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Kneer,Georg and Armin Nassehi 1993 『ルーマン―社会システム理論』

 http://www.amazon.co.jp/ルーマン―社会システム理論(「知」の扉をひらく)

 

 本書は難解なことで有名なN,ルーマンの解説本であり、一にも二にもルーマン社会学の扉を叩くのであれば本書から、といった趣のある一冊である。本書が中心的に扱うのはルーマンの社会システム理論であり、後期の著作群である『社会の~』シリーズで書かれたような具体個別の考察についてはほとんど言及されていない。とはいえ、膨大な量のルーマンによるシステム理論の考察をここまでコンパクトかつわかりやすくまとめているのだから、そこに苦言を呈するのは酷だろう。

 

 Ⅰ 序論

Ⅱ 学際的パラダイムとしてのシステム理論
 1 一般システム理論
 2 社会学における全体論的な考え方とシステム理論的な考え方

Ⅲ 社会システムの理論
 1 機能―構造的システム理論
 2 システム理論の新たな発展
 3 心的システムのオートポイエーシス
 4 創発的秩序レベルとしての社会システム
 5 コミュニケーションと行為
 6 観察

 

Ⅳ 社会の理論
 1 システム分化と第一次的社会分化
 2 社会構造と意味論
 3 分化形態の転換としての社会進化
 4 統一性と差異
 5 人格、包摂、個人

Ⅴ 社会診断
 1 リスク
 2 道徳
 3 批判



◆非有機複合体モデル/有機複合モデル

 社会学において、最初に「システム理論」の指針を明確に打ち出したのはT,パーソンズだった(→ 『社会体系論』)。しかしシステム理論はなにも社会学の専売特許というわけではない。生物学や物理学においてもシステム論はあるし、社会を一つの体系(システム)として捉える発想も遡ればフィヒテやヘーゲルなどにたどり着く。もちろんそれぞれの「システム理論」に共通する見解があるわけではないのだが、多くの場合、システムの特徴は

①単にそれが相関性の中に表現されることではなく、その関係の総体として

②外部(環境)との間に「差異」を生み出すものとして

記述される。さらに各システム理論を大きく二つに区分すると、非有機複合体モデルと有機複合体モデルに分けることができる。

 非有機複合体モデルはニュートンに端を発する古典物理学によるシステムの発想であり、何らかの現象が線形的な連鎖として記述される。一方の有機複合体モデルはなんらかの現象がそれぞれの相互性を通じて記述され、非有機複合体モデルが現象間の一方通行性にのみにしか注目できなかったのに対し、現象が別の現象に与える影響だけではなく、そのフィードバックについても注目することができる。こちらは主に生物学や社会科学において用いられるシステム理論であり、ルーマンもこちらの発想に近い。

 

 

◆閉鎖システム/開放システム

非有機複合体モデル/有機複合モデルと区別に並んで、もう一つ重要なシステムの区別がある。それがF,べルタランフリィが指摘した「閉鎖システム」と「開放システム」の区別である。前者は内部が一定の安定状態に維持され、完全な均衡状態に到達した後は変化することはない。閉鎖システムにおいては文字通り外的な環境から影響を受けることがなく、その点において有機複合体システムはこれに該当しない。対する「開放システム」はそうした均衡状態に達することは必ずしもないが、平衡状態を「志向して」はおり、それに基づいて絶えず外的な環境との交換を行い、「流動的だが均衡している」状態が継続される。ここで留意しておきたいのは、外部環境によって直接的に開放システムの内部が変化させられるというわけではない、ということだ。開放システムは環境からの影響により絶えず変化を繰り返すが、その変化はあくまで自身によるものであり、その点において「開放システム」は自己組織的ということができる。

 ルーマンも開放システムによる自己言及性を自身の社会システムの構想に取り入れており、初期はサイバネティクスを用いた思考様式に、後期ではさらにそれを発展させたオートポイエーシスの議論の中にそれを見ることができる。

 

 

