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Hart,Herbert 1961→2014 『法の概念

H.L.A.ハート 1961→2014 『法の概念』

 

第Ⅰ章 執拗な問いかけ p.21-47

第1節 法理論の難解さ p.21-28

 「人間社会に関する問いのうちでも、「法とは何か」という問いほど、執拗に問い続けられ、しかも本格的な論者により、多様で、奇妙で、逆説的でさえある仕方で応えられてきた問いはない。」p.21

→満足に教育を受けている人ならば、最低限の法に関する前提(例えば「刑罰をもって特定の行為を禁ずるルール」など)を答えることができるはずだが、なぜか法の専門家による論争上のテーマであり続けている。

 

〇法に関する前提を踏まえた上で、「法とは何か」という問いへ回答ができない理由としては、以下のようなものを想定できる。

①例えば国際法には議会が存在しないが、このように標準的な法の形態からはいくつか乖離している点がある法秩序の存在。

 

②一般に明確な対象と境界にある対象の区別は困難であること(ロングヘアは「髪がある人」、スキンヘッドは「禿」と言えても、頭皮がむき出しになりながらも少しずつ髪がある人は、どちらの集合に内包されるか断言できない。)

 

 

第2節 繰り返される三つの論点 p.29-39

「ここでは繰り返し議論される三つの主要な論点を区別することとし、後に、なぜこれらが一緒になって法の定義を要求したり、「法とは何か」とか、あるいはさらに曖昧に定式化された「法の性質ないし本質とは何か」という問いかけへの回答を要求することへと結びついたか見ることにしよう」p.29

〇最初の2つの論点は「いつ、どこでも、法に一般的に当てはまる最も顕著な特質は、法のあるところ、特定の人間の行動がもはや自由に選択可能なものではなく、何らかの意味で義務的(obligatory)なものになることである」p.29ということに関する。

①イギリスの法哲学に最も影響を与えてきたオースティンによれば、法の本質は「あることをしなければ不快な帰結が待っている」という強制力にある。しかし、これは威嚇を支えとする命令とはどのように異なるのだろうか。

 

②法は強制と強く結びつくように、道徳とも強い結びつきがあるとされる。また両者を橋渡しするものとして、正義が考えられる。その明白な関連性について。

 

 

③法がルールであるということは疑う余地がないとしたうえで、そもそもルールとは何か、ルールが存在するとはどういうことだろうか。

→法はフィクションだが、諸個人の行動を規制する力として作用するといった考えがある。こうした類型の批判においては、「社会的ルールと行動の習慣的一致との区別に関するさらなる解明が必要であることを示す。この区別は法を理解する上で、決定的に重要であり、本書の前半部分の多くはこの問題とかかわっている。」pp.37-38

 

 

第3節 定義 p.40-47

 「つまり次の三つが、繰り返される論点である。法は、威嚇に支えられた命令とはどのように異なり、それとどう関連するのか。法的義務は、道徳的義務とはどのように異なり、それとどう関連するのか。ルールとは何であり、どの程度まで法はルールに関わる問題だといえるか。」p.40

→他の概念と境界を設ける、すなわち法の定義のためにこの3つの論点が必要である。

 

〇定義はある集合を含むより広い集合――類(genus)があり、その属性が明らかで、その外延として位置づけられるとき、他の概念による説明がスムーズに行える(例えば象は「花が長くて、耳が大きく、灰色で硬い肌を持つ『生物』」といった具合に)。

→法の場合は行為のルール(rules of behavior)が第一候補にあるが、先述の通りルールという概念が法概念と同じくらい茫漠としている。

 

〇定義において「ある一般的な用語の具体的事例は、しばしば単純な定義が想定するのとはきわめて異なった仕方で結びついていることである。」p.44

→例えば「足foot」について語るとき、山の「麓foot」についても言及する。

〇また「具体的事例は核心的な要素にそれぞれ異なる仕方で結び付いているかも知れない」p.44

→「健康的healthy」は「人」だけでなく、「顔色」や「朝の運動」とも概念的な結びつきを見せるかもしれない。

※後者の議論はウィトゲンシュタインのいう概念の論理文法。本書のハートは枠組みとして分析哲学を使っている。

 

 

