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Nagel,Thomas 1979→1989 『コウモリであることはどのようなことか』

トマス・ネーゲル 1979→1989 『コウモリであるとはどのようなことか』

 

 「意識の存在が、心身問題を真に困難な問題にしている。おそらくはそのためであろうが、この問題に関して現在なされている諸々の議論は、意識の存在にほとんど注意を支払わないか、またはそれを明らかに誤って捉えている。」p.258

→最近では特に心的現象を物理現象に還元しようとする、還元主義の潮流が台頭している。

 

 「その形態がどれほど多様であろうとも、ある生物がおよそ意識体験をもつという事実の意味は一定であり、それは根本的には、その生物であることはそのようにあることであるようなその何かが存在する、という意味なのである。[…]ある生物が意識をともなう心的諸状態をもつのは、そのせいぶつであることはそのようにあることであるようなその何かが――しかもその生物にとってそのようにあることであるようなその何かが――存在している場合であり、またその場合だけなのである。」p.260

→このように「意識がある」ことの主観性を「経験の主観的性格」と呼ぶ。これは主観的性格が存在しないことと両立可能であるため、「心的なものに関して最近考察された周知の還元的分析のどれによっても捉えられない。」p.260

〇心の物理的な根拠を説明するため最も困難なことは、通常の物体を物理的または化学的に還元する際、「その物体の現象学的諸特性を除外した――つまり、それらは人間である観察者の心に与えた影響に過ぎないという形で――のと同じようには、この場合の還元から体験の現象学的特性を除外するわけにはいかない、という点である。」p.262

→客観的な物理理論から、体験に結びついた主観性を捉えられない。

 

「[…]しかしコウモリのソナーは、明らかに近くの一形態であるにもかかわらず、その機能においては、われわれのもつどの感覚器官にも似てはいない。」p.263

→したがってコウモリのソナーを人間である我々が、主観的に経験することは原理的に不可能である。ソナーを想像することはできても、それは「私がコウモリであることはどのようなことか」考えているのにすぎず、「コウモリがコウモリであるとはどのようなことか」という経験については明らかになってはいない。「それゆえ、もしわれわれ自身の場合からの推定が、コウモリであることはどのようにあることなのかの想像のうちに含まれているとすれば、そうした推定は実行不可能なのである。それが現にどのようにあるのかについては、われわれは図式的な概念的理解しかもちえない。」p.265

→類型(空を飛べる、ソナーを発信するなど)を持ってはいるが、その体験を主観的に記述することは不可能である。

 

〇特定の視点を具現している事実を理解するためのレイヤーが2つあることがわかる。

①客観的事物――類型……「特定の視点から観察可能ではあるが、その視点に対しては外的な関係にあり、したがって他の視点からも、そして同種の生物によっても異種の生物によってもとらえられうるのである。」p.270

 

②経験の主観的性格……「特定の視点との結びつきがはるかに顕密」p.270

→前者については自分自身の視点以外からも接近することができる。だから例えば性的作用といった客観的現象は「多くの視点から、また、異なる知覚システムをもった種々の個体によって、知覚され、理解されうるものの領域に属するのである。」p.269

 「これに対して、体験の場合には、特定の視点との結びつきがはるかに堅密であるように思われる。体験の主体がそこから体験を把握している視点を別にすれば、体験の客観的な性格ということで何が意味されうるのかを理解することは困難である。結局のところ、もしコウモリの視点を取り去ってしまえば、コウモリであることはどのようなにあることなのかに関して、いったい何が残るのであろうか。」pp.270-271

 

 「体験の主観的な性格は一つの視点からしか十全に把握されない以上、客観性の増す方向への移行――すなわち、特殊な視点への結びつきが減る方向への移行――は、現象の本性へと近づくことにはならず、むしろそこから遠ざかることになるのである。」p.272

→還元主義の主張にあるように物理的事象が心的事象であるとは言い切れない。「心的述語と物理的述語がどうして同じ事物を指示しうるのかについての説明はなく、他の分野における理論的同一性とのアナロジーによる説明は成功していない。」p.275

 

 「主観的なものと客観的なものの間にあるギャップを問題にするには、また別の方向からのアプローチも可能なのである。[…]目下のところわれわれは、想像力に頼る以外には――つまり体験する主体の視点をとってみる以外には――体験の主観的な性格について考えることがまったくできない。」p.277

→体験の主観的な性格の一部がその体験を持ちえない者にも理解できるよう記述されるべきだとは言うことができそうだ。

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