top of page

 

フレンズ化しても動物化はしないポストモダン

 『動物化するポストモダン』(以下『動ポモ』)が出版されて今年で16年。もう叩かれまくってぼろ雑巾みたくなってる本書に、いまさら批評的な矛先を向けるのはまさしく死体に鞭打つが如しなんですが、それでもまぁあまり指摘されていない論点とかもまだあったりするし、なにより「けものフレンズ」面白かったので書こうと思った次第です。それにジャック・デリダ先生も「偉大な思想家とは、大きい郵便局のフレンズである」みたいなこと言ってた気がするので、テクスト解釈の多元性的な意味であずまんも本望でしょう。

 

 本題に入る前に、本稿で俎上に載せる『動ポモ』の論点について軽くおさらいしておこう。東は本書で大塚英志による「物語消費」の概念(1989)を受けた上で、そうした消費形態がすでに失効し、代わりに「データベース消費」が全面化していると主張する。

 

 「近代からポストモダンの流れのなかで、私たちの世界像は、物語的で映画的な世界観によって支えられるものから、データベース的でインターフェイス的な検索エンジンによって読み込まれるものへと大きく変動している。その変動のなかで日本のオタクたちは、70年代に大きな物語を失い、80年代に失われた大きな物語を捏造する段階(物語消費)を迎え、続く90年代、その捏造の必要性すら放棄し、単純にデータベースを欲望する段階(データベース消費)を迎えた。」(東 2001 p.78)

 

 物語消費っていうのは特定の作品において垣間見える断片的な世界観の情報から、その背景にある「大きな物語」の構造を読み取り、消費する形態のことで、例えば機動戦士ガンダムの宇宙世紀みたいな背景設定とかがわかりやすい例。対するデータベース消費は、物語性ではなく設定の集積から諸要素(柄谷ふうにいえば「確定記述」とか「属性」)を組み合わせて、それらをシミュラークルとして消費する形態のこと。例えば萌え属性としての「ツリ目×ツインテール×ツンデレ」で「柊かがみ(らき☆すた)」ちゃんの出来上がり!みたいな感じ。というか萌え「属性」って言葉がそもそもデータベース化を感じさせるよね。

 本稿的には別に物語消費やデータベース消費の概念それ自体を否定するつもりは毛頭なく、むしろ両者ともにオタクの消費行動を端的に表現している秀逸な概念であると思っている。問題はこの両者が対置されていること。すなわち「物語消費からデータベース消費に移行した」という東の主張に反駁を試みたい。

 

 本書初版は先述の通り16年前の2001年。当時はまだWindows XPもなければ2ちゃんねるもなかったし、秋葉原にはUDXビルの代わりにバスケットコートがあって、ラジ館も古いままで、当然ながらAKB48もでんぱ組.incも誕生していない、いわばオタク文化がまだ市民権を得ていないアングラな時代、それが2001年だ。それから数年後の『電車男』(小説と映画2004年・ドラマ版は2005年)くらいからゆるやかにオタク文化が一般に認知され始め、もはや一般人/オタク境界が喪失したとしても過言ではない現在に至るのだが、その過渡期の中で度々、「社会現象化」とまでいわれるオタク向けアニメが世間を騒がせてきた。

 まずライトノベル発の『涼宮ハルヒの憂鬱(2006,2009)』にはじまり、翌年の日常系アニメの金字塔『らき☆すた(2007)』、軽音楽部の女子高生のゆるい日常を描いた『けいおん(2009.2010)』、蒼樹うめによる柔らかい絵柄とシリアスなストーリー展開(ぶっちゃけ鬱展開)のギャップが話題を呼んだ『魔法少女まどかマギカ(2011)』、小さなお友達から大きなお友達まで楽しめる『けものフレンズ(2017)』などなど枚挙に暇がない。ここで「あの花がねーじゃん」とか「化物語はどうした?」とかって反論があるかもしれんが、「社会現象」という線引き自体が極めて恣意的なので勘弁してください。ただし『THE IDOLM@STER(2011)』と『ラブライブ!(2013,2014)』に関しては、アニメ主体というよりかはゲーム主体のコンテンツなのでここは線引きしてもよいかもしれない。

 

 で問題はこれらが東の予見通りデータベース消費をされているか否かという話なのだが、半分は予想通り、半分は予想が外れているといえるだろう。確かに一方でデータベース化は進み、コミケなどの二次創作(東のいうシミュラークル)などにおいてその消費形態は顕著に窺うことができた。「ツリ目×ツンデレ×異能者」のハルヒとか、「黒髪ロング×寡黙×クール」のほむほむとかね。

 しかしながらこうしたデータベース化によって物語消費が失効したとするのは早計である。というのもいわゆる日常系アニメである、『らき☆すた』と『けいおん』を除けば、ハルヒもまどマギもけもフレも、それこそガンダムやマクロスと同レベルの世界観・背景設定を有しており、オタクたちは表層的なキャラ萌えの後ろにある大きな物語を考察することに楽しみを見出していたからである。毎週アニメの放送が終わると2ちゃんねるにはスレが立ち、最近ではまとめサイトやtwitterにて解釈を巡る議論が起き、自身のブログ等で考察を展開する者も少なくない。こうした事情は少なくともハルヒからけもフレに至るまで変わってはいない。したがって「物語消費からデータベース消費への移行」という主張には説得力に欠けるのである。

 

 これはおそらくだが、東自身も2001年当時の時点でこの主張に無理があることに気づいていたように思える。というのは『動ポモ』において東は、データベース消費の一例として『新世紀エヴァンゲリオン(1997)』を挙げているためである(p.58-59)。エヴァも確かに多様なグッズ展開をされ、また二次創作も数えきれないほどつくられた作品なのは間違いない。しかしながら、下手をしたら先に挙げたアニメが霞むレベルでエヴァは背景設定が練りこまれた作品であり、また20年経った今でもその解釈をめぐって議論が交わされる作品だからだ。『動ポモ』において、エヴァがデータベース消費の例として挙がっている一節は、実際に視聴したことがある者ならばほぼ間違いなく違和感を抱く点であり(実際筆者も本書が課題図書のゼミでエヴァ世代の教授と議論した)、東浩紀本人も書きながら説得性に欠けることには気づいていたはずである。

 まとめると①データベース消費は確かに00年代以降のアニメにおいて観察される、ただし②物語消費は影をひそめるどころか、いまだに健全である、③したがって東の「データベース消費への移行」という主張は誤りである、となるかな。書いといてあれだけど別に大した話ではないね。ただまぁ『動ポモ』ではデータベース消費という概念を軸にして他の議論(オタクのコミュニケーションの変容とか、ポストモダン的な消費形態とか)が展開されているので、その基盤が成立しないとなると、そこに立脚している他の主張もドミノ式に倒れることになるのではないだろうか。

bottom of page