第Ⅱ章 法、指令、命令 p.47-59

第1節 命令法の各種 p.47-51

〇ある人が別のある人に「こういうことをしてほしい/しないでほしい」という願望を表出する局面は、社会生活上において多々ある。そして、「願望の相手である人物が実際に表出された願望通りに行動すべきだとの意図をもってなされるとき、英語やそのほかの言語においては命令法(imperative mode)という特殊な表現形態[…]をとることが通常である。」p.48

〇例えばあるギャングが銀行強盗に入り、受付に金を出すように脅迫したとする。このときギャングは受付に「命令」を出したとは言語表現上、ひっかかるものがある。

→命令は軍隊のように正当な立場の者による願望の表出であり、このときギャングの立場には、そうした正当性は認められないため。

 

〇オースティンは法的性格として、命令法の外延である「指令(commands)を挙げる。

→彼はこの指令という言葉で、先のギャングのような威嚇を後ろ盾とした願望表出を指示したが、これは明らかにミスリーディングだろう。「指令が発せられるとき、その不服従に対して害悪を加えるという潜在的威嚇がなされる必要はない」p.50

 

 

第2節 強制的命令としての法 p.51-59

〇また法的性格が命令(指令)ではないことは、以下の3つの強力な論拠によって反駁することが可能である。

①「法的規則は一次的には――それだけというわけではないが――こうした二重の意味で一般的な指示による規則である。」p.52

→オースティンらは法の「名宛人とする(addressed)」という表現を好んで用いるが、厳密にいえばこうした一対一の法的指示は現実にはあり得ない。

「こうした点で法を制定することは、人々に何かするよう命ずることとは異なっており、命令というこの単純な観念を法のモデルとして使う際には、この違いに留意する必要がる。」p.54

 

②「ギャングは窓口掛に対して、時を超えて一定の人々によって従われるべき継続的命令(standing order)を発しているわけではない。」p.55

→法における継続性は決して看過されてはならない特性であり、「ギャングの指示」のような一過的なものでは決してないことが理解される必要がある。

 「この一般的な服従という事実にこそ、法とギャングの命令という当初の単純な状況との決定的違いがある。ある人が他の人に対して単に一時的に優位に立つことは、相対的に見て継続的で安定的な性格を有する法とは対極だと考えるのが自然である。」p.56

 

③「現代の法秩序は、当該領域内におけるある種の最高性(supremacy)と他の法秩序からの独立性(independence)という、われわれの単純なモデルにはまだ盛り込められていない特性を帯びている。」p.57

→国会は誰に対しても服従する習慣がなく、下位の立法者には法の限界を順守する必要がること、そして例えばフランス国内法にイギリスに暮らす国民が従う道理がないということ2点が抜け落ちている。

 

 

第Ⅲ章 法の多様性 p.60-95

第1節 法の内容 p.62-84

〇前章の単純化されたモデルと、イギリス法などを比較してみると、さらに①法の内容(content)にかかわるもの、②法の成立様式(mode of origin)にかかわるもの、③法の適用範囲(range of application)にかかわるものの3つの反論がありえる。

→本章ではこれを順に検討していく。

 

〇まず法が命令法的であるとした際に抜け落ちてしまう視点として、私人に法的に付与される権限についてのものが挙げられる。

「契約、遺言、婚姻等により他者との法的関係を形成するべく個人に付与される権限は、法が社会生活になし得る大きな貢献の一つである。すべての法を威嚇に支えられた命令として描くことはこの重要な法の特質をわかりにくくする。」p.65

「権限を越えた裁判も上位裁判所によって破棄されるまでは公益上の観点から有効とされるという点を除けば、権限に関するルールの遵守・不遵守は、私人による法的権限の有効な行使の条件を定めるルールの遵守・不遵守と変わるところはない。こうしたルールとそれに適合する行為との関係を、命令に類似した刑事放棄の事例に適切な「服従する」「服従しない」ということばで言い表すことは不適切である。」p.67

→私人の権限を保証する法があることからも明らかなよう、法が単一で単純な類型に還元できるという考えは極めて視野狭窄な先入観によるものである。

 

