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自由主義の再検討――ハイエクとシュミットの視点から

自由主義の再検討――ハイエクとシュミットの視点から

 

問題の所在

2016年3月、戦後日本が維持してきた専守防衛の原則を大きく転換する安全保障関連法案が施行された。集団的自衛権の行使を容認するこの法案は、長らくポリティカル・アパシーを揶揄されてきた若年層においても、是非を問わず様々な議論を引き起こし、60年代における「政治の季節」の再来を感じさせた。そしてこの時、特に反駁側の論拠として引き合いに出されたのが、古くから馴染みのある政治的理念「民主主義」である。例えば安保法案反対を掲げた団体の最右翼——というより最「左」翼のSEALDs(Students Emergency Action for Liberal Democracy/自由と民主主義のための学生緊急行動)のリーダー奥田愛基は、作家の高橋源一郎との対談の中で、次のように語っている。

「たしかに名指しで「安倍辞めろ」って言ってるけど、民主主義の根本の話をすると「愚かな発言をしてはいけません」と一緒。陶片追放みたいに、名前を書いてダメ奴は追い出す。ギリシャから完全に追い出すというよりも、くじ引きでまずいの選んじゃった責任は俺らにもあるから、それを引き受けましょうと。制度的には平等だという民主主義のフィクションを受け取るなら、俺らがあの権威を与えていることになっている。自分たちの民主主義制度を、彼の考える政治制度から取り戻すっていうか、「民主主義はもうちょっとこっち側っすよ」って言う感じで。」[奥田 2015 p.191]

「(安倍政権が掲げる民主主義について)「だんだん定義がおかしくなってきてるよ。そこまで言っちゃう?」って。で、定義するのは彼じゃないっていうことを何回も言いたい。「そうか、安倍さんが言ったから、これは平和安全法制か」とはならないでしょ。」[同 p.192]

 上述の対談は『民主主義ってなんだ?』と銘打たれた一冊に収録されており、引用部から窺えるように、奥田は「正しい」民主主義の定義を取り戻す闘争的側面をデモに見出しているきらいがある。

 

 他方で日本経済新聞が3月29日朝刊に掲載した世論調査によれば、安保法案を「廃止すべきだ」とする人は35%で、「廃止すべきではない」とする43%をやや下回っている。また同月19, 20日に産経新聞が行った調査では「自衛隊の役割を拡大する安全保障関連法は、日本の安全保障にとって必要ですか」という問いに対し、「必要」57%が「必要だと思わない」35%を大きく上回った。この数字にどこまで妥当性が求められるか確定的なことはいえない。というのも周知のとおり、各紙の政治的姿勢がこの類の世論調査には反映されるためで、例えば安保法案に明確に反対の立場をとる毎日新聞が同月5日、6日に行った調査では「評価しない」49%、「評価する」37%で、産経とは逆に反対派の意見が上回っている。しかしながら極端に賛成/反対派のいずれかが勝っているわけでもない、ということも数字を見ればわかるだろう。すでに法案が施行されたとはいえ、数字の上における世論は拮抗状態にあるといえる。

 こうした状況下において、奥田が立てる民主主義の「正しさ」をめぐる問いは空転するよう思える。明白な多数派がいるわけでもなく、また各人の信奉する包括的教説が異なるという「穏当な多元主義の事実(the fact of reasonable pluralism)」[1]を所与とするのであれば、そもそも民主主義の正当性はいったい何が保証してくれるのだろうか。また奥田が「自分たちの民主主義制度」「彼の考える政治制度」と述べるとき、「自分たち」「彼」という言葉は誰を指示しているのだろうか。こうした問いを突き詰めて考えたところで、議論が泥沼化している現状が何よりの証左であるように学術的好奇心を充足してくれる答えは得られないだろう。

 

 本稿では安倍/奥田(の民主主義)どちらが正しいといった稚拙な二項対立を検討するわけでも、あるいは仰々しく民主主義において、正当性を担保してくれる普遍的政治原理を珍妙な思考実験で導出するわけでもない。そうではなく、そもそも争点となっている「権力/民主主義」という対立図式が妥当なものか問うところから議論を始める必要がある。すなわち「民主主義は権力の乱用に対する防波堤となりうるか/否か」という問いへの応答が本稿の至上目的としてある。

