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Sandel,Michael.J 1998 『リベラリズムと正義の限界』

M.J.サンデル 1998 『リベラリズムと正義の限界』

 

◇序章 自由主義と正義の優位 p.41~64

・本書で批判されるのはロールズによるリベラリズム―多元的な善よりも正義を優位に置く「義務論的リベラリズム」である。

→古典では義務論的リベラリズムはカントとミルで異なる

 

1,自由主義の基盤―カントとミル

・厳格な義務論的リベラリズムの立場に立てば、他の命令(「善」)とは異なり、倫理的命令(正義)はそれ自身によって自身が記述される(独立している)。

→定言命法/仮言命法の区別(カント)

→義務論的リベラリズムには、

①一次的命令(定言命法)-経験的目的を区別しそれのみ達成する立場

②二次的命令-絶対的目的と一体と考え両方達成する立場

 

①ミルは前者の立場

→「効用最大化」による正の実現(功利主義)

→目指される効用が快楽なのか、個人の恣意的選好なのか、情報に基づいた選好なのか基盤が不安定である(功利主義の限界)

②カントは後者の立場

→個別具体的な二次的命令-経験的目的を正当化する、一次的命令-絶対的目的の基盤が(ミル-功利主義の限界)ないため、一次的命令をそれ自体独立した正義であると捉える

→さらにカントはこうした正義を「物自体」としての主体に宿っていると想定する。

 

 

2,超越論的主体

・「物自体」としての主体は自分の従う正の命令-絶対的目的の背後に意味論的に遡行することはできない/アプリオリな認識である

→経験の対象としての自己は認識できる/経験の主体としての自己は認識できない(超越論的主体)

・整理すれば、カントにとって「正義」とは、「物自体」としての主体に帰属される、アプリオリな命令(定言命法)である。

→よってカント的な本質主義の上に立脚する義務論的リベラリズムは、各人を自分自身の目的を理解し(経験の対象として)、かつ自由に行為できる(経験の主体として)存在として描き出す。

→本書はリベラリズムによる自己像の不可能性を訴える。

 

 

3,社会学的反論

・社会学は諸個人が社会的に構成されていると考える。リベラリズムが想定する自由な主体(義務論的主体)など存在しない。よって義務論的主体によるリベラリズムの「中立性」を批判する。

しかし、

①リベラリズムは正義に対してのみ「中立的」ではない。正義は他の自由を保障する(中立性の)ための基盤であり、正義は「中立性」に先行しているためこの批判は不当である。

②批判における問題の所在が不明瞭である。

→心理学的反論でないならば、アイデンティティは自己目的-価値にのみ求められないと考えるため、認識論的要求に対する義務論的見解を反証できない/心理学的反論ならば、社会学理論の立場から批判が出せない

 

 

4,ヒュームの顔をした義務論

・ヒュームはカント的義務論を支持しつつも、純粋に認識不可能な主体を超越論的主体に限定すべきであると考えた点で異なっている。

→アプリオリな超越論的主体という概念は、恣意的、形而上学的であるため、より合理的な正の規定条件が求められる。

・ロールズは各人が正義を選択する論拠として、超越論的主体という形而上学的論拠ではなく、原初状態という概念装置を提示する(合理的な正の規定)。

・ここでカント的義務論はヒューム-ロールズによって定式化され合理的な正議論となった。

→しかしそれでも本書では不当であると考える。

 

 

 

【批判とメモ】

・特になし。カントもミルも古典として読まねばならんな。基礎教養レベルなんだろう。

 

 

◇第一章 正義と道徳主体 p.65~147

・正義を善に対して優位におくということは、「正義を限界として、善を意味として」(Rawls 2002)捉えることに他ならない。

→正義をこのようにアプリオリに規定するためには、以下の二点のどちらかによってアルキメデスの点(議論の基盤)が見出される必要がある。

①他の諸価値よりも比較的に正義が優位であること示す

→恣意的-偶発的であるため不当

②正義が優位である外的基準を示す

→恣意的であるため不当

 

・ロールズの義務論的リベラリズムは、功利主義などの目的論リベラリズムを「目的が自我に先行している」として否定した。

→成立する自我が目的(あるいは欲求、欲望)の連鎖に過ぎないとするならば、「根本的に状況付けられた主体」としての自我しか残らないことになる。

・ロールズは「自我が目的に先行する」と想定する(「自由で平等な自我」のうち二番目の道徳的能力―自己目的修正能力)