〇しかしながら上述を踏まえた上でも、私人の権限に関する法は究極的には「命令」に還元できるとする立場もあり、その反論に応答する必要がある。

①「権限行使の重要な条件が満たされないときに帰結する「無効性(nullity)」に着目する。それは、刑事法に結びつけられた刑罰と同様、ルール違背に対して法が科す警告された害悪もしくは制裁だと主張される。」p.71

→ある権限行使が法にそぐわなかった、すなわち無効になったときに、それが「害悪」であるとする人はおそらくほとんどいないだろう。単に法的案件として顕在化しなかっただけであり、それはちょうど「ラグビーのゴールキックのような直接得点に関わる行為以外のプレイを抑圧しようと考えるようなものである。」p.73

 

②「権限付与ルールが強制的命令の一種であるということを論証しようとするのではなく、それが「法」としての独立した身分を持つことを否定する。「法」ということばの意味を狭めることで、権限付与ルールを法から排除しようとしているのである。」p.74

→ラディカルで強固な反論ではあるが、なぜ刑法が本質的な「法」であるか妥当な根拠を見出す必要があるし、仮にその根拠があるとしても、ゲームのルールの本質的ではない部分をすべて排除すると言っているようなもので、その機能をむしろ分かりにくくしている。

「こうしたルールを、義務を賦課するルールの単なる部分あるいは断片として理解することは、私的な領域でそうである以上に、法および法の枠内で可能な活動の特質を曖昧にすることになる。」p.84

 

 

第2節 適用範囲 p.84-87

〇制定法は威嚇に支えられた命令とは異なり、特定個人に向いたものではない。

「制定法自体には、他者に向けられる性格が内在してはいない。これは、上述の単純なモデルの影響のため、法を超越する者が服従する者に対して下すものとして法を捉えるときのみ、不思議に見える現象である。」p.85

→したがって立法におけるトップダウンの図式は「公的身分にある立法者と私的身分にある立法者という二つの人格を観念的に区別することによってのみ、現実と折り合いを付けることができる。」p.85

 

〇仮に「命令」ではなく「約束」に例えるならば、より法の特質のより多くを表現できる。

→約束は自らに義務を課し、他者に権利を付与する実践であり、立法者が自己拘束力を発揮し、市民に「権限」を認めることとちょうど同じである。そしてそれは、公的身分/私的身分という区別を必要とはしない。

 

 

第3節 成立様式 p.88-95

〇ここまで見てきた制定法は確かに強制的命令と似ている部分もあった。

 「立法に参与する者が立法手続きに意図的に関わることは、命令を下す者がその意図を認識させ、それに服従するよう意識してことばを用いることと同様である。」p.88

→こうした主張と最も顕著に対立するのは「慣習(custom)」の議論である。論点は以下の2つに整理できる。

①慣習それ自体は法か否か……例えば「女性は帽子を着用する」という慣習があったとしても、それ自体は法ではない。つまり「慣習が法となるのは、それが特定の法秩序により、法として「認定されるrecognized」ことによってのみである。」p.88

 

②法的制定(regal recognition)とは何か……「裁判所が慣習を適用し、それに基づいて判決を下し、強行(enforce)したとき、はじめて慣習上のルールは法として認定される。」pp.89-90

 

〇慣習の法に関するこうした説明には以下の2つの反論が想定できる。

[1]「裁判において適用されない限り、慣習は法としての身分は持たない」とは必ずしも言えない。制定法も適用されなければ法ではないのだろうか。

→この反論は「裁判所にとって制定法と慣習は同じ身分にあるという考え方は、裁判所によって適用される以前も、制定法はすでに「命令されて」いるが慣習はそうではない、という理由で拒絶される。」p.92

 

 

[2]慣習が顧みられて初めて法であるとしても、主権者の意思の黙示の反映として慣習を捉えることは可能なのではないだろうか。

→主権者にこうした知識が帰せられることはないため、この反論も適切ではない。

 

 「そうだとすると、慣習の法としての認定をどこに求めることになるのか。慣習を個別の事件に適用する裁判所の判決や最高の立法権の黙示の命令に求めることができないとすると、慣習が法である根拠はどこにあるのか。いかにして制定法と同様、裁判所の適用前に法になることができるのか。」pp.93-94

→次章で確認される。法には主権者が必ず一緒に存在し、その明示・黙示の一般的命令のみが法であるという学説を検討する必要がある。

 

