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【論文骨子】

○本稿はルーマンのシステム3類型(相互行為/組織体/ゲゼルシャフト)のうち相互行為に注目。

○ルーマンはシステム/環境の間に意味論的境界があるとする。
○相互行為システムにおける構造は力能が高い①「共在(Anwesenheit)」と力能が低い②「(会話における)主題」と定義する。
​→これらはゴフマンの「焦点の定まらない相互行為/焦点の定まった相互行為」の区別(1963→1980)に対応した議論。


○しかし酒井=小宮(2007)が指摘するように、上述のルーマンの主張は、
[a]ゴフマンは峻別しているのにもかかわらず「焦点の定まらない~/焦点の定まった~」を同一の社会システムにおいて観察される構造として定義している

 

[b]相互行為は社会システムであるにもかかわらず、体面的状況という時空間的な境界付けを行っている。
 


○本稿は2つのルーマンによる誤謬を、まずはルーマン自身のタームから再構築し、次にそれらが経験的研究において観察されている事実を示すためにエスノメソドロジーにおける研究を参照する。
→[a]社会システムとしての相互行為は2類型(焦点の定まらない/定まった)あることをルーマン的に記述
 [b]相互行為の意味論的境界付け

①共在……ここでは自分/他人か、話かかけるか/否か、儀礼的無関心をとるか/否かといった、指示/区別―観察がなされ「焦点の定まらない相互行為」としての相互行為システムを環境から区別し、秩序付けている。

②主題ないし会話……ここでは現在の話し手/受け手(会話のターンの有/無)、質問か/否か、勧誘か/否かといった、指示/区別―観察がなされ「焦点の定まった相互行為」としての相互行為システムを環境から区別し、秩序付けている。

○EMによって、前者は成員カテゴリ化装置、後者は会話分析における順番交代や隣接ペアなどの研究から経験的事実として裏付けられている。
[p]成員カテゴリ化装置……自分/他人というカテゴリ化すなわち「観察」が、次のコミュニケーション(話しかけるか/否か※、儀礼的無関心をするか/否か)に接続され、また産出している―サックスの指摘するように特定のカテゴリと特定の活動が結びついている。
※1サックスによれば初対面の人に話しかける場合「すみません、場所をお尋ねしたいのですが」といったより限定的なトピックが選択されやすい


[q]会話分析……会話においては順番交代規則(会話の継続/終了など)や隣接ペア※(質問か/否か、勧誘か/否かなど)すなわち「観察」が次のコミュニケーション(ターンを交代するか/否か、質問として受けるか/否か、勧誘として受けるか/否か)に接続され、また産出している。

※2ルーマン「観察」概念と隣接ペアの研究については西阪(1990)も参照。


 

社会システムとしての「共在」「会話」―EMによるルーマン相互行為論の再定式化

 

Ⅰ:問題の所在

 ニクラス・ルーマンによれば社会システムは3つの類型化が可能であるという。すなわちミクロな対面的関わり合いにおける相互行為システム(Interaktion-Ssysteme)、一定の条件下において構成員が結び付けられているメソな組織体システム(Oranisation-Ssysteme)、そしてマクロで包括的なゲゼルシャフトシステム(Gesellschaft-Ssysteme)の3つである(Luhmann 1984→1993)。このうち特に後期のルーマンが政治や経済、科学といった諸々のゲゼルシャフトシステムを分析していったことは周知の事実であるが、他方で相互行為システムについて言及しているのは『社会学的啓蒙2』(1975→1984)、『社会システム理論』(1984→1993)、『社会の社会』(1997→2009)の3冊のみである。クリスティアン・ボルフはルーマンが相互行為システムを中心的に扱わなかった理由として、①その相互行為概念がアーヴィング・ゴフマンに依拠しており、ほとんど付け加える要素がなかったこと、②相互行為システムの縮減する複雑性がわずかな量しかない(いわゆる「単純なシステム」としての相互行為)こと、の2点を挙げている(Borch 2011→2014)。いずれにせよ相互行為システムは後続の研究を含め、ほとんど関心が払われてこなかったといっても過言ではないだろう。

 本稿ではこうした背景を踏まえて、ルーマンによる相互行為システムを再検討する。後に明らかになるように、その概念は関心が払われてこなかったどころか(あるいは関心が払われてこなかったが故に)、明らかに謬計に基づくものであり、ルーマン理論に忠実に従って再構築される必要がある。また本稿後半では相互行為システムの概念が、経験的事実の分析に対してどのような応用可能性に開かれているか/経験的事実としてはどのように観察可能性に開かれているのかを考察するために、ハロルド・ガーフィンケルらによるエスノメソドロジーにおける研究と照らし合わせて検討し、またEM流に再定式化してみようと企図している。

 

 

Ⅱ:ルーマン・社会システム理論

 相互行為システムの議論に入る前準備として、ルーマンの社会システム理論の基礎概念についておさらいしておこう。とはいえ上下分冊の大著をここで仔細にひも解くのは困難であるため、あくまで本稿に関係ある部分をかいつまんで解説する。

