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◆第五章 マルクス主義 p.243~299

・左派は通例、リベラルな平等を「形式的平等(権利)のみに注目し、物質的平等(外的財)に焦点を当てていない」として批判する。これはノージックが外的財の所有権に関して明確な回答を用意できなかったこと(第四章第三節)を考えると、リバタリアニズムへの批判としては妥当である。

→しかしながら、ロールズ=ドウォーキンのリベラルな平等は確かに形式的平等を重視するが、格差原理や「保険機構」では具体的な財の分配にまで目が向けられていたことから、左派の批判は的を射ていないものである。

・むしろ、ドウォーキン以後のリベラルにまでなるともはや社会主義との境界線引きが困難であるともいわれる。「ベーシックインカム」や「株式保有者の社会」といった具体的提言は物質的財の再分配に言及しているからである。

→本章では、上記の潮流とは別の潮流についていくつか紹介する(つまりリベラルと歩みを共にしない)。

 

・20世紀、一般にマルキシズムは「死んだ」と信じられた。ニューレフトの敗北、ソ連の崩壊、共産-社会主義の崩壊がその事実を確定させたように思えた。

→しかしこの20年で、分析哲学や社会科学の方法論を用いて再びマルキシズムに注目する動向が見られる。「分析的マルクス主義(analytical Marxism)」はこうしたマルクス理論の再定式化を行う動向である。

・無論、再定式化は取捨選択のプロセスであり、いまやマルクスの主張の全体に妥当性を持たせようと試みている研究者は皆無といって差し支えない。

→注目すべきは、マルクスの「唯物的史観」が取捨される対象となっていることだろう。

→マルクスとエンゲルスは「プロレタリアートによる資本家の打倒」を道徳に基づく闘争としてではなく、経済的事実に裏付けられた歴史的、科学的必然として捉えた。

→しかし、分析的マルクス主義は社会主義や共産主義的理念の実現のためには、あるいは資本主義や福祉国家よりもそれらが妥当であることを示すためには、道徳的論拠を挙げなければならないと考える。「空想から科学へ」というスローガンは破棄され、今再び正義論的文脈としての「空想」に移行したのである。

 

・本章で紹介されるのは以下の二つの潮流である。

①正義の理念を(「科学」ではなく)共産主義体制によって否定する潮流(第一節)。

→正義とは個人間の調停を締結させるが、この立場では共産主義によって正義の必要性が克服される。

②リベラルと同じく正義を重視しつつも、それが生産手段の私的所有と両立するとするリベラルを批判する潮流(第二節)。

→さらに(a)搾取を根拠とするもの(第二節A)と(b)疎外を根拠とするもの(第二節C)が下位カテゴリとして紹介される。

 

 

◇第一節 正義の彼岸としての共産主義 p.247~257

・ロールズは「正義は社会制度の第一の特性である」(Rawls 1971)と述べている。すでに何度も見ているようリベラリズムにとって、正義―道徳的平等は、自由、共同体、効率性といった諸価値と並列されるものではなく、むしろ諸価値は正義―道徳的平等に従属的である。

・一方、マルクスは正義―道徳的平等には、それでは語られない「欠陥」の部分があるということを「貢献原理(contribution principle)」(労働者には労働に見合った対価があるとする原理)を批判することで主張した。

→確かに貢献原理は、全ての人を労働者として扱うため、その点で「平等」である。しかし、それでは個々人間の先天的能力の高低が加味されないため、平等原理には「欠陥」がある。

・留意しておくべきは、ここでマルクスが平等な顧慮に価値を認めていないわけではなく、ただ単に権利―平等原理が不十分であると主張していることである。マルクス主義自体は道徳的平等の理論である(現に先天的能力の高低が「平等に」考えられるべきであるとして貢献原理を退けている)。

 

・これがマルクス主義者による二点の批判のうち第一の批判である。つまり、

①道徳的平等についての原理は、特定の不平等(先天的能力の高低)にまで観点が及ばないため、不十分である。

→とはいえ、いかなる観点も特定しないということは代替案になりえない。ある「平等」に焦点を合わせない限り、その後の議論は不可能である。

・もう一点の批判は、

②道徳的平等の原理は、分配に注視しすぎであり、生産の問題に無頓着である

→第二章で見たように、ロールズ=ドウォーキンの正義論は生産財の問題にも目を向けている(ドウォーキンの場合、「保険機構」に重きを置いているため相容れないかもしれないが)。

 

・いずれにせよ、この二点のリベラリズムの道徳的平等批判は核心的ではない。本題は、共産主義によって、そもそも正義が不要になるか否かを考えることであった。マルキストは、「人々の目標の対立の除去」か「物質的希少性の除去」という二点から実現可能であると考える。

→前者の「目標の一致」はどちらかといえばコミュニタリアニズムに見られる主張であり(第六章第八節C)、マルクス自身はこれ単体では支持していない。また目標が一致していても、財が希少である場合、対立は生まれる(同じコンサートに行きたいのに、チケットが一枚しかない)。

・他方で後者の主張は重要である。確かに物質的希少性が除去され、「目標が一致」さえすれば、正義は不要になるかもしれないし、マルクスもそう考えた。

→しかし、現在起こっている深刻なエネルギー問題が何よりの証左であるよう、「物質的希少性の除去」とは永久機関でも発明されない限り達成されないだろう。

 

・では仮に「物質的希少性が除去された」とする。そのとき、正義は捨て去られる矯正的徳性になるのだろうか。愛による自発的徳性の方が優位であると言えるのだろうか。

→そもそも正義と愛を対立させることが不当である。確かにロールズは正義に特権的地位を与えている。しかしながら、正義が矯正するのはあくまで不正であり、また不正は愛とも対置される。むしろ、ある人への愛情は正義がその尺度となっているからであり、この点で正義は愛を可能にするともいえるだろう。

・かつてマルクスは自身の理論から正義を排し、追従したマルクス主義者たちもしばらく正義論に関心すら払わなかった。しかし、いまや分析的マルクス主義はマルクス主義を正議論の文脈に位置づけている。

 

 

◇第二節 共産主義的正義 p.257~284

・通常、マルキシズムはロールズ的リベラリズムより左派であるといわれる。しかしながら、両者のアプローチは以下のような差異があれども、どちらが左かは決定できない。

[ロールズ的リベラリズム]

・道徳としての平等に由来する私的財産の公正な再分配

[マルキシズム]

・公的資源への公正なアクセス権の保証(生産手段の社会的所有)

・なぜマルキシズムは後者の形態をとるのか。

→諸理由があるが、マルキシズムが「正義は生産手段の私的所有と両立する」とするリベラルな平等を批判するとき、生産手段の私的所有がA搾取やC疎外を生み出すことが問題視されることになる。順に確認していく。

 

A 搾取

・マルクス主義における不正はほぼ常に「搾取(exploitation)」のことを意味してきた。では搾取とは一体どのような営為なのだろうか。

→日常的用法としては「人間活動一般における他者の不公正な利用」を意味する。例えばロールズ的リベラリズムにおいて、恵まれた人がその力を利用して恵まれない人の配分から不公正に利益を得たときに搾取となるが、正義の観点から恵まれない人が恵まれた人の配分から公正に利益を得た場合それは搾取ではない(不公正/公正)。

・他方で、マルキシズムはより専門的に搾取を定義しており、それによれば「労働によって得られる労働の対価以上のものを、資本家が労働者から引き出すこと」が搾取に相当する。

→マルキシストによれば、資本家はこの「剰余価値」がある場合にしか、労働者を雇用しない。そしてこのことは経済学的に説明できるという。ではこの場合の「搾取」は「誰かを不正に利用する」という含意を有するのだろうか。マルキシストが「搾取」を不当とする伝統的推論を確認する(Cohen 1988)。

①労働だけが価値を産出する

②資本家は生産物の一部を受け取る

それゆえ(剰余価値の論理から)、

③労働者は産出した価値以下の価値しか受け取らない

④資本家は労働者の産出した価値の一部を受け取る

それゆえ

⑤労働者は資本家に搾取されている

・コーエンが批判するように少なくとも「①労働だけが価値を産出する(労働価値説)」は明らかに論理的に破綻している。

→後にテクノロジーが発展し、半分の労力で同一の商品が作られるようになったならば、すでに作られたその商品の価値は半減することになってしまう。つまり、「労働それ自体に価値があるのではなく、労働によって作られたものに価値があるのである」(Cohen 1998:266-7)。上記の点から推論を訂正すると、

①労働者は価値を持っている生産物を産出する唯一の人物である。

②資本家は生産物の一部を受け取る

それゆえ(剰余価値の論理から)、

③労働者は産出した価値以下の価値しか受け取らない

④資本家は労働者の産出した価値の一部を受け取る

それゆえ

⑤労働者は資本家に搾取されている

→訂正版でも労働者-資本家には「搾取」―「剰余価値の強制転移」の関係がある。他方で「他者を不正に利用する」という定義での搾取には関して、過小でもあるし過大でもあるといえる。

・例えばベーシックインカムによって誰もが最低限の生活を保障されている世界では、労働は「強制」ではないため搾取の定義は過小である。一方、徒弟制のように現段階の労働が無給のものであっても、後に親方になることが約束されているような状況では、むしろ労働は自発的なものであると予想されるため、搾取の定義が過大なものになる。

・どのように批判をするにしても搾取理論には問題が孕んでいるように思われる。コーエンによれば、マルキシズムが労働者の労働に関して、過度なリバタリアン的な自己所有権的関心を向けていることに由来する。

→病弱な人を支援するために課税することは労働者からの搾取にあたるのか、あるいは資本家が病弱だと仮定すればそれは「搾取」になるのだろうか。

・さらに搾取理論の別の問題として、生産財に何らかの理由から「アクセスできない」人たちについての説明もなされていないことも挙げられる。

→従来的に女性は家庭内のことに従事すべきだとされてきたし(労働を制限)、失業者は再就職の糸口がつかめないでいる(労働を売りたくても売れない)。彼らは労働によって「搾取」される方がましだと考えるかもしれない。

 

・以上のように従来的な搾取理論の問題点は「資本主義を批判しつつも、その体制下で苦しんでいる労働者以外の人々(病人、女性、失業者など)の顧慮を無視している」ことに求められる。

→これを克服するため、新たに搾取理論は剰余価値の(強制)移転に焦点を当てるのをやめ、分配の一般的様式を検討する。

[ローマーのゲーム理論]

・資本主義体制において、各人は既存の財産所有をルールとするゲームプレイヤーであるとする。さらに、各人が一斉にゲームから降りたとし、既存の財産所有関係に左右されなくなったとする。

→このとき、各人の暮らし向きがそれぞれよくなったのならば、資本主義は各人を搾取していたということになる(Romer 1988)。

→コーエンによればローマー理論はマルキシストを「より一貫した平等主義者」(Cohen 1988)にする。アネーソンもまた搾取をローマーと同様に説明している。

・二人の搾取理論―「必要原理(needs principle)」において、未だに病人や先天的不利益のための強制的課税は搾取であることになってしまうが、従来のものよりも説得力はある。

→分配の一般様式に注目したことで、福祉国家において労働者が「強制」的に労働していようがいまいが、公正な生産財へのアクセスを阻まれているから搾取されていると主張でき(剰余価値論の破棄)、また賃労働以外の分配的不正(例えば労働者)も公正な生産財へのアクセスが阻まれているとするため扱うことができる。

 

・しかし、ローマー=アネーソン的アプローチが魅力的なのは、以下の三点でもともとのアプローチの固有性を喪失させているからに他ならない。

①搾取の観念が分配的不平等という、より優位の観念から引き出されている

・少なくとも日常的用法からすれば搾取は分配的不平等の下位概念である。再び搾取に独自の定義を与えるのはかまわないが、あらゆる不平等を「搾取」としてしまえば、それはもはやなにも言っていない(レトリックの問題)。

②搾取が位置づけられる一般的な正義の理論がロールズの正義論に近づいてきている

→すべての搾取に不正があるわけではない(それこそ公正な配分)という日常的感覚に近づけば近づくほど、マルキシズム的搾取理論はロールズ的正義論との差異が不明瞭になっていく。

③賃労働は本質的に不当であるという従来のマルクス理論最大の主張が排されている

→賃労働が搾取に至らないようにするためには、「先天的不平等や病人が正当に顧慮されること(資質を反映しにくく)」と「個人の異なる選好―例えばテニスコートと野菜栽培によって生じる不平等を容認すること(意欲を反映しやすい)」が実現される必要がある。しかしこれはもはや、ドウォーキンのアプローチである。