→となると、ロールズはアルキメデスの点としてカントのようにアプリオリな正義規定をしなければならないように思われる。しかし、ロールズはカントのように形而上学的規定には依拠せず、ヒュームのように経験的な正義規定をした(原初状態の議論)。

 

 

2,形而上学なきリベラリズム―原初状態

・原初状態における各人は「無知のヴェール」によって、それぞれの選好、心理的特性、社会的立場、包括的教説などなどを知らないと想定される他方で、「基本善(primary goods)の希求によって動機付けられている。

①各人の「善の稀薄理論」によって誰/何の役にでも立つ基本善がまず選択される。

②善の定義がなされ包括的教説が規定される。

③「善の十全理論」によって特定の善構想のための基本善が選択される。

(【メモ】この話はたぶん『再説』ではなかった。「基本善による動機付け」ですべて説明されていたはず。)

→ロールズは確かに原初状態という概念装置を用いることで、カントのように形而上学的な正義原理の規定を回避したかのように見える。次節では「正義原理の経験的規定」が本当に達成されるのか、確認される。

 

 

 

3,正義の環境―経験論者の反論

・「正義の環境」とは正義の条項を達成するために必要な背景的正義を意味し、

①客観的環境―財の希少性

②主観的環境―社会的協働を指向する正義感覚(一つ目の道徳的能力)

からなる。

・しかし、このように正義の条項の達成を「正義の環境」―経験的条件によるものと想定することはできない。

→「正義の環境」は絶対的なものではなく(家族、結社、人種、地域、などによって異なる)、正義の条項が優勢か否かについてもそれぞれ状況依存的であるから、正義の優位性は「戦場における肉体的勇気」のように限定的なものとなる。

 

・経験論者「正義が状況依存的であったとしても(「正義の環境」が相対的であったとしても)、正義の救済的側面は失われることにはならない」

→「戦場における肉体的勇気」がどんなに救済的であっても日常には不要であるばかりか日常生活の支障になりかねない。それと同様に正義がどんなに救済的であっても、正義の増加が不正義につながる場面も想定可能である。よってこれは不当である。

Ex)「家族」という共同体では愛が指向される。

→家族を「正義の環境」としたとき、そこでは愛の代わりに正義が指向されることになる。財の希少性/正義感覚に基づく養育や夫婦関係は、果たして自発的な感情である愛よりも円滑なものになるだろうか。

(【メモ】『再説』では政治的リベラリズムの説明にて、「正義の環境」は政治的領域に限定的なものであり、非政治的領域である家族や結社と両立可能であると弁解されている)

 

・このようにロールズは、

①正義をアプリオリなものとして規定する(カント的)

②正義の規定を形而上学的な論拠ではなく、経験論的論拠(原初状態-正義の環境)に求める(ヒューム的)

という①-②間の「ねじれ」において「アルキメデスの点」の確立に失敗した(しかし、①の立場から義務論的リベラリズムを展開すると②の立場から批判されることになる)。

 

 

4,正義の環境―義務論からの答弁

・ロールズ本人が言うとおり、原初状態-「正義の環境」は現実に存在しない概念装置であり、よって現実には正義原理の妥当性は「反省的均衡(reflective equilibrium)」によって確認される(【メモ】後者の部分はロールズ言ってないし、原初状態における動機は共通善ではなかったか?)。

→しかし、経験的に原初状態における動機についての記述の妥当性が確かめられないのならば、いったいどこに検証を求めればよいのか。

・またロールズは原初状態における動機としての正義感覚を、消極的理由から友愛より妥当であるとしている。

→正義原理の選択に友愛ほど「強い動機」は必要ない

→原初状態が経験的事実に依拠しないのならば、正義/友愛が概念的に強/弱であるということも示せない

 

・結局のところ問題は「原初状態の記述はどのようなものか」(カント的の形而上学的立場を放棄し、その後経験的立場も放棄するのかしないのか)

 

 

5,道徳主体の研究

・ロールズ本人は明示していないが、この「原初状態が経験的論拠か否か」という問題はロールズのテキストから答えを導き出せる。

→原初状態の議論は以下の二つの側面を含意している

①各人の「道理に適った」選択――道徳理論としての正義原理について

②反省的均衡――道徳的主体としての人格ついて

→ロールズは『正義論』で前者にのみ焦点を当て、後者の議論を留保している

(【メモ】『再説』では、正義原理は道徳理論ではなく「政治的」道徳理論(包括的教説との区別)であると主張されている。あと『正義論』の中でも「平等で自由な人格」概念はすで出ていたはず)。

