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論理学に学ぶ口喧嘩必勝法

☆本稿では対面上・ネット上の論争において高頻度で見かける論理的な誤謬――いわゆる詭弁をランキング形式で考察します。

→したがって議論に勝ちたいのであれば、

①ここに書いてある誤謬に陥らないよう細心の注意を払うこと

②相手がうっかりその詭弁を振るおうものなら、鬼の首を取った如き勢いで叩くこと   を心がけましょう。

10位:選言肯定

 のっけからゴリゴリな論理学の詭弁でアレだけど、まぁ議論の場面ではあるパターンでしかほとんど見かけることないのでざっくり解説しよう。

「環奈かすずが優勝したらしいよ。あっ結局、環奈が優勝したって!だからすずは優勝していないことになるね。」

 

 これがいわゆる選言肯定のオーソドックスな例だけど、この発言のどこがおかしいかわかるだろうか?この誤謬は一般的には三段論法(選言三段論法)の形式で記述されるので、そこに落とし込んでみよう。

 

大前提:環奈かすずが優勝した。

小前提:環奈が優勝した。

結論:すずは優勝していない。

 端的にいえばここでの誤謬は「環奈とすずの両方が優勝した」という場合を見落としていることにある。前提(大命題)「環奈"または"すずがXした」が真のとき、そこから導出される帰結としては①「環奈がXした」が真、②「すずがXした」が真、そして③「環奈"と"すずがXした」が真の3パターンである。よって選言肯定というのは両方が成り立っているパターンを無視する誤謬であるといえるね。

 ちなみにa∨b(aまたはb)という複合命題を論理和ないし選言と呼び、A∪B(AまたはBに含まれる)という論理式で書かれる集合を和集合という。選言肯定とはベン図で書けばAとBの円が重なっている部分(つまり和集合)を無視して「A(B)だけが成り立っている(あるいは成り立っていない)」と主張することで生じちゃうことになる。

 で、議論でよく見かけるのは次のような主張。

 

「あいつ感情的だから、論理的な物言いができない奴だわ~」

 ここでは「感情的かつ論理的(感情的∧論理的)」という両方が成立するパターンを見落とされている。感情的であることと論理的であることはなんか「夜/昼」「空腹/満腹」みたいに対立項として扱われるきらいがあるけど、よくよく考えたら別に両立可能だよね(つまり「感情的∪論理的」)。実際、怒れば怒るほど鬼のような完成度の論理で反駁してくるクソ厄介で怖い学者はいっぱいいます。

9位:人身攻撃(対人論証)

 議論において禁忌とされるのがこの人身攻撃だ。あからさま過ぎて逆にあんま見かけない。​ただ人身攻撃とか対人論証というのは、論点すり替え(1位参照)や道徳主義的誤謬(4位参照)の変形であることが多いので、ここでは「主張の信憑性を貶めることが目的の"不当な"攻撃」に限定して解説しようかな。といってもまんまなんだけどね。

「お前(A)は貧乏人で、貧乏人は嘘つきだから、お前の言ってることは間違っている」

 説明するまでもなくこれが不当な主張であることはわかると思う。一応、三段論法で整理しておくと、

 

大前提:Aは貧乏人である

小前提:貧乏人は嘘つきである

結論:Aは嘘つきである

 ここでは「貧乏人」というAの属性に、「~は嘘つきである」という主張の真理性を損なわせる述語が結び付くことで、結果的にAの主張が間違っているという結論を導出してしまっている。これは「在日は嘘つきだ」みたいなこと言ってるレイシストのカス共がよく振るってる詭弁だね。

 ただし、人身攻撃が必ずしも不当なものになるとは限らない点には注意しておこう。例えば、虚言癖のBに対して「Bは虚言癖があるので、さっき言ったこともきっと嘘だ」とするのは演繹的には確かに間違っているかもしれないが、経験的事実の観点からすれば間違っているとはいえない。他にも「不勉強で馬鹿なCの言うことは信ずるに値しない」みたいな攻撃的発言であっても、それが確かに経験的事実に基づいているのであれば、不当だとは断定できないはずだろう(まぁウザいけど)。ちなみに経験的事実に基づく真理のことを、確率的真理と言ったりするので覚えておくとよいかもしれない。

 

8位:ゲリマンダリング(禿げ頭・砂山のパラドックス)

 日本で一番有名なハゲっていったら、まぁ波平だろう。あの家父長制の権化みたいなザ・老害。奴は確かにハゲている。その波平に髪の毛を一本足したところで、ハゲはハゲのままだ。ついでにもう一本足してもハゲ。さらに4本目を足してもまだハゲ。5本目も、6本目も、7本目も……n本目も足してもハゲ……あれ?