 

・①、②、③を考慮すれば、マルキシストのいうように「生産財の社会的所有」が搾取を解決する必然的な方策ではないことがわかる。ともすれば、搾取を解決するのはむしろ「所得財の分配」かもしれない(②と③)。

→いずれにせよ、マルキシストは搾取理論によっては生産手段の私的所有を批判する妥当な根拠を示せてはいない。

 

 

B 必要

・マルクスは共産主義体制の下での配分が「各人は各人の要求に応じて(to each according to his need)」なされるべきだと考えていた。しかし、マルクスは資源の量的限界に対して驚くほど楽観的だった(第一章)。

・マルクス主義者は配分に目をやるために「必要原理」を用いる(ローマー、アネーソン)。ここでの「必要」とは賃労働の対価のみならず、様々な有益な財一般=利益一般にまで拡大された概念である。

・しかし、「必要」は多義的概念である以上、「それが実際に誰をどのように顧慮するのか」といった問題に何ら解答を与えてくれるものではなくなってしまっている(選択/状況による利益か区別することもできていない)。

→マルキシストが必要原理を用いて訴えたかった点は、「資質を反映しないこと」に関してではなく、「意欲の反映をすること」だったかもしれない。

・他方でマルキシストの中には、人々は文化的-社会的存在であるため、その選択もまた状況依存的であると主張する者がいるが、選好が個人の選択に帰せられないならば、そもそも民主主義が不可能になってしまう。また、アネーソンのいうように「人々は他の人々の選好のために個人の選択を強制されてもならない」(Arneson)。

 

・いずれにせよ、必要原理を突き詰めていくと「意欲の反映」を目指したドウォーキンの理論に帰結するように思われる。ドウォーキンは「オークション」という装置を想定することでこの問題を解決した(第三章第四節)が、必要原理はそこに至ってはない。

・他方で「資質を反映しない」というロールズによってすでに解答されていた問題に関しては異論が少ない。しかし、Aで見たように必要原理は先天的不利益や病気に対しての顧慮については何も語れていない。そこに目を向けたいとマルキシストが望むのならば、ドウォーキンの「保険機構」に注目すべきであろう。

 

 

C 疎外

・ここまでで見たとおり、いまやマルクス主義とリベラルな平等との間の差異は収斂してきた。しかし、「生産財の私的所有」を禁止する潮流はAの搾取への「カント的(自己所有権的)」と、疎外への「完成主義的(perfectionism)」関心があり、後者は明らかにリベラルのものとは異なる。

→前者は「労働対価が剰余価値として資本家へ搾取されている」ことに関心を示した(そして必要原理の導入はドウォーキン理論への道に至った)のに対し、後者は「私有財が(資本家/労働者問わず)人々を人間固有の卓越性の成長から疎外してしまう」ことに関心を払う。リベラルもリバタリアニズムも「人間の生そのもの」に注目しない点で完成主義派の主張は根本的に一線を画している。

・では「人間固有の卓越性」とはいかに定義され、いかにして促進されるのだろうか。

→マルクスによれば「人間固有の卓越性」は「自由な協働的-創造的能力」と定義される。そして、それは「賃労働の廃止」と「生産財の社会的所有」によって促進される。

→賃労働(資本主義)において、労働者は等しく商品として処遇される。しかし、生産財を社会化(社会主義)することで、労働は労働者によって編成される契機を得、その「疎外されていない労働」は利潤ではなく、本質的満足を志向する。

→リベラルは「所得の分配」を通じて正義論の文脈から問題を解決した。しかし、完成主義派は賃労働という活動そのものを問題化しているため、分配は解決策となりえない(生産手段の社会的所有を訴える)。

 

・確かに「疎外されていない労働」は価値があることかもしれない。しかし、それは至上価値ではないため、諸価値と対立する。

→例えば「疎外されていない労働」と余暇、消費、交友関係、心身の健康、宗教、愛はそれぞれ対立する。そして日常的直観のレベルでは前者より後者を選好することは決して不当ではない。

・これに対してマルクスは、「協働的-創造的な生産の能力」を「人間固有の卓越性」としたのは「種差」の問題であると考えている。つまり他の動物に不可能で、人間にだけ可能である。

→あまりに卓越主義的であり、種差は一切の論拠もなしていない。さらに百歩譲って種差が論拠になるとしたとき、「女性の出産」は他の動物にも可能であるため、「価値が無い」という論理的帰結をもたらす。すなわちセクシズムである。

・「疎外されない労働」と諸価値が対立してしまう問題が未解決であるということは、マルキシズムがひとえに労働を特権的に扱ってきたことに起因するのではないだろうか。そして「疎外されない労働」と諸価値を並置するとき、それは結局のところ「個人の選好」をいかに扱うかという問題に帰着し、そして再び議論は「カント派」に戻り、ドウォーキンの理論が解答を用意してくれることになる。

 

 

◇第三節 社会民主主義と社会主義 p.284~290

・本章で確認されたのは現代の分析的マルクス主義がリベラルな平等の代替案になるか否かということであった。しかし、そもそも社会主義はマルクス主義のみの上に立脚していない。例えば、マルクスの生きていた時代にはキリスト教も社会主義を正当化するひとつの潮流だった。

→しかし、20世紀に入ってから最も隆盛した社会主義は、マルクスによるものでもキリスト教によるものでもなく、しばしば大規模な労働運動を引き起こした「社会民主主義」と呼ばれる勢力だった。

・リベラルな平等と社会民主主義はしばしば同一視され、ロールズ自身が自らの理論を量立場から構想できると認めていたり、社会民主主義党の理念がリベラリズムに依拠していたりする事実は両者の近似性を裏付けている。

→しかし、リベラルな平等よりも社会民主主義のほうが「より社会的な平等」を目指しているとする論者もいる。例えばディビット-ミラーは、前者が志向するのが個人主義的な「分配的平等」の実現であるのに対し、後者は集団主義的な「社会的平等」の実現を志向すると主張した(Miller 1993)。

→前者は分配の平等に関する理論であるが、後者は社会関係の平等に関する理論である。

・マイケル-ウォルツァーによれば、こうした「社会的平等」を実現する際に注目されるべきは正義の「領分(sphere)」であるという。

→正義の領分は様々なシステムに存在しており、例えば、経済システムにおける正義の領分は、「支払い能力に応じた財の分配」を要求する。そして(ロールズと異なり)ウォルツァーは支払い能力の非自発的不平等の撤廃を不可能かつ不必要であると考える。

→「社会的平等」の実現に関して肝心なのは、むしろ経済システムにおける正義の領分が他のシステムの領分(政治的参加、公共サービス、公的サービス)を侵犯しないことである(Walzer 1983)。

 

・とはいえ社会的平等を目指すモデルないしは理念は社会民主主義に特有のものではなく、功利主義、コミュニタリアニズム、フェミニズムの中にも見ることができる。他方で、本章で見たようにローマン、アネスター、コーエンといった分析的マルクス主義者は、リベラルな平等と同様に個人主義的平等(配分の平等化)に焦点を当てていた。

→しかし、個人主義的平等(配分の平等化)と社会的平等(社会関係の平等化)はそもそも競合する平等ではない(むしろ表裏一体ともいえる)。もし、社会的平等を実現する過程の一つに「配分の平等化」があるならば、やはりことさらにリベラルな平等と社会民主主義の間の差異を強調することは意味をなさないのではないだろうか。

 

・よって次に、社会的平等が個人主義的平等の代替案として掲げられる三つの理由(というか立場)を考察する。

①[そもそも個人主義的平等の必要性を受け入れない立場]

・ウォルツァーやミラーにとって、先天的-社会的不平等によって生じる配分の不平等それ自体は公正である。彼らが問うのは先天的-社会的不平等によって生じる配分の不平等「によって生じる」社会関係の不平等である。

②[配分的不平等を不公正としつつ、国家によってそれが矯正できないとする立場]

・配分的不平等を不公正とする点でリベラルと同じだが、この立場では配分的不平等それ自体を矯正できるものと考えない。むしろ国家は、配分的不平等が社会的平等を切り崩さないように努めるべきである(Kaus 1992)。

③[配分的不平等の矯正がむしろ社会的不平等を顕在化させるとする立場]

・第三章の結部で見たように、国家による配分的不平等の矯正は国家への不信感を募らせ、また自分に配分的不平等があるということを認めるということが「恥辱の告白」となるかもしれない(Wolff 1998)。だから、配分的不平等が社会的平等を切り崩す場合にのみ不正とするべきである。

→いずれの場合も配分的不平等の公正な是正に対して消極的立場である。とはいえ、いずれの立場も社会的平等の重要性を主張している点において正しいし、リベラルな平等と分析的マルクス主義は「公正な配分」にのみ焦点をあて、「公正な社会的関係性」について感心を持ってこなかったのも事実である。

→しかし、ことさらに配分的平等の不要を訴え、社会的平等の必要性を強調するのは不当である。先述の通り、両者は対立項ではなく、むしろ表裏一体のためである。

 

 

◇第四節 マルクス主義の政治 p.291~293

・本章を振り返ればわかるとおり、マルクス主義は労働というものに特権的地位を与えてきた。マルキシストがカント的自己所有を訴えるとき、あるいは完成主義的人間形成を訴えるとき、それぞれ搾取と疎外が労働を侵害しているとされていた。

・のみならず、資本主義体制における賃労働にて必然的に階級闘争が起こることを「科学的に」予言したマルクスにとって、そもそも労働者とは社会主義を正当化する主体であった。

→しかし、こうしたマルクス主義における「労働賛歌」は、それ以外の被抑圧層(セクシャルマイノリティ、エスニックマイノリティ、老人、子ども)をマージナルな存在としてしまっていた。

→少なくとも今日的な正義の文脈において、顧慮されるべき対象を労働者に限定するのは明らかに恣意的である。

 

 

 

[批判とメモ]

・先天的-社会的不平等から生じる、a配分的不平等から生じる、b 社会的不平等

→aを是正するのがリベラルとマルキシズム、bを是正するのが社会民主主義

 

・アーレントって「労働賛歌」ディスっていたけど、結局マルクスもアーレントも卓越主義だよね。労働に特権的地位を認められないのに、なんで活動に特権的地位を認めたの?馬鹿なの?

 

・ウォルツァーの「正義の領分」をシステムの意味論的志向性―コードの議論として考えると面白い。その場合、複雑性が縮減されるため、正義の領分は交差しないことになるけど。

 

・本章に登場したローマーは第二章第四節Cに登場したローマー(クーポン資本主義の人)と同一人物である。他にもベーシックインカムのパジリスも(リベラルに接近する)分析的マルクス主義者の一人に数えられる。

 

 

 

◆第六章 コミュニタリアニズム p.301~412

 

◇第一節 序論 p.302~304

・18世紀-19世紀の主要なイデオロギー(資本主義、共産主義、リベラリズム、ナショナリズム)は「自由、平等、共同体」という三つの近代的概念の構想をそれぞれ示した。

・しかし第二次世界大戦後、共同体は重要性を失った時期があった。

→全体主義体制が共同体的理念に大きく依拠していたこと、ロールズ以降の正義論の文脈の中でほぼ関心を払わなかったことなどがその証左として挙げられる。

・だが、この20年で共同体はサンデル、ウォルツァー、マッキンタイア、テイラーらによって再注目されており、彼らによるコミュニタリアニズムの潮流は自由や平等と並列して(先立たないにしても)共同体を取り扱うよう主張する。

 

・他方で、共同体はマルクス主義によっても関心が払われてきた主題である。しかしマルクス主義は階級闘争によって共同体は実現されると考えたのに対し、コミュニタリアニズムはすでに共同体は存在し、規範や文化などの固有の価値を有していると考える点で両者は根本的に異なっている。

・またコミュニタリアンによる現代リベラリズム批判と、ヘーゲルによる古典的リベラリズム批判は多くの類似点がある。

→ヘーゲルはロックやカントなどの古典的リベラリズムを批判する際に、彼らのアプローチが本質主義的であることに焦点を合わせる。一方でヘーゲルは個人と歴史や社会的な慣習を関連付ける構築主義的アプローチをとる。

