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2015年度うきうき読書デスマラソン―規範理論(政治哲学)編 その1

0 開始地点と走行コースの設定

●時は大航海時代……

富、名声、力……(選択運によるものを除く)この世の全ての自然資産を公正に配分しようとした男、政治哲学王ジョン・ロールズ。彼の『正義論』(1971)で放った言葉は、人々を規範理論という名の海にかり立てた……。

 

「ていうか無知のヴェールかぶっとけば、自然状態から社会的契約に移行する際、みんなマキシミン・ルールに則って正義の二原理を選択するし、だったらそれを政体が準拠すべき規範にすればよくね?」\ドン!/

 

人々はいまや高度な哲学的水平にまで高められた政治学的倫理およびその制度設計への問いに応えるため、夢を追い続ける!世はまさに、大航海時代!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だいたいこんなノリやで。何が言いたかというと「現代政治理論はロールズに端を発しているよ」ということです。他方、政治哲学というのは最古の学問の一つともいえるくらいクッソ昔からあって、関東平野がまだ水の中にある頃の中国では、すでに遊説家という身分の人たちが政治について語っているし、いわゆる西洋哲学の文脈でも、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった人たちが太古の昔に登場していた。ちなみにプラトンだけは古代ギリシャ語で「肩幅が大きい」を意味する単語なので、本名ではなくリングネーム(レスリングめっちゃ強かった)なんだ。これマメな。

 中世に入るとキリスト教が幅を利かせはじめるけど、それが凋落していくと、封建主義へのアンチとしてベンサムに始まる功利主義が出てくるし、産業革命の機運が高まって自然科学がバイブスぶちアゲ↑になってくるとロック、モンテスキュー、ヒューム、あとカントといったお馴染みの啓蒙思想が登場、同時にホッブズとかルソーとかの社会契約論も出てくる。だいたい、イギリスで始まって、ドイツとおフランスで育った感じかな。この流れは。さらに近代入るとマルクスやウェーバー、20世紀に限定しても個人ならフーコーやシュミット、学派ではシカゴ学派にオーストリア学派、フランクフルト学派だのが湧き水の如くどんどん出てくる。そんなわけで政治哲学はこんな感じで古代から近代まで長い歴史を持っているわけど、その系譜の中でいわゆる規範理論(ある政体が選択すべき哲学的レヴェルでの規範をめぐる問い)的な問題提起がロールズ以前にはされてなかったのかよ?と聞かれると、答えは「されてた」ってなっちゃうんだな。つーか、功利主義とかどんぴしゃでそうだし、カントやヒュームの倫理学とか規範理論を語る上で外せない。

 

●ロールズの正義論/カント倫理学と功利主義

前置きが長くなったけど、こうして見ると今回の現代政治・規範理論うきうき読書デスマラソンの開始地点としてロールズが設定されていることの妥当性をまず明らかにしないといけないことがわかるね。するとロールズ(スタート地点)/それ以前の地点に差異理論的アプローチかまさなきゃなので、ここに来てやっと、ロールズの主張を誰と/どこ/どのようにして/なぜ線引きをするんですか?という問題が見えてくる。

(マジでクソにわかなのでビクビクだが)ココではとりあえず

① 選好を効用とし出した以降の功利主義と、

② カントの倫理的正当化          

を「以前」の哲学として挙げておこうと思います。政治哲学においてパラダイムを築いていたこの2点の限界を突破したということ、それがロールズの新規性であり、当時の政治哲学の新境地だったといえるのでしょう(他人事)……イズミは学問的潔癖なのでクッソめんどくさいけどそれぞれ解説入れてやるわ。古典とかマジでゲロ苦手だけど。本題のマラソンになかなか入れそうにないのう。

まず肝心なのは、功利主義にしてもカント倫理学にしても「登場したのはさっき見たとおり近代へのちょうど移行期だった」ということ。雑に書くとヒューム的な啓蒙主義からの功利主義(ベンサム)&初期ドイツ観念論(カント)って感じでだいたい正解だと思う。だから、ロールズの『正義論』執筆まで約200年の時間の開きがある。んで、その200年もの間のうのうとベンサムとカントに政治哲学の覇権を握らせていたのか、と言うとまぁベンサムは割りとすぐにミルとかいう天才の出現で終わコンになっていて、カントの方はヘーゲルが出てきたのでしばらく「VIVA☆弁証法的発展」な時代が続くことになる。

しかし、ミルは功利主義をチューンアップしてくれただけだし、ヘーゲル後に「カントに帰れ!」的な運動、つまり新カント派とかがいてくれたので、両者とも思想の死とまでは至らなかった。っていうかカントに関しては普通に今日も元気です。こういうわけなので、ロールズ前の枠組みとしてこの2つを位置づけるのは(少なくとも潮流が流れ始めた時代的な開きがあっても)問題ないんだな。むしろ重要なのは、その内容ですよ。

 

●ロールズのすごいとこ

 では、この2つのどこを政治哲学的な意味でロールズは克服したのか、それは以下の2点にまとめることができる。

①(功利主義に対して)効用として選ばれる選好の規定不可能性を、基本善(primal goods)のアイディアによって解決した

→【配分財の問題の解決】

②(カントに対して)倫理的命法を正当化する際、カントが形而上学的領域を論に含まざるを得なかったのに対し、ロールズは原初状態-契約論的論拠のアイディアによって経験的領域に置き換えた

→【倫理的正当化上の問題の解決】

 

 ってな感じですわ。もちろんロールズのごいすーってとこは他にもいっぱいあるよ。しかし、とりわけてすごいのは、このように従来的な政治哲学と倫理学の抱えていた問題を「解決」したしまったというところに求められると思うな。たーだーし、ここで肝心なのは、確かにロールズは従来の規範理論が頭を悩ませていた問題に新たな風を送ったし、ここではあえて「解決」という言葉を使っているけど、これが後々論争を巻き起こしていることからも明らかなよう、その問題自体が真の意味で解決したわけではない、ということだね。つまり、配分財についても倫理的正当化についてもそれぞれロールズは彼流の答えを出したわけだけど、あくまでそれはロールズの主張であって、万人に受け入れられたわけじゃないし、むしろ鬼のような完成度の論理からそれを反駁してくる鬼のような人たちもいっぱい出てくる。さらにいえば、僕も基本善と原初状態の両概念は穴だらけだと思う。スポンジボブみたいにね。だから、もう一回強調しておくと、ロールズが偉大なのはその後40年くらいは少なくとも使われる土俵を作り、従来の議論をそちらに移したことであって、そもそもの問題自体を解決したところにはないよ、ってことが言いたいんだな。まぁおいおい見てくので、今はとりあえず保留して順に解説しようか。

 【配分財の問題の解決】というのは、上に書いたように功利主義に対するものだ。よく高校の世界史や倫理で功利主義の思想を学ぶとき、「最大多数の最大幸福」というキャッチフレーズが一緒に紹介される。でもこれは間違ってはいないけど、正解でもないんだな。確かに、功利主義は端的にいえば「最大多数が望む効用をどうやって最大化するか」という問題を考えてきた。しかし、そのとき効用を「幸福」として定義したのは不満足なソクラテスことJ・S・ミルさんであって、ミルの前にベンサムによる「快楽」、その後にヘアらによる(合理的に判断された)「選好」っていう定義がそれぞれ存在している。つまり、「最大多数の最大快楽」(ベンサム)→「最大多数の最大幸福」(ミル)→「最大多数の最大選好」(ヘア)って感じで効用概念は変遷を辿っているわけさ。

 そんで、ベンサムの「快楽」って定義はまぁやばいじゃん。窃盗とかレイプとか殺人とか、あとはドラッグとかが人間にとって本能的快楽を生み出すと明らかになったとき、それを効用だからといって最大化してええんか、ってなるじゃん。少なくとも、科学的に違法ドラッグはおそらく誰にとっても快楽足りえるといえるけど、それ認めたら世界中が年中ヒッピームーヴメントみたいになっちゃうよ。刹那的で退廃的な世界、魅力は感じるが、政治哲学の立場からはGOサインだせねーわ。

