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Russell,Bertrand 1905→1986 「指示について」

バートランド・ラッセル 1905→1986 『指示について』

 

○指示句は以下のような区別が可能である。

(1)ある対象を指示するが、その対象がいかなるものも指示しないもの(空集合)

ex.)現在のフランス王

 

(2)ある一つの対象を明示的に指示するもの。

ex.)現在のイギリス王

 

(3)不特定の対象を指示するもの。

ex.)ある一人の人

 

○またさらに、指示における「直接的に見知りしているもの(acquaintance)」/「その対象についての知識(acknowledge about)」の区別も混同されてはならない。

→例えば「他者の心」のように、直接的に見知り・表象できないものであっても、指示句によってそれに関する知識は獲得することができる。

 

○本稿の構成はこうした指示の問題を巡って、

①まず自身の(ラッセルの)理論を敷衍し、

②次にマイノングとフレーゲの理論における問題点の検討をする。

③最後にラッセルの理論の優位な点と哲学的帰結を明らかにする。

 

 

[ラッセルの理論]

○ラッセルの理論において、変項(variable)と命題関数(function)によって命題は構成される。そしてこの形式に従うと、以下の3つの指示句の記述がありえる(※以降のところでの諸命題の論理記述子と量的記述子への変換はラッセルによるものではない)。

(1)命題「全てのxはCである」は真である (∀x)C(x)

 

(2)命題「全てのxはCである」は偽である ¬[(∀x)C(x)]

 

(3)命題「一部のxはCである」は真である ¬[(∀x)¬C(x)]  or  (∃x)C(x)

→不確定記述

→これらはこれ以上の定義的遡行が不可能である(1)の全称命題によって規定される。そしてこのことが、(一般に考えられている事実とは異なり)「指示句単独では意味を成さない」/「指示句を言語表現として含む命題が意味を成す」という極めて重要な帰結をもたらす。

 

ex.1)事実「私はある人に出会った」は、命題「私はxに出会った。そしてxは人間である。」(∃x)P(x)∧Q(x)に置換できる

→この命題において、指示句「ある人(∃x)」が単独では意味を成していない。指示句「ある人」は言語表現として本命題に登場して初めて意味を構成する。

ex.2)事実「全ての人々は死ぬ」は、命題「もしxが人間ならば、xは死ぬ」(∀x)P(x)⊃D(x)に置換できる。

→この命題においても「全ての人(∀x)」は単独では意味を構成していない。

 

○定冠詞(the)を含む指示句は特に困難なものである(※超絶有名なラッセルの記述理論はコレのこと)。

→命題において定冠詞が用いられる時、指示の対象は「一意的に規定された対象(一意性)」かつ「それ以外の対象を排する対象(排他性)」である「確定記述」として現れる。

ex.)命題「チャールズ二世の父(the father of CharlesⅡ)は処刑された」C(x)は確定記述「チャールズ二世の父」によって一意性と排他性が含意されているため、この条件を満たさない変項xが代入されることを退けることになる。

○上記より他の記述によって対象が確定されるのであれば(すなわち確定記述ならば)、定冠詞(the)ではなくて単に冠詞(a)でも命題は意味を成す。つまり定冠詞においても指示句は依然として、独立したものではない。

 

 

[マイノングの問題点]

○上述の理論の正当性は、逆に「言語表現である指示句が単独で意味を構成すると見なす理論」の反証によって支えられる。そうした(問題がある方の)理論の一つが、マイノングによるものである。

 

○マイノングによれば、「四角い丸」や「木でできた鉄」といった本来的に有り得ない指示句は、その「存立」こそ認められないが、言語表現として不当でないならば「対象」としては認められるという。

→これは明らかに困難を含む見解であり、特に矛盾律に抵触する(「四角い丸は丸いと主張されるが、丸くないとも主張される」「木でできた鉄は鉄であると主張されるが、木であるとも主張する」など)。

 

 

[フレーゲの問題点]

○マイノングの残した課題は、フレーゲによって解決された。

→フレーゲは指示句が「内包的意味」/「外延」の二つの側面を有するとして定義する。

 

○例えば概念「20世紀最初における太陽系の状態」において、内包は「太陽系」や「20世紀」など様々ある一方で、外延は「ある一点の空間(20世紀最初の宇宙における太陽系)」だけであると見なすことができる。

○また命題「スコットはウェイヴァリーの著者である」は異なる内包を有する外延を同一視していることになる。

 

