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Habermas,Jürgen 1962→1973=1994 『公共性の構造転換』

第一章 序論 市民的公共性の一類型の序論的区別 p.11-45

第一節 出発点の問い

○「公的」、「公共性」といった概念は本来的にはそれぞれ異なる歴史において構成されてきたものであるため、福祉国家という現状に共時的に存在させると、その意味が極めて把握しにくくなる。

→少なくとも「公的」、「公共性」の2つに関しては以下のような整理ができる。

①「公的(的性格)」……多少とも経緯を含んでいるが、しかし名声や名誉の公的性格は「上流社会」の時代に由来するわけではない。

 

②「公共性」……主に生活圏として表れ、私的領域との対立項として扱われる。またしばしば公権力への対立物である、公論といった意味合いを付与されることもある。

→公共性という語は18世紀に、フランス語のpublicitéと、英語のpublicityを模して作られたドイツ語の「公的(Öffentilich)」に由来している。

○しかしながら、私的領域/公的領域という区別はギリシャから長く続く精神史を有している。

→ギリシャ的社会的形成体はすでに滅びたが、公共性というイデオロギー的範型は未だに保持され続けている。しかしながら、一世紀前から、公共世界は解体に向かいつつあり、今日においてその機能はいよいよ無力になりつつある。

「それにしても、公共性は相変わらず、われわれの政治的秩序の組織的原理であることは変わりない。それは明らかに、自由主義イデオロギーのぼろくずとはちがう、それ以上のものであり、社会民主主義が弊履のごとく投げ捨てて平然としていられるものではない。」p.15

→本書で展開される公共性概念の歴史的把握は、単に社会学的分析に留まらず、現在の社会を中心的カテゴリから把握することができるようになると期待される。

 

 

第二節 代表的具現の公共性の類型について

○公的領域/私的領域を区別する慣用表現は、中世ヨーロッパにおいても観察されたが、これを封建的領主権や、采邑権の法的関係に適用するあやふやな試みによって、逆説的に私的/公的の区別が中世西洋に存在しないことが明らかになった。

 

○上述のように私的領域から独立した公的領域は中世にはなかったが、支配権の属性を「公印」とされたのは一方で偶然ではない。

→社会的地位それ自体は私的/公的に対してニュートラルだが、それが具現化され、表明されるのは公的な領域においてである―「代表的具現としての公共性」

 

○代表的具現の公共性は封建制が揺るがされたことにより、最終的には支配権の具現というよりかは、単に専制国王の威光を顕示する程度に留まることになる。

→18世紀に浮き彫りになる「上流階級」の生活圏の雛形であり、これはすでに国家から分離しつつある社会の租界である。

→特殊近代における私的領域/公的領域の成立(代表的具現は私事と公事に分極化する)

 

 

第三節 市民的公共性の成立に寄せて

○交易の活発化に伴い、初期資本主義の諸要素(流通と情報伝達)が重商主義の段階にまで至ると、これらを抑制する国家活動が常規的になる。

→「代表的具現の公共性」に代わり、恒常的行政と常備軍といった公権力が台頭してくる。

○公権力は代表的具現とは異なり、合法的実力行使を独占する装置であり、さらにこれに対抗するかたちで公衆が形成されていくことになる(政府の対立物としての市民社会)。

 

○これまで私有化されてきた経済活動が、公的な流通に則る必要性が生じることになる(経済の中心が家から市場に移行した)。

→アーレントは古代のそれと区別して、近代における私生活圏と公共圏の関係を「社会なるもの」の成立として捉えたが、この「社会なるもの」こそが「市民社会」という公共的性格を帯びてきた私生活(民間)圏に他ならない。

 

○さらに先述の初期資本主義の要素のうち、17世紀あたりから情報伝達手段が「新聞」という起爆剤を得ることになる。

→このメディアを政府当局が利用し、市民的公共性の自覚を促すことによって、臣民の一部が本来的な意味での「公衆」に成長することになる。

→原理的には新聞における公示は臣民すべてに向けたものであるが、その情報を受け取ることができるのは日常的に読書をする層―すなわちブルジョワであるため、一部しか講習にはなり得ない。

○しかしながら、元来国家権力が重商主義を規制するものであるが故に、行政的接触に対して公衆側は徐々に批判的検討を行うようになる。

→審議には公開性が要求され、公論は権力の正当性を判断するようになってくると、新聞もまた行政に迎合的な機能ではなく、批判的機能を担うようになる―審判する公衆の誕生。

 

 

 

 

第二章 公共性の社会的構造 p.46-85

第四節 基本構図

○全称で明らかになったとおり、初期資本主義の経路を通じて、公権力に対抗する公衆が確立された。彼らはあくまで私人であるため、(代表的具現の公共性とは異なり)「支配」をしない。

→権力の独占の分割を訴えるのではなくて、支配の原理そのものを掘り崩そうとする。

○家庭に経済が持ち込まれることによって、代表的具現の公共性が社会/国家に分極化したように、私的領域意においても、家族の生活圏/社会的再生産という分化が観察されることになる。

 

○しかし、これまで分析してきた国家/社会の緊張を保つ政治的公共性が台頭する以前において、小家族的親密圏から誕生した、まだ政治的機能を有さない社交界的な公共性である文芸的公共性が存在した。

→18世紀における民衆の自己啓蒙の場であり、読書サロンや劇場、美術館やコンサートなどがこれに該当する。

○これらは「(代表的具現としての)宮廷的公共性→文芸的公共性→政治的公共性」の順で変遷をたどり、ゆえに文芸的公共性は旧来と新来の公共性を架橋する存在だった。

 

 

18世紀前期

18世紀後期

私的領域

小家族的親密圏

市民社会

公共性の類型

文芸的公共性

政治的公共性

公権力の領域

宮廷(貴族的社交界)

国家(内務行政の領域)

○ここまでの議論を整理するとこのような線引きが可能となる。

→公的領域/私的領域の区別は国家/社会の区別に対応しており、公的領域とは宮廷を含む公権力を指す。他方で、私的領域の中には親密圏がまずあり、そこから諸々の公共性が発露することになる。

※公的領域にあるのは公共性ではなく、公権力である。ハーバーマスによれば公共性は小家族的親密圏ないしは市民社会から生まれるため、むしろ私的領域に属している。これはアーレントの区別と似ているようで全く違うので混同しないこと。

 

 

 

第五節 公共性の制度(施設)

○18世紀に表れたサロンは宮廷から自律性をある程度有していたが、それでもまだ上流階級的な権威からは自由になれていなかった。

→宮廷から都市へ文化的機能が移行することにより、代表的具現の公共性が崩れ、警句を論理に転化する文芸的公共性が登場することになる。

○こうした「都市の優越」を担ったのは、喫茶店とサロンであり、文芸的公共性がここで芽生え、徐々に政治的公共性に転化する機運が芽生えるのもここにおいてである。

→以下では当時のヨーロッパの国々における様相を順に見ていく。

【イギリス―喫茶店】

○チョコやコーヒーといった嗜好品が好まれるようになると、喫茶店の隆盛期が到来する。

→ただしサロンがロココ風で女性が主役であったのに対し、喫茶店は知識人と貴族からなる男性優位社会であったために、女性はしばしば不満を口にした。

 