→これは現代的リベラリズムに対するコミュニタリアンの批判と相似形の問題であり、彼らもヘーゲルと同じように、共同体に共有された慣習や規範、文化への注目を強調する。しかし、それによってリベラリズムの正義原理がいかに変更されるべきか関しては以下の三つのアプローチに分かれる。

①正義原理が共同体にとって変わられるべきとする立場(第二節)

・正義と共同体は完全に一致するが、共同体を適切に描写することによって正義原理が変更されるとする立場のうち、さらに

②共同体が正義原理の資源であるとする立場(第三節)

→正義は本質的なものではなく、社会的-歴史的に構成される

③共同体が正義原理の内容においてより重要な扱いを受けるべきとする立場(第四節以降)

→正義原理において共通善がより注目されるべきである/正義原理は個人の権利に過度に注目し過ぎである

 

 

 

◇第二節 共同体と正義の限界 p.305

・「①正義原理が共同体によってとって変わられるべきとする立場」は、マルクス主義が正義を矯正的道徳と見なしたことと同様の理由を掲げる。

→この立場によれば矯正的な正義よりも、共同体内で育まれる愛に代表される自発的道徳の方が優位であり、そうした共同体が望ましいとされる。例えば、サンデルは家族が正義を必要としない社会制度の一例であると主張している(Sandel 1982)。

→第五章第一節で正義は愛によって代替されず、むしろ正義は愛を可能にする条件であるということを確認した。

 

 

◇第三節 正義と共有された意味 p.306~308

・「②共同体が正義原理の資源であるとする立場」は、正義とは客観的で本質的な外的基準ではなく、各共同体内部によって共有されるローカルな信念であると考える。

・ウォルツァーによれば、正義は共同体ごとに異なっており、普遍的な信念ではない。よって正義原理の確定は哲学の議論ではなく、むしろ文化の議論である(Walzer 1983)

→たとえば第五章第三節で登場した「正義の領分」は、それぞれの共同体が有する「領分」で正義は異なっており、社会全体を俯瞰したときに「領分」が互いに互いを侵入しなくするための「複合的平等(complex equality)」が望まれるという。

・ウォルツァーの立場は文化的相対主義に位置づけられる。正義を文化的相対主義から確定させようとするコミュニタリアンの試みに対して、往々にして以下の二点の批判がなされる。

①文化相対主義は自身の最も根本理解を侵害する

→「奴隷制が不当であるのは、当該社会が奴隷制度を承認しないから」という主張は順序が逆である。つまり「奴隷制が不当だから、奴隷制が承認されない」とするのが正しい。奴隷制が承認される社会において、奴隷制は正当であり、誰もそこに異議や懐疑を差し向けることはできない。

②正義の共通理解を確定するのは困難である

→仮に正義をローカルな信念であるとしてみても、正義には意見対立の解消のために、社会全体のコンセンサスが得られる必要がある。つまり、正義がローカルな「領分」のものであっても、一般構想としていずれは想定されなければならない。

※↑キムリッカの主張に納得できない

①文化相対主義を当該文化の内部に位置づけるならこう言えるが(第二次観察が同一システム内でなされることを加味するとこの場合でもおかしい)、外的な観察者とするならウォルツァーが正しい。

②は明らかに的を外している。ウォルツァーの「正義は~である」という主張に、キムリッカは「正義は~べきだ」(当為論)の形式で応答している。

 

◇第四節 個人の権利と共通善 p.308~318

・ここまで見てきた政治理論のうち、完成主義的マルクス主義以外のすべて(功利主義、リベラル、リバタリアニズム、カント的マルクス主義)はそれぞれ解釈に差異はあるが、個人が自己決定する権利を有していることを認め、平等な顧慮を実現するために不可欠であると考えている。

・他方でコミュニタリアニズムは、特にリベラルによる個人主義の強調が、個人の選好が社会集団の中で形成されているという事実を見逃しており、またその能力が有意義に発揮される社会的条件を無視しているとして批判する。まず、以下で「リベラルによる個人主義の強調」をおさらいしておこう。

 

・リベラルは自己決定の権利が尊重されることは平等な顧慮のための必要十分条件であると考える。もし自己決定を否定するならば、個人を動物や子どものような存在として見なしていることになる。

→確かに、自己決定の肯定は個人の選択を尊重している。しかし、成熟した大人でも十分に拙い選択をしてしまうことはありえるだろうし、本人が後にそれを後悔することもあるだろう。この場合、政府等の介入によって自己決定を矯正したほうが良いとは言えないのだろうか。

→前章で見たように完成主義的マルクス主義は、「疎外された労働」を悪い生き方として、矯正する―自己決定によるものでも否定される。そして完成主義的マルクス主義の自己決定権の否定に関しては、リベラルは妥当な批判を提示できていない。

・それでもリベラルは自己決定を擁護する。

→第二章第二節で確認したように、人は自分の選好―つまり自己決定が合理的なのか否か、判断することはできない。ある時点でプッシュピンゲームはその人の人生にとって最も重要な目的かもしれない、しかし後にプッシュピンゲームに価値を感じなくなるかもしれない。こうした自己決定の不確実性は政治理論において加味されなければならないだろう。

 

・ミルによれば各人の人生のなすべき善は各人によって異なっており、よって他者の成すべき善が自己のなすべき善の基準になることはない。他方で完成主義的マルクス主義は、体制によって成すべき善が規定されなければならないと主張する。

→むろん、両者とも極論であり誤りである。自己決定は共同体によって共有される文化的慣習に依存している。しかし、次にこの想定は「文化的慣習に依拠した上での政府による自己決定の矯正」というパターナリズムを正当化する。

・ではなぜ、リベラルはパターナリズムを否定するのか。

→リベラルによれば、内的に是認されていない(=外的な価値に矯正された)人生は善きものではないからである。そして、この「是認の要件(endorsement constraint)」を無視した政府による自己決定の矯正は自滅への道に至る(Dworkin 1989)。

・このように善く生きるという本質的利害関心は二点からなる。

①自己の内側から是認された価値に従って、自己決定をすること。

②その価値が共同体内部の提供する文化、慣習、規範と自由に照らし合わせられる吟味されること。

・ロールズは、国家による自己決定の矯正を主張する完成主義的マルクス主義と対比させた、「中立国家」という理念系を提示した。そこでは「善の内的な是認」と「善と公的水準の対照」の実現のため、国家は個々人の選好に一切の矯正はおろか容認すら与えない。

→しかし、「中立」という表現は誤解を生む。そもそもこの「中立性」も、リベラルな平等という一つの道徳(それがリベラルにとって最も根本的な道徳であっても)に立脚しており、その時点で日常的な意味での中立ではないからである。よって「反完成主義」という表現が正確だろう。

→とはいえ自己決定が主題化されるとき、平等な顧慮は不可避の問題系であり、例えばドウォーキンが主張するように、「最も広い意味での資源」が平等に確保されて初めて、善く生きるという本質的利害関心が生まれると考えることもできる。

 

 

◇第五節 コミュニタリアニズムと共通善 p.319~320

・コミュニタリアンはリベラルな「中立国家」を批判し、「共通善の政治」を推奨する。「中立国家」と「共通善の政治」は共に、平等的道徳、自己決定、共通善といった諸概念を共有しているが以下のような相違点がある。

[中立国家]

・共通善は自己決定と対照される一方で、自己決定は内的是認に準拠する。

→共通善は自己決定に従属的である(反完成主義)

[共通善の政治]

・共通善に準拠して個々人の自己決定は規定されなければならない。

→自己決定は共通善に従属的である(完成主義)

・完成主義的マルクス主義と共通善の政治との差異は、前者が善き生き方を超歴史的なものとして考えたのに対し、後者は共同体の社会的慣習に由来するとする点である。

・では次に、コミュニタリアンが

①自己決定というリベラルの理念そのものに反対する論拠(第六節) 

②リベラルが想定する自己決定と共通善の間の結びつきに反対する論拠(第七節)

を確認する。

 

 

◇第六節 負荷なき自己 p.320~331

・リベラルな見解では、「共通善が自己決定に対して従属的」であるとされていた。このことは、共同体の価値や規範が自己の選好に反するものであれば、いつでもそこから離脱することができるということを含意している。通常、こうした自己に対する本質主義的見解は「カント主義的」と称されている。

→他方で、コミュニタリアンはリベラルの自己に対するカント主義的理解を、自己が共同体に「埋め込まれている(embedded)」あるいは「状況化されている(situated)」事実及び実際は離脱が極めて困難であるという事実を無視しているとして批判する。

→コミュニタリアンにとって自己決定とは「埋め込まれた」共同体の社会規範に則って初めて可能である。

 

・自己に対するリベラルの見解とそれに対するコミュニタリアンの批判は大きく以下の三つの論点に整理される。順に見ていく。

→コミュニタリアンによれば、自己に対するリベラルの見解は、

①空虚である

②自己認識を歪曲する

③共同体に埋め込まれているという事実を無視する

 

[①空虚である]

・テイラーによれば、リベラルの主張にあるように「自己が自己の(自由のために)社会的目的を全て疑いうる」というのは虚偽であり、自滅に陥る(Taylor 1979)。

→真の自由とは「状況化されて」おり、社会的目的があるが故に自由という状態が生じる。もし本当に自己が社会的目的を全て疑うとき、すべての「意味」をドクサとして切り捨てたニーチェ的ニヒリズムに至るだろう。

→しかし、テイラーはリベラルの主張を誤解している。リベラルは「自己が自己の(自由のために)社会的目的を全て疑いうる」とは主張しない。何かを選択する自由は確かに重要だが、選択の自由それ自体は目的なのではなく、あくまで内的に是認された自己決定のための前提条件に過ぎない。

・そもそも、

①選択の自由が至上の価値を持つと考えると、選択の自由が繰り返される人生の方が価値のある人生になってしまう。

→二十回再婚した人の人生は、一回の結婚しか経験していない人の人生より価値があるといえるだろうか。

②選択の自由それ自体に価値があると考えると、行為には価値がないということになってしまう。

→テイラー自身がいうように社会的目的があるが故に自由は生じる。そして社会的目的とは自由ではなく、行為に帰属される。「本を書くという行為」は自由を目的としているのではなく、それが社会的目的を指向しているから価値があるのである。

・上記のように、個人の選択の自由の価値を擁護するためには、(一部のリベラルがそう主張するよう)必ずしも自由に最大限の価値を認めること―至上目的として設定することが得策であるとはいえない。

→ただし、コミュニタリアンが主張するよう、選択の自由にも何らかの「所与」(家庭、学校、職業など)があることは事実である。よってここで問題化されるべきは、テイラーがいうように選択の自由とは空虚であるか否かということではなく、むしろ人は本当に「所与」を否定し、離脱することが可能なのか否かということだろう。

 

※[②自己認識を歪曲する]と[③共同体に埋め込まれている事実を無視する]は始発点を共有している。よって先に始発点となる議論が確認される。

 

[始発点となる議論]

・何度も確認しているように、リベラルは「共通善は自己決定に従属的である」という見解を示している。一方で、コミュニタリアンは「自己決定が共通善に従属的である」という逆の主張をする。例えばサンデルによれば、目的とは選択されるものではなくて、社会的文脈の中で発見されるものであるという(Sandel 1982)。

→サンデルはこのことの論拠として以下の二つを挙げる。

 

[②自己認識を歪める]

・以下サンデルによる論拠を「自己認識(self-perception)論」とする。

・もしロールズのいうように「自己を目的に先行するもの」とするならば、自己は内省によって自己のうちにある価値を是認する際に、あらゆる社会的目的から切り離された「負荷なき自己」を想定しなければならない。

→しかし、サンデルが批判するように、根源的な内省には必ず社会的目的が含まれているよって「負荷なき自己」など現実には存在しえない。

→ここでサンデルは社会的に構成された目的によって「負荷なき自己」が存在しなくなるということを示す必要がある。それが次の論拠である。

 

[③自己が共同体に埋め込まれているという事実を無視する]

・以下サンデルによる論拠を「埋め込まれた自己(embedded-self)論」とする。

・コミュニタリアンにとって、善く生きる事に関する有意義な問いは「どうすべきか、どう生きるか」(リベラル)ではなく、「自分とは誰か」という自己の発見である。

→そして、個々人のアイデンティティを規定している当該共同体の共通目標を認識することで、自己発見は実現される。

・しかし、共同体の共通目標を認識することと、共同体の共通目標に価値があるということは飛躍している。価値が無い共通目標を自己発見の際に認識する場合もあるだろう。

→これに対しサンデルは自己の境界線とは常に流動的であり、共同体が与える様々なアイデンティティから人生において自己発見は何度も行われると主張している。自己の再構成。