○困難は以下のケースにおいて生じる。

命題「イギリス王はハゲ頭である。」は指示句「イギリス王」の内包についてではなく、内包が指示する現実の対象についての命題であると理解される。

 

命題「フランス王はハゲ頭である。」は同様に指示句「フランス王」についての内包ではなく、内包が指示する現実の対象についての命題だと解されるだろう。

→しかし現実の対象として「フランス王」など存在せず、内包的「意味」はあっても、外延は認められない。

 

○また命題「もしuが単元クラスから成るならば、そのuはuである(“the” u is “a” u )。」において、確定記述がすでにあるため(単元クラスから成るu)、定冠詞によって指示される“u”は、冠詞の“u”と同義である。

→ゆえにここから確定記述を取り除けば、“the u”は外延を持たず、指示の対象として成立しなくなる。

 

○ここまでを整理すると、2つの方向性があることがわかる。すなわち「外延が無いような指示句においても無理やり外延を用意する方法」と「外延とは指示句を含む命題に必ず関係するという見解を放棄する方法」の2つ。

→前者はマイノングによるもので、これは矛盾律に至るため明らかな誤謬を含んでいるとのことだった。後者はフレーゲによる主張であり、これは謬計に基づいているとまでは言い切れないが、指示句が外延/内包を有するという発想は、外延など存在しない概念(「現在のフランス王」など)と対峙した際、やはり不合理な帰結を導出してしまう。

 

 

[3つの難問]

(1)もしaとbが同一であるならば、一方が真であるならばもう他方を代入しても真である(同一律)。

→ジョージ4世は「ウェイヴァリーの著者がスコットであった」を知りたかった。この命題における「ウェイヴァリーの著者」を「スコット」に置換しても、すなわち「スコットはウェイヴァリーの著者である」としても命題は成立する。しかしながら、指示句「ウェイヴァリーの著者」の命題における作用域が不明瞭である。

 

(2)論理学において「AはBである」か「AはBでない」のどちらかが必ず真になる(排中律)。

→命題「フランス王はハゲ頭である」もしくは命題「フランス王はハゲ頭でない」は必ずどちらかが真で無ければならないが、概念「ハゲ頭である」と概念「ハゲ頭でない」の外延を端から列挙したところで、当の「フランス王」が空集合であるため、命題が成立しない。

 

(3)命題「AとBが異なっている」は命題「AとBの間には差異がある」に置換できる。

→さらに命題「AとBの間に差異がある」が偽であるとき、この命題は¬「AとBの差異がある」となる。しかしながら、「差異がある」ということが否定されるということは、差異が存在しないということが含意されており、ゆえに「存在しないはずの差異を命題の中で存在論的に容認する」という自己矛盾が生じている。

→この難問に対してラッセルの理論によって解答を与えていく。

 

○一般に外延に対する内包を表現する時には括弧によって当の概念を囲むのが通例である。すなわち、

[外延]グレイの悲歌の一行目はある命題を述べている。

 

[内包]「グレイの悲歌の一行目」はある命題を述べている。

→ここで指示句をCとし、Cと「C」の間にある差異を検討してみたい。なお単にCが現れている場合、それは外延を意味し/「C」の場合は命題において内包的意味に触れられているとする。

→先述の通り生じる問題としては「内包と外延の関連性を保ちつつ、かつそれが同一にならないようにすることは両立でないこと」と「内包的意味は指示句による以外には捉えられないということ」である。

 

○この問題は以下のように生じる。

(1)記述「Cの内包的意味」はCという外延の内包的意味を指示する。

→先の例ならば「グレイの悲歌の一行目の内包的意味」とは「「晩鐘が夕暮れの時を知らせる」の内包的意味」を指示するのであって、「「グレイの悲歌の一行目」の内包的意味」とは異なっている。

 

(2)逆に「Cの外延」としても、Cの外延それ自体ではなく、それによって指示される異なる対象が得られてしまう。

→Cを「グレイの悲歌の一行目」と置くと、Cの外延が「晩鐘が夕暮れの時を知らせる」となってしまい、当初の目的通り外延として「グレイの悲歌の一行目」が置けないという矛盾に陥る。

→これらの問題は、指示句を命題に入れると、否が応にも外延についての命題になってしまう事態(後者)、そして「Cの内包的意味」を主語としようとすると、外延の内包的意味が主語となってしまう事態(前者)を意味している。