 ルーマンによれば社会システムの要素ないし作動はコミュニケーションと定義できるという。このコミュニケーションはそれぞれの社会システムにおいて意味論的に方向付けられており、それが自己言及的に――オートポイエーティックにシステム内部において産出されることによって、システムと環境の間に差異を生み出し、境界付ける。換言すれば、システムは意味論的な境界付けによって、内部と外部を区別するということである。

またこのときコミュニケーションの作動は、ある可能性の(不確実な)指示/区別として記述することができ、指示されなかった可能性=区別された可能性は脱パラドックス化されることによって、不可視の選択肢として捨象されることになる。例えば経済システムにおいて、「貨幣を支払う」という可能性が指示された場合、それは「支払わない」という可能性から区別された選択であると同時に、「支払わない」というコミュニケーションは隠蔽されることになるのである。ルーマンはこうしたシステム内部で達成される区別/指示の2つの契機からなる実践を「観察」として定義した。
 整理すると、社会システムは①自己言及的に意味論的指向性を有するコミュニケーションを産出する、②コミュニケーションは指示/区別―観察として記述される、③コミュニケーションの(不確実な)連鎖がシステム/環境の差異を生み出す、と要約することができるだろう。

かなり駆け足な解説になってしまったが、無駄に風呂敷を広げ過ぎても議論が猥雑になるだけなのでこの辺で終わりにして、いよいよ次に相互行為概念の検討に移ろう。

 

 

Ⅲ:ルーマン・相互行為システム

 ルーマンによれば相互行為システムは、諸個人が「共在(Anwesenheit)」し、互いに互いを知覚することによって成立する。

 

 「二人あるいはそれ以上の人が相互に知覚する領野に入ると、この事実だけですでに必然的にシステム形成にいたる。この仮定は、生じた関係の事実性にではなく、その選択性に依拠している。システム形成にとって本質的なことは、[…]共在という条件のもとで必然的に始まる選択過程が、他のさまざまな可能性からの選択として、つまり選択性それ自体により社会システムを構成するということである。」(Luhmann 1972→1986 p.8)

 

 つまりその場に居合わせただけの人びとであっても、知覚している/知覚していないという「観察」―「知覚の知覚」がなされ、システムが環境から区別したものとして成立することになるということである。他方で、ルーマンは会話の「主題」が認められるときにおいても、相互行為はシステムとして姿を現すとも述べている。

 

 「 [システムに]関連する出来事たち[つまりシステム要素]は、継起しなければならない。それらは事象[に関わる]主題によって構造化されなければならないのである。そこに居合わせている人びとがみな同時に話すということは禁じられており、原則として一度に一人だけが話すことを許される。このような構造が形成されると、相互依存は[主題という]中心に合わ[せて調整]されることになる。」(Luhmann 1984→1995 p.756)

 

 すなわち会話の主題によって複雑性が縮減され、コミュニケーションが方向付けられる際においても、相互行為システムが成立するということだ。ルーマンの言い回しは難解なところが多いが、端的にいえば①単に人々がその場に居合わせる状況である「共在」と、②人々が主題によって構造化されている状況である「会話」の2つが相互行為システムであるとまとめられるだろう。

 冒頭で引いたボルフも述べているように、この「共在」と「会話」という2つの概念は、アーヴィング・ゴフマンの主張に依拠したものであり、特に『集まりの構造』(1963→1980)で提示された「焦点の定まらない相互行為」と「焦点の定まった相互行為」にそれぞれ対応している。しかしながらルーマンは、ある意味安易ともとれるゴフマンの援用をしたことによって致命的なミスを犯してしまっている。社会学者の小宮友根と酒井泰斗はここでの誤謬が①「焦点の定まった/定まらない相互行為」の混同と、②システムの時空間的境界付けの2点によるものであるとし、修正を試みている(小宮,酒井 2007)。順に見ていこう。

まず①であるが、この検討のためにはゴフマンの主張を見てみる必要があるだろう。

 

 「一定の場面に直接居合わせる人々のコミュニケーション行為は、二段階にわけて考察できよう。第一段階では、焦点の定まらない相互行為を取り扱う。それは、その場にいる別の人が自分の視野に入る時に、その人を一瞬ちらりと見て、その人に関する情報を集める場合に起こるコミュニケーションである。焦点の定まらない相互作用は、相手とただ居合わせたにすぎないような状況をどう処理するかという問題に主としてかかわってくる。第二段階では、焦点の定まった相互行為を検討する。それは人々が近接していて、話を交互にしながら注意を単一の焦点に維持しようとはっきりと協力し合う場合に起こる相互作用である。」(Goffman 1963→1980 p.27)

 

 上述の引用部を見れば「共在」と「会話」の概念にそれぞれ合致していることがわかるだろう。問題はゴフマンがこのように「焦点の定まらない/定まった相互行為」の両者を明確に峻別しているのにも関わらず、ルーマンはそれらを一括りにし、相互行為システムとして定義してしまっている点にある。ゴフマンの功績は「儀礼的無関心(Civil-in Attainment)」といった概念に象徴されるように、知らない人がたまたま居合わせた状況下においても秩序だったコミュニケーションが観察されることを発見したことに求められるのだが、これは会話とは明らかに異なる秩序形成のされ方がなされており、両者を同一平面上で語ることはできないはずである。

