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ポリティカル・コレクトネスをめぐる現状まとめ

 

歴史や周辺概念とか

"Two terms have risen quickly from obscurity into common campus parlance. 

Microaggressions are small actions or word choices that seem on their face to have no malicious intent but that are thought of as a kind of violence nonetheless. For example, by some campus guidelines, it is a microaggression to ask an Asian American or Latino American “Where were you born?,” because this implies that he or she is not a real American. 

Trigger warnings are alerts that professors are expected to issue if something in a course might cause a strong emotional response. For example, some students have called for warnings that Chinua Achebe’s Things Fall Apart describes racial violence and that F. Scott Fitzgerald’s The Great Gatsby portrays misogyny and physical abuse, so that students who have been previously victimized by racism or domestic violence can choose to avoid these works, which they believe might “trigger” a recurrence of past trauma."
"The codding of  The American Mind" ―クレッグ・ルキアノフ&ジョナサン・ハイト 2016


 

"In sum, microaggression catalogs are a form of social control in which the aggrieved collect and publicize accounts of intercollective offenses, making the case that relatively minor slights are part of a larger pattern of injustice and that those who suffer them are socially marginalized and deserving of sympathy."

"Where Microaggression Come From?" ―ジョナサン・ハイト 2015


 

"Many of psychology’s concepts have undergone semantic shifts in recent years. These conceptual changes follow a consistent trend. Concepts that refer to the negative aspects of human experience and behavior have expanded their meanings so that they now encompass a much broader range of phenomena than before. This expansion takes “horizontal” and “vertical” forms: concepts extend outward to capture qualitatively new phenomena and downward to capture quantitatively less extreme phenomena. The concepts of abuse, bullying, trauma, mental disorder, addiction, and prejudice are examined to illustrate these historical changes. In each case, the concept’s boundary has stretched and its meaning has dilated. A variety of explanations for this pattern of “concept creep” are considered and its implications are explored. I contend that the expansion primarily reflects an ever-increasing sensitivity to harm, reflecting a liberal moral agenda. Its implications are ambivalent, however. Although conceptual change is inevitable and often well motivated, concept creep runs the risk of pathologizing everyday experience and encouraging a sense of virtuous but impotent victimhood."

"The Most of Dangerous Creep on Campus" ―ジョナサン・ハイト 2016


 

"The notion of political correctness came into use among Communists in the 1930s as a semi-humorous reminder that the Party’s interest is to be treated as a reality that ranks above reality itself. Because all progressives, Communists included, claim to be about creating new human realities, they are perpetually at war against nature’s laws and limits. But since reality does not yield, progressives end up pretending that they themselves embody those new realities. Hence, any progressive movement’s nominal goal eventually ends up being subordinated to the urgent, all-important question of the movement’s own power. Because that power is insecure as long as others are able to question the truth of what the progressives say about themselves and the world, progressive movements end up struggling not so much to create the promised new realities as to force people to speak and act as if these were real: as if what is correct politically—i.e., what thoughts serve the party’s interest—were correct factually."
"The Rise of Political Correctness" ―アンジェロ・コデヴィラ 2016


"Most Americans had never heard the phrase “politically correct” before 1990, when a wave of stories began to appear in newspapers and magazines. One of the first and most influential was published in October 1990 by the New York Times reporter Richard Bernstein, who warned – under the headline “The Rising Hegemony of the Politically Correct” – that the country’s universities were threatened by “a growing intolerance, a closing of debate, a pressure to conform”.
Bernstein had recently returned from Berkeley, where he had been reporting on student activism. He wrote that there was an “unofficial ideology of the university”, according to which “a cluster of opinions about race, ecology, feminism, culture and foreign policy defines a kind of ‘correct’ attitude toward the problems of the world”. For instance, “Biodegradable garbage bags get the PC seal of approval. Exxon does not.”
"Political Correctness ;How the Right Invented a Phantom Enemy" ―モイラ・ウェイジェル 2016


「米国を、2つの現象が熱病のように覆っている。1つは PCと略称される『ポリテイカル・コレクトネス』。法律的だけでなく政治的にも正しくなくてはならない、という考え方だ。もう1つはMC。『マルチカルチャリズム』。『多文化主義』である。この 2つは、本質的に違うが、少数派に関係する問題という点では共通しており、この国の多数派である白人男性 や保守派からは苦々しい思いで見られている。」
『政治的公正と多文化主義』―小田隆裕 1993