 次に「幸福」。面倒だから「選好」も一緒に問題点を紹介すると、誰が幸福だの選好だのを客観的基準から図るんだよ、というのが一番大きい問題だ。僕は休日にこうやって家で篭ってパソコンうってんのが幸福であり、選好だと感じているけど、晴れの日には外で身体を動かすことが自分にとってはそうだぜ!って人もいる。で、前者を望む人が多ければ、後者は配分される必要がないのか、またその逆はどうなのかという問題が幸福とか選好とか言っている間はずっとつきまとう。上記の例は軽い話だけど、例えばエスニックマイノリティや宗教マイノリティ、セクシャルマイノリティの問題を考えてみよう。彼らの「幸福」や「選好」というものは、ある点においてマジョリティのそれと異なっているかもしれない。しかし、だからといってそれらが配分される善から除外される、というのは端的にいえば社会的排除だ。不当な原理に則っている以上ね。現実問題、この辺のマイノリティの話って20世紀後半くらいからだんだんホットになってて、功利主義じゃそれが救えないこともみんな気付き始めた。そこでロールズは「各人が詳細になに望むかわからんのなら、誰もが必ず必要な財を配分すればええんや!」的なことを言い出す。そして誰もが必ず望む財こそが、「基本善(財)」というわけだ(基本善が具体的に何を指すのかは本紹介するとこで解説しまふ)。まぁ逆転の発想だよね。「そんなんあったりめーじゃんwww」とか言う輩もいるだろうけど、現段階で自明のことを自明であると判断できる能力と、無自覚な状態でそこに気付ける能力はぶっちゃけ月とスッポン、雲と泥くらいに差があるので猛省せよ。ともかく選好型アプローチに対して、基本善の概念を提示したことによって功利主義のドグマから抜け出せたわけだ。ただ、もちろん基本善に対する批判もあって、リベラリズム内部に限定してもセンやヌスバウムといったケイパビリティアプローチとる人たちからすると、まだまだ不十分だそうな。そもそもロールズらが言う「正義」が倫理的な提言として正当なのか否か、という問題は置いとくにしても、僕もこの二人がいうように基本善という概念には穴があると思うな。まぁそれも後々見てくから。

 

 次に【倫理的正当化上の問題の解決】というとこの解説するでよ。これは先述の通り、カント的な定言命法から距離を置くことに成功したという点において、ロールズすごいっすよ!ってな話だ。そもそも定言命法やら倫理的正当化やらってなんやねんって感じだけど、そこから紐解いて解説しようか。

 規範理論という表現をここまでで何度か使ったけど、規範というのは一般的に「~すべき/すべきではない」と記述される。ドイツ語だと“sollen”って言うね。「徳の高いことをすべきだ」とか「ピーマン残すべきではない」とかみたいにね。で、政治のレヴェルで「べき」論を制定しようとなると、当然ながらそれを正当化する根拠が不可欠になってくる。だって、人様に特定のルールを強制することになるもんな。例えば「人を殺すべきではない」って規範を強制する際、そのルールを正当化する原理みたいなものがみんなに共有されているからこそ、その規範は規範足りえている。その原理みたいなものこそがまさに倫理というやつで、その正当化過程をどうするのか、ということが倫理学や政治学では問われ続けてきた。実際、それこそソクラテスの時代からいわゆる天才と呼ばれた人たちがこの問題に頭を悩ませてきた。ニーチェみたいに考えすぎて発狂した人だっている。

 全部解説してると倫理学の読書デスマラソンになっちゃうので、ここではカントの倫理正当化をかいつまんで話そうか。カントによれば、事物は「物自体」としてアプリオリに規定されている。「Xの本質とは何ぞや」みたいな問いを立てる人がいたりもするけど、カントにいわせればそんなものは人間が人間である以上わからない。神だけが「彼岸の国」で事物の本質を知っているというわけだ。ところでさっき“sollen”って出てきたけど、これの対義語は“deine”(~である)なんて言ったりする。カントの考えだと、事物の本質に迫ることは人間の認識能力では不可能なので、あんまり“deine”という記述に価値を認めていない。むしろ、アプリオリに規定されている“sollen”に従って生きるべき、そしてそのアプリオリな「~べき」こそがあらゆる倫理的教説の正当性を保障してくれるものだという。

 例えば、僕は人から全力で殴られるのは好きではないというか嫌だ。嫌と感じることに痛いからとかまぁ理由をつけることはできなくもないけど、とにかく嫌なわけだ。この自分が感じる根源的な「嫌だ」という気持ちにこそ、アプリオリな規範は顕在化している。自分がされてとにかく嫌だ、ということは誰か他の人にしてもきっと嫌がるだろう、と推察される。理由はなんであれ、というよりそれ以上理由が遡行できなくて、「ダメなんだからダメ」といわざるを得ないアプリオリな倫理、それこそがカント倫理学の基礎をなしているわけだ。で、最初に出てきた定言命法というのはこういう倫理的命題のこと。「Aだから、Bすべき/すべきではない」という記述を仮言命法というのに対し、定言命法というのはその理由が遡行不可能なレヴェル(つまりアプリオリ)で規定されている“sollen”のことなので、記述の仕方も「Bすべき/すべきではない」だけになる。さっき言ったように「Aだから」というのは理由だからね。

 ここまでカント倫理学の基礎の基礎の基礎の解説でした。この人の問題は、物自体とか彼岸の国とかいう概念を持ち出して、形而上学的な領域にてアプリオリに倫理を規定してしまったということね。いや確かに「規範は無条件に設定されている」っていう主張は強力だし、ある意味で究極の解答のひとつでしょう。でも、納得できない。だってなんで倫理なるものが無条件に規定されているのならば、キリスト教徒とイスラム教徒、右翼と左翼、アンパンマンとバイキンマンで信じている正義がそれぞれ異なるんだよ?ってなんじゃん。辛辣だけど、アプリオリな規定っていう答えは思考停止してんじゃねーの?ってことな。

 そこでロールズはカント流の倫理的正当化(形而上学的規定)を回避し、独特な思考実験を用いて経験的事実の領域にまで落とし込む。それこそが「原初状態」というやつだ。原初状態っていう概念は、主に社会契約論者が使っていた自然状態という概念をアレンジしたものなので、まず自然状態の解説から入るわ。リヴァイアサンで有名なトマス・ホッブズは自然状態のことを「万人による万人の闘争」と表現した。まさにマッドマックスや北斗の拳に出てくるような世紀末状態。この状態は自由の極みたいなものだけど、結局諸個人の抱えるリスクが大きすぎるため、王と社会契約し、秩序を維持するようになるっていうのがホッブズ契約論の基本的な構想やね。

 ロールズの原初状態も概ねこれと一緒なんだけど、ひとつめっちゃでかい違いがある。それは各人が「無知のヴェール」で覆われているという点だ。詳しくは著作紹介のところで見ていくけど、これによってみんな自分の選好や性格が相対的にどのようなものであるか、ということがわからなくなってしまう。自分がどんな人間かわかんないわけだ。で、ロールズによれば、その状態でなんか特定の倫理的教説を選べや、となるとリベラルな正義原理が選択されるらしい。ゆえに、正義の二原理は正当な倫理であるし、それに従うべきだとも言うことができる。ざっくりいえばそれがロールズの主張だ。

 君のいいたいことはわかるよ。僕もほんとかよって思ってるし、ほんとかよって思った奴らが実際に何人もロールズに喧嘩売ってる。そもそも無知のヴェールってまったく想像つかねーよとかって思うわ普通。でもそれは後から見ていくから。ともかく倫理的な「べき」論を、カントみたいにデウス・エクス・マキナとしての「彼岸の国」を持ち出さずに、ある程度それっぽく正当化したということ、それがここでは肝心なのでつっこみは留保でかんべんな。

 長くなったけど、この2点がロールズを現代政治理論の始発点に決定する根拠ね。今までのマラソンで一番スタート地点の決定に手間かかったわ。そんだけ政治哲学難しいねんてことで。