 

・ロールズとサンデルの主張を整理すると、

[サンデル]

・自己は目的によって構成され、自己の境界は流動的である。

[ロールズ]

・自己は目的に先行し、自己の境界は固定的である。

・「人格は目的に先行する」という点で両者は見解が一致している。

→サンデルは「自己の再構成」が行われる際、「目的の再吟味を行う主体」としての自己を暗黙裡に想定している(しなければならない)ためである。

・[①空虚である]の最後で生じた問い、「本当に自己は共通善から離脱することができるのか」という問いがここでも生まれる。

→サンデルの主張によればできない。しかし、自己は再構成される。リベラルのいうように、様々な場面で自己が目的を内的是認することと、コミュニタリアンがいうように、様々な場面で自己が目的によって再構成されること、これら二つは結局同じ状態を意味しているのではないだろうか。

→よってサンデルの自己は発見され再構成されるという主張は、リベラルの主張との差異が事実上不明瞭である(自己決定という理念を反証できていない)。

 

 

◇第七節 政治的リベラリズム―コミュニタリアニズムに対するリベラルの妥協案 p.331~357

・コミュニタリアンの主張を部分的受け入れ、再定式化されたリベラリズムを「政治的リベラリズム」と呼ぶことがある。まず、政治的リベラリズムとはなんなのか確認する。

・コミュニタリアンによれば、「各人は共同体に埋め込まれており、そこから離脱できない」(再構成については問わないこととする)。前節で確認したよう、この初見が広範囲に適用される場合、リベラルは拒絶する。

→しかし、部分集団としてリベラルが思い描く「各人は共同体に埋め込まれており、そこから離脱できない」共同体―伝統的民族、宗教セクトなどは実在する(社会的連帯の強い、前期近代的な)。

→このとき、彼らが共同体へ埋め込まれた状態を容認すれば、リベラルの国家を否定することになるが、自己決定によって共同体からの離脱を促せば、寛容というリベラルの理念に反することになる(二律背反である)。

・事実、リベラル内部でも伝統的部分集団をめぐる多くの論争が繰り返されてきた。例えば、「包括的」リベラリズムと「政治的」リベラリズム(Rawls 1993)によるものがそれである。

 

・「政治的リベラリズム」は伝統的部分集団に対して寛容な立場を表明する。

→しかし、実際はリベラルな原理と非リベラルな集団間の対立を隠蔽するものだった。以下では、まず寛容の考察を加える。

・歴史上には二つの宗教的寛容の形態があった。

[リベラル的寛容]

・カトリックとプロテスタントの果て無き宗教戦争の結果、国家は個々人の信仰に寛容になった。

→国家は個々人の信教の自由は認めるが、他方である宗教集団が個々人を「埋め込む」場合は否定する。

[非リベラル的寛容]

・最盛期のオスマン帝国はミレット制によって、広大な領地に暮らす諸宗教集団に自治権を認めた。

→国家は宗教集団が自治の範囲で個々人を「埋め込む」ことを認めるが、宗教集団内部では個々人の信仰の自由が認められなかった。

→リベラル的寛容は、自己決定の観点から個々人レベルの信仰に寛容であり、同じく自己決定の観点から共同体レベルの信仰に不寛容である。

 

・しかし、現代社会において、個人の自律に対して寛容であるべきとする近代的集団がいるのに対し、そうでない伝統的集団がいるということは、従来的なリベラルの主張に訂正を求めた。

・現にロールズ自身も、自律に価値を認める「包括的リベラリズム」から遠ざかっており、再定式化された「政治的リベラリズム」の立場に移っている。この政治的リベラリズムの立場によってロールズは正義の二原理に変更を加えてはないが、自由原理、格差原理の論拠をそれぞれ改変していることは留意しておかなければならない。

自由原理――個人の基本的自由は平等であり、最大限に保障されなければならない

格差原理――資源は平等に分配されなければならない。不平等は恵まれない人のためになるときしか認められない。 (詳しくは第三章)

・ロールズによれば基本的自由を擁護する立場は様々な論拠を持っている。「包括的リベラリズム」のように自律に価値を認める場合もあれば、コミュニタリアニズムのように自律に価値を認めない場合もあるだろう。

→しかし、様々な論拠から基本的自由は擁護されるが、最終的には基本的自由に価値を認める「重なり合う合意(overlapping consensus)」に帰結するという。

Ex)信仰の自由 二つの論拠

[第一の論拠]

「信仰は熟慮を重ねられたものであり、よって修正を被る(から信仰の自由は認められる)」

→宗教の選択は合理性に基づいたものであるか決定できず、また内的な是認に変更が加えられる可能性もあるため信仰は自由でなければならない(リベラル的論拠)

[第二の論拠]

「信仰は与えられたものであり、よって様々な社会集団の中に根付いている(から信仰の自由は認められる)」

→諸個人は共同体の中に「埋め込まれて」ており、信仰はその社会集団における価値の一つを形成しているため信仰は自由でなければならない(コミュニタリアン的論拠)

 

・二つの論拠はそれぞれ異なるが、「信仰の自由は保障されるべきだ」という同じ結論に帰結している。

 

・しかし、上記の例には論理的誤りがある。第一のリベラル的論拠で「個々人の」信仰の自由を認めているのに対し、第二のコミュニタリアン的論拠では「社会集団の」信仰の自由を認めている。

→つまり、前者の立場ならば後者の立場は否定されるし、後者の立場ならば前者の立場は否定されることになる(未だ二律背反のままである)。

・実際にはロールズは伝統的コミュニタリアンの主張を認めていない(つまり前者の立場を擁護する)。それどころか、「重なり合う合意」形成のためにはリベラルな善き生のための二つの道徳的能力―①自己決定の内的な是認 ②共通善と自己決定の対照(本章第四節末参照)が必要であるとすら主張する。

→なぜこういえるのか。ロールズはコミュニタリアンに対して以下の二点の解答を提示する。

①もしも「平等な信仰の自由」が認められなければ、少数派の宗教集団は、多数派の宗教集団によって迫害を受けることになる。だから、個人に信仰の自由を認めることは、少数派の宗教集団を保護する唯一の道である。

→これは誤りである。ミレット制のところで確認したよう、社会集団単位で信仰の自由が認められていれば、多数派/少数派に関わりなく、社会「集団間」での宗教対立は起こらなかった。

 

②リベラルが主張する自己目的の修正可能性が適用されるのは公的な領域おいてのみであり、私的な領域にて自己目的は修正されない―共同体に「埋め込まれている」と考えれば両者は対立しない(公/私にレイヤーを分ければ両立可能である)。

→ロールズの政治的リベラリズムは(その名の通り)公共的アイデンティティにおいてのみ修正可能性を認める。他方で、コミュニタリアニズムの主張は(自己のうち)非公共的アイデンティティが共同体に「埋め込まれている」事実として反映されている。

→仮にコミュニタリアンがこの主張を受け入れても、修正可能な公共的アイデンティティが私生活の領域に波及することは避けられないだろうし、コミュニタリアンはそれによって深刻なコストを支払わなければならない。

・ここには①市民的自由に関する問題 ②資源の分配に関する問題の 二つの問題がある。順に確認していく。

[①市民的自由に関する問題]

・ロールズの政治的リベラリズムに従えば、リベラルな国家は目的が自分自身によって合理的に修正可能であるとするため公共的アイデンティティに関わる自律は尊重される。他方で、非公共的アイデンティティは共同体に「埋め込まれている」ためその自律は認められない。

→市民的自由(例えば改宗、棄教、異端)は公共的アイデンティティなのかそれとも非公共的アイデンティティなのか。

Ex-1)フッター派の棄教

・カナダのフッター派のコロニーから棄教者が出た。彼は長年コロニーの繁栄に尽力し、棄教に際してこれまでの尽力の対価として報酬を求めた。このとき、フッター派の弁護人はコミュニタリアン的信仰の自由を引き合いに出し、「棄教に対して報酬を与えない」という宗教的理念の正当性を訴えた。

→最高裁は「棄教に対し報酬は与えない(フッター派の勝訴)」とした。

 

Ex2)アーミッシュの囲い込み

・アーミッシュは棄教者を少なくするために、「子どもが16歳になったら学校を退学させる」という規定を設けた。アーミッシュの子どもはアーミッシュのコミュニティの中で生きるのが望ましいのであり、外の世界についての知識を得ることにアーミッシュ社会は価値を見出していなかった。

→最高裁は「16歳になったら退学」という規定を正当であるとした。

→この二つの判決は「自己決定が共同体に従属的である」とするコミュニタリアンの主張と一致しており、ロールズが政治的リベラリズムで妥協点を示そうとも、結局のところコミュニタリアンの共通善の尊重という原理が相容れないことを示唆している。つまり、「重なりあう合意」には至らない。

・そもそもコミュニタリアンは基本的自由を嫌う。サンデルによれば、宗教的価値とは当該共同体にて諸個人のアイデンティティを形成する要素であり、むしろその価値への理解を深化させることに関心が払われるべきである(Sandel 1990)。よって、アーミッシュの人が外的世界に関心を示さないのも当然である。

 

[②資財の分配に関する問題]

・かつてのロールズは「贅沢な生き方を選好した人々が不平等を被ろうとも配分の対象にならない」と主張していた(第三章第三節)。なぜならば、それは選好の問題であり、個人の置かれた「状況」ではなく、個人の「選択」に帰属されるからである。

→しかし、政治的リベラリズムの立場では、自己決定能力は公的領域に限定される。よって「贅沢な生き方」という私的領域において個人の合理的目的修正能力は働かず、よって公正な配分の対象になるはずである。例えば伝統的共同体の慣習によって「テニスコートを家に設置すること」が強制される場合、設置によって被る不平等は平等な顧慮の対象になる。

→ロールズは「贅沢な生き方」に関して新たに説明を加えている。曰く、「贅沢な生き方」が不正だとされるのは、当人たちに不正を働く意思があるからではない(それは共通善に準拠している)。むしろ、テニスコートの設置を「贅沢な生き方」として糾弾する別の社会集団がいるためである。「ある行為は不快感を喚起するからその行為は悪になる」。

→しかし、この説明は順序が逆である。正しくは「ある行為が悪だから不快感を喚起する」のである。

 

・ロールズが政治的リベラリズムを擁護するために掲げた①、②の論拠はそれぞれ誤っていた。無論、このことは政治的リベラリズムというアプローチ自体が欠陥を抱えていたということを意味している。

・しかし、「自由民主主義国家の理念―中立国家―自己決定の尊重と「伝統的少数民族の理念―共通善の政治―共通善の尊重」はダブルスタンダードといって差し支えなく、この相克を乗り越えるのは(少なくとも両者の立場からは)困難であるかと思われる。

→この問題については第八章の多文化共生主義のところで再び触れられる。

 

 

◇第八節 社会的テーゼ p.357~380

・第六節で見たように、ロールズの自己像とサンデルの自己像は「自己が目的の合理的自己修正能力を有しているか否か」を最大の相違点としていた。

→多くのコミュニタリアンはサンデル的自己を批判し、ロールズ的自己を認めている。むしろ、彼らの関心は「合理的自己修正能力を有する自己がいかに共通善を獲得していくのか」ということにある。

・例えば、テイラーはリベラルの自己像を「アトミズム」として批判する。仮に目的に対する合理的自己修正能力を諸個人が有しているとして、その目的が社会的文脈から独立しているのはおかしく、むしろ「社会的テーゼ(social these)」という概念によって自己決定はある種の社会的文脈でしかなされないことを強調する。

→リベラルはこの批判を受け入れざるを得ない。実際ロールズ=ドウォーキンも学校、自己決定が家庭といった社会的集団に依拠していると認めている。

・しかし、テイラーはさらに社会的テーゼの概念を用いて、リベラルの掲げる「中立国家」という体制も批判する。

→中立国家は「共通善が自己決定に従属する」という前提の下、「反完成主義的立場」をとる。つまり、国家は自己決定及びそれが依拠している諸価値に推奨はおろか容認すらしない。しかし、社会的テーゼによればあらゆる共同体は特定の(非中立的な)共通善を擁護することによってしか存続しえない。よって中立国家では個々人の自律のための社会的条件も与えられない。