 結論から言えば答えはノーである。私たちが学校教育で習ってきたように、民主主義が各人に参政権を保証し、間接民主制という経路を通して権力を構成している事実は疑いようもない。しかしながら、それと同時に権力が民主主義を構成している事実にも目を向けなければならず、この相互性が認められる以上、民主主義が権力の抑止力になることはない。上述の事実を明らかにした上で、本稿では民主主義ではなく、自由主義を権力の対立物として提起したい。しかし、よく知られた通り、自由主義は外延の多い極めて多義的な理念である。したがって、自由主義の体系的な概念整理も課題の一つとしてある。

本稿はこれらの目的を、カール・シュミットによる『現代議会主義の精神史的状況』と、フリードリヒ・ハイエクによる『隷属への道』という2つのテクストを接木することで遂行する。高名な両者ではあるが、シュミットは(憲)法学者、ハイエクは経済学者と専攻するディシプリンは異なっている。しかし、後に明らかになるように両者の民主主義に対する冷淡な眼差しと、自由主義の肯定的な展望は不可思議なほど似通っているのである。

 

 

Ⅰ 民主主義と無知

 民主主義という概念はもともと古代ギリシャにおいて、直接民主主義を指示する語として誕生したとされ、長い歴史の中で様々な変遷を辿ってきた概念である。それをここで緻密に整理するのは骨が折れる上に、本稿の趣旨からも外れるため、ここでは近代民主主義の外格と課題を、経済学者のシュンペーターの主張に依拠しつつ敷衍したいと思う。

 シュンペーターによれば、ルソー以来の通俗的な民主主義議論は「人民に政治的諸問題に関する決定を自ら行わせ、それによって公益を実現すること」を本質と捉え、民衆に承認された政治的リーダーは「人民の意思を現実に遂行する」アンビバレントな存在であるという[Schumpeter 1942→1950 p.250]。こうした特性を有する「古典的民主主義」と呼ばれる政体は、シュンペーターも指摘している次のような問題点を孕んでいることも周知のとおりだろう。

①直接的な意見反映が時間・場所・方法などの点から困難であり、巨大な現代社会において公益を本当に実現しうるか疑わしい。

 

②人間の理性は非合理的であり、卑近な経済上の問題と比べ、高度な政治問題となると非合理性は極めて著しい。

 彼はこうした問題点を克服するために、エリート民主主義の可能性を模索していくのであるが、脱線してしまうのでここでは割愛しよう。いずれにしても、民主主義がこうした課題を内包しているのは間違いないだろう。①の全員参加については多くの先進国が採用している間接民主主義によって、少なくとも見かけ上は解決されているとされるとしても、②の非合理性については、実のところアリストテレスが『政治学』の中で批判している通り、長きにわたって(おそらく有史以来の!)未解決問題であったことがわかる。この非合理性の問題は近代に入ってからも幾度となく俎上に載せられてきており、例えばユルゲン・ハーバーマスは知性の公共的使用能力が希薄な無教養層が政治的領域に流入することによって、「公共性なしに論議する専門家たちから成る少数派と、公共的に受容する一方の消費者たちの大衆とへ分裂し、こうしてそもそも公衆としての特有なコミュニケーション形態を喪失する」と民主主義が立脚する基盤としての公的領域の喪失を嘆いている[Habermas 1962→1973=1994 p.231]

 

 

Ⅱ 一般意志を形成するのは誰か

 シュミットは周知のとおり民主主義の限界をルソーが提起した「一般意志(Volonté générale)」の概念を引き合いに出して指摘する。そのためひとまずルソーによる一般意志の定義を確認するところから議論を始めよう。

 ルソーによれば諸個人の利益追求を遂行する意思——すなわち「特殊意志」あるいは特殊意思の単なる総和——すなわち「全体意志」との決別は、社会契約を通して行われるべきであり、契約には社会の成員が結合することによって生まれる一般意志への従属が不可欠であるという。