→ロールズが原初状態を通して正義原理に焦点を当てたのに対し、本書は正義原理をいったん所与のものとして、道徳的人格に焦点を当てる(原初状態の記述はロールズの逆順で明らかにされる)。

 

 

6,自我と他者―多元性の優先

・ロールズは各人に道徳的人格が備わっていることを認め、それが多元的な社会を構成していると主張している(穏当な多元性の事実)

→『正義論』では功利主義の画一的な選好像を批判する文脈で登場している。

・他方でロールズは「穏当な多元性の事実」を認めつつも、人格は社会的協働を志向し(第一の道徳的能力の正義感覚)統一をもたらすとも主張する。

(【メモ】この主張は『再説』では否定されている。政治的リベラリズムの立場では、「穏当な多元性の事実」と社会的協働のための統一原理つまり正義原理はレイヤーが区別されている。)

・しかし統一性と多元性は原理的に両立しない。そして各人がそれぞれ異なった環境で社会的に構成されている現実を考慮するに、多元性は統一性に先立つ。もし多元性が統一されることがあればそれは単に偶発的事態である。

・ロールズは人格概念を①正義感覚(社会的協働の志向)/②自己目的修正能力(自分の人生の目的を自由に修正できる)に区別した。本節で問題になっているのは①だが、次節ではまず②を検討する。

 

 

7,自我とその目的―所有の主体

・ロールズは諸個人の人格に自己目的修正能力が備わっていると想定する。

→しかし自己の目的が自己によって修正されるとはいかなることか。

・自己目的が修正されるためには、自己/目的が自己の認識において区別されていないと不可能である(同一視されるのであれば修正の対象は自己にも及ぶため)

→所有剥奪(dispossession)は、

①自我と目的の間に距離が生じ、目的が離れていく場合

②何らかの圧力などによって、アイデンティティが攻撃され、目的との境界線を失ってしまう場合―機能剥奪(disempowering)

→前者の場合、意志-自発性によって対応可能である/後者の場合、(自己/目的の境界線が喪失するため)認識することも不可能である

・よってロールズの自己目的修正能力ひいては義務論的主体が依拠しているのは、前者の自発論的観念であるということになる。

 

 

8,個人主義と共同体の要求

・こうした自発論的観念-義務論的主体によって原初状態における「無知のヴェール」下の行為決定の記述(4節)が可能になることがわかった。

→しかし、動機が自発的であるとしても正義感覚/共同体による善(友愛等)の間に優劣はつけることができない(さらにいえば友愛の方が自発的動機である)。つまり、原初状態において正義の善に対する優位は認められない。

・『正義論』におけるロールズの人格理解は、

①間主観的自己理解――自己は共同体、家族、階級などに帰属させられている

②内的主観的自己理解――自己は多元的他者を内面化している

の二つの場合を排除する/こうしたものから自律と独立をした義務論的主体を想定する

→よって本章で行われたように自己(人格)像を再構成しないと原初状態の議論は妥当ではない。

 

 

 

 

【批判とメモ】

・こうして見るとロールズが『再説』でけっこう批判に応えているのがわかる。

→ロールズは政治的リベラリズムの議論で、人格を政治的アイデンティティ/非政治的アイデンティティに区別しすることで、政治的道徳としての正義原理/包括的教説(正/善)を峻別している。

・でもキムリッカも言っていたけど、政治的アイデンティティ/非政治的アイデンティティが諸個人の中で断続的であるはずないからロールズの応答は有益じゃないし、包括的教説も「重なりあうコンセンサス(overlapping consensus)」には至らない。

 

 

 

 

 

 

◇第二章 所有、真価、分配の正義 p.147~208

・ロールズは人格を自己目的修正能力―自発的動機決定から理解しているということが前章で明らかにされた。次にロールズの人格理解と正義原理のうち格差原理の対応関係を考察する(もちろんロールズの主張は否定される)。

→まずロールズの格差原理とそれを批判したリバタリアニストのノージックの主張をまず比較検討する。

 