【フランス―サロン】

○市民は重要な指導的地位からは確かに締め出されてはいたが、経済においては重要な位置を占めていた。貴族は強い権力を依然として有していたが、他方、サロンでは知識人と対等の関係を結んでいた。例えばダランベールも元々は平民の出。

 

【ドイツ―会食クラブ】

○イギリス・フランスと比べると、文芸的公共性の土壌となるような都市機能はまだ育っておらず、サロンも喫茶店も強い影響力を持っていなかった。

→しかし会員制の「会食クラブ」が類似の機能を構成しており、フリーメイソンのように支配関係を脅かすほどの力を有しているが故に、非公開の組織となることもあった。

 

○上述の喫茶店、サロン、会食クラブの3つは確かに別の場所であり、国によって流行の度合いも異なる。しかし、それでもなお以下の3点からなる一連の共通性がある。

①対等性の作法……参加者は貴族だったり、一部の市民だったり階級がそれぞれ異なるが、それでも原則的には社会的地位が上記の空間内では度外視されることになる。

 

②批判的な討論……公衆が上記の討論の場で俎上に載せる「公共的なもの(本や絵画)」は、伝統的には教会的権威によって独占されてきたものである。しかし、情報・商品が流通するようになり、一般市民や貴族たちがそこにアクセスできる契機を獲得した。

 

③公開性……討論に上る先述の話題の普遍性は、単に重要性によるものではなくて、その議論が非排他的で、より多くの人が参与できる点においても支えられている。

→公衆の中から登場するそれを代表する人々も、自身がより大きい公衆の中の一部であることは自覚しており、その点で「市民的代表」の原型であると見なすことができる。

 

○「公共的なもの」としての「文芸」と「演劇」も、上記の②と③にあるように、18世紀頃に参与できる人々が増加することによって公衆を獲得した。

○さらに「音楽」に関しては、もともと代表的具現によって独占されてきたものであり、宗教・儀式的音楽が一般だったが、私立楽団の台頭により、これも公衆を獲得した。

○「絵画」に関しては、貴族の力が弱まっていくことで、むしろ画家側が商品として流通させざる得なくなり、通人サークルといった批評家を獲得することになる。

 

○これらのコンテンツを批評する人々は当時の流行の言葉で「芸術の判官」と呼ばれた。

→しかし、先述の通り、彼らはあくまで多くの公衆の一部でしかなく、それ以外の公衆からの異議申し立てがなされることもあり、まだどこかアマチュア感がある存在だった。

 

 

 

第六節 市民的家族 公衆に関る私生活の制度化

○市民的公共性の起源は、小家族的な親密圏における家父長制に他ならない。

→一族(大家族的)を中心とせず、小家族的親密圏に重きを置く生活スタイルは、当時の建築様式の変遷を見ても明らかで、家族で過ごす居間よりも、客を招いてサロンのような社交の場として過ごす空間により力をいれたものとなっている。

○この独特の内房空間は政治的・経済的開放の場であり、ゆえに公共性が生まれてくるのは社会ではなく、こうした小さな家父長的小家族の親密圏であるということができる。

→本来はこうした小さな公共性に発端に基づく自律性であるにもかかわらず、理念上は市民的家族にも影響を与えており、自由意志・愛の共同体・教養という3つからなる人間性を備えた家族像が構成されることになる。

 

○家父長的小家族の親密圏により、家族がフマニテート(人間形成)の場として解されるようになるにつれ、手紙が互いを純人間として理解しあうための媒体となった。

→確かにニュースのやり取りにも使われたが、それ以上に親密性を確認しあうための機能を手紙が背負うことになる。また書簡文学(ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』など)などが同時期に流行したのも偶然ではない。

 

○こうした小家族的親密圏の拡張として、親密性の相互理解に基づく公衆が徐々に登場していくことになる。

→上記の書簡文学の例にあるとおり文芸化された主体は、読書を中心とした議論を展開するようになり、1750年以降のイギリスで顕著なように、小説や新聞が一気に広まり、すでに喫茶店・サロン・会食クラブを脱却した彼らは、新聞や職業的批評により結束した公衆を形成した。

 

 

 

第七節 文芸的公共性と政治的公共性との関係

○これらの公衆が公権力への批判の圏として確立されるのは、すでにある文芸的公共性が政治的公共性に移行することによってであった。

→私的財産・商品流通への干渉を防ぎ、それをめぐって公論と公権力が折衡するようになる。ただし古代の公論とは異なり、近代の公論が敵対するのは主に内政における公権力である(古代ギリシャのモデルにおける敵は他国である)。

 

○公共性が公権力に抗うものであるという構図は、18世紀において完全に確立されたのであるが、その素地自体はそれ以前の16・17世紀においてすでにあった。

→マキャベリが『君主論』で提示したような、公権力の秘匿を君主の至上権かつ枢機であると位置づける考え方に対し、その公開性を訴える主張が当時すでにあった。

○君主の枢密に対し、公開性が主張されるとき、それが保証する対象として挙がるのが法の合理性に他ならない。すなわち公論の立法権限がこの辺りですでに問題となっている、

→後に見るように、法の公開性を最初に主張したのは重農主義者である。

 

○このように政治的公共性は法規範というカテゴリを志向するものであるが、この自己理解は文芸的公共性の自己理解と交錯している。

→①民間人による公衆の形成 ②私的財産に基づく自律性 ③市民的家族を源泉とし、フマニテートを目指す の3点において両者は共通している。

 

 

 

第三章 公共性の政治的機能 p.86-127

第八節 モデルケースとしてのイギリスにおける発展

○国家権力に影響する集団が、公衆に呼びかけ論議しようとする流れが、なぜイギリスにおいて最も早くに観察されたのか。

→確かに他のヨーロッパ諸国でも文芸的公共性は17世紀後半の時点で観察されたが、イギリスにおいては産業が他国より発展しており、すでに「金融資本の貿易制限的利害関心」と「マニファクチュア・工業の拡張的利害関心」が対立していた。

→両派が公衆に自身の正当性を訴えることによって、公共性が他国よりも成熟していた。

 

○この発展の開始として以下の3つを挙げることができる。

①イングランド銀行の設立……通商貿易から現代資本主義への移行。

 

②事前検閲の廃止……新聞による自由な報道が可能となった。

 

③内閣府の設立……政治的機能する公共性そのものの機関

 

○イギリスは1670年代辺りから喫茶店での論議が政治的に危険であると見なされるが、他方で先述の通り新聞は事前検閲がなくなる。しかし様々な規制が結果的に設けられ、新聞や雑誌は徐々に発行部数を減らしていくことになる。