→すなわち内包もまた外延を持ち、それ以外には内包と外延の両方を持つ複合的表現など存在しえないということである。つまりフレーゲ流の内包/外延の区別はこうした難問を解決できない。

 

 

[ラッセルの解法]

(1)ジョージ四世の関心問題(同一律と作用域の問題)

○ラッセルの理論においては、指示句は命題から独立して現れるということはないということが肝心だった。

→命題「ウェイヴァリーの著者はスコットだった」は、「ウェイヴァリーの著者は一人だった。その一人がスコットだった」に置換できる。ゆえに指示句C(ウェイヴァリーの著者)と変項x(スコット)が同一である際、xは句「C」の外延であることになる。また「C」とは内包ではなく、単に句に過ぎないのである。

○よってジョージ四世の関心問題にも今や容易に解答が与えられる。

→命題「スコットはウェイヴァリーの著者だった」において、指示句「ウェイヴァリーの著者」はいかなる内包的意味も有さない。それがゆえに、外延である「スコット」を代入しても問題が生じない。

 

○この同一律と代入に関しては、指示句の一次的/二次的という区別が有用である。

→「ジョージ四世はスコットがウェイヴァリーの著者であるか否か知りたがっていた」は、以下の二通りの解釈がありえる。

(ⅰ)「ジョージ四世は、ただ一人の人がウェイヴァリーを書き、しかもその人がスコットだったということを知りたがっていた」とする解釈。

→指示句「ウェイヴァリーの著者」が命題全体に作用する

 

(ⅱ)「ジョージ四世はウェイヴァリーを実際に書いた人物について、それがスコットであるということを知りたがっていた」とする解釈。

→指示句「ウェイヴァリーの著者」が命題の前半にしか作用しない。

→前者において指示句「ウェイヴァリーの著者」は一次的に現れており、後者においては二次的に現れている。

→言語表現的には曖昧な区別であるが、二次的な指示句の現れ方は「考察されている命題ではなく、考察されている命題の構成要素となっている命題pにおいて、その句が現れる」という特徴がある。つまり一次的指示句が命題全体に作用域が及ぶのに対し、二次的指示句は命題の一部にしか作用域が及ばない。

 

 

(2)フランス王のハゲ頭問題(存在しない対象の排中律問題)

○フランス王は存在しないため、指示句が一切の対象をも示さないことが問題となっていた。しかしこちらに対しても、一次的/二次的な区別を導入すれば、解答を導くことができる。

→先の問題は「ただ一つの対象Cが性質Fと性質φを有する」とき、性質Fが一切の項に属さないか、いくつかの逆に項に属するならば、性質φはその値に関わらず偽となるということにあった。それゆえ命題「現在のフランス王はハゲ頭である」は偽である。他方で命題「現在のフランス王はハゲ頭でない」は、

[一次的解釈]「いまフランス王であって、ハゲ頭でないようなものが存在する」ならば偽

 

[二次的解釈]「いまフランス王でありハゲ頭であるようなものが存在する、は偽である」ならば真である。

→整理すると、存在しない対象が一次的に現れる命題は全て偽だが、二次的に現れるのであれば真である。

 

 

(3)AとBの差異問題(存在しない差異を指示できない問題)

○命題「AとBに差異がある」が真であるならば、AとB間の差異の存在が肯定される/偽であるならば、AとB間の差異の存在は否定される。また、より一般化するならば、命題「aRb」は関係Rの肯定/命題「¬aRb」は関係Rの否定となる。

→肯定される場合、指示句はRを指示するが/否定される場合、指示句は内容を持たない。

 

○そして内容を持たない指示句(否定された差異や関係R、あるいは「アポロン」「ハムレット」「四角い丸」などの名辞)は、先述の通り一次的に現れる命題は偽、二次的に現れる命題は真となる。

 

 

[最後に]

○これら理論の重要な帰結として、「直接の見知りをせず、指示句によりのみその定義に接近できる対象」(「他者の心」や神、四角い丸、地球の周りを公転する太陽)が存在するとき、この指示句が含まれる命題は、実際にこの対象を構成要素として命題に含まず/代わりにその指示句を形成する単語を命題に含んでいるに過ぎないという事実がもたらされる。

換言すれば思惟できる(ウィトゲンシュタインのいう「語りえるもの」)命題は、見知りした対象によって構成される命題である。

→もしも「語りえぬもの」が命題において表出するのであれば、その命題が真である以上、指示句としては二次的に表出している。

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