・テイラーの主張は子どもの養育、成長、教育の問題に重要な論点を提出する。それは第七章(教育)、第九章(家庭)に委ねるとして、以下のところではより一般的な成員における自律と社会的条件(社会的文化、社会生活、公共性)に焦点をあてる。

・リベラルな中立性は個人の自立に社会的条件を与えない、という主張は以下の三つの論拠からなる。A 有意味な選択肢を提供する文化構造を維持する必要性 B 有意味な選択肢を評価するための共通のフォーラムの必要性 C 連帯と政治的正当性の前提条件

 

 

A文化構造を保護する義務

・社会的テーゼによれば、人生にとって有意味な目的の発見は既存の文化構造に依存しているが、リベラルの中立性はこれらの保護を主張することはできない。

→リベラルの反完成主義的性格からはあらゆる価値は推奨も容認もされないため、そうした価値を提供してくれる文化を保護することもできない。

・ロールズは市場の自由が保障されていれば、既存の文化財が社会的テーゼの機能を果たすとして反論しているが、これも不十分である。文化構造が善き選択を生み出すのならば、国家は文化の喪失を防ぐために文化構造の保護を義務付けなればならないためである。重要な歴史財や、芸術作品が積極的に保護されなければ、未来の子どもたちがそれらを経験できないのは明らかである。

・実際、リベラル側も文化保護の重要性は認めている。例えば、ドウォーキンはテイラーと見解を一致させているし、ロールズの場合でも文化構造の保護を退ける積極的論拠を提示していない。

→むしろ、文化的完成主義それ自体の是非より、国家にとって文化的完成主義が望ましいのか、市民生活にとって文化的完成主義が望ましいのかがここでは問われるべきだろう。

 

 

B 中立性と共同の討議

・リベラルは「善についての判断は政治的活動の中ではなされない」と主張していると考えられてきた(中立性もこの上に立脚していると)。

→しかし、少なくともロールズの主張は異なる。ロールズは確かに、国家が完成主義的に個々人の善についての判断に影響を及ぼすべきではないとしている。しかし、善についての判断それ自体は公的活動の中で獲得されていくと主張している(Rawls 1971)。

・ハーバーマスの討議論理もリベラルな中立性を批判しているが、政治的活動における討議が生活世界の自明性を更新していくという理由から推奨している。

→つまりコミュニタリアンとハーバーマスは政治的活動/社会的活動の差異に無自覚なだけであり、ロールズは「善についての判断は政治的活動(この場合社会的活動)の中ではなされない」という主張をしてはいない。

→ただしロールズにしてもコミュニタリアンにても、非国家的組織によるフォーラムを善の構想に肯定的影響を与え、国家的組織によるフォーラムが善の構想に悪影響であるということの論拠は何一つ述べていない。

 

 

C 連帯と政治的正当性

・例えばAで確認したように各人の善き生の観点から、文化財の保護が公的制度の下行われるようになった。この公的制度が正当であるためには、国家の成員によって承認されなければならないだろう。そしてこのとき、国家の成員に「共通意識」が働いていなければ同一の承認を行うとは考えにくい。

・自由民主主義諸国の崩壊は、過度な個人主義(共通意識の崩壊)をもたらし、現に多くの先進諸国で諸個人の共同体からの「離脱」が観察されるようになった。そして結果的にリベラルな平等は困難に立たされているのは先述の通りである(第三章第六節)

・他方で当のリベラルである、ロールズ=ドウォーキンは深遠な正義原理が「共通意識」に先立つため、個人主義が加速しようとも、平等な顧慮の契機は失われないという(極めて楽観的な)主張をする。

→では彼らのいう正義原理とはそもそも「誰のためのものなのか」。おそらく世界全体を包括する「コスモポリタン」的な対象は想定していないだろう。暗黙裡にロールズ=ドウォーキンは正義原理の適用対象を「その倫理が共有された共同体」の内部に限定している。よって、必然的にリベラルの多くには(トロツキズム的革命でも訴えない限り)「われわれ性」という共同体志向が確認されることになる。

→では本当に正義原理は共通意識に先立つのか。

 

・正義原理は共通意識に先立たない。どれだけ正義原理が深遠なものであろうとも、それが共通意識によって承認されない限りは正義原理足り得ない。よって倫理的共同体もまた共通意識がないと形成されない。

Ex)近代的な自由民主主義国家は正義原理を共有しているとされる。

もし、正義原理が共通意識に先立つとするのであれば、アメリカとイギリスとフランスの国民はそれぞれ自国と同様に他国を愛し、互いの国民が互いの国民を平等に顧慮することになるだろう(移民に対する制度的、日常的差別はない)。むろん、経験的事実としてこれは誤りである。

 

・つまり正義原理は社会統合のための必要条件ではあるが、十分条件ではないということである。

→社会統合ないし連帯は成員の共通意識を前提とし要求し、次に政治原理の共有を条件とする。では、その他にさらになにを必要とするのだろうか。以下の三つがそれぞれ妥当か考えていく。

①共通の生活様式の強調―コミュニタリアン的アプローチ(本章本節)

②共通の国民性の強調―リベラル・ナショナリズム的アプローチ(本章第九、十節)

③政治参加の強調―市民的共和主義的アプローチ(次章)

 

[①共通の生活様式の強調―コミュニタリアン的アプローチ]

・リベラルは各人に正義原理さえ共有されれば社会統合(経済的社会的平等の達成)が達成されていると考える時点で単純である。しかし、各人に共通善に基づく生活様式や社会的慣習が共有されれば社会統合が達成されるとするコミュニタリアンはより単純である。

→従来的に「共通善」がそもそも誰に産出-共有されていたか、ということに問にコミュニタリアンは驚くほど無自覚である。西洋文化圏における共通善は近代以後、中産階級以上の白人男性によるもので、女性、黒人、労働者は常に周縁化されてきた。

→むろん、現代のコミュニタリアンは「モラル・マジョリティ」に嫌悪感を示しているが、現実問題、共通善の政治を推し進めても「善き生き方」をこれまで共有していなかった人々の排除は不可避であろう。

Ex)ポルノと同性愛の規制

・サンデルによればポルノの規制は「共同性を侵害するから」正当である(Sandel 1984)。

→他方で多くのフェミニストはポルノが男性に対する女性の服従関係を永続化させるが故に不当であると主張する。つまりポルノの規制は「共同性を強化するから」正当である。

 

・同様に、同性愛の場合はどうであろうか。サンデルの基準に従えば、多くのアメリカ人の「共同性を侵害するから」同性愛は規制されることになるだろうか。またもし規制が正当化されたとき、同性愛者が規制に対して異議申し立てをしたらどうだろうか。しかし、共通善の侵害を認めないため、異議申し立ては不当であることになる。

→両ケースでも少なくともサンデルの論理からは、共通善に基づいて社会的に周縁化された人々が「共同性を侵害する」とされた場合、共通善に異議申し立てをすることができないことになる。それどころか、共通善がマイノリティの排除を助長している。

→よって、[①共通の生活様式の強調―コミュニタリアン的アプローチ]は社会統合にとって不要であるばかりか、障壁となりうる。

 

 

◇第九節 リベラル-ナショナリズム

―コミュニタリアニズムに対するリベラリズムの妥協案2 p.380~390

[②共通の国民性の強調―リベラル-ナショナリズム的アプローチ]

・すでに見たように、リベラルのいうように道徳原理が共有されるだけでは社会統合は果たせなかったし、コミュニタリアンがいうように共通善に基づく共同意識の共有は全体主義的性格を帯びた国家が出来上がってしまう。

→両論の折衷案となる「国民性」は社会統合に適切な説明を与えると考えられる。

・国民性という概念は(今日の社会で自明視されるが)、世界史的には決して古いものではなく、近代的な概念である(この辺はアンダーソンの『想像の共同体』での議論と合致)。

→国境、言語使用といった諸境界と心理的紐帯としての国民性という概念は偶然か必然か一致し、また西洋諸国は国民意識の形成に尽力したという歴史もある(ホブズボームの『創られた伝統』)。

・こうしたアプローチを「リベラル-ナショナリズム」的アプローチと称することができる。一見するとコミュニタリアニズムによる共通善のアプローチとの差異が不明瞭であるが、以下のような相違点がある。

[コミュニタリアン的アプローチ]

・個々人の善き生き方を規定する

・積極的アイデンティティの形成

・ローカルなレベルで実現可能である/国家のレベルでは実現不可能である

 

[リベラル-ナショナリズム的アプローチ]

・個々人の善き生き方にまで干渉しない

・消極的アイデンティティ

・国家のレベルで実現される

→コミュニタリアンの中にはリベラル-ナショナリズム的アプローチが稀薄すぎるとして、共通善の観点から取るに足りないと考える者がいる。しかし、それがなによりリベラルな政治においてリベラル-ナショナリズム的アプローチが望まれる証左となる。

・しかし、昨今のグローバル化、トランスナショナリズム、多文化主義はリベラル-ナショナリズム的アプローチ及び「国民国家」それ自体を消滅させるかもしれない。

→これが真理か否かは留保しておくとしても、少なくともコミュニタリアン的アプローチが代替案になるとは思えない(前節の通り多文化主義へ解答を用意できていない)。

 

 

◇第十節 ナショナリズムとコスモポリタニズム p.390~393

・あるいはリベラル-ナショナリズムの欠点は、(同じ正義を共有した)自国外部への不平等に目がいかないということに求められるかもしれない。

→例えば第三帝国やEUなどコスモポリタン的な共同体における国家間不平等に対して、自国内部にしか注目できないリベラル-ナショナリズムは不十分であるかのように思える。

・しかし、グローバル化がコスモポリタニズムを要請するときが来るのであれば、人々の正義の対象は、家族や地域といったローカル共同体、国民意識に支えられた国家、正義原理を共有する他国という系譜を描くことになる。

→リベラル-ナショナリズムがコスモポリタンに対応できるか否か留保しておくとしても、ローカル共同体に関心が退行していくのは防ぐ必要があるといえるだろう。

 

 

◇第十一節 コミュニタリアニズムの政治 p.393~397

・本章で見たように、コミュニタリアンの主張には独立する二つの潮流が存在している。

①自己を「埋め込まれた自己」として捉える潮流(第六節)

・コミュニタリアンは諸個人の「善き生き方」は共通善に基づいていると考え、諸個人の決定は共同体に従属的であるというコンサバティブな立場をとる。

→しかし「自己の再発見」等の議論を加味すると、リベラルとコミュニタリアンの持つ自己像は必ずしも矛盾しない。よって第二の議論に焦点があたる。

②個人の自由が社会的文脈に埋め込まれていると捉える潮流(第八節以下)

・テイラーによれば、リベラルは「アトミズム」を信仰し、コミュニタリアンは「社会的テーゼ」を信仰する。ここでは社会統合-連帯が俎上に載せられた。

→リベラルは正義原理が共有されている限り社会統合-連帯は達成されると考え、現実社会における個人主義の加速にも楽観的である。他方で、コミュニタリアンにとって共通善が社会的統合-連帯の条件であるため、現実社会におけるその失墜は憂いを招いている。

 

・フィリップスによれば社会の多様性/統一性を巡る問題に対して、コミュニタリアンは「過去志向」と「未来志向」に区別できるという(Phillips 1993)。

→多くのコミュニタリアンは過去志向の立場におり、現代社会における多様性の拡大を嘆いている。彼らにとってセクシャルマイノリティやエスニックマイノリティの社会的進出は過去の社会的統合-連帯にとって脅威であり、よって従来的な共同体の復古を訴える。典型的な保守の立場。

・他方の未来志向のコミュニタリアンは多様性の尊重と統一性の維持という二つの観点から、「国家への奉仕活動」(「ナショナル-サービス」)を通して、多様な青年が共同作業する必要性を訴える。こちらのアプローチに見られる国民性の強調はリベラル-ナショナリズム的な関心によるものと大きな相違点がないと考えられるだろう。

→これに関しては第七章で中心的に触れられる。

 

 

 

※ここまで整理

◇特に本章は理解しにくかったと思われる。これはそれぞれ独立した議論の対応関係が不明慮だから。

 

◇まずコミュニタリアンの立場は以下の三つに整理され(第一節)、このうち③が本章の主題となっている。

①正義原理が共同体にとって変わられるべきとする立場(第二節)

→マルクス主義批判(前章の話)

②共同体が正義原理の資源であるとする立場(第三節)