1,平等主義とリバタリアニズム

・ロールズとノージックは同様にカント的義務論に依拠しつつ、前者は「各人の平等な顧慮を実現するために再分配を訴える」のに対し/後者は「自己所有権の観点から一切の再分配を拒否する」という対立する結論に帰着する。

・ロールズは経済的-社会的分配の形態として以下の三つの類型を提示する

①自然的自由(≒ノージック「権原原理」)――適切な才能を有するものにはそれに基づいた機会と財の所有が認められるべきである。

→自然的-社会的不平等(才能-機会)が解決されていない

②リベラリズム的平等(≒ノージック「標準的な実力主義」)――機会均等を整えることで社会的平等を実現する

→自然的不平等(才能)が解決されていない/社会的不平等(機会)は解決された

③民主主義的平等――所得の再分配によって先天的才能による不平等を解決する(ロールズの格差原理が目指す状態)/ただし結果の平等とは異なる(格差原理は個人の資質を反映させないだけで、選択は反映させるため)

・格差原理は自己所有権を否定しない。ただ、「先天的才能は偶発的なものであるため、社会全体で共有されているべき」―共通資産であるべきと考えるだけである(自己所有権/共通資産は両立する)。

 

 

2,実力主義と格差原理

・「公正としての正義」は通常、不平等が社会的/自然的であるということに関心を払わない(いずれにせよ平等に顧慮されるべきである)

・他方でリベラリズム的平等―「標準の実力主義」においては不平等が社会的/自然的であるかは、前者の場合は解消されなければならないと考えるため重要になってくる。事実、前者は特定が容易であるのに対し、後者は困難であると擁護することもできる。

→ロールズの主張は偶発性から共通資産に論点をすり替えることによって、「自然的不平等も解決されるべきとする論拠」を示さない/正義原理によっては解消されるべき資質を特定できない

 

3,共通資産

・ロールズは(自然的不平等解消の論拠を示せていないのにもかかわらず)各人の才能は互恵性原理に基づいた共通資産であると主張する。

→ノージックは自己所有権(各人の才能は各人によって所有されるべき)からこれを批判する。事実、ロールズの人格理解(自発的観念)と互恵性原理-共通資産は矛盾している(目的は自己によって自由に決定される/互恵が各人の目的である)。よってロールズは格差原理を正当化できない。

・ここでロールズの人格理解(自発的観念)が「他者」指向を含意しているということ―間主観的自己理解であるということに注目する(共通資産は「他者」の所有物である)。

→格差原理-共通資産の議論において互恵性のベクトルは「他者」ないしは共同体に向いており、「自己目的が自発的動機によるものであるということ」「自己目的が間主観的であるということ」は矛盾しないため、格差原理はこの理解によって唯一正当化されうる。

(【メモ】いやいやいや目的が「自発的∧自己指向」の場合もあるだろ。馬鹿なの。このへんは第三章の1節で触れられてた)

 

 

4,真価の基礎

・ノージックの批判は自己所有権の上に立脚している。

→ある人の先天的能力はその属性に帰属される(価する)ため、自然的自由が認められるべきである(権原理論)/機会の均等化と所得の再分配つまり格差原理は不当である

・ロールズの自己像は「目的は自己によって所有される」=「自我は属性から独立している」という想定であったため、ノージックの批判とは相容れない。

→しかし、2節で見たようにロールズは「先天的不平等解決の論拠」を恣意性以外の理由に求めていなかった(先天的不平等は恣意的だから個人の所有に「価しない」/社会の所有に「価する」)

・しかし、先天的資質が恣意性によって不当とされるとき、個人の性格も恣意性によって考慮されなければならないのではないか。

Ex)「計算能力の高さ」と「逸脱的性格」がともに先天的資質であるとする。

・このとき、前者は格差原理の対象になる可能性を孕んでいるが、後者は(仮に「逸脱的性格」によって社会的-経済的不平等が生じようとも)単に矯正されるべき事柄としてしか認識されない。

→両者とも先天的資質-恣意性によるものであるため平等に顧慮されなければならないはずである(格差原理では不十分である)。

→ノージックのいうように先天的能力は属性に「真価」を求めないと、ロールズのような矛盾が生じる(無論、ノージックの主張に従えば前章で確認したカントのような形而上学的本質主義に逆行する)。

 

 