 これがいわゆる「禿げ頭のパラドックス」だ。成人男性の髪の本数は約10万本ある(※個人差でかいらしいけど)とされるが、この「禿げ頭のパラドックス」ではどこでハゲ/ハゲじゃないの線引きをしてよいか定義できないことが問題になっている。仮に10万本が9万本になってもハゲにはならないだろうけど、100本くらいまで減るとまぁハゲだ。ちなみに「砂山のパラドックス」は逆に、砂山から砂をちょっとずつとっていった際、どこで砂山じゃなくなるか、というパラドックスのことね。ともかく、このように境界線を定義できないのにもかかわらず、不当にも線引きしてしまうことをゲリマンダリングと呼ぶ。もとは選挙だったかの「区分けにおける恣意的な境界線」を意味した単語で、社会学とかでもオントロジカル・ゲリマンダリングっていう概念があったりします。関係ないね。

 

 ゲリマンダリングは日常生活でもよく見かけるもので、例えば「○○は放射能汚染された地域だから半径Xkmは進入不可」とか「地球温暖化対策のためにエアコンは28度まで」とかっていったものが相当する。これらの例を見てわかるように、ゲリマンダリングは詭弁でありながら、なかなか避けるのが難しい―どこかで線引きをする必要がある。だから反駁をしたい場合、境界線を引く妥当な論拠を持った上で挑むのが賢明かな。

7位:草の三段論法(媒概念不周延の誤謬)

 三段論法っていうのは古代アリストテレスの時代から近代初期まで論理学の基本であり続けた。いわゆる名辞論理学というやつだね。その最も有名なパターンは以下のものだろう。

大前提:すべての人間は死ぬ

小前提:ソクラテスは人間である

結論:ソクラテスは死ぬ

 まぁなんのこっちゃない見慣れた三段論法だ。しかし、ちょっと名辞と順序が変わるだけで、三段論法はたちまち詭弁になってしまう。それを表現したのが草の三段論法に他ならない。

大前提:人間は死ぬ

小前提:草は死ぬ

結論:人間は草である

 ……なわけあるかい!って話だけど、どこで間違いが発生したのか論理的に述べよって言われたらなかなか答えられないのではないだろうか。

 草の三段論法はもともと、ダブルバインドでお馴染みの精神医学者グレゴリー・ベイトソンが、前言語的コミュニケーションの構造を表すために用いた概念で、あんまり論理学は関係ない。ただこれを論理的に見てみると、媒概念(大前提-小前提間を媒介する概念)が周延化されていないという誤謬が発生していることがわかるだろう。草の三段論法では大前提と小前提の述語になっている「死ぬ」が媒概念なのだが、論理学の規則上、これは周延(別の名辞に内包される/外延である)されている/している必要がある。その規則を破ったばっかりに、媒概念が周延されていない/していない――媒概念不周延の誤謬が生じる羽目になっているというわけだ。

 盛んになされる学問の有用性問題とかで以下のような主張が散見される。

大前提:医学は学問である

小前提:医学は人の役に立つ

結論:学問は人の役に立つ

 このとき媒概念の「医学」は周延していないことになるので、媒概念不周延の誤謬が発生している。したがって医学が役に立つということを論拠にして、学問全体の有用性を訴えるような主張は論理的に間違っている。馬鹿な理系がよくやるミスだね。

6位:誤った二分法(不当な二項対立、偽りのジレンマ)

 これはそのまんま。二項(対立)に図式化することで、他の選択肢を隠蔽してしまう論法のことだ。ここでは『ハムレット』より誰でも知ってるあの名台詞を考えてみよう。

「生きるか、死ぬか、それが難題だ。いったいどちらが立派であるといえようか。残酷な運命の矢の雨にじっと耐えようか。それとも苦難の海を戦い抜き、根絶やしにしてしまおうと立ち向かうのか。」

 

 ちなみに「生きるか、死ぬか」は意訳が効きまくっているので、誌的に優れた表現だけど、一方でハムレットの置かれた状況を理解し難くしているっていうのも有名な話だね。仰々しいようで、実はたいした葛藤ではなく、この発言では先の見えない平坦な日常(苦難)にどう対処しようかが問われている。そんで「生きるか(to be)=苦難に立ち向かう/死ぬか(not to be)=苦難に耐える」という二択が対置されているわけだけど、例えば「オーフィリァ(恋人)との恋愛に逃避する」とか、「レアティーズみたいに旅に出る」とかっていう選択肢が隠蔽されているわけだ。