→ウォルツァーへの(不当な)批判

③共同体が正義原理の内容においてより重要な扱いを受けるべきとする立場(第四節以降)

 

◇③の論点は中立国家/共通善の政治という対立を顕在化、さらに二つのコミュニタリアンの批判が追加

①自己決定というリベラルの理念そのものに反対する論拠(第六節)

→「負荷なき自己」を想定するリベラルへの批判だが、堂々巡り、両者は妥協案を

②リベラルが想定する自己決定と共通善の間の結びつきに反対する論拠(第七節)

→ロールズの政治的リベラリズムのアプローチは失敗に終わる。しかし「中立国家―自己決定の尊重」と「共通善の政治―共通善の尊重」がそもそも相容れないため仕方ない。

 

◇第八節ではテイラーの「社会的テーゼ」に触れられる。

→Cの社会的統合-連帯を巡ってなされたリベラルとコミュニタリアンの主張はそれぞれ両極端であり(正義原理だけでは社会的統合が弱まり、共通善は個人の自由を認めないほど強めすぎる)、よって「国民性」が妥協案として見出された(第九-十章)。またA文化構造とB公共性に関してもそれぞれ独立して考えられなければならない問題である。

 

[批判とメモ]

・第三節のウォルツァー批判は的を射ていない。ウォルツァーの「正義は~『である』」という主張に対し、キムリッカは「正義は~『べきだ』」(当為論)で応答している。

 

・たぶん論文で取り上げたいのは第七節の対立。ここがアポリアに陥っているから。

 

・懐古主義のコミュニタリアンがいわゆる保守というやつなのか。でも未来志向もナショナリズムに加担している点では右派的とも。このへん明確に峻別できないっぽいね。

 

 

◆第七章 シティズンシップ理論 p.413~475

[③政治参加の強調―市民的共和主義的アプローチ]

・第三章で確認したよう、1970年代にリベラルが功利主義を批判したときに中心的主題となったのは正義と権利だった

・1980年代に入ると第六章で確認したよう、今度はコミュニタリアンが共同体とメンバーシップを主題化してリベラルを批判した。

→しかし、①共通意識の強調(コミュニタリアニズム)、②国民性の強調(リベラル)という双方のアプローチはそれぞれ一長一短であり、その折衷案が望まれる状況が続いていた。

・そこで満を持して登場したのがシティズンシップの理論だった。90年代までに「シティズンシップ」は政治哲学における流行語と化し(Heaster 1990)、成員の共通意識を保持しつつも、個人の自由をも保障するというコミュニタリアニズムとリベラリズムの二つの理念を実現するものとして期待された。

→例えば、パットナムの「社会関係資本(social-capital)」の議論では、メンバーの自主的な関係性の構築が、合理的な社会設計に接続されるということが明らかにされた(Patnam 1993)。

・他方で、シティズンシップの理論が従来的リベラルの議論の焼き直しとなっている状況もよく観察される。よって、本書ではシティズンシップ理論をリベラルの代替物ではなく、補完物として想定する。

→第一節では共同的な市民がどのような徳性や実践を望んでいるか明らかにする。

→次に市民的共和主義の二つの立場―①政治参加の内在的価値を強調する古典的立場(第二節)と②政治参加の道具的重要性を強調するリベラルな立場(第三節)を確認する。

→第四節では、リベラルな国家ではいかにして共同的市民の特性や実践を捉えることができるか考察する。

 

 

◇第一節 民主的市民の徳性と実践 p.418~427

・まず民主的市民の特性と実践を考える上で、戦後のシティズンシップ概念の基礎を成したマーシャルの主張を参照する。

→マーシャルによれば、シティズンシップはイギリスにて①18世紀に市民的権利、②19世紀に政治的権利、③20世紀に社会的権利として拡張していったという(Marshall 1948。

→③段階目の拡張によって、社会的な被支配層にもシティズンシップ概念が適用されるようになり、またより多くの成員に対するシティズンシップの保障は自由民主主義的福祉国家の実現につながるという。

→しかしながら、今日のシティズンシップの理論からは「受動的」として批判される。むしろ望まれているのは社会の成員自身による積極的な社会参画であり、開かれた公共的な討論の場であった。

・ギャルストンによればシティズンシップに必要なのは以下の四つの徳性である。

①一般的徳性―勇気や誠実、遵法心

②社会的徳性―独立心、開かれた精神

③経済的徳性―労働倫理、イノベーションへの対応力

④政治的徳性―積極的な討議への参加、多様性の許容

→先述の通り、このうち現代シティズンシップ理論で焦点を当てられるのは④政治的徳性である。またしばしば、こうした徳性は「公共的理性(public reasonableness)」と称される。

→しかし、現代民主主義が陥りがちな「投票中心的(vote-centric)」主義では、インターネット調査等が想起されるよう極めて形式的であり、そこに討議や対話の契機はないことが問題となる。また、討議を行うとしても個人の選好による主張であるため、それが合理的ではないかもしれないし(第二章「情報に基づく選好」の問題)、社会的支配層にとって有利な帰結をもたらすかもしれない。

→後者の場合、討議や対話を行うこと自体に意味があるとする擁護がなされる。各人が討議を通して差異に接近することと、差異をなくすことは異なるからである。

・いずれの場合にせよ、ここでの目的はシティズンシップ理論の徳性を特定することにあった。

→つまり、能動的であり、差異を肯定し、討議を行い、個人の選好に偏らない「公共的理性」を兼ね備えた市民が一定数いることをシティズンシップ理論は要求する。

→現実問題、政治的アパシーに代表されるようにシティズンシップは危機的状況にあるともいえる。

 

 

◇第二節 市民的共和主義 p.427~435

・では、こうしたシティズンシップの危機的状況において、「市民的共和主義(civic republicanism)」どのようにして対応していくべきなのだろうか。冒頭で述べたように、「①政治参加の内在的価値を強調する古典的立場」と「②政治参加の道具的重要性を強調するリベラルな立場」があり、本章では前者が紹介される。

 

・確かに、シティズンシップが要求する徳性に応じるというのは、各人にとって負担になりえるかもしれないよう思える。

→しかしながら、第一の立場によれば討議といった政治的領域への参画には内在的価値があり、コミットメントはそもそも負担になりえないと考える。これは「アリストテレス的」解釈と称することができる。

→個人の善き生を(政治的領域に)規定している点において、「完成主義的」(第五章-第六章)であるといえるが、少なくとも家庭や交友関係といった私的領域に善き生を求める現代人の感覚とは乖離している。

→コンスタンによれば、ポリスの時代において、自治という政治的領域への参加が古代人の自由だった。他方で、現代人の自由は政治的領域を離れた私的領域の中に見出される(アーレント『人間の条件』)。前者が政治的自由を満たすために私生活を犠牲にしたのに対し、後者は個々人の私的自由を満たすために政治が利用(犠牲)になるべきだと考える。

→アリストテレス的解釈は「古代人の自由」の復権を主張している。

・リベラルは(第六章第八節の「アトミズム批判」のように誤解されやすいが)、社会を積極的に賛美し、自己選択が行われる社会と、強制をする政治の分離を主張する。

→他方でアリストテレス的解釈には、政治的領域への積極的コミットを「善き生き方」と想定する卓越主義が見られる。そしてもし、これを各人の共通善とするのならばそれはコミュニタリアニズムの亜種に数えられることになるだろう。

 

 

◇第三節 道具的徳 p.435~439

・第六章第七節で確認したように、リベラルはコミュニタリアンの「完成主義的」態度に対して、「反完成主義的態度(中立国家)」を示した。卓越主義に陥っているアリストテレス的解釈に対しても同様である。

→よってリベラルは政治的コミットに内在的価値を認めず、むしろ、いつの時代の政治的不正や健全性にコミット可能な「最小限のシティズンシップ」―市民的徳性のみで事足りると主張する。

・市民的徳性は遵法精神や道徳精神といった一般的なものであり、必ずしも政治的討議が交わされるプラットフォームのみではなく、むしろ日常生活の関係性の中で各人が要求されることになる。

→例えば、差別の禁止は人種によらない平等な処遇を実現させた。しかし、より日常的場面(法的規制がかからない場面)にても、差別は禁止されなければならず、リベラルなシティズンシップはこれを要求する。このことは「公共的理性」という厳格な要求を退ける。

 

※ここでキムリッカは「道具的」というが市民的徳性がいかに道具として機能的なのか主張できていない。「市民的徳性と政治的徳性はリベラルに必須!」っていうこと?マーシャルの「受動的な」シティズンシップ理論の域を出ているように思えないのだが……

 

 

◇第四節 市民的徳性の苗床 p.440~452

・ロールズのいうように市民的徳性と政治的特性が市民民主主義を可能にするとしたとき、ではこれらの道具的な徳はいかにして可能だろうか。

→まず法的制度によるものが容易であるように思える。討議への参加や差別の禁止を法によって義務付ければ解決されるのではないか。

→強制力を伴っており、ともすれば市民の中から徳性に対する拒絶が出るかもしれない。政治的コミットメントそれ自体に価値がある(から大丈夫)という古典的な主張も前節で退けられた。

→ここで求められるようになるのが、法などの強制力ではなく市民の自発的共同の媒介として機能する「市民的徳性の苗床(seedbeds of civil virtue)」である。リベラルな社会では家庭や市場、地域などいくつかの候補が挙げられる。順に見ていこう。

Ex1)[市場]

・いわゆる「ニューライト」の言説によれば、市場が「苗床」として機能する。

→自活は各人にとって諸徳性―自発性、自立性を保障してくれる前提条件であり、その妨げとなるセーフティーネットは撤廃されるべきである。このように福祉国家への批判の多くはニューライト的シティズンシップの理論に則っていた。

→しかし、市場では政治的徳性や市民的徳性を育んではくれないだろう。

 

Ex2)[市民社会における自発的結社]

・ここでいう自発的結社には家庭、教会、労働組合、協同組合、近隣団体などが該当する。

→しかし、これらの結社をそれぞれ十把一絡げに同じ徳性から成り立っているとすることはできないだろう。また、例えば近隣団体が個人的な選好から異議申し立てをすることもあり得るだろうし、家庭は家父長制イデオロギーの「苗床」となるかもしれない。

→一方で、ウォルツァーの主張にあるよう体制側から結社の矯正を求めるのは「自発的」という条件を無視しているため本末転倒である。

 

Ex3)[母性的シティズンシップ(maternal citizenship)]

・母子関係こそが「苗床」として機能すると考える立場。

→能動的政治参加、多様性の許容、反差別などいった徳性が母子関係に見られるか、あるいは母子関係がシティズンシップの徳性なのか全く根拠が見られない。

 

・市場、自発的結社、母性がそれぞれ市民的民主主義に必要な徳性を部分的に有しているように思える一方、批判点も多くあった。

→最近の理論家の多くは教育制度に「市民的徳性の苗床」としての機能を期待している。

Ex4)[教育制度]

・教育制度はこれまでに、歴史修正主義、特定民族の排斥、反外国といった反自由民主主義-市民的共同主義の眼差しを助長してきた。しかし、これらは現時点で再構成可能であると考えられている(なぜ?)。

→さらに、学校は他の「苗床」候補よりも国家による規制が少ない(日本は違うよね)。

・しかし、学校による自由民主主義的な徳性の形成は必ずといっていいほど伝統的集団からの反発を招くことになる。例えば第六章第七節にて取り上げられたアーミッシュの例が顕著だろう。

→こうした宗教団体は社会全体からの隔絶を自ら望んでいるため、そもそもシティズンシップ形成へ加担する義務はない。他方で、プロテスタントやカトリックといった宗教団体(原理主義的であっても)は市民としての権利を行使する選択をしているため、自由民主主義的徳性を獲得される学校を受け入れる義務がある。

→いずれの場合にせよ、どれか単一の「苗床」があるというよりかは、諸領域に分散されていると考える方が妥当である。

 

・ここむしろ問題化されないとならないのは、「なぜ人々は徳や選好が他の人と衝突する際、徳を発揮しなければならないのか」という深遠な哲学的問題である。

→第六章第八節で確認したテイラーのリベラル批判再訪。「なぜ人々は共通の生活習慣をもたない人々に対して、徳を発揮するのか(しないだろう)」。よってアトミズムからではなく「社会的テーゼ」から社会的統合-連帯は可能になる。

→リベラルはこれに対してリベラル・ナショナリズム的アプローチで応えた。そして実はここまで見てきた「徳性の道具的解釈」立場のすべてはリベラル・ナショナリズムをすでに前提化している(物理的距離、言語問題は全て解決済みである)。

→よって市民的徳性の議論はリベラル・ナショナリズム的アプローチの延長線上、あるいは補完物であるといえるだろう。

 

 

◇第五節 世界市民的シティズンシップ p.453~458

・すでにみたように、リベラル・ナショナリズム的アプローチは市民的民主主義あるいはリベラルな政治の実現のために、国民性の重要性を主張する。しかしながら、国家を超えるコスモポリタンなシティズンシップに対して、リベラルは反対の立場をとることはない。

→国民国家が世界市民的シティズンシップの基盤になるのか、あるいは障壁になるのかという問いの答えはまだ出ていない。

→例えば、世界市民的シティズンシップの擁護論者の多くはEUの連帯のために国民性を障壁と考えるが、多くのEU圏の市民はそうは思っていないだろう(EUの理想の実現のために別言語を覚えたいとは思わないだろう)。

 

 

◇第六節 市民的民主主義の政治 p.458~463

・少し俯瞰してみると、功利主義、リベラル、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムという諸正義の議論が隘路に入りつつあった80年代末において、シティズンシップ理論は各正義論に新たな議論の土俵を用意したように思われる。

→正義それ自体の正当性を主張するよりも、自らの主張が「徳の苗床」をいかにして可能にするか(リバタリアンなら市場、リベラルなら教育、コミュニタリアンなら共同体)を主張した方がおそらく効果的だろう。

→先述の通り、どれが「徳の苗床」として妥当かは決定できない。よって、戦略的にシティズンシップに依拠するとしても、従来的な正義論での対立が背景にあるのならば、それぞれの相克の解決が実現されるか極めて怪しい。

 

【メモと批判】

・この章面白かった!