5,個人の要求と社会の要求―誰が何を占有するか

・しかし、ノージックの批判はロールズの「負荷なき自我」に向かうのではなく、あくまで格差原理を対象とする。

→仮に自己所有権が否定されても選択される正義が格差原理である必然性がない

・ここでは議論の整理のために資質の帰属先としての自己を三つに類型化する

①占有者――自己所有権に立脚する、最も強調的立場。ノージックが積極的に提示。

②保管者――自己所有権は否定されるも、個々人はある者に所有され、その資質を代理で所有する(キリスト教世界における神に対する人)。ノージックが消極的に提示(上の批判)。

③容器――自己とは資質やそれによる財の所有者でも所有の代理者でもなく、すべての所有と代理は偶発的なものである。ロールズの立場。

→格差原理が対象と出来るのは③の想定だけである/他方でロールズによる偶発性-恣意性論拠からは②の場合も導き出せる(よってノージックのいうように格差原理である必然性はなくなる)

 

・自然ある資産が「天からの贈り物」だったと仮定したとき、ノージックは「真価」がないとしつつも、「権原は」特定の誰かに帰属されると想定する/ロールズは「真価」がないため、社会的に共有するべきだと主張する(共通資産の議論)。

→ノージックはこの論拠を提示しておらず(【メモ】これは明らかにダウト。ノージックは権原帰属の必要性を「ロック的但し書き」という経験的論拠から提示している。)、ロールズの恣意性の論拠は個人に「真価」がないとは言えても、社会に「真価」があるとは言えない(2節)

→「共通資産」の議論を正当化したいのであれば、「共同体」の概念が導入されなければならない

 

 

【批判とメモ】

・この章クソややこしい。

ロールズvsノージック論争の整理

→ロールズ原初状態における自己像(「負荷なき自己」)と格差原理の問題点

→偶発的論拠からは個人の「真価」は否定できても、社会の「真価」は肯定できない問題(むしろノージックのカント的な形而上学的本質主義の方がマシだろ問題)

→そこで「共同体」ですよ!(三章へ)

って流れ。

 

・ちなみにノージックへの批判は間違っている。権原原理そのものに突っ込むよりも、キムリッカみたく「土地の所有権」の話を取り上げた方がよかったと思う。

①権限原理は「不当な」権原を認めない

②土地は歴史的事実を顧みるに暴力等の「不当な」手段で移転された

③よって現在の土地の権原は不当であるため認められない

 

 

 

◇第三章 契約論と正当化 p.209~253

・本章では原初状態-契約論によって正義原理は本当に正当化されうるか、ということが考えられる。

→そして、ロールズのように自我を自律的で自発的なものとして捉えている以上、成功しないということが明らかにされる。

 

1,契約の道徳性

・ロールズによれば「自由で平等な個人」は

①正義感覚――互恵性の志向

②自己目的修正能力――自発的な目的決定、自律性

の二つの道徳的能力を有している。

→自発的で、互恵性に則った契約は「公正」であるかどうかは判断できないため、契約論によって正義原理は正当化できないのではないか/正義原理によって契約論を正当化しているのではないか

 

 

2,実際の契約と契約論

・原初状態における各人の選択は以下の二つの側面を生み出す

①「制度のための原理」――秩序だった社会-基本構造を維持するための原理

②「個人のための原理」――自然の義務(誰もが従わなければならない義務)/道徳的責務(人々の「自発的な」道徳的連帯によって結ばれる義務)

→ノージックは道徳的責務にて契約を拘束するものとして「自発性」を想定しているが、その論拠はなにに求められるか批判。

→しかしこれは契約/契約論を混同している。前者なら契約動機として「自発性」が選ばれる論拠が必要/後者はそもそも概念装置-想定であるためそれ以上、動機を遡行することは不要である。

 

 

3,リベラリズムと手続きの優先

・契約論の正当化には、主体の自発的性格を提示するだけでは不十分である。

→ロールズの主張には以下の二点の批判が向けられる

①偶発性からの議論―道徳的観点からの批判

・ある行為が自発的であったとしても、それらが道徳的逸脱(脅しや強盗)などである偶発性を排除できない(2章4節)

②慣例主義―認識論的観点からの批判

・契約の正当化の根拠がある原理に求められるとしたら、その原理はいかにして規定されるべきだろうか(1章3節)

・②に関して、ロックは「神と自然の法」が、カントは「定言命法」が、それぞれ原理であると主張した(神学的、形而上学的想定―アプリオリな規定として特権化)。

→しかし、ロールズは神学的、形而上学的アプローチを避けて(【メモ】事実ロールズは神学的、形而上学的原理を包括的教説と見なしている)、ヒュームのように経験的事実(契約論的論拠)から原理を導き出そうと試みる。