ここまでをおさらいしとくと、

・従来の政治哲学における規範理論では「配分すべき財」と「倫理的提言の正当化」の2点に問題を抱えてきた。

・前者は「①功利主義における効用」/後者は「②カント倫理学における形状学的領域」としてそれぞれ問題化していた

・ロールズのすごいところは①を基本善によって、②を原初状態によってそれぞれ解決したところにあるよ

って感じですわ。

やっと本紹介や~!って思うじゃん。まだコース設定してないんやで。というわけで、次はどこまでの範囲を現代政治哲学における規範理論とするか、を考えるよ。

 

 

●コース設定

 まぁこちらはそんな難しい話ではない。ロールズ以後の政治哲学で同様に正義の所在やあり方を問うた人たちを漏らさず拾っていければいいからね。しかし、マジで群雄割拠なんよね。自分の中にはまさにそんなイメージがあったから、冒頭にワンピースを持ってきたわけよ。まぁバキの「全選手入場コピペ改変」でも良かったけど、だるいじゃんあれ。

 コース範囲の本題とは若干ずれるけども、そもそもこの人らは何を掛け金に議論しているか、ってことを知っておくのはたぶん大事でしょう。いや、正義なんだけど、正義ってそもそもなんだよって話じゃん。漠然としている。そもそも正義や悪といった倫理的な判断は、何らかを志向していないと成り立たない。特定の対象に向かっていないといけない。環境問題に関する正義、紛争問題における悪みたいにね。逆を返すと、それ単品で存在している状態を想定できないわけだ。では、ここでの「正義」は何を志向するのか、「自由」や「平和」といった一般的に知られた概念なのか、「効用」や「共通善」や「労働」みたいに黒々しい概念なのか、はたまた「愛」や「希望」みたいに青臭い概念なのか。

 一つひとつこういう意味論的なレヴェルが高い概念を考察していくのも楽しそうだけど、あいにくロールズの始発の話で疲れたので、答えあわせから入ろうか。現代政治哲学における「正義」、それは常に「平等」を賭けて議論が展開されている。日常的な意味における平等ではなく、より広い意味での「平等」である。「弱い人に手を差し伸べ、強い人の所得也になんらかの制限をかけていく」みたいな表現は日常的意味での平等、ここでの意味は、「何らかの政治的観点から見た際、特定の社会集団(社会的弱者/強者、女性、エスニックマイノリティ、労働者、宗教的マイノリティなど)がその属性によって、ある社会的財の配分を多く得られたり、得られなかったりする社会構想」を指示している。まぁなんのこったわからんていうのはわかる。僕もよくわからん。強調しときたいのは、弱者の救済措置をとる社会構想だけが平等ではなく、社会的成功者がそれに見合うだけの報酬を得られる社会構想も、努力に対する正当な報酬を与えている点で「平等」であるという点です。ラディカルなリバタリアンから見たら、一切の社会福祉なんか働いてない奴が金貰う「不平等の極み」みたいな制度ってことになるけぇのぉ。

これは持論では決してなく、後にも登場するドゥウォーキンなんて人はこうした規範理論を押し並べて「平等主義的」諸理論というふうに呼んでいる(Dworkin 1977:179-83)。これを肯定的な文脈で受け取ったキムリッカという人も「平等という概念によって多種多様な主張を広範囲ながら一つの評価軸から評価できる」みたいなこと言っている(Kymlicka 2002:7)。さらに、アマルティア・センという経済学者は、先に挙げたような「自由」や「愛」といったものを「平等」の変数であると主張している(Sen 1992:8)。これはなかなか面白い主張で、つまり「自由」や「愛」を社会的財と見なすことで、その「平等な」配分を各論者は主張しているとのように想定できるようになるわけだ。

ただ、「平等」という評価軸の存在を想定したところで解消できない問題もある。社会的財の内容によっては別の特定の社会的財間の保障すべき平等と対立しうる可能性があるということだ。例えば、「市場活動の自由」の「平等」を調整しようとすると、おそらく不可避的に「社会福祉を受ける」「平等」にぶつかることになる。一方では自由競争をしようとしていて、もう一方ではパタン付きの配分を正当化しなければならないということ、両者はよほど頭をひねらせない限り相容れない問題であり、厄介なことにこうした問題はけっこうごろごろしている。だから、各論者は「平等」について議論してはいるのだけれども、そのとき誰に対する、何の社会的財が問題になっているのかということと、そのとき想定されている相手の主張する「平等」が同様に何に対するものであるか、ということを見極めていくことがきっと大切なんだろうとおいちゃん思うよ。さすれば根源的な共訳不可能性が見えてくるだろうし、それをどんどん脱構築してけばいいんじゃない?(適当)

だいぶ話がそれたな。とりあえず論者の立場から整理していこうか。ロールズの議論はリベラリズムの内部だけでなく、むしろリバタリアンやコミュニタリアン、フェミニストたちまで巻き込んで展開されていったところに面白みがある。だから本当に政治哲学におけるバーリドゥートゥ感がすごいのだけど。

とりあえずイかれたメンバーを紹介するぜ!

 

1章 選好型功利主義

○もうだいぶぼろぼろに叩いたのに、とりあえず導入に使わせてもらうわ。すまんな。キムリッカもそうしてたんでな。

【出場者】

○リチャード・ヘア ○ピーター・シンガー

 

2章 リベラリズム

○まぁ基本。ていうかここまでで引いている人だいたいこの立場。リベナショやケイパビリティ系は分けてもよかったけど細分化しすぎてるのもどうかと思って分けない(めんどい)。

【出場者】

○ジョン・ロールズ ○ロナルド・ドゥオゥーキン ○ウィル・キムリッカ ○デイビット・ミラー ○マーサ・ヌスバウム ○アマルティア・セン

 

3章 リバタリアニズム

○こちらもまぁ基本だね。経済学や法学と不可分な領分(リベラルもだけど)なので、けっこうチョイス迷うわ。

【出場者】

○ロバート・ノージック ○マレー・ロスバード ○デヴィッド・フリードマン

 

4章 分析的マルキシズム

○分マルはどこでけっこう境界が曖昧なんだよな……。パリースとか「自分はマルキシストちゃうで」とか言ってるし。

【出場者】

○ジェラルド・コーエン ○ジョン・ローマー ○フィリップ・ヴァン・パリース

 

5章 コミュニタリアニズム

○コミュニタリアンっていう名称あれなんだよなぁ。サンデルが全面に推しだしたから、なんとなく名前一人歩きしちゃったけど、共通項がそんなあるかって言われると……。

【出場者】

○アラスデア・マッキンタイア ○マイケル・サンデル ○チャールズ・テイラー

 

6章 マルチカルチュアリズム

○別名は多文化主義。中にはラディカルな主張もあるけど、ウォルツァーとかは切れ切れで面白い。そんな人。あとコノリーはジョンズ・ホプキソン大学の友達が講義を受けたって言ってた。

【出場者】

○マイケル・ウォルツァー  ○ウィリアム・コノリー

 

7章 フェミニズム

○さっきしれっとヌスバウムをリベラリズムに加えてしもうたけどまぁええか。どう見てもリベラルなんだよな。むしろこっちはリベラリズムへカウンターな人が多い。

【出場者】

○キャロル・ギリガン ○アイリス・マリオン・ヤング ○スーザン・モラー・オーキン

 

8章 その他

○悪いとは思っている。特にシティズンシップ理論はキムリッカに倣ってちゃんと分けてやるべきだった気がする。でもその他で括った。なぜならシティズンシップ理論に通じる著書はパットナム以外はまとも読んでいないから。

【出場者】

○ロバート・パットナム ○ユルゲン・ハーバーマス ○リチャード・ローティ ○トマス・ポッゲ

 

 

以上26人!こいつらが「ひとかけらの財宝」を目指して死闘を繰り広げるぜ!ドン!