→特に市民共和主義に対する二つの立場(アリストテレス的/道具的)は前者にアーレント(ハーバーマスも?)ぶちこんでもいいと思う。公共性それ自体に内在的価値が備わっているという本質主義的な眼差しは明らかに正当性を欠いている(というかアーレントのマルクス批判ってそこじゃないの?)。実際に、政策実行のレベルではそれこそ完成主義的なアプローチになるでしょうね。何が多様性だよ。

 

・現代人は「善き生」を公的領域ではなくて、私的領域に求めるようになっているという話もすごい興味深い。

 

・シティズンシップ教育とかってこのへんの議論から出ているだろうか。シティズンシップ理論推しはリベラルってことでいいのか。←【6/23追記】 違うよー^^

 

 

 

◆第八章 多文化主義 p.476~540

・前章で確認したように、マーシャルは「権利としてのシティズンシップ」を主張した。

→他方でマーシャルによるシティズンシップ概念は単に権利としての側面のみならず、政治的共同体(国家)における成員の紐帯としての側面も有している。

→シティズンシップは特定の共同体の成員資格(member-ship)と同義であり、国民統合のために不可欠である。

・ヤングはこうした一元的な「共同の権利としてのシティズンシップ」に対して、国民の多元性を根拠に「差異化されたシティズンシップ(differentiated citizenship)」という概念を提示し、論駁する。

→前者が国民統合の観点からシティズンシップを一元化するのに対して、後者は国民統合の必要性を認めつつも、セクシャルマイノリティ、エスニックマイノリティ、労働者、女性などの社会的立場の多元性を強調する。

 

・従来的にはマルキシズムやリベラリズムなどが主張するように「経済的ヒエラルキー(貨幣の不平等)」を解決すれば、上述のような「社会的立場のヒエラルキー(地位の不平等)」は解決されると信じられてきた。

→しかし、現実には「社会的立場のヒエラルキー」は「経済的ヒエラルキー」の下位カテゴリではなく、両者は別個の問題系である。

 

・本書では、「社会的ヒエラルキー」のうち、

①「多文化主義(multiculturalism)」―異民族、先住民、人種、民族宗教というエスニックマイノリティに関する成員資格の議論

②「フェミニズム(feminism)」―女性に関する成員資格の議論

を取り上げ、本章で①、次章で②を検討する。

→①は三つの論争段階に区分される

 

 

◇第一節 コミュニタリアニズムとしての多文化主義(第一段階) p.487~489

・論争の第一段階はリベラルとコミュニタリアンによるものである。

→六章で確認されたように、コミュニタリアンは個人が共同体に「埋め込まれた」ものであると主張する/リベラルが主張するように個人は諸価値から文化に対して独立の存在ではない。

・ゆえに個人主義的立場であるとされるリベラルは国家内部における文化的多元性(「穏当な多元性の事実」)に無頓着である。

 

 

◇第二節 リベラルな枠組み内の多文化主義(第二段階) p.489~496

・第一段階は個人主義(リベラル) 対 集団主義(コミュニタリアニズム)という単純な二項対立によるものだった。

→しかし、そもそもリベラルは個人主義ではなく、ゆえに文化的多元性も否定していない

むしろリベラルにおいて問題化されるのは、「リベラルの範囲の中でどの程度の多文化主義が望まれるべきか」という問である。

→リベラル内部での論争へ

 

・キムリッカによれば、マイノリティの権利に関わる問題は以下の二つに区別される

①「内的制約」(infernal restriction)―集団内部における個人的権利の制約で、「アーミッシュからの離脱」(第六章七節)はこの問題に関わる。

②「外的保護」(external protection)―集団間における権利の保護で、「オスマンのミッレト制」の寛容(第六章七節)は外的保護の例である。

→このうちリベラリズムは②「外的保護」と両立可能である。

・例えば、ある政治的共同体としての国家において、黒人が成員資格を主張するとき、外的保護を望んでいるのであって、内的制約を設けようとしているのではない。

→むしろ特定のエスニシティによる外的保護の要求は、「穏当な多元性の事実」(Rawls)を積極的に認めようとするリベラルの価値観を強化してくれる。

 

 

◇第三節 国民建設への応答としての多文化主義(第三段階) p.496~501

・リベラルは、その擁護者からも批判者からも、国家における社会的協働のために、「善意の無視(benign neglect)」を行うと考えられてきた。

→リベラルはエスニシティのもつ諸「善」(ロールズのいう包括的教説)を無視し、統一的な「正義」(公正な協働システムとしての社会の実現)のために国民性を強調する。

→「リベラル-ナショナリズム」(第6章9節)

・しかし、ロールズが主張するように、リベラルは本来的に「包括的教説の擁護」/「国民性の獲得」という二つの課題を両立するよう努める。

→ゆえに、リベラルにとって問題の所在は、「国民性の強調による善意の無視の正当化」ではなく、「国民性をいかに少数派の善と両立させるか」ということに求められる。

 

・とりわけ、「国民建設」の議論は少数派と原則的に相容れないように思われる。

→国家による共通言語や社会制度の設定などに伴う、ナショナリティの不随意的規定

・以下では五つのモデルを検討する。

 

 

◇第四節 多文化主義の五つのモデル p.502~524

・ある国民建設に対して、エスニックマイノリティは以下の4つの対応をとることができる。

①自民族に対して友好な近隣国家へ移住する

②よりよい条件を求めて国家に権利主張を行いつつも、マジョリティの文化を受け入れる

③国民建設を不服として、国家に権利主張を申し立てする

④永続的な周縁化を受け入れ、マージナルな存在となる

→以下ではこの①~④のパターンの組み合わせのモデルを五つ確認する。

すなわち、「Aナショナルな少数派」「B移民」「C孤立主義的な宗教民族集団」「D外国人居住者」「E人種カースト集団」である。

 

A ナショナルな少数派

[ショナルな少数派(minority nationalism)とは]

・①下位国家ネイション(sub-state nation)―過去に多数派国家を形成した民族(カタロニア人、バスク人、朝鮮民族など)/②先住民(indigenous group)―過去に征服や支配にあい、併合された民族(ネイティブアメリカン、イヌイットなど) に区分される。

→明確な線引きはできないが、前者が前近代世界/後者は近代後まで維持されていた(されている)と言うことができる。

 

[リベラルな国家の対応]

・往々にして前期近代国家はナショナルな少数派を抑圧し、国民建設によってそのアイデンティティを矯正してきた。

→しかし、抑圧がナショナルな少数派のアイデンティティをかえって強めてしまうこと、またそもそも抑圧を正当化する道徳的論拠がないこと、から抑圧は誤りだと考えられるようになっている。

・ゆえに、リベラルな国家において問われるべきは「ナショナルな少数派がなぜ多数派と同様に自律した国民建設の権利を有すべきではないのか」ということである。

 

 

B 移民集団

[移民集団(immigrant group)とは]

・ここでは「C孤立主義的民族集団」と「D外国人居住者」と区別するため、「自国から主として経済的理由で他国に移住し、かつ成員資格が国家から認められている人々」と定義する。

・移民集団は往々にして、やむを得ない理由とはいえ、(被支配や迫害と比較すると)自発的な理由から他国に移住した人々であり、ゆえに国民権背に不服を申し立てることは稀である。

 

[リベラルな国家の対応]

・国家側も労働力として移民集団に依存しているため、彼らに成員資格を認めなければならない。具体的には、移民のアイデンティティや文化の尊重、及びそれに伴う移民の社会制度や文化的慣習の教化を実施する義務がある。

 

 

C 孤立主義的な民族宗教集団

[孤立主義的な民族宗教集団とは]

・移民のうち政治的-経済的統合を拒否し、独特な宗教的慣習を持つ集団。

→当然、彼らは国民建設も拒否し、独自の社会的制度の認可を国家に要求する。アーミッシュが好例である。

 

[リベラルな国家の対応]

・意外にも従来的に民族集団の権利主張は(それが前近代的な理念に基づくものであっても)国家によって認可されてきた。

→これが適切な譲歩かは結論付けられないが、民族宗教集団が他の集団に危害を加えないか限りは認可される傾向にある。

 

※ここまで確認されたA~Cは「国民建設からの分離を望みつつも、統合を強制されてきた」点で共通している/しかし、以下のD~Eは逆に「国民建設へ統合されることを望みつつも、分離を強制されていた」点で異なっている。

 

D 外国人居住者

[外国人居住者とは]

・移住者のうち、正当な手続きを負わずに他国へ移住した不法移民や不法滞在者、また定住する意志がない一時的移民などがこれに該当する。

・彼らは「B移民」とは異なり、国家によって成員資格が認められておらず、前者ならば発見された場合、強制送還されることもあった。

 

[リベラルな国家の対応]

・先述の通り、強制送還措置がとられてきたが、昨今では外国人居住者に「やむを得ない理由」が認められる場合、成員資格を認可したり、保護の対象として顧慮されたりするようになっている。

 

E アフリカ系アメリカ人

[アフリカ系アメリカ人とは]

・いわゆるアメリカにおける黒人。おそらく史上最も不当な強制力を行使された民族の一つであり、今日でもまだその影響は残留している。

→不法な滞在ではないため「D外国人居住者」とは異なり、また自発的に移住してきたわけではないため「C宗教民族集団」や「B移民」とも異なる。

→ゆえに、アフリカ系アメリカ人は固有のケースとして理解されるべきである。

 

 

・この五つの類型から、リベラルな国家における国民建設は以下の3つの条件を満たす必要がある。

(a)外国人居住者や人種的カースト集団のように、長期滞在者であるのに成員資格が認められないエスニックマイノリティを作り出さない。

(b)移民やその他の民族文化マイノリティになんらかの強制力が働く場合、それらは主に便宜上のもの(制度と言語)に限定されなければならない/彼らのアイデンティティを深刻に揺らがすものであってはならない。

(c)ナショナルな少数派には独自の国民建設が認められなければならない。

 

・他方でエスニックマイノリティ側も、他の多数派と同様に居住者として国家に対する義務を負う必要がある。

→ゆえに「少数派の国家に対する権利要求」と「国家の少数派に対する義務要求」は弁証法的関係となる。

 

 

◇第五節 多文化主義的闘争の新たな前線とは p.524~528

・従来的に多文化主義は政治的な正義論と相容れないがゆえに批判に晒されてきた。

→しかし、今日では多文化の否定が正義の実現の必要条件という考えは衰退し、第一の論争は幕を閉じている。

・しかし、今日では多文化が国家における社会的協働を阻害するという論理によって多文化主義は批判されている。

→確かに諸文化形態が多く認められれば認められるほど、政治的共同体としての国家の紐帯が弱化するように思える。

→これに関しては経験的事実と照らして個別的に検討されるべきであり、哲学的討議がどの程度寄与するかは不明である(ちなみにカナダとオーストラリアは多文化を許容しつつも、社会的協働が損なわれてはいない)。