「「各構成員の身体と財産を、共同体の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと、そうしてそれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること。」これこそ根本的な問題であり、社会契約がそれに解決を与える。」[Rousseau 1762→1954 p.29]

 各人に自由を保証しつつも、他方で共同体主義的な意志への服従志向。一見すると矛盾するこの命題はしかし、以下の点で背馳を回避することに成功している。

「この諸条項は、正しく理解すれば、すべてが次のただ一つの条項に帰着する。すなわち、各構成員をすべての権利とともに、共同体の全体にたいして、全面的に譲渡することである。その理由は、第一に、各人は自分をすっかり与えるのだから、すべての人にとっての条件は等しい。またすべての人にとって条件が等しい以上、誰も他人の条件を重くすることに関心を持たないからである。」[同 p.30]

 すなわち一般意志への服従とは、特定個人としての他者への服従ではなく、同じ条件下(特殊意志の放棄)かつ、匿名化された全体への服従であるため、諸個人の自由が損なわれることはないということだ。また特殊意志から一般意志を導出するためには、その相殺する部分を取り除く必要があるという有名な指摘もここで取り上げておこう。

「全体意志と一般意志のあいだには、時にはかなり相違があるものである。後者は共通の利益だけをこころがける。前者は私の利益をこころがける、それは特殊意志の総和であるにすぎない。しかし、これらの特殊意志から、相殺する過不足をのぞくと、相違の総和として、一般意志が残ることになる。」[同 p.47]

 このことから一般意志は常に公的利益のみを志向することになり、したがってそれは常に正しい[p.46]。逆を返せば、一般意志に合致しない特殊意志は正しくないばかりか、真の自由との一致をもみないという論理的帰結が導出される。

 このように恒常的な正しさを有する一般意志であるが、ルソーによればそれは具体的には法的審級として顕在化するという。

「[…]全人民が、全人民に関する(法の)取り決めをするときには、人民は、人民自身のことしか考えていないのである。そして、そのさいある関係がつくられるにしても、それは、ある見地から見られた対象全体が、別の見地から見られたその全体に対する関係であり、何ら全体の分割がおこるのではない。その場合、取り決めの対象となるものは、取り決めをする意志と等しく一般的である。わたしが法と呼ぶのは、この行為なのである。」[同 p.58]

 

 さてここまでルソーによる一般意志の定義を駆け足ながら確認してきた。シュミットは民主主義の本質的徴表を先述の法と一般意志の同一性の議論に見出しつつも、民主主義において少数者による多数者への支配が実のところその論理と矛盾しないばかりか、正当化されうる可能性について考察を展開している。

「ルソーがはっきりと続けて言っているように、一般意志は真の自由と合致するものであるから、敗れた者は自由でなかったことになる。このジャコバン的論理でもって、周知のように、多数者に対する少数者の支配をも正当化することができる。しかもまさしく民主主義の名のもとにである。民主主義の原理の核心。すなわち法律と国民意思との同一性の主張は、そのさい維持されつづけている。すべての(未成年者をふくめた)国家市民の絶対的に一致した意思というものが決してあり得ないとすれば、多数の意思を国民の意思と同一視するか少数の意思を国民の意思と同一視するのか、ということは、抽象的論理としては、本来まったくちがいがない。」[Schmitt 1923→2015 p.22]

 これは大変重要な指摘であるが、直観に反する見解であるため仔細に検討する必要があるだろう。まずルソーがいうように真の自由を志向する一般意志に対し、それとは異なる特殊意志は必然的に自由でないということはすでに確認した通りだ。なお特殊意志が一般意志と合致しなかったことが明らかになる過程としてルソーは「投票」を挙げている[p.61]。すなわち投票結果がある個人の投票内容からずれる際、敗れた者は自分が一般意志について誤認していたという事実に直面するのである。特殊意志を抱く者によってこの違背が確認される際において、国家の成員の意見の完全なる一致は現実的にはありえず、ゆえに多数派/少数派という区別は意味を有さないことになる。換言すれば国民意志が多数派であるか、少数派であるかということは問題にならないのである。他方で、これらの事実は民主主義の本質的徴表である国民意志と法律の同一性と両立しうるため、場合によっては少数者による支配が民主主義の名のもとにおいて遂行されうるということだ。