 次に②であるが、こちらはより決定的な誤謬である。というのもコミュニケーションが時空間によって境界付けられているとすると、ルーマンがルーマン自身の主張と衝突してしまうことになるからだ。前節で確認したように、社会システムはその定義上、意味論的な境界付けによって、環境と区別がなされている必要がある。しかしながら相互行為システムに与えられた説明は、「知覚の知覚(共在)」と「主題の維持(会話)」という時空間的な構造化要素に過ぎず、したがってルーマンの一般的主張に従うのであれば、共在と会話は社会システムではないという論理的帰結が導出される。

 

 

Ⅳ:相互行為システムの再定義

 前節では小宮=酒井によるルーマンの相互行為論における2つの不当な点の指摘について確認した。すなわち①「焦点の定まらない/定まった相互行為」の混同―ゴフマンに対する背馳、②システムの時空間的境界付け―ルーマン自身に対する背馳の2つである。それを受けて本節では、ルーマンの社会システム理論のタームを用いて、この2点の修正を試みる。順に検討しよう。

 まず①であるが、これについては相互行為システムの下位類型として[a]焦点の定まらない相互行為―共在と、[b]焦点の定まった相互行為―会話を、位置づける他ないように思える。芦川晋は先の小宮=酒井の議論を受けた上で「しかし、ルーマンは、単純なシステムの特性について、「知覚による接触」と「言葉によるコミュニケーション」という二つの体験処理の過程が同時に利用されていくものを標準として考えている。そのうえで、もっぱら発言ないし知覚のみを通じて調整される単純なシステムもサッカーなど専門家による特殊なものとしてその存在について言及している」(芦川 2015 pp.6-7)と指摘している。つまり芦川によれば、共在と会話は区別されて考えられるべきではなく、むしろ同時進行的な動作であり、共在か会話のみで構造化されたコミュニケーションは特殊系であるということだ。しかしながら、先のゴフマンの引用部にもあるよう(そして何より『集まりの構造』という本の構成からわかるように)ゴフマンは焦点の定まらない/定まった相互行為を段階的な議論として展開している。これはつまり、焦点の定まった相互行為は、焦点の定まらない相互行為から発展する可能性を示唆しているし、逆を返せば「焦点が定まらず」単なる共在に留まることもありえる。よってこの2つを同時進行する動作として捉えるのは無理があり、やはり峻別されるべきであるといえる。

 ここで会話はよいとしても、共在の場合は実際の場面において何のやりとりも生じていないので、コミュニケーションとは呼べないのではないか、という反論があるかもしれない。しかしこれはゴフマンの功績を見誤った見解である。というのもゴフマンの主張の核は、見知らぬ人同士がたまたま居合わせただけの集まりにおいても、暗黙裡に互いに互いを知覚し、やりとりを交わしているという点に求められるからである。ルーマン流に定式化すれば、まず「知人/他人」という「観察」がダブルコンティンジェンシーの下で交わされた後、「話しかけるか/否か」、「儀礼的無関心を装うか/否か」といった次のコミュニケーションに接続されることになる。確かにこれは構造としては極めて消極的であり、一過的なものに過ぎないかもしれないが、それでも相互的なやりとりがなされ、「観察」の契機に開かれていることからも明白にコミュニケーションであるということができる。

 次に②の時空間的境界付けの修正である。何度か述べている通り、ルーマンによれば社会システムの境界は意味論的指向性に基づいて設定されなければならないのだが、そもそもここでいわれる「意味」とはどのような概念なのだろうか。ルーマンによれば、意味とは複雑性が高い状況下における選択的行動の一定の戦略であるという(Luhmann 1968)。したがって意味的同定によって見通しのきかない状況の可能性をある程度まで統一し、収斂することができるし、選択的に自己を方向付けることが可能になる。いわば意味とは、「複雑性の縮減」をするために利用することのできる戦略上の装置であると換言できる。

 これを踏まえて今一度、共在と会話の境界付けについて見てみると、両者においてはコミュニケーションの参与者の選択的態度というより、コミュニケーションの参与者が居合わせる事実それ自体がコミュニケーション成立の条件となっており、意味論的境界付けに比べ、時空間的境界付けは極めて恣意的な線引きであるということができるだろう。しかし実際上の場面においてコミュニケーションの参与者は、複雑性の中から「知人と見なす」「他人と見なす」「話かける」「儀礼的無関心を装う」、あるいは「会話を始める」「会話を終える」「話題を変える」「質問に応じる」などといった具合に諸々の可能性を戦略的に選択しており、確かに自己を方向付けている。したがって相互行為はルーマン自身の見解とは異なり、時空間によってではなくて意味論的に境界付けられているのである。

 

 

Ⅳ:日常的場面における共在と会話のコミュニケーション

 

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