→契約を正当化する原理(正義原理)/原理を正当化する契約(契約論的論拠)がトートロジーに陥っている。

・原初状態における諸個人の道徳的能力として ①正義感覚-互恵性 ②自己目的修正能力-自発性 を並列して想定するのならば、契約を正当化するためには①を正当化しなければならない。つまり契約は各人による同意の所産であるとしなければならない(①>②)。

 

 

4,無知のヴェールに隠れて本当は何に向かっているのか

・ロールズの契約論的論拠を再構築したところで、最後に原初状態における仮説的契約が何を正当化しようとしているのか確認し本章は終わる。

 

・前節で示されたように、契約が各人の同意の所産であると考える。しかし、ロールズによれば、(②自己目的修正能力から)その互恵性への同意は各人の自発的意志に基づいていることになる。

→原初状態において各人は「無知のヴェール」で覆われているはずなのに、なぜ自発的に互恵性へ同意をすることができるだろうか?

・同意は以下の二つの場合に区分される

①自発的同意――意志に基づく同意。昼食を食べた際、「おいしかった」という他者の意見を肯定する。

②認識的同意――認識に基づく同意。「1+1=2である」「空は青い」といった事実を肯定する。

→②の同意は「無知のヴェール」下でも可能であるため、原初状態における同意とは①ではなく②の同意である。

(【メモ】ロールズは「無知のヴェール」下でもなお自発的な同意が可能であると主張していたはず。「知らなくても」、基本善が必要であるということは認識しているから。あと認識的同意って他者が介在しない点でそれもう「同意」じゃなくね?ただの「肯定」じゃないか?)

 

【メモと批判】

・この章は比較的わかりやすかった(3-4節が肝)。

・サンデルが言っていることはおかしいよ~。

(a)ロールズの主張は「原理」と「契約」の間にトートロジーな関係を形成しているのはわかる。

(b)サンデルのいうように「契約論を正当化する」のであれば、原初状態において道徳的能力のうち正義感覚-互恵性が優先されなければならない。つまり「同意」が必要であるという主張に帰結する。

(c)しかし、サンデルはそもそも「契約論が正当化される」論拠が示せていない。契約と原理の間にパラドックスがあることを認めるならば、同様に「原理が契約に先行する」と考えることもできる。

・私見としては、ルーマンの「観察」―パラドックス/脱パラドックスの議論で「社会システム理論的には」解決できることになる。

→ロールズ抱えるトートロジーはトートロジーであるが故に新たな観察に接続されていくため、トートロジカルであることが正当化される。

 

 

◇第四章 正義と善 p.255~322

・本章ではロールズによる正義概念ではなく、善の概念(包括的教説)に焦点を当てて考察し、それが正義原理の構想に至らないことが示される。

 

1,自我の統一

・ロールズの想定では、正義は自我の多元性に対応し諸個人を識別する/善は人格の統一性に対応し諸個人を統一する

・まず共同体理論なしで正義を考えると生じる矛盾点を確認するために、アフォーマティブ-アクション(a formative action)の事例を次節では見ていく。

 

 

2,アフォーマティブ-アクション

・ドウォーキンはアフォーマティブ-アクションの導入の論拠として、「アメリカ社会では全体で人種意識が強いことを減少させる」―人種差別撤廃が社会により善い社会的効用をもたらすからであるとしている(社会的な功利主義である)。

・さらに、フォーマティブ-アクションが導入されて、白人よりも黒人に低い合格点が設定され大学入学できるように機会が是正されたとき、もはや誰も大学入学の「真価」を持ち得ない。

→偶発的-恣意的な先天的資質は自己所有権の外にあると考えるため。

 

・ここにおける問題は先天的資質である人種によって、黒人の不平等は解決されているのに対し、新たに白人に対する非公正な不平等が生まれているということである

→この問題を解決するには

①ノージックのように権原理論から先天的資質への自己所有権を主張する

→2章で権原理論は否定されていた

②ドウォーキンのように社会的功利主義の立場をとる

→ドウォーキンは個人に対する社会的功利主義の優勢を示せてない。なぜ「私」の財産が「社会全体」の共通資産にならなければいけないのか。

→個人の優位性を示すとき、カントのように「根本的に状況付けられた主体」を想定しなければならなくなる(形而上学的本質主義に陥る)