 

第Ⅳ章 主権者と臣民 p.96-137

〇威嚇を伴う強制的命令というモデルを検討する中で、これまで一般的法令を出す主権者(sovereign)の概念への言及を留保してきた。

「主権者とは、当該社会の大多数の人々が服従する習慣があるとともに、それ自身は他の誰に対しても服従する習慣のない人または人々である。」p.96

→法的命令を出し、何にも服従しない主権者/服従する習慣のある臣民がいるという一般理論が導出できる。ここで重要な点は以下の2点。

①「主権者の法が適用される人々すべてに要求される服従の習慣(habit)という観念」p.97

→この習慣が[a]立法権の持続性(continuity)と[b]主権者が死滅した後の法の持続性(persistence)を説明しうるかということが、本章で明らかにされる。

 

②「主権者は他者に対して法を創設し、法的義務を課し、制限を加える一方、彼自身は法的に制限されず、制限されえない。」p.97

→この地位が法秩序の説明に必要なのか、また服従の習慣というモデルでこの法的制限の有無は正当化できるのか、本章で明らかになる。

 

 

第1節 服従の習慣と法の継続性 p.98-113

〇この節は法への「服従の一般的習慣」を明らかにするために、「服従」と「習慣」という2つの概念を敷衍していく。

[ex1]レックス王がある法令を出したとする。この時、彼の法令が必ずしもすべて臣民によって習慣的に獲得されるとは限らない。

→「車は左側を走行する」といったものはまだしも、例えば納税の義務のように強い嗜好に反する法は、通常の場合では無意識に行われる習慣にはならない。

[ex2]レックス王が死んだことで退位し、その息子であるレックス2世が統治を行うことになった。この時、臣民はレックス1世にたいする服従の習慣が認められたとはいえ、レックス2世にはそうした習慣を持っていない。すると一時的に法が存在しない「中断状態」が訪れてしまう。

→正統に権限を継承するというルールが法令として発せられることで、慣習が構成される前に、レックス2世には権限が認められることになる。

 

〇この2例からわかるのは、①ある立法者への服従の習慣だけでは、次の立法者が命令を発する権利が認められず、また②旧立法者に対する服従の習慣だけでは、新たな立法者が服従される蓋然性を確定できないということである。

→したがって、「旧立法者の治世下において、社会のどこかに塾中の習慣として記述される以上の複雑で一般的な社会慣行(social practice)があったはずである。つまり、新たな立法者が当然継承する権利があるとのルールが受容されていたに違いない。」p.105

 

〇こうした社会的なルールと習慣の差異は以下の3点に求められる。

①単に習慣があるというとき、人々の行動が事実上一致すればよい。

→いつもの行動からの違背は、取り立てて騒がれるものでも、ましてや厳罰対象になるわけでもない。

 

②ルールの場合、基準となる行動からの違背には、批判すべき十分な理由(good reason)が存在する。逸脱への批判はそれだけで正統であると考えられる。

 

③習慣が世間に広まるとき、それは単に当該集団において観察可能な事実にとどまるのに対し、「社会生活のルールがあると言い得るためには、少なくとも当該行動を集団全体が従うべき一般的基準だとみなす者がいなければならない。」p.105

→習慣のように「外的側面(external aspect)」のみならず、「それは法である」ということが内面化――成員の「内的側面(internal aspect)」に共有されている必要がある。

※これクソ大切。ドゥウォーキンも『権利論』で取り上げていた。

→レックス1世の時点ですでに、従属する臣民が法をルールであると見なしていること――内的側面にルールがあることによって、レックス2世の立法行為の権限が認められる。

 

「レックス1世と2世の単純な法的世界を検討することで、多くの法秩序を特徴づける立法権の継続性がルールの受容という社会慣行の形態に依存しており、今まで述べてきたように、単なる服従の習慣という事実とは異なることは十分に説明できたと思う。」p.110

 

〇ここまでを整理すると、

①立法者交替などによる継続性および立法権限は「規範的でない」習慣によっては保証することができない。

②現在の立法者そして次の立法者への服従を保証するのは、習慣ではなく社会的なルールである。

 

 

