契約的同意」(ロールズ)や「共通善」(サンデル)、「アイデンティティ」(マルチカルチュアリズム)、「権利」(ドゥオーキン)、「両性具有性」(フェミニズム)などといった諸立場の持つ究極的価値の存在を主張した。

→諸原理はもはや共訳不可能であり、単一の政治理論によって包括することは不可能である(正義の統一性の崩壊)

 

・ドゥオーキンの「平等主義的土台」

→確かに諸原理は対立を生むが、(それぞれ異なる意味での)平等を志向している。

ex)右派の「平等」は経済的成功を誰しも享受する「平等」であり、左派の掲げる「平等」とは諸個人が政府から差別のない処遇を受けるべきとするという意味での「平等」である。

・諸原理がすべて「平等主義的土台」の上に立脚していると想定すれば、各論者を同じレイヤーに立たせることが可能となる。

→伝統的見地がどの「平等」が優れているかということを問うたのに対し、キムリッカの修正案ではどの理論がより最善の方法で「平等」を可能にしているかが問われることになる(土俵の整理)。

 

 

◇第二節 方法に関する注釈 p.8~15

・道徳哲学と政治哲学の差異

①「やってはいけないこと」は一般に「個人的責任に帰属される行為の制限」と「公的制約による禁止」に区別される。

→このうち政治哲学が焦点を当てるのは後者である(ノージック)。また両者の線引きは諸理論によって異なるが、その境界線はより深遠な道徳的原理によって規定されている。

②公的制限は諸個人が負うべき責任に、諸個人が負うべき責任は深遠な道徳的原理にそれぞれ矛盾してはならないが、このとき公的制限は道徳的原理に、また諸個人が負うべき責任は公的制限に反していてもならない。

→前者は功利主義的正義(2章)、後者は「ケアの倫理」(9章)を考える際に問題となる。

 

・政治理論の究極的な試金石とは我々の日常的倫理的直観に応えてくれるか否かであり、よって政治哲学は常に道徳的討議に依拠したものである。

→先述の通り、マルキシズムやフェミニズムといった諸理論的見地はそれぞれ異なる価値、倫理、道徳を有している。しかし、諸理論は単一理論に包括することができなくとも、正邪の判断は可能であり、諸理論をそれぞれ具体個別に確認していくことで正邪を判定するのが本書の試みである。

 

 

 

 

 

 

 

◆第二章 功利主義 p.15~77

・現代政治規範理論及び正義論の再生はロールズの『正義論』(1971)に始まり、また多大な影響力を持つロールズの主張は功利主義(utilitarianism)に依拠している。

・功利主義の主張を簡潔に定式化すると「社会的に善とされる行為と政策は、社会の成員に最大の幸福をもたらす」となる。

・功利主義は時に包括的道徳討議とされることもあるが、本書では主に政治理論に固有の道徳哲学の体系として扱う。

 

 

◇第一節 二つの魅力 p.16~32

①功利主義における道徳は神や魂といった形而上的領域ではなく、「幸福の追求」という日常的直観に求められる(デュルケム『道徳教育論』神から社会へ)。

→誰しも「幸福でありたい」という願望を否定できないが故にこの上ない説得力。

②功利主義は「帰結主義(consequentialism)」である(詳細は第三節)。

→功利主義において、ある行為や制度が直観で倫理的に悪と感じられても、その帰結点にて誰かが不都合を被っている(幸福でない)事実が立証されないと悪であると証明されない。

Ex)「同性愛は悪だ」という主張は、実際に同性愛の社会的逆機能を示すことができない場合、道徳的に誤りである。

→これによって美学的水準の「悪 誤」と道徳的水準の「悪 誤」の峻別も可能になる。

 

・功利主義は以下の2点の部分から成る。

①人間の福祉ないし「効用」についての説明の部分

②各人の効用を等しく顧慮し、効用を最大化する指示の部分

→このうち功利主義が成功するか否かは後者にかかっている。

 

 

◇第二節 効用の定義 p.19~31

・①の部分に関して功利主義は伝統的に「最大多数の最大幸福」というお決まりのスローガンから、人間の福祉及び効用を定義してきた。

→ここではそれをより細分化し4点から考える。

 

A 福祉快楽主義

・快楽の経験や感覚を至上の幸福とし、その追求こそが最大の善とする立場。

・「プッシュピンゲームと詩はそれぞれ人に至上の快楽を与えてくれる場合において等価である」(ベンサム)という言葉に端的に窺える思想。

→しかし、成すべきことを放棄してまで得られる快楽は真の福祉であり効用であると言えるのか(ノージック)

Ex)麻薬の投与は至上の快楽に違いないが、見返りとして廃人となってしまう(成すべきことの放棄)ため、真の福祉と効用とは言えない。

 

 

B 非快楽的状態としての精神的効用

・人間の福祉の至上価値を単に快楽のみに限定するのではなく、そこに至るまでの経験における精神状態(詩作の苦しみ、恋の苦しみ等)をも含め肯定する立場。

→しかし、こうした精神状態も麻薬や「経験機械」(仮想現実)によって生み出すことが可能であり、仮に麻薬と「経験機械」によって精神上での経験が保障されていたとしても、人は詩作や恋それ自体の機会を手放すことはない点において至上の福祉だとはいえない(ノージック)。

→人間の幸福は快楽を含む適切な精神的状態以外に求められる

 

C 選好充足

・AとBが福祉を限定したのに対し、「選好充足(preference-satisfaction)」のアプローチは福祉を「各人の選好」として説明する。

Ex)詩作の苦しみと麻薬による快楽のどちらが幸福であるかは各人により選好され、このとき福祉とは大多数が望んだ方であることになる。

→しかし各人の選好は常に恣意的な予期に過ぎず、結果的に幸福をもたらすか否か不確実である点において「帰結主義」にも反する。

・予期した結果が現実と違背した場合、人は『酸っぱいぶどう』の寓話に登場する狐のような状態に陥る(フロイト 「合理化」)。

→この場合、各人は自身の置かれた環境に選好を適応させてしまうため、幸福及び福祉の水準も環境に依存的であることになる。

 

D 情報に基づいた効用

・Cの選好が福祉-効用足りえないのは予期の違背の可能性を常に孕んでいるからだった。

→情報に基づいた効用は、情報に準拠し、合理的性格を帯びている選好を効用と定めることでこの問題を解決しようとする。

・しかし、ある選好が「情報に基づいたもの」/先の「環境に順応したもの」であるかということは原理的に区別できない。

・また、ヘアのいうように「意識経験に影響を及ぼさない選好」に関しても生前/死後という線引きができない。

→よって情報に基づいた効用は原理として理解できるものではあるが、現実に適用するのは極めて困難である。また、仮にある選好が合理的であるといえても、それをどの程度の福祉の水準で実現するかについて問われなければならない。

・では功利主義は退けられることになるのか。

→情報に基づいた効用の共訳(不)可能性は、単に功利主義―道徳哲学の内部ではなく、より根源的な「いかに生きるか」という思慮深い推論の上に立脚している。よってこのとき問題となるのは功利主義ではなく思慮深い推論の構造全体である(事実、経験的事実として合理的な選好は達成されている)。

・功利主義は効用の「人間間の比較可能性」を前提化(共訳可能だと想定)しているが、そもそも諸個人の効用や幸福は比較可能ではないのではないか。

→その問いは極端な独我論を招くし、日常的実践の中で「誰々より幸せでいたい」といった計算や想定をしている以上、比較可能性は存在していると考えられる。

 

・また社会福祉の水準において功利主義の抱える諸問題に関して間接的な解決策もある。

①ある選好が合理的なものか/順応的なものか判断できない 問題

→現段階の選好がどちらかは確かに判別ができない。しかし、後者を生み出す文化的、環境的要因(プロパカンダ等)を排することは可能である。

②選好の共訳不可能性 問題

→先述のように効用が諸個人にとって異なるものであると想定した場合でも、例えば資源など多目的財は「どの選好にとっても有用なもの」であり、個人の効用の差異を無視して用意することが可能である。

 

・このように効用の定義は4つの立場から考えることができるが、そのいずれも理論上の問題を孕んでいる一方、具体的な実践レベルでは致命的な問題が発生するとは考えにくい。むしろ、①効用の定義の部分からではなく、②効用の最大化が功利主義を考える際に焦点が合わされなければならない点である。

 

 

◇第三節 効用の最大化 p.31~47

・功利主義の帰結主義的性格は人間の福利―効用の帰結に関心を寄せ、さらに功利主義はその「(情報に基づいた)選好」が最大になるよう志向する。

→しかし直観的には、ある福利―効用―「選好」が充足しえない場合には同一量の効用だとしても常に同一の比重を占めるべきではない(このことに関しては後ほど)。

 

・第一章第二節で示唆されたよう、功利主義内部で語られる「われわれ」(の行為)は大きく二分される。

(Ⅰ)包括的な道徳としての功利主義……われわれは個人的行為のレベルにおいても功利主義的制約の下にある。

(Ⅱ)政治的功利主義……主要な社会的制度のレベルにおいて功利主義的制約が適用される。

・またこの功利主義的制約に関しても大きく二分される

(ⅰ)直接的功利主義……行為者への制約は「情報に基づいた選好」―効用の最大化に準拠する。

(ⅱ)間接的功利主義……道徳的に正しい行為が効用を最大化すると考えられつつも、実際の行為者は非功利主義的(「選好」に準拠しない)な制約の下、効用を最大化する。

→昨今の功利主義の研究は諸立場のコンビネーション(Ⅰ×ⅰやⅡ×ⅱなど)に関心を寄せている傾向に強い。

→しかし、いずれの組み合わせにしても同様の欠点を抱えている。

 

・まず本節ではもはや擁護者もいないとされる「包括的な意思決定手段としての功利主義」への批判を取り上げる。

・このような功利主義においては、道徳的な行為者とは自己の行為が社会の総効用を最大になるよう計算し、時間や資材の運用をする者=「U行為者(U-agent)」であることになる(イメージとしては純粋経済人に近い)。

・このとき功利主義的意思決定には同一の欠点に由来する以下の二点の問題を抱える

A特定の人々に対する特別な義務を除外している

B算入されるべきではない選好が含まれている

 

A 特別な諸関係

・U行為者の意思決定は「社会の総効用の最大化を志向している」という一点以外から説明ができないため、家族や雇用主や友人といった関係性の中の道徳に言及できない。

Ex)「U行為者がある人に10ドルの借金をした」と仮定する

・このとき返済の義務は「効用の最大化」に関わるものとして問題化される。つまり、借金の踏み倒しが「効用の最大化」に繋がる場合には、いかなる事情があれ返済の義務は生じないことになる。

・このようにU行為者の意思決定が単に効用計算のみに還元されてしまうとする想定は、関係性の問題のみならず、諸関係性(家族、仕事、友人)へのコミットメントを通して規定されるアイデンティティの問題にまで波及することになる。

 

B 不当な選好

・U行為者にとってある効用の最大化が実現されるのならば選好の内容は意味をなさない。

Ex)ある社会のマジョリティがエスニックマイノリティやセクシャルマイノリティを忌み嫌ったとき、彼らの社会的排除は効用の最大化という名目で正当化される。

→正義の観点からは「理にかなっていない」が、合理性の観点からは「非合理的」ではない(ロールズ)。

・しかし、功利主義者がU行為者の行った差別を効用の最大化という観点から正当化しようとも、多くの場合、差別は我々の日常的直観に反する。

→これに対し「規則功利主義者(rule utilitarianism)」はある単一の行為が効用の最大化を志向して行われることではなく、そのように行為することを規則とすることの帰結に焦点を当てるべきだと主張する(Parsonsの目的合理性に対する価値合理性に近い)。

・しかし、規則に効用計算を従属させるべきなのか、あるいは効用計算に規則が従属的であるほうがよいのかという問いに関して、前者の立場は功利主義の至上目的である「最大幸福の実現」を見失っているといわざるを得ない。