◆社会学の古典に見るシステム論的発想

 社会学の古典と言ったとき、入門書から難解な専門書に至るまでほぼ必ずM,ヴェーバーとE,デュルケムが参照される。本書もその御多分に漏れず、ウェーバーの方法論的個人主義とデュルケムの方法論的集団主義について言及している。ただA,ギデンズが両者の視角を主観主義と客観主義という二項対立として紹介していたように本書はこれらを対置させたり、ましてやどちらかに肩入れするようなことはしない。むしろ、個人から社会を考える場合も、社会から個人を考える場合もありうる、というのがここで言われている。むしろ重要になってくるのはミクロな事象とマクロな事象を切り離して考えるのではなく、両者の間に相関性があることを念頭に置いておくということであり、すなわちミクロな行為もマクロな構造も有機複合モデル―開放システムとして捉えなければならないのである。

 

 

◆構造―機能主義(パーソンズ)

 さて冒頭にも書いたように社会学におけるシステム理論を確立したのはT,パーソンズだ。パーソンズは社会をシステムとして説明することによって曖昧な日常的な言語による記述と決別し、分析的リアリズムが保証されると考えていた(→『社会的行為の構造』)。現在、パーソンズのこうした姿勢はエスノメソドロジーなどによって致命的ともいえる批判を受けたのが知られているが、それはともあれ当時としては革新的なアイディアだったのは間違えないだろう。

 さて、社会を体系的に(システマティックに)記述するとはどういうことであろうか。素朴な感覚としては、社会を構造的・組織的に認識することによってそれは達成されるように思える。しかし、ここまでで何度も確認してきているようにシステムは環境からの影響を受け、絶えず変化し続けないといけない。つまり、社会システムの構造を記述するだけでは不十分で、それがどのようにして維持されているのか、どのように変化しているのかといったシステムの機能にも注目すべき必要があるということである。パーソンズは機能の説明のためにあの有名なAGIL図式を生み出すが、ここではあえて言及しないでおく。とにかく重要なのはパーソンズは構造の機能を想定することによって、社会を自律した開放システム―サイバネティクスモデルとして見なすことに成功した、ということだ。

 

 

◆機能―構造主義(ルーマン)

 パーソンズによる機能の至上目標はシステムの再生産と秩序維持、つまり社会の存続であり、これを因果論的な営みであると想定していた。ルーマンによるパーソンズ批判の核心はここにある。①規範や価値が既に「ある」という極めて静的でコンサバな前提からパーソンズの議論は始めれれているが、そこを始発点とする以上、そうした規範や価値がどこから生まれ、どのように変化していくかということを説明することはできないのである。②また、ルーマンによれば社会全体に共有される統合的規範・価値など(あるいは「大きな物語」)は複雑化した後期近代社会において(あるいはポストモダンにおいて)は存在せず、代わりにそれは多様な領域に分化しているため、パーソンズによる社会包括的な秩序観は不当なものとなる。

 とはいえ、ルーマンはこのようにパーソンズを批判しつつも他の論者のようにシステム論自体を切り捨ててしまうのではなく、新たな方向に改善・修正していくという指針を打ち出し、上記の批判点を以下のように改めた。

 

①パーソンズは価値や規範によって社会秩序が達成されるとしたが、その場合、価値や規範を動的な眼差しから考えることはできかなった。そこでルーマンはパーソンズの前提を捨てて、代わりに社会の複雑性を前提とした上で、あらゆるシステムの機能はその「複雑性を縮減」することにあると考えた。複雑性とは「想像でき、現実化しうるあらゆる出来事が起きる可能性」のことであり、システムはその複雑を単純化しようと務める。よって、あらゆるシステムにおいて「複雑性が縮減」されることが至上目標になるので、それを縮減する機能の必然性はなく(文化でも政治でも宗教でも経済でもよい)、その点において機能は等価的なものであるとみなされる。

 

②では「複雑性の縮減」はどのように達成されるのだろうか。これは第二の批判点と密接に関わっている。複雑性とは先述のとおり「あらゆることの起こりうる可能性」である。それを縮減するためには「起こりうる可能性」の中から、一つの可能性を「選択」しなければならない。例えば学校教育システムはあらゆる可能性の中から「子どもを教える」という選択を行わなければならないし、経済システムにおいては「お金を払う」という選択が取られなけばならない。そして「何かを選択する」ということは、必然的に「何かを区別する」ということであり、独自的な区別によって各システムは環境との間に差異/境界を生み出すことになる。選択―区別による(結果的な)差異化こそが「複雑性の縮減」=各システムの究極的な機能であるといってもよいだろう。