第2節 法の持続性 p.113-118

〇法の持続性の問題は、以下のような逸話に顕著に表れている。

[ex3]魔女狩りが盛んだった中世において施行された「魔女禁止法」は、20世紀のイングランドでも法文の中に残り続けている。

→つまり「ここでの問題はとっくの昔に死んでしまったかつての立法者の作った法が、もはや彼に服従する習慣があるとは言えない社会にとっていまだ法だとなぜ言い得るかである。」p.113

〇この問題の解答は継続性に関わる議論の真逆である。すなわち、立法者の生存にかかわらず、一度社会的ルールとして承認されてしまっているからである。

 

 

第3節 立法権の法的制限 p.119-126

〇先述の通り主権者の立法権には法的制限がない。これはつまり「法の存する社会には必ず主権者がいると言っている。」ただし「この理論は主権者の権限には何の制限もないと主張しているわけではなく、法的制限がないと主張するのみである。」p.120

→世論や過激派の運動などによっての制限は十分に受ける。

〇主権者の想定によって以下のような理論上の利点がある。

①彼の一般的命令が当該社会の法であるとすぐにわかる。

→慣習や社会的ルールと区別がつきやすい。

②独立した法秩序がそこにあるのか、包括的な秩序に含まれる下位の秩序があるのか、すぐに判定することができる。

 

〇しかし、例えば立憲主義的理念によって立法権が制限されるとき、「主権者は法的には無制限である」という命題と矛盾するのではないだろうか。

→当該領域内におけるあらゆる立法を廃止できるという意味では、自由で無制限である。

「憲法は法的義務を課すのではなく、法的無制限(legal disabilities)を課している。ここでの「制限」は義務を主張するのではなく、法的権限の不在を意味している。」p.124

 

 

第4節 立法府の背後の主権者 p.127-137

〇多くの先進国家がそうであるよう、「有権者こそがこの理論の主張する、あらゆる法的制限から自由な主権者である」p.131※つまり国民主権とした際、明らかに当初の単純な観念は変容せざるを得ない。

 「ここでは社会の「大部分」が彼ら自身に習慣的に服従していると言っていることになる。かくして、法的制限なく命令を下す主権者と、習慣的服従する臣民という2つに区分された当初の明確な社会のイメージは、大部分の人々が大部分ないしすべての人々が下す命令に従う社会というぼやけたイメージにとってかわられる。」p.133

 

〇では有権者団が「公的身分において」主権者たりえるとき、彼らはいかなるルールに従うのだろうか。

→こうしたルールは主権者を構成するものであり、したがって単に外的な事柄として観察可能な習慣ではないことは明らかである。

 「必要なのは、特定の手続きを遵守しつつ特定の仕方で立法するよう資格づけられた人々に権限を――制限の有無にかかわらず――付与するルールという観念である。」p.135

 

 

第Ⅴ章 一次ルール、二次ルールの組み合わせとしての法 p.138-166

第1節 新たなスタート p.138-142

〇これまで見てきた3章は失敗の記録であり、本章からは新しいスタートをきる必要がある。失敗の根本原因は以下の事実に還元できる。

 「この理論を構成している諸要素、つまり、命令、服従、習慣、威嚇が、ルールというそれなしには法の最も初歩的な形態をも解明しえない観念を含んでおらず、またその組み合わせによっても生み出し得ない点にある。」p.140

→したがってルールを導入することが当面の課題であり、そのルールは一次的/二次的の組み合わせによる。

一次的ルール……義務を課す。物理的な動きや変化を伴う行為にかかわる。

 

二次的ルール……行使の権限の付与。義務や責務の創設や変容をもたらす作用を定める。

 

 

第2節 責務の観念 p.142-155

〇まず2章で示した銀行強盗の例を考える。オースティンはこれを命令法の一類型と考えたが、「誰かが何かをするよう強制されたことと、彼がそうする責務を負っていたことと間には、説明されるべき相違がある。」p.143

→銀行強盗の例は前者の「ある行為がなされた際の信念や動機に言及する心理学的言明」としての強制が働いている。後者はより以下の諸要素から広い責務一般の観念として理解されなければならない。

①特定の行為類型を規範的に要請するルールが背景に存在する。

 

②ある人が一般的ルールに適用されることに注目し、実際に適用する。

「誰かが責務を負うという言明は、実際、あるルールの存在を含意する。」p.147

 