・さらに規則功利主義は効用計算の「結果」を確かに変化させうるが「算入」まで変化させることはできない。

→規則功利主義の効用計算においては、レイプや強奪などから受け取る快楽も算入される。そして、規則功利主義はそうした快楽がレイプ犯や強盗犯にとってより大きくなるほどレイプと強奪の不正総体は減少するという論理的帰結をもたらす。

→これも我々の日常的直観に反する。

 

[A 特別な諸関係]

・Aで見たとおりU行為者の意思決定は権利や特別な関係上において、効用の最大化に優先されるべきではない―道徳的推論において我々は非功利主義的でなければならない。

→しかしまた、功利主義はこのことで誤っているともならない。むしろ、意思決定の段階において効用の最大化を意図しないということが効用の最大化をもたらすとまで主張する。

→逆説的に聞こえるが、何も矛盾は生じていない。というのは、功利主義とは「正しさの水準(standard of rightness)」についての理論であり、「意思決定(define of procedure)」についての理論ではないからである。

・つまり、功利主義の主張は「正しい行為=効用の最大化」というものであり、「意識的に効用を最大化するべき」というものではない(後者は留保事項である)。

→むしろ、効用の最大化を意図した功利主義的な意思決定は(A 特別な諸関係で見た通り)逆説的に効用の最大化を阻む。

・よって我々は(ⅰ)直接的功利主義ではなく、(ⅱ)間接的功利主義ではなければならない(両者の区別については第三節の冒頭参照)。

※ここでキムリッカは(いささか唐突であるが)間接的功利主義を導入することでAの特別な諸関係をめぐる問題を解決している。B不当な選好についての言及はその解説の後にされる

↑これは後に誤りであると説明される(5節末参照)

 

 

[B不当な選好]

・間接的功利主義において、「正しさの基準」と「個人の意思決定」は明白に区別され、さらに後者は非功利主義的性格を帯びるが、これが過剰なものとなると、「意思決定のうちから正しさの基準としての功利主義が消える」という転倒した事態を招く。

→間接的功利主義は自己批判的性格を有しているともいえる。

・ゆるやかな間接的功利主義の一例としてウィリアムズの「政府部門」功利主義(government house utilitarianism)を挙げることができる(貴族政に近い)。

→「政府部門」では政府の一部分のグループが効用の最大化という観点から公共政策を実施する一方、一般国民は権利や特殊な関係性において非功利主義的に行為する。

・「政府部門」功利主義はエリート主義的であるといった旨の批判がなされ、多くの間接功利主義の支持者は国家の成員の多くが、「特別な関係性における非功利主義的意思決定」と「効用の最大化を志向する正しさの基準」の二面的性格を有しているモデルを好む。

・しかし、このとき不当な選好について考えると、両者の間にダブルスタンダードが生まれることになる。

→前者の非功利主義的意思決定からすれば、不当な選好は算入に値しないものとして扱われる。他方で、後者の効用の最大化を志向する功利主義的基準からすれば(それが道徳に反するものであろうとも)情報に基づいた選好として効用計算に含まれなければならない。

→ここで、功利主義は非功利主義的意思決定が単に効用の最大化の観点から説明するが、その妥当性を提供できておらず、単に行為者が非功利主義的意思決定を受け入れているからと考えた方が自然なのではないか。

・それでもなお非功利主義的正しさの基準を差し置いて、功利主義的正しさの基準が是認されること(究極的には功利主義の妥当性)については補完関係にある二つの論拠が挙げられ、先述の通りそれは直接的/間接的といった形式の問題に依拠しない。

※まとめるとA特別な諸関係は間接的功利主義を導入すれば解決されるが、それでもなおB不当な選好を解決するには至らなかった(ので次節から見てくよ)。

 

 

 

◇第四節 効用最大化の二つの論拠 p.48~55

・本節では、そもそも効用最大化を道徳的な正しさの基準として捉える妥当性の2つの論拠が示される。

 

A 諸利益の平等な顧慮

・様々な理論が提示するよう正(right)=「平等な個々人に対する顧慮」であるとしたとき、

(p)各人の生は等しく重要であり、それ故

(q)各人の利害は等しく重視されるべきであり、それ故

(r)効用の最大化は正しい行為として道徳的に是認されなければならない

……という論拠を展開することが可能になる。

※Aでは「善の最大化」が道徳(個人の平等な顧慮)を達成した際の副産物であり目的となってはいないことが特徴的である

 

B 目的論的功利主義

・目的論的(ロールズ)功利主義においては正=「善の最大化」であると定義され、「個々人への平等な顧慮」は単にその結果(副産物)に過ぎない。

→「目的論的」は諸個人を顧慮すべき対象としてではなく、単に効用の所在として捉える。

・極論、こちらの場合では、個々人の現状をより悪いものにしたとしても、全体の価値を高めることが志向される。

※Bでは「個人の平等な顧慮」が道徳(「善の最大化」)を達成した際の副産物であり、目的となってはないことが特徴的である

 

・A平等主義的解釈とB目的論的解釈の二つをここまでで挙げた。ロールズによれば、後者の目的論的解釈こそが功利主義のあるべき姿であるという。

→しかしながら、「善の全体化」を道徳的に正と定義する見解は明らかに奇妙である。

→本来、道徳とは個人間であれ、集団間であれ、人と人の関係性の中に生まれるものである。ロールズに従って「善の全体化」が道徳とされるとき、それは一体「誰のための」道徳なのか所在が不明瞭だからである。

・とはいえ第三節の最後にある通り、平等主義的解釈と目的論的解釈はそれぞれ相容れないながらも功利主義にとって暗黙の相互補完状態にあるということが決定的に重要である。諸個人への平等な顧慮を訴えることを正当化するために、効用の最大化が目的とされなければならないし、逆に効用の最大化を促すことで、諸個人への平等な顧慮が達成されるためである。

→むしろどちらか一方の立場に固執すれば、功利主義そのものの魅力の大半を失いかねない。

 

 

◇第五節 平等の不適切な構想 p.55~67

・前節で見たとおり、功利主義は平等主義的性格を有しており、諸個人への平等な顧慮を志向する。

→しかし、一口に「諸個人への平等な顧慮」といっても多元的であり、これは選好の種類を区別し、その中のひとつに正当性を認めることでしか説明ができない。

 

A 外的選好

・一つ目の区別は、

「個人的選好」―個人が欲しい財、資源、機会についての選好

「外的選好(external preference)」―他者に与えたい財、資源、機会についての選好

→後者は時に偏見や差別から影響を受ける

Ex)黒人は人間的に劣っているため、黒人たちが公共交通機関を利用する機会を制限すべきとする選好(アパルトヘイト)

→功利主義の最も深遠な原理である平等主義に反するため受け入れることはできない。

→むしろ外的選好は平等主義に真っ向から対立し、功利主義それ自体と同次元の問題として扱われるレベルである

 

B 利己的選好

・「利己的選好(selfish preference)」―財、資源、機会といった効用を他の人より多く受け取りたいという選好

→一見すると、功利主義の目指す効用の最大化を妨げる点で、そもそも議論の俎上に載せること自体が不適切な選好であるかのように思える。

→しかしながら、以下のヘアとマッキーの論争から確認できるよう、効用計算の値として利己的選好を算入させることはできなくとも、平等主義的原理からその妥当性を導き出すことは不可能ではない。

 

[平等な顧慮の理念系をめぐる論争]

・ヘア――平等であるということは、誰もが「私」と同等に他者を大切にし、かつそうした「私」の観点を誰もが有しており、誰もが「私」を大切にしてくれる状態。

→「私」の選好は誰しもの選好であり、それは「私」―社会の選好である。

→利己的選好を道徳的に正当であるとする論拠

 

・マッキー――「各人が「私」と同等に他者を大切にすること」を平等主義的とするヘアの前提を是とした上でも、各人それぞれの生活レベルに合わせて効用を分配することのほうが効用は大きくなるかもしれないし、継続的に様々な立場につき行為することで、より悪い生活に最善を尽くすかもしれない。

→平等な顧慮という概念が産出する様々な理念系の可能性を示唆(しかし利己的選好は除外すべきと考える)

→これらの様々な平等な顧慮の理念系のうち、いずれかの妥当性を主張することは可能なのか。

 

 

・功利主義者は、功利主義が平等主義的分配を志向することを認める。

→しかしこの平等主義的分配に関して、先の論争に従えばマッキーとヘア両者の見解は異なるものとなる。

・マッキー――私以外の者に公平に資源が分配されているならば、「当初私に割り振られた資源」に対して所有権を主張することは誰も道徳的にできない。

→それは利己的選好であり、平等主義によって退けられる。

 

・ヘア――私以外の者に公平に資源が分配されていても、「当初私に割り振られた資源」はマッキーのいうように真に私のものではなく(「当初の分配」はさらなる再分配に従属的である)、効用が最大化するのならば(誰かの利己的選好によって)常に代替可能な「私」へ譲渡される可能性に晒されている。

→ヘアの主張にある利己的選好は、平等な顧慮によるものというよりかは、他者の「私よりも多くの資源を有していたい」という欲望に基づいていると考えたほうが自然であり、そうであるならばこのときの他者は私への平等性を欠いていることになる。

→利己的選好は功利主義における平等主義的原理に反している。また、このことは平等な顧慮、処遇に対する我々の日常的な道徳とも合致している。つまり、ある人の計画は他の誰かの計画の犠牲の上に成り立ってはならない。

・他の功利主義者(ヘアら)の正議論とロールズの正議論との差異がここに見られる

→前者の正議論が「権利や正義に依拠したいかなる制限も、目的に課されることはない」とするのに対し、後者の正議論においては「正義を侵害する利害に価値は無い」とするため不当な選好は排除されることになる。

 

・一般的な功利主義は、平等な顧慮を「あらかじめ存在する選好の集計」から考えているがために(第三節)B不当な選好とA特別な諸関係に関して十分な応答がそれぞれできなくなっている。

[不当な選好]

・ロールズがいうように平等な顧慮を選好の集計とするのではなく、平等という観点それ自体が選好形成の段階に含まれなければならない。よって偏見や差別に満ちた不当な選好は排除されることになる。

[特別な諸関係]

・功利主義は平等な顧慮を志向するが、他方で個人が特別な諸関係にコミットメントしてしまうことは不平等な配慮を意味する。しかし、そうした特殊な関係性へのコミットこそ、友人や特定の主義主張を有するということの意味であり、また権利である。

→「公正な取り分」の理論的アプローチは、平等な選好形成の観点から不当な選好を排しても、特別な諸関係へのコミットメントは功利主義に先立つ根源的な人権として排除しない。

→第三節末にて間接的功利主義の導入によって、「特別な諸関係」を効用の最大化という大義の下保障することが可能だ、という議論が紹介されたが、そもそもロールズは功利主義の平等の原理それ自体に変更を促す。

※ここでのキムリッカの主張は、ロールズらと同じく功利主義の抱える「平等」という概念それ自体に懐疑を投げかけるものとなっている。すなわち、平等は選好の形成それ自体に関与しなければならない。

 

・「平等の構想」とは我々の根底的な道徳の基準(第一章第一節のドウォーキン参照)であるが、そこから演繹される平等概念の特殊系はそれぞれ対立している(ただし「平等の構想」と演繹された理論は両立する)

ex)「平等な機会の均等」は「不平等な結果の均等」をもたらすかもしれないし、「平等な結果の均等」は「不平等な機会の均等」をもたらすかもしれない。

 

[論理学と政治哲学の差異]

・論理学――「平等の構想」という原理から、様々な平等概念の特殊系を演繹する

・政治哲学――様々な平等概念の特殊系(本書で紹介されるおのおのの正議論)の立場に依拠し、そこから「平等の構想」が帰納できることを確認し、成功裡に「平等の構想」を実現するよう努める。

→本書のねらいは序説にもあるように、いくつかの特殊系―正議論の比較検証である。

 

 