→こうした状況をハーレイなどの政治家が逆手に取り、新聞を公共性の構成場所として利用するようになる。

○こうした機運の中、公衆による批判的な論議が、最終的には議会の閉鎖性を打破し、公論が議員たちに対する正式な討論相手として認識され、また制度的に整えられていく。

 

 

第九節 大陸における諸変型

【フランス】

○新聞も存在し、イギリスにおいて公衆の問題意識を先取りしていた商工業者もいないわけではなかったが、前者の購読数は2000にも上らず、後者の従事者たちはブルジョワであるにもかかわらず、上流階級を形成するには至っていなかった。

 

○このような状況下において、最初に公衆による絶対主義的体制への突破口を開いたのはネッケルだった。

→大臣として賃借対照表を公開したことによって、絶対王政の不均衡を暴き、それにより彼自身は罷免されるが、貴族を中心とした公権力に対して批判的な層が確立された。

→公衆の論議をまとめた陳述書の提出が認められるようになり、これがゆくゆくは三部会に繋がっていくことになる。

○ただ周知の通り、フランスにおいてはひとたび公共性についての議論が広がれば、急速に法整備や理念の共有が行われることになる。

→特にフランスの革命憲法の法典においては公共性・公開性がすでに謳われており、それが瞬く間に伝播することになる。

 

 

【ドイツ】

○ドイツがイギリスと異なるのは、比較的長い間、市民/貴族間の障壁が維持されていたという点にある。

○またフランスと異なるのは、貴族が社交の場として市民のブルジョワ層と交流していく空間を設けられず、貴族の自律性があまりなかった点に求められる。

 

○上記の特殊性から、公衆がその居場所を見つけるのは、市民層によって18世紀の後半に栄えた読書クラブだった。

 

 

第十節 私的自律の圏としての市民社会私法と自由化された市場

○先述の通りイギリスにおける公共性の成立は、新聞・公衆の成立および政党と議会の関係性と、権威と公開性の緊張関係に求められる。

→その機能の様式それ自体はこうした過程の描写よりも、商品公益と社会的労働が国家統制から解放されていく局面から理解されるべきである。

○さらにこうした動きに伴い、民法が確立された。ここにおいて出生や身分に拠らずに人格が規定されることになる。公共性における原則的対等性。

ex) プロイセン一般国法、オーストリア一般民法典、ナポレオン民法 など

→さらにこれらの法は法学的専門家というよりは、政治的機能を有した公衆によって起草された。

 

○ここで留意しておくべきは、このイギリスにおける重商主義に基づく資本主義の加速は、多くの人が古典経済学(たぶんアダム・スミス)に依拠し、資本主義における普遍的な理念型として捉えがちであるが、他国においては条件付で観察され、イギリスにおいても長くは続かなかった点で、極めて特殊競争であったということである。

 

 

第11節 市民的法治国家における公共性の矛盾をはらんだ制度化

○自由競争には自動調節機能があり、そこに権威が干渉することは単に倫理的問題であるというよりも、ウェーバーが指摘するように「計算可能性の保証」が与えられない、すなわち予見不可能であるため、望ましくはない。

→こうした「自然的秩序(order natural)」である経済に対し、法は私人からなる公衆によって形成された公論に基づき、形成される必要がある。

 

○しかし公衆による法の構成は以下のような矛盾点を抱えている。

(a) 法律は人民代表の参加が必要であるが、逆を返せば「法の支配」とは、法が人民によって構成されるがゆえに、人民の支配に他ならない。

 

(b) 法律の概念は、議会の公開性と公衆との連関の中で堅固に維持されていく必要がある。

○カール・シュミットの議論に従えば、(a)が意志に基づくのに対し、(b)は理性に基づいており(この議論は『現代議会主義の精神史状況』に出てきた)、理性による「法の支配」は支配一般の解消に向かうということになる。

→国家活動が公論によって承認された諸規範の体系(つまり法)の中でしか認められないという考え方。

 

○モンテスキューやロックは「立法権力(legislative power)」といった言い回しをしており、立法権にある種の権力を認めているといえる。

→しかし他方で先述のシュミットが主張するように、執行権が意志に準拠しているのに対し、立法権は理性に基づくものであり、ゆえに法における意志と理性のジレンマが生じることになる。

○権力そのものが公衆の論議の対象となるのであり、そもそも上記の論者の見解とは異なり、執行権それ自体が公論の中で性格を変容させる。

→すなわち公論は意志を理性に変換し、その理性が公益に向かう合意として形成されるはずであった。

 

○イギリスに顕著であるように、公共性の機能は基本権(公衆の思想・信条、家父長的小家族親密圏、私有財産の自由な相互交渉)の保証にある。

→公開性の原理により、公共性はこれら基本権に対する公権力の不当な介入を防ぐことになるが、こうした憲法規範が想定する市民社会の理念型は、実のところ現実社会においては存在しない。

○というのは公共性に参画できる層は大ブルジョワジーで、そこにプチブルジョワジーを含めたところで、社会の成員の一部にしか満たない。

→文芸的公共性のところで確認したとおり、公衆を形成する層はあくまで教養がある一部だけであり、この層は当然、所得の高さに比例して形成されることになるためである。

○よって私的自律を保証できる経済的・社会的状況が万人に対して保証されることではじめて、公共性が成り立つことになる。

 

○古典経済学の論理的支柱は以下の3点から構成される。

①経済的前提……自由競争の保証

 

②小商品生産者達の社会……財の価値が、それを産出するための労働力の価値によって規定されるという前提

 

③理論的前提……生産力と生産品が完全に流動的である場合、需要と供給が常に均衡状態を保つという前提

→これらの前提が成立する場合に限り、諸個人は自身の能力と、市場の不確実性に基づく「幸運」により、当人たちの経済・社会的立場の平等が保たれることになる。

→しかしこれらの前提が19世紀前半においても、充たされることはなかった。

 

○というのは上記の3つの条件を充足するのが既得利権を有した財産主だけであり、先にあるようにこの一部の層のみによって公衆が形成されていた。

→こうした既存体制が成立したのが当時であり、虚偽意識としてのイデオロギーが帰属されるのがこうしたブルジョワ層であるということは、逆を返せばイデオロギーなるものが登場したのもこの同時期であるということになるだろう。

 

 

 

第四章 市民的公共性 イデーとイデオロギー p.128-196

第十二節 公論(public opinion ―― opinion publique ―― öffentliche Meinung) 論点の前史

○市民的公共性の機能は公論の中で結晶化した。以下の順序でこの理論的な変遷を確認していく。

①市民的公共性が確立されるまでの前史(12節)

②カントの法理論が市民的公共性の古典となること(13節)

③その問題点がヘーゲル・マルクスに指摘されたこと(14節)

④19世紀中ごろの自由主義的政治理論において、イデーとイデオロギーの相反並存が認められたということ(16説)