 

 

1 選好型功利主義

 序文で長々語ったように、ベンサムやミルの功利主義には特に効用算入の段階に問題があった。だって快楽と幸福だからな。そこで、功利主義は遂に選好という概念を持ち出してくるわけなんだけど……。余談だが、ベンサムやミルの少し後にシジウィクって人が功利主義の立場をとる。この人たちが古典功利主義の三羽烏的立ち位置覚えとくよろし。

 ついでに言うと、ヘアとほぼ同時期に功利主義ではブラントって人なんかも活躍していた。ブラントさんもけっこう優秀で、ベンサム、ミル、シジウィクらの古典功利主義に真っ向からぶつかっていった。でも、ぶっちゃけロールズの規範理論の文脈に絡めるなら、ヘアの方がええんやな。お互いカント的義務論の延長線上にいるわけだし。ピーター・シンガーって人はヘアの弟子で、まぁあんま規範理論関係ないんだけど、1人だけだとつまんないし、この人の本面白かったから取り上げた。

 

 

●リチャード・マーヴィン・ヘア 1994 『道徳的に考えること』

 さてクッソ長い御託も終わり、いよいよ本紹介入っていくで!記念すべき一冊目は、選好功利主義の大御所R・M・ヘアの『道徳的に考えること』!……なんだけど、俺この本あんまり好きじゃあないんだ。政治哲学というよりかは倫理学の本だし、何よりヘア読んどこうと思って何とか入手できたのがこれだったというあんまりな消極的理由から読んだからね。

 んで、とりあえずの感想として浮かぶのは、この人は功利主義を倫理学の立場から考えているのか、それともメタ倫理学の立場から考えているのか、っていうのが本当に見えてこないということ。つまり、「Xは道徳的に善か/悪か」という問いの立て方なのか、「Xを道徳的に善(悪)として捉えてしまうのはなぜなのか」という問いの立て方なのかわかんない。一般にヘアは前期に書いた『道徳と言語』(1952)や『自由と理性』(1963)の中では言語や理性といった倫理から見て外的な営みから倫理を考えていくというメタ倫理学的な主張を展開していたと言われている(らしい)。一方でこの本の冒頭では「規範倫理学とメタ倫理学を合体したのが選好功利主義や!」(Hare 1994:9)とか言っていて、マジでその意を汲むのが困難だった。っていうかさらに言うとメタ倫理学的な立場からの記述がほとんど見えてこなかったんよ。いやもちろん意識しているのはわかったよ。ここでメタ倫理学の視座に移るよ~ってご親切に書いてあったりするし。ただそれがメタレヴェルなのかという疑問が最後までぬぐえなかった。だからカント引っ張ってきている以上ロールズの下位互換でしかないんじゃね?って思う。にわかなのに好き放題言ってごめんよ。

カント的義務論と選好功利主義の親和性というか、ヘアが見出した共通点くらいは確認しておこうか。選好っていうのは、冒頭で書いたように客観的水準からの計測が極めて困難だ。そりゃ快楽や幸福に比べるとはるかに測りやすいでしょう。それでもなお、誰がどういう選好を抱いて生活しているか、あるいはその選好がどのように形成されたのか、といったことは原則的にブラックボックスの中にある。

でも、こんな駄文を読んでくれているあなたは、特殊な性癖でもない限り、きっと全力でニーキックを食らわせられるのは嫌だろう。少なくとも僕は嫌です。ここであなたと僕の選好がおそらく共通しているらしい、という事実が判明する。つまり、他者の抱いている選好はわからないようで、実は「最低限されたいこと/されたくないこと」みたいなのは明らかにできるでしょ、っていうのがヘアの主張。それをカントの物自体の概念と絡めることで、アプリオリに規定された選好の存在、そしてそれを功利主義的に保障していくという義務論を導き出すことが可能であるとヘアは言う。そんで、このカント的な意味での選好功利主義の倫理的普遍化の段階になると、もはや倫理学ではなくメタ倫理学のレヴェルにまで引き上がっているんだって。

というのは、状況が一定である以上、「ニーキックされたくない」(選好)→「ニーキックすべきではない」(道徳的言明)という定式が普遍的に適用可能だから。さらに、その規範が適用可能であるということは、規範的な判断ではなく/論理的な判断であり、ゆえにいわゆる規範倫理学的な判断ではなく/メタ倫理学的な判断である、ということになるわけだ。なんのこっちゃでしょ?僕はわかるよ。もうちょっとわかりやすく解説しようか。

 「Aくんは普遍的な選好Xを持っている」→「Aくんの選好Xを充足しなければならない/損なってはならない」という記述が普遍的に可能であるとき、これは単に倫理を考えているのではなくて、むしろどうしてその(普遍的で)倫理的な義務に従っているのかということを表している(メタレヴェル)。これが例えば、単に「AくんにXすべきだ/してはならない」という一文だったら倫理学的な命題として処理されることになる。しかし、ヘアの場合、道徳的な判断を下しているのではなくて、規則に則った結果そうした帰結がもたらされる(自己=他者の選好を損なわないというカント的普遍化)としているだけのため、これはメタ倫理学的であるというわけだ。

 納得いくかい?まず僕が気になったのは、選好が普遍化可能であるという主張。さっき、「ニーキック食らわされたら嫌」だって書いたよね。それ僕が嫌だけど、全ての他者が本当にもれなく嫌だってことになるの?ニーキックを放つ人がヒョードルじゃなくて、佐々木希とかだったらどうするの?それ一人ひとり蹴り手と受け手を変えて考えていくの?つまり、こういう状況志向性みたいな議論が完全に抜け落ちていること、ゆえに普遍化やメタ倫理学化が現実的ではないということ、これがマジで疑問だった。

次にヘアの議論が仮にメタな倫理的領域まで、選好功利主義を引き上げることに成功しているとしよう。だからってなんだ?選好の測定不能性を認めて、ロールズの基本善やセンのケイパビリティアプローチみたいに、「誰もが望む社会財」の提供ってしたほうが、まだ可能なように思えるし、いたずらに複雑性も高めないでしょう。

 ……とまあ功利主義自体が200年前くらいに終わコン化したと思っているのでけっこう辛辣に書いちゃうんだよね。序文とかも見てわかるでしょ。ただ、この本は倫理を言語や表明の仕方から緻密に考察していくってところがフンフンって感じで面白いし、功利主義の擁護に回らないでいてくれたら案外ヘアはリベラリズムに鬼のような論理的強度の理論を提供してくれたのかもな、なんてすっごい勝手なこと思うよ。

 

 

●ピーター・シンガー 1998 『生と死の倫理―伝統的倫理の崩壊』

 正直なめてた。「しょせん功利主義じゃん」みたいな感じでwikipedia見てみたら、「世界で最も影響力のある哲学者」って肩書き持っていたり、タイム誌によって「世界で最も影響のある100人」に選出とか書いてあったりして、コーラ吹きかけた。実際、本を読んだ感想としても、あんまり功利主義を全面に押し出しているわけではなく、むしろ応用倫理学の立場から生命倫理の問題に切り込んでいるって感じだった。2人目からすでに規範理論ほぼ関係なくなっちゃったわw ちなみにこの人は実生活でもベジタリアンを貫いているらしい。割と半端ない。というか世界中のベジタリアンが、この人の主張を自身の運動を正当化する論拠として持ってくるから「影響力凄い!」みたいになっているようだね。思わず英語のソースまで調べてしもうたわ。

 本題に入ろう。先にも書いたようにシンガーはヘアの弟子なので、その主張もヘアから継承しているところが多くある。例えば、ヘアのいうような選好-道徳的行為をカント的に普遍化していくということをシンガーも主張している。しかし、それはそうした普遍的な道徳原理が必要だからではなくて、逆に普遍的な原理の存在が考えられる以上、我々の誰もが、どんな相手も平等に顧慮していくべきであるという帰結をもたらすということになるという。シンガーは動物解放論者としても超有名らしいんだけど、これは動物に対しても普遍的倫理に準拠した平等な顧慮をしていくべきであるという当為論をまさに反映した主張だといえるだろう。だからって菜食主義を貫徹しているのは常人にはちょっと無理だと思うけどね。あとはここから従来的な生命に関する戒律を、現代版に刷新していくという主張も展開している。めんどいから書かないけど、まぁウルトラ五つの誓いみたいなノリですわ。