◇第六節 功利主義の政治 p.67~71

・功利主義はそれが生まれた19世紀のイギリス―封建主義的迷信を抱えた社会ではかなりラディカルな政治的立場だった。

→しかし、以下の二つの理由から現在の功利主義はむしろコンサバなものとなっている。

 

①効用原理を現実に適用することの困難さの増大

・当初の功利主義は先述の通り、封建主義的体制へのアンチテーゼとしてあり、新たな政治枠組みを提供する側にあった。しかし、今日的な功利主義は(本章でも見てきたように)深遠な道徳原理に効用原理が一致しているものとして考える。

→むろん、功利主義の立場から道徳原理と効用原理が矛盾していることを認めることはできないが、少なくとも選好は細分化しているし、どのような社会政策が効用を最大化させるかも不透明になっている。

②現行の反政治的立場としての功利主義の失効

・そもそも功利主義が批判したのは、19世紀英国の少数のエリートからなる封建主義的社会であり、功利主義の批判が成功を収めたのはそれがマジョリティの原理だったからに他ならない。

→しかし、昨今の政治的関心はマジョリティの社会的成功にはなく、同性愛者や移民といった(抑圧された)マイノリティの問題に集まりつつある。

→改めていうまでものなく功利主義において圧倒的有利なのは多数派であり、こうした問題に関心が集まるとき、曖昧で時に矛盾を孕む答えしか提供してくれない。

・ラディカルな政治的立場だった過去に比べて、功利主義から真理性の契機が失われたとすることはできなくとも、歯切れが悪くなったのは事実である。

 

 

【批判とメモ】

・ロールズ―キムリッカがいうように(第五節)、功利主義の平等原理を選好の形成段階に含めることで確かに「不当な選好」は回避することができる。

→今日的状況に対して実効性を失いつつある功利主義(第六節)において、おそらくロールズの理論が未だその耐用年数を失効していないのはここに由来するのではないだろうか(「不当な選好」の排除はマイノリティへ焦点を合わせる)。

→しかし、選好に含めるべき平等の詳細が本書では一切説明されていない。なぜ差別や偏見に基づく選好を排することが平等なのか?正義とは?日常的直観だというならばあまりに本質主義なのではないか?

→じゃあロールズ読もうぜ!ロールズも説明してないなら修論で叩く。

・経済格差が拡大、中間所得者層の喪失が進行し、高所得者層が一部のエリートによって独占されるようになれば、少なくとも貧困層にとっては功利主義が有用な政治理論になるはず。

 

 

◆第三章 リベラルな平等 p.77~148

 

◇第一節 ロールズのプロジェクト p.78~84

A 直観主義と功利主義

・功利主義の抱える問題のひとつは「不当な選好」を効用最大化の観点から排することができても、「特別な諸関係」における権利にまでは言及できないことだった(第二章第三節)。

→「公正な取り分の理論的アプローチ」によってそれは解決される(第二章第五節)が、ここでいわれる平等な処遇、自由や権利とは何を指すのか。

・70年代までの政治哲学はそれら自由や権利の所在を考えてきた他方で、「功利主義ならば平等な処遇を実現できるという古い信条」がバイアスとしてあった。

→ロールズは『正議論』(1971)で従来的な政治哲学における功利主義と直観主義(institutionism)的性格(本質主義に近い)を批判。

・ロールズは直観主義を以下の二点から特徴づける

①直観主義は様々な第一原理(平等と自由、自由と効率性など)から構成されており、第一原理の対立がしばしば正反対の指示を出す。

②我々はそれら原理の序列付けについて一切の指標を持たない。ゆえに比較考慮もまた直観に委ねられる。

→功利主義が直観に反するという主張もまた直観に依拠しているがゆえに妥当な代替案を提示できない。

・ロールズのプロジェクトはこうした直観が我々に与える諸原理を序列化するための、体系的な政治哲学理論の構築にあった。

→それが可能か否かは留保しておくとして、ロールズによる理論の歴史的意義は以後の政治哲学者に共通の議論の枠組みを提供したことにあった。

 

B 正義の原理

・ロールズはかの有名な「正義の二原理」を提唱したが、その前段階として正義の「一般構想」に触れておかねばならなない。

→効用が最大化されるために、功利主義は再分配を許容する。しかし、功利主義はそのとき誰かの「公正な取り分」にまで分配の対象になること―不当な選好を防げなかった。

→ロールズはこうした「公正な取り分」に関わる問題を、平等主義的原理に正義の理念を結びつけ、「公正な取り分」への再分配を禁じることで解決した=正義の「一般構想」(第二章第五節)。

→しかし、「一般構想」の段階では何が優先されるべき平等―原理なのか不明瞭である。所得の平等は機会の平等に優先されるのか、機会の平等は自由の平等に……etc(直観主義に由来する問題)

 

・ロールズはこの問題を、正義の「一般構想」を3つの部分に分割し、「辞書的優先順位」(lexical priority)に準拠してそれぞれ序列付けを行う。

第一原理(自由原理)――各人はすべての人にとって同様な自由の体系と両立しうる最大限の基本的自由への平等な権利を持たなければならない。

第二原理(格差原理)――社会的・経済的不平等は、以下の二点を満たすように配置されなければならない。

(a) 最も恵まれない人々の最大限の利益になるように そして、

(b) 公正な機会の均等という条件の下ですべての人の職務や地位にのみともなうように。

 

・第一の優先順位規則(自由の優先)――正義の諸原理は辞書的優先順位に準拠して配置されなければならない。それゆえ、自由は自由のためにしか制限されてはならない。

・第二の優先順位規則(効率性や福祉の正義の優先)――正義の第二原理は、効率性の原理や、効用最大化の原理に優先される。そして、公正な機会均等は格差原理に優先する(Rawls 1971:302-3)

・この二つの原理は正義の「一般構想」に対して下位カテゴリである「特殊構想」を構成するが、「一般構想」と同様にそれぞれ「公正な取り分」の分配について侵害しない。

 

・第二章で確認した通り、功利主義の限界は「公正な取り分」―経済的資源の再分配についての問題に由来しており、政治哲学が功利主義から他の諸正議論に移行したのも同様の理由によるものである。

→よってまず本章では、経済的資源の再分配に言及する第二の原理―格差原理(difference principle)に焦点を当てる。

 

※本章ではここにあるように、以降、経済的資源に関する格差原理が扱われることになる。第一の原理である自由原理に関しては、第六章第五節のコミュニタリアニズム/リベラルの自己決定に関する考察にて触れられる。

 

・そしてロールズは正義原理の妥当性を二点の論拠から説明する。

①正義原理は、熟慮された我々の正義の直観と部分的に合致しており、機会均等についての支配的イデオロギーが提供してくれる理念をよりよく表現する。

②正義原理は、「自然(原初)状態」にある人々が、社会契約をする際に選択する最も合理的な選択肢の一つである。

→②に関しては数多くの批判がされており、複雑な内容なので本書ではまず①の論拠を第二節で、第三節で②の論拠を取り扱うことにする。

 

 

 

◇第二節 機会均等の直観的論拠 p.84~88

・経済的資源の分配は、我々の社会において一般に「機会の均等」という理念が支配的イデオロギーを形成している。

→資源の分配が不平等であっても、各人に与えられた機会が均等であるならば、知的障害等の先天的な不平等を抱える人を除き、それは肯定されなければならない。

→つまり機会均等が支配的なイデオロギーとなっている社会において、経済的資源を多く獲得できるか否かの責任は努力や業績といった個人的要因に帰属する。

・対してロールズは先天的不平等に加え、社会的不平等(例えば文化的再生産論)にまで機会均等論を拡大する。

→先天的不平等が機会均等の源泉になるならば、社会的不平等が否となる理由はどこにも認めることができない。

→正義原理が適用される第一の論拠は以上であるが、ここでは逆に「努力によって経済的資源を不平等に獲得した場合も格差は是正されるべきか」についての説明がなされていない(第四節以降で確認される)。

 

 

◇第三節 社会契約的論拠 p.88~110

・ロールズは今日的には説得力に乏しいとされる社会契約論を、むしろ第二の論拠である機会均等の論拠よりも重視し、正義構想の中心的な課題として扱っている。

→ホッブズ、ロック、カント、ルソーなどに見られる社会契約の概念であるが、そもそも歴史的事実の観点からすると、契約が市民と公権力の間で交わされたことなどない。

・ドウォーキンはこれに対し、社会契約論を別の観点から捉えなおす。

→社会契約において、自然状態は「各人が平等に不利益を被る状態」として想定されるが、これは「各人は本来的に平等である」ということを含意している。そして、ロックが政府の契約違反が市民の反抗を正当化すると説いたのも、こうした平等概念としての自然状態が想定されているからに他ならない。

 

・自然状態は「各人は本来的に平等である」ということを示唆する概念装置だったが、障害の有無、文化資本の有無等、先天的(不)利益についての言及がされていない点でロールズの正義からは不十分である。

→よってロールズはこうした伝統的自然状態の概念を、自身の社会契約的論拠の標準に合わせるために「原初状態」として改定し提示する。

→「原初状態」における諸個人は「無知のヴェール(veil of ignorance)」に包まれているため、「自身のいる社会的立場や有する能力(あるいは障害)、分配に関しての運の要素、さらに自分特有の心理的性向や善の構想」(Rawls 1771)を想定することができない。

・「原初状態」―「無知のヴェール」に対して歴史的事実の観点や心理学の観点から多くの批判がなされた。しかし、ロールズにとって「原初状態」は伝統的自然状態と同様に概念装置に過ぎず(いわば思考実験)、その実在の客観的明証性よりも、むしろ各人は「原初状態」から本当にロールズの正義原理を選択するのか否か、が問われなければならない。

 

・人が「無知のヴェール」に包まれていようとも、「生きている」という事実は確かである。よってロールズのいう「基本財(primary goods)」は必要不可欠である。

[基本財]

①社会的基本財……所得、富、名声、権力といった社会的制度によって分配される財

②先天的基本財……健康、気力、知性といった社会的制度の影響を受けるが、それによって分配されることはない財

→正義の原理の決定に際して、「無知のヴェール」に包まれた人は①社会的基本財を求める。そして、誰しもが自分の社会的立場・先天的能力も知らないがゆえに、公平に顧慮された人々すべてに平等な財が分配されることを合理的選択として望む。

・しかし、それでもなお「平等な顧慮」の観点から、格差原理ではない原理が選択される可能性は十分ありえる。

ex)功利主義―効用最大化原理は合理的選択か

何度も確認したとおり、効用最大化原理では誰かの不当な選好によって誰もが「公正な取り分」が剥奪される危険性を孕んでいる。よって合理的選択とはいえないが、なお他者の「公正な取り分」を得る側になりえるというギャンブル性を、それが保護されるという安全性より優先し、効用原理を好む者がいるかもしれない。

→「無知のヴェール」という概念装置は「ギャンブル性を好む」という嗜好を排除するためロールズの「原初状態」において効用原理は合理的選択になりえない。

 

・ロールズの想定では人は「無知のヴェール」に包まれているとき、「マキシミン(maximin)」戦略に基づいて合理的選択を行う。

 

[マキシミンの証明]

[Q] 人が「無知のヴェール」によって自身の社会的立場や展望及び先天的能力や嗜好について一切情報を持ち得ないとしたとき、人は次のいずれの分配効用比を望むか(合理的であるか)。

①10:7:1  ②8:4:2  ③5:4:4

 

[A] 「無知のヴェール」によって、人は自分の人生の効用がいかなる確率で分配されるかを「知らない」。また「ギャンブル性」についての嗜好も「知らない」。よって、最も不満足な結果に終わることのない可能性を持つ③が合理的選択として望まれる。

 

・③の体系は格差原理の形態に合致し、このことによってロールズのいうよう「原初状態」にある諸個人が諸原理の中から格差原理を合理的選択とすることも証明される。

第二原理(格差原理)――社会的・経済的不平等は、以下の二点を満たすように配置されなければならない。

(a) 最も恵まれない人々の最大限の利益になるように そして、

(b) 公正な機会の均等という条件の下ですべての人の職務や地位にのみともなうように。

[……]