 

○《opinion》は一般に ①ラテン語の《opinio》に由来する憶みや思い込み ②《reputation》すなわち評判や名声、声望 という2点の意味合いから用いられてきた。

→本論においては後者の《reputation》が重要となってくる。

○また真理性がいまだ欠落している不完全な《opinion》は、核心的には大衆的評判といった意味合いで用いられることがあり、ゆえに集合的意見という性格を帯びることになる。

→ただし現代的な《public opinion》ないしは《opinion pubilique》という公論を指す語法が観察されるまでには、そもそも前述のような定義における《opinion》と《ration》《reason》といった語は対立関係にあるため、一直線には至らなかった。

 

【ホッブズ】

○ホッブズは《opinion》と、良心と意識を意味する《conscience》をほぼ同一視していた。

→宗教的対立における諸宗派の教説が、結局のところ政治的にはさして重要ではなく、宗教的「良心」を相対化した一つの「意見」として把握するニュアンスが強い。

○換言すれば、《conscience》と《opinion》の同視により、宗教的特権性を認めないことが意図されている。

 

【ロック】

○ロックは『リヴァイアサン』出版の一年後の時点で既に、「意見の法」という発想を示しており、すでに《opinion》が憶見的な意味合いとは距離を置いた概念となっている。

→これは「美徳と悪徳の規準」であり、非公式かつ間接的ながらも、社会的な統制力を有した法である。

○ただしロックが「公的意見(public opinion)」という表現を用いていないことからわかるように、「意見の法」は公論的性格を有した格率ではなくて、むしろ沈黙によるものであり、ゆえに論議に基づくものではなく、単に素朴な習慣の表明というきらいが強い。

 

 

○フランスでは未だに《opinion》という概念に不確実さ・不安定さがつきまとっており、それがゆえに例えばベイルはロックがいう「意見の法」を、「批判の支配」という表現で主張した。

→ただしこの「批判」という概念はホッブズの「良心」に近く、すなわち公的な実践というよりかは、私事に近いものである。

○ルソーも百科全書派よりも早く「公論」という言葉を用いているが、まだ単に意見というニュアンスが強く、せいぜい論難の方向性が「公的」の含意としてあったに過ぎない。

 

○他方でイギリスでは、「意見」から「公論」への過渡期において、一度「公共精神(public spirit)」という概念を経由する。

→例えばフォルスターは公論の同義語として、この公共精神を掲げている。

○公共精神の含意としては、

①正義と正論を直接感じ取る素朴な感情

 

②論議の公共的対決を通じて「意見」を「判断」へと明確に分節する反省   が混在していた。

 

○フランスでは「公共性の精神」と相応する「公共の意見(opinion publique)」は、どちらかといえば公開の討議というよりかは、「良識(bons sens)」や伝統に依拠した概念だった。

→この概念が重農主義者を筆頭とする「啓蒙された公衆(public éclairé)」に結びつくことによって初めて、公共性における批判的討論という意味性を獲得した。

○しかしながら、やはりイギリスにはまだ追いついておらず、「公開の意見」は確かに権威に対抗する性格を帯びるに至ったが、それが立法権限と関連付けられて考えられることは少なかった。

○その他方でルソーは、無反省な「意見」、前公共性的集合意見を指示する概念である「一般意志」の存在を指摘した。

→よく知られたとおり、ルソーの一般意志の議論は討議を擁護するどころか必要のないものとして退ける。一般意志は論議に基づく合意などではなくて、心胸の共鳴に他ならない。

※これは言わずと知れた『社会契約論』に登場する話で、ルソーは討議や結社を、諸個人の純朴な「良識(bons sens)」を歪めるものとして批判している。

 

○最初に登場した①「啓蒙する公衆」としての重農主義者がいう「公論」と、②ルソーのいう「公論」はフランスにおいて、両者とも《opinion publique》という言葉で表現されていた。

→しかしながら前者は批判的な推進力に基づく公共性に基づいており、後者は逆に公共の討論を退けた民主主義の形式をとっており、部分的には相反する概念となっている。

○これら2つの「公論」は、フランス革命によって統合されることになり、イギリスに比べて極めてラディカルな内容を有することになる。

 

 

第十三節 政治と道徳の媒介原理としての公開性 ――カント

○カントによれば私人たちによる絶対主義への批判は、自己理解としては非政治的なものだった。

→よってカントにおいては、公論とは政治それ自体というよりも、道徳の名のもとに政治を理性化する営みであると考えられる。

○カントの法学的要請としては ①市民の自由=共和制の是認、②国際的な世界市民平和という2点に整理することができる。

→普遍的な法則と各人の自由に基づく、法による専一的支配。

 

○さらにカントは公共圏を前述の政治と道徳を架橋するものとして定位する。

→公開性とは法秩序の原理であると同時に、啓蒙の方法でもある。

○人は知性の使用をもとより完全に把握しているわけではなく、この不完全な状態―「未成年状態」からの脱却が啓蒙に他ならない。

→一個人で見た場合、啓蒙は自発的な思考を促す主観的な実践/集団規模で見た場合、完全な正義秩序へ歩む客観的実践であるが、いずれにせよこれらは独りで達成できるものではなく、公共性の媒介を必要する。

○啓蒙―理性の公共的使用は、純粋理性にかかわる者達、すなわち哲学者の主要な関心ごとである。

→ただし啓蒙の火蓋は純粋理性の認識をめぐる批判的討論によって落とされるが、未成年状態から抜け出し始めた公衆たちはすでに啓蒙能力を有しており、換言すれば、理性の公共的使用は、(哲)学者のみならず、その心得がある万人によって行われる。

 

○またカントによれば法とは公共的合意の産物であり、風俗習慣などの私事とは区別して公共的法律という表現を用いることがある。

→公共的法律は、ルソーのいうように全人民の意志に基づくものであるが、ルソーと一線を画しているのは、公共的法律の正当性がただ理性の公共的使用を前提とする場合のみに限られる点にある。

 

○『純粋理性批判』の時点で、既にカントは公共的合意が真理に到達する裁決機能であると認めている。

→アプリオリな意識が叡智的統一を見せるのに対し/アポステオリな意識は公共性の中において達成される合意となる。

○次にこうした政治と倫理の合一をめざす、公共的合意が図られる法治状態の発端をどこに求めるかが問題となってくる。

→本節の冒頭にあるよう、カントの提起する公衆は、間接的な権力掌握をしているという自己理解すらないため法治状態への過程を描くのは一見すると困難であるように感じられる。

 

○このジレンマを解決するのがカントによる以下の区分である。

①公式的構想……自然強制による世界市民的秩序をまず想定し、次に法哲学によって政治行動を倫理的に導出する。つまり実定法に基づく合法的行動が、倫理に則している。

→法の支配を保証するのは公開性に基づく公論、つまり公共性である。

 