 厳密にいえばだいぶ違うけど、誤った二分法は、みんな大好きルーマン先生のいうところの「脱パラドックス化」にもちょっと似ている感がある。これは特定の可能性が選択されることによって、他の選択肢は不可視化されてしまうという指示/区別のもつ特性のことだ。

 現実の場面においても誤った二分法はかなり見かける頻度が高いだろう。例えば「経済成長か/脱成長か」「原発推進か/反原発か」「集団的自衛権の行使容認に賛成か/反対か」みたいに、世論を扱う議論には誤った二分法がよく観察される。「世論を二分する」みたいな表現からはすでに誤った二分法の臭いがするね。そして言うまでもなくこの危険性は、折衷案やオルタナティブな可能性を全て排除してしまうことにある。なので、二択を提示されたときは、とりあえず疑う癖をつけといた方が良いと思われ。

5位:自己言及性のパラドックス(嘘つきのパラドックス)

 たぶん論理学でもっとも有名なパラドックスがこの自己言及性のパラドックスだ。バートランド・ラッセルが注目してからというもの、これまで幾人もの論理学者と数学者が議論を交わしてきてて、ここから派生する命題も、また解法も山のようにある。とりあえず述語論理学の問題なので、形式的に記述してみよう。

 

①まず関数Fと変項xからなる命題を考える。自己言及性の特性を強調するために、ここではあえて全称命題にしておこうか。すると論理式では∀(x)Fxと記述することができる。すなわち「∀=すべての xは 関数F」。

②次に、変項xを「命題」、関数Fを「偽である」と定義しよう。つまり「すべての命題は偽である」という"命題"ができあがる。

③このとき「(全ての)命題∀x」という変項にはこの世にある命題の全てが内包されることになるが、問題なのはこの命題自身つまり「全ての命題は偽である」も命題であるため、変項xの外延(代項してもおk)になってしまうことだ。

 「この命題は偽である」という命題の真理値を[a]真とするならば、この命題が真になるため、命題の内容(この命題は偽)と矛盾する。しかし[b]偽であるとしてしまうと、この命題は間違っていることになるのにもかかわらず、「この命題は偽である」が真になってしまうためやっぱり矛盾をきたしてしまう。有名なパラドックスなので(わざわざ『プリンキピア・マテマティカ』再読して)論理式を出してみたけど、ちょっとわかりにくかったかも。同型(とされる)「嘘つきのパラドックス」を見てみよう。

 

Aさん「私は嘘つきで、この言明も嘘です。」

 論理学において命題の真理値は常に真/偽の二値しかとらない。したがってAさんの発言も真/偽のどちらか。しかし仮に[a]真とすると、「この言明は嘘です」という部分が嘘じゃないことになるので矛盾。だが[b]偽と仮定すると「この言明は嘘です」が否定されて、真になるので偽であることと矛盾するわけだ。おわかりかな?

 日常的には「多様性を許容すべきだ!」みたいな言明から自己言及性のパラドックスを見て取ることができる。そっくりそのまま相似形とするわけにはいかないけど、少なくとも変奏したパターンのうちの1つではあると思う。というのはこれを真とすると、「多様性を許容すべきではない」という多様性を排除することになるため、言明内容と矛盾するが、偽とすると「多様性を許容すべき」と訴える多様性を排除することになるため、やはり言明と矛盾をきたすことになる。私見だけど、ラディカルな多文化主義者や、ポリコレ棒を振り回す連中に対する直観的な嫌悪感は、根源的には奴らがこの矛盾に無自覚であることに起因すると思うなわたし。

 

4位:自然(道徳)主義的誤謬(ザイン/ゾルレンの混同、ヒュームの法則)

 個人的にはもっとも嫌いな詭弁がこれだ。だって馬鹿っぽいもん。まずザイン/ゾルレンという言葉から解説していこう。これはドイツ語で「~である(sein)」と「~べきだ(sollen)」のことで、つまり存在言明と当為言明の区別。カント倫理学で対置されて扱われてたのが元ネタかなたぶん。で自然主義的誤謬とか道徳主義的誤謬というのはこの2つのレイヤーの垣根を無視することによって生じる詭弁のこと。