 民主主義と少数者による支配が両立しうるというシュミットの指摘を念頭に置いたうえで、次にルソーの一般意志の議論からすっぽりと抜け落ちている部分に目を向けてみよう。つまり「一般意志を形成するのは誰か」という問題である。少なくとも『社会契約論』でこの問いへの応答へとなりそうなのは「一般意志が人間の本性から出てくる」[p.50]という極めて抽象的な一節のみであり、到底満足のいくものではない。そしてこの欠陥にシュミットは鋭い批判的視座から民主主義の欠点を見出すことになる。

「[…]意思形成の問題において自らを否定する結果となるのが、民主主義の運命であるようにおもわれる。急進的な民主主義者にとって、民主主義とは、民主主義のたすけをかりてつくりあげる政治の内容を顧慮することなしに、それ自体としての価値をもつ。しかし、民主主義を排除するために民主主義が利用されるという危険が存在するとき、急進的な民主主義者は、多数にこうしても民主主義者でありつづけるのか、それとも自己を放棄してしまうのかを、決断しなければならない。民主主義が民主主義に内在する価値の内容を獲得するや否や、人はもはや、何が何でもという(形式的民主主義における)民主主義者ではありえなくなる。」[Schmitt 1923→2015 pp.25-26]

このように民主主義という形式それ自体に価値が見いだされうるとき、古典的な国民教育のプログラムが開陳されることになるとシュミットは続けて指摘する。すなわち教育者が暫定的には自分の意志と国民意志を同一視するに至り、生徒の欲する内容が教育者の側から一義的に規定されることになる。そして「この教育理論の帰結は、独裁であり、これからはじめて創造されるべき真の民主主義の名における、民主主義の停止である。」[p.26]

国民意志を形成するものとしての教育は一例であり、政治権力、宣伝、新聞、政党組織、集会などが他にも該当する。とりわけこのうち本来的に一般意志によって形成されるはずの政治権力が、可逆的に一般意志を形成するのであればそれは紛れもない独裁の状況にあるということは想像に難くないだろう。シュミットの主張を簡潔に整理すれば、政治権力と一般意志との間にある相互依存的な形成関係が、民主主義と独裁が両立する危険性を孕んでいるのである。

 

 

Ⅲ 民主主義と計画化経済-全体主義の両立

 前述の通り、シュミットは民主主義それ自体が形式や手段としての立場を超越し、内容としての価値をもつときにおいて、独裁との両立が起こりうると指摘した。この指摘は奇しくもハイエクによる民主主義を熱狂的に擁護するのではなく、手段以上の価値を認めてはならないという、いささか冷めた眼差しと合致する。

「民主主義は、本質的に手段であり、国内の平和と個人の自由を保証するための功利的な制度でしかない、民主主義は決してそれ自体、完全無欠でも確実なものでもない。そしてまた、これまでの歴史において、いくつかの民主主義体制のもとでよりも、独裁的な支配のものとでのほうが、しばしば文化的・精神的自由が実現されてきたということを忘れてはならない。またきわめて同質的な、そして空論ばかり振り回す多数派の支配のもとでは、民主主義政府は最悪の独裁体制と同様に圧政的なものとなることは、少なくとも考えられる。」[Hayek 1944→1992 p.88]

 ハイエクは『隷属への道』において自由と、当時隆盛を極めた計画経済や生産手段の国有化を唱える集産主義を対置しており、こうした政体において経済的自由そして政治的自由を奪われた諸個人はまさしく「隷属への道」を歩み、全体主義体制へと至ることになると警笛を鳴らしている。