〇では責務に関するルールは他のルールとどのように区別されるだろうか。

「重要なのは、ルールの背景にある社会的圧力の重要性ないし真剣さ(seriousness)が、そのルールが責務を生み出すか否かを判断するにあたって主要な要素となることである。」p.149

「真剣な圧力に支えられたルールは、社会生活の維持、または社会生活の貴重な側面の維持に必要だと考えられるため、重要だと思われている。」p.149

 

〇また法のみならず、あらゆる社会の在り方を理解する上で次のルールに対する理解は極めて重要である。

「ルールとのかかわりは、それを自身は受容しない単なる観察者の立場からも、またそれを受容し行動の指針として用いる集団のメンバーの立場からも、あり得る」p.152

→前者を外的観点/後者を内的観点と呼ぶ。

※これはおそらく前章の社会的ルール/慣習の差異の議論で出てきた外的側面/内的側面の変奏かと思われる。

〇ルールに即した社会生活には「自身や他社の行動をルールに基づいて理解する人々と、ルールを拒否し、外的観点からのあり得る刑罰の徴候としてのみルールを理解する人々との緊張関係が存在する。事実の複雑さをありのままに受け止めるべき法理論が直面する困難の一つは、これら二つの観点の両方を心得て、一方を除外してしまわないことである。」p.155

 

 

第3節 法の基本要素 p.155-166

〇ここでは立法府も裁判所も存在しない未開社会を考える。こうした社会を「責務の一次ルールからなる社会」と呼び、以下のような条件を満たされる必要がある。

①人が共に暮らす以上、暴力や窃盗、詐欺を制約するルールの存在。

②多くの内定観点を持つ人と、犯罪者など一部の外的観点を持つ人の存在

 

〇未開社会は現代社会と比較した際、以下のような欠点がある。

[a]不確定性(uncertainly)……メンバーが従うルールが慣習以外に求められない。「何がルールであるか、またあるルールの厳密な射程について疑いが生じたとき、権威ある法文や雄健的に争点を解決する公務員に頼ることで、疑問に決着をつける手続は存在しない。」p.157

 

[b]静態的(static)……法が新たな法として制定されたり、あるいは廃止されたりする可能性がない。「その可能性はやはり、このルールにある唯一の類型である責務に関する一次ルールとは異なる類型のルールの存在を前提とする」p.157

 

[c]非効率性(inefficiency)……受容されたルールの違背に関する紛争が常に発生してしまう。「「制裁」が公的に独占されていないことから、違反者を捕捉し刑罰を科す集団の行動の日組織性や時給校による屈折した復讐がもたらす時間の無駄は深刻だろう。」p.159

 

〇これら3つに対する一次的ルールによる対処がそろえば、一次的ルールの体制を異論の余地なく法秩序へと転換することが可能となるだろう。

「一次ルールは個々人のなすべき、またはなさざるべき行動を定めているが、これらの二次ルールはみな、一次ルールについてのルールである。これらは一次ルールが最終的に認定され、導入され、廃止され、変更される仕方および一次ルールの違背を最終的に確定する仕方を定める。」p.160

[A]認定のルール(rule of recognition)……不確実性への対処。最初の段階としては、不文律だった法の明文化に留まるかもしれない。より高度な法秩序ではさらに複雑化し、「一次ルールを同定する代わりに、一次ルールが保有すべき一般的特質を指摘することになる。それは、当該ルールが特別の機関に制定されたという事実だったり、慣習として長く実践されたこと、さらには司法的決定との関係かも知れない。」p.161

 

[B]変更のルール(rule of modification)……静態性への対処。一次ルールの導入を認めたり、古いルールを廃止する権限を持つ主権者を定めたりする。また「立法者を指定するだけでなく、立法の従うべき手続を厳格に、あるいは緩やかに定める。」p.162したがって、認定のルールによる言及がされる必要もある。

 

[C]裁判のルール……個別の事件において、一次的ルールとの違背があったか否かの判断をする権限を有権者に与えるルール。当然、明文法がなければならないため認定のルールとは密接な関係にある。

 

 