 例えば、

「生殖は生物の本能である。したがって同性婚は禁じられるべきだ。」(自然主義的誤謬)

「男女は平等であるべきだ。したがって性差を肯定する研究結果には誤りがある。」(道徳主義的誤謬)

 みたいなのはわかりやすいね。前者では「ザイン(自然の摂理)→ゾルレン」という構造で、後者は「ゾルレン(道徳的判断)→ザイン」という構造。馬鹿げているようだけど、見かける機会はかなり多いのではないだろうか。というか自然主義的誤謬は自分の主張を正当化したい気持ちが先立つネトウヨが、道徳主義的誤謬は当為論が先立つ俗流フェミニストがよくやってんの見るわ。あえて訂正するのであれば、

「生物は生殖しなければならない。したがって同性婚は禁じられるべきだ。」

「男女は平等であるべきだ。したがって性差を肯定する研究をしてはならない。」

 となるかな。まぁ真偽は置いておくとして(価値判断が関わるため安易に言えないけど個人的には両方「偽」)、「ゾルレン→ゾルレン」なので論理学の形式上はこれで問題ない。ちなみにカントと並ぶ啓蒙思想の旗手ヒュームは「存在言明から当為言明は演繹されない(ザイン→ゾルレンの推論は不当である)」と『人間本性論』で主張している。これがいわゆるヒュームの法則もしくはヒュームのギロチンというやつだ。今では倫理学とか論理学とか分析哲学から反駁されまくったヒュームの法則だけど、一義的にはザイン/ゾルレンの峻別を促してくれる点において、まだまだ色あせてはいない。

3位:チェリー・ピッキング×安易な全称命題化

 チェリー・ピッキングというのは別に童貞狩りのことではなくて、恣意的なサンプル抽出(早熟のさくらんぼだけ食べて、実ってるさくらんぼ全体が収穫可能とする)を意味する、統計学とかでよく使われる言葉だ。例えば身の回りにいる、あるいは目につく男のほとんどが家父長制ゴリゴリだったとしても、男全体が家父長制を肯定していることにはならないよね。馬鹿な俗流フェミがよくやるけど。

 で往々にしてチェリー・ピッキングは安易な全称命題化とセットで用いられる。「男は○○」「女は○○」「在日は○○」「政治家は○○」みたいにね。このように主語が人間を指示する比較的大きなカテゴリの場合、だいたいは○○に入るのは生物学的な属性の場合でしか正当にはならない。「男/女は睡眠をとる」とかは正しい命題だろう(自明すぎてほとんど意味をなしてないけど)。他方で○○に「馬鹿だ」とか「抑圧されている」とか「嘘つきだ」みたいな属性が入るならば、だいたい偽の命題になる。「男/女は馬鹿だ」みたく特定のカテゴリに対して、十把一絡げにこうした特性を記述することはできないからだ。

 

 一応弁解しとくと、「ネトウヨは馬鹿だ」とか、さっき意図的に書いた「馬鹿な俗流フェミ」みたいな表現は安易な全称命題とはいえない。というのは「ネトウヨ」や「俗流フェミ」といった概念がすでに「愚かであること」を含意しているため、そこに「馬鹿である」という語を修飾したり、述語に用いたところで、いわば「生物は睡眠をとる(「睡眠をとる」は「生物」に内包される)」と言っているのと変わりないためである(めっちゃ早口)。

2位:悪魔の証明×無知に基づく論証(未知論証)

 ​さて突然ですが問題です。①命題「全てのカラスが黒いわけではない」と②命題「全てのカラスは黒い」どちらの証明が困難でしょうか?

 答えは②。①は「黒くないカラス」を1匹だけでも見つければ証明できるのに対し、②の証明のためには地球上にいる全てのカラスを観測して、「黒くないカラス」が存在しないことを示さないといけないからだ。ちなみに完全な余談だけど、後者はヘンペルのカラスという対偶を用いた疑似パラドックスで使われる命題なので興味あったら調べてみてね。

 このように無数の観測対象がある場合における、「存在しないこと」の証明を悪魔の証明という(本当はもっとややこしいんだけど単純化しとこう)。「実際上は不可能なこと」の例えとしても用いられるね。だから「これまでなされた研究の中でAを示す記述がないと本当に言えますか?」みたいな質問は、はっきりいって「両手使わずに逆立ちしろや!」という無茶振りと同義なので、現実なら舌打ちしてからシカト決め込めばよいし、twitterならば無言でスパブロしてもかまわないよ。