「ここに指摘されているように PCと 密接な関係をもつMC (Multiculturaism) については、日本社会の国際化の進展という文脈のなかでその検討も多く試みられているが、 PCに関するものはいまだ少ない. ポリテイカル・コレクトネスは、アメリカにおいて1990年代にはいって大きく注目されている考え方である。近代社会は「西欧、白人、男性」を中心に形成され、そのもとで西欧、白人、男性中心の価値観が強化された。 その結果として、人種や性差などにもとづい てさまざまな不利益を被ってきた集団が存在している。このような差別や偏見の基盤になる思想や歴史観の変更を主張するものがPC である。なお、PCはわが国では「政治的妥当性」「政治的適正」「政治的正しさ」 「政治的正当」「政治的潔癖主義」などさまざまな訳語が当てられているが、いまだ定訳はない。この言葉は「『政治的に見て正しい』とする価値判断」を意味し元来はマルクス主義が正統的立場から、異端を判定した時の用語だった。」
『ポリティカル・コレクトネス論争をめぐる研究ノート』―三本松政之・関井友子 1994 pp.1-2


「マイクロアグレッションという用語は、1970 年代に精神科医のピアース (Chester M. Pierce)によって作られた造語である。ピアースは精神科医として人種主義が精神衛生に及ぼす影響を研究するなかで、黒人と白人のコミュニケーションの多くに、白人が無自覚に行う「けなし put downs」があることに注目し、これをマイクロアグレッションと名付けた。ピアースの作業と前後して、特に公民権運動以降の人種主義および偏見(bias)、差別の様態の変化を受けて形を変えたレイシズムを分析するさまざまな視点が提起された。社会は平等であるべきだという理念がある程度共有され(建前としても受け入れざるをえなくなり)、旧来のあからさまな人種主義は、公的に否定されるようになった。しかしながら長期にわたる差別と抑圧の歴史が突然消え去ったわけでは、もちろん、ない。差別や偏見は消滅したのではなく、見えにくくなった。」
『マイクロアグレッション概念の射程』―金友子 2014 p.2


「多文化主義(multiculturalism)ということばは、1970年代の初めにカナダとオーストラリアで新たな国民統合の形態を示す国是として採用されて以来、急速に普及した。もちろん新語であって、英語の辞書(Randam Houseの新版)によれば65年、フランス語の辞書(Le Petit Robertの新版)によれば71年の日付が記されている。この英語とフランスの日付のずれは、多文化主義が英語圏からヨーロッパに広がっていったことを想像させると同時に、地域による多文化主義の差異を予想させる。英語やフランス語の多文化主義は一般的には、ある集団や共同体のなかで複数の文化が共存している状態を指すと同時に、そのような多文化の共存を好ましいと考え積極的にその推進をはかろうとする政策や思想的立場を意味する。」
『グローバル・ポリティクス――世界の再構造化と新しい政治学』―小林誠・遠藤誠治 2000 pp.197-198


 「大学での「ポリティカル・コレクトネス」の問題についていろいろ言うジャーナリストがたくさんいるのだが、言っていることはたいてい古臭いか、どこか的外れに思われるものばかりだ。私が自分が見るところ、ポリティカル・コレクトネスの盛り上がりは90年代初頭に最高水位に達したが、そのあとはずっと凋落傾向にある(少なくとも教員の間での話で学生については別の問題だ)。この認知相違の一因は、不正確な語法にありそうだ。大学外の人々はポリティカル・コレクトネスという言葉の下にたくさんの別のものをまとめてしまうのだが、大学ではそれぞれ別の言葉が使われている。今日ここで書きたいのは、しばしばポリティカル・コレクトネスとされてしまうが、正確には「“じぶん”学」の問題として知られている、ある困った状況、傾向についてだ。」
「『じぶん学』の問題」―ジョセフ・ヒース 2015

 

【まとめ】
○ポリティカル・コレクトネス……発想自体は1930年代のマルクス主義運動にまで遡る。コミュニストによる提唱。注目されるようになったのは1990年代からで、特に90年10月のニューヨークタイムスにてリチャード・バースティンが用いたことで広く知られる概念となった。この時点ではWASP文化に対するマルチカルチュアリズム的立場からの批判という趣が強い。

○マイクロ・アグレッション……1970年代に心理学者のチェスター・ピアースによって提唱。差別的な意図がない発話や振る舞いにおける、無自覚な「けなし」のこと。

○トリガー……「虐待によるトラウマの想起」など、強い感情的反応を誘発しかねない発話ないしは振る舞い。

○コンセプト・クリープ……「マイクロ・アグレッション」や「偏見」、「いじめ」といった概念が元の客観的な定義を離れ、拡大解釈されることで様々な現象に当てはめられるようになること。直訳すれば「概念の一人歩き」。

 


論争例
toggeter/ポリティカル・コレクトネスに関するまとめ
→100件以上まとめられているtwitter上での論争。その多くは俗流フェミニストvsミソジニストによるものであり、その内容自体を検討する価値は低いと思われるが、こうした日常的な論争の文脈においてもPCという概念が(否定的に)用いられている事実は一考に値する。「ポリコレ棒」など。