 そして各システムが選択―区別を行うことによって多種多様なシステムが世界の中に存立することになり(批判点②の反証)、ルーマンはこの事態を機能分化と呼んでいる。

 価値や規範といった構造から機能を考えるのではなく、機能が発見されるから(「複雑性を縮減」しているから)構造(システム)があるというパースペクティブの転換は、パーソンズに対して機能―構造主義的アプローチと呼ばれる。

 

 

◆ミクロ―マクロの社会システム

 ルーマンは社会システムを微視的・巨視的に3つに区分した。

①相互行為システム

 これにおけるシステムとはそこに居合わせた人々による相互行為であり、環境はそのやりとり外部に存在するやりとりを指す。この相互行為の埋め込まれた場面が解散されれば、相互行為システムもそこで終了することになる。

②組織体システム

 このシステムは組織体内に所属する人々(教員、学生、職員など)に適用される規則を用いて、独自の行動様式を持続的にその組織体を維持しようと務める。

③ゲゼルシャフトシステム

 ①、②が実体として認識可能だったのに対して、ゲゼルシャフトシステムは観念的な存在である。ゲゼルシャフトシステムは社会を包括したシステムであり、よって相互行為システムと組織体システムはこの中に含まれることになるが、ゲゼルシャフトシステムは単にその総和以上の存在でもある。また、例えば社会学のゼミ(相互行為)/学問システム(ゲゼルシャフト)といったように、相互行為・組織体システムと並列して存在することのできる特殊なシステムである。

 決定的に重要なのは、ゲゼルシャフトシステムに相互行為・組織体システムが包括されるからといって、分析はゲゼルシャフトシステムのみに限定されるようなことはあり得ないということである。3つはそれぞれ独自の営みを有したシステムであり、社会全体を普遍的に説明するのであれば、3つのシステムをそれぞれ考察しなければならないのである。

 

 

◆開放システムとオートポイエーシス

 パーソンズは先述のとおり、自身の社会システム論を構想するにあたり、開放システムの発想を取り入れていた。開放システムは環境とインプット/アウトプットの関係にあり、外部環境から取り入れたものによって内部構造が変化し、またシステム内部から再帰的に外部環境にはたらきかけていく。初期ルーマンも社会システムをこうした開放システムによって特徴づけていたが、後期に入ると生物学者のマトゥラーナとヴァレラの議論を受けてオートポイエーシスの概念を代わりに用いるようになっていく。

 一般にオートポイエーシスは自己言及システムとして記述されるが、これはどういうことであろうか。開放システムは環境に対しインプット/アウトプットの関係にあるが、一方のオートポイエーシスは外部から何かを取り入れることもなければ、発信することもない、閉鎖的なシステムである。開放システム同様、絶えず変化を続けるが、その営みはあくまでシステム自身によるものであり、なにか外的な力が作用しているわけではない点においてそれは自己言及的であるといえるのである。

 

 

◆構造的カップリング

 オートポイエーシスはそれぞれに独立しており、自己産出する統一体である。つまりオートポイエーシス的社会システムの記述においては、システムはシステム内の要素―コミュニケーションが新たなコミュニケーションを再生産することによって成立しているとされることになる。さて、ここで問題になってくるのが人間主体の位置づけである。オートポイエーシスは環境から独立しており、一切のアウトプット/インプットを行わなわず、システム内部の営みによって自立するとするのであれば、他の環境と同様に例外なく人間もまたシステムの外部に位置する環境に過ぎないことになるだろう。すなわち、これに従えば社会システムは人間に外在しており、その要素であるコミュニケーションも主体に還元することはできないという論理的な帰結をもたらすのである。

 一方で、一般的に考えれば(少なくとも2人以上の)人間が参与しなければコミュニケーション―社会システムは成立し得ない。そしてルーマンもそうした素朴なコミュニケーションの発想を否定していない。ルーマンの想定としてあるのは社会システムの環境としての主体―心的システムである。心的システムは社会システムから独立した自己準拠的システムなのだが、社会システムとは構造的カップリングの関係にある。構造的カップリングももともとマトゥラーナとヴァレラが提示した概念であり、2つの自律的かつ閉鎖的なシステム―オートポイエーシスが双方を互いに参照しあっている状態を指す。例えば意識システムと筋肉システムは互いに独立しているが、参照しあっているという点において構造的カップリングの関係にあると言えるだろう。