第Ⅳ章 法秩序の基礎 p.167-201

第1節 認定のルールと法的妥当性 p.167-182

〇本章で検討するのは、認定に関する二次的ルールが受容され、責務に関する一時的ルールが識別できる「法秩序の基礎」が整った状況である。

〇認定のルールが受容されていれば、私人も公務員も責務に関するルールを、条文や制定行為、一般的宣言などから知ることができる。

→しかし認定のルールそれ自体は条文などの中に明確に定式化されていることは少ない。

 「その存在は、裁判官などの公務員、私人またはその助言者により、個々のルールが識別される仕方において示される(shown)。」p.169

〇そして認定のルールは裁判所などでの「〇×は法である」といった言明によって示される。

「内的観点の特徴が典型的に示される。こうした形で認定のルールを使用する者は、そのことを通じて、指針たるルールとして自らそれを受容することを表明しており、こうした態度には、外的視点に自然に伴う表現とは異なる特徴ある用語が伴う。」p.170

→ちなみに外的視点の場合では「イングランドでは国会が制定したことは何であれ、法として認められる」といった言明の形態をとる。

〇このようにそれが受容している事実に言明することなく、当該秩序の妥当なルールとして受容されていることを認める言明を「内的言明(internal statement)」/他者がそれを受容している事実を外的観察によって述べる言明を「外的言明(external statement)」と呼ぶ。

 

〇内的言明が行われる際、受容されている認定のルールが理解され、かつ「認定のルールが受容されている」といった外的言明と区別されるのであれば、「妥当するvalid」という表現は明瞭化される。

 「こうした妥当性に関する言明は、通常、発話者そのほかの者が受容する認定のルールを個別の事例に適用するもので、認定のルールの定める条件が満足されることを明示的には述べてはいないからである。」p.172

→妥当性の議論は法の「実効性efficacy」の議論に関わるとされる。しかし実効性を「一定の行動を要求する法的ルールがたいていは従われている事実」と想定するのであれば、ルールの妥当性との関係性がないのは明らかだろう。

「当該秩序が全体として実効的であり、今後もそうであろうという事実――観察者が記録しえる事実――の外的言明の真実性が、通常は、当該秩序のルールを受容し、責務や妥当性に関する内的言明を行うものにより前提されている」p.174

※ここ少しわかりにくいけど、単に事実関係を述べた「外的言明の議論(実効性の議論)」は、「内的言明の議論(妥当性の議論)」と混同されがちという話。妥当性は内的言明の中にしか表出しないというのは、ハートが法実証主義者である証左。

 

 「当該法秩序内において、それ自身以外のルールの妥当性を判定する標識を与える認定のルールは、これから解明する重要な意味において、究極(ultimate)ルールである。その秩序内部には、通常、相互の優劣関係が――そのうち一つが最高(supreme)とされる形で――整序される複数の標識が存在する。」p.175

〇最高の標識ということは、あるルールの妥当性の標識と衝突した際も、必ず上位に来るということを含意している。ただし法的に「最高」であることは「無制限」であることを含意しない。

〇また究極のルールとは「それ自身の法的妥当性を判定する単の標識は他のいかなるルールによっても与えられないルール」p.178のことであり、認定のルールが用いられている理由について述べるとき、「当該法秩序の認定のルールの妥当性を主張する内的言明から、そのルールを受容していないかもしれない当該秩序の観察者が行う、事実についての外的言明に移行している。」p.178

※ここも少しややこしいが、認定のルールの究極性は、他内部に妥当性を与えてくれる(上位の)標識がないことに由来しており、仮にその妥当性を示そうとするならば、内的言明と外的言明両方から示すことができる。。

 

 

第2節 新たな問題 p.182-193

「法秩序の基礎が法的に制限されない主権者への服従の習慣にあるという見解を否定し、代わりに、ルールの秩序に妥当性の標識を与える究極の認定のルールを置くと、多くの魅惑的で重要な問題に直面することになる。」p.182

①認定のルールは、法秩序の範疇に含まれるか否か。

→確かに「事実」として外的言明によって記述することもできるが、前節で見た通り内的言明によって「法」としても記述することは可能である。すなわち認定のルールは標識を提供してくれる特徴的要素である。

 