・第二の優先順位規則(効率性や福祉の正義の優先)――正義の第二原理は、効率性の原理や、効用最大化の原理に優先される。そして、公正な機会均等は格差原理に優先する(Rawls 1971:302-3)

 

 

A 二つの論拠の収斂

・ここまでで、ロールズが正義原理を妥当であるとする論拠として機会均等と社会契約の二つの観点から挙げていたことを確認した。

→前者の論拠は直接的に所得の問題に関わってくるためよしとするとして、社会契約が論拠になる必然性はないのではないか。また、ここでいわれる社会契約論とは「ロールズ流(無知のヴェール、原初状態といった独自の概念装置)」であり、その点において恣意的な改変がなされているのではないか。

→ロールズは自身が契約論を改変していることを認めた上で、契約論が我々の直観を理解する上で機能的な概念装置であり、論拠として有用である理由を以下の三点から整理。

①かつて社会契約論者にとって、自然状態とは「各人は本来的に平等である」という直観を導く出す概念装置であった(第三節冒頭)が、原初状態という概念もまた我々の直観を鮮明に描き出す。

②第二の論拠である機会均等論は公正な機会均等の必要性を教えてくれる一方、それにどのようにして対応すべきかまで教えてはくれない。

③無知のヴェールという概念は各人を偏りのない立場に置き、その際に抱く直観を描き出すことを可能にする。

 

・ロールズのいうように契約論は我々の抱く直観を導くのに有用だが、必然ではない。

→ヘア(第二章)のように各人を「私」として想定することによって、平等な顧慮の必要性を訴えることも可能であるし、そもそもロールズにとって契約論自体は正義への直観的認識を描き出すための方法論的装置に過ぎない。

→ロールズが正議論の正当化に際して行ったのは、自身が「反省的均衡(refractive equilibrium)」と呼ぶ理論間の相互関係の構築であり、我々が抱く諸々の日常的直観を反省することと、日常から離れた公平な視座から正義を反省することによってそれが達成される。

→よってロールズの契約論に批判の矛先を向けるのはあまり建設的ではない。むしろ

①ロールズの根本的直観そのもの 

②格差原理が彼の根本的直観を具現化したものではない(=原初状態が別の反省的均衡の一部をなす)ということ

のどちらかに批判の余地があるといえる。

→①に関しては別の章にて行い、ここでは②について考察する。

 

 

B 内在的問題

1先天的不平等の補償

・先述の通りロールズによれば、原初状態から契約状態に移行するにあたって人々はマキシミンに則って社会的基本財の分配を望み(第一論拠)、また機会均等の観点から社会的立場によって不当な配分が行われてはならない(第二論拠)ため、格差原理は正義の特殊構想として妥当である。

→しかし、ここでロールズは各人が社会的不平等(例えば人種)ではなく先天的不平等(例えば障害)に基づいて分配を望む場合について言及していない=先天的不平等には社会的基本財の分配を求める権利がないことになる。

Ex)ある人は先天的に脳に障害を持ち、医療費や交通費など社会的に不利益を被る立場にある。しかし、ロールズの格差原理では彼の不利益が社会的なものではないため、社会的基本財の分配はなされないことになる。

→社会的に被る不平等も先天的に抱える不平等もどちらも確率的問題であり、この点においてロールズは自身の描き出した直観と明らかに矛盾する。

→先天的不平等の補償は確かに困難が伴う(第五節)。しかしながら、もしロールズの正義に従うならば、これは社会的不平等と同様に補償されなければならない。

 

2 人々への選択への助成

・ロールズの機会均等論は、社会的不平等とは個人に責任を帰属させることができないという直観を描き出してくれるものであった。しかし、個人の選択の結果として分配に不平等が生じた際に格差原理はどのように応えるべきなのか。

Ex)社会的・先天的に平等な(機会均等な)AとBがいたとする。

・二人はテニスが大好きだったが、Aがあらかじめあった所得を自宅へのテニスコートの設置に使ったのに対し、Bは野菜栽培への投資に使った。

・Aはそのうち所得を使い果たし社会的に不利益を被る立場になった。一方Bは野菜栽培を成功させ、富を築いた。

 

→ロールズの格差原理に則ればAは所得の分配を受ける権利があり、他方でBは所得から不当な搾取を受けることになる。このとき、格差原理が平等の直観に反するばかりか、社会的不平等を助長していることになる。

・ロールズも機会の均等が実現されている際、個人間に生じる経済的資源の分配の差異は各人の選択によるものであると認めており、「意欲を反映しやすく」「資質を反映しにくい」理論を構築しようとした。しかし、格差原理は反自己責任論的性格を強調するがあまりに、「選択による資財の不平等」にまで分配が適用されてしまうことになる。

→この問題に関しては次節でドウォーキンによる回答が紹介される。

 

 

◇第五節 資源の分配をめぐるドウォーキンの理論 p.110~128

・ドウォーキンも理論の構築に際して、ロールズの「意欲を反映しやすく」「資質を反映しにくい」という指標を受け入れるが、その到達点は格差原理ではなかった。なお本節では、複雑に入り組んだドウォーキンの理論を部分的に紹介するに留める。

 

A 選択に対するコストの支払い―意欲を反映しやすいオークション

・ドウォーキンは「意欲を反映しやすい」という指標をオークションという分配体系を想定することで実現する。

[条件]

各人の先天的資質がすべて平等であるとし、それぞれ100クラムシェル分の財を求める権利があると想定する。

[過程]

各人はオークションにて自分の選好する財を落札することができる。選好は個人の選択に委ねられ、仮に他の人と同じ財を選好したならば、その人が望む財をこちらが落札することができる。これを「羨望の基準(envy test)」と呼ぶ。

各人の「羨望の基準」を最も充足してオークションが終了すれば、平等な顧慮が最も理想的に実現されているとドウォーキンは主張する。

[解説]

この分配体系は、リベラルな平等主義の理念の三つの狙い―①個人間の道徳的平等の尊重 ②社会的、先天的不平等の確率性の軽減 ③個人に帰されるべき責任の帰属 をすべて満たしている。

→ロールズの格差原理では③が満たされなかったが、ドウォーキンのオークションでは解決されている(テニスコートを作る個人的幸福と、それに伴う所得の不平等の両立)。

 

 

B 先天的不利益の補償―保険機構

・オークションの欠点は[条件]にあるように、すべての人の先天的不平等が解決されている状況になければ、「羨望の基準」が満たされないであろうことにある。

Ex1)知的障害等の先天的不平等を抱えている人は、健常者と同じ選好を持っていたとしても、障害を理由に100クラムシェルだけでは財の落札ができない(医療費等の問題)かもしれないし、あるいは先天的不平等の解決それ自体を選好するかもしれない。

→ドウォーキンはこの問題を解決するために、保険機構によって「オークションの開始前」に先天的不平等を抱える人々への社会的資源を補償すべきであると主張した。

 

・しかしながら、先述の通り補償による先天的不平等の解消には大きな困難がある。

Ex2)ある身体障害者は肉体機能を代替する装置を作ることでその先天的不平等をほぼ完全に解消することができるかもしれない。しかし、知的障害のように継続的な支援が必要な者にとって補償費は青天井であり、他方で補償の段階で社会全体の資財を使い果たすことがあれば、オークションは開催できず、その他の人々の「羨望の基準」は充足されない。

→この際に事実上問題になるのは、「保険機構は青天井と想定される補償費に、「オークション開始前」の段階で社会的資財の全体のうちからいくら割くのが妥当なのか」ということである。

・ここにドウォーキンはロールズの「無知のヴェール」の概念を援用する。

→各人が抱える先天的不平等の相対的位置をそれぞれ「知らない」ならば、マキシミンの規則から、手持ちの100クラムシェルから数割を補償費として差し出すだろう(そして全額差し出しはしないだろう)。無知のヴェールによる「開始前の」コンセンサスによって、保健機構は先天的不平等者に割くべき補償費の額を設定することができる。

・保険機構は先天的不平等者の完全な救済をしない(できない)。それを追求すればオークション自体が不可能になり、リベラルな平等主義のねらいのうち、「②先天的-社会的不平等の確率性の軽減」を優先するあまり「③個人に帰されるべき責任の帰属」をないがしろにするからである。

 

C 現実世界の等価物

・「資質を反映しにくく」「意欲を反映しやすい」というのはロールズの指標だったが、

①先天的不平等に対しては基本財が分配されないこと(資質の反映)

②個人的選択による所得の不平等に資財が分配されること(意欲の非反映)

の二点において格差原理はその指標を実現できなかった。

・ドウォーキンもロールズの指標を目指し、

①の問題を、「無知のヴェール」によって配分を決定する(「開始前の」)保険機構の設立

②の問題を、個人の選好によって「羨望の基準」を充足するオークションの開催

 

 

によって解決した。ドウォーキンによる保険機構とオークションという理念系は少なくとも理論上は問題を孕んではいないが、実践レベルでも耐えうるものだろうか。

→確かに保険制度や課税制度は実在するが、ドウォーキンの仮説上の保険機構は以下の2点の理由からせいぜいそれらの模倣に終わる(Dworkin 1981)。

 

①「個人の不利益を決定付ける基準の非実在」

・先天的資質が劣っていても個人的選択によって後天的にそれを伸ばすことは可能であるし、先天的資質が優れた人が個人的選択によってさらにそれを伸ばすかもしれない。またある資質(強靭な肉体)に対する別の資質(論理的思考能力)の優劣は動的な価値に依存するため決定できない。

→ドウォーキンの保険機構は現実問題として、「顕在化している」不平等にしか機能しないと予測されるため、結果的に個人的選択によって成功した人々(野菜栽培者B)から財を受け取り、個人的選択によって失敗した人々(テニス愛好者A)にそれを配分するだろう。

 

②「未来における事実の不確実性」

・先ほどの例えば野菜栽培に就いたBが、環境的影響で損害を出し、所得の不平等を被る立場になったとする。オークションの段階で、AとBはそれぞれの選好によって「羨望の基準」を満たしていたが、今やBは選択に帰属されない不平等を抱えている。

→ドウォーキンの保険機構の特徴は、「オークション開始前」に補償を行うことにあった。つまり、「オークション開始後」の事態には一切の対応ができない。

 

 

・ドウォーキン自身が認めているように、「資質を反映させない」こと―保険機構と「意欲を反映させる」ということ―オークションは相互に矛盾する。前者を優先すれば、後者はないがしろにされてしまうし、その逆も真である。

→よってドウォーキンの理論は現実の実践レベルにおいて、ロールズの格差原理と戦略的区別がほとんどつかない(Carens 1985)。

・ただし、ドウォーキンによれば(マキシマムに則った)仮説上の保険機構は現行の合衆国の補償範囲を改善するだろうし、また伝統的社会主義とリバタリアニズムの間にある「第三の道」(Giddens)を示唆する。「保険機構」は社会保障、「オークション」は民間保険のそれぞれ必要性を示したり、あるいは(資質を反映させない)寛大な福祉補償や(意欲を反映させる)一定の労働条件を結びつけたりするのに有用だからである。

→ドウォーキンの提言を単純化すると、「市場における所得の不平等を事後的な課税によって調整する」というものになる。しかし、これでは市場―オークション「開始前」の課税―保険機構という彼の理論の核が実現されておらず、またドウォーキン自身も説明を与えていない。

・次にドウォーキンよりも、さらにラディカルに展開されたリベラルな平等を意図する提言を四つ確認する。

 

①「掛け金保有会社の社会(stockholder society)」―ブルース・アッカーマン

・すべての人は高校卒業時に、2%の財産税から捻出された8万ドルのまとまった「掛け金」を受給することができる。各人はそれを自分の選好に合わせて使ってよく、企業したり、株をしたり、テニスコートを自宅に作ったり、野菜の栽培に投資したりしてよい。