 心的システムと社会システムが構造的カップリングの関係性として成立しているのは、両者が「意味論的志向性」を有している点においてである。「意味」とは複雑性を象徴化=縮減したものであり、あらゆる可能性の中から特定の「意味」に基づいて動作が実行され、その動作が現実性を帯びたとき(現実のものとなったとき)、新たな可能性が生じる。そして再び「意味」に基づく動作が行われることになり、コミュニケーションが自己産出されていくことになる。

 

↑意味による複雑性の縮減とその再生産

 

 社会システムは心的システムの「意味」を参照するし、心的システムは社会システム内部の「意味」を参照する。しかし、両者はどちらかが優位/劣位にあるわけではなく、また独立している以上、両者の「意味」を共有しているわけでもない。この場合、単に双方が双方の「意味」を参照しあっているということのみこそが、構造的カップリングの条件なのである。

 ちなみにルーマンはこの「意味」の議論の着想をフッサール現象学から得ており、これも留意しておくとよいだろう。

 

 

◆コミュニケーションとはなにか?

 先述のとおりルーマンは社会システムの構成要素はコミュニケーションであるとした。しかし、そもそもコミュニケーションとは一体どのような営みなのであろうか。ルーマンによればコミュニケーションは3つの段階からなるという。

①情報―自分の持つ情報の「可能性」からコミュニケーションの内容を選択

②伝達―実現可能な情報の伝達方法の「可能性」を選択

③理解―意味理解/解釈における「可能性」の選択

 

 ここで決定的に重要なのは、先述のとおりこれら3要素はすべて心的システムに還元されないということである。つまり、心的システムが意識しなくともこの3要素によって展開されるのである。

 またコミュニケーションそのものにおける働らきとしては、情報―伝達―理解のプロセスを「伝達行為」として単純化することが挙げられる。例えば発せられた言葉は、送り手の人格によって方向づけられたものとして解釈され、新たなコミュニケーションが再生産されていくのである。つまり、コミュニケーションもまた社会システムによって「伝達」として複雑性が縮減され、その伝達は行為として人格に帰属されるのである。

 逆を返すと、行為とはあくまで社会システムによって縮減された伝達のことであり、よって社会システムを構成しているわけではないということになる。行為はコミュニケーションの縮減された一形態に過ぎず、社会的要素であるというより、社会的記述の「結果」なのである。

 

 

◆機能の至上目標

 パーソンズによるアプローチは構造―機能主義的であり、既存の構造による価値体系の維持が機能の至上目的と考えられていた。一方、ルーマンはここまでで見てきたとおり、構造は決して所与のものではなく、機能の至上目的は複雑性の縮減―システムの要素(コミュニケーション)の再生産であった。より踏み込んだ言い方をすれば、パーソンズは構造によってあらかじめ役割期待という形式を通して、次に接続される可能性を排除するとしていたのに対し(→『社会体系論』)、ルーマンは過程において顕在化したあらゆる出来事の中から、「あとから」後続する出来事の可能性が選択されると考えていたのである。前者を「合意からの秩序」とするのであれば、後者は「ノイズからの秩序」の形成とすることができるだろう。

 

 

◆観察とはなにか?

 先述のとおり、社会システムは意味論的な志向性を有している。そして意味によって複雑性の象徴化―縮減が達成されるのだった。ルーマンはこの複雑性が縮減されるプロセスを、S,ブラウンにならい「区別」/「指示」という語を用いて説明している。ある事物が様々な可能性から一つ選択されるとき、それは他の可能性から「区別」される。そして「区別」という動作は必然的に事物の「指示」という動作によって実現されることになる。複雑性の縮減とは可能性の「区別」/「指示」であり、さらにーマンはこの両動作を「観察」という概念によって含意させている。

 ルーマンはこの「観察」のメカニズムの要点として以下の8点を挙げる。

 

①非オートポイエーシスも「観察」を行う

 例えば暖房にあるサーモスタットは自己準拠的なシステムではないため、オートポイエーシスを形成しているとはいえない。しかし設定温度に適している/否かという「区別」/「指示」を行っている点において「観察」が達成されている。