 ごめん、この人功利主義の文脈で取り上げたのは完全に間違いでした。畑が違いすぎる。無理くりまとめるのならば、ヘア流のカント的義務論―選好功利主義を、シンガーは実践レヴェルにまで落とし込んだ、という感じだろうか。何度も書いているけど、功利主義は基本的現代社会に適応できない思想だと思うし、死んだといってもいいと僕は思う。でも、シンガーのようにそれをより広範囲に倫理的に応用し、何より自分の人生の中で貫いているという人がいるという事実は単純に目から鱗だったし、一切の煽り抜きで尊敬できるなぁって思いました(小☆並☆感)。

 

 

2 リベラリズム

 こっからが本番よ!前回のところ1/2人が関係ないという不甲斐ない結果に終わったけど、ここはリアルガチな奴らだぜ!なんていったってロールズが始めた話だからね!紹介する方も思わず力んでしまうよ。

 まずリベラリズムって何?というところから始めようか。現代政治でリベラリズムといったとき、一般には左派ないしは中道左派のイデオロギーとして肯定的も否定的にも用いられる。こういうリベラルな人の主張を適当に拾いあげると、社会福祉の充実や所得格差の是正、貧困層の救済、場合によっては人種や性、民族差別の撤回を求める人たちまで含む場合もあるね(僕はこれをリベラルの主張には含めたくないけど)。とにかく日常的な意味でのリベラリズムというのはこんな感じで雑多なんだ。厳密な定義が存在しない。付言しとくと、派生語であるネオリベという語も茫漠としている。しょうがないね。

 じゃあ政治哲学的にはどうかな?といわれると、残念ながらこちらも非常に曖昧な感じだ。ロールズがリベラルに位置づけられるのがまあ便宜上よいとして、後で見ていくようミラーやキムリッカみたいにナショナリティないしはナショナリズムを肯定するリベラル・ナショナリズムみたいな主張もあれば、センやヌスバウムみたいに配分する財をケイパビリティに変えてみる人たちもいて、さらにいえば功利主義やカント倫理学だって当時の社会ではリベラリズムとされていた(今では古典リベラリズムなんて言うね)。ごちゃごちゃだ。

だから、これは持論ではあるけれど、こういう歴史も長くて、多元的・多義的な概念を学ぶときは、厳密な定義を探っていくのではなくて、「家族的類似性(Familienahlichkeit)」というやつに注目していくのがよいよ。家族的類似性というのはウィトゲンシュタインっていう誰もが知っている分析哲学者によって提示された差し手で、要約すると「ある概念はその本質に迫れる定義があるんじゃなく/まるで家族のようになんとなく似ている分類的類似性によって特徴付けられるんだよ~」ってことです。例えば、リベラリズムの主張だったら、そこには共通する本質や定義があるわけじゃなく、ゆるやかな共通性から成り立っているんだよ~ってことになる。話題それたけど、定義主義に傾倒するのは頭がコチンコチン理系脳だけでいいよ。人間の社会的・文化的側面の多くは、そんなに厳密にできていないものだからね。

 ではその家族的類似性を意識しながら、リベラリズムの主張を見ていこう。

 

 

●ジョン・ロールズ 1971 『正義論』

 何度も書いているけど、現代政治哲学の系譜はここから始まった(ということに一応しておこう)。それは冒頭で書いたように、「功利主義的リベラリズムとの決別」「カント的義務論の再定式化」というロールズの2つの偉大な業績によって可能になったという話ももうしたね。んでこの本はけっこう厚い。約800ページだったかな。まぁ最難関レヴェルではないにしても、かなり難易度高いのは間違いない。未だにテクストの解釈をめぐって議論されるくらいだからね。どうでもいい話だけどAmazonとか読書メーターとかのレビュー見ると、サンデルブームに踊らされて本書を読んだ「意識高い系」の悲痛な声がいっぱいあって飯がうまいですお^ o ^ 「冗長だ」「無駄に難解」だの好き放題書いてくれちゃっている。しかしこの本がなければ、てめーらがファッション消費したサンデルなんて影もカタチもないからなメーン!(ここで勢いよく中指を立てる)じゃあ内容に入ろうか。長いし、適当に要点かいつまんで話そう。マジ長いから。

 まず当時の倫理学界隈ではヘアのところで書いたようなメタ倫理学的な主張が強くなっていて、純粋に“sollen”を導き出す規範倫理学は下火というか、その可能性が疑われていたという背景がある。ロールズの主張は真っ向から風潮にぶつかり、しかもなかなかの論理的強度もあったから騒がれたというわけだ。序文に書いたように、ロールズの唱えた規範倫理学的主張は「原初状態(自然状態+無知のヴェール)からの契約」&「反照的均衡」からの「正義の二原理の導出」という段階から構成される。詳しく見ていこう。

まず、原初状態の話からだ。冒頭でも解説したけど、さらに詳細を掘り下げなきゃだね。まず原初状態/自然状態の差異は、前者で想定されている人々が「無知のヴェール(veil of ignorance)」による被覆という特殊な状況下に置かれている点に求めることができるという話だった。「無知のヴェール」を被ってしまうと、各人は自身の資質や能力、さらには選好や属性(性別、人種、民族、先天的な病)、あるいは「賭け事が大好き」「異性が大好き」みたいな性格など、その一切が相対的な関係の中ではわからなくなってしまう。「相対的に」といったのは、人より秀でているか/劣っているか、人より有利か/不利か、人より欲望が大きいか/小さいかなど、「人と比べてどうか」ということを含意しているね。そんでさらに、「無知のヴェール」を被った人たちはゲーム理論とかでよく使われる「マキシミン・ルール(maximin rule)」に則って、ロールズのいう「正義の二原理」を選択することになるらしい。ゆえに「正義の二原理」は正当な規範原理であると主張できるわけだ。マキシミン・ルールというのは、簡単にいえば「人は不確実な状況下で、理想的な選択に賭けるよりも、リスクの少ない選択をする」法則のことで、これによって、後に見ていくよう「正義の二原理」は社会的強者の味方というより弱者の助けとなる内容となっている。ここがロールズをリベラリズムの論者とする所以の一つでもあるね。

 もちろん「無知のヴェール」は現実には存在しないし、そもそもそれを想定することすらちょっと困難な気もする。実際「お前の論拠は現実性がない」みたいな批判は多くあったし、今でもたまにされているんじゃないかな。でも、後年のロールズ(『再説』)が強調しているように、これはあくまで思考実験であって、現実性は加味されていない。むしろ、「正義の二原理」という公正な条項を明らかにするために機能すればよく、その点において概念装置以外のなにものでもないというわけだ。これをうまい回避と見るか、逃げと見るかは君に任せるよ。ただ原初状態というものはこの世界のどこにもない。それは批判者のみならず、ロールズだって認めているということが伝えたかった。

 

 次に「正義の二原理」とは何かということに答えてようと思ったけど、その前に原初状態の議論とセットで「反照的均衡(reflective equilibrium)」の解説をしときたい。反照的均衡というのは「ある直観的な正義の構想が様々な他の正義と照らし合わされて、吟味されていくことによって、その正当性の均衡状態が安定していく様ないしはその過程」を意味している。こうやって文章で書くとすっごく難解だね。でもロールズ自身もこの過程を例示しているので安心して見てみよう。

 

①まず君が直観的にある規範的命令を思い浮かべたとしよう。例えば「配偶者に暴力を振るってはならない」とかどうだろう。

 

②次に対立しそうな他の規範的な直観と、①で考えた直観の間に整合性を保つことができるかを吟味する。これが「反照」の過程。さっきの例ならば「暴力というのは物理的なものだけを指すのだろうか」「罵倒は許容されるのだろうか」とかね。

 

③吟味に吟味を重ね、直観的に抱いた規範がどうやら他のものと相容れるようならば、その正義の構想は比較的安定した「均衡」状態にあると言えるだろう。逆になにかにぶつかったり、相容れない直観が生じてしまったりしたのならば、それは不安定であるということになるので、ふりだしに戻る。

……とまぁこんな感じかな。ざっくり解説すると。ただやっぱり解釈上の問題もあって、例えばここでいう吟味というのは一人でできる内省的な営為なのか/それとも他者との熟議を含むのか、っていうのが実は僕にはよくわからない。『正義論』の記述だけ見ると前者の気もするけど、『再説』に目をやると「多くの人が信じている正義の構想の方が安定度が高い」みたいな複数性に言及もしていてどっちなんだろうと思う。ただまあ「重なり合う合意」の議論とかを見るに、たぶん後者かな。reflective の訳語として「反省」や「内省」ではなく、「反照」を使いたいという意見が多いみたいだしね。ともかく、ここは『再説』の紹介のとき、もう一度立ち返って考察してみよう。