・能力的不平等を解決しておくことによって(資質を反映させず)、8万ドルはより個人的選択に依拠した使われ方をする(意欲を反映)と予想され、ドウォーキンの理論によく合致している。

 

②-1「基本所得(basic income)」―フィリップ・バン・パジリス

・すべての人は財産税から捻出された一定額を年度ごとに受給できる。

・往々にして基本所得には、怠惰な人々への収入源となるのではないかとの批判がなされてきた。しかし、基本所得は「まとまっていない」だけで、「掛け金」の原理と大きな差異はないといえる。無論、勢いに任せてテニスコートの設置を防いでくれる利点もある。

②-2 「クーポン資本主義(coupon capitalism)」―ジョン・ローマー

・すべての人は成人時に、自国の企業の株券を受け取ることができる。株券は個人間で取引可能であるが、現金化はできない。

・株券にすることで「掛け金」と「基本所得」の折衷案を意図したもの。

 

③「補正的教育(compensatory education)」―ジョン・ローマー

・現代社会では機会均等が志向され、一世紀前と比較にならない多様な階層が教育にアクセスすることができるようになった。しかし、文化資本や経済資本の問題から、実質的な機会均等は未だ実現されているとは言いがたく、国家はその補正のために財源を確保しなければならない。

 

④「平等主義的設計者(egalitarian planner)」―ジョン・ローマー

・先の通り、ドウォーキンの理論を実践レベルに持ち込んだときに生じる問題のひとつは「個人の不利益の原因を特定する基準の非実在」であった(本項の冒頭参照)。つまり、ある不利益が個人の選択によるものか、状況によるものかわからなかった。しかし、ローマーによれば部分的にこの問題は中立化可能である。

・まず、「状況による不利益」(年齢、障害、病気、人種、文化資本など)のリストを作成し社会のコンセンサスを形成する。次にそのリストに準拠して、社会全体を様々な階層に区分していく。

・例えば階層Aは「白人・両親とも健康」、階層Bは「黒人・片親」としたとき、階層内部で生まれる不平等は「選択による不利益」だといえるが、階層間で生じている不平等は「状況による不利益」であることになるだろう。

→無論、現実問題として階層Aであってもほとんどその利点を享受できない人がいるだろうし、リストに顕在化しない項目が正確な階層区分を妨げるかもしれない。

 

 

[本書のここまでおさらい]

◇キムリッカは功利主義から正義論の歴史の解説を始めた(第二章)。功利主義は平等な顧慮を志向実現するようで、我々の直観には沿わない点を抱えていた。とくに、功利主義における平等原理は「公正な取り分」に対する不当な利己的選好を防いでくれない(第二章第五節)。

 

◇次にリベラリズムの解説にキムリッカは移行する。その基盤を完成させたロールズは、功利主義の平等原理そのものに異議を唱え、「正義の一般構想」として「公正な取り分」を保障することに成功した(第三章第一節)。また、「正義の特殊構想」の第二原理のうち、格差原理は経済的平等の必要性を機会均等論的論拠と契約論的論拠から主張する(第三章第二節)。

◇だが、格差原理は「先天的不平等による不利益」と「個人的選択による不利益」に対応することができず(第三章第三節)、これは理論に「資質を反映させず」「意欲を反映させる」ことを意図したロールズ自身の直観にも反するものであった。

 

◇ドウォーキンはこのロールズ理論の抱える問題点をそれぞれ「保険機構」と「オークション」という二つの差し手で解決する。後者がオークションのシステムに則って「個人的選択の不利益」を顕在化させるのに対し、前者はその前段階で「先天的不平等による不利益」を解消させ機会均等なオークションの場を提供してくれる(第三章第四節)。

◇ここで理論上は「資質を反映させず」「意欲を反映させる」という理念は実現された。しかし、ひとたび具体的実践にこのドウォーキンの理論を適用させると、「個人の不利益が選択/状況か実際には特定できないこと」と「不利益の予期不可能性」という二点によって、せいぜい現行の税制度の模倣に過ぎないものにまで退行してしまう。

◇アッカーマン、パジリス、ローマンの提言(第三節C)は、実践レベルでロールズ=ドウォーキンの理念を別の類型から実現しようと意図されたものである。

 

 

◇第五節 リベラルな平等の政治 p.129~140

・福祉国家は50年代~60年代あたりにかけて勃興し、70年代に書かれたロールズやドウォーキンの著作は、ちょうど左派が社会主義をマルキシズムから支持したよう、また右派が資本主義をリバタリアニズムから支持したよう、中道によって福祉主義が支持される哲学的背景として受容された。

・しかし本章で見てきたとおり、リベラルな「平等」は単なる平等とは異なり、幾分かの経済的不平等も容認する。リベラルな平等主義において、「個人の選択による不平等」は個人に帰せられなければならないためであり、同様に「状況による不平等」は、市場において解消されなければならないためでもある。

→またしかし、今やリベラルな平等主義と福祉国家と繋がりもこれまでほど自明のものではなくなってきている。というのは、福祉国家は市場における事後的な不平等の解消に関心を払うが、ドウォーキンの理論がそうであるようリベラルな平等解消は「市場以前の(オークション開始前の)」不平等にまで焦点を合わせなければならないためである。昨今の福祉国家において「掛け金の保有」や教育補正、基本所得などといった「福祉以上」の政策にまで注目が集まっているのはその証左であろう。

・他方で、意外にもロールズはそもそもリベラルな平等主義が福祉国家の理念であることを否定している(Rawls 1971)。

→ロールズは福祉国家ではなく「財産管理の民主主義(prosperity-owning democracy)」という国家形態を提示する。そこでは、是正されるべき不平等は単に所得のみならず、人間の関係性にまで及ぶ。所得の不平等が解消されても、「男性」「白人」といった支配的階級が権力を握っている社会においてリベラルな平等は実現されない。

・以上を踏まえると、リベラルな平等主義による制度的コミットメントと理論的コミットメントは絶妙に乖離しているともいえる。ドウォーキンの理論が市場「以前の」分配について訴える一方、その現実化には至っていない。ロールズはリベラルと福祉国家間の乖離を認めたという点で優れているが、自身の掲げる具体像である「財産管理の民主主義」についてほとんど言及していない。

 

・コノリーによればリベラリズムはその正義の理念と具体的実践との間に構造的ジレンマを抱えている。曰く、正義の理念に基づいて福祉を充実させるためには、経済成長が不可欠である。他方で、経済成長を促すためには必然的に福祉に割かれる力を弱めなければならない(Conolly 1984)。

→このジレンマが、リベラリズムの伝統的実践上の立場を強調し、正義や平等といった原理に注目しない潮流と、(ドウォーキンも含める)リベラルな平等原理を再構成しようとする潮流による「リベラリズムの分岐」をもたらした。

 

・また70年代以降の世界では石油危機の影響から、経済が多くの先進諸国で低迷。消費社会、ポストフォーディズム、排除型社会の到来は、80年代世界においてサッチャーやレーガンといったニューライトによるネオリベ言説を強固なものとした。むろん、福祉の縮小と「小さな政府」化も同様の文脈での出来事である。

・それに対しリベラリズムは、所得の不平等が個人の責任として帰属できないと主張すること(第四節のローマーによる類型)でニューライト的言説を批判している。

 

・ウォルフはリベラリズムを哲学的には最善の平等理念だとしつつ、政治的には自己責任論へのエートスを高めると主張する(Wolff 1998)。つまり「状況による不平等」を不当とし、「選択による不平等」を許容するリベラルな平等のうち、後者の側面にのみ政治的な焦点があてられてしまう。

→よって「状況による不平等」も自己責任論に回収され、それに対して公的な支援を行う政府は不信感を集めることになる。また、公的な支援を正当化するためには社会的弱者本人が声を上げなければならないが、それはウルフによれば「恥辱の告白(shameful revelation)」であり、これが行われることで社会的連帯は弱まる。

→アンダーソンもリベラリズムが選択的不平等と状況的不平等の差異を強調すればするほど政治的不信感の増幅に繋がると主張する。

 

※さらにウォルフとアンダーソンは異なる政治的立場に移行すべきと主張している(第五章第三節に登場する社会民主主義)。

 

・ニューライト、ネオリベ、自己責任論に対して、リベラリズムはアッカーマン、パリジス、ローマンに代表される提言のように、よりラディカルな批判を行っていく方向性が残されている。

・また例えば性的役割分業の問題に関して、ロールズもドウォーキンも一切の回答を与えてはいない。原初状態から契約状態に移行したときに性別は加味されない。こうしたことから端的に窺えるよう、リベラリズムとフェミニズム、マルチカルチュアリズムの関係性は稀薄であり、リベラリズムがこれらの立場を経由あるいは移行する場合、それは福祉や経済的平等以上の問題にコミットすることになるため、必然的に「脱リベラリズム」を行うことになるといえる。

・とはいえ次章のところでは、リベラリズムとラディカリズムの関連性については留保し、リベラリズムが過剰に経済的、社会的平等を重視していることを批判する思想を見ていく。

 

【批判とメモ】

・ウルフが認めているよう(政治的戦略性はともかく)少なくとも学問的妥当性はリベラリズムにあるよう思える。また、人々の思考や能力を社会的に構成されているとする眼差しは社会学のそれと親和性が強いだろう。ローマンとブルデューとかやばい。

・「無知のヴェール」は概念装置としての側面が強いとのことだったが、それでもなお無理があるのではないか。個々人が何らかの選好を持っている「時点で」、社会なるものに無知でいるはずがない。→もしかしてコミュニタリアニズムがした批判?

 

 

◆第四章 リバタリアニズム p.149~242

 

◇第一節 右派理論の多様性 p.150~158

・本章では政府による市場干渉を道徳的権利の侵害にあたると考えるリバタリアンの理論と思想を中心に見ていくが、しかし自由競争に好意的であれば必ずしもリバタリアンであるわけではない。

→功利主義者は「効用が最大化」されるのならば自由競争を推奨する(無論第二章にあるよう効用の最大化が分配で達成されるならば政府干渉を好む)。またハイエクは市場が政府と対抗しうる力をつけているのが望ましいとし、自由競争を推奨する(Hyaec 1960)。

・功利主義者とハイエクによる自由競争の推奨は、条件付で状況依存的である。

→リバタリアニズムがこれらと一線を画すのは、自由市場への政府干渉―再分配規制そのものを権利侵害の悪として捉えるところである。

 

A ノージックの「権原理論」

・リバタリアンはいかにして正義と自由市場を結びつけるのだろうか。ノージックは「権原理論(entitlement theory)」の中で、個人の所有する財(所有財)に関して個人間の自由な取引を推奨する他方で、例え言われなき障害による所得分配のためであっても、政府の干渉を拒否する。

→ノージック「権原理論」

① 移転の原理――正当に移転されたものはすべて自由に移転することができる

② 正当な原初取得の原理――①の原理によって移転されるものが、原初どのように取得されていたかの説明

③ 不正矯正の原理――所有物が不正に移転されたり獲得されたりした場合、どのように扱われるべきかについての説明

・そしてノージックの公正な分配を定式化すると「各人によって自由に移転され、各人によって自由に移転されていくべきである」(Norzick 1974)

 

.・確かにドウォーキンやロールズによる理論構築における指標の一方も「意欲を反映しやすい」というものであったが、他方で彼らは社会的‐先天的不平等のために政府が市場に干渉する必要性も訴えた。

→ノージックの主張には「資質を反映しにくい」という含意がないのではないか。

・ノージックを好意的に読むならばこれに関して二つの解釈ができる。

①ロールズと同様に直観的に何かを描き出そうとするもので、これによって自由市場の魅力をノージックは伝えようとしている…本節Bにて解説 

②財産権を「自己所有権(self-ownership)」という原理から導き出そうとしており、この自己所有権の議論は平等者としての処遇に訴えるものである…第二節にて解説

 

・これ以外に、そもそもノージックの理論が平等ではなく自由を目指しているとする者や、相互利益の魅力を訴えていると主張する者がいる。

→よって本節では自由権の理念(第四節)と相互利益という契約論的観念(第三節)に関しても解説を加える。

 