②非公式的発想……世界市民的秩序の構想が、自然強制に加えて倫理的政治によって導出される。ここではまだ法治状態が形成されておらず、政治によってそれが達成されることになる(倫理的行為を規定する実定法がない)。

→公共性の中において、万人のアポステリオリな経験の叡知的統合がなされ、倫理から合法性が出現してくることになる。

→歴史哲学がこれらの営みに普遍的正統性を与える役目を果たし、加えて歴史哲学の認識が啓蒙される/する公衆の中に浸透していくことになって上記の2点は可能となる。

 

○これに異議を唱えるのは他でもなくヘーゲルである。ヘーゲルから見ても自由交易と社会的労働による私有化された生活圏は法治状態の基盤であるが、その内在的葛藤によって粉砕されそうであり、ゆえに公共性が倫理と政治の橋渡しをすることはない。

※さすがにロールズはカントの規範倫理学における後継者と評されるだけあって、思った以上に近い議論を展開していた。特に個人の信念が公開性を試金石として、万人の真理と整合性を確かめていく過程などは、ロールズの反照的均衡とほぼ同じ。

 

 

第十四節 公共性の弁証法によせて――ヘーゲルとマルクス

【ヘーゲル】

○公共性の名において、論議する公衆が産出する意見を明確に「公論」と名付けたのはヘーゲルだった。確かに彼もカントと同様に主観的自由に基づく意見の表明の存在を認めている。

→しかしながらヘーゲルによれば公論とは、ただ単に普遍性があるだけに過ぎず、私人の集まりによって生み出される以上、同時に偶然の産物に過ぎないため、カントがいう(哲)学者による理性的論議は公論に含まれない。

「卑しくもその名に値する学問は、思念や主観的見解の地盤に立つものではなく、そしてその論述の仕方も、話術や風刺や暗示の術ではなくて、語義と意味とを明晰判明に表現することにあるのだから、学問は公論と呼ばれるものの部類には属してはいない。」

 

○よってヘーゲルは自由な公論など認めないため、自由主義に対しても懐疑的である。そもそも市民社会自体がブルジョワ/プロレタリアのように所得や社会的地位の分断があるため、利害衝突が摘発されるような状況をカントのいうような方法で統一すると、その分断された状況がゆくゆくは立法に反映されることになり、政治の領域でも分断が起こってしまうことになる。

→身分議会によって公衆をトップダウン的に統合する必要性が生じる。

○整理すれば、ヘーゲルは市民社会が政治的権威を理性に変換するどころか、むしろ放置することで解体に向かう自然的傾向を持っているがゆえに、政治的権力に基づく統治を必要とするのである。公論が「私見(opinion)」へ格下げされる。

 

【マルクス】

○マルクスもヘーゲルと同様に、市民社会の階級的分裂に焦点を当てた上で、公論の不可能性を指摘する。

→公衆を形成できる自律的人間とは、結局のところ一部のブルジョワジーに過ぎず、ゆえに公論とは彼らの虚偽意識としてのイデオロギーに過ぎない。この方向性を推し進めることによって、「私人」と「公人」の分断がいっそう激しいものとなってしまう。

 

○むしろプロレタリア層が公共性に参加するようになると、ブルジョワ層に制度的な矛先を向け始めることになるため、十把一絡げに公共性の統一を促すのはやはり得策ではない。

→プロレタリア層の流入によって、経済的再生産も公的な審議決定の対象となる。

→つまり、マルクス=エンゲルス的には、再生産過程を従来のように私的領域にとどめるのではなく、それ自体を公的に位置づけること、すなわち生産手段の共有というモデルが希求される。

 

 

第十五節 自由主義理論にあらわれた公共性の両価的把握――ミルとトクヴィル

○公共性はかつての小家族的親密圏と比較すると、新聞や雑誌などのマスメディアを通して爆発的な広がりを見せた。

→しかし、その結果として、ヘーゲルやマルクスが指摘した階級間の分裂が生じることになる。一部の教養層から形成された文芸的公共性や、市民的公共性の初期の頃とは異なり、公共性が拡張されてしまったが故に、諸々の階層の流入・分断というジレンマが生じてしまった。

○社会主義者たちは文字通り社会主義的モデル(経済の問題を公共圏に持ってくる)に移行することによって、この相克を解消しようと試みたが/対する自由主義者たちはそもそも公共性が自然に政治的機能を有するという、伝統的な公共性のモデル自体に疑念を抱く。

→自由主義者はもはやカントのいうように歴史哲学に基づく自然の流れとして公共性-政治の関係を描写することはできず、代わりに「現実主義的」な市民の自己理解を促す。

 

【ミル&トクヴィル】

○拡張された公共性は、かつてとは異なり無教養な人々も流入させることになり、統一性も明確性ももたない、茫漠とした意見の集合に成り下がる。

→ミルによれば、もはやただ「意見の相違のみが、真理のすべての側面に公正競争の機会を与える」 のみに過ぎない。

○トクヴィルも公論の推進力は批判的な傾向であるというよりかは、画一化に向かうものであると位置づけている。

→上記のことから、ミルもトクヴィルもせいぜい公論は暴力の抑止力程度の機能しか有さず、なおかつそれ自体が暴力的圧力を持っているため、公論自体の制限が急務であると見ている。

→ミルがいうように、公論はかつてのように権力解消(公権力の批判)ではなく、権力配分(公権力の抑止)という目的に奉仕すべきものである。

 

○また2人は「代議員統治」に賛成している。私人たちの情念に毒された公論を、独立したエリート層の公衆によって洞察・浄化される必要があるためである。

→いまや少数派に陥った公共性を復権するためには、もう一度代表的具現の神秘性を部分的にではあるが取り戻す必要があるだろう。

○トクヴィルは上記のミルから一歩進み、市民が未成年状態にとどまってしまうことに対して憂慮の念を示している。

→具現的階層秩序は、確かに市民の生活に対して後見役の機能を負うが、逆を返せば市民たちをいつまでも幼児の状態に繫いでおこうとすることになるため。

 

 

 

○いずれにせよ、この自由主義が台頭した時代の次にやってくる「組織化」された資本主義の100年(つまり20世紀)で、私的領域―公共性の関係は崩壊し、市民的公共性はもはや存続が困難となる。

→そうであっても本節と前節で確認した、ヘーゲル­=マルクス的な社会主義のモデルも、ミル=トクヴィル的な自由主義のモデルも、両布陣の間で奇妙に浮遊する公共性を把握するには適していない。

 

【メモ】 この章は割と重要なのだけど、なかなか難解なので以下で簡単に整理しておく。

→本章のトピックは市民的公共性の(理論的・概念的)変遷。

A [前史(ホッブズ、ロック、ルソー) 17世紀~18世紀初頭]