 ハイエクには民主主義に計画化—全体主義の歯止めとなる機能を見出している節もある。それによれば民主主義体制においては、計画化に不可欠な逐一の合意形成システムの構築が現実的には不可能であり、仮に国民がそれこそ一般意志として包括的な経済計画を希求したところで、議会はそれを用意することができず、したがって議会は民主主義的に無能の烙印を押されることになるためである。しかしながらこの機能はあくまで消極的なものに留まっており、十全な防波堤としては機能しえないだろう。

 「民主主義が個人の自由を保証することをやめれば、それは全体主義体制のもとでもなんらかの形で存続していくことができるかもしれない。真の「プロレタリア独裁」は、形だけ民主主義的であることはできるとしても、経済体制の中央統制を実行すれば、これまで発生したどんな専制政治が行ったのにも劣らないほど完全に、個人の自由を破壊してしまうに違いない。」[同 p.88]

 

 

Ⅳ 法の支配と自由主義

 ここまでの議論を今一度整理しておこう。シュミットとハイエクは民主主義が全体主義ないしは独裁を防ぐためには不十分なものとして退けたのだった。シュミットは一般意志と政治権力の間にある相互依存性をその理由として指摘し、ハイエクはあくまで手段に過ぎない民主主義に、高望みをすることはできないと主張した。では独裁や全体主義に民主主義が抗しないのはよいとして、2人は処方箋として何を代わりに提示したのだろうか。その答こそ法の支配であり、自由主義に他ならない。まずシュミットの方から確認していこう。

 端的に言えばシュミットは権力分立によって独裁を回避できるとした。すでに見た通り彼の主張においてはルソーと同じく一般意志と法律の同一視が民主主義の中核をなす原理であるとされていた。問題はこれだけでは政治権力による一般意志の形成が起こりうるという点にある。そこでシュミットは「法—立法権—普遍的なるもの」に対置するかたちで「統治—執行権—個別的なるもの」を提示する。アリストテレス来の伝統に則って具体個別的事例に対して「行動」する執行権を、普遍的な事象について「審議」する立法権から峻別することによって両者の均衡を保ち、立法の独律性を保証しようというのである。シュミットによればこうした均衡状態において立法権は①議会における討議と②討議の公開性からなる公論に開かれることになる。こうした議会主義的思考と立憲主義的思考が首尾一貫とした体系をなすことで正義と真理の体現が可能となるのである。

「自由主義の体系において討論に与えられるべき主要な意味が正しく認識されるときのみ、自由主義的合理主義にとって特徴的な二つの政治的要求が、その正しい意味を獲得するのであり、兵庫や政治戦略的な合目的性の考慮のもつ不明瞭な雰囲気から、学問的な明確さにまで高まる。その二つの要求とは、政治生活の公開性の要請といわゆる権力分立論である。」[Schmitt 1923→2015 p.38]

 

 他方でハイエクもシュミットと同じく議会主義的・立憲主義的な観点から「法の支配」が全体主義を防ぎうると主張し、全体主義的体制と自由主義的体制の差異を恣意的な政治権力の抑止に求める。すなわち「「法の支配」においては、政府の活動は、諸資源が活用される際の条件を規定することに限定され、その資源が使われる目的に関しては個人の決定に任せられる。これに対し、恣意的政治においては、生産手段をどういう特定の目的に使用するかを、政府が指令するのである。」[Hayek 1944→1992 p.88]

 ここで重要なのが「法の支配」があくまで形式的ルールに留まっているという点である。内容それ自体に価値がないという特性こそが、全ての人の目標を制限することなく平等に顧慮することにつながるのである。これは諸個人の活動の配置を社会全体の益なるものから規定してしまう集産主義とは一線を画す考え方であるといえよう。こうした社会政策の不可知性は諸個人が経済活動を行う際のフレキシビリティに関わる合理的論拠のみならず、選択の自由の保証という道徳的・倫理的観点からも正当化されうる。

 

 

Ⅴ 自由主義の三類型

 冒頭で述べたようにシュミットとハイエクは民主主義が権力の防波堤として機能するのではなく、むしろ自由主義によってそれは達成されうるとしていることが、ここまでの議論でわかった。最後に両者の差異ともう一つの自由主義について言及し、類型化を行いたいと思う。