B 直観的議論―ウィルト・チェンヴァレンの例

・先述の通り、ノージックの権原理論は諸個人の所有財の公正な移転を推奨する他方で、個人の置かれた先天的‐社会的状況を無視している点でロールズ的直観(あるいは我々の日常的直観)に反するものであった。

・ノージックはチェンヴァレンの例を引き合いに出して直観を描き出そうとする。

Ex)ウィルト・チェンヴァレンへの正当な所有財の移転

・チェンヴァレンは人気選手だったが、「入場料のうち25%を給与とする」という条件で、あるチームに属することになった。観客は25セントの入場料(D1)を払い試合を観戦、試合は好評で100万ドルの収益を上げた。給与としてその25%を与えられたチェンヴァレンの手元には25万ドルが残った(D2)。

・このとき、D1が自発的で正当な移転であった場合、なぜチェンヴァレンのD2が不当であるといえるのだろうか(正当である)。また第三者の取り分は「変化していない」よって第三者は二者間の自由な移転に一切の権原を持たない。

→この例は我々の自由な移転に対する直観を描き出そうとしている。しかし、チェンヴァレンが課税対象にならなければ、彼がワンシーズンの試合を終えるころ、一切の分配が得られなかった障害者は餓死していることだろう。

・ノージックも先天的‐社会的不平等を抱える人々が分配対象になることが我々の直観に即していることを認めているが、それでもなおチェンヴァレンが課税対象にならないのは自身の財産に絶対的権利が認められなければならないからだと主張する。

・ノージックのこうした(一見すると妥当性を欠いた)主張は財産権の根底にある原理、つまり自己所有権の原理の上に立脚している。

 

 

◇第二節 自己所有権の議論 p.158~188

・ノージックは自己所有権の原理を、各人を「目的それ自体」として捉えるカント的定言名言に依拠して説明する。人々はそれぞれ自己に対する権利を有しており、他のいかなる目的であっても従属的であってはならない。

・よってノージックによれば「効用の最大化」という目的を掲げ、人々の権利をそれに従属させる功利主義的社会は非道徳的である。他方で功利主義を批判したリベラルな社会は個々人の権利を尊重していることを認めている。

→ここに「人間の権利という観点から功利主義を批判する」というロールズとノージックの重要な共通点を見ることができる。

→しかしながら、その後ロールズは誰もが「公正な取り分」を受け取る権利を重視したのに対し、ノージックは「自己への権利」つまり自己所有権に重きを置く点で見解を異にしている。

・ノージックによる自己所有権は、自分の才能や、それによって産出されたあらゆるモノにまで及ぶ。ロールズやドウォーキンもこれを否定しないばかりか、リベラリズム自体がそもそも自己の所有物が他者の利己的選好の対象にならないよう、功利主義を批判するところから始まっている(第三章第一節)。

→しかし、政府が恵まれた人に課税するとき、才能やそれによって産出された財は分配の対象になってしまうため、必然的にリベラルにおいて自己所有権は部分的否定がなされる。

→よってノージックはリベラルな社会では自己所有権が損なわれていると主張する。例え飢餓に苦しむ障害者であっても、チェンヴァレンの財産を侵害することはできない。

 

・ここまでのノージックの主張を整理すると、以下の二点になる。

①ロールズのように「正当な分配」を志向することは、自己による自己の所有と相容れない。自己所有権は無制限の資本主義のみによって承認される。

②自己所有者としての人々を承認することは、人を平等者として処遇する上で決定的に重要である。

→対して、

A自己所有権を主張しても外的財の絶対的財産所有権が保護されるわけではない

B自己所有権の原理は、人々を平等者として説明できていない(むしろ適切な構想はリベラルにある) という二点の看過できない批判がなされており、以下で順に見ていく。

 

A 自己所有権と財産所有権

・ノージックによれば、あらゆる自己所有権に属する財は市場で自由に移転されてよい。しかしながら、現実問題として移転される財が「物」つまり外的財である以上は自己所有権と絶対的財産所有権は同義ではない。

Ex)ある土地を獲得した際の経済的努力や才能は自己所有物であるといえても、その土地自体を創造したのが自分でない限り財産所有権を自己所有権に帰することができない。

→ノージックの理論に従えば、以前の所有者によってその土地の権原が正当に移転されたものなのか明らかにしなければならないことになるため、厳格なリバタリアニズムは必然的に「最初の権原」―原初的取得の段階にまで遡行する。

 

 

1 原初的取得

・歴史的に見れば、原初的取得の多くは暴力によるものである。これを公正な移転としてしまうと、現在の移転においても暴力が正当化されることになる。

→よってノージックは原初的取得にまで遡行したとき、現在行われている土地の移転のほとんどが不正な移転であることになると認めており、矯正されるべき事態であると主張している(Nozick 1974)。また実際に、ノージックの矯正原理を論拠にネイティブインディアンへの土地の返還を訴える理論家もいる(Lyons 1981)。

 

・先述の通り、土地が原初的取得の段階において暴力に基づく不正な移転が行われていたという事実は、現在の土地の移転を不正なものとしてしまう。そして、このことは平等な顧慮というリバタリアニズムの理念と矛盾する。

→ここでリバタリアンが引き合いに出すのが「ロック的但し書き」である。

・ロックは当時のイギリス社会で行われた「囲い込み(エンクロージャー)」が、全体の利益から見たときに合理的であったため、賛成的立場をとっていた。

・確かに土地の私的占拠は富裕層と貧困層の不平等を拡大した。しかし、誰もが土地の権原を主張しないのであれば、今度は「共有地の悲劇」が起こってしまう。

→誰もがアクセスできる権原を持つ「共有地」に作物を栽培しても、誰もがアクセスできるが故に自分が世話をした作物を他の誰かが持っていくかもしれず、そうした蓋然性は「誰もアクセスできるのにしようとしない」という逆説的状況をもたらす。

→一方、富裕層であっても権原者がいれば、小作人として貧困層がアクセスできるし、無産者も何らかの形で作物を入手できるかもしれないため、「全体にとって」は共有地状態より囲い込み状態の方が合理的であるといえる。

 

・リバタリアンは「ロック的但し書き」によって特定の人々がある自然財に対して占有権を主張することを正当化する強力な根拠を手に入れた。

・また「ロック的但し書き」のような公正な所有に関する基準の是非は「他者の状態を悪化させない」ことに求められるとも言われる。

Ex)ベンとエイミー

・もともとベンとエイミー二人の共有地だった土地の権原をエイミーが得たとしたとき、エイミーがその土地でベンを働かせ、賃金を払うのであれば「状態を悪化させていない」ことになり、よって「ロック的但し書き」は是となる(換言すれば完全な独占の場合は非)。

・ノージックによれば、この「ロック的但し書き」は容易に満たされ、世界は私的所有地に溢れることになる。そして、外的財である自然財は自己所有権の下におかれ、絶対的所有権にも帰せられることになる。

 

 

2 ロック的但し書き

・ここまでを整理すると、ノージックは以下の段階からロック的但し書きを外的財の占有正当化の根拠として主張する

①個々人は自己所有権を有している。

②世界は原初状態において未所有であった。

③各人の元々の状態を悪化させないのであれば、共有地の占有はむしろ望まれる

④「但し書き」を満たす占有は容易であり、世界は私有地に溢れる

⑤世界から共有地がなくなれば、人間は外的財を自己所有権に帰せることができる

→このうちロック的但し書きに相応するのが③であるが、対する批判者は(a)物質的福祉の側面から「状態の悪化」を規定すること (b)占有史以前の共用の時点を比較の基準にすること という二点に焦点を合わせる。

 

(a)物質的な福祉

・ロック的但し書きのところで挙げた「ベンとエイミー」の例で、ノージックはエイミーによる土地の占有を正当なものであるとしている。またノージックによれば、自分自身の善の構想を実現することこそが、他の社会理念(機会均等など)によって犠牲にされてはならないものであるという。

→しかし、このときベンの自律性(エイミーの占有を拒否する、労働条件に異議申し立てをするなど)は一切加味されていない。そしておそらく拒否権があれば、ベンはエイミーの囲い込みを拒否するだろう。

 

(a-2)選択肢の恣意的限定

・仮にエイミーよりもベンの方に経営能力があったとしたら、あるいはエイミーとベンの共同作業によって飛躍的に生産効率が伸びたとしたら、といった想定は十分に可能である。

→しかしながら、ロック的但し書きはこれらの代替案の可能性には一切の関心を持ち得ない。ロック的但し書きにとって、肝心なのは「共有地状態」と比較して誰もが「状態の悪化」に陥っていないことただ一点だからである。

→ある代替案によってよりよい生産性が得られ、またそれによって幾分かの社会的不平等が解消される場合であっても、「共有状態よりはよい」という一点のみから占有が正当化されるのは「状態の悪化」の解消といささか矛盾しているようにも思える。

・ノージックは資本主義が「状態の悪化」を解消すると断言する。しかし、それは「占有史以前と比較して」という括弧付きのものであり、エイミーとベンの例がそうだったよう、それ以降の占有のバランスや伴う不都合に一切目を向けることはない。

 

(b)世界の原初的取得

・ノージックの論理展開のうち(a)では③が否定され、よって④と⑤も退けられた。ここでは「②原初状態において世界は未所有だった」に注目する。

→なぜ「未所有」だったといえるのか、同じ水準で「世界は誰もの共有地だった」とか「誰しもに平等に分割されていた」などと主張することも可能だろう。

→こうした想定は自己所有権の非平等主義的含意の多くを否定する。どこかの段階で移転が暴力によってされているのだから、ベンはエイミーに異議を申し立てるのである。

・さらにいえば、原初状態の世界を「共有地」だったと想定すれば、恵まれない者はロールズの格差原理に則って再分配を要求できるだろう。そしてこのことは自己所有権と両立しうる。問題となっているのは外的財が自己所有権に帰属されないことだからである。

 

 

B 自己所有権と平等

※Aでは「自己所有権によっては外的財の絶対的所有権を訴えることができない」ということを、「(a)ロック的但し書きの限界」と「(b)原初状態における未所有という恣意的な想定」を明らかにすることで否定した。本項では「自己所有権の原理が人々を平等者として説明できていない」ということが示される。

 

・Aで示されたとおり、自己所有権の原理はノージックのいうように資本主義と必ずしも結びつくものではない。例えば、外的財をめぐる想定を変えることによってロールズやドウォーキンの提示したような福祉国家のモデルの必要性を訴えることもできてしまう。

→では自己所有権の保有者がリベラルな平等の体制よりも、リバタリアンな体制を好む理由はどこに求められるだろうか。ここでは順に①同意に関して ②自己決定に関して ③尊厳に関して 確認していく。

 

1 同意

・ノージックは、できるならば経済体制は自己所有の権利者である自由な主体間によって同意されたものが望ましいと主張する。しかし、先の通り「ロック的但し書き」はベンの同意がなくとも達成されることになっていたため矛盾が生じる。

→すべての人を自律者として捉えるならば、同意がされるか否かは様々だろうし、そこから生まれる経済体制も様々だろう。ロールズのように同意に関して「無知のヴェール」を導入することもできるだろうが、それがもたらすのはリベラルな帰結だった。

 

2 自己決定

・A-(b)のように世界が未所有物ではなく、共有物だったと想定したとき外的財は事実上、自己所有権に帰することができなくなる。ある土地がベンのものでもエイミーのものでもあるとき、その土地を所有しようとすると互いの許可が必要となるためである。

→ノージックに従えば、互いの権利を形式的自己所有権(法的権限)によるものとしたとき、各人が人生を「目的自体」として構想する、より実質的な自己所有権―「自己決定」(self-determination)が望まれるはずである。