②「法秩序が存在する」と言う際、多くの雑多な社会的事実が言及される。

→法は決して所与ではなく、創設、同定、使用、適用という過程を通して生み出される。こうしたプロセスを圧縮して「服従」という図式から言及することはもはやできない。

 

③法に関する公的活動(主に裁判官の法に対する関係や態度)のみを採り上げて、法秩序のある社会集団に存在すべき事柄の説明としてしまう。

→しかし裁判官(公務員)は二次的ルールを把握している必要があるが、私人は一次ルールまでで十分である。「法的妥当性の標識を定める認定のルール、変更のルール、裁判のルールは、公務員の公務員としての行動の、共通で公の規準として実効的に受容されていなければならない。私人が満たす必要のあるのは、第一の条件のみである。」p.191

 

 

第3節 法秩序の病理学 p.193-201

〇先述の通り「公的な次元で標識に照らされて、妥当と見なされた一次的ルールに私人が従っている」状況こそ法的秩序が安定している。

→しかし認定された一次的ルールに私人が従っていないなどといった乖離が観察されることもある。こうした場合、法秩序の病理学に属する問題として取り扱われる。

 「それらは、法秩序が存在するという外的言明がなされる際に言及される複雑で調和のとれた慣行の崩壊を示すからである。そこでは、法秩序の内部で法に関する内的言明がなされるとき、必ず前提とされる諸条件が部分的に満たされていない。」p.193

→革命やクーデター、無政府状態、略奪行為などがこれに該当する。

 

 

第Ⅶ章 形式主義とルール懐疑主義 p.202-246

第1節 法の綻び p.202-219

 法は原則的には「人々の集合(class)に、そして行為、事物、状況の集合(classes)に言及する。法が社会生活の公判領域でうまく作用するのも、個別の行為、事物、状況を法の利用する一般的分類の具体的事例として認識する能力が社会に広く行き渡っているからである。」p.202

→この伝達は以下の2つの経路があり得る。

①立法……一般的な分類用語を最大限に用いる。「〇×をするとき△〇をする必要がある」といった具合に、明確な指針を提示する。不確実性が低い。

 

②判例……一般的な分類用語を最小限に用いる。「〇×をしなさい」といった具合に、多様な側面の一部を例示する。不確実性が高い。

→しかし例えば「この公園内では乗り物の持ち込みを禁じる」といったように(ここでは乗り物の)選択肢が多く示される場合、立法においても不確実であるといえる。

「行為規準伝達のために、判例・立法のいずれの手段が用いられるときも、通常の事例場面は必ず発生する。綻び(open texture)と言われるものである。」p.207

※法の綻びとはいわば自然言語上の宿命のようなもの。これがあることで裁判官に自由裁量が発生する。法が閉じてはおらず、裁量の余地が入ることから”open”と呼ばれる。

 

〇綻びに対する方策としては以下のようなものがあり得る。

①規制制定的権限……立法府が適正料金や、安全な労働環境など、茫漠とした基準を制定し、違背の判定の代わりに何が「適正」で「安全」なのか事後的に科す。

 

②合理的判断……規制されるべき領域の作為・不作為を事前に同定せず、穏当に共有された合理的判断を利用する。

 

 

第2節 多様なルール懐疑主義 p.210-247

〇ルール懐疑主義とは「ルールについての議論は、法が裁判所の裁判及びその予測に過ぎないという真実を覆い隠す神話」p.220だとする立場。

 

〇しかし「裁判及び裁判の予測という観念を理解するものの、ルールという観念を理解しない人々は、権限に基づく(authoritative)裁判という観念が欠けており、したがって裁判所という観念もない。」p.220

→前述のとおり公務員が単に「事実」を描くだけではなく、特定のルールを受容していなければ、二次的ルールも不可能となり、したがって裁判のルールも存在しないことになる。

 

第3節 裁判の最終性と不可謬性 p.227-236

〇裁判所が出した決定は最終的であり、不可謬であるため、それが「正しい」/「正しくない」といった議論は不毛なのではないだろうか。 

「最上級裁判所は、最終的に何が法かを語り、語られた以上は、最上級裁判所が「誤っている」という言明は、当該法秩序内部では何の効果も持たない。」p.227

→しかしこうした主張は一次的ルールにおける最終性と二次的ルールにおける最終性(公式ルール=裁定ルールの導入)を混同している。

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