ホッブズ……conscienceとopinionを同視することで、宗教的教説の特権性を相対化

ロック……「意見の法」は曖昧なopinionとは異なるが、討論よりかは素朴な常識に根ざす格率

ルソー……「一般意志」は討論を積極的に退け、諸個人に内在する「良識(bons sens)」に基づく

 

B [古典的公共性の議論(カント) 18世紀~19世紀初頭]

カント……「公論」という名称こそまだ登場してはいないが、「理性の公的使用」としての啓蒙と、未成年状態にない万人による討論の重要性についてはすでに触れられている。

→こうした政治的状態・法的規範には、公式的構想/非公式的構想によって到達される。

 

C [史的弁証法と社会主義(ヘーゲル、マルクス) 19世紀後半]

ヘーゲル……公共性の名の下に包摂される諸個人はそもそも経済・社会的地位が違うため、自然的分裂に向かう。よって身分議会によって、統合の契機を設けるべきである。

マルクス……ヘーゲルと同様、身分の違いによる闘争が起きてしまう。公論自体がブルジョワジーの虚偽意識に過ぎず、また包摂により流入したプロレタリアートの社会的再生産の論点を、公的領域で行う必要がある。

→公共性のモデルを経済領域にまで拡張すべきである。

 

C´ [自由主義(ミル、トクヴィル) 19世紀後半]

ミル……公衆の拡張により、無教養な人々が公論を形成するようになる。そこにはもはや批判的推進力などなくて、せいぜい暴力的支配を抑制するくらいの機能しか認められない。

トクヴィル……ノイズの多い公論を浄化するために、代議員が認められるべきであると考えたが、それは他方で市民の成長を阻害する逆機能も有している。

 

○Aで公共性の方向性が生まれて、Bのカントによって定式化されるも、CとC´の時代では公衆の範囲が拡張されたことによる弊害が問題化されている。他方でCもC´もハーバーマス的には妥当な把握ではない。

 

 

 

第五章 公共性の社会的構造変化 p.197-248

第十六節 公共圏と私的領域の交錯傾向

○2章で確認したように、公共性それ自体は私的領域から芽生えたものであり、公的領域に属しているのはむしろ公権力だった。

 

○19世紀の後半あたりから、国家による経済への干渉が増大してくる。これは確かに従来的に私的領域とされた経済圏に、公的領域の侵入を許すようであるが、これによって私的交渉の自律性が奪われることにはならないため、交錯には該当しない。

→そうではなく問題の交錯は、社会圏が公的領域の機能(≒公権力)を負うようになることで生じる。

「干渉主義というものは、民間圏内だけではもう決着しきれなくなった利害衝突を政治の場面に移し変えることから生じる。こうして長期的にみれば、社会圏への国家的介入に対応して、公的機能を民間団体へ委譲するという傾向も生じてくる。そして公的権威が私的領域の中へ拡張される過程には、その反面として、国家権力が社会権力によって代行される反対方向の過程も結びついているのである。」p.198 →社会の国家化

 

○社会の国家化が進行するにつれ、国家(=公権力)と(市民)社会の中間にあった公共性は喪失し、代わりに台頭する社会圏は干渉により再政治化されたものであるため、もはや私的/公的といった区別はできない。

→以下では公共圏と私的領域の関係が構造的に変化したこと(5章)、および政治的機能の変遷に即した指摘(6章)を行う。

 

○まず干渉主義が生まれる前段階として自由主義の崩壊があった。

→自由主義が立脚していた自由競争と独立価格の原理が成立しておらず、ゆえに社会的権力は特定私人(ブルジョワ)のもとに集中していくことになる。ノイマンが指摘するよう、自由主義国家の自己理解「夜警国家(小さな政府)」は誤りであり、実態はブルジョワジーの利益にかなうように構成されていた。

○次に公共性が国家機関として成立したことによって、経済的に弱い立場の人々が政治的手段によって対抗を試みることになる。

→経済的な私的利害の対立が、政治的領分において行われるようになり、ミルやヘーゲルらが予見したように身分に基づく争いが勃発することになった。

 

○かつては私的領域としてあった商品交易と社会的労働をめぐる議論が、政治力学に転換され、国家干渉によって媒介された上で、本来の圏内に反作用を及ぼすことになる。

→いずれにせよ干渉主義がこうした文脈から登場したことで明らかなよう、干渉の保護下にあるような社会圏は、公権力のもとにあり、ゆえに私的領域から区別される必要がある。

 

 

第十七節 社会圏と親密圏の両極分解

○大経営は市場や株主からの独立性を得ると、自由主義時代の経営とは異なり、私的自律圏を失うことになる。

→ラーテナウがいち早くこの傾向を発見し、バーナムやドラッガーも主張したように、大企業は「施設」へ発展し、社会的労働権における「私的なものの消失」を引き起こす。

 

○職域が拡張したことにより準公共圏といった性格を帯びる他方、家庭という私的領域は縮小していく。

→仕事がまずあり、その剰余として私生活圏があるという転倒状態。

○さらにそれに伴い、かつて市民的家族が背負う必要があったリスク(病気、死亡、老年など)は付加的補助として補償されることになり、加えて住宅調達、職業紹介、健康管理、教育相談といった一連の機能も、諸々のサービスによって補填されることになった。

→資本形成の基盤としての家庭が凋落する共に、教育、養育、保護といった人生案内の機能も今や課程には認められない。

○他方において、ますます家庭はレジャーの消費者、公的サービスの受給者といった側面を強くしていく。

→私的自律は自由主義の時代における家庭では、商品所有にあったのに対し、現在ではむしろ受給資格者の部分に求められるようになってしまったのである。

「私生活圏が収縮して、その機能を大幅に解除され権威も薄弱になった小家族の内部領域――片隅の幸福――へ集中することは、ただ見かけの上だけ親密性の感性であるに過ぎない。なぜなら、私人が財産主としての責任ある役割から無責任なレジャー場面の純「個人」的役割に引き篭もるに連れて、彼らはここで制度的に保証された家庭の内面空間の保護なしに、半ば公共的な権威の影響下に直接さらされることになる。」p.215

 

 

第十八節 文化を論議する公衆から文化を消費する公衆へ

○かつての小家族的親密圏で営まれていた文化的実践は、古代ギリシャ的な意味で日常から独立しており、フマニテートという理念に向かう文芸的公共性を成立させていた。

→しかしながら文芸的公共性がマスメディア等によって拡張され、市民権を得た上で単なる文化消費にまで落ち込むと、もはやそこには政治的な性格は観察されない。レジャーはもはや前章で見たように生活から解放された一時というよりかは、むしろ生活の階梯に組み込まれた余剰に過ぎず、公共的な意思疎通へと転換されることもないだろう。

 

【グループ活動】

○家庭の文学的連関が喪失すると共に、喫茶店やサロンでの集まりも時代遅れとなってしまった。

→確かに20世紀になってもブルジョワ的社交形式は「グループ活動(group activities)」として存続したが、小家族的な集まりなどではなく、群居的な営みの中で行われるものであり、文化的な論議に発展することはない。すなわちこの周りには公衆が形成されない。