 厄介なのはこの悪魔の証明が、無知に基づく論証と結びつく場合だ。無知に基づく論証というのは、「ある命題は証明できない、したがってその命題は偽(真)である」という形式の論法のこと。「証明できない」ことは「偽である」あるいは「真である」ことと同値ではない。ただ単に「証明できない」だけだ。具体例を考えてみよう。

「神の存在は証明できない。したがって神は存在しない/存在する」

 ここでは「神の証明不可能性」を「神の不在」もしくは「神の実在」と同値であると見なすことによって誤謬が生じている(ちなみに後者の命題を真とする未知論証の変形は、ラッセルのティーポット隙間の神みたいなへんちくりんなメタファーで表現されることがあるよ)。こういう単純なモデルを見ると、「いやいや明らかに詭弁っしょw」って言いたくなっちゃうけど、これを2位にランキングさせたのは(特にオフィシャルな討議で)見かける機会がかなり多いからだ。

「○○がないとは言い切れませんよね?よってあなたの発言は間違ってます!」

  このパターンは本当によく目にする。まず「○○がないとは言い切れない」は悪魔の証明なので真偽の決定は原理的にできない。しかし証明できないのにもかかわらず、相手の発言が偽であると決定してしまっている(つまり無知に基づく論証)。さっき書いた通り悪魔の証明は「手を使わず逆立ちせよ」みたいな命令なので、これが出た時点でもはや相手にする必要はない。そして無知に基づく論証に対しては「証明できていない」こと/真偽であることを峻別して、見抜けるようにしておこう。

 

1位:ダミー論証(藁人形論法、ストローマン)

​ 栄えある第1位はダミー論証です。これはクソ明快でシンプル、ゆえにディープで引っかかりやすいのかもね。端的にいえば「Aは真(偽)である」という命題への反駁として、全く独立した別の命題「Bは真(偽)である」をぶつけること。例を見ればいかに不当なものかお分かりいただけるでしょう。

「カレーはおいしいよね」「いやラーメンの方がおいしい(したがってカレーはおいしくない)」

 「は?」って感じじゃん。まさしく本体ではなくて藁人形(ストローマン)を叩くが如し。単純すぎてあんまり説明することもないのだけど、これは本当によく日々の生活で見かける。少し議論が複雑化すると、論理的思考能力がない人はなぜか一気にこの形式が見抜けなくなってしまう。

 例えば、

「自民党が強行採決した」「いや民進党もしたことある」

「○○の今回の発言は差別を肯定している」「いやネトウヨの方が差別的だ」

 だから何?って話じゃん。仮に「民進党が強行採決した」ことあろうが、「ネトウヨがのほうが差別的」だろうが、それらは本題からは完全に独立しているし、全くもって関係ないし、したがって当該の命題が肯定されるわけでも否定されるわけでもない。太陽が恒星であることの論拠として、地球が自転していること掲げる馬鹿はいないだろっつー話よ。

おわりに

 論理というのは実際上の議論の場面では、数学や物理学の公式みたいなもので、まずは徹底的に基本形を頭に叩き込み、応用形や発展形を目にしたときに、条件反射的に「ここ進研○ミでやったところだ!」みたく当てはめることができる能力が問われることになる。したがって詭弁が多く登場する(出来の悪い)討論を観察することが最良の勉強法であるといえよう。そんな反面教師身近にないよ、と思われるかもしれない。しかし、あるんですよ。ほぼ毎日見れて、詭弁がいっぱい観察されて、しかも無料の上に、ご家庭で視聴可能なダメ討論。そう国会中継だ。かつて入院した時に、暇つぶしで国会中継を見てると、少なくともここに挙げた詭弁がだいたい出てくることに気付いた。だからクソだな~って切り捨てるのではなく、せいぜい教材として利用してやろう。受信料と税金が授業代だな。

 また論理は格闘技でいうところの「技」、武器でいうところの「銃器」に相当するようにも思える。つまりどんなに優れた「技」や「銃器」をもっていようとも、アウトプットされる「筋力」や「銃弾」がなければ無用の長物に過ぎない。つまり議論においては、アウトプットされる「知識」がないとお話にならないよってことだ。論理的思考をいかに磨こうとも、勉強をサボっていれば必ず無知を突かれて返り討ちにされることだろう。要は「知識を上げて、論理で殴れ」ってことやね。

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