→しかし、ノージックは実質的自己所有権―自己決定が最も実現される体制を無制限の資本主義であると主張するが、これは誤りである。確かに、資本主義において資本家や富裕層などの恵まれた身分にある人々の自己決定は尊重されるが、例えば資本家の下で「同意」なく働く労働者は自身の人生を「目的自体」として構想できないだろう。こうした不平等の容認は事実上の奴隷制の復古に至るとまでいえる。

→むしろ、実質的自己所有権―自己決定を最も可能なかたちで実現するのはリバタリアニズム的体制ではなく、リベラルな平等の体制である。そこでは資本家や富裕層の財は再分配の対象になるが、それも容認できないレベルではなく、代わりに労働者や貧困層は(完全とはいえなくとも)実質自己所有権を取得することができるだろう。

 

3 尊厳

・ノージックは自己決定の重要性について述べるとき、それを個々人の尊厳に関連させる。しかし、2 自己決定で見たように、確かにリバタリアニズムは資本家の自己決定―尊厳を保護するだろうが、リベラリズムはさらに労働者の自己決定―尊厳も保護する。

 

・上記のように同意、自己決定、尊厳の三点からリバタリアニズムを擁護しようとしてもことごとく失敗に終わり、突き詰めるとむしろリベラルな平等に帰着してしまう。というのは、形式的自己所有権はそもそも多くの体制と両立可能であり、一方の実質的自己所有権―自己決定は2と3にあるようリバタリアニズムではなくリベラリズムを志向する。

→ノージックの主張とは裏腹に、自己所有権はロールズ的再分配とその原理を否定することができない。

 

 

◇第三節 相互利益論としてのリバタリアニズム p.188~202

・多くのリバタリアンもノージックの自己所有権に基づく主張がリベラルな帰結をもたらすことを認めている。彼らによれば、ノージックの失敗は彼が自己所有権をカント的平等(「目的それ自体」)に関連させたからであるという。

→リバタリアニズムが平等の理論でないとすると相互利益の理論(本節)か自由の理論(次節)である二つの可能性が示唆される。順に見ていこう。

 

・リバタリアニズム的相互利益論は社会契約論に依拠して説明されることが多く、これは同じく契約論を論拠とするロールズの的再分配論との混同を生む。そのため、まず二つが契約論のどこに依拠しているか確認する。

[ロールズ的再分配論]

・ロールズによれば、マキシミンの法則から格差原理は「無知のヴェール」に覆われた原初(自然)状態の人々が選択されることになる(第二章第三節)

・ここでは、自然状態という概念が(現実に社会契約論が封建主義を批判した歴史からも窺えるよう)道徳的平等を描き出す装置として機能している(第二章第三節冒頭)。

 

[リバタリアニズム的相互利益論]

・相互利益論的文脈における契約論は、道徳ではなく合理性を強調するのに用いられる。

・自然状態から契約への移行は、いわゆる秩序問題を解決し、各人の財を保護するのに合理的である。パーソンズのいうようなコードが生まれるとしても、それは相互利益の結果であると説明される。

→これをゴティエは「道徳の考案(moral artifice)」とした。

 

・ここで相互利益論において問題となるのは、コードの遵守が「全体にとって」合理的であっても、個人レベルにおいては必ずしもそうはならないということである。相互利益の観点から皆がコードを遵守しているとき、「抜けがけ」をすることによれば利益を独占できるだろう。あるいは、誰もが合理的行為として「抜けがけ」を選択してしまい、結果的に相互利益が損なわれるという場合も想定できる(いわゆる「囚人のジレンマ」)。

→ホッブズ自身も「抜けがけ」による契約の破棄について言及しており、法などの強制力を働かせることによって「抜けがけ」を非合理的選択にしてしまう対応を提示した。

・他方でゴティエはこうした強制力による「抜けがけ」の抑止を望ましくないものとし、代わりに「制約条件つきの最大化(constrained maximization)」の原理を提示する。

→各人が相互利益の観点から互いに協調すべきと考える際に、価値合理性(Parsons)を「道徳」として理解し、その「制約条件」の内部で相互利益を「最大化」するよう努める。

 

・現実問題、ある契約に従うか否かは各人の取引能力に依存している。取引能力が高い人であれば、従わないのが合理的であるし、逆に低い人は従った方が懸命であろう。

→ロールズはこの問題を「無知のヴェール」―原初状態という概念装置によって乗り越えた(各人は各人の取引能力の高低を「知らない」)。他方で、ゴティエの相互利益論においては未解決問題である。

→今一度確認するとロールズの再分配論では契約論は自然権道徳を強調するのに用いられたのに対し、リバタリアニズム的相互利益論では合理性を強調する。つまり相互利益論は道徳や社会秩序に対する本質主義的眼差しを真っ向から否定する立場にあるといえるが、これによってノージックのように自己所有権を自然権的道徳(カント的平等)に帰属させることができなくなっている。

→相互利益論を支持するリバタリアンの中には、「弱者でも強者を殺す力がある」という素朴な事実を自己所有権の論拠にする者もいるが、これは現実的ではないだろう。

→相互利益論者のいうように道徳が社会的に構成されたものであるか、ロールズが契約論という概念装置を通して説明したように道徳が各人の人格的本質に帰属されるものであるか、結論づけることができない。

→ただし、仮にどちらの場合が正しくともリバタリアンを擁護することはない。前者の場合は外的財の再分配を否定できるが(不平等を容認できるが)、自己所有権を肯定できない/後者の場合は自己所有権を肯定できるが、外的財の再分配を正当化できない(こちらの場合、前節の通りリベラリズムに至る)

 

 

◇第四節 自由としてのリバタリアニズム p.202~225

・リバタリアンの中には、リバタリアニズムが自由の理論であると主張する者もいる。

→ノージックも確かに個人の具体的自由の重要性を認めているものの、自己所得権の原理としてあるのはあくまで「目的それ自体」として「平等」に承認されるべき個々人の人生であるため、これはノージックと見解を異にするものである。

・ではリバタリアニズムがそもそも自由の原理に依拠した理論としたらどうか。その場合、以下の論理で資本主義が擁護される。

ⅰ)無制限の市場にはより多くの自由がある

ⅱ)自由は人生における根本的価値である

ⅲ)資本主義体制ではより多くの自由が保障される

→日常的な談義ではこの論理から資本主義を擁護する者は多い。しかし、理論家は諸自由の序列付けが非常に困難であることを承知しているため、この論理は採用しない。

 

1 平等主義的理論における自由の役割

・本章までで功利主義、リベラリズム、リバタリアニズムの理論を見てきた。それぞれ道徳的平等を理論の核においていたことから、本書では平等主義的理論として扱われてきたが、諸理論は具体的(個別的)自由の価値を認めていないわけではない。

→ミルらの(快楽主義的)功利主義は諸個人が選好を実現させれば効用は最大化すると考えていたし、ロールズのリベラリズムは政治的、基本的自由に辞書的優先順位を与えようという試みであるし、ノージックは自己所有権から形式的自由の保護を主張する。

→平等主義的理論における具体的自由の扱われ方は以下の二点に整理できる。

①ある特定の具体的自由が人々の利益を促進するか否か―いかなる具体的自由の序列付けが望ましいのか(どの具体的自由が重要か)

②重要な具体的自由ならば人々の利益のために促進されなければならない―いかにして重要な具体的自由は人々の利益を平等に顧慮するのか

・ロールズならば具体的自由の配置(正義の第一原理)を、各人の平等な顧慮(正義の第二原理)を目指す契約論と機会均等論によって導き出した。本書ではこの具体的自由の配置決定のしかたを「ロールズ的アプローチ」と呼ぶ。

 

・他方、前節で見た相互利益論でも個別的自由の配置決定はなされる。ロールズ的アプローチとの相違点としては、相互利益論にとって契約とは各人が合理性から相互利益を志向した結果であり、個別的自由の配置決定が(平等な顧慮ではなく)相互利益に準拠する。

→しかし、前節で見たとおり平等な顧慮と相互利益のどちらに準拠して個別的自由の配置決定を行ったところで、リバタリアニズムは擁護されない。

→これに対して「自由基底的(liberty-based)」と自称するリバタリアンは、

①諸個人の個別的自由の追求が、社会全体の一般的自由の総量を最大化する

②他の人との自由が両立される限り、諸個人は最大限の自由を実現することができる

という二つの自由原理を残された道として選択する。それぞれ順に確認する。

 

2 目的論的自由

・①の自由原理に従えば諸個人が個別的自由を追求すれば、社会全体の自由の総量が最大化されるという。

→これは第二章に登場した目的論的功利主義と同様の発想であるため、ここでは「目的論的自由」と呼ぶ。そして、これも第二章で確認したように、個別的自由の実現は自由総量の最大化(選好充足が効用の最大化)をもたらすとしても、日常的道徳に反する結果にときに帰結する。

Ex)人口増加は自由総量を最大化させるだろう(自由の「総量」に限定すれば中国が世界最大なのではないか)。しかし、伴って個々人に対する社会保障の質が落ち、先天的-社会的不平等が容認されるようになったとしたら、それは個別的自由が犠牲にされていることになる。

→自らの立場を自由基底的であると主張するリバタリアンは、至上価値を自由に認めているというが、それを実現するためには上記の例のように個別的自由の平等な顧慮を避けることはできず、よって自由基底的であるとは結果的に平等基底的である。

 

3 中立的自由

・②の自由原理では「他の人との自由が両立される限り、諸個人は最大限の個別的自由を実現することができる」とされていた。ここではこれを「最大限の平等の自由(greatest equal liberty)」と呼び、名の通り平等主義的理論の内部でも実現可能である。

・しかし、「ロールズ的アプローチ」と「最大限の平等の自由」のアプローチは決定的に異なっている。

→前者が「われわれの利益をどのように促進するか」(格差原理)という観点から個別的自由の配置決定(評価)をしたのに対し、後者は「ある特定の個別的自由によってわれわれにどの程度の量の自由がもたらされるか」という観点からその個別的自由の配置決定(評価)をする。

※ざっくりといえば後者の評価軸は、この自由は「どれだけ自由の量が多く含まれる個別的自由か」という量的なところにある

 

・ある特定の個別的自由に含まれる自由の多寡を評価するためには、まず「何が自由か」ということが定義されなければならない。一般に権利の行使という観点から自由が定義されることがあるが、このようにポジティブな―「道徳的(moralized)」な定義は「最大限の平等の自由」アプローチでは使えない。

→なぜならば「最大限の平等の自由」が最も根本的な価値であるため、これに対してネガティブな―「非道徳的」なものが「自由ではない」として排除される形式でしか自由を定義することができないためである(いわゆる否定神学的)。

→こうした評価軸に準拠すると「最大限の平等の自由」は下位カテゴリとして、

①単純に個別的自由に含まれる自由の多寡によって評価する「中立的」見解(本項)

②単に自由の多寡のみならず、そこに様々な選択の価値や重要性を加えたより質的な評価を加えた「目的志向的(purposive)」見解(次項)

の二つに区分される。

 

・中立的自由は単純に個別的自由に含まれる自由の多寡を評価の対象とする。しかし、そもそも自由は完全に量的比較に還元することが可能なのだろうか。

Ex)ロンドン人とアルバニア人の自由

・ロンドン人とアルバニア人を比較したとき、多くの人は前者がより多くの自由を享受していると評価するだろう。事実、ロンドンはアルバニアにはない信仰の自由や投票権が国家によって保障されている。他方でアルバニアは交通量が少なく、移動に関してはロンドンより自由である

→中立的自由において、評価されるのは個別的自由の内容ではなく純粋な量であるため、「ロンドン人の政治的自由」と「アルバニア人の移動の自由」を比較することができない(自由の配置決定ができない)。

→中立的自由では「不道徳」でないならば自由はすべて等しく自由である。よって量的に還元できない以上、自由の配置決定は不可能である。

                                                                                             

4 目的志向的自由

・中立的自由においては、個別的自由に含まれる自由の多寡によって自由の評価を行うとされていた。しかし、すでに見たとおり自由が量的還元できない以上、質(内容)に注目しなければならない。そこで、目的志向的自由は自由の質に注目する。