さっきの原初状態という仮想現実によって手続き的に正義を導出し、この反照的均衡という概念がより現実的な側面を補ってくれる。この2つの車輪がロールズの正義論の根底を支えている強力な論拠であり、最初に書いたようカントのような形而上学的義務論からの離脱に一役買ってくれたというわけだ。かなり抽象的なことが書いてあるので、精緻な解釈が困難なところもあるけれど、やはり当時としてはかなり画期的だったんだろうね(他人事)。

では、いよいよお待たせの「正義の二原理」とはなんぞや?という疑問に応えていこう。これは原初状態や反照的均衡の概念と並んで、いやそれ以上にロールズの正義論を語る上で肝心な部分かもしれない。

先ほど書いたよう、原初状態における各人はマキシミン・ルール、そして反照的均衡によって、(比較的)弱者の味方となる可能性が高い「正義の二原理」を選択するとのことだった。まぁうだうだ語っていても仕方ないので、二原理そのものを見てみよう。

【正義の二原理】Jon Rawls “ A Theory of Justice” 1971 pp.266-267

 

【第一原理FIRST PRINCIPLE】

各人は平等な基本的自由からなる十分な適切な枠組みへの同一の侵すことのできない基本的請求権を持っており、しかも、その枠組みは諸自由からなる全員の同一の枠組みと両立する[自由原理]

 

 

【第二原理 SECOND PRINCIPLE】

社会的-経済的不平等は、以下の条件を満たすように配置されなければならない。

(a)社会で最も恵まれない人々の最大の利益とし、[格差原理]

 

(b)機会の公正な平等という条件のもとで全員に開かれた地位や職務に関するもとなるように[機会原理]

 

これです。簡単に何が書いてあるのかを要約すると、まず、「第一原理」は自由原理と呼称されているように、基本的自由を擁護しているものだ。基本的自由というのは自由一般ではなくて、主に政治的自己決定権や私的財産に対する権利などをここでは指示している。これ案外忘れがちだから注意ね。また、すっごく大切なのは「第一原理」が「第二原理」よりも優先される必要があるということ。つまり「基本的な自由(第一)を犠牲にした経済や身分の平等(第二)は糞ほどの価値もないよ^^」ってこと。このプライオリティは「辞書的序列(lexicographical)」とも呼ばれている。

 次の「第二原理」というのは上にあるよう、(a)[格差原理]と(b)[機会原理]という2つから構成されている。「じゃあ「正義の三原理」にすればよかったやん!」って言いたくなるのはわかるけど、この2つは社会的・経済的平等に関する原理なので同類と見なすことができる。そんで実は「第一原理」よりもこっちの方が複雑性高かったりもする。ここでロールズが強調しているのは、「機会の平等」よりも「結果の平等」に価値を置きましょうということかな。従来的な平等理論は「機会」を保証し、「結果」の方は諸個人に委ねるという方針をとっていた。しかし、ロールズはそうは考えず、むしろ「機会の平等」を積極的にシフトしていくように促している。特に「格差原理」に顕著なこの主張も、当時はかなり革新的なものだった。

なぜこのようにロールズが考えたのか、それは厳密にいえば「機会の平等」を軽視しているのではなくて、むしろその保障が極めて困難だからという事実に起因するように思える。例えば、教育の機会を均等にしたとしよう。学費は全部無償化、地域による学力格差も全部撤廃できましたと。このとき、おそらく2つの主張が出てくる。一つは機会の平等は達成されているので、後に出てくるであろう経済・社会的格差は自己責任であるという主張。もう一つはそもそも機会が均等なので、将来的に経済・社会的格差なんか出ませんよというもの。しかし、これらは2つとも間違っている。確実に経済的・社会的格差は生じるだろうと予測されるし、それを個人の責任に帰属することもできない。

 なぜならばこのとき、遺伝や障害等の先天的資質の問題と、家庭教育における文化・経済資本という後天的環境の問題が無視されて議論が進んでいるからだ。つまり、制度的な機会を均等にしたところで、そもそものスタート地点が異なっているのだから、ゴールが異なるのは自明のことなのだ。そして、このスタート地点を真に平等にすることは極めて困難、というか不可能といって差し支えないため、ロールズは「結果の平等」から見ていこうと声高に提言したのだった。

 ロールズはこんな感じで先天的な資質にしろ、後天的な環境にしろ、運命論的な恣意性が入り込むのを徹底的に嫌い、その理論から恣意性がなくなるようにとことん努めた。「第二原理」は一見すると単純なものだが、その底流には、一貫したロールズの態度があるんだよ。「努力ができるということも恣意性によるものである」。そんなことをこのおっさんは言っていた気がする。

 さて、長くなったけど『正義論』の解説はこれで終わり。本当は他にも「基本構造」や「秩序だった社会」みたいに重要な観念が山ほど出てくるけど、疲れたからこの辺で終わるわ。だって長いもん。ちょくちょく言っているようロールズはもう一冊『公正としての正義 再説』を見ていくけど、さすがに連続してやるの食傷起こしそうだから、一旦箸休めも含めて別の人の本紹介するぽよ。

 

 

●ロナルド・ドゥウォーキン 1977 『権利論』

 そうだね。君の抱いた疑問は正しい。「ドゥウォーキンは政治哲学者ではなく、法哲学者じゃね?」ってことだね。実際、本書の半分は法哲学の議論が展開される。他方で、政治哲学と法哲学は社会科学の中でも近隣も近隣、お隣さんとして扱われることが多い。学会掛け持ちしている人多いし、すでに取り上げたヘアやロールズなんて人は法哲学でも盛んに引用されている。政治と法というのは何が違うのだろうか。実は本書のテーマの一つがまさにそこにあるんだ。

 ドゥウォーキンは手始めにオースティンやハートによる法実証主義の批判から本書を始める。っていうかこれでだいたいこの本の1/3が終わっちゃう。じゃあ法実証主義とはなにかということになるのだけど、これは法哲学でかなり強固な領域を形成している立場(ハートとか名前聞いたことない?)で、端的に表現すれば「実在する法以外の存在は法として認めませんよ」って主張を掲げている人たちのこと。まぁ要するに実定法以外はアウト・オブ・眼中なわけだ。例えば、彼らからすれば法の背後にあるとされる正義やより高次の倫理は存在しないか、少なくとも法の内部には存在していないってことになる。一方で彼らに対するドゥウォーキンの批判を整理すると「お前ら法準則(実定法)から原理を退けようとする割に、結局2つを混同してんじゃん(笑)」って感じかな。あと法哲学に精通していないと、批判の旨はわかっても、その論理がなかなか難解でもあった。少なくとも僕には。一応、注意しながら以下で整理してみるけど。

 まずここでドゥウォーキンが矛先を特に向けるのはハートの法実証主義だ。本当は法実証主義全体が用いる「裁量」概念にも牙を向いているのだけど、有名なのはハートに対するものだし、肝心な部分でもあるので、今回はそちらのみに注目する(めんどくさいわけじゃないんだよほんとに)。

 ハートらの法実証主義は実定法としての法、すなわち法準則/それらを曖昧に方向付けてくれる原理とを区別し、原理は法準則に対して外在的であると主張してきた。他方で、ハートの主張を見てみると、ルールというものは一般に2つに区分可能であるとしている。「一次的ルール」が殺人や強盗の禁止といった消極的に「受容されている(accepted)ルール」であるのに対し、「二次的ルール」は「一次的ルール」が誰によって構成されているかということを積極的に規定する「妥当性(validly)を与えるルール」として機能している。そして、後者が機能しない限り、法的機関の妥当性が欠如してしまうことになるので、法は存在し得ない。これがかの有名なハートの「二次的ルール」=「承認のルール(rule of recognition)」の考察だ。君の頭は情報が一気に詰め込まれてコンフューズしてることだろう。いっとくけど原典読んだほうが辛いからな。ともかく一旦整理しよう。