BDS and the Rise of Post Factual Anthology
→イスラエルに対するBDS運動とそれに対する文化人類学者側の反応のをまとめたもの。

Black Lives Matter is Wrong about Police
→黒人少年が白人警官に射殺された事件を受けアメリカ全土に広がった「ブラック・ライヴス・マター」運動についての考察。統計データなどから同運動の正当性について検討している。

 


考察
○まず普遍的で絶対的、したがって客観的に定義可能な差別表現なるものは存在しない。
→あらゆる表現は後期ウィトゲンシュタインが主張するように、それが埋め込まれている文脈や具体個別の関係性と切り離して考えることはできない。

[ex]ある白人少年が親しい関係にあるヒスパニック系少年に対してはなった"Where were you born?"というなにげない問いかけと、レイシストによるエスニックマイノリティに対する"Where were you born?"という罵声は、一字一句同じ表現でありながら、両者の含意は決定的に異なっている。

○よってある表現を文脈から切り離して、「差別的だ/差別的じゃない」と議論するのはまったくもって馬鹿げているし、不毛である(しかしながら実際にSNS等では毎日のように目にする。)


○表現の文脈性は上述のように相互行為のレヴェルにおいて検討される必要があるが、それがより広範囲に向かうものであるならば、意味論的な志向性に基づく社会システム的な区分も有用かもしれない。以下は一例。

【科学】
 上述の記事でハイトらが危惧しているように、事実すなわち「科学的正しさ」と、道徳すなわち「倫理的正しさ」の混同は危険であり、また科学にとってみればそれは足枷にしかならない。例えば「男女の脳の記憶容量の差異」や「人種ごとの政治的発達の過程」といった研究が、PCによって妨げられてはならないし、仮にその研究結果が差異を肯定するものであっても、PCによる弾圧がなされてはならない。私たちは常に事実と倫理が合致するという暗黙裡の前提に立ちたがるが、現実は必ずしもそうであるとは限らない。

【歴史教育・過去の文化】
 過去の出来事や芸術作品に対し、遡及的にPCを当てはめるのは馬鹿げた話だ(しかしハイトの記事中にはグレート・ギャツビーに対するPCの事例が登場している)。これはナチスのホロコーストが人種差別的であるということを理由に、教科書からその記述を排除するような話である。むしろなぜそういった民族至上主義的な思考様式や、男性優位的な表現が当時の社会において台頭したのか、という知識社会学的な検討をすることに価値が見出されるべきだろう。遡及的なPCは、いわば光源氏やゲーテに小児性愛者のレッテルを貼る愚行に似ている。

【ポルノグラフィティ】
 性的表現をめぐる今日的状況は極めて混沌としているが、基本的にはゾーニングの問題であるように思える。例えばコンビニのエロ本はゾーニングができていないためPC的に批判されて然るべきだし、逆に個人がSNS等にて仲間内で楽しんでいる程度の表現に矛先を向けるのは、喫煙所に自ら入って行って「煙たい!」と怒鳴り散らすようなものだ。
 また「ポルノグラフィティが性差別を助長する」という紋切り型の言説に対しては以下の2つの理由から疑ってかかる必要がある。まず往々にして明確な相関関係が提示されていない。次に(こちらがより重要な論点なのだが)ポルノグラフィティの弾圧は、それによって性的快楽を享受している「全ての」セクシャリティの抑圧につながる。ポルノグラフィティの規制は、「差別者としての男性/被差別者としての女性」という安易な二元論から議論されがちだが、現実にはポルノグラフィティの消費者には男性だけではなく、少なからず女性もいれば、レズビアンもゲイもいる。事実、この点を看過したばかりに、ラディカル・フェミニズムは80年代以降において、クィアやレズビアン・フェミニズムから徹底的に批判されることになったのも周知の事実だろう。セクシャリティそのもの忌避するような俗流フェミニストの主張には、残念ながら説得力がない。
 整理すると、①徹底的なゾーニングを行った上で、②作り手側により多様なセクシャリティを有する社会集団が回るのが良い方向性なのではないだろうか。その意味で「腐女子」と呼ばれる人々には、ポルノグラフィティ規制議論を脱構築してくれるポテンシャルがあるように思える。

【経済活動(広告)】
 こちらも原則的にゾーニングの問題として扱われるべきだろう。したがってテレビCMや政治広報などの不特定多数が目にする広告で差別的表現を用いるのはPCの槍玉にあげられても致し方ないし、規制されてしかるべきだ。問題はネット上のバナーといった、ある程度まで受け手を限定することができる広告である。
 これらをゾーニングできているとするのかについてはそれこそ具体個別的な事例ごとに検討する必要があり、安易な正当化も、PCによる批判も慎重になる必要がある。