→ラジオ、テレビ、映画の集団鑑賞も同様である。

 

【論議の商品化】

○他方で公共的論議それ自体は独特の変容を遂げて残存している。

→これらは政治フォーラム、文学的組織、宗教的アカデミーといった形態をとり、放送会社や出版社の副業として開催されることが多い。すなわち、文化的な討論それ自体が消費財に変質してしまったということである。

→換言すれば著作や作品の製作過程が商品になってしまった。さらに、これらの商品は、一般に比較的文化水準が低い層をターゲットとして展開される。大衆文化への格下げ。

 

【2つの市場の機能】

①経済的敷居下げ……価格の引き下げにより、より広範な公衆による文化財へのアクセスを容易にする。

 

②心理的敷居下げ……文化財の内容を需要に適応させ、心理的な壁を無くす。

→マイヤーソンはこれを「余暇への入場条件(entrance requirements into leasyure)」の低廉化と呼んでいる。

 

【新聞】

○また大衆への「入場条件」を緩和した新聞紙も、その内容を変化させる。

→商業的な維持が自己目的化していくため、受けの悪い政治的記事・社説は削られ、買取記事や挿絵、特派員通信に紙面が割かれていく。どちらかといえば政治的公共性よりも、文芸的公共性の延長線上にある文芸的消費の伝統が強く窺える内容になる。

→いずれにせよ、新聞も読書公衆による論議の場というよりも、趣味交換、好尚交換の空間になってしまう。

 

 

 

○さて上記の分析に対して、俗説ではかつて文芸的公共性を牽引していた一部の上層市民は、現在でも連続性を保った立場にいる、とされている。

→ニューメディアの消費者層として、社会的により上位の立場の人々かつ、地方よりも都市に暮らす人々である傾向が強く、ゆえにこの言説は誤っている。

「文芸的公共性の崩壊は、この現象の中にあらためて要約されているわけである。知性の公共的使用へ教育された教養層の共鳴盤は粉砕されたのである。公衆は、公共性なしに論議する専門家たちから成る少数派と、公共的に受容する一方の消費者たちの大衆とへ分裂し、こうしてそもそも公衆としての特有なコミュニケーション形態を喪失するのである。」p.231

 

 

第十九節 基本図式の消滅 市民的公共性の崩壊の発展経路

○マスメディアによって促される消費の文化は、統合・同化の文化である。それはかつての公共性にはあった批判的推進力を失うばかりか、現体制を正当化する宣伝目的の機能を果たすこともありえる。

○今や公共性は私的領域にはなく、公的領域/私的領域の交錯が進むに連れて、そもそも公/私という区別すら困難になってきている。

→そこにあるのは再政治化された社会圏である。

 

○市民的公共性の要件を満たすことなくそこを侵害した無教養な大衆たちは、私的な経済領域の問題を俎上に載せ、政治的問題への変換を図った。

→前章にあるようマルクスはこうした事態を予見し、肯定的な展望を持っていたが、実際のところは、公共性が権力均衡と権力行使を運営する立場の者の手中に渡ってしまった。

→伝統的には議会と公共の討論を架橋していた批判的公開性も、非公開の意見をコントロールする操作的公開性に変容した。

 

○公開性の変容に伴って、公共性の理念と事実上の機能も変化することになる。

→自由主義が標榜していた「公論による「真理性」の保証、及びその議会・法規範への反映」という構図ももはや成立せず、そうした合理的討議ではなくて先述の通り利害をめぐる示唆的行動しかないのである。

 

 

 

第六章 公共性の政治的機能変化 p.249-320

第二十節 民間文筆家たちのジャーナリズムからマスメディアの公共サーヴィスへ 公共性の機能としての広告

○本節冒頭では公共性の機能転換を、その主要期間である新聞の変化という枠組みの下に検討する。

 

【新聞の変遷】

①通信事業……資本主義初期における控えめな利潤志向。通信技術の組織化・通信そのものの照合にのみ関心の焦点が定められており、手職人的だった。

 

②思想新聞・「文筆家のジャーナリズム」……編集局よりも一部の文筆家が教育的意図をもって開始した、利潤を度外視していた新聞。初期の頃は編者・発行者・印刷者が同一人物だったこともあるが、競合の中で分化した。

→いずれにせよ利潤志向が公論志向を凌駕することはなかった。

 

③商業ベース……英・仏・独で同じく、1830年頃から始まった新聞の傾向。市民社会の確立により、政治的機能を持つ公共性が合法化されることになると、新聞は主義主張から解放され、初期の営利目的に回帰した。

→しかし初期の手職人的性格は失われ、大量発行に基づく商業的経営に重きが置かれる。

→③の段階で経営以外の利害関係も新聞に反映されることになり、特権を有する私的利害が公共性に侵入してくる水門となった。

○しかし新聞のこうした動向も、20世紀になって台頭した新しいメディア(ラジオ、テレビ、映画)に比べれば極めて軽微なものに過ぎなかった。

→これらは巨大な資本を有しており、かつ当初より半民半官の機関として運営されてきた。

 

○いずれにせよ一方で上述のマスメディアはますます広範な射程を有することになり、公共性の圏が拡張されることになり、他方でより多くの私的利害に関心がある人々が、拡張された公共性の間口から侵入していく帰結をもたらした

 

○さらにこれらのマスメディアに乗じて広告の影響力も全面化していくことになる。

→「広報活動(public relation)」と呼ばれるこの流行は、商品価値それ自体を直接に押し出してくるのではなくて、マスメディアにおける公論の回路を迂回し、擬似的な公益・公論の皮を被って展開される。

→しかしこれは所詮「虚構の公益」に過ぎず、合理性に基づくというよりかは、知名度や権威に基づく「信用」の合意である。

→これはちょうど中世において具現的公共性が賦与していた神秘性・超自然性の模倣であり、その点で公共性の「再」封建化と呼ぶことができる。

 

 

第二十一節 公開性の原理の機能変化

○古典的規模における出版事業よりはるかに強大な管理機構による広告政策が、既存のマスメディアを利用して、その地位を確立した。

→こうした行政による意図的な意見操作は、民間企業や団体組織が利用してきた手法、すなわち「広告活動」から借用されたものに他ならない。

 

○既に述べている通り、大衆の流入によって個人的な利害闘争が、公共性の名で包括されるようになった。

→この利害調停は古典的な議会における合意や協定には当てはまらない。しかしこれを全く放棄することはできず、ゆえに

①国家機能の幾つかを社会組織に移譲する(公権力の以上)

 

②規範にかかわらない仕方で非公式に職権を転移する の2つの方法で処理される。

→いまや政治的問題の所在となった社会組織、つまり民間団体は「世論」を操作しつつも「世論」の影響を受けず、また私的利害をあたかも共同の公益であるかのように見せかけ、政治的圧力をかけることになる。