 

◇第六節 多文化主義の政治 p.529~530

・多文化主義は相反する二つの主張の論拠になりえる。

①共通善の観点から保守的な国民性の形成を訴える(排他性の推進)

②多元性の観点からリベラルな形態の国民性を訴える(多様性の許容)

→この両立場は共にそれ単独の論争によっては決着がつかないため、先述の通り、具体的な国民建設の形態を賭け金にして議論されるべきである。

 

 

【メモと批判】

・Dの外国人居住者で「不法入国-滞在者」/「一時滞在者」を混同するのはよろしくないと思うんだけど。

→実際にここでキムリッカが引いてるウォルツァーは「やむを得ない理由を持つ/持たない」から外国人居住者を「難民」/「一時滞在者」に区別してたし、この線引きは非自発的/自発的かに関わるのでけっこう大事だよねー。

 

 

◆第九章 フェミニズム p.541~614

・現代の政治理論はドウォーキンが主張するように「平等主義的土台」の上に立脚しているとされていた。しかしながら、その論者たちの多くは男性であり、ゆえに女性のニーズや経験を適切に平等の理論に組み込むことができていなかった。

→本章ではこうした諸批判のうち、

①ジェンダー中立的な主張(第一節)

②公私の区別に焦点をあわせる主張(第二節)

③正義という視点自体がそもそも男性的であるとし、女性のニーズや経験に対応した理論は正義ではなくケアに求められるとする主張(第三節)

を取り上げる。

 

 

◇第一節 性的平等と性差別 p.543~553

・一般に最も露骨な性差別とは「性別と社会的地位を恣意的に結びつけたもの」と解釈されており、こうした恣意性による性差の区別の撤廃を目指す制度的-日常的実践は20世紀後半あたりから今日まで続いている。

・マッキノンはこうした恣意的区別を「差異アプローチ(difference approach)」とし、これが適切な男女の顧慮を説明できていないとして批判している。

→「差異アプローチ」は確かに恣意的な性区別を否定し、女性の社会的地位の向上を促すが、そもそもその社会的地位それ自体が男性によって構成された事実を見落としている。

Ex1)消防士

・消防士に就くためには体重や身長といった肉体的条件を満たす必要がある。

→差異アプローチからすれば、これは恣意的区別(差別)ではないため正当化される。

→しかし、そもそも肉体的条件は「消防士の装備」を使えるために設けられたものであり、この「消防士の装備」はもともと男性に向けて作られている。

 

Ex2)家庭内分業

・近代において女性は育児、男性は仕事という役割分担がされてきた。

→差異アプローチからすれば、こちらも合理的区別であるため正当化される。

→しかし、そもそも育児/仕事という区別それ自体が男性社会によって構成されたものであり、ゆえに分業の議論自体が男性の優位性を肯定してしまっている。

→これらの例が示すように、差異アプローチは女性の地位の向上を主張するが、その地位の向上が男性社会の都合によるものである。

・これに対してマッキノンは「支配的アプローチ(dominant approach)」を採用する。

→差異的アプローチがセックス(sex)/ジェンダー(gender)の区別から性的平等を訴えたのに対し、支配的アプローチはいかなる性差にも依存せず性的平等を訴える。

 

・ではこれまで本書に登場した理論家たちの主張は支配的アプローチと両立可能なのだろうか。

→コミュニタリアンの一部は自己目的修正能力を否定するため/自己は共同体に「埋め込まれている」と想定するため、構成主義的立場から支配的アプローチを拒否するだろう。リバタリアンの一部は支配的アプローチを論拠に性別の自己所有権を主張し、逆に差別を正当化するかもしれない。

・リベラルもこれまで無自覚のうちに差異アプローチから性的平等論を展開してきた。

→ただしロールズの原初状態において、差異アプローチにおけるセックス-ジェンダーバイアスは「無知のヴェール」によって無効化される。ゆえに格差原理と支配的アプローチは両立している(ドウォーキンのオークションにおいても同様である)。

→しかし、リベラリズムそれ自体と支配的アプローチが両立可能であるというわけでもない。公私の混同(2節)、ケアの倫理(3節)の二点からリベラリズムは批判される。

 

 

◇第二節 公的なものと私的なもの p.554~570

・支配的アプローチの観点に従えばいかなる性区別も看過されてはならず、ゆえに家族制度も自明視されてはならない。

→他方で古典-現代理論問わずリベラルは平等主義的正義を掲げつつも、それを家族制度に対して適用することを避けてきた。

→ゆえに私的領域としての家族における不正に対する説明を欠いてきたと批判される。

・しかしながら、リベラルは公私の区分を設けており、

A古典リベラルにおける「政治なるもの(the politics)/社会なるもの(the social)」

B現代リベラルにおける「社会なるもの/個人なるもの(the personal)」

の二点から整理される。

 

A 国家と市民社会

・政治哲学における「国家(政治なるもの)/市民社会(社会なるもの)」という対立軸はアリストテレスによって設定されたものであり、アリストテレスは前者に価値を認めている(コンスタン「古代人の自由」)。

・他方で、すでに何度も確認されたように、古典的リベラリズムは後者(福祉、協働、連帯など)に価値を求め、平等主義的正義を主張している。

→しかし、古典的リベラルの「社会なるもの」には家族制度が(驚くべきことに)含まれておらず、ゆえに家父長的イデオロギーが前提化されている。これは支配的アプローチから見ると明らかに不当である。

・ただし、フェミニズムはリベラリズムを(それが家族制度に対して無自覚であったとしても)、男性中心主義的政治を信仰するアリストテレスの主張よりマシであると考えるだろう。

・とはいえ再三になるがリベラルとフェミニズムの「政治/社会」という区別は完全に一致しているわけではない。

→例えばリベラルは「秩序だった社会」が実現されれば、報道や表現の自由も自然と実現されるという楽観的な信条を共有している。

→しかし、フェミニズムからすれば、ポルノグラフティは女性蔑視を助長する典型的文化であり、「表現の自由」として看過されてよいものではない。この点において、リベラリズムは個人の(コミュニタリアンが批判するよう)文化や社会の影響に関して無自覚であるということもできる。

 

B 個人的なものと社会的なもの―プライバシーの権利

・この100年間で政治的/社会的という区別のうち、「社会なるもの」はさらに「社会なるもの/個人なるもの」に区別された。

→もともとロマン主義者によって提起された区別であるが、現代のリベラリズムはこの区別を受容しており、特に「プライバシーの保護」という主張の論拠として用いられる。

→しかし、マッキノンによれば「プライバシーの保護」という観点は、家族におけるDVや家事労働などの隠れ蓑として機能している(プライバシーの保護を訴えることで、家族に対する国家の介入が阻害される)。

→これは「個人(のプライバシー)/家族(のプライバシー)」の差異が混同されているために生じる問題であり、リベラリズムどころか連邦最高裁判所の権利解釈すら間違っているといえる。

・ここ100年の間においてプライバシーという概念は登場しており、その発端においては、家父長制がまだ支配的イデオロギーを形成していたため、こうした混同が生じたと推察される。

 

 

◇第三節 ケアの倫理 p.571~600

・公/私の区別によって、男性と女性はそれぞれ別の道徳を獲得したと主張されることもある。

→男性は合理的、冷静的、公平主義的/女性は直感的、感情的、個別主義的とされる。

・俗流解釈として退ける立場もあるが、ギリガンを起源にしてフェミニズムにおいてこれを重要な区別であると考える潮流がある。

→ギリガンによれば、男性/女性は道徳的感受性の差異によって「異なる声」を聴いており、前者が「正義の倫理(ethics of justice)」/後者は「ケアの倫理(ethics of care)」であるという。

・「ケアの倫理」が公的な議論に適用可能か否かは以前未解決問題であり、以下では「正義の倫理」との三つの相違点からそれを考察する。

A道徳的能力 ― 道徳的原理の学習(正義)vs道徳的感覚の発達(ケア)

B道徳的推論 ― 普遍的原理の追及(正義)vs個別的応答の追及(ケア)

C道徳的概念 ― 権利と公正への着目(正義)vs責任と関係への着目(ケア)

※キムリッカによればこのうちC道徳的概念が「正義 と ケア」の論争において核心をなしており、本書でも詳細に検討される。

 

 

A 道徳的能力

・伝統的に正義論の文脈では、道徳的原理は学習によって次世代に伝達されるものであると考えられてきた(ロールズの公知性-学校教育、ウォルツァーの共同の用意-教育)。

→なぜ道徳的感覚が「家庭において発達するもの」と想定しないのか/家族制度を自明視しているのではないのか

 

B 道徳的推論

・「正義の倫理」において道徳的推論は一般原理によって個別具体例に演繹される/他方で「ケアの倫理」において道徳的推論は個別具体例から一般原理に帰納される

→「ケアの倫理」を主張するギリガンやルディックは前者を特殊性の抽象化として批判しているが、むしろ一般原理があるからこそ個別具体例を考えられるようになるのであり、ゆえにこの主張(対立軸)は不当である。

 

C 道徳的概念

・したがって、問題は一般的/個別的という対立軸ではなく、そもそもの道徳的概念の差異―「権利と公正」(正義)/「責任と関係」(ケア)に求められることになる。

→この根本的な区別は以下の三点から構成されてきた。

①普遍的関係 vs 個別関係

②共通の人間性vs 特異な個別性

③権利の主張 vs 責任の受容

 

[①普遍的関係 vs 個別関係]

・「正義の倫理」がより普遍的な関係性に着目するのに対し、「ケアの倫理」は具体個別的な「関係性のネットワーク」に着目するとされる。

→「関係性のネットワーク」と普遍性の間はスペクトラムであると想定し、前者の拡大が後者に繋がるとも考えられるが、「ケアの倫理」において見解は割れている。

 

[②共通の人間性vs 特異な個別性]

・「正義の倫理」は共通の人間性に訴え、正義を主張するが、「ケアの倫理」からすると、それは特殊な個別性(individually)を見落としている。

・確かにロールズの原初状態において、各人は「無知のヴェール」に包まれており、自己に関する個別性を認識しえないと考えられるかもしれない(自他区別ができない)。

→しかし、ロールズは原初状態の人々を「成員の誰か一人として」(=特殊性)から捉えており、ゆえに「ケアの倫理」に矛盾しない。

 

[③権利の主張 vs 責任の受容]

・ギリガンは「ケアの概念」は「権利の主張」/「正義の概念」は「責任の受容」と結合していると主張したうえで、前者は本質的に自己防衛以上の働きをしてくれないと想定する。

→つまり「権利主張」(ケア)によって生じる「責任」(正義)は相互不干渉のみであるとして批判する。

→本書で確認されたこうした論理(権原理論/ミナキズム)を有する正義論はリバタリアニズムのみである。ゆえに、権利と責任は対立概念ではない。

 

・ただし、男女間において、前者が客観的公正さから責任を考えるのに対し/後者が主観的苦痛にも責任の所在を求めるという差異は観察される。

→例えば、Aという人が「疎外感」を抱えるとき、男性からすればそれはAに責任が帰属されるのに対し、女性からすればAに疎外感を抱えさせた要因に責任が帰属される。

・しかし、このとき男性/女性という区分それ自体が問題の所在を不明瞭にしている。

→問題はAが疎外感を抱いたのが、「Aの選択によるものか/否か」ということであり、前者らならばAに、後者ならばA以外に責任が求められる。

 

・むしろ、個人の選択にすら責任が帰属されないならば、心理的苦痛を理由にいかなる不平等な配分が生じても正当化されてしまう。

 

 

 

【メモと批判】

・この章の堂々巡ってる感はんぱないです。

・あと正義vsケアっていう対立軸があまりに視野矮小過ぎるように思えるのだけど。

→少なくとも平等な顧慮云々の話を抜いた理論形成において、マクロ/ミクロ、構造/相互行為、みたいな対立軸は性差に関わらず提示されているよ社会学で。さらに上で述べられてたような問題はだいたい解決済みだよ。

→「だったら男性の方がルーマン信者に、女性の方がEM信者になりやすいって経験的研究で示してみろよ問題」

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