【政治】
 政治に「政治的公正さ」が要求されるのは当然のことであり、改めて議論する必要もないように思えるかもしれない。しかしながら、そもそも万人が差別と感じない表現などあるのだろうか。これはいわば普遍的な差別表現とは何かという議論の裏返しであり、冒頭に書いた通りそうした議論をするのは不毛なのだが、政治が市民全員に対する統治権力として機能する限り、この問いは不毛でありながら不可避であるため、非常に厄介なものとなっているといえるだろう。
 またPCを積極的に訴えることの逆機能についても考慮する必要がある。すなわちPCを過剰に訴えることによって、その反動としての「PC疲れ」が形成される恐れがあるということだ。この点についてはジョック・ヤングが90年代末に優れた考察を展開している。今後も「多様性が強調される時代だからこそ、逆説的に排除が生まれる」という構造的問題について真摯に向き合う必要があるだろう。

【宗教】
 伝統的な宗教の一部は往々にして、近代的な人権意識からすればひどく時代遅れに感じさせる教説を持っているものだ。今でも中東の厳格なイスラーム圏国家の女性は外出時にはチャドルをかぶって出かけ、不貞をはたらこうものならば死刑に処せられるし、仏教の教えにも「変成男子」に象徴されるような男性中心主義の意識が深く根付いている。
 しかしながらこれらに対してPCの眼差しを向けることは果たして正当なのだろうか。仮にそれらの宗教がアンシュタルトであったとしても、当人たちがその秩序に対して疑問を持たなかったり、充足しているのであれば、PCはたちまちパターナリズムに成り下がるだろう。
 また地続きの問題として、WASP層の顧慮についても考えなければならない。確かに彼らは既得権を有するマジョリティとして描写されるが、多様性に基づく訴えが彼らの思想信条を傷つけるとき、それでもPC側が是であるといえるのだろうか。先日左派とされる映画監督が「多文化主義的状況において、マジョリティの主張は二の次でもよい」といった旨の発言をしていたが、知性が不調だといわざるを得ない。この主張に従うのであれば、仮に現在マイノリティとされる人々への権利が実現された日、現在のマジョリティは極めて不利な状況に置かれていると想定され、したがって次は彼らの顧慮が訴えられることになり、再び新たな排除を生むという恒常的な闘争状態に至るためである。

【芸術】
 はっきり言って完全に門外漢なので、ここまでで書いたような軽いエッセイ風の分析は避けたい。人類史において、審美性と表現の是非は常に係争点であり続けたからだ。京都私立芸術大学の現代アート展においてデリヘルを呼んだインスタレーション(2016)の問題や、「ブラックボックス展」と称されるイベントでの痴漢騒動(2017)なども記憶に新しい(これらに関してはPC以前の、もっと低い次元での話であるように思えるが)。
 大学時代の指導教官が言っていたが(というか今も言っているが)、やはり「アート」という言葉が、何か表現に特別な「免罪符」を与えてくれる魔法の呪文のように受容されている現状があるのは確かだろう。私はこの言葉に厳密な定義を与えれるほど勉強をしてこなかったし、そもそも厳密な定義なるものがあるか否かすら定かではない。しかしながらそれがあらゆる表現を正当化してくれるタテマエではないと確信している。他方で表現に明確な社会に対する問題意識があり、かつ作り手に批判に対する覚悟があるのであれば、それがいかにラディカルなものであったとしても、PCによって排されるのはいささか酷であるようにも思える。芸術は、上述の例の中で最もそれが配置されている文脈性が問われる領分であるといえるだろう。
 なおPCと表現の是非を考えるための良質な文献として、少し古いがChim↑Pomの『なぜ広島の空を「ピカッ」とさせてはいけないのか』(2009)がある。
 

 

感想とか
 自分は明確にリバタリアン的な意味での自由主義者であり、したがって「正義の強制」みたいな文言には反吐が出るような立場の人間なので、PCに関してもいわゆる「PC疲れ」をしていた。特に日夜、SNSで繰り広げられているクソフェミvsミソジニストのうんこの投げあいには本当に心の底から辟易している。このメモにもそういうクソみたいな論争に飲み込まれないようにするために執筆した、という意図がありんす。
 (嫌いな)ロールズさんの言葉を借りれば、現代社会は「穏当な多元的な事実」がもはや所与であるし、(嫌いな)ハーバーマスさんの言葉を借りれば「ポスト慣習的」とも形容できるし、(嫌いな)ポモ一派の言葉を借りれば「大きな物語の凋落」した時代であるともいえる。一言でいえば「統一的・単一的な正しさはもはや想定できない」という今日的状況においてPCの正当性をめぐる議論はますます過熱すると容易に想像がつくし、ちょうどこれを書いている2017年8月現在、アメリカ全土を分断しつつある白人至上主義の対立を見るに、ますます肯定派と反対派の物理的接触も増えていくだろう。あんまり関わらない程度に遠巻きに眺めておきたいです。

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