○こうした広報活動によってかつての代表的具現性が民間団体に復興されたかのように錯覚するが、これらは公論(public opinion)の指導者ではなく、前に述べた(※第四章)威信(reputation)という意味での評判(opinion)に過ぎない。

 

○広報活動という語には公共性が自然に存在するのではなくて、作為的に誰かの手によってその場で作られる必要があるということが、含意としてある。

→消費者に向いた政治的圧力となり、その気になれば同調気運のポテンシャルを動員し、国民投票的性格の拍手喝采を作り出すことも可能となる――ムード的動員

「拡張された公共性を前にして、討論そのものもショーとして定型化される。公開性は、その示威機能のために、批判機能を失う。論理さえもシンボルにすりかえられ、これに対してはもう論理によってではなく、人物確認によって答えるよりほかない。」p.274

 

 

第二十二節 造成された公共性と非公共的意見 住民の選挙行動

○政治的公共性が崩壊したことによって、選挙も自然な政治的論争の中から造成されるものではなくなってしまった。

→そうであるにもかかわらず、選挙における民主主義的手続きは市民的公共性、つまり自由主義的擬制の上に立脚しているというねじれた構造がある。

○無論、かつての政治的公共性から連関を保ち、政治的関心を持ちつつ、情報に通じた活発な公衆の中核層は未だに存在している。しかしオピニオンリーダーになる契機がある彼らも、論議する公衆が他にいないため、意見の硬直化を引き起こす。

 

○選挙民には一方で上記のような少数のオピニオンリーダーがおり、その他方で同様に固定化された多数の市民層がいる。

○ここに別の区分をすることもできるだろう。例えばジャノウィッツが指摘するような固定化されないグループの存在も示唆される。

→彼らは妥協派、中立派、右顧左眄派、無関心派などがおり、これらは自分たちの政治的立場を決めかねている流動層であるが、ジャノウィッツが指摘するように、態度を決めていないがゆえに選挙宣伝の最も有効な対象になってしまうのである。

 

○選挙ごとに構成しなおされる政治的公共性の新演出は、マスメディアによって普及される統合文化であり、そのメンタリティは確かに非政治的であるが、それでも様相としては一種の政治的イデオロギーを構成している。

→19世紀のそれと異なるのは、諸観念の斉一性から構成されるのではなく、消費という習慣の斉一性から成るという点に求められるだろう。

 

○先述の通り公共性の転換により、公的意見はもはや拍手喝采の中、マスメディアの回路を通したムード的な動員がなされることによって形成されるようになった。

→自律性という徴表を欠くばかりか、合理性すらそこに認められることはない。各人に各人の選好や願望を申告する権利を認めることが民主主義の原理なのではない。あくまで個人的意見(opinion)が公衆の論議の中で、公論(public opinion)にまで昇華される必要性がある。

 

 

第二十三節 自由主義的法治国家から福祉国家への変形過程における政治的公共性

○政治的公共性が今日において実際に振るっている諸機能と、政治的公共性に要請されている機能との間には著しい不調和がある。

→このことは自由主義から福祉国家への変形プロセスにおいて特に顕著となる。

 

○そもそも自由主義と福祉国家の不可分な連関をどこに求めるべきだろうか。

「身分は私圏(市民社会と家族)においても、公共圏においても、民間人の自立さえ保証されているのであれば、公共圏と市場が期待通りの仕方で機能するであろうということを信頼して、禁止命令的に保障されるのである。」p.293

→すなわち自由主義国家と福祉国家との共通点は、基本権の保証が基本原理にあるということに求めることができるだろう。

→すでに確認したように法治国家における法規範、普遍性と合理性に基づいていなければならなかった。しかしこれもすでに見たよう、両者は政治的公共性の変容に伴い、空洞化しており、形式的規準しかもはや残存していない。

 

○こうした現況において、以下の2つのチューンアップがありえるだろう。

①基本権(思想・信条の自由、集会の自由、報道の自由など)を、構造変化を遂げた公共性に適用する場合、これらは禁止命令ではなく、むしろ積極的に参加保証をするべきである。

→結社や集会をむしろうまく設計し、これらが内部構造を秩序付ける組織になるよう試みる。

 

②私有財産に関する基本的自由権は、もはや単なる競争資本主義における私有圏の問題として解されてはならない。

→労働権、職業選択権、居住権などは原則的には禁止されてはならない一方、福祉国家的な制限下におかれる必要がある。

→従来的に立入禁止だったところを、積極的に解放することによって、社会的給付と政治的公共性を保証しなければならない。

 

 

 

第七章 公論の概念のために p.321-338

第二十四節 国家法的擬制としての公論 この概念の社会心理学的解体

○公共性という概念は、規範/事実という関係に立っているのではなく、以下の2つの機能から説明することができる。

①批判的機能……公共的意見に狙いをつけ、政治・社会的な権力失効について、規範的に要請される公開性のために、公論を批判的審廷にかける。

 

②操作的機能……非公共的意見に狙いをつけ、人事や制度、消費財や番組のために、示威的・操作的に流布される広報活動との関係にて、公論を受動的審廷として利用する。

 

○憲法規範に合意されている公開性に対し、理性的な権力者に権限を委譲することなく、公論それ自体が機能するためには、以下の2つの方策が考えられる。

①リベラリズムの立場……拍手喝采するムードに流される公衆の中から、核心部に位置する一部の公衆中心で論議していく立場。

→換言すれば合理性(核心部の意見)のために、普遍性(公衆全体の意見)を犠牲にする考え方。代表的具現性が再び顕れることになるが、現在においては困難である。

 

②公論の制度的規準に限定して焦点を定める立場……代表制や合理性を度外視し、単に議会における支配的な政党を拘束する政見のことを公論と定める形式的な立場。

→公論の所在がどこにあるのか不明瞭になるという欠点を持っている。例えば政党を拘束する公論とは、誰の意見をもとにしているのか、など。

 

 

第二十五節 問題解明の社会学的な試み

○単にアンケート調査から抽出したり、それを政治的威信やパブリシティに関連付けたりすることによっては世論を確定することができない。

→公共性の発展推移の次元から得られるほかない。すなわち現況の福祉国家のモデルを公共性に関連付けて検討する必要がある。

 

○公論の分析に当たっては、以下の2つの次元から確定作業が行われる。

①非公式の領域/コミュニケーション……第一次元「討論されるまでもない交流領域」、第二次元「ほとんど討論されない生活の基礎経験」、第三次元「しばしば討論される文化産業的通念」からなる。

→一部の狭いサークルで観察される/広範な公衆に訴えることはない「擬似的公論」が属する。

 

②公式の領域/コミュニケーション……制度的に公認された意見の体系からなる。

→マスメディアの回路を通して両者は相互応答関係にあり、広報活動による「公共的に表明された意見」も構成されるが、これは「擬似的公論」とは異なる類のものである。

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