 シュミットとハイエクは自由主義を擁護しつつも、前者が議会主義や権力分立の観点から議論を展開していたのに対し、後者が主に経済的自由の獲得を目的として主張を行っていた点で異なっている。本稿ではこうしたどのような自由が求められているかということの差異を、「自由の指向性(Directivity of Liberty)」の差異と呼ぶことにしよう。

 自由主義の源流は徒弟制度が栄えた中世にまで遡ることができ、各ギルドの構成員が諸侯や教皇による不当で恣意的な権力行使から身を守るために、彼らをも制限する法の支配を訴えたことに端を発するとされる[2]。当初において指向性は権力の恣意性からの自由であり、これは現在における「立憲主義的自由主義」の考え方に継承されているといえるだろう。立憲主義的自由主義は文字通り(憲)法による権力抑止を訴える考え方で、本稿では議会と法の独律性を訴えたシュミットがこの立場にある。

 啓蒙主義が台頭し始めるとジョン・ロックに代表されるように権力介入に妨げられることない個人の自由をより原理的なところから訴え、自由放任主義を掲げる自由主義が登場することになる。これは今日における「リバタリアニズム的自由主義」の源流であり、自由の指向性が帰結主義的な経済学上の効率性や、自然権論的な倫理主義に向かう点において、立憲主義的自由主義とは一線を画している。なお本稿におけるハイエクがこの立場であるということがわかるだろう。

 しかしながら一口に自由主義と行った際、リバタリアニズム的自由主義とは相反する立場——すなわち諸個人の平等な顧慮のため積極的な政府の市場介入を訴える立場も存在している。本稿ではこれを「リベラリズム的自由主義」と呼びたい。稀代の政治哲学者ジョン・ロールズによる『正義論』(1971)以後、アマルティア・センなどの経済学者や、ロナルド・ドゥウォーキンのような法哲学者など領域横断的に支持者が登場したこの立場の自由の指向性は、規範的要請に基づく平等である。なお本稿は何度も述べている通り全体主義や恣意的な権力行使に対する防波堤ついて論じているため、中心的な言及をしていないこの立場の議論は割愛した。

 

 

Ⅵ 結語

 冒頭の安保法案に話を戻すと、反対を掲げた多くの人が口にしたのは民主主義的論拠だった。かつて学校教育過程において刷り込まれた「民主主義はよいものだ」という価値観を異口同音に唱えているのだろう。しかし繰り返しになるが民主主義は権力の濫用を防ぐことは決してない。そもそも民主主義は古代ギリシャから長らく衆愚政治的意味合いで用いられてきた概念であり、それがもてはやされているのは近代の一時代に過ぎないという特殊性に目を向けるべきであろう。手放しの民主主義擁護は思考停止に陥っているといわざるを得ない。

 

[1] John Lawls 2001 “Justice as Fairness: A Restatement”

→田中成明 他訳 2004 『公正としての正義 再説』岩波書店

[2]川崎修 他  2012 『新版 現代政治理論』有斐閣アルマ

 

 

【参考文献】

〇Jean-Jacques Rousseau 1762 “Du contrat social”

→桑原武夫 他訳 1954 『社会契約論』岩波書店

〇Friedrich Hayek 1944 “The Road to Serfdom”

→西山千秋 訳 1992 『隷属への道』 春秋社

〇Carl Schmitt 1922 “Die geistesgeschichtliche Lage des heutigen Parlamentarismus”

→樋口陽一 訳 2015 『現代議会主義の精神史的状況』岩波書店

〇Joseph Schumpeter 1942 “Capitalism, Socialism, and Democracy”

 →中山伊知郎 他訳 1950 『資本主義、社会主義、民主主義』東洋経済新報社

〇Jürgen Habermas 1962 “Strukturwandel der Öffentlichkeit”

→細谷貞雄 他訳 1973 『公共性の構造転換』未来社

〇高橋源一郎、SEALDs 2015 『民主主義ってなんだ?』 河出書房新社

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