③共同体理論を導入する立場をとる

→社会的功利主義において個人に優先される「社会なるもの」を正確に捉えることによって、その優先性を示す。この際、リベラリズムにおける国家もまた共同体の一形態であると考えることができる。

(【メモ】ロールズは国家と共同体を区別している。前者に適用されるのが「正義原理」であり、後者に適用されるのが「包括的教説」である。ちなみに国家よりさらに大きい集合としてコスモポリタンを挙げており、そこには「諸国民の法」が適用されるという)

 

 

3,三つの共同体構想

・アフォーマティブ-アクションの事例を検討して共同体理論的アプローチが正義原理に求められているということが明らかになった

→問題はロールズの(中心的課題ではない)共同体理論に依拠して正義原理が正当化できかということになる。

 

・ロールズによれば共同体は二つに区分される

①道具的構想――各人は自身の選好から行為し、共同体はそれを実現する場であると捉えられている(功利主義的)

②情緒的構想――各人は愛や友情といった包括的教説から行為し、協働それ自体を善であると考える/ただし善は正と異なる(リベラリズム的)

→両者とも個人主義的構想であり、よってロールズ-ドウォーキンによる、アフォーマティブ-アクション ―共通資産の観念を正当化できないため、より強調的な共同体構想が望まれる。

③構成的構想――各人は(属性ではなく)ここで自己同一性を獲得する

→ロールズ-ドウォーキンによる個人主義的見解によっては共同体をこのように位置づけることは出来ない。

・自己同一性の獲得とは反省に基づいている。ロールズの人格モデルでいうと、①正義感覚―互恵性の指向 ②自己目的修正能力―自発的行為決定 のうち②が対応していることになる。

→しかし、②自己目的修正能力において自己が問うのは「目的」(外部志向)であって「自己」(内部志向)ではないため、概念的に不備がある。そのことが次節以降では詳しく検討される。

 

 

4,行為と反省の役割

・ロールズにとって行為と目的は善の領分にある。

→すでに見たように、ロールズによれば原初状態によって正当性を示され、国家全体に共

有される正義とは異なり/善は恣意的であり、共有範囲も包括的教説として共同体内部に限定される(「正義が限界を与え、善が意味を与える」(Rawls 2002))。

→このとき自己同一性確立の所産である反省はいかに扱われているだろうか。

・ロールズによる反省の対象は共同体内部において、

①行為者の目的を達成するための計画と可能な帰結

②行為者の欲望や欲求それ自体   によって制約されている。

→このロールズによる反省概念は外的指向(譲歩しても表面的な内的指向)であるため自己同一性の確立とは無関係である

 

 

5,行為と選択の役割

・前節で明らかにされたとおり、反省の対象は①と②によって制約され、よって諸個人の選択もそれに依存的である

→つまりロールズにとって選択とは(自発的ではあるが)外的な環境から与えられた目的に準ずるものであり、内省の結果ではない。

→「ある欲求に対して別の欲求が望ましいか否か(相対評価)」という想定によってロールズの義務論でも反省が可能になるかもしれない

→しかしこの場合でも相対評価の基準が提供されていないためやはり不当である。

・よってロールズの自己目的修正能力に則ると人の行為(選択及び反省)の想定に無理が生じることが判明する。

 

 

6,善の地位

・ロールズ的義務論において、選択と反省が恣意的な外的要因によって達成されるという想定は、善の構想もまた恣意的であるという帰結をもたらす。

→さらにこのことはロールズが批判した功利主義的前提を、リベラリズムが図らずとも共有しているということを意味する(2節でドウォーキンのアフォーマティブ-アクションの話で社会的功利主義が優勢となったのが証拠)

・善の地位を退けているからこうした隘路に陥ってしまう。むしろ、善の地位を下げることで正義の正当性を主張する方が理に適っているのではないか。

 

 

7,正義に関する道徳的認識論

・ロールズはカントのように形而上学的義務論を避け、ヒュームにならい経験的義務論を展開した(2章)。しかし、「無知のヴェール」という概念を導入したことによって、決定的な差異が生じている。

→仁愛について、ヒュームにおいては「我々がお互いに愛し合わないから正義が必要である」/ロールズにおいては「我々がお互いをよく知りえないから正義が必要である」

・ロールズによれば仁愛は偶発的な選好に過ぎず(つまり善-包括的教説)/正義はそれに先立ち、仁愛を可能にする

 