 

②「観察」とは外部(環境)への働きかけではない

 ここまでで確認した通りオートポイエーシスは一切のインプット/アウトプットを行わない。「観察」とは外部への働きかけではなく、むしろシステム内部での操作であり、それはインプットではなく、自己準拠を介した環境の参照(他者準拠)に他ならない。

 

③「区別」はそれ以外の可能性を不可視なものとする

 「区別」によって「指示」された以外の可能性は発見することはできず。逆を返せば、「観察」されコミュニケートされることの全てはこの「区別」に依存している。

 

④「観察」についての「観察」

 「区別」によって他の可能性は不可視化されるため、いかなる「観察」も共時的には自身を「観察」することはできない。しかし、社会システムの概念には時間軸があるため、事後的に「観察」を「観察」することは可能である。つまり、見えなかった可能性に後から気づくことも可能である。

 

⑤第二次観察と自己相対化

 第二次観察は第一次観察に対し、いかなる特権的地位にもないが(優位でも、客観的なわけでもない)、他の観察者の「区別」の盲点を発見できる点において、「見ることのできないものがある」という事実それ自体を見ることができる。

 

⑥重層的な「観察」関係

 第一次観察が単層的な「観察」であるのに対し、第二次観察は重層的である(観察の不可能性に自覚的)。しかし、第二次観察はさらに「観察」される可能性に開かれている。それが成されたとき、もとの第二次観察は第一次観察となり、この時の「観察」が第二次観察となる。このことは社会システムにおいて原理的に「真理」が存在し得ないという事実と、オートポイエーシス的社会システムが固定的な状態に到達しないことを含意している。

 

⑦パラドックスと脱パラドックス

 「観察」概念において、あるいはルーマン社会システム理論の理解において決定的に重要なのが、このパラドックス/脱パラドックスの問題である。まずパラドックスが生じるのはいかなる状況においてであるだろうか。それを考えるに際して、古典的なパラドックスの例である「嘘つきのパラドックス」を挙げることができるだろう。

 嘘つきによって「私は嘘つきだ」という言明がなされたとき、そこにパラドックスが生じる。彼は嘘つきであるため、その言明は偽になるはずだが、その言明が偽となったら、彼は正直者となってしまう。これを一般化すると、パラドックスは以下の2点から定義することができる。

①パラドックスは自己準拠的な構造となっている(嘘つきによる「私は嘘つきである」という発言)

②パラドキシカルな発言の成立には特定の「区別」を用いる必要がある(嘘つき/正直者という区別)

 

 そして、なにより肝心なのはこの2つの特徴はここまで述べてきたルーマンによる社会システムの特徴と一致するということだ。オートポイエーシスは自己準拠組織のことであるし、それは意味論的な指向性に基づいて「区別」/「指示」―「観察」を行う。

 とするのであれば、いかなる「観察」もパラドックスにさらされており、その点において真理への接近を指向しつつも、原理的にはそこに到達することはないことになる。これは「観察」の根底には常に盲点があるという、先の問題を意味している。逆を返せば、観察者は真理への到達を達成できないが故に、「観察」の根底に盲点を設けることによって、「ぼかし」を入れ、次なる「観察」に接続していくのである。そしてこの盲点化の操作こそが脱パラドックス化である。
 第二次観察は先にも述べたように、第一次観察に対してなんら優位にあるわけではないが、第一次観察が「どのような」脱パラドックス化を行っているか、ということを明らかにすることができるのである。また第二次観察はあくまで他者―外部による「観察」である。同一のシステムによりなされた「事後的な観察」は第二次観察ではない。

 

⑧差異理論としての社会システム理論

 社会システムによる「区別」/「指示」―「観察」は、システム/環境の差異を設ける。これは言わずもがな第一次観察であり、その脱パラドックスを探ることが「任意である」以上、第二次観察への参与が必然的ではない。

  一方、社会システム「理論」は、システムと環境という主導的な差異から出発し、操作/観察との区別や第一次観察/第二次観察といった、さらにすすんだ「区別」を用いる。その限りにおいて、システム理論は第二次観察であり、差異理論的なアプローチである。

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