①法実証主義は、原理/法準則を区別し、前者が法準則の外にあるものとして想定する。

 

②ハートは、ルールを「一次的ルール」(消極的に受容されたルール)/「二次的ルール」(ルールに妥当性を与えるルール)に区別し、「承認のルール」とも呼べる後者の存在が法の存在も意味すると定義した。

 

OK?わかったかい?今は法実証主義側の主張を整理しただけだかんね。こっからドゥウォーキンは牙を向く。簡潔に言えば、①と②が矛盾しており、ゆえに①の区別が徹底どころか、むしろ混同されてるという論理的帰結に至るという批判だ。

 まず、①にあるよう、法の方向付けを行ってくれる原理というのは、法の外にある。次に②のハートが主張するよう、「承認のルール」が法の存続には不可欠であるという。しかし、このとき法の外部にあるはずの原理には「承認のルール」が働いていないことになってしまう。これは奇妙な話だ。だって、法準則の方向性を決めてくれるはずの原理が、妥当性を与えるルールとして機能していないことになってしまうから。だから、これを突き詰めて考えると、法準則から原理を排することは(法実証主義者の言うように)できないということになる。ハートは「承認のルール」の拡大版である「社会的ルール」という概念も提示しているけど、こちらも同様の問題に飲み込まれている、というのがドゥウォーキンの批判の要点だ。

 解説に手間取ったけど、間違っていないはず。さらにここからドゥウォーキンは法実証主義的な原理の定義をぼっこぼこにして、原理という語が意味するのは、究極的には「個人の権利の尊重」であるということを主張し始める(ここで表題の『権利論』の意趣返しが行われる)。さらによく知られているよう、ここでいう「権利」というのは功利主義や後にみるようなリバタリアン的な意味ではない。各人がそれぞれ平等に顧慮されるという権利、その尊重こそが原理の役割であるというわけだ。ここにロールズとの親和性を見ることができる。さっき見たように、ロールズは格差原理や機会原理で社会的弱者の平等な顧慮を訴えていた。またドゥウォーキンが、原理は正義や公正さといったより高次のルールであるとし、法というよりむしろ憲法で扱う問題であると考察を続けていくところも、ロールズ的な解釈に近づいていっていると見ることができるだろう。ここにきてやっとこさ政治哲学に議論が移行していく。ただし、ロールズとドゥウォーキンの見解が完全に一致しているか、と言われるとそうでもないんだよね。例えば、ロールズは第一原理(自由原理)と第二原理(格差原理と機会原理)を並べたときに、辞書的な優先順位付けとして第一原理が先立つと結論付けていたのはすでに見たとおり、対するドゥウォーキンは権利の尊重に至上の価値を認めているので、優先順位をつけるようなことはしない。むしろどっちも大事っていうのがドゥウォーキンの主張であるはずだ。実際にロールズはドゥウォーキンの擁護を退けていたはず。

また、『権利論』の中では原初状態についても言及している。ここは批判を含めた精緻化という感じかな。ドゥウォーキンは原初状態という概念装置によって、「正義の二原理」が導き出されるということそれ自体には批判を投げかけてはいない。むしろ、原初状態の議論を段階化することによって、ロールズの正義論が権利の理論であるということを証明している。ぶっちゃけめんどいけど、まぁここまで出てきた概念だけで説明つくから、詳しく見るかな。

まず、ロールズが論拠として提出した主張は3段階からなる。「①原初状態(深層)」→「②社会契約(中間)」→「③反照的均衡(表面)」の3つね。全部ここまでで説明したので、改めて解説はしないよ。このうち特に「②社会契約」の段階で、ドゥウォーキンが価値を置く権利が顧慮されているという。

社会契約を結ぶか否か、さらに言えば「正義の二原理」を遂行するか否かということは当該社会において共通の「目標(purpose)」であると定義できる。リベラリストからすると、こうした「目標」に向かっていく社会はまぁ望ましいといっていいだろう。ロールズも後に「公正な協働システムとしての社会」なんて語を使って、そこへの参画が教育などによって公知されている必要があると述べている。しかし、他方で誰もが「目標」を拒否することができないといけない。仮に当該社会にて「目標」への貢献が万人に強制されているのならば、どんなに高尚な「目標」が掲げられていようとも、それは完成主義や全体主義に陥っているといわざるをえないからね。実際ナチやスターリン統治下のソ連はそんな感じだった。ロールズもこの拒否権を一貫して認めており、この拒否権こそがドゥウォーキンのいう平等に顧慮されるべき「権利(right)」の一形態に他ならない。そして、ロールズの論拠のうち「権利」について直接問題となるのが「②社会契約」の段階であるというわけだ。契約を結ぶか/否かという拒否権が問われているのだからね。ロールズは前述の通り、拒否することを認めているため、権利論としての性格が強い、とドゥウォーキンは言うことができたし、自分の理論との親和性を認めることができたのさ。

 なんかサクッと終わらせるつもりだったけど案外長引いたね。まぁドゥウォーキンはロールズの主張を補強する上では避けて通れない人なので、興味ある人は一度読んでおくといいよ。ついでにお勧めするけど本当にドゥウォーキンの主張に魅力を感じたのならば、『権利論』より先に『法の帝国』から読んだほうがいいです(白目)。

 

 

●デイヴィッド・ミラー 1995 『ナショナリティについて』

 さてさて、ちょっと毛色を変えてこのミラーと次のキムリッカとセットでリベラル・ナショナリズムの書籍を見ていこうか。リベナショっていうのは文字通りリベラリズムとナショナリズム(後述するけどミラーはナショナリズムという表現は好んでいないが便宜上)を結合した立場のこと。従来的に左派がとるとされるリベラルと、右派がとるとされるナショナリズムの合体というのは、なかなか奇抜に思えるかもしれない。ただ少なくともミラーとキムリッカはかなり切れ者で、著作もめちゃくちゃ面白いし、地に足がついた堅実な議論を展開している。なにより読みやすいしね。なんて思っていたんだけど、内部の人からはリベナショってめちゃくちゃ叩かれているらしいって最近知った。僕は彼らがなんで叩かれているかはよくわかんないけど、もしナショナリズムの部分が気に入らないとかいう感情的な理由だったら思いっきり鼻で嗤ってやるね。リベラルを標榜しといてダサすぎるでしょ。それに左派側からしたら、右派との共通項を設けて連帯をとっていく点で、リベナショは戦略的に利に適っていると思うな。

 あーあと一口にリベナショといっても2つの立場があることは確認しとかなきゃね。リベラル×ナショナリズム(ナショナリティ)っていうのは同じなのだけど、どうやって結合しているかという点は異なっている。つまり大きく分けると「ナショナリズムやナショナリティをつきつめていくと、互恵的なリベラリズムに行き着く」という考え方と、「リベラルな平等を実現するためには、ナショナリズムやナショナリティを利用するのがよい」とする考え方の2つがある。前者はナショナリズムが軸になっているところが特徴的で、今回紹介するミラーがこの立場をとっている代表、後者は逆にリベラリズムが軸となっていてキムリッカが代表的論客だね。ここは詳しく両者の著作を紹介していくとなんとなく感じ取ってもらえると思うので、ゆるく念頭に置いておこう。では本題であるミラーの『ナショナリティについて』の紹介に移ろう。

 

 この本は1995年に執筆されていて、さっきのロールズやドゥウォーキンとはけっこう時代が離れている。この空白の時間にコミュニタリアンだのリバタリアンだのいっぱい出てきて、リベラリズムは様々な立場から批判にさらされた。まぁ全部あとで紹介するつもりではあるけど、マルチカルチュアリズムという立場も批判をぶっこんで来た立場の一つだ。彼らの主張を端的に整理すると、「ロールズのいうような統一的正義の構想というのは、現実に存在する多様な立場のうち特にエスニシティを無視している」って感じ。ちなみにこの「エスニシティ」が「セクシャリティ」に変わるとフェミニズムになる。一方のロールズは、こうした多様なエスニシティやセクシャリティとそれに基づく教説があると言う事実を「穏当な多元的な事実」なんていう風に表現していて、その上で「政治的リベラリズム」という新たな理論を展開していく。けどまぁそこは『再説』のところで詳しく掘り下げようか。