→ロールズが平等な顧慮(契約論的論拠)の観点から個別的自由の配置決定をしたのに対し、目的志向的自由は自由という単一的尺度から個別的自由の評価をする点で異なっている。

→問題は「最大限の平等の自由」的アプローチが目的志向的自由という尺度を採用すると、「最大限の」という語が機能不全になり(語義矛盾)、事実上ロールズ的アプローチにおける自由の焼き直しに過ぎない主張をすることになる。

・まず目的志向的自由の論理展開を確認する。

①各人の利益は重要であり、しかも平等に重要である。

②人は自由の最大量に利益を有する。

③よって人々は他の人との自由を両立する限りで、最大限の自由を享受すべきである。

④我々の利益を所与とすれば、xに対する具体的自由は重要である。

⑤よってxに対する具体的自由は、われわれの自由を増大させる。

⑥よって人々は他の人とのxに対する自由と両立する限り、xに対する権利を有するべきである。

・次にロールズの個別的自由に関する論理展開を確認する。

①各人の利益は重要であり、しかも平等に重要である(契約論&機会均等論)。

④我々の利益を所与とすれば、xに対する具体的自由は重要である。

⑥よって人々は他の人とのxに対する自由と両立する限り、xに対する権利を有するべきである。

→④から⑤の「自由を増大させる」は何の意味も付け加えていない(同様に②から③の「最大限の自由を~」も)。よって、「最大限の平等の自由」というアプローチ自体がそもそも不要であり、ロールズ的アプローチの蛇足に過ぎないといえる。

・そもそも、個別的自由を自由という単一の評価軸の中で評価しようとすると、量的還元以外に方法はなくなってしまう(中立的自由)。しかしながら、現に「信仰の自由」や「身体の自由」、「経済活動の自由」といった諸自由の価値は多様であり、量的還元は不可能である。

・「最大限の平等の自由」―中立的自由、目的志向的自由がロールズ的アプローチに帰結するということは、自由が要求されるときに、我々は「自由の最大限の平等量」に権原を有しているのではなく、むしろ「特定の個別的自由を重要なものにしている平等な顧慮」に対して権原を有しているということ」を示している。

 

※入り組んできたので一旦整理

◇まずノージックによってリバタリアニズムが自己所有権に依拠して展開されたことを確認した(第一節)。ノージックは各人を「目的それ自体」とし、自己所有権をその各人の平等の下に置く。

→しかし、外的財の所有権の問題を考えると、ノージックの主張とは裏腹に、形式的自己所有権は他の体制と両立可能であり、実質的自己所有権に関してはむしろリベラルな平等の体制(ロールズ)にてよりよく実現されていたことが明らかになった(第二節)。

 

◇そもそも、自己所有権を「目的それ自体」としての各人の平等に帰するからロールズに至るのではという主張のもと、次に相互利益論(ゴティエ)から説明を試みた(第三節)

→相互利益論は外的財の不平等を認めるが、自己所有権と矛盾してしまった。

 

◇最後に平等でも相互利益論でもなく、自由からリバタリアニズムを考えた(第四章)。

→目的論的自由はそもそも不当な論理であり、「最大限の平等の自由」(中立的自由と目的志向的自由)は結局ロールズ的アプローチに帰着した。

 

 

B 自由と資本主義

・道徳的定義は権利論に依拠しているため立ち行かず、中立的定義においては中立的自由が量的に測定不可能であり、目的志向的定義は事実上ロールズ的アプローチとの間に混乱を招くだけであった。

→このようにリバタリアニズムを自由基底的とする三つの自由の定義による擁護論は論理的な破綻か、むしろリベラルな平等への帰結をもたらした(一般に考えられているように資本主義へは至らなかった)。

・だが、自由と資本主義は日常的談義のレベルでも学術的討議のレベルでも互いに結びついていると考えられている。さらに自らを自由基底的とする資本主義信仰のリバタリアンのみならず、それを批判するリベラルですらこのことを前提化している。

→本節では、福祉国家の方が資本主義よりも自由を実現する体制ではないかという可能性について考える。

 

・フルーは福祉国家的制度が撤廃されれば、経済活動の法的制約が緩和され、より多くの中立的自由が保障されると主張する。これは我々の日常的な「資本主義―自由」という感覚に合致する。

・ところで、自由は正確には「xが、yをする際に、zから自由である」と記述される。xは主体、yは行為、zは妨げである。

→フルーの主張はy-経済活動、z-福祉国家制度について言及しているが、z-主体が誰であるかということに触れられていない。つまり、資本主義において自由なのは誰なのか明らかにされていない。

→確かに、資本主義は資本家の自由を保障するだろうが、その下で働く労働者、あるいは無産者の自由を保障するとは必ずしもいえないだろう。むしろ、所得の再分配はすべての人を平等に顧慮するため、より多くの個別的自由を実現するかもしれない。

・自由基底的リバタリアンの中には財産所有者の自由こそ優先されるべきであると主張する者がいるかもしれない。しかしながら、前節で見たとおり「最大限の平等の自由」は「他の人との自由が両立されるとき」という括弧付きであるため、これは不当である。

 

・これで福祉国家は自由を制約し、資本主義は自由を制約しない、というリバタリアンの標準的主張の誤りが明らかになった。むしろ、リバタリアンの想定しているような無制限の資本主義とは事実上のアナーキズムである。ではなぜこうした誤りが未だに信じられているのか。

→リバタリアンの主張における「自由」の定義が一貫性を欠いているからである。

a)福祉国家で財産所有者の「自由」が制約されているとするとき、リバタリアンは非道徳的自由の定義に訴える。確かに、これは正しいが、しかし資本主義でも同様である。

b)資本主義国家で無産者の「自由」が制約されていないとするとき、リバタリアンは道徳的自由の定義に訴える。確かに、これは正しいが、福祉国家でも同様である。

→aからbの間で、自由の定義が非道徳的なものから道徳的なものへ移行してしまっている。では次に、リバタリアンが自由の定義を一貫させたそれぞれの場合を仮定して考えてみる。

①中立的自由と定義した場合

・[命題]資本主義における自由市場は各人の中立的自由を増加させる

→まず、自由市場に法的制約があった場合とどちらの中立的自由が多いか比較されなければならないが、その多寡の比較基準が存在しない(量的比較が不可能)。仮に命題を真としても、その中立的自由がどのように重要なのか明らかでない。

②目的志向的自由と定義した場合

・[命題]自由市場は最も重要な個別的自由をもたらす

→確かに、経済活動は人生における重要な個別的自由である。しかし、それは財を持つ者の主張であり、財がない者は経済活動にそもそもコミットできず、よって彼らには価値のない個別的自由である(自由の主体は誰か)。また、ノージックの自己所有権は外的財の問題を孕むため、第二節にあるようリベラルな平等に帰着する。

③道徳的定義の場合

・[命題]自由市場は人々の個別的自由を保障する

→道徳定義は命題自体が真でなければならない。しかし、リバタリアンはこれまでに命題を真とする妥当な根拠を挙げることはなかった。そして、おそらく今後も権利論や相互利益論の文脈から挙げることは論理的に不可能であると考えられる。

 

・三つの自由の定義によっては少なくとも資本主義に帰結することはなかった。これはそもそも自由基底的という立場それ自体に問題があるという可能性を示唆している。

→政治において語られるのは、人の根本的利益を仮定した際に、どの個別的自由が最も価値があるのか、また平等や相互利益が仮定されたとき、いかなる自由の分配が望ましいのかということである。自由それ自体及び自由の多寡は政治で語られることではない。

 

 

◇第五節 リバタリアニズムの政治 p.225~232

・リバタリアニズムはリベラルな平等で主張される「状況の矯正」を、カント的平等主義、相互利益、あるいは自由といった諸原理に訴えることで拒絶する。

・本章で確認されたのは(リバタリアニズムの思惑とは異なって)、むしろそうした諸原理を突き詰めるとリベラルな平等―「状況の矯正」に帰着してしまうということであった。

→しかし、現実における「状況の矯正」の実践は複雑であり、リバタリアンは「滑りやすい坂」(ゼノンのパラドックスに近い発想)という差し手からこれを批判する。

 

・リベラルは「選択の尊重」と「状況の矯正」という二つの指標を有している理論だった。

→「状況の矯正」は人種、障害、経済資本などの社会的次元における状況の不平等を解消するが、では個人間的次元の不平等に対してはどうなのだろうか。

Ex)リベラルな平等において「先天的に同等の能力を有し、出自もほぼどう階層の二人にとってテストを頑張る/否か」は「選択」の問題として扱われるだろう。

→しかし、努力ができるか否かは自尊心によるものが大きく。親の言葉に二人の「選択」が依存しているとしたらどうだろうか。また、こうした複雑性を縮減するため、養育は全て国家機関に委ねられるべきだろうか。

 

Ex-2)リベラルな平等において「生まれつき片目が見えない」という状況は先天的に抱える「状況」の問題として扱われるだろう。

→「状況の矯正」を生物学的移植にまで適用したらどうだろうか。つまり、片目のない人間にはある人間から生まれた時点で移植するのである。

→ドウォーキンは「容姿はアイデンティティに関わる部分であるため矯正の対象にならない」と主張するが、では血液や腎臓ならばどうなのだろうか。

→「選択」/「状況」の間に恣意的な境界線が引かれている(一度「状況の矯正」を提言すると「滑りやすい坂」を「隷属への道」(ハイエク)まで転げ落ちてしまう)。

 

・リバタリアニズムのリベラル批判として「滑りやすい坂」の議論を取り上げた。しかし、現実世界にて小さな政府を掲げるニューライトやネオリベといった勢力が台頭している事実と、リバタリアニズムはほとんど関係ない。

→これらの台頭はむしろ70年代の景気後退とそれによる福祉国家システムの凋落に起因する。先進諸国にて福祉システムの破綻が露呈してしまったことは、個人財に対する体制の干渉を各人にとって消極的なものにしてしまった。一言でいえば、成員の福祉制度及び国家への信頼と経験的事実の問題が、ニューライトとネオリベを台頭させた。

・ここで一般に右派と左派によって争われるいくつかの論点を整理する。

(a) 貧困はどの程度の機会の不平等、不利益によるものなのか。不平等の解消は結局(左派のいうように)社会的弱者の救済につながるのか、それとも(右派のいうように)怠惰な人々を助成するだけなのか。

(b) 福祉国家は(左派のいうように)社会的弱者の社会的進出を促したのか、(右派のいうように)福祉中毒者の集団を作りあげてしまっただけなのか。

(c) 貧困に「選択」によるものと「状況」によるもの両方があるならば、(右派のいうよう)個人の責任の問題として向き合うことが先決だろうか、(左派のいうよう)まず彼らを取り巻く環境の是正が先決だろうか。

(d) 国家には(左派がいうよう)社会的な不平等を解消する力があるのだろうか、あるいは(右派のいうよう)複雑系への干渉は社会状況を悪化させるだけだろうか。

→ワイドショー等でも取り上げられるレベルの議論であるが、ここで注目すべきはネオリベ対リベラルという構図を描けても、リバタリアン対リベラルという構図は描けないということである。つまり、現在台頭している「右派」とリバタリアニズムとの思想的関係性は稀薄であるかあるいは皆無である。

 

 

【批判とメモ】

・ちょっとリベラル贔屓なのではないか。リバタリアン側のリベラル批判について知りたい。→ノージック=ロールズ論争(70年代)あとアメリカならハイエクとか?

・第五章の「滑りやすい坂」の議論は、選択/状況というロールズらによる一次的観察を二次的観察している点で興味深い。またリベラル的正義は選択/状況という観察に準拠したコミュニケーションであると想定することができるのではないか。もちろんルーマン的な意味で。

・あと伏線回収が……。第三章で予告していたのに、ロールズの自由原理の話に触れられないと思ったら、第四節のところで出てくる自由の配置決定の議論がそれか。明言しとけし。

→[追記]と思ったら第六章第五節だったでござるの巻

bottom of page