 

8,正義と共同体

・特定の社会が共同体と見なされるためには、そこが秩序だった社会-基本構造を有しているか否かによって確認される。つまり、共同体とは基本構造を有している。

・ロールズはこうした見解を否定し、共同体を公正としての正義の議論から退けているが、本章で確認されたようにその自由で自律した人格概念(自由で平等な人格)は、原初状態における前提と矛盾していた。

→よって功利主義が平等な顧慮を加味していなかったように、リベラリズムは共同体を軽んじている。

 

 

【メモと批判】

・8節のサンデルの主張は明らかに『再説』段階のロールズのものと相容れない。

→ロールズは基本構造-秩序だった社会の観念が適用されるのは「国家」であり、共同体はその下位概念であるとしている(つまり対立しない)

・規模の序列で言うと、

コスモポリタン―諸国民の法>国家―正義原理>共同体―包括的教説(共通善)

だったはず

 

・ロールズは政治的リベラリズムの議論で、国家/共同体、正義/善、政治的アイデンティティ/非政治的アイデンティティを対立項ではなくて、上位/下位概念とすることでサンデルとは異なり並置可能であると(妥協案的に)想定している。

→互いに対立する包括的教説としての善は「穏当な多元性の事実」として理解され、正義の下に「重なり合うコンセンサス」に到達し、他方で正義と対立する包括的教説としての善は仕方なく排除される

・っていうおさらいコーナー。でもキムリッカによればこの政治的リベラリズムは妥協案になってなかったはず。そのへん確認。

 

 

 

 

 

◇結論 リベラリズムと正義の限界 p.323~337

・正義が第一徳目であるには、包括的教説や個人の選好から正義が独立していなければならない/「負荷なき自己」が想定されなければならない。

 

1,義務論による自由のための企て

・カントの倫理学-義務論は正義の独立性を形而上学的論拠(定言命法)に求めた。他方で、ロールズは形而上学的な倫理を包括的教説として退け、代わりにヒュームのように経験的論拠に求める(契約論)。[第一章]

 

・しかし、ノージックが自己所有権から真価の帰属について主張したのに対し、ロールズの想定する原初状態の議論からは、恣意性の問題によってある財の真価を人格に帰属させることできないという問題が生じていた。よって格差原理は契約論的論拠によって正当化できないということも明らかにされた。[第二章]

 

・また、ロールズの自己像(「自由で平等な人格」)においては二つの道徳的能力―①正義感覚/②自己目的修正能力が備わっていると想定されていた。しかし①が「互恵性を目的とするべき」としているのに対し、②で「目的は各人に自由に変更される」としているのは矛盾しており、これによって「①互恵性と②自発性」ひいては「正義原理と契約」がそれぞれトートロジカルな関係性に陥っていた。[第三章]

 

・さらに、②の自己目的修正能力に関して、ロールズの正義論において目的は ①計画 ②欲求-欲望という外的な動機付けによって与えられると考えられていた。しかし、これでは内省により確立される自己同一性を各人は有しない/「負荷なき自己」であるという帰結をもたらす。よって、個々人の内省―自己同一性の確立を可能にする共同体-善の構想が正義と同等に扱われなければならないだろう。[第四章]

 

 

2,性格、自己知識、友情

・リベラリズムは以上のような反論に対して、最後の譲歩として公的な自己同一性/私的な自己同一性を区別するかもしれない(【メモ】やっとだよ!やっと政治的リベラリズム(Rawls)の話出たよ!)。

→しかし、なぜ「私的な自己同一性」が共同体-善によって社会的に構成されているのに対し、「公的な自己同一性」は正義原理によって本質的に規定されていると想定することができるのだろうか(政治的リベラリズムへの批判)。

→またなぜ「古代人の自由」が「近代人の自由」に特権的であるといえるのだろうか(卓越主義への批判)。

 

 

【メモと批判】

・やっと出してくれた政治的リベラリズム批判

→『正義論』だと政治的/私的の区別がそんなに強調されてなかったのかな。それともサンデルがまとも取り合う価値もないと思ったか(実際しょーもない妥協案ではあるが)。

→でも『再説』は政治的リベラリズムと重なり合うコンセンサスの議論にかなり割かれてた。ロールズはなにを考えていたのだろうかボケてたのか。

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