僕がここで何が言いたかったのかというと、ミラーが本書で想定しているだろう仮想的はまさにこうした「穏当な多元的な事実」と、それを全面に押し出した政治理論家たちだろうということだ。実際、マルチカルチュアリズムのところで紹介するコノリーや、フェミニズムのところで紹介するヤングなんかがこの本で槍玉に上がっていた。彼ら・彼女らはラディカルな論者として知られているのだけども、この2人が主張するようエスニシシティやセクシャリティといった諸個人のアイデンティティと深く関わっている属性を全面に政治的領域に持ち出してしまうと、それらが受容されなかったときのリスクがでか過ぎる、っていうのがミラーの指摘の要点かな。そして、そういう深いアイデンティティではなくて、ゆるい心理的紐帯として機能するようなアイデンティティ、すなわち「ナショナリティ(nationality)」を擁護していこうというのがミラー流のリベラル・ナショナリズムだ。

 ああそうだ。忘れないうちに複線を回収しとかなきゃだね。この節の冒頭でミラーはナショナリズムという表現を嫌っている、と書いたはず。だからこそナショナリティという表現が使われているのだけど、それは単にナショナリズムという語の歴史的背景や現代的用法を加味した結果、使わない方がいいねってなったからだよ。つまり国粋主義者やレイシストもナショナリズムという語を好んで使うため、そうしたことが含意されるのを避けたかった、というわけさ。お膳立ても終わったし、じゃあいよいよその肝心なナショナリティとはどのように特徴付けられるのだろうか見ていこう……と言いたいのだけど、その前にミラーによる「ネーション(nation)」の定義を確認しておかないと話ができない。まぁこういうことは多々あるので、落ち着いて読解していこう。

 ところで君は“nation”と“state”って何が違うか知っている?高校英語レヴェルの問題。正解は、前者が観念的共同体であるのに対し、後者はある国の政治形態を指しているという違いでした。ミラーはネーション概念を明瞭にするために、そんな感じで概念的混同を紐解いていく。

 第一にネーション/国家の差異についてだ。これはさっきの問題とは比べ物にならないくらい難しい。答えは、前者が政治的自己決定権を求める集団であるのに対し/後者はすでにそれが達成された諸制度の体系という違い。この観点からすると、国家の内部にネーションが多くあるという状況は想定できることになるし、実際に「国家内ネーション」の例もアボリジニなど枚挙に暇がない。

 二問目はネーション/エスニック集団の違いだ。これはさっきの差異を念頭に入れるとわかりやすい。というのは、全てのネーションが政治的自己決定権を求めているわけではなく、まさに「求めないネーション」とネーションの総計がエスニック集団ということになる。エスニック集団は「潜在的ネーション」と換言してもよいかもしれんね。こちらもアーミッシュなど例を挙げたらきりがないほど存在している。ここはなかなか整理がつかないかもしれない。そこで集合ですよ。クリアになるはず(ネーション∈エスニック集団∈国家)。

 じゃあこのネーションの定義を踏まえた上で、ナショナリティの解説に移っていくよ。ミラー曰く、ネーションとナショナリティ、そしてナショナルアイデンティティというのは以下の5つの特徴で説明できる。

①ネーションは「想像の共同体」である

②ナショナリティはネーションの歴史的一貫性を体現する

③ナショナル・アイデンティティは能動的アイデンティティである

④ナショナル・アイデンティティに地理的要素は不可欠である

⑤ナショナル・アイデンティティは「ナショナルな特性」を要求する

順に見ていこう。まず①はネーションの特徴について。「想像の共同体」という語は、こないだ死んだベネディクト・アンダーソンによって提示されたもので、彼の著作のタイトルでもある。それによれば、自分を含む誰かを特定のネーションに帰属させようとするとき、根拠となるのは客観的な制度だったり、物理的な境界だったりではなくて、あくまで想像上の仕切りだけ、というお話。例えば、制度的な国籍が違い、今現在別の国家に住んでいるという人が、生まれ故郷の国を強く愛していたとき、それはその国家の成員と自他共に認められるだろう。逆に、ネトウヨの豚共が「在日ガー!」って顔を真っ赤にしていうとき、想像上の仕切りから排除しているような例も想定できるだろう。肝心なのは、「想像の共同体」という特性が国籍のみならずネーションにも適応可能であるという指摘だろう。実際に、政治的決定権を有しているか否かは問題ではないのである。

 ②はナショナリティについて。これはそんな複雑な話ではない。ナショナリティというものは、自分が先祖だいたい同じネーションに所属してきたこと、そしてこれから自分の子孫が同じネーションに属していくことを教えてくれる、というだけ。こんな風に思いを馳せたことない?僕はあるよ。

 そして③、④、⑤がナショナル・アイデンティティについてだ。ナショナル・アイデンティティというのは、ネーションの成員が(想像上で)その共同体に所属しているという生の感覚のこと。さっきのナショナリティがまさにこの獲得に一役買っているのはわかるね。まず③の能動的アイデンティティというのは、文字通りその人の選択によって能動的に構成されたアイデンティティのこと。宗教的アイデンティティとかだと外在的な神によって受動的に構成されることになるのに対し、ネーションというのは自分たちで作っていくものだからね。もちろん意図せざる結果が待っているのだけど。

 ④は簡単だね。例えばユダヤ人のことを思い浮かべて欲しい。彼らはイェルサレムの「嘆きの壁」を聖地としていて、それは自分の国を持たずにいた(今がどうだかはここでは論じない)時から変わらない。別にアイヌでもいいし、ネイティブ・アメリカンでもいい。物理的な土地の境界によってネーションは構成されないとはさっき書いたけど、観念的な境界はネーションやナショナル・アイデンティティを語る上で避けては通れないということだ。

 最後の⑤「ナショナルな特性」ってなんぞや?という話だが、これもそんなに理解しにくい話ではない。「お前は俺と同じネーションだな!」って共通感覚を互いに抱かせるに足る「何か」のこと。その「何か」は言語かもしれないし、あるいは芸術や同じイニシエーションを経験していることかもしれない。気をつける必要があるのは、ここで遺伝とかいっちゃうと極端な排他主義に陥ってしまう危険性があること。現にナチスは遺伝をネーションの「ナショナルな特性」に設定して、ユダヤ人迫害を正当化したのだからね。いずれにせよ一元的な規定は危険であると言うことは重々承知しておく必要がある。

 

ふう。リベナショけっこう好きだからやけに詳しくなってしまった感あるね。なので、しり切れトンボだけどココで終わるわ。ちょうどこれ書いてんの真夜中で眠いねん。この先のミラーの展開としては、まず①~④の特性を一章ないしは二章くらい使って詳細に考察していく。そんで最後に⑤「ナショナルな特性」に行き着く(その後に冒頭でいったようなラディカルな論者への批判と現状分析を行うけど)。この「ナショナルな特性」こそまさに「想像の共同体」としてのゆるいつながりを埋めてくれる処方箋のような存在として機能してくれる。

みんなアイデンティティがばらばらで、それこそコノリーやヤングみたいにそれを推す論者もいる、まさにそんな「穏当な多元的事実」を前に、共有文化というかたちで「ナショナルな特性」を提示してあげると、うまくやれば元々有している深いアイデンティティと両立するかたちで国家の成員としてのナショナル・アイデンティティを獲得することができるというわけだ。さらに、国家とネーション(シティズンシップとナショナリティ)がこの場合一致しているので、各人は国家に対する道徳的義務に応える必要があるし、応えてくれるはずである。その結果として選択される原理がリベラリズム的平等であるというのがミラーの結論。駆け足になって悪いけどもう寝るわ。シティズンシップとナショナリティの話は次のキムリッカが詳しくしてくれるはずだから、そっちに委ねよう。

でもまぁわかったでしょ?「想像の共同体」としてのネーションを、国家の輪郭と一致させたとき、「穏当な多元的事実」をまとめ上げるのはゆるい共有文化としての「ナショナルな特性」